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しばし松陰の足休め〜「道行」の明るさを考える

〜「仮名手本忠臣蔵・道行旅路の花婿」


1)「松陰の足休め」

舞踊「道行旅路の花婿」(通称「落人」)において・花道から登場したお軽と勘平が本舞台にかかると、お軽が「幸いここの松陰で」と言い・勘平が「しばしのうちの足休め」と 言う場面があります。この後、場面はお軽のクドキに展開していきます。ところでこの「松陰の足休め」ですが、要するに「人目に付かないこの場所でちょっとラブしましょ」という意味であるとの口伝があるそうです。これが通説というわけで もないようですが、そういうことが昔から言われているというのは面白いことです。しかし、ちょっと注釈が必要かもしれません。

まず舞踊「落人」の成立過程を考えてみる必要があります。「落人」は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」のなかの一幕として上演されるケースが多いですが、実は「忠臣蔵」のオリジナルの一幕ではありません。 「落人」は天保4年(1833)河原崎座での初演で、「三段目・足利家屋敷裏門の場」をアレンジした舞踊です。オリジナルの「裏門」はちょっと地味な場で最近は上演されることがほとんどなくなってしまいました。代わりの「落人」は華やかであるし 、「四段目」の後にこれを上演すると・ちょうど昼の部を気分良く追い出し出来るので、都合がいいわけです。

「忠臣蔵三段目」は、高師直にいびられた塩冶判官が・ついに堪忍袋の緒が切れて殿中で斬りつけてしまうという通称「喧嘩場」がその中心になっています。この判官のお側の者として足利家屋敷に随行していたのが早野勘平です。主人の大事の役目である饗応の儀式が これから始まるというところです。勘平は控えの間にじっと待機しているのが勤めです。ところが、どういう理由だか松の廊下で判官が高師直に斬りつけてしまって殿中は大騒ぎになってしまいます。こういう事態になれば、お付きの者である勘平は事態の把握収拾に動くのが当然の責務です。主人判官は一体何を仕出かして拘束されたのか・はたして師直は死んだのか無事なのか ・国許にいる由良助にどう報告すべきか、あらゆる情報を集めなければなりません。

ところが勘平はその場にいなかったのです。実はその時、勘平は城を抜け出して・恋人お軽とデートを楽しんでいたのです。どうしてお軽が足利家屋敷にまで来ていたのかと言うと、お軽 も顔世御前から託された文箱を判官に届けるために足利家屋敷に来ていたのです。勘平とお軽は恋仲ですが、勘平もお側の者ゆえ仕事が忙しくて・デートの時間をおいそれと作るわけにもいきません。シメた・これはチャンス だ・ちょっとデートをしてこようと、勘平は軽い気持ちで城を抜け出したのです。しかし、殿中の抜刀で場内は大騒ぎになって・緊急事態で屋敷の門は閉められてしまいます。 ただならぬ様子に気が付いた勘平があわてて屋敷に戻ろうとした時には ・時すでに遅く門は閉められていて・勘平は屋敷に入れません。勘平は主人判官の一大事に傍に居合わせなかった為に・心ならずも「不忠者」の汚名を着ることになってしまったのです。(これが「五・六段目」の伏線になっていることは言うまでもありません。)

ちなみに、お軽が届けたその文箱は・顔世から師直に渡して欲しいと頼まれたもので、この文箱を持って判官は松の廊下に登場し・これを師直に渡すのです。その文箱には顔世に懸想する師直の執拗な求愛を拒否する内容の歌を記した短冊が入っていました。これが「 さなきだに重きが上の小夜衣・・」の返歌であります。これがイライラしていた師直の判官へのイビリをますます増幅させて・殿中の刃傷に至らせることにまでなろうとは、当の顔世御前さえ思いもよらぬことでした。ましてお軽には想像も付かないことです。(別稿「恋歌の意趣」をご参照ください。)しかし、結果として ・お軽は主人判官の刃傷に至る原因に間接的に係わったことになり、勘平 も主人への配慮を怠たり・事件を未然に防止できなかったわけですから、このカップルは刃傷事件に大いに関わりがあるのです。ところで「忠臣蔵・三段目」で、門前へお軽が勘平をデートに誘う場面は次のような場面です。

『「サアその首尾ついでにな、ちよつとちょっと」と手を取れば「ハテ扨はづんだマア待ちやいの」「なに言はんすやら、なんの待つことがあろぞいなア。もうやがて夜が明けるわいな。是非に是非に」是非なくも 、下地は好きなり御意は善し「それでもここは人出入り」奥は謡の声高砂松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ 』

アレレと思うようなエロチックな文句ですが、これは「喧嘩場」の直前の場面で・刃傷の劇的緊張の前にちょっと客席を和ませておこうという算段なのです。「菅原伝授手習鑑」の「加茂堤」なども同じですが、浄瑠璃にそういう作劇のお約束があるのです。

ここに謡曲「高砂」の道行の文句「松根(しょうこん)に倚つて腰をすれば」というのが出てきます 。この文句が勘平の不忠行為のきっかけになっているわけです。この「松根に倚つて」の文句から「落人」の「松陰の足休め」の文句が発想されていると考えられます。だから「松陰の足休め」が「人目に付かない場所でちょっとラブしましょ」という意味だという口伝になるわけです。おそらくこの連想は正しいと言う気がします。というのは「落人」は「忠臣蔵・裏門」の筋を上手に換骨奪胎して作られているからです。

しかし、そう考えると矛盾も出てきます。「落人」はお軽・勘平が鎌倉から・お軽の実家のある京都・山崎へ落ちていく道中の場面です。この場面の勘平はどう考えても 楽しい気分であるとは思えません。不忠者の汚名を着て・本当はその場で切腹しなければならないところをお軽に説得されて・仕方なく女房の実家に身を寄せて汚名をそそぐ機会を待とうという失意の道行なのです。勘平の気分は陰鬱で、腑抜けみたいな心境に違いありません。そう考えますと、勘平がホイホイと「松陰の足休め」という色めいた気分になるとはとても思えません。それでは勘平は恥の上塗りになっちゃいます。

まあ、そんなに硬く考えるものでもなかろうと思いますが、これはこのように解釈すればよかろうと思っています。この後に「色で逢いしも昨日今日の・・」でお軽のクドキになります。このお軽のクドキは、間に勘平の懺悔をはさんで・前後ふたつに分かれていますが、ここでお軽は勘平との恋の馴れ染めからその将来を語るのです。つまり、この「松陰の足休め」からお軽・勘平のふたりは本来の「仮名手本忠臣蔵」の世界へ立ち返り、過去・現在・未来を行きつ戻りつする幻想シーンというわけです。舞踊劇の場合には時系列はあまり関係ないのです。「松陰の足休め」と言う時に 、あの時の不忠のきっかけとなった瞬間が勘平の心のなかにフッと蘇るわけです。「あの時、変なことを考えなければなあ」という感じでしょうか。そこから「落人」は ふたりの思いが過去へ・未来へとさまざまな形で入り乱れる幻想的場面に入っていきます。

お軽のクドキの前半は過去が中心です。「鴛鴦(おし)の番(つが)いの楽しみに」とお軽は勘平との恋の馴れ初めを語ります。

この後に「よくよくおもえば後先のわきまえ無く、ここまでは来たれども・・と勘平の懺悔が入ります。主人の大事の時に・お軽との逢引きを楽しんでいたことを悔いて、勘平は死のうとします。ここは本来「裏門」での場面なのですが、勘平はここでそれを 回想していると考えればよろしいのです。

お軽がそれを止めて、「それそのときの狼狽(うろたえ)者には誰がした ・みんな私の心から」から後半のクドキになります。このクドキも本来「裏門」での場面にあるべき会話なのです。ここでのクドキは、勘平を誘惑したことで迷惑を掛けたという懺悔もあるのですが、その一方でこれからの山崎での夫婦生活が待ち遠しいという感じ もあるようです。ここで「機(はた)も織候(おりそろ)、賃仕事」という文句があって、山崎では私は機を織り・針仕事でもして勘平さんが元の侍に戻れるように頑張りましょうという意味ですが、なんとなく世話女房のウキウキしたような気分もしてきます。お軽はなかなかしたたかで、生活力のある女性なのです 。

2)「落人」の明るさ

それにしても 「道行」というのは興味深い演劇形式です。舞踊でもなく・芝居でもありませんが、芝居の芯になる「場」と「場」のつなぎの役割をします。西洋演劇にこういうのは見掛けないようですが、機能的にはオペラで言う間奏曲(インテルメッツォ)がこれに当たりましょうか。間奏曲は舞台転換の間をしばし管弦楽の演奏でつなぐものですが、気分転換と次の幕への雰囲気作りを見事に果たします。

民俗学的には「道行」は説経浄瑠璃の一場面、例えば「おぐり」で照手姫が餓鬼姿になった小栗判官を車に乗せて熊野へ向かう場面・あるいは「しんとくまる」で乙姫が業病に冒されたしんとく丸をつれて熊野に向かう場面のようなものから来る ものです。共同体から疎外されて・そこから離れて新たなる生を求めて放浪する旅です。確かに目的 地はあるわけですが、しかしその願いがかなうかどうかも分からぬ旅です。そんな旅のなかで人は自己と対峙し・ある時は過去を思い・ある時は未来を思いながら・生きる事の意味を自らに問います。 説経浄瑠璃の「道行」は再生の旅なのです。

折口信夫が北原白秋との対談でこんなことを言っています。日本の山村を歩くと峠に旅死にの死骸をうずめた跡をよく見る、そしてそこを通る村人がせめてもの心尽くしから道端の花や柴を折りかけて通る、そんな場所があったと言います。

『この夏は土佐と伊予の国境を歩きました。そして、たくさんの顔を崩れかかった・あるいはまだ血色のいい若者が、ほんとうにほっつりほっつりと一人ずつ来るのに行き会いました。こんなのは死ぬまで家に帰らないので、行き倒れるまでの旅行を続けているのです。私はこの旅行中に気持ちが恥ずかしいほど感傷的になっておりましたのです。芥川龍之介さんが、あんなに死にたいならば、あんなに死に栄えのする道を選ばなかったらよかったと思います。世の中には死にたくっても、それをもって死んだ、と思われることの耐え難さに生きているものがたくさんあるのです。私らも死にたさが切に起こったら、こうした行人巡礼のような病気持ちではありませんけれども、死に栄えのない・そしていつまでも敬虔な心の村人が、ただそれだけによって好意を見せてくれる、柴折塚の主になりそうに思います。これは芥川さんほど血気が盛んでないせいでしょうか。』(折口信夫:対談「古代の旅びと」・昭和2年12月、*芥川龍之介の自殺は昭和2年7月24日のことでした。)

一方の北原白秋は九州の巡礼は土地柄なのか陽気で明るかったということを語っています。(白秋の故郷は柳川市です。)だから、放浪旅も物悲しいものばかりでなくて・陽気なものもあったのでしょうが、その陽気さも共同体の柵(しがらみ)から一時的に解放された自由な気分から出るものです。いずれにせよ放浪旅はつねに共同体を意識し、定着への願望がそこに秘められています。

上記の折口信夫は放浪旅について語っているのですが、浄瑠璃の「道行」にもこのことは当てはまるように思います。浄瑠璃の道行は、つねに何かに追われるようにして旅に出て・そしてそして何かを求めて旅に出るというものです。そしてその道中に自己と対話しつつ・過去やら未来やら・いろいろなことを考えるのです 。自己との対話が「道行」になるわけです。

「落人」の場合で言えば、本心から言えば勘平はその場で腹切った方がどんなに楽だか知れないのです。しかし、「あいつは不忠をして・それで腹切った」と言われることの耐え難さから 勘平は旅を続けるということになります。付け加えますが、これは「恥」の概念から死ぬのを思いとどまるというものではありません。生きることもかなわぬ(当時は共同体のなかにあるのが 「生きる」ことでありました・共同体から疎外されることは「死ぬ」のと同然であったのです)・さりとても本当に死ぬこともかなわぬという状況のなかで、勘平は切実に「生きることの意味」と対峙しようとしてい るのです。

しかし、その一方で共同体の柵から離れたことの開放感も確かにあるのです。そしてそれが行き先にあるものへの希望にもなっています。そしてそれが「道行」の舞台の明るさにも反映してくるので す。この部分はお軽が担っています。勘平の不忠の一端は確かにお軽に原因があるのですが、お軽は今更そんなことをクヨクヨ考えないのです。そして、そんな生活が決して長くは続かないことも薄々は感じているわけですが、しかし、お軽はそのことも深くは考えません。(考えたくもないということでしょう。)とりあえずは実家の山崎での・勘平との夫婦生活を夢見るのです。

説教浄瑠璃に見られる本来の「道行」は宗教性を帯びたものですから、陰鬱な気分を引きずりつつ・再生への憧れを歌うようなものです。これは演者である説教師たち自身が放浪芸能者であることにも拠ります。一方、江戸期の浄瑠璃や歌舞伎は放浪芸能を起源としてはいますが、明確に都市に定着した芸能です。この違いが「道行」の気分にもはっきり表れています。歌舞伎の「道行」は明るいのです。陰鬱な気分も底流に持ってはいるのですが 、それ以上に舞台が明るいのです。

「落人」のその明るさはお軽から来ます。お軽によって観客は陰鬱な気分から救われます。お軽のこのプラス思考・したたかな生活力がそういう明るい気分を起こさせるのです。これが江戸時代の町民の活力なのでありましょう。
 

(H17・5・15)

仮名手本忠臣蔵 (歌舞伎オン・ステージ (8))
 

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