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シェークスピア・喜劇「十二夜」を記号論で読む


1)表象としての少年俳優

シェークスピア時代の演劇は男性俳優だけで演じられていたということはご存知かと思います。しかし、演劇史においては・西欧においても、このことは事実その通りであったということだけで・それ以上に重要な問題としては追求されてこなかったようです。触れられたとしても・せいぜい男性俳優の女装という「変装」の持つ面白さというレベルであって、それは女性俳優の台頭とともに必然的に消え去る運命であったと見なされています。

しかし、歌舞伎もやはり男性俳優のみで演じられる演劇であって、我々は女形が極めて特異な・歪んだ存在であることを知っており・またそれゆえに歌舞伎もまた歪んだ演劇であることを知っています。だとするならばシェークスピア時代の演劇もまたそのような歪んだ一面を本来持っていたかも知れないと想像することは興味あることです。

まずシェークスピア時代の演劇ですが、女役は正確に言えば男優ではなくて・すべて少年俳優によって演じられました。ジュリエットの乳母のような重い女性の役もすべて少年俳優が演じたのです。だからと言ってその演技が拙かったということではありません。当時の記録によれば少年俳優の女役は「イタリアで見られた女優の演技と変わりなく」・「女優の誰よりも素晴らしい」と記されているくらいです。このように歌舞伎で言えば これは若衆の女形であって・野郎(成人男性)ではないわけで、ここはあえて若衆歌舞伎を想像してみる必要があるかも知れません。

ヨーロッパの演劇史のなかでも女優は比較的新しいものですが、シェークスピアの時代には大陸の演劇界では女優はすでに普通の存在であったようです。イタリアやフランスでは異性装の芝居は発達しませんでした。しかし、イギリスにおいては劇場そのものが道徳的に危険なものと考えられていましたし、女性だけでなく・男性にとっても俳優という職業は問題がある仕事だと見なされていたようです。こうしたなかでイギリスでは女優は固く拒否され・少年が女役 を勤めることが長く続いたわけですが、こう した状況はヨーロッパのなかでも特異な現象なのです。

通常の演劇史においては、こうした少年たちは劇団の徒弟で・訓練として女役を演じたもので・声変わりの年齢になると大人の男の役を演じさせてもらうようになったとされています。しかし、これには異論もあるようです。女役を演じることから芸歴をスタートさせた役者の記録が非常に少ないからです。むしろシェークスピア時代の劇団は女役を演じる少年たちと・男役を演じる成人俳優(徒弟)のふたつの階層から成っていたと考えた方がいいという説があります。このことからスティーヴン・オーゲルは次のように言っています。

『問題はなぜ少年が女性を演じたかではなく、なぜ少年だけが女性の役を演じたのかということの方が重要なのである。少年は女らしく見えるからというのがいつも持ち出される理由であるが、それでは理由にならない。同じ程度に女に似た大人の男性だっているのだ。(中略)男性俳優のみの演劇伝統ー例えば歌舞伎や能ーでは、俳優の年齢もジェンダーと同じようにまったく問題にならない。女性らしさとはひとえに演技の問題なのである。』 (スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」)

歌舞伎の女形は政治的に強制されたもので自然発生的なものではありませんから多少意味合いが異なりますが、シェークスピア演劇の少年俳優においてもリアリズムは大して重要ではないのです。女役は表象であるからです。イメージを提供する存在であるということでしょう。しかし、オーゲルの指摘するように見かけが女性的な野郎ではなく・あくまで少年にこだわったところが当時のイギリス演劇の(あるいはイギリス社会の)興味あるところです。その要因についてはイギリスの厳格な父家長制度など社会的要因が背景にあるようですが、長くなるので・ここでは触れません。本稿では「十二夜」を材料に少年俳優の周辺をちょっと考えて見たいと思います。

2)シザーリオの意味

「十二夜」に登場するヴァイオラは魅力的な人物です。彼女は男装してシザーリオを名乗り・お小姓になってオーシーノ公爵に仕えます。そして、3日と経たないうちに公爵の寵愛を一身に集めてしまいます。そればかりか公爵が思いを寄せる伯爵家の令嬢オリヴィアの心まで奪ってしまいます。しかし、観客にとって魅力的なのは・素のままの(つまり女性 としての)ヴァイオラではなくて、変装して男性に化けた仮の名前シザーリオの方です。1601年(=日本では慶長6年・四条河原での出雲のお国のかぶき踊りの2年前に当たります)ロンドンでの「十二夜」初演では、ヴァイオラ(=シザーリオ)の役はもちろん少年俳優が演じ ました。シザーリオに対する公爵の台詞を見てみます。

『お前を男だと言う者はその恵まれた若さを見そびれている。つややかでルビーのように赤いお前の唇は処女神ダイアナも及ばない。その細い声は少女ののように高く澄み切っている。すべてが女役を演じる少年俳優そのものだ。きっと星の巡り合わせで、この役ぴったりに生まれ付いたのだ。』( 公爵の台詞・第一幕第四場)

この台詞をシェークスピアがどういう気持ちで書き・観客がどういう気持ちで聞いたかを想像してみることは面白いことです。可愛らしい少年俳優をみんなで愛しんでいる様子が目に浮かぶようです。つまり、公爵の台詞は楽屋落ちなのですが、これを観客はニヤニヤ しながら聞いたのであろうと思います。

ところでヴァイオラが名乗る「シザーリオ(Cesario)」という名前は興味深いものです。シザーリオというのはラテン語のCaesariusのイタリア語形で「シーザー」のものという意味です。さらに転じて「手を 触れてはならぬ」という意味になるそうです。これは高貴な人のものだからということでしょう。トマス・ワイアットの詩に「我に手を触れるな、我はシーザーのものなれば」という文句があるそうです。

ヴァイオラは船が難破し・兄セバスチャンと生き別れ(彼女は兄が死んだと思い込んでいます)、彼女はまず伯爵令嬢オリヴィアに仕えようと思います。オリヴィアも兄を亡くして喪に服しており・誓いを立てて男とは同席するのも顔を見るのも拒否する生活を送っています。それでヴァイオラは自分と同じ境遇のオリヴィアに仕えたいと思うのですが、船長に「それは難しい」と言われると、それではお小姓になって公爵に仕えようと考えを変えます。(第1幕第2場)

劇の最後でヴァイオラは公爵と結婚するのですが、この時にはヴァイオラはそういう意図を以って公爵に近づくわけではないのです。恐らく公爵がヴァイオラに求愛していることを知り・オリヴィアに近づくためには公爵経由の方が近道だと考えてのことかも知れません。そう考えますとヴァイオラが男装してシザーリオを名乗るのは 公爵に対する「防御( 私に手を触れるな、私の身体は死んだ兄のものなれば)」というのが最初の意図なのです。これは当時の女性が遠路の旅をする時には護身のために男装をしたという習慣からもうなずけることです。(「十二夜」はヴァイオラの成長物語という読み方も可能ですが、その読み方からするとシザーリオは若い女性が男性へ近づくことへの恐れを表すと考えることもできるかも知れません。)

さらにシザーリオにはもうひとつ意味があります。シザーリオはラテン語ceadoの過去分詞caesus(英語のcut=切る)を連想させます。シーザーに係わる言葉として 「帝王切開Ceasarian birth」という言葉がありますが、このヴァイオラの男装の場合ですと「去勢した男性」のことを示唆していると考えられます。

『お願い、お礼はいくらでもしますから、私が女だということを隠して。そして、私の目的にかなう変装の手伝いをして頂戴。その公爵にお仕えするわ。私をお小姓として推薦して。お骨折りは無駄にいたしません。だって、私、歌が歌えるし、楽器もいろいろ弾いてお聞かせできるし、お傍に仕えるには打ってつけでしょう。』(ヴァイオラの船長に対する台詞:第1幕第2場)

この台詞での「お小姓」ですが原文ではユーナックEunuckとなっています。ユーナックは去勢された男性歌手のこと・つまりカストラートcastratoを意味 します。(ただしカストラートはもっと後にイタリアを中心に生まれたものです。)これはヴァイオラの「私は歌が歌える」と言っていることにも符号します。(ただし劇中にヴァイオラが歌を歌う場面はありません。このことも偽りのユーナックだからということがあるのかも知れません。)だからヴァイオラは変装によって普通の男性を騙ったわけではなく・外科手術によって中性になった男性を騙っている のです。

このことはヴァイオラが他者(男性)を拒絶していることを示していますが、同時にヴァイオラが他者に係わろうとする可能性をも閉ざしているのです。ヴァイオラはすぐにこのことに気が付きます。ヴァイオラは公爵に恋をしてしまうからです。ヴァイオラはユーナックを騙っているために公爵が好きでもそれを言い出せなくなります。つまり、男装で自分を守ろうと したつもりが・自分が異性装に縛られてしまったとヴァイオラが感じ始める。ここから芝居の筋がよじれ始めるのです。公爵にオリヴィアのもとに求婚の使者に行くことを頼まれて、ヴァイオラはその不運を嘆いています。

『ああ、因果な務め!誰を口説こうが、ご主人の妻になりたいのは私なのに。』(ヴァイオラの台詞・第1幕第4場)

ところが、その一方で虚の存在であるはずのシザーリオのイメージがひとり歩きをし始めます。ややこしいことにオリヴィアの方がシザーリオを恋してしまうのです。

『これからどうなるんだろう。私のご主人はお嬢様を愛し、哀れな男女(おとこおんな)の私は同じくらいご主人に夢中。でもって、お嬢様は勘違いして私に首ったけ。一体どうなっちゃうの?私は男だから、ご主人が大好きでも望みはない。私は女だからーああ、何てことー(中略)ああ、時よ、これをほぐすのはお前の役目、私じゃない。こんなに固くもつれていては、私の手ではほどけない。』( ヴァイオラの台詞・第2幕第2場)

ヴァイオラは「哀れな男女の私(原文ではI, poor Monster)」と言って嘆いています。これが男でも女でもない中性化した存在である「化け物シザーリオ」の生み出した状況なのです。しかもこの状況を彼女自身では解消でき ません。こんがらかった状況は死んだと思っていた兄セバスチャンの登場によって一気に解決に向かいますが、それは芝居の結末でのこと。ユーナックとしてのヴァイオラの置かれた状況をもう少し見ています。ヴァイオラは公爵に意味不明のことを言いますが、公爵は何のことか理解ができません。

『この私が父の血を引くただひとりの娘。そしてただひとりの息子です。でも、どうだか分かりませんが。』(ヴァイオラの台詞・第2幕第4場)

似たような謎が最終幕のセバスチャンのオリヴィアへの台詞にも出てきます。

『あなた(オリヴィア)はまだ男を知らない娘と結婚するところだったが、この命に掛けて決して騙されたわけではない。まだ女を知らない男と婚約したのだから。』(セバスチャンの台詞・第5幕第1場)

オーゲルはこれらの謎めいた台詞はシェークスピアのソネット20番の「主(あるじ)であるおとこ女の現実化されたものであるとします。このソネットの最後に2行は次のようなものです。

『(自然の女神は)きみを女たちの女神として選んだのだから/きみの愛はぼくのもの、きみの愛の行為は女たちの宝として与えよう。』(シェークスピア:ソネット20番)

「選んだpicked out」はペニスを与えられたの意味を兼ねており・「きみ」は少年を指すのですが、オーゲルはこの2行について次のように書いています。

『事実、スティーヴン・ブースはこう言った。「自然は男性を分割し、半分は娘たちのため、半分は男たちのためのものとした。」、少年というものは誰のためにも何かを持っているというわけである。(中略)「十二夜」をこのコンテクストにおいて考えてみると、オーシーノとオリヴィアは同じ若者シザーリオに恋をする。シザーリオをヴァイオラと区別し、ヴァイオラをセバスチャンからーオリヴィアの愛情のなかで難なくヴァイオラの代用物になってしまうセバスチャンからー区別するものは、衣装、つまり選ばれた役割だけである。これらの人物のジェンダーは可変であって、構築されたもの、つまり選択の問題なのである。』(スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」 )

シザーリオはユーナック(去勢された男性)ですからセクシュアリティは曖昧にされていますが、ここで考えられる大事なことは少年俳優が女優の代用では ないということです。少年 は男性からも女性からも距離を置いた存在(機能)であって、それゆえジェンダーによる社会的境界を容易に乗り越え・多様なエロティシズムを観客に提供するということです。 (同様に現代女性の若手女形役者への人気も案外こんな要素が強いようです。この点は今後の検討課題とします。)

3)ジェンダーとしての衣装

「シザーリオをヴァイオラと区別し・ヴァイオラをセバスチャンから区別するものは衣装である」ということは非常に重要な指摘です。結局、それが少年俳優の演技を成り立たせるものなのです。このことは歌舞伎における女形の衣装のとジェンダーの問題を考える時にも役に立ちます。衣装が記号になっているのです。

舞台では男装したヴァイオラ(すなわちシザーリオ)とセバスチャンの兄妹はそっくりで見分けがつかないことになっています。「ひとつの顔、ひとつの声、ひとつの服、だが別々の二人!」、「ひとつのリンゴを二つに割っても、この二人ほどそっくりではない」というほどのそっくりです。この二役は同一俳優が演じることもあ りますが、大抵の場合はそうではありません。 実際、シェークスピアの劇団には双子がいなかったようですし、シェークスピアも一人二役の効果は意味がないと考えていたそうです。舞台上で全然見かけが違う役者を 登場人物たちが見分けが付かないと言って騒いでいるのはアホらしいと思う方がおられるかも知れませんが、見かけの違う二人をそっくりの二人に してしまうのが同じ衣装の暗喩の効果です。ヴァイオラは次のように言っています。

『確かにお兄様は私という鏡のなかに生きている。目鼻立ちも私と瓜ふたつ、いつもこういう色や型の服、こういう飾りをつけていた。だって、これはお兄様を真似たんだもの。』( ヴァイオラの台詞・第3幕第4場)

芝居では同じ衣装ならば同じ人物ということになるのがお約束です。オリヴィアはシザーリオとセヴァチャンを間違えて婚約をしてしまいます。「私の恋したのはシザーリオで・あなたではない・私は間違えた」とオリヴィアは 言ってもいいのです。しかし、オリヴィアにとって同じ色と型の服・同じ飾りならば結局どちら の人間でも同じであったのです。だから真相が分かってもオリヴィアはそのままセバスチャンと結婚することになります。これは公爵の場合も同じです。寵愛していたシザーリオが女性と分かって・シザーリオが衣装を着替えて女性ヴァイオラになるなら・これを妻にしてしまえばそれで彼はそれでいいのです。

これはドタバタのお芝居にオチをつけるご都合主義の結末に見えるかも知れませんが、実は重要な意味を持っていたわけです。これがユーナックである男おんなの化け物シザーリオのもたらした意味です。それは衣装が実体だということです。この芝居はジェンダーの記号で出来ているのです。このことは「十二夜」における少年俳優の異性装と・芝居のなかでの男装での面白さにも係わってきます。つまり、女性の衣装を着た者は女性であり・男性の衣装を着たものが男性であるという前提があるから「十二夜」の芝居が成立するのです。(このことは歌舞伎においても非常に大事な前提です。)

現代では異性装の持つ暗喩は当然変わってきます。現代においては、女優のヴァイオラが男性になっても(あるいは男性がヴァイオラを演じる場合もたまにあるようですが)ジェンダーの境界線を自在に行き来することの面白さが自然な形では表出できません。現代においては俳優も観客もジェンダーの境界線を越える行為自体の重さを意識せざるを得ないのです。

しかし、シェークスピア時代の演劇の感覚ではそこのところが違うようです。何と言いますか・そのことの重さが意識されないというか、少年俳優の異性装に表象としての軽やかさを見ているように思われます。(この点はその存在自体に哀しみを感じさせる野郎歌舞伎の女形ともかなり違うようですね。)

ところで 「十二夜」はハッピーエンドで終わると言われていますが、実はこの劇は完結していないのです。

『シェークスピアでは結婚生活はひとつの危険な状態である。われわれはいつも喜劇とは結婚で終わるもの、それが喜劇として普通の形だと聞かされている。シェークスピア喜劇のいくつかは確かにそうなっているが、もっとはっきりとシェークスピア的と言える形では結婚の直前に劇が終わる。(中略)シェークスピア劇のなかの長く続く結婚生活は、ほとんどすべて幻滅に行き着く。(中略)結局、面白いのは求愛場面だけ。結婚の後は夫婦や親子の間に起こることはすべて悲劇にふさわしい素材ばかりである。』(スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」 )

ヴァイオラと公爵は結婚することは決めたものの・彼女が女性の服に着替えるまでは結婚式は進められません。女性の衣装がヴァイオラの実体だからです。すべてが明らかになった後で公爵はまだ男装のままのヴァイオラに対して次のように言っています。

『シザーリオ、おいで、だってそうだろう、男でいるうちはお前はまだシザーリオ。だが、別の姿になればオーシーノの奥方、恋の女王だ。』(第5幕第1場)

「十二夜」エンディングの時点ではヴァイオラは女性に戻っていないのです。だから公爵はまだシザーリオと呼んでいるのです。三保の松原の天女が松の枝に掛けた羽衣を取り返さないと天に戻れないように、ヴァイオラもまた元の衣装を取り戻さないと女性には戻れません。その衣装は彼女を公爵に紹介してくれた船長の家に置いてあります。その衣装 を着なければ 、ヴァイオラは女性には戻れないのです。別の衣装では駄目なのです。そこにヴァイオラの実体があるからです。再会を喜ぶセバスチャンにヴァイオラは次のように言います。

『私たち二人(セバスチャンと)の幸福を妨げているのが、この借り物の男の服だけだとしたら、抱きしめるのは待って。時、所、運命のすべてがぴたりと決まり、私がヴァイオラだと明らかにするまで。それを確かめるため、この街の船長の家へお連れします。私の女の服はそこに置いてあるので。』(ヴァイオラの台詞・第5幕第1場)

しかし、船長は執事マルヴォーリオに裁判で訴えられて投獄されていて家にはいません。しかもマルヴォーリオはみんなにこっぴどくからかわれて怒り狂って「復讐してやる、どいつもこいつも」と叫んでどこかへ去ってしまいます。マルヴォーリオをなだめて説得しないと・船長は解放されず・ヴァイオラは衣装を取り戻せない・つまりヴァイオラは女性に戻って公爵と結婚すること はできないのです。公爵は「追いかけて行って、和解するようなだめて来い」と気楽に言っていますが、このことは思っているよりずっと大変なことかも知れません。しかし、登場人物たちはみんな幸せに酔っていてまだ誰もこのことに気が付いていません。

だから「十二夜」ではハッピーエンドは本当は保留されているのです。マルヴォーリオを軸にしてまだまだ悶着がありそうな気配です。しかし、とりあえず喜劇はここで終わるということです。なるほど「十二夜」はまったくシェークスピア的な喜劇なのですね。

(H17・5・29)

(参考文献)

スティーヴン・オーゲル:「性を装う―シェイクスピア・異性装・ジェンダー」・岩崎宗治/橋本恵訳・名古屋大学出版会 ・・この本には非常に大きな示唆をいただきました。

文中の「十二夜」は松岡和子訳(ちくま文庫)を参照しました。
シェイクスピア全集 (6) 十二夜(松岡和子訳)

(後記)

別稿「演劇におけるジェンダー」も参照してください。

蜷川幸雄演出・尾上菊之助主演の歌舞伎版「NINAGAWA十二夜」についての観劇随想は別稿「似てはいても別々の二人」及び「暗喩としてのシザーリオ」を参照ください。
 

 

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