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生と死の境

〜「隅田川」


1)隅田川の死のイメージ

明治の詩人たちは昔の江戸を懐かしんで、隅田川の流れをセーヌの流れに見立てたりしたものでした。しかし、関東大震災のルポルタージュのために上京した作家・夢野久作が、隅田川についてこんなことを書いています。(夢野久作は「浄瑠璃素人講釈」の著者・杉山其日庵(茂丸)の息子であります。)

『隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、かの広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし、江戸の人口に差し支えるほど身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。隅田川は昔から水っ子の始まった処であった。水っ子と云っても、その中には堕胎した児、生まれてから殺した子、または捨て子(これも結局はおなじことであるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたものでないが、江戸っ子の人口減少の一端を引き受けたと認めているのだから恐ろしい。隅田川はこんな残忍な冷たい流れなのである。』(夢野久作:「街頭から見た新東京の裏面」)

隅田川は身投げが多かったというのは、これはどうも本当のことらしいです。そういえば黙阿弥の「三人吉三」に土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが昔は盗賊で、 その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬することをするようになって、それで誰とはなく彼を「土左衛門伝吉」と呼ぶようになったということになっています。(別稿「生は暗く死も暗い」をご参照ください。)このような設定があるくらいですから、隅田川への身投げは確かに江戸の昔も多かったようです。

しかし、これは大都会生活によくある「心の病」のせいというだけではなさそうです。隅田川の流れには、心を病んだ人たちを吸い寄せるような魔力があるのかも知れません。実は江戸の世にあっては、隅田川の向こう岸(東岸)は他界(あの世)として意識されていたのです。他界として意識されていたからこそ、そこに回向院が建てられたわけです。「隅田川」の流れに、江戸の人々はそこに「生と死の境」を感じたのかも知れません。

2)梅若が死んだのは西岸か東岸か

東国の辺境の地というべき隅田川の名が京都の人々に知れるようになったのは、「伊勢物語」での在原業平の東下りによってでした。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」という歌はあまりにも有名です。言問橋とか業平とかいう橋名や地名が残っています。

そして、もうひとつ、隅田川の名を人々に忘れられないものにしているのは、古くから言い伝えられている「梅若伝説」です。 四十三代円融天皇の御代(970−980)のことですが、比叡山の月林寺に梅若丸という稚児がありまして、大変に学業に優れて評判の稚児であったそうです。梅若丸は京都の吉田の少将惟房(これふさ)とその妻斑女(はんじょ)の前との間の子ですが、梅若が5歳の時に父親が亡くなり、7歳の時に月林寺に入ったのです。

ところが同じ比叡山の東門院に松若丸という稚児がいて、これも梅若丸と学才を競うほどの秀才でしたが、それぞれを応援する寺の僧侶たちが争いをする事態に発展してしまったのです。12歳になった梅若はこれに悩んで、こっそりと寺を抜け出してしまいます。 しかし、道に迷って京都に行くつもりが間違って大津の方へ出てしまったのです。そこで梅若は陸奥の人買い商人信夫藤太(しのぶのとうだ)にかどわかされて、同じように集められた数人の少年たちとともに東国に連れて行かれるのです。

しかし、体の弱い梅若は長旅の疲れも重なって病気になってしまって、武蔵国の隅田川の渡しに差し掛かった時にはもはや歩けないほどの重態になっていました。信夫藤太は面倒臭く思って足出まといになる梅若をその場に打ち捨てて、他の少年たちを連れて川を渡ってしまいます。土地の人たちは梅若を哀れに思っていろいろ手を尽くしましたが、看病むなしく梅若はまもなく息を引き取ってしまいます。「たずねきて問はば答えよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」というのが辞世の歌だと言われています。梅若の遺骸は土地の人たちによって手厚く葬られ、そこに塚が作られました。それが梅若塚です。

梅若丸の死んだのは貞元元年(976)3月15日のことと言われていて、毎年3月15日は「梅若忌」とされて江戸時代には大念仏が行なわれました。この日はよく雨が降ったそうで、その雨は「梅若の涙雨」だと言われたものです。「雉子鳴かかの梅若の涙雨」は小林一茶の句です。

ところで、その一年後に梅若の母・斑女の前が我が子を求めて隅田川にまでたどり着き、そこで我が子の死を知ります。斑女の前はこの地で剃髪して妙亀尼と名乗り、梅若塚の傍に庵を建ててそこで念仏の日々を三年ほど送るのですが、ある日のこと、近くの鏡が池の水に映る我が子の姿を見て、そのまま池に飛び込んで死んでしまったのです。(別の説では自らの変わり果てた姿に絶望したからだとも言います。)そこで土地の人たちはそれを哀れんで、この薄幸の母親の菩提を弔うために塚を作りました。これが妙亀塚です。

以上は「江戸名所図会」などに出てくる梅若丸にまつわる言い伝えです。ここでまず気が付くことは、観世十郎元雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっていることです。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にあることになっています。もちろん言うまでもなく、現在知られている梅若塚は隅田川東岸にあるのです。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転していますが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っています。)

それでは何が気に掛かるかと言うと、「江戸名所図会」では、『今はひとあしもひかれずとて角田川のほとりにひれふしたるを、なさけなくも商人はうちすてて奥にくだりける。梅若丸はいくほどなく むなしくなりにける。』とあって、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われることです。確かに舟に乗るには舟賃が要るわけで すから、強欲な商人が瀕死の梅若丸を舟に乗せて対岸に渡すことはなさそうです。

梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは別のことからも推測できます。妙亀塚が西岸に現存していることです。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存していません。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかったでしょう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然ではないでしょうか。それならば、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか・あるいは梅若塚はもともと西岸にあったのがある時期に何かの理由で東岸に移されたのではないかとも思われますが、よく分からないそうです。

そういうわけで真相は不明なのですが、もしかしたら謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないか、という気がしなくもありません。確かに我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたの が東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであった・そしてその川の向こうに我が子の墓があったという設定の方が劇的効果ははるかに高いようです。

いや劇的効果というだけではありません。平安の世においては武蔵国・隅田川の渡しは京都の朝廷の政治の及ぶ東の果ての地であって、隅田川を渡ればそこは奥州への入り口であり・都人にとっては想像を絶する 辺境の地であったのです。そうした都人の隅田川のイメージは「この世の果て・生と死の境界」のイメージとも重なっています。隅田川の向こう・あの世の世界に我が子・梅若はいるのだということなのです。謡曲「隅田川」が生まれた室町時代においてもこういうイメージは大して変わっていないわけですから、梅若塚は「他界」である隅田川東岸になければならなかったのでしょう。

別稿「かぶき者たちの心象風景」において、江戸幕府のかぶき者対策について考えました。江戸の町を俯瞰しますと 、江戸城の鬼門と浅草寺を結ぶ線の延長上に吉原(遊郭)・小塚原刑場・千住宿が連なっています。千住は奥州街道(日光街道)の基点であって、聖なる江戸と他界である東北(=蝦夷)との境界でありました。こういうイメージも決して江戸幕府だけが作ったものではなくて、平安時代から日本人の心のなかに植え付けられた隅田川の他界のイメージが基点にあるのだということが分かるでしょう。そうやって江戸幕府のかぶき者隔離の思想が江戸の住民の心の深層心理のなかに何の抵抗もなく・スンナリと入り込んでいくということなのです。

そう考えると「隅田川は昔から身投げが絶えぬ」というのも、これは今でもそうなのかは知りませんけれど、隅田川の死のイメージがこれほどまでに人の心を呪縛するものなのかと考え込んでしまいます。「三人吉三」の大川端において、お嬢吉三が「月も朧に白魚の 篝もかすむ春の空・・・」という有名な長台詞の場面なども華やかなイメージがありますけれど、刀を持って隅田川の流れを見込んでのこの場面はもっと陰惨なイメージがあるのかも知れません。舞台の上のお嬢吉三は華やかであっても、隅田川の流れは人の心を吸い込んでしまいそうなほどに暗く深いのです。深夜の川端でお嬢吉三がおとせを川に突き落とす直前の会話が象徴的かも知れません。

(おとせ)「ただ世の中に怖いのは人が怖うございます」(お嬢)「・・・ほんに人が怖いの」

 歌舞伎に登場する隅田川の流れは、現代の我々が想像するよりも深く暗く陰惨な流れなのかも知れません。

3)「梅若伝説」の示すもの

ちょっと話がそれたかも知れません。舞踊「隅田川」の舞台を見ると陰惨な隅田川の死のイメージはあまり浮かんでこないのではないでしょうか。 吉之助にとっては「隅田川」と言えば 六代目歌右衛門であり・歌右衛門と言えば「隅田川」でもありましたが、歌右衛門の「隅田川」の舞台は陰惨ではなかったと思います。歌右衛門の「隅田川」の舞台は幻想的で、死のイメージよりは子を思う母・斑女の前の哀れさの方に目が行ってしまいます。斑女の前の哀しみは洗い上げられて幽玄のなかに昇華されています。歌右衛門の「隅田川」は海外でも何度も上演されて大好評を博しました。歌右衛門の「隅田川」は日本舞踊とか歌舞伎というジャンルをも超えてしまって、世界に通用する芸術作品になっていたと思います。

しかし、作品として「隅田川」を読むうえではやはりこのような死のイメージを直視することは大事なことです。当時は飢饉が起こると子捨て・子売り・あるいは子をかどわかして売るなどの行為が日常茶飯事に行なわれていたので、子を失って悲嘆にくれて正気を失う母親の姿があちこちに見られたようです。これは西欧でも中世期においてはまったく同様でした。だから「隅田川」の主題は西欧人にもスンナリ理解されるのでしょう。イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは謡曲「隅田川」の舞台からインスピレーションを得て歌劇「カーリュー・リバー」を作曲しています。

「隅田川」が問いかけているのは、死の淵から照射された「生きることの意味」です。母親である斑女の前にとっては残酷なほど無慈悲なる生。まさに神も仏もないように思えます。しかしそれでも人間は生きねばならぬということです。

別稿「文学のふるさと・演劇のふるさと」でも触れましたが、芸術作品においてはそういうものは昇華されてしまって生(なま)な形では提示はされないものです。「隅田川」においても母の哀しみは痛切に感じられますけれど、「無慈悲なる生」という印象は幽玄のなかで浄化されてしまっています。しかし、「梅若伝説」が人々の心をいつまでもとらえて放さないのは、我々の心の「ふるさと」がそこにあることを人々が感じ取るからに違いありません。

(H15・6・22)
 

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