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六代目菊五郎の「鏡獅子」


六代目尾上菊五郎の得意の演目であった「鏡獅子」の写真を見ながら、菊五郎の舞踊を考えてみたいと思います。

まず川崎音頭の最初の「人のこころの花の露、ぬれにぞぬれし鬢水(びんみず)の・・・」の箇所です。写真からでも、菊五郎の踊りの安定感が分ると思います。下半身がしっかりしていて、その上に乗った背骨の軸に揺るぎがありません。

「形を決める」ということは、舞踊では非常に大事なことです。左は写真であるから当然みたいに思うかも知れませんが、踊りの振りの流れのなかで見る者に形の美しさを画像のように印象つけることは容易なことではありません。それはひとつには、スッと伸びきっ て決まった左右の手先から出るものです。振りを印象つけるのは「決め」なのです。このことは日本舞踊でも・西洋舞踊でもまったく同じです。

左の写真で言えば、すっと直立した体の軸にアクセントを付けているのは、左右の手の絶妙なバランスです。それがまるで絵のように決まっています。

 

 

 

次に「散るは散るは、散り来るは散り来るは、ちりちりちり、散りかかるようで面白うて寝られぬ」の箇所。散り掛かる花が自分であるのか・いまや散ろうとしている花を見ている自分がいるのかが判然としないという場面です。その意味については別稿「勘九郎のマイル・ストーン」でも触れましたが、スッと差し出した扇に牡丹の花びらを乗せて 見る・この形の安定感をご覧下さい。 勢いよく扇を差し出せば・花びらは風に煽られて・扇の上にうまく乗らないでありましょう。かと言って、ソロソロと差し出したのでは踊りのテンポが出ない。「スッと」扇を差し出して・振りを決めなければなりません。

しかし、その安定した形も、扇を左右に揺らして花びらをもてあそんで散らしていく激しい動きの直前の一瞬のもので、それはまさに危ういバランスの上に立っているのです。

 

 

 

 

 

「花には憂さをも打ち忘れ」の箇所。散り掛かる花と一体化して踊っていた弥生がふっと我に返って、牡丹の花に思わず見とれる姿です。 踊り手の目線は当然牡丹の花の高さにあります。この部分は「中(ちゅう)だめ」と言って・腰を落として坐るようで坐らない・膝を折った形で動きを止める場面です。静止した美しい姿ですが、この 中腰の形をしばしの間保つのはきついものです。

ここでの菊五郎のポーズも、黄金分割というか・絶妙のバランスで決まっています。こうしたバランスは、舞踊の技術というだけではなくて・踊り手の身長と手足の比率で決まるもの です。だから、体格の良くなった後代の日本人に同じ形をせよと言っても無理なのでして、その形・バランスは必然的に違ったものにならざるを得ません。舞踊における「踊り手の味」ということを考えさせます。

 

 

 

 

 

 

下の写真は、手獅子を持った弥生に獅子の精が乗り移・手獅子が弥生の意志に関係なくひとりでにパクパク動き出すという場面です。二代目翠扇(九代目団十郎の長女)は、「鏡獅子」全編のヤマはここだと言っています。六代目菊五郎の舞台を見たジャン・コクトーは、菊五郎の小姓弥生が獅子の精に引き込まれて本舞台から花道に走り入り七三で倒れた時、思わず席から立ち上がってしまったそうです。

手獅子に引かれる格好になっているので・上半身は反っていますが、ここでも下半身の安定感は歴然としています。菊五郎の「鏡獅子」の折り目正しい・古典的な印象は、 下半身の安定からくる「どっしりとした重み」から生まれるものだろうと思います。

 

 

 

 

 

六代目菊五郎 (1979年) (講談社文庫)

六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸

(付記)

別稿「菊五郎の鏡獅子・その発想のワープ」「勘九郎のマイル・ストーン」もご参考にしてください。



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