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安徳天皇について考える

〜「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」


1)安徳天皇は女の子だった

壇ノ浦の戦いにおいて平家一門は海の藻屑となり、安徳天皇も二位の尼に抱かれて海に入水したというのは歴史的事実ですが、「渡海屋の場」においては、安徳天皇は渡海屋銀平(じつは平知盛)によって「お安」という娘に変装してかくまわれて生きていたことになっています。兄頼朝に追われる義経一行は渡海屋に逗留し、九州への出立を待っています。その逗留中に店先に寝ているお安を、弁慶がまたごうとして足がしびれてしまいます。後で分かりますが、弁慶は義経の指図によってわざとお安をまたいだのでした。天皇は「神に等しい存在」ですから、お安が安徳天皇ならば、その上をまたげば罰が当たって足がしびれるはずという訳です。他愛ないと思うかも知れませんが、当時としてはそれなりの理屈というべきでしょう。(この部分は歌舞伎ではカットされてあまり演じられませんが重要な場面です。)

これにより義経は知盛の計略を察知して、幽霊の姿で襲い掛かる知盛と平家の残党たちを待ち受けて逆にこれを打ち負かすのです。典侍の局はもはやこれまでと安徳天皇を抱いて海に身を投げようとしますが、寸前のところで義経に抱き留められます。最後まで奮戦する知盛は、安徳天皇の「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情け。今日また丸を助けしは義経が情けなれば仇に思うな、知盛」の言葉で、自分がこの世を去る時期を悟り、安徳天皇を義経に託して大物の浦に身を投げます。(この知盛の入水の意味については別稿「生きている知盛」で触れましたので、そちらをご参照ください。)

知盛は「父清盛の横暴が積もり積もって平家一門に報いたのか」と嘆くのですが、実はここで知盛は驚くべきことを言っています。安徳天皇は女の子であったというのです。「これと言うも父清盛、外威の望みあるによって、姫宮を御男宮と言いふらし、権威をもって御位につけ、天道をあざむき、天照太神に偽り申せしその悪逆、つもり積もって一門我子の身に報いたか」

清盛はかつての藤原氏のように娘を天皇に嫁がせ、天皇の外威になることで権力を保持しようと企んだのでした。高倉天皇にはまだ皇子はありませんでしたから、娘徳子が男の子を産めば、清盛はいずれ天皇のお祖父さんということになります。女の子であれば、高倉天皇にはすでに寵姫小督の生んだ内親王範子がいましたから、もし女帝を立てることになったとしても、これを差し置いて清盛の孫を皇位につけることは難しくなります。「小督」の話は「平家物語」のなかでも有名な話ですから、このことはまず見物の基礎知識のなかにあったことだと思います。「安徳天皇は女の子ではなかったか」という憶測は昔からあったそうですが、「義経千本桜」の作者が、ここで「安徳天皇を実は女の子だった」という設定したのは、これを男の子だと言いふらして自分の孫を強引に皇位につけようとした清盛の横暴をさらに印象付けようという意図であったと思います。

しかし平家の横暴は誰でも知っていて今更説明の必要もないことですし、「安徳天皇が女帝であった」という虚構をわざわざここで設定するまでもないと思ってしまいます。しかし、「安徳天皇が女帝であった」という設定に、それ以上の意味を、例えば「安徳天皇は偽帝である」とか「女帝を置くのは正統でない」とか、天皇制のあり方に対する疑問を「千本桜」の作者が込めようとしたとまではちょっと考えにくい 。そこまで深読みをする必要はないように吉之助は思います。

2)芝居における天皇の役割

渡海屋に身を隠している安徳天皇が女の子に変装していたという設定は、芝居の約束から見るとごく自然な発想のように思います。身分が高く見目麗しく神々しいお姿というものは大体女性的なイメージをとるものなので、子供ならば女の子の姿に自然に近くなっていくでしょう。だから、安徳天皇が市井に身を隠して「お安」と名乗るのには、 吉之助には何の不自然さも感じられません。「扇屋熊谷」では敦盛は娘姿に変装して身を隠していますが、これも同様の発想だと思います。

まず「渡海屋」で安徳天皇が娘お安として、典侍の局が女房お柳として、知盛の家族として暮らしていることについて考えてみたいと思います。こうして身分を偽って隠棲生活をつづけている家族がどうやって生活していたのか、芝居とはいえ興味あるところです。しかし、 吉之助が思うには、この家族は他人の目がある時には渡海屋銀平一家として表向きは振舞っていますが、人目がないときは安徳天皇以下宮中同様の生活をしていたに違いありません。「そんなこと現実的じゃない・それでどうやって生活していけるんだ」とお考えかもしれませんが、そんな風に真剣にお考えにならないように。これはしょせん絵空事、お芝居なのです。人目が無くなれば、渡海屋一家は「たちまち変わる御装い・・・」でそれぞれの身分を守りながら宮中同様に優雅に暮らしていると考えるべきだと思います。

だから「大物浦」で知盛が、安徳天皇に「仇に思うな」と声を掛けられ典侍の局が自害した時に「苦節を共にしてきた女房・子供に裏切られた」などという感慨を持ったなどとはとても 吉之助には考えられません。一緒に生活しているうちに、知盛が典侍の局に夫としての、安徳天皇に父としての情を持ったであろうなどとそんな恐れ多いことはとても考えられません。あくまでも安徳天皇と知盛との関係は天皇とその臣下であって、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

芝居における天皇の役割についても考えなければなりません。芝居での天皇というのは「無色透明なニュートラルな鏡のような存在」でして、もし天皇が「政治的」に見えるとすれば、それは周りにいて天皇を担ぎ上げる人間たちが私利私欲で動いているからそう見えているに過ぎないのです。「大物浦」で義経に抱かれた安徳天皇が知盛に「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情け。今日また丸を助けしは義経が情けなれば仇に思うな、知盛」と言 うのは、「自分を敬い守ってくれるこの人はいい人だ」と安徳天皇は言っているに過ぎません。

「仇に思うな、知盛」と言われて、知盛のなかで「安徳天皇=平家」の構図は崩れ去り、知盛の眼前に今まで横暴の限りを尽くしてきた平家の姿がまざまざと見えてきます。それが知盛を愕然とさせ、「つもり積もって一門我子の身に報いたか」という知盛の述懐につながってい きます。「大物浦」で、安徳天皇は幼いながらも知盛にそのことを示唆してみせたのです。安徳天皇はその「無色透明な鏡である天皇の役割」を見事に演じたと言えるでしょう。

そうであるならば、「安徳天皇が女帝であった」という設定に「千本桜」の作者が天皇制の根本に対する疑問を投げかけていると読むのは、やはり深読みしすぎだと言わざるを得ないのです。

3)「平家物語」に還っていく安徳天皇

壇ノ浦の戦いで安徳天皇は二位の尼に抱かれて海に入水したというのが「平家物語」の伝える歴史的事実です。生ける怨霊であった知盛がその怨みを捨てて海深く沈んでいったように、安徳天皇もまた「平家物語」の世界へ還って行かなければなりません。しかし、安徳天皇のようなお方には、知盛とは違う「還り方」というものがあります。知盛のように死ぬのではありません。元の名前と身分を捨てて、静かに歴史の一線から消え去っていく、そしてどこかでひっそりと平和に暮らしているという還り方です。安徳天皇はその名を捨てて、京都・大原(芝居のなかでは「小原」となっている)の寂光院に生活をする母徳子すなわち建礼門院の弟子として暮らすことにな ります。

四段目において横川覚範(じつは能登守教経)は川連館にかくまわれている義経を襲撃します。覚範がひと間に踏み込むと、そこに安徳天皇が座っているではありませんか。義経は安徳天皇を大物浦から吉野へ連れて来てここにかくまっていたのです。安徳天皇は次のように言います。

「日の本の主とは生るれども、天照神に背きしか、我治めしる、我国の我国人に悩まされ、我国狭き身の上にも、ただ母君が恋しいぞ。都にありしその時は富士の白雪吉野の春、見まくほしさと慕えども小原の里におわします母上恋しと慕う身は、花も吉野も何かせん。」

ここでの安徳天皇は素直に、はっとするほどに正直に子供らしいその心情を吐露しています。(ついでに言えば、その心情は「四の切」での源九郎狐の親を想う心情に呼応しているのです。)しかし、同時に感じるのは、どうやら安徳天皇はその役目を終えはじめているのだということです。安徳天皇は天皇の座を下りることで、つまり「神の座」から下りることで普通の子供になって、初めてその肉声を発し始めたということです。

五段目において義経は「安徳天皇を小原の里にてご出家とげ、御母君の御弟子とせん」と言います。安徳天皇は義経によって小原へ送り届けられ、そこでひっそりと親子一緒に、平和に暮らすのでしょう。歴史の舞台からは消え去ってしまいますが、小原の里には戦乱も政争いもありません。こうして安徳天皇は「平家物語」の世界に還っていくのです。これを聞いてなんだかほっとして救われたような気分になるのは 吉之助だけでしょうか。

ここで吉之助は「千本桜」の作者が安徳天皇を女の子とした理由に改めて思い至りました。安徳天皇は幼くしてその眼前に餓鬼道・修羅道の苦しみを見てしまいました。作者は、役目を終えた安徳天皇を普通の子供に還し、母親と一緒に暮らさせてやりたかったのに違いありません。尼寺に暮らす建礼門院の傍で一緒に暮らすにはもちろん女の子でなければなりません。だから作者は安徳天皇を女の子に設定したのではないでしょうか。そうだ、きっとそうに違いありません。

義経千本桜 (岩波文庫 黄 241-3)

義経千本桜 (歌舞伎オン・ステージ (21))
 

(H13・9・23)


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