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純粋にせられた「死」

〜「曽根崎心中」と「忠臣蔵」


1)ふたつの事件

大坂北の曽根崎天神の森で醤油屋・平野屋の手代徳兵衛・25歳、堂島新地天満屋の遊女お初・21歳(19歳との説もあり)が心中したのは、今から300年前の元禄16年(1703)4月7日のことでした。この心中を題材にして近松門左衛門が即浄瑠璃に仕立てたのが「曽根崎心中」です。この浄瑠璃は翌月に竹本座で上演されて大評判となりました。

ところで、この直前に江戸において世間を騒がす大事件が起きたことはご承知の通りです。それは元禄15年12月14日に起きた赤穂浪士・大石内蔵助以下46名の吉良邸討ち入り事件です。この事件を世間は「義挙」と見なして熱狂し、幕府が赤穂浪士たちにどういう処分を下すかは注目の的だったのですが、さんざんの議論の末に幕府はついに「切腹」の処分を下しました。大石内蔵助らの切腹が行なわれたのは、翌年・元禄16年2月4日のことでした。

 「曽根崎心中」(元禄16年・1703)と「仮名手本忠臣蔵」(寛延元年・1748)との間には45年の歳月の隔たりがあるので、そのふたつの事件がほとんど同時期のものであったことなどうっかり忘れてしまいそうです。しかし 、フッとこういうことを考えました。江戸と上方ではタイムラグもあったであろうが、実在のお初・徳兵衛のふたりが、あれほどに世間を騒がせた赤穂浪士の討ち入り事件を耳にしなかったはずはないであろう、もちろん2月4日に赤穂浪士の切腹が行なわれたことも大坂の町人たちの間で大変な話題になっていたであろうということです。お初・徳兵衛は赤穂浪士のことを知っていたであろう。だとすれば、お初・徳兵衛が4月7日に心中を決行する過程において、赤穂浪士の事件・特に切腹の報道が、彼ら(と 言うより本当は作者・近松門左衛門と言うべきかも知れませんが)の決意に重大な影響を与えたのではないのかという想像です。

これは吉之助の想像に過ぎません。赤穂浪士の切腹がお初・徳兵衛の心中の引き金であったということは、文献的にまったく根拠がありません。ただし、世間が赤穂義士の切腹の話題で沸き返っている最中の心中事件、そしてその翌月に上演された「際物」(つまり近松の「曽根崎心中」のことですが)の大ヒットということを考えると、ふたつの事件は案外と近い精神構造から発したものではないのかという気がしてくるわけです。この 想像は実説と脚色を混同しているという批判を受けそうですが、その通り、「混同している」ところでこの想像は成立していますので、そこのところをご承知のうえでお付き合いいただきたい。

別稿「かぶき的心情とは何か」において、仇討ち・殉死・心中が江戸時代前期の特徴的な気質「かぶき的心情」から発するものであることを考えました。また、その視点から近松門左衛門から竹田出雲・近松半二の作品群を読んでみることもしてきました。そこに見えるのは主人公たちの「個の主張・アイデンティテーの主張」です。その主張は個人の社会との関りのなかで・社会をはっきりと意識して発せられているということです。 そして大事なことはその主張は「社会批判」なのではなくて、社会のなかでの「自分の確かな位置を主張する」ものとしてあるということです。その主張が「死す」というような極端な形で突発的に現れるのが、かぶき的心情なのです。

こういう感情は時代を共有していない者にはなかなか理解・共感がしにくいものです。だから、彼らの「死す」という行為を、社会への反発・あるいは社会からの逃避としか捉えられない。だから、その芝居の感動の源泉を時代を超えた共通の感情である(と信ずるところの)・男女の愛・親子の情に求めないとどうにも安心できないということになるのです。そうした見方が間違いだというのでもありませんが、それは近代自我的・あるいは唯物史観的な切り口であって一面的であるように思います。そうした見方はある意味で時代に縛られていて、作品の本質を突くものとは言いがたいという気がしています。

そのために不肖「歌舞伎素人講釈」では、「状況において個人は自分が自分であることをどう貫くか・自分であり続けるためにどう行動すべきなのか」という視点で作品を読むということを提唱しております。こうすることで古典は時代・社会の制約を超えてその意義を主張できると考えています。このことは「歌舞伎素人講釈」をお読みの方にはご理解いただけているものと思います。

「曽根崎心中」をかぶき的心情で読むことは、別稿「色で導き情けで教え」で考察しましたので、そちらをご参照ください。ここでは、お初・徳兵衛の「死す」というイメージに絞って考えてみたいと思います。

2)赤穂浪士の切腹

大石内蔵助以下46名の赤穂浪士は、宿願の吉良上野介の首をあげた後、芝・泉岳寺の亡君・浅野内匠頭の墓前にその首を供えました。そこで亡君の墓前で全員が腹を切るという手もあったわけですが、内蔵助は吉田忠左衛門・富森助右衛門の両名を大目付・仙石伯耆守の屋敷へ派遣し、事の次第を幕府に報告させたのです。ここのところが内蔵助の真に凄いところだと思います。「俺たちをどう処分するか見せてみよ」と内蔵助は幕府に挑戦状を叩き付けたのです。

はたして赤穂浪士の処分をめぐって幕府は紛糾することになります。「徒党を組んで江戸城下を騒がせしこと・不届き千万」であり断固として斬罪にすべしとの議論もあり、「亡君の無念を晴らした・あっぱれ忠義の者たちよ」という賞賛の声もあり。大事なことは赤穂浪士の討ち入りが「御政道に対して異議を申し立てる行為」であったことが 誰の目にも明らかであるのに、これを断じれば武士の 徳目である「忠義」が否定されることになってしまう、その一方でこれを許せば「赤穂浪士の忠義」は立つが幕府の面目が立たなくなるというジレンマがあったからなのです。ここでは処分の議論の詳細には触れませんが、結局、幕府は赤穂浪士に「名誉ある武士の切腹」を申し付けることによってこの窮地を逃れ るのです。

先に書いた通り、赤穂浪士たちが討ち入り直後に亡君の墓前で切腹したとしても世間に対する・その衝撃度は計り知れないものがあったと思います。しかし、幕府が「切腹」の処分を下したことで赤穂義士の行為は極度に純粋化せられて・最高に美しいものになったと思います。この「切腹」の処分がなければ、赤穂浪士の討ち入り(「忠臣蔵」)は、これほどまでに日本人の心を捉えるものにはならなかったと断言していいと思います。しかも、その「切腹して死す」という運命を知って赤穂浪士たちの行動を改めて振り返ってみると、その行動は「悲しいほどに無私であって・ひたすらに純粋で美しい」ように感じられます。赤穂浪士の行為は「切腹」という裁断によって「高められた」のです。

細川家に預けられた17名の赤穂浪士たちの言動は「堀内伝右衛門筆記」に記録されています。それによれば富森助右衛門は伝右衛門に次のように語ったということです。

「拙者は、今後のことで斬罪を仰せ付けられるでしょう。どうか所柄(斬罪に処される場所)は良い所でと願っていましたが、いろいろな人の話や世上の評判を聞くと、もしや切腹というような結構なご沙汰が下るのではないか、その時は(細川家の)お屋敷で仰せ付けられるのではないかと期待するようになりました。万一そのようなことがございましたら、17名はそれぞれ宗旨も違うので、寺の坊主や親類などが死骸を拝領したいというような願いもあるかもしれませんが、絶対にお渡しにならないで下さい。泉岳寺のなかの空き地に、17名とともに一穴にお埋め下さるよう、いずれも願っております。この段、お聞き置きください。」

これを見ますと「自分たちは斬罪に処されても仕方ない(討ち入りはそれに値する罪である)」と助右衛門は感じていたということでしょう。もし赤穂浪士たちに「切腹」ではなくて・「斬罪」の処分が下されていたとすれば、「忠臣蔵」はまったく違う様相を呈していたかも知れません。赤穂浪士は世間の同情を受けて、怨霊のシンボルに祭り上げられて、それこそ明確な形で赤穂浪士は「御霊神」にされていたかも知れません。その点で彼らに「切腹」のご沙汰を下した江戸幕府の判断は正しかったのです。赤穂浪士の「忠義」を讃え・しかも幕府の権威は傷つかなかった・損をしたのは吉良方だけ、まったく幕府はうまくやったのです。

3)町人にとっての「忠」

「心中」という言葉は、その字形から分かる通り、武士が武士たる最高徳目である「忠」の字を分解して上下転倒させたものだと言われています。これは単なるこじつけのように見えますが、そうではありません。享保7年(1722) ・続いて翌年にも幕府は心中禁止令を出しましたが、その条文のなかで「心中」という言葉自体を不当なものとして代わりに「相対死」という言葉を用いています。

享保年間には、それまで大坂周辺で続発していた心中は江戸へも飛び火して流行のようになっていました。八代将軍・徳川吉宗は「忠」を連想させる心中を「もってのほか不届きの言葉なり」と激怒して、心中した者は「人にあらざる所行」・「畜生同断の者なれば」・「死切候者は野外に捨べし、しかも下帯を解かせ丸裸にて捨てる。これ畜生の仕置なりと御定被遊ける」(『名君享保録』)と言ったとも伝えられています。

それほどまでに幕府は「心中」という字面自体を憎んだのです。そして、心中に対して「相対死」という言葉を当てて、そのロマンチックな甘美な響きを消し去ろうとしたのです。これは、武士にとっての「忠」に対して・町人にとっての「忠」が「心中」であると解されていたからであろうと思います。これが幕府にとっては我慢ならなかったのです。

武士にとっての「忠」とは、封建武士の主君に対するものでありました。それでは町人の「忠」とは何に対する「忠」なのでしょうか。「心中天網島」では、「不心中か心中か」とか「あの不心中者なんの死のう」 ・「小春殿に不心中芥子程なけれど」などという詞が出て来ます。このような用語法は誠実あるいは不誠実というに近いものです。つまり、大坂町人にとっての「忠・心中」とは人と人(あるいは社会)に対するものであったと考えられます。これだけで割り切れれば簡単なのですが、ややこしいのは武士にとっての「忠」にも・町人に対する「忠・心中」のいずれの場合にも、その精神の底流に時代気質たる「かぶき的心情」があるからなのです。

お初・徳兵衛の心中を、彼らは愛に対して忠実であった・あるいは自分の心に対して忠実であったと解することもできるかも知れません。ほとんどの「近松世話物・心中論」がそういう視点でなされています。心中は、義理と人情の葛藤のなかで起きるというのです。義理つまり社会の掟は人情つまり男女の恋愛感情と相反し対立するものだからです。だから、自分の心の思うままに・男女の愛を貫こうと思えば彼らは死ぬしかないというわけです。こうなると、お初・徳兵衛は社会のしがらみに耐え切れずに ・いわば逃避的に死ぬわけです。これでは哀れな・悲しいお話かも知れませんが、しかし、「甘美」ではない。

お初・徳兵衛は死ぬことで、「ひたすらに美しく・ひたすらに純粋に」高められ、その死は甘美なものでなければなりません。そのためには、おのれの生き様を社会に誇示し「死んでみしょう」というメッセージがなければならないのです。それが「かぶき的心情」なのです。この時代の「忠」の底には、彼らの強い自己主張が潜んでいるのです。そのためには「死んでもかまわない」、その意味ではその行動に利害関係はなく・ただひたすらに無私なのです。天満屋の場において、縁の下に忍ぶ徳兵衛に向かって叫ぶようなお初の台詞を思い出してください。

『それはそれはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし・頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども・証拠なければ、理も立たず、この上は、徳様も死なねばならぬしななるが、死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず・いつまでも生きていても同じこと・死んで恥をすすがいでは。』

大坂の商売の世界の意地にかける徳兵衛と・この男を愛した私(お初)がここに死んでみしょうというのが「曽根崎心中」のメッセージなのです。これこそが「かぶき的心情」の奥底から発せられた叫びであり、だからこそ大坂町人たちの心を揺り動かしたのです。これは「亡君の無念を晴らし ・忠義の心を貫いた真の武士がここに腹を切るぞ」という赤穂義士の切腹のメッセージとまったく同じなのです。(幕府はそのかぶき的心情の奥底に社会構造を突き崩すものが潜んでいると看破した、だから幕府は心中を 危険視して禁止したのです。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

心中の方法にもいろいろあって、たとえば紙屋冶兵衛は首をくくって死にますけれども、近松門左衛門の最初の世話物浄瑠璃である「曽根崎心中」でのお初・徳兵衛は刃物で死にます。このことも重要なことに思えます。曽根崎の森での心中の場面での描写を見てみましょう。

『いとし、かはいと締めて寝し・肌に刃が当てられうかと・眼もくらみ、手も震ひ、突くとはすれど、切先は・あなたへはずれ・こなたへそれ・二、三度ひらめく剣の刃・・』

この場面について映画監督・篠田正浩氏は「刀の使いようを知らぬ町人を凝視する武士だった男(近松門左衛門)の非情さを見逃すわけにはいかない」と書いています。なるほど映画監督らしい鋭い観察ですね。実際にその場に及んで、彼らはその「死」というものにたじろがざるを得ないのです。刀とは彼らにとって「死」そのものなのです。

しかし、これはこのようにも解釈できましょう。たとえ刀の使い方を知らなくても・お初・徳兵衛は「武士のように」死にたかったのではないのか、つい先日・2月4日に切腹した・あの赤穂義士のように「美しく・純粋に高められて」死にたかったのではないか、それが町人にとっての「忠」であるからには。 吉之助にはそのように思われるのです。

(H15・4・13)

(参考文献)

曽根崎心中・冥途の飛脚 他五篇 (岩波文庫)

新編日本古典文学全集 (75) 近松門左衛門集 (2)

河原宏:「江戸」の精神史―美と志の心身関係「(ぺりかん社)

篠田正浩:「近松が聞いた阿鼻叫喚」(小学館・日本古典文学全集月報46)

(追記)

歌舞伎の雑談「お初・徳兵衛のかぶき的心情」もご覧下さい。

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