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宿命の恋の予感

〜「新薄雪物語・花見」

*本稿は吉之助の音楽ノート:ワーグナー・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」としてもお読みいただけます。


1)

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」(初演:1865年・ミュンヘン)と楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(初演:1868年・ミュンヘン)は音楽史上において非常に重要な位置にある作品です。このふたつの作品は対と取るべきものですが、表面の趣きはだいぶ異なります。片や暗い色調の濃厚な愛の悲劇、片や明るい色調の喜劇です。しかし、「マイスタージンガー」の主人公ハンス・ザックスは第3幕においてエヴァに対してこんなことを言っています。「ねえお前、トリスタンとイゾルデの悲しい物語なら、私はよく知っているのだよ。このハンス・ザックスは頭が良いものだから、マルケ王の幸福なんぞは別に欲しいとは思わなかったのだ。」この場面でワーグナーは「トリスタン」のなかの重要な動機を引用しています。

「マイスタージンガー」は若き騎士ワルターがニュルンベルクの街の聖ヨハネ祭の歌合戦に優勝して・愛するエヴァと晴れて結ばれるという物語です。歌合戦の優勝者だけがエヴァに求婚できる権利を得ることができるのです。マイスターの歌の規則のことなどまったく知らないワルターはザックスの指導を得て・優勝を勝ち取ります。しかし、実はザックスはエヴァのことを密かに思っていたのでした。ですからザックスが若いワルターに対して身を引くことをせず・自分もエヴァの獲得合戦に参入していれば・彼はマルケ王になっていたわけです。ザックスの「自分はマルケ王の幸福など欲しいとは思わない」という言葉はそういう意味です。

しかし、本稿においてはザックスのことではなくて・若いワルターとエヴァのカップルのことを考えたいと思います。ここでお分かりの通りワルターとエヴァは、トリスタンとイゾルデに擬せられています。中世ヨーロッパの伝説で有名な・めくるめく官能の不倫関係のなかで死に至る・あの悲劇のカップルです。「トリスタンとイゾルデ」については別稿「近松心中論」において近松門左衛門の「曽根崎心中」との類似性を考察しました。ワルターとエヴァのような・若く健康的なカップルのどこが「トリスタンとイゾルデ」の悲劇に似るのでしょうか。

「マイスタージンガー」第1幕はニュルンベルク・カタリーナ教会の内部。ワルターは前夜初めて会ったエヴァに一目惚れし、教会でエヴァのことを待って・声を掛けます。ところがワルターの言葉は異様な色合いを帯びています。非常に急いていて・しゃべりながら待ち構えている破滅の運命に慄(おのの)く感じです。

『お嬢さん、良い礼儀作法にそむくのをお許しください。ただひとつのことを知りたくて、失礼をもかえりみずに来たのです。生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?ただひとこと仰ってくだされば・・・。光や喜びなのか?それとも闇や墓場なのか?望んでいることを知り得るのか?それとも悲しいことを知らねばならぬか?そのひとことを仰ってください。私の運命を決めるひとことを。ただ「はい」か「いいえ」か、短い一語を。お嬢さん、お答えください。あなたは婚約されているのですか?』

さらにワルターは「あの家に足を踏み入れていなければなあ・・」と嘆息さえします。昨夜ポーグナーの家で娘エヴァに会わなければ・こんな苦しい思いをすることはなかったのに・・というのです。ここには「愛し・愛されることは何と幸せなことか!ああこの喜び!」というような感覚が全然ありません。ここにあるのは狂い死にしそうなほどの苦しみ、この恋の苦しみから逃れるためにはむしろ自分は死ぬことが望ましいと思っているのかのような破滅への願望です。

この切迫した気分はエヴァの「私は婚約しています」という返事を聞くのが恐いというワルターの感情から来ると解釈できなくもありませんが、実はここではもっと深刻なものが意識されています。それはワルターが「生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?」とワルターが口走ることでも分かります。ここでの愛は自分のなかから湧き出て・愛に服従するように自分を強制して・自分の心の自由さを失わせるものとして意識されています。

「マイスタージンガー」はワルターが聖ヨハネ祭の歌合戦に優勝して・歌のマイスターに選ばれて・愛するエヴァと晴れて結ばれるというハッピー・エンドの物語ですが、若いワルターとエヴァのカップルに対する試練(歌合戦への挑戦)は陽気で屈託がなくて・あらかじめ成功と幸福が予感されているような楽しいものではありません。むしろその逆で、その試練は強制されて仕方なく嫌々行なうもので・彼らは常に失敗と破滅の予感に慄(おのの)いており・その苦しさからしばしば試練から逃れたいと思うのです。もちろん優勝するくらいですから本人に歌や詩作の隠れた才能があったことは確かですが、エヴァに一目惚れした時点で彼は歌の規則も・歌合戦のことさえ知りませんでした。ワルターは自ら望んで・喜んでマイスターになるわけではなく、エヴァと合法的に結ばれる手段が他にないから・仕方なく歌合戦に参加し優勝しようとするのです。ザックスに諭されて・結局は受けますが、優勝が決まった時にワルターは何と次のように叫んで・マイスターになることを一旦は拒否します。「マイスターは嫌です。嫌です。マイスターでなくて幸福でありたい。」それほどに試練がワルターには辛かったということです。

第2幕ではワルターは歌の試験に落ちてしまい・歌合戦の日が近づくにつれ不安になって・焦るふたりは駆け落ちをしようとします。しかし、その企てはザックスにそれとなく阻止されてしまいます。第3幕の「迷いのモノローグ」においてザックスは「 みんなはハンス・ザックスが迷いを巧みに正しい道に導き、気高い仕事をするのを見るだろう」と言います。愛をその衝動に任せて・その性愛的な歓喜を満たすことだけを追及するならば、それは非人間的な原理に服従することになってしまいます。愛の感情のなかには反社会的な・内から社会秩序を破壊する衝動が秘められています。例えば駆け落ちは社会を拒否 し逃避する行為です。男女の愛を社会秩序のなかに正しく納める方法を我々は「結婚」と呼んでいます。つまり、ワルターが自分の愛と社会との折り合いをつける方法はただひとつ、歌合戦に優勝して・エヴァに求婚して・合法的な形で皆に認められて 祝福されて結婚することです。ザックスはワルターをそのような道を行くように仕向けます。個人が社会のなかで秩序を以って生活していくためには感情を規則に服従させなければなりません。ワルターが愛の歌を歌うために・難しい詩作や旋律の規則をザックスから学ばねばならぬのは、実は歌唱の学習を通して・ニュルンベルクの市民生活の道徳や規則を学んでいるのです。そうやってワルターは自分のなかの愛の感情をもっと崇高な芸術的な形のあるものに高めていきます。

このように「この愛は生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?」と叫ぶワルターは実にトリスタン的な要素を持つ人物なのですが、トリスタンは破滅し・もう一方のワルターは恋人を勝ち得てハッピー・エンドとなる違いがそこにあります。トリスタンは愛から逃れようとして・自分の宿命に懸命に抵抗して破滅します。ワルターは愛を受け入れ・宿命と折り合いをつけることで・破滅から免れ ・もっと高いものを生み出すトリスタンなのです。しかし、ザックスの導きがなく・一歩道を誤っていれば・彼はトリスタンになったかも知れません。これで「トリスタン」と「マイスタージンガー」がほぼ同時期に構想され・対になっていることの意味が見えてきます。

2)

「マイスタージンガー」の考察を以って「新薄雪物語・新清水花見の場」のことを考えます。歌舞伎の劇評や解説本には「新薄雪物語」は左衛門と薄雪姫の若いカップルの幼く・ぎこちなく・純粋無垢な恋が、邪悪な意志(秋月大膳)に利用されて・思いもよらぬ政治的陰謀の渦のなかに巻き込まれていく 物語であると書かれていると思います。大膳が満開の桜を見ながら・「こりゃ咲いたわ、さて桜が、咲いた、咲いた」という時、そこにメラメラと燃え上がる大膳の野望と満開の桜の華やかさが二重写しになって・そこに悪の華のグロテクスな美しさがあるわけです。この見方は大膳の側から見れば確かにその通りです。しかし、花見の場の本質を考える時には、その見方だけではまだ十分ではないのです。

吉之助が考えるところは、左衛門と薄雪姫の恋のなかには秘められた反社会性があり・その恋は悪人たちに利用されるべくして・利用されたということです。先ほど述べた通り、愛をその衝動に任せて・その性愛的な歓喜を満たすことだけを追及するならば、それは非人間的な原理に服従することになってしまいます。愛の感情のなかには 本質的に反社会的な・内側から社会秩序を破壊する衝動が秘められています。大膳はその恋の反社会性と破壊衝動の匂いに知らず知らずのうちに感応して、それ故大膳は彼らの恋を自らの陰謀の材料に組み込むことを思いつ くのです。もちろん大膳が薄雪姫に横恋慕していることもありますが、その方が大膳の陰謀の仕掛けにスパイスが効いて・より悪の快感が増すのです。そういう構造が見えてくると後段の「合腹(園部屋敷)」において・子供のために腹を切る父親たちの気持ちも分かってきます。親たちは子供の無実を確信していますが、同時にその罪は言い訳ができないと感じていることも確かなのです。すなわちその恋自体が罪であったということになります。「合腹」の件は別の機会に置くことにしまして、本稿においては左衛門と薄雪姫の恋に焦点を絞 ります。

寛保元年(1741)に初演された人形浄瑠璃「新薄雪物語」は仮名草子(仮名文で書かれた小説)「薄雪物語」を劇化したものです。仮名草子「薄雪物語」は、園部左衛門が清水参詣の時に薄雪を見染めて恋文を書いたことがきっかけで・ふたりは恋仲になりますが・薄雪は病気であえ無く他界して・左衛門は人生の無情を感じて出家するという筋書きです。つまり「宿命の恋」ということです。「宿命の恋」というのは、自ら望んで恋に落ち・恋の喜びに震えるというものではないのです。それは運命によって義務付けられた恋・自分の意志とは無関係にそうなるとあらかじめ定められた恋・逃れようとしてもそれに縛られてどうにもならず身を焼く恋ということです。仏教説話的な色合いに隠されてはいますが、「薄雪物語」の恋のなかに近代人的な感性の恋の在り方が見えてきます。ワーグナーの楽劇より100年前の江戸文学にそのような恋があったことにご注目ください。

「新薄雪物語・新清水花見の場」を見れば、左衛門と薄雪姫の・いわば分身としての奴妻平と腰元籬(まがき)が恋の指南役のように立ち回りますから・ふたりに段取りされた初心な可愛い恋みたいに見えると思いますが、特に薄雪姫の方が恋にわなわな震えていることが分かります。薄雪姫は「もしこの恋がかなわずば、何とせう、どうせう」と言っています。薄雪姫の非常に急いた・必死の気持ちが明確に分かるのは薄雪姫が左衛門に渡す恋文・これこそが大膳に利用される決定的証拠となるものです。

「刃を画いたその下に、心という字読んだれば、忍べという判じ物。下の三日に園部左衛門様参る、谷蔭の春の薄雪」

薄雪姫の画を見て「刃を画いたその下に心」は「忍べ」との意味であると左衛門はすぐに読み解きます。一方、大膳はこれを「天下調伏の企て」であると決め付けます。これは大膳の読み方が必ずしも曲解だということでもないのです。初心な少女が 恋文に「刃」の画を書くのはどこが尋常でないものがあります。屈託なく可愛く・健康的な恋の喜びからは「刃」の発想は決して出てくるものではありません。この恋が拒否されるなら私は死んでしまいそうだ・あるいは自分が自分でなくなってしまいそうだという気持ちがあるから「刃」の発想が出るのです。つまり、ワルターが「この愛は生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?光や喜びなのか?それとも闇や墓場なのか?」と叫ぶのと同じものがそこにあります。そこに反社会性と破滅への衝動が満ちています。そこを大膳に付け込まれたのです。

左衛門と薄雪姫の出会いの場所を作者は巧妙に設定しています。出会いの場所が清水寺の境内であることです。神仏の前での濡れ事はその聖地を汚すこと・つまり禁忌(タブー)であり、その行為は後の男女の運命に災いとなって戻ってくるという原義があります。「新薄雪物語・花見」の場合は大膳ら悪役たちの登場によってそうした原義は見えにくくなっていますが、実は彼らは左衛門と薄雪姫の恋の花の罪の匂いに引き寄せられてきた毒虫なのです。清水寺の境内で起きる第一の殺人の被害者・来国行は園部家に家来同様に仕えて来た人物でした。つまり、国行の死は左衛門が神域を汚したことの代償であったとも見なされます。

左衛門と薄雪姫の出会いの場が清水寺の境内であったということは、彼らが無意識のうちに宿命の恋の予感に慄(おのの)いており、そこに罪の意識を感じていたとも考えられます。逆に言えば彼らはすがるような気持ちで神仏の前で恋の告白をするわけです 。しかしその気持ちは決して癒されることはありません。だから宿命の恋なのです。つまり、ここにはワルターが「この愛は生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?光や喜びなのか?それとも闇や墓場なのか?」と叫ぶのと同じものがそこにあるわけです。ワルターのエヴァへの愛の告白もニュルンベルク・カタリーナ教会の内部でなされていることにご注意ください。

補足しておくと・「菅原伝授手習鑑・加茂堤」での斎世親王と刈屋姫との恋もまったく同様な形で考察できます。加茂堤とは京都の重要な宗教施設・下加茂神社の神域なのです。斎世親王と刈屋姫の恋も 桜丸と八重に段取りされた幼く可愛い恋ということではその本質は見えてきません。その恋は菅丞相の失脚という変事をもたらすのです。

3)

『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』(坂口安吾:「桜の森の満開の下」・昭和22年(1947)6月)

坂口安吾:桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

安吾の小説「桜の森の満開の下」の冒頭部です。大昔は桜の花の下は怖しいと思っても・絶景だなどとは誰も思いませんでした。花見という風習が民間に広まるのは江戸時代になってからのことのようです。古来桜は人を狂わせると言われ、花見の宴会ではしばしば乱痴気騒ぎが繰り広げられます。これを陰陽道では桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈するそうです。桜の花があまりに恐ろしいので・その殺気を紛らわせようとして・思わず騒いでしまうということかも知れません。

満開の桜の花が時に不気味さを感じさせるのは、開花が生命体たる植物の生命活動の頂点であるにもかかわらず・その見た目の佇(たたず)まいがあまりに静的そのものであると言う・その感覚的なギャップにあると思います。凍結した時間のなかに死が隣り合わせにあることが意識されているからに他なりません。平安朝の鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるというのも、散るのを惜しんでいると言うよりは・花が動き始めることを内心恐れているのです。桜の静寂のなかに・蠢(うごめ)いている何物かを感じるからです。

「新薄雪物語・新清水花見の場」でもそうです。満開の桜の陰で・熱い感情が蠢いていて・それがどこか不吉なものを感じさせます。それは左衛門と薄雪姫の宿命の恋の予感です。彼らの思いは「マイスタージンガー」 のワルターの叫びそのままです。

『生なのか?死なのか?恵みなのか?呪いなのか?ただひとこと仰ってくだされば・・・。光や喜びなのか?それとも闇や墓場なのか?望んでいることを知り得るのか?それとも悲しいことを知らねばならぬか?そのひとことを仰ってください。私の運命を決めるひとことを。ただ「はい」か「いいえ」か、短い一語を。』

「宿命の恋」とは、運命によって義務付けられた恋・意志とは無関係にそうなるとあらかじめ定められた恋・逃れようとしてもそれに縛られてどうにもならず身を焼く恋です。それは自分のなかから生まれ・自分を強制し・操ろうとするものです。そのような薄雪姫の引き裂かれた思いが「刃を画いたその下に・心という字読んだれば・忍べという判じ物」という不吉な恋文を彼女に書かせるのです。「忍ぶ」というのは・その身のうちに沸々と湧き上がる思いを抱きながら・じっとして動かずにいるということです。これこそ満開の桜そのものなのではありませんか。鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と歌い掛けるというのは花が動き始めることを恐れているのですが、薄雪姫が恐れるのは自分のなかにある思いを抑えきれなくなれば・彼女は「道成寺」の清姫のように大蛇に変わってしまいそうな・そんな畏れを自分のなかに感じているということです。(逆に考えれば「娘道成寺」の舞台が桜の満開の風景に設定されねばならぬ理由も分かります。満開の桜は舞台の底に蠢く清姫の情念に感応して咲いているのです。)

ですから「新薄雪物語・新清水花見の場」に悪人大膳の陰謀・奴妻平と腰元籬の大人の濃厚な恋・妻平の派手な立ち回りなど色々な要素が交錯しますが、それらは左衛門と薄雪姫の熱い感情のもつ不吉な影を紛わせようとして思わず立ち騒いでしまう・つまり満開の桜の下での宴会の如きものであると吉之助は思います。花見の本質は宴会を見るだけでは十分ではなく、その本質は花を見なければ分かりません。左衛門と薄雪姫の宿命の恋は不吉な影を帯びており、そのなかに潜む反社会的な破壊衝動が悪人達を引き寄せて・ドラマの大きな流れを引き起こす・「花見の場」とはそういう場なのです。

(H20・6・20)

付記:本文中の「マイスタジンガー」の考察は、エゴン・フォス:「ドイツ市民階級のオペラとしてのマイスタージンガー」(名作オペラ・ブックス・23 ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」・音楽の友社)を参考にしています。

後記:本稿の続編「身替わりになる者の論理〜新薄雪物語・園部屋敷」もお読みください。

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