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四代目小団次の発想〜黙阿弥の「忍ぶの惣太」台本修正事件

〜「都鳥廓白浪・忍ぶの惣太」


1)小団次との出会い

嘉永7年(1854)3月・河原崎座において、黙阿弥は四代目小団次のために「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ・通称「忍ぶの惣太」)」を書下ろしました。これはかつて四代目歌右衛門が演じて好評だった「桜清水清玄」(天保元年・1830・三代目勝俵蔵)をもとにして黙阿弥が書き直した作品です。この「都鳥廓白浪」を皮切りにして、慶応2年(1866)の「鋳掛け松」までの黙阿弥・小団次の約13年間の提携が始まるのですが、しかし、二人の出会いはすんなり始まったわけではありませんでした。

「都鳥廓白浪」興行に先立つ「本読み」が終った後、座元・河原崎権之助(注:九代目団十郎の養父であった)は、小団次の様子が何だか変なのに気が付きます。どことなく気が進まないような感じです。そこで権之助は、作者の黙阿弥(当時は新七)を小団次の元に様子を聞きに行かせます。そこで小団次が言うには、「私も役についてあれこれ言うつもりはないが、しかし先ず考えてみてください。高い給金を出してこの小団次をお抱えなすって明盲(そこい)で子役を殺すだけの役をお見立てなすったのはどういう御了見か。なるほど書下ろしの歌右衛門さんは名人だからそれでもお客は来ましたろうが、ご存知の通り柄がない・男前も口跡もない私にその真似はできません。この小団次の体にはまるようにして下さるか、さもなくばご辞退申そうかと思います。」というのです。

いかにも役者の世界によくありそうな、婉曲でネチネチとした言い回しです。それなら本読みの時に言えばいいのに座割りも決めた後で言うとは「意地の悪い奴だ」と思うが、大金を出した役者に気の乗らない演技をされても困る、「仕方ない、どうにか工夫して納めてくれ」と権之助に頼まれて、黙阿弥は家に戻って徹夜して工夫をして書き直します。翌朝、小団次宅に台本を持参して見せると、小団次は一転してご機嫌で、「よく直りました。これなら私にも出来ましょう。どうも昨日は我儘を言って」と黙阿弥をねぎらったと言います。

この話は河竹繁俊の「河竹黙阿弥」にある有名な話ですが、これには異説があって、黙阿弥の台本の書き直しはどうやら一晩だけでは終らなかったらしい、という話もあります。それによれば、小団次は何度も書き直しを要求し、「幾度やっても同じだから」という膠着状態がつづき、ついに黙阿弥も「どういう風に書いたらいいのか、ご注文を願います」と声を荒らげたようです。すると小団次は「冗談言っちゃあいけません。私に巧い工夫の付くものなら作者は要らないはずだ」と悪態をついた、と言います。黙阿弥は「『いけねえ奴だ』と思い、実に悔しかった」と後年、笑って初代左団次によくこの話をしたそうです。(注:初代左団次は小団次の養子でした。)

この話もいかにもありそうな話に思います。座頭級の役者が狂言作者に不満を言う、どこをどうしろという注文を付けるわけではない、作者はあれやこれやと考えて書き直す。また役者がダメを出す。作者はこれならドウだ、と書き直す。こういう果てしないやり取りのなかで、作者はやがて役者の個性にはめて芝居を書くコツを身につけていくということが実際にあります。

これは恐らくは小団次が黙阿弥の才能を認めて、その腕を試してやろうということだったのかも知れません。黙阿弥の方も、ライバルの瀬川如皐が既に「切られ与三」や「佐倉義民伝」を書いて人気で先行されていて、一度は両国橋から身を投げようとしていたくらいに追い詰められていたので、必死の思いで小団次に喰らいついていったのでしょう。こうして黙阿弥は小団次に育てられていったということなのです。「『いけねえ奴だ』と思い、実に悔しかった」と黙阿弥が笑ってそれを言ったならば、後年の黙阿弥は小団次との日々を懐かしく・感謝を込めて・それを思い出していたのかも知れません。

2)小団次の写実・黙阿弥の写実

黙阿弥が「都鳥廓白浪」台本のどこをどう直したのかというのは興味があるところです。細かく訂正の貼り紙・書き入れの入った台本が河竹家に残っていたそうですが、残念なことに関東大震災で焼失してしまったそうで今は確認することはできません。しかし、かなり大きな修正が、序幕「長命寺堤・梅若殺しの場」において竹本を入れたことと、割り科白にしたことの2点であった、というのは間違いないようです。

「長命寺堤の場」では、忍ぶの惣太(小団次)は鳥目を患っており、隅田川堤で急病に苦しむ梅若丸を自分の主君と気付かないまま介抱し、懐中の金に手が触れてしまいます。惣太は主人のためにその金が欲しいと思い、貸してくれ・貸さぬと争ううちに梅若を誤って殺してしまいます。

小団次の要望で修正した「長命寺堤の場」は、初日があくと大評判でした。評判記「花くらべ」によれば、「梅若殺しのあのよさ、終始そこいの思入にて梅若丸の懐から金取り出し、さぐって見てコレこの包みは、ナニ金だ、ハテある所にやァあるものだなァとぞっとする仕打(演技)。それより梅若を殺しびっくりしたる意味合愁嘆、たっぷりあって、骨を惜しまぬ風情・・・」と絶賛されています。

さて「花くらべ」で褒められているその場面ですが、現行台本では次のようになっています。

『(梅若)「あいたた・・」(惣太)「おお、また痛むか、ドレちょっと胸を押してやりましょう」(竹本)胸くつろげて差し入るる、手先にさわる金包み、(惣)「これ旅の子、この包みはなんじゃ」(梅)「アイこりゃ金でござりまする」(惣)「ナニ金だえ」(梅)「アイ」(ト合方にあり)(惣)「ええ、アノこれが(ト思い入れあって)アアある所にはあるものじゃな(ト合方)まだまあ年端も行かぬ者が。大枚の二包み、持たすというがあるものか、危ないことじゃなあ(トこのうち介抱しながら)イヤどうじゃ、少しは良くなったか」』

会話自体はごく自然のものですが、そこに竹本や合方をうまく挿入して、それに思い入れの演技を合わせています。そうすることで、本来なら無言の気配で知らせなければならないものを、 竹本の言葉と音楽で直接的に観客に伝えていきます。

竹本がなければ、惣太は梅若の金包みに触れて、オッという表情をしてその重さを確認し、アリヤこれは何だ、というようにびっくりして首を傾げるような仕草でもしなければ、遠くの観客には何をしているのか・考えているのか分からないでしょうが、竹本の説明のお陰でそれが簡単に分かります。その分、役者は大げさな演技をしないで、省いた演技ができるということです。竹本があるのとないのと、どちらが写実(リアル)な演技でありましょうか。

惣太は主人のために金を用立てようとしていますが、じつは今宵がその期限。「ナニ金だえ」・「アイ」の会話の後に来る合方によって、惣太の表情のなかに浮かぶものが音楽で表現されます。合方がなかったとしたら惣太は、もしこの金包みを使えれば・アいやいやそれはならぬ、などと思い入れでもしなければならなくなります。合方があるお陰で、惣太はふっと遠くを見てちょっと愁いの表情を見せるだけでこと足りるでしょう。合方があるのとないのと、どちらが写実(リアル)な演技でありましょうか。

竹本や合方の使用によって、黙阿弥の芝居は写実から離れ、情緒的表現に傾いていく、という言い方がよくされます。しかし、本当はそれは逆なのです。音楽は効果的に使われれば役の感情を増幅させ・情緒を濃厚にして・さらに具体的にする役目を果たすものなのです。論より証拠には、映画で背景音楽がなければどれだけ画面が詰まらないものになるか、音を消してご覧になれば良く分かると思います。

つまり、小団次・黙阿弥が目指しているものは「写実(リアル)」である、ということなのです。恐らく小団次は、糸に乗らず(三味線の作るリズムに合わせず)仕草を最小限に抑えた演技を心掛けたのであろう、と想像します。

3)「俳諧之連歌」の技法

さらに病気が治まって花道を行きかける梅若丸と・本舞台の惣太がやりとりする割り科白を見てみたいと思います。

『(梅若)「これにつけても兄上が、おいでなされたことならば、この身の便りになろうもの」(惣太)「お別れ申したその時は、まだ御幼少の若君さま」(梅)「家出なされてお行方知れず」(惣)「今は謀反の片割れにて」(梅)「人相書にて厳しい詮議」(惣)「御身に凶事のないようにと、思うにつけて吉原で、ふっと逢ったる花子が面差し、松若様に生き写し、もしもの時はお身替りと、通うに連れてこの眼病」(梅)「この身世にあるその時は」(惣)「雨の降る夜も雪の夜も」(梅)「乳母やめのとに侍(かし)ずかれ、襖の風さえ厭いしに」(惣)「忍んで通えば仇名さえ、忍ぶの惣太とうたわれて」(梅)「宿りに迷う身のはかなさ」(惣)「忍びがたきは金の切羽」(梅)「神や仏のお助けあらば」(惣)「なくて叶わなぬ大事の宝」(梅)「頼みに思う家来の在所」(惣)「どうぞこちらへ求めるよう」(梅)「今宵に迫る」(惣)「身の難儀、はてどうしたら」(両人)「よかろうなあ」』

この割り科白も黙阿弥が修正を入れた箇所とされています。これは私の勝手な推測ですが、もともとは惣太の独白であったように思われます。惣太の科白だけつなげば、大体その意味が通って見えるからです。梅若の科白だとそうはならないようです。「お別れ申したその時は、まだ御幼少の若君さま。今は謀反の片割れにて。御身に凶事のないようにと、思うにつけて吉原で、ふっと逢ったる花子が面差し、松若様に生き写し。もしもの時はお身替りと、通うに連れてこの眼病。雨の降る夜も雪の夜も、忍んで通えば仇名さえ、忍ぶの惣太とうたわれて。忍びがたきは金の切羽。忍びがたきは金の切羽、どうぞこちらへ求めるよう、身の難儀、はてどうしたらよかろうなあ。」黙阿弥は惣太の科白を分割して、その間に梅若の科白を対応する形で挿入していったのではないかと推測するのです。

梅若と惣太の割り科白を順を追って見ていきましょう。

○(梅若)「これにつけても兄上が、おいでなされたことならば、この身の便りになろうもの」(惣太)「お別れ申したその時は、まだ御幼少の若君さま」(梅)「家出なされてお行方知れず」(惣)「今は謀反の片割れにて」(梅)「人相書にて厳しい詮議」

ここまでは、二人とも同じ人物のことを想ってしゃべっています。すなわち、梅若にとっては兄・惣太にとっては主人である松若のことです。したがって、二人の科白は照応しており、別視点ではありますが、松若の置かれている状況が観客に見えてきます。

○(惣)「御身に凶事のないようにと、思うにつけて吉原で、ふっと逢ったる花子が面差し、松若様に生き写し、もしもの時はお身替りと、通うに連れてこの眼病」

ここで科白が転調します。惣太は松若に絡めて自分の身の上を語り出します。「花子が松若に生き写し」だというのは、この芝居の重要なポイント(つまり花子と松若は同一人物)なのですが、ここでは観客にちょっとほのめかすだけです。

○(梅)「この身世にあるその時は」(惣)「雨の降る夜も雪の夜も」(梅)「乳母やめのとに侍(かし)ずかれ、襖の風さえ厭いしに」(惣)「忍んで通えば仇名さえ、忍ぶの惣太とうたわれて」(梅)「宿りに迷う身のはかなさ」

さらに科白が転調し、二人の科白がずれはじめます。梅若は京都にありし日々の昔を語り、惣太は廓に通う日々の思い出を語ります。科白はすれ違いになっていきますが、しかし、「雨の降る夜も雪の夜も」は、「乳母やめのとに侍(かし)ずかれ」にも「忍んで通えば」にも掛かっているように観客には聞こえます。さらに、「宿りに迷う身のはかなさ」も梅若の身にも・惣太の身にも掛かるように観客には聞こえます。

○(惣)「忍ぶの惣太とうたわれて」(梅)「宿りに迷う身のはかなさ」(惣)「忍びがたきは金の切羽」

二人の科白は視点が完全にずれているのですが、ここでは「忍ぶの惣太」と「忍びがたき」は、「身のはかなさ」にそれぞれが掛かっています。「連歌の掛け言葉」とまでは言えないかも知れませんが、ここで科白は再び転調して、二人の置かれている状況へ戻っていきます。

○(惣)「なくて叶わぬお家の宝」(梅)「頼みに思う家来の在所」(惣)「どうぞこちらへ求めるよう」(梅)「今宵に迫る」(惣)「身の難儀、はてどうしたら」(両人)「よかろうなあ」

ここで梅若と惣太の科白が寄り添うと思えば・離れ、転調して・乱れるかに見えて・照応していく・その流れは、まことに見事で、「連歌会」のように音楽的ではないでしょうか。たしかに、黙阿弥はここで「俳諧之連歌」の技法を駆使しているのです。

それではこの割り科白は「写実」なのでありましょうか。ここでは梅若・惣太の置かれた「状況」だけが浮遊しています。時間が止まったような場面で、自然な会話でも独白でもありません。しかし、ここには確かに「人生」があるのではないでしょうか。この割り科白はたしかに音楽的な響きがあります。しかし、言葉はそれが内包するリズムと抑揚で発声された時には、写実であって・なおかつ歌になるものなのです。

「都鳥廓白浪」において黙阿弥が徹夜して工夫したという・竹本の挿入と割り科白、その手直しされた台本を見て、小団次は「よく直りました。これなら私にも出来ましょう」と言ったといいます。この時、小団次の試験に見事にパスしたということでしょう。それは黙阿弥が小団次の目指す「写実」の発想を理解していたからに他なりません。

(H14・6・23)

河竹登志夫:黙阿弥 (文春文庫)

永井啓夫:「四代市川小団次」(青蛙房)

(後記)

別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」「台詞はアクションである〜歌舞伎と連歌」も参考にして下さい。
 

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