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源蔵の「寺子屋」

〜「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

本編は昭和五十八年一月歌舞伎座で「寺子屋」を見た時のノートを再構成したものです。


1)源蔵の「寺子屋」

昭和五十八年一月歌舞伎座の「寺子屋」は、近年上演された「寺子屋」のなかでも出色の出来だと改めて思います。その理由ですが、中村富十郎の武部源蔵の好演に尽きます。「寺子屋」の感動を深くするのも浅くするのも実は源蔵の演技にかかっているのです。このことを富十郎ほど明快に示してみせた源蔵はこれまで見たことがないと思いました。

そう書くと「寺子屋の主人公は松王のはずだ。源蔵に芝居の出来を左右するほどの決定権があるはずはない」と思う人がいるかも知れません。なるほど「寺子屋」の主人公は確かに松王なのです。観客は、松王が主人のために我が子を身代わりにするという悲劇に涙するのです。しかしその成果は、松王が舞台に登場する前に源蔵が舞台の緊張をどれだけ盛り上げるかにかかっているのです。このことが分からないと「寺子屋」の感動の意味がまったく違ってしまうと思います。

ある役者が源蔵という役について、「松王のために苦労して雰囲気作りをしたあげくに、受けるところは松王にすべてさらわれてしまう、源蔵は損な役だ」というのを聞いたことがあります。とんでもないことです。初代中村鴈治郎は大変な目立ちたがり屋で、いい役は何でも独占したがるところがありました。その鴈治郎が「寺子屋」に限っては源蔵を好んで演じたという、意外なような事実があります。やはり鴈治郎は名優独特の嗅覚で、源蔵は松王よりはるかに演じがいのある役だということを感じとったに違いないのです。

はっきり言えば松王が観客に受けるのは作品がそのように書かれているのだから当たり前なのです。しかし源蔵で観客をうならせるのには実力が要ります。それだけでなく源蔵の演技次第で松王の悲劇の意味が変わってしまうとすれば、これほど渋い演じがいのある役も少ないのではないでしょうか。「寺子屋」という芝居の隠し味とでも言うべき源蔵の役作りを楽しむというのは、名優だけに許される楽しみなのかも知れません。

それでは富十郎の源蔵のどこがいいのでしょうか。それは源蔵の性根が「何としても若君菅秀才を守らねばならない」という所ではっきりと決まっているからです。そんなことは当然だと思われるかも知れません。確かに誰が源蔵を演じてもその性根は御主人大事というところにあって、その点では問題はないのです。しかしその決心がどの程度に固いかという点において、富十郎の源蔵は他の源蔵役者よりはるかに説得力があるのです。他の源蔵の場合、その決心があいまいで、いざとなると若君を捨てて逃げ出しかねないようにさえ見えます。それは現代人である役者自身が源蔵の行動に何となく疑いを持っているからかも知れません。

なるほど丸本を見ても源蔵に決心の固さについてははっきりしない感じがします。例えば有名な「せまじきものは宮仕え」という科白についても、源蔵の真意はどこにあるのか明確ではありません。何のかかわりものない子供を身替わりに殺さねばならないという罪の意識に源蔵がさいなまれているのは確かです。またそうした非人間的行為を自分に強制するものが封建社会の論理であるということも、源蔵にははっきり意識されています。

問題は、それが単なる一時的な感傷に過ぎず御主人のためには鬼のような行為も許されるという考えがついに源蔵の心を支配するに至ったのだろうか、という点にあるのです。なぜなら、源蔵は彼がどれほど思い悩んだかはともかくとして、最終的には小太郎を斬ってしまったからなのです。

表面的に判断すれば、源蔵も封建社会に生きる人間であってそのなかで生きていく以上は非人間的行為も仕方がないという結論になりかねません。もちろん源蔵は主筋である菅秀才を捨てて逃げるわけにはいきません。誰かを身替わりに立てなければならないのです。しかし身替わりが封建社会にとっては許される行為ならば、松王が我が子を身替わりに差し出した行為は悲劇ではなくて封建美談になってしまうのではないでしょうか。

確かに「寺子屋」が封建美談として演じられる時代もありました。ついこの前の太平洋戦争終結までそうだったのです。しかしそんなところに丸本作者の真意はないのですから、我々は本来の姿の「寺子屋」を持つべきであると思います。

2)源蔵の覚悟について

例えば「陣屋」の熊谷直実のように我が子を身替わりに斬るというのならば、自分の罪を自らの苦しみ・悲しみによって償うことができるかも知れません。現に熊谷は我が子小次郎を身替わりに立てたあと、出家を決意するのです。

しかし源蔵の場合は小太郎はまったく他人の子供です。斬った時点では小太郎が松王によって送り込まれた覚悟の身替わりだということを源蔵は知らないのです。源蔵が刀を振り上げた時に子供を失った親の嘆きを考えなかったのか、という疑問が当然沸いてきます。源蔵はあとで「若君菅秀才の御身替わりというと(小太郎は)いさぎよく首差し出して、にっこりと笑うて」と言っていて、これは本人納得した上での身替わりだと言っている訳ですが、だからと言って人間ひとり殺したことには変わりありません。しかも源蔵は「ことによったら母もろとも」などと、若君のためなら連続殺人をも辞さない勢いで、現に小太郎の母千代にも斬りかかっているのです。

それにもかかわらず松王夫婦の告白によってすべてが明らかになった後も、源蔵は夫婦に向かって「すまない」とか「かたじけない」とかいう科白を吐いていません。それではあの「せまじきものは宮仕え」という科白を、源蔵はいったいどういうつもりで言ったのか、ということが源蔵の性根を考えるうえでの問題になってくるはずです。こういうことなので折口信夫のように「義理と忠義をふりたててはいるが、源蔵は根本的に無反省で許し難い人物である」(「手習鑑雑談」)という人も出てくるわけです。

折口信夫全集 第18巻 芸能史篇 2 (「手習鑑雑談」所収)

そもそもこの源蔵という男は身替わりがばれてしまった時に、若君もろとも討ち死する覚悟ができているのでしょうか。たとえば「弁慶上使」という芝居は、卿の君の身替わりとして信夫(しのぶ)という娘が殺される悲劇です。この信夫の父が実は上使として館へ赴いた弁慶であったというのがこの芝居の趣向なのですが、それはともかく、卿の君の乳人侍従太郎は「信夫の首に我が首を添えて差し出せば鎌倉殿の目もごまかされるだろう」と言って自害して果てるのです。このくらいの覚悟が源蔵にはあるのでしょうか。

どうも今まで見てきた源蔵役者はその覚悟が弱い感じがあります。これでは玄蕃に「日頃は忠義忠義と口では言えど、うぬが体に火がつけば、主の首をも打つじゃまで、さてこそ命は惜しいものじゃなァ」と言われても、なるほど二の句がつげぬわけです。「いろいろ悩んだけれども、偽首はバレずにすんだし、殺した子供の親も許してくれたし、うまくいってよかったヨカッタ。」というのでは芝居になりません。この辺を昔の役者も気になったと見えて、だからこそ「せまじきものは宮仕え」という科白を「お宮仕えはここじゃわヤイ」という科白に代えて、鬼の心になっても若君を守り抜こうという決意を示そうとしたのでしょう。

これにたいして富十郎の源蔵は、「もし偽首が見破られた時にはその場で松王を斬り玄蕃を刺し自らも若君と共に自害して果てん」という覚悟が出来ている源蔵なのです。それは科白まわしにはっきりと現れています。たとえば「訴人あって明白」、「そこがいちかばちか」というような科白において、富十郎は息を詰めた語調の明確な言い方をしています。これが義太夫の調子です。富十郎は要所に義太夫の技法を取り入れることで単刀直入に劇の核心に迫っていきます。

「寺子屋」は義太夫狂言ですからこの言い回しが当然のはずですが、いまの歌舞伎では間延びしてしまって義太夫本来のリズム感を喪失しているのです。「明白」を「メ・イ・ハ・ク」と詰めて言われると、源蔵がたった今まで受けていた詮議ののっぴきならない雰囲気が伝わってくるようです。また「イチカッ、バチカッ」と斬るように鋭く言われれば、源蔵の悲壮な覚悟を痛いほどに感じることができるでしょう。首桶をかかえた源蔵が奥へ入らんとして二重に片足をかけて、三味線の音をきっかけにしてグッと戸浪を振り返ってきまる、それだけの動作が三味線に合うのと会わないのとでは印象がまるで違ってしまいます。義太夫狂言とはそうしたものです。

もうこの場に及んでは身替わりがどうのと言っていられない、鬼になってあの子を身替わりにするしかない、という追い込まれた状況が観客に伝わってこなければ嘘になってしまいます。富十郎の演技は義太夫のテンポに乗って簡潔そのもの、動きにまったく無駄がありません。松王が首実験している間も、富十郎の源蔵はぐっと息を詰めて松王を見守り、いざとなれば斬りかかるつもりでいます。源蔵に覚悟ができていると、これほどまでに舞台に緊張感が漂うものかと改めて思いました。もちろんこれには宗十郎の戸浪の受けの演技のうまさも一役買っていることも付け加えなければなりません。

もうひとつ富十郎の源蔵の良い点は、普通の源蔵役者だと「源蔵戻り」では深刻そうな顔をしているものの小太郎の顔を見た途端に「テさてそなたはマよい子じゃのう」でそれまでの暗い雰囲気どこへやら喜色満面になるのが多いのですが、富十郎の源蔵は顔は笑っていても目は笑っていないのです。運命は決まった、この子が身替わりだと感じた時に人は喜色満面になれるものではないのです。

3)源蔵夫婦の並列的位置

こうした源蔵が苦悩したあげくに漏らすからこそ「せまじきものは宮仕え」という科白はまことに重い意味を持ってくるのです。この科白は罪もない子供を身替わりに殺すなんて残酷だ、かわいそうだというような、単なるセンチメンタル・ヒューマニズムから出たものでは決してありません。

封建社会においては、何よりもまず家の存続が第一に行動することが要求されます。家を守るためには、その家の当主が無能であればその家督を取り上げることさえ辞さない、というような厳しさがあります。お家のため、ご主人のためという大義名分のために、どれほど多くの人々が死を選んだことでしょうか。同じ「菅原」の三段目「賀の祝」でも桜丸が菅公失脚の原因を作りその再興がならなかったことの責任をとって死を選んでいます。

このように封建社会においては家あっての人であって、根本的に自由な人間はあり得ないのです。「せまじきものは宮仕え」という科白はそのような非人間的行為を強制しようとする社会に向けられた批判として理解されなければなりません。そしてそのような批判はただの空論ではなくて、源蔵が身替わりをどうしても立てなければならないという状況に追い込まれて初めて、その苦悩のなかからつかんだ批判であるからこそ意味を持つのです。

したがって「若君にはかえられぬ」、「ことによったら母もろとも」というような科白も、封建精神にどっぷりとつかった御主人大事の科白ではあり得ません。それらは人間としてあるまじき行為をするのだという恐れをもって発せられなければなりません。「報いはこちが火が車」、「追付けまわってきませう」という源蔵夫婦の科白は迫りくる運命への恐怖の叫びなのです。そしてこのことは、源蔵夫婦がこの「寺子屋」のもう一組の悲劇の主人公であることを示しているのです。

よく考えますと小太郎は「弟子子といへばわが子も同然」という関係によって源蔵夫婦と結ばれており、血のつながった松王夫婦とは、劇の構成から見て並列的に提示されるべき存在なのです。だからこそ松王夫婦が自分たちの心情を吐露しに源蔵夫婦の家にふたたび赴くことが不自然でもなんでもないのです。

「菅原」の作者は観客をアッと驚かせ次にしこたま泣かせようと、劇作上の無理を承知で松王夫婦を源蔵夫婦の家に行かせたのだ、こういうのは義太夫作者の常套手段だという人が少なくないようです。しかしそういう人は読みが浅いのです。松王夫婦の悲しみを理解し共有できるのは源蔵夫婦以外にはあり得ないのです。源蔵がこの場において松王夫婦に改まって詫びを言ったりしないのもそう考えれば理解できると思います。

4)現代における「寺子屋」の意味

それでは基本的人権の保証された現代において「寺子屋」の主題はどう理解されるべきなのでしょうか。自分たちの周囲を見回しても、今でも義理や世間体やらの問題で自分がしたいことが出来ずに思い悩むということはよくあることです。人間はひとりだけで生きていくことはできません。個人と集団、個人と社会という関係がある限り人間は完全な意味で自由というわけにいかないのは明らかです。そう考えれば「寺子屋」の主題も決して時代遅れではありません。「個人と状況」とい、時代を超越した普遍的な問題をわれわれに投げかけていると言えます。

親子の愛・男女の情愛だけが時代を超えた普遍的なテーマだと思っていたら大間違いです。最近の歌舞伎が生ぬるい感じがするのは何故かというと、たとえばこの「寺子屋」でいうと、主人のための身替わり、封建主義批判なんて主題では現代の観客を納得させることはできないと役者が勝手に決め込んでいるからです。そして松王が死んだ息子のことを想って男泣きするシーンなら時代を越えた親子の情愛で現代の観客を感動させられると思い込んでいるのでそこばかりを車輪にやる、ということになります。そんなことなので松王の悲劇に陰影がつかず、悲しみは上すべりして実体を持たないことになってしまいます。そんな「寺子屋」は湿っぽいばかりで面白いはずがありません。観客が松王にもらい泣きするのでなく心底同情して泣くためには、観客はその悲劇の意味を知らなくてはなりません。

ここは誤解されていると思いますが、松王は自分の子供が死んだことだけを泣いているわけのではないのです。小太郎は松王が納得して身替わりに送り込んだのですから。それでは何に対して松王は泣くのでしょうか。愛する子供を身替わりに立てなければならない親としての自分の運命、幼くして死なねばならない息子の運命、さらに功なくして自害して果てた桜丸の運命、それらが一度に迫ってきて松王は男泣きするのです。

「せがれがことを思うにつけ、(桜丸が)思い出さるる、思い出さるる」と言って松王が泣くのは、松王が息子の死を源蔵の前で泣くのがはばかられるので桜丸にかこつけて泣いているのだと言う人がいますが、とんでもないことです。松王は桜丸が心底かわいそうだと思って泣いているのです。その松王の心にこのようなつまらない解釈しかできないとは悲しいことだと思います。

ともあれこの松王の大落しにおいて「寺子屋」の悲劇はクライマックスを迎えます。この悲劇を明確にするのは、「寺子屋」の前半において、状況が個人に強制する非人間的側面をいやというほど観客に見せつけなければなりません。その役目を果すのが源蔵であり、源蔵の演技如何で「寺子屋」の意味が変わってしまうというのもこの点にあるのです。

菅原伝授手習鑑 (岩波文庫)

菅原伝授手習鑑 (歌舞伎オン・ステージ)

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