(TOP)            (戻る)

「同時代化」の発想

〜南北を同時代化の発想で読む(1):「菊宴月白浪」


1)義士・定九郎

初代中村仲蔵が野暮ったい山賊姿の不義士・定九郎を当世風の浪人姿に代えて評判をとったのは明和3年(1766)9月のことでした。この時、鶴屋南北は12才。南北が芝居の世界に入ったのは意外と遅く22歳(安永5年:1776)頃のこととされていますので、南北がこの時の仲蔵の定九郎初演の舞台を見たかどうかは分かりませんが、その55年後に南北は定九郎を主人公にした「菊宴月白浪(きくのえんつきのしらなみ)」を書きました。ここでは定九郎は「不義士」どころか塩 冶家再興に心を砕く「大忠臣」であったという設定になっています。南北は「忠臣蔵」の設定をひっくり返して、見事なエンタテイメントに仕立て上げました。

「菊宴月白浪」は文政4年(1821)9月、江戸の河原崎座で初演されました。このとき南北は67歳。文政5年刊「役者早(そくせき)料理」は合評会形式でこの「菊宴月白浪」を次のように評しています。

『(頭取)九月は菊宴月の白浪と申名題にて忠臣蔵の作り変え。盗賊暁星五郎、斧定九郎が塩冶もどきの腹切り (ヒイキ)いずれも大でき大でき、おもしろい事であったぞ (老人)五段目鉄砲場の気取りで、越後獅子が花道から駈け出て下座へ入ると、鉄砲の音がドンと鳴ると、後ろへ花火上がりて「玉や」という所、とんと五段目の茶番狂言じゃが、今少し正真の狂言らしう行ないたい物じゃ (頭取)さようではござれど、当時の人情にかなう事をうがちて、目先をはやく取るが作者の機転と申すもの。鶴屋南北丈、御出情の規模あらわれ、一年丸に当たりつづきましたは新作の大手柄。まずは大慶大慶』

ここでご老人が「今少し正真の狂言らしう行ないたい物じゃ」と言っているのは、「両国柳橋の段」において、雨が降って角兵衛獅子が定九郎とすれ違って走り去る、とたんに花火がドーンと鳴って「玉屋ァ」と声が掛かるという場面です。もちろんこれは「五段目・二つ玉」の趣向を借りているのでして、角兵衛獅子は猪・花火は鉄砲の見立てなのです。ご老人は「ちょっとおふざけが過ぎる」と批判しているのですが、この「菊宴月白浪」では、「斧閑居の段」では斧九太夫が蛸を下げて登場する(もちろん「七段目」のもじり)など、同様の趣向がいろいろ出てきます。

2)「同時代化」ということ

南北の「忠臣蔵」物の歌舞伎には4作品があります。「菊宴月白浪」(文政4年)を最初の作品として、「仮名手曽我当蓬莱(かなでそがねざしのふじかね)」(文政7年)と、それに直接的には忠臣蔵ではありませんがこれを背景にした作品として「東海道四谷怪談」(文政8年)、「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」(文政9年)の4作品です。これらの南北の「忠臣蔵」物の作品群は、まず初代仲蔵の定九郎があって、その流れの上に成立したものだと言えましょう。仲蔵の創出した定九郎の型は古典の「同時代化」の動きの発端となったものでした。

この「同時代化」というのは、例えば「ロミオとジュリエット」をニューヨークを舞台に移し変えるとか、「ハムレット」をジーパン姿の現代風俗で演じるといった発想と同じです。こうすることで、観客には芝居の登場人物が自分たちと同じ空気を呼吸しているように感じられ、その感情が生々しいものに感じられていくのです。あるいは「ロミオとジュリエット」で言えばキャプレット家とモンタギュー家の対立をニューヨークに住む肌の色の違う人々の感情のもつれに見立て・剣をピストルに持ち替えるとか、「ハムレット」で言えば「デンマークの国はどこか腐っている」というハムレットの科白を現代社会への若者の懐疑の気分に結び付け・「生きるべきか死ぬべきか」という科白が時代へのプロテストとして観客に突きつけられるというような形で、作品のテーマを現代に置き換えて、作者シェークスピアも予想もしなかったまったく新しい斬り口で作品を大胆に読み込んでいくという手法です。

じつはこうした「同時代化」の発想は西洋の現代演劇においては主流の考え方です。むしろ欧米の劇場では我々日本人が想像しているような中世風俗の「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」・いわゆる伝統的な舞台というものを見ることの方が少ないと思います。それどころか昔通りの舞台をそのまま演じているとするならば、「工夫がない・オリジナリティがない」と馬鹿にされてしまうくらいでしょう。

大事なことはこうした演出が「茶番」あるいは「作品への冒涜」だという風には決して受け取られていないということです。むしろそうした「解釈の斬新さ・新奇さ」を評価するということです。いや、正確に言えば「作品の冒涜だ」と言って怒り出す人もやはりいるにはいるのですが、おおかたの人々はそうした賛否両論を楽しみ、次の舞台ではどんな切り口(解釈)で作品を読むのかとワクワクして待っている、ということです。実に「高級な知的なお楽しみ」というべきですが、こうした「作品」というよりは「解釈」を楽しむという見方が成り立つのは、オリジナルたる・伝統的な基準(解釈)が厳然として存在しているからでもあります。

ところで、南北の「菊宴月白浪」にしても・あるいは「四谷怪談」にしても、『「忠臣蔵」のパロディである』という言い方が歌舞伎の解説書においてよくされています。「パロディ」という定義にもいろいろありましょう。しかし、一般的によく使われるのは「対象を茶化し、笑いのめすことで、暗に対象を批判する・否定する」という感じでしょうか。一般的に「パロディ」と言う時には、なんとなく対象から距離をちょっと置いた・無責任な軽い響きがなくはないでしょうか。こういう定義で「南北作品はパロディだ」と言うのならば、恐れながらその見方では南北作品の本質は半分しか分からないと申し上げたいと思います。

そこで、あえて本「歌舞伎素人講釈」では「南北作品はパロディではない」という視点で、「パロディ」とか「茶番」という言葉をわざと使わないことにしたいと思います。鶴屋南北は「仮名手本忠臣蔵」を同時代化の視点で大胆に読み直し、「菊宴月白浪」や「四谷怪談」と言った作品において新たな「忠臣蔵」の世界の斬り口を提示してみせたということなのです。南北の「同時代化」の試みは、古典をその時代に生き生きと蘇らせ、その時代の感性で読み直すという、これはまさに自己の責任を以って作品にのめり込んでいかないと出来ない仕事なのです。(「パロディ」という言葉は、本来はそういう視点で使われるべき言葉ではないでしょうか。)

3)「同時代化」発想の南北作品

浅野内匠頭の江戸城での刃傷が元禄14年(1701)・大石内蔵助の吉良邸討ち入りが翌年・元禄15年(1702)のことです。その47年後の延享5年(1748)が義士物の決定版というべき浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の竹本座での初演となります。それまでにも赤穂義士に取材した作品は多く作られましたが、「仮名手本忠臣蔵」は先行作を取り入れ、集大成したような形で成立したものです。それは赤穂義士の一連の事件を「忠臣蔵」という名前で総称させるほどに影響力の強いものでした。そして、これ以後にも義士物は作られましたが、それはすべて「忠臣蔵」を超えることはできず、「忠臣蔵」の周囲をなぞるような形でしか成立することができなくなくなってしまったのです。それほどに「仮名手本忠臣蔵」は偉大な作品なのです。しかし義士物ほどに強烈なテーマは滅多にありませんから、芝居を書く者にとって「忠臣蔵」に匹敵する義士物をいつか書いてみたいというのは「見果てぬ夢」であったことでしょう。

仲蔵の新解釈による定九郎の型が登場したのは明和3年(1766)のことです。すでに「忠臣蔵」は義士物の決定版としての定評を形成していました。そのなかで仲蔵は、野暮ったい山賊姿の不義士・定九郎を江戸の街にうろついている勘当された旗本の次男坊みたいな風体に変えてしまって大評判を得ました。「時代の写実(リアル)さ」が観客に実感され、芝居のなかでは端役に過ぎなかった定九郎の人生がまざまざと観客に見えてきたからに違いありません。主君の敵討ちという目的に向って悩み・苦しみながら懸命に生きている人間たちの姿が見えてきたからに違いありません。「忠臣蔵」の本質に時代の視点から新たな光を照らされた瞬間です。(これについては別稿「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」をご参照ください。)

その後、仲蔵の定九郎の型は五代目幸四郎・三代目菊五郎らによって次第に洗い上げられていって、今のような形に定着しました。(同じような「同時代化」の試みとして、「千本桜:鮨屋の場」での江戸前の権太などの例があります。)幸四郎・菊五郎はともに南北作品を論じる時にこれを抜きにして語ることはできない役者たちです。こうした「同時代化」の流れこそが南北の作劇術の根本になる考え方なのです。

「菊宴月白浪」での斧定九郎・あるいは「四谷怪談」の民谷伊右衛門の姿には、仲蔵の「五段目」の定九郎と同様の発想が生きています。これらの作品は義士物を自分なりの視点(同時代化の発想)で書いてみたいと思った南北なりの挑戦であったのではないでしょうか。そ のためには初代仲蔵の「同時代化」の試みからじつに55年の歳月が必要であったのです。55年の歳月の意味は、劇作家南北の成熟にそれだけの時間が必要であったとも言えるし、世の中にそれを受け止めるだけの成熟が必要であったとも言えるかも知れません。それだけの歳月を以って南北の「同時代化」は成ったのです。

南北は定九郎や伊右衛門のようないわゆる「不義士」を主人公に取り上げています。しかし、義士とか不義士などというのは後世の人のつけたレッテルに過ぎません。彼らは彼らなりに自分の思うままに・一生懸命に生きたということなのです。南北はそうした彼らの生き様をリアルに見つめ、そこに彼らなりのドラマを見出そうとします。それによって、芝居の骨格たる「忠臣蔵」の世界を新たな斬り口で書き換えようというのです。そして、こうした「高級な・知的なお遊び」は観客のなかにオリジナルたる「仮名手本忠臣蔵」が頭のなかにインプットされているからこそ成り立つのです。

南北の「忠臣蔵」物が「忠臣蔵」を茶化し・からかい・批判するものだと単純に決め付けてしまうと、この「同時代化」の発想が分からなくなってしまいます。もちろん南北作品には「茶番化」の要素が頻発しますが、これは南北の作劇の技巧・手法に過ぎないのです。「茶番化」が南北の本質である、と思ってしまうと間違ってしまうと思います。南北の茶番は「同時代化」の発想での健康的なユーモア精神のなかから出て来るものなのではないでしょうか。

(H14・3・17)

(後記)

「南北を同時代化の発想で読む」のシリーズは、1)「菊宴月白浪」(本稿)、2)「東海道四谷怪談」、3)「盟三五大切」の三本から成っています。

 

 (TOP)          (戻る)