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変容する「道成寺」伝説

〜「京鹿子娘道成寺」


1)「娘道成寺」のそら恐ろしさとは

最近は海外でも歌舞伎は評価が高いようですが、海外で歌舞伎を公演して一番受けない演目は何と「京鹿子娘道成寺」だそうです。女形舞踊の最高曲と言われている舞踊なのに、踊り手はこれまた最高の踊り手歌右衛門あるいは梅幸なのに、幕が開いてしばらくするとプログラムをパラパラめくり始めて、おしゃべりや居眠りが多くなるのだそうです。これはいったいどういうことかと言うと、どうやら事前の解説に問題があるようです。芝居の筋書を見ると(日本人向けでも同じですが)「道成寺の鐘供養の日にひとりの美しい白拍子が現れ、鐘を拝みたいと言う。踊って見せるからと言うので僧たちは白拍子を寺のなかへ入れるが、踊っているうちに白拍子は次第にその本性を現わし・・・」というような話が載っていますが、これがどうもいけないようなのです。

「この踊りは見たところ恐ろしげにも見えないし、この白拍子は衣装を変える度にどのくらい蛇の本性に近づいていくのか」と聞かれるのだそうです。なるほどこの踊りから「ドラマ」というか「流れ」を見出そうとするとそういう見方になるのか、と気付かされます。私らはこんなものは理屈で見るもんじゃない、と初めから思って見てるせいか、こういうことに余り気が付かないのです。

『「娘道成寺」という踊りは特に筋はなくて実は「レビュー」なのです、「女心」をテーマにした変奏曲(バリエーション)で、それに能「道成寺」の枠にはめて発端と幕切れをつけて形をつけた踊りに過ぎないのです』、そう説明した方が外人さんはこの踊りを安心して楽しめると思います。実際、この踊りは「クドキ」として有名な「恋の手習い」や、遊郭つくし・山尽くしなど、江戸時代の日常生活や風俗があちこちに詠みこまれていて、それが彩りを変えて次々と繰り出されるのが面白いのでして、それ自体は「道成寺」には関係ないものです。

「あの『道成寺』の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである。そういう理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさ、気味の悪い美しさを菊五郎の白拍子はふんだんに持っていた。菊五郎の『道成寺』を見ていてある老婦人が『こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい』という言葉のせっぱつまった実感は私にもうなづける。菊五郎の『道成寺』はそういうものであった。」(円地文子「京鹿子娘道成寺」)

この円地文子の文章での「菊五郎」とは六代目菊五郎のことです。おそらく昭和初期ごろの舞台のことと思われますが、この文章だけでも六代目の「道成寺」の面白さは彷彿としてくるようです。「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」と言わせた菊五郎の踊りは、恐らくリズミカルで躍動的で、そして満場をパッと明るくするような華やかさがあったのではないでしょうか。と同時に、このような馬鹿々々しさ、ただただ華やかな美しさこそが「娘道成寺」の本来の魅力であると思います。

2)あやめの「紀州日高郡出身説」の意味

「京鹿子娘道成寺」を初演したのは初代中村富十郎で、宝暦3年(1753)3月中村座「男伊達初買曽我」の三番目でのことでした。しかし「道成寺」物というのはそれまでも女形舞踊のレパートリーとしてあったわけで、「娘道成寺」の起源を辿ってみますと、まず初代芳沢あやめの演じた「道成寺」があり、これを二代目が受け継ぎ、さらに(初代あやめの三男である)初代富十郎に引き継がれて完成されたものと考えてよろしいようです。つまり「道成寺」ものは初代あやめが始祖だと考えられます。

ところで芳沢あやめは自らの出生について芸談「あやめぐさ」では道頓堀に育ったとしか言及していませんが、風説では芳沢あやめの紀州日高郡出身説というのがあるそうです。文政期に出版された「紀伊国名所図会」(ちなみにあやめは元禄期の人間で文政期というのはそれより百年ほど後になります)には、「あやめは紀州日高郡小原長滝村の農民の子であり、大坂出身説は間違いだ」とまで書いてあるそうです。あやめの出身については本稿の議論するところではありません。しかし、これが意図的に作文されたものであるとすると非常に興味深いと思うのは、女形芸術の伝説的存在と言うべき芳沢あやめを紀州日高郡の出身に仕立てたということは、歌舞伎の「道成寺」物の始祖としてあやめに何らかの「役割」を期待したとしか考えられないことです。

道成寺伝説は諸国を遊行して地獄絵の絵解きなどを行なう熊野比丘尼によって各地に広められました。やがて彼女らは絵解きから流浪する「歌比丘尼」へ、さらに都市で色をひさぐ職業へと変化していきましたが、文政期ごろにはほとんど姿が見られなくなっていたと言います。「あやめの紀州日高郡出身説」は、社会構造が変化していくなかで、「道成寺」伝説を流布していく役割が「放浪芸能」から「都市芸能」へ移ってきたことを明確に示すものです。

「あやめぐさ」によれば、あやめの保護者にして師でもあった橘屋五郎左衛門は能の達人であったといいます。しかしあやめがいくら懇願しても五郎左衛門は能を教えてくれませんでした。当時の式楽であった能役者は河原者と呼ばれた歌舞伎役者と交流することを禁じられていました。もっともそれは表向きのことで教えを乞おうとすれば方法はいくらでもあったようですが、あるいは五郎左衛門はそれを厳格に守ったということなのでしょうか。真相は分かりません。

しかし「娘道成寺」を見ますとやはりあやめは能を習わなかったということなのだと思います。そして能を習わなかったハンデを見事にはね返して、あやめは「道成寺」をいい意味で能の模倣ではない、完全に歌舞伎的なものに作り変えることに成功したと思います。なまじっか能をかじっていれば、歌舞伎の「道成寺」はもっとオリジナルにとらわれたものになってしまった でしょう。

「道成寺」伝説はそのなかに暗く蠢くような情念を本来秘めています。舞踊「娘道成寺」においてそれは近世的なものに変化し、明るく健康的な形に変容することで人々のこころのなかに浸透していったのだろうと思います。しかしその馬鹿々々しいほどの明るさのなかに「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」と言わせるような何ものかが潜んでいる、それが「娘道成寺」の魅力なのです。

能を知らないからこそあやめは新しい時代のための「道成寺」伝説を創造できたのです。だからこそ後世の人々はそんなあやめに「紀州日高郡」出身の称号を与えた、ということなのでしょう。

名作歌舞伎全集 第19巻 舞踊劇集 1 (19)

(追記)併せて別稿「菊五郎の道成寺を想像する」をお読みいただければ、「道成寺」の本質についてご理解いただけます。

(H13・6・3)


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