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幕末のふたりの名女形

*本稿は別稿「歌舞伎の女形を考える為の三章」の関連記事です。


折口信夫は「近頃は女形が大層美しくなった」と言って、次のようなことを言っています。

「女形に美しい女形と美しくない女形がある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出てきたのは明治以後で、家橘(十五代目羽左衛門)・栄三郎(六代目梅幸)のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。」(折口信夫:「役者の一生」・ 昭和17年)

*折口信夫:「役者の一生」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

「美しい・美しくない」というのは主観の問題・好みの問題なので一概には言えません。また、美の基準も時代によって変化するものです。しかし、大体の流れとしては時代が下がるにつれて女形はだんだん美しくなっているということは言えるようです。

それでは昔の女形はどんなだったのでしょうか。ということで、幕末から明治初期を代表する名女形と言われた二人の写真を見てみたいと思います。

左の写真は、八代目 岩井半四郎(文政12年生まれ)の写真です。(撮影年代・役名不詳)

「十六夜清心」を初演した時、清心役の四代目小団次が半四郎の十六夜の色っぽさに「これなら寺を開いても構わない(破戒しても構わない)」と言ったという話があるほどの名女形です。

明治15年に54歳で没。 亡くなった時には九代目団十郎が「絶間姫がいないから鳴神が出来ない」と言って嘆いたということです。

 

 

 

 

 

 

 

左の写真は、三代目沢村田之助(弘化2年生まれ ・撮影年代・役名不詳)、数奇な運命に操られた悲劇の名女形です。

十六歳で守田座の立女形の座に着くほどの才能と、容貌・美声に恵まれた天才女形でした。しかし、人気絶頂期に脱疽のために手足を失い、明治11年に34歳で亡くなりました。手足を失っても舞台に立った・その執念の物語は、「女形の歯」という芝居にもなっています。

 

 

 

 

 

 

ところで、これらの写真を見てどうお感じでしょうか。 半四郎も田之助も、歌舞伎の歴史の本では「美貌の名女形」として紹介されているのですが、ちょっとビックリしませんでしたか。イメージが壊れるから見たくなかった?・・ 写真は残酷だ?・・当時の写真技術の拙さとか・化粧技術・照明技術の違いとかもありましょう。 しかし、女形の美の感覚もずいぶんと変化しているのだなあ、ということは つくづく感じられるかと思います。(決して半四郎・田之助がウツクシクないということではありませんので、ご注意を。)


 

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