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「勧進帳」についての対話〜富樫の心情を考える

〜歌舞伎十八番の内「勧進帳」


○最近の「勧進帳」の舞台の問題点はどこでしょうか。

「勧進帳」のドラマ構造を弁慶と富樫の二極対立構図で読もうとする傾向が強いことだと思います。それがなぜ問題かと言えば義経の存在が忘れられているからです。あるいは弁慶と富樫の対立構図の枠外に義経を位置つけているということかな 。しかし、これではいけないと思いますね。確かにドラマは弁慶と富樫の対立で進行します。しかし、舞台の見た目の印象だけではドラマの解析はできないのです。

○義経の存在が大事であるのはなぜですか。

義経の存在が忘れられて・ドラマを弁慶と富樫の対立構図だけで読むと、富樫が弁慶一行の関所通過を認めることの劇的必然が薄弱になると思うからです。

○弁慶が自らが手打ちになるのを覚悟で主人義経を金剛杖で打ったという・その捨て身の行為に富樫は感じ入ったということではないのですか。

なるほど身を捨てて主人義経を守ろうとした弁慶の覚悟に富樫が感じ入ったという解釈ですね。まあ、それも分からないことはない。しかし、富樫にも頼朝という主人がいるわけです。富樫は頼朝の命令で・義経一行を捕捉すべく安宅の関を守っているのです。弁慶の行為に感動したとしても、それが富樫が主人を裏切ることに即つながるものでしょうか。富樫は弁慶の忠義に感じ入って・一行の関所通過を認めたとすれば、富樫は弁慶の忠義の方が自分の忠義より重いと見たので しょうか。そこが問題になると思います。吉之助としては、富樫が弁慶の忠義と ・自分の忠義を秤にかけたとは思いたくないのです。全然別の次元の尺度で富樫は動いていると思います。それでないと筋が通らないと思います。

○富樫は自分の忠義よりはるかに重いものがあると考えたということですか。

それは義経が神であるという事実です。まあ、これは八百万(やおよろず)の神という意味ですが、それでも確かに神なのです。義経は守らなくてはならない存在として在るのです。それ以外の理由は考えられません。

○義経は神なのですか。

義経が神であることを理解するには江戸時代の「義経信仰」を考えなければなりません。その生涯を見れば・義経は幼い時に親兄弟と別れて孤独に育ち、成人しては・まるで彗星のように現われて・奢る平家をアッと言う間に打ち滅ぼし、しかし、その栄光もつかの間、兄頼朝に疎まれて奥州の地に寂しく果てるというように、その人生に栄光と悲惨、まさに諸行無常・もののあはれの流転の人生を体現してきた人物なのです。だから義経はもののあはれを理解 することのできる人物である。まさに義経はこの世の哀しみを涙ですくい取る菩薩なのです。それが「義経信仰」の原点です。能楽においては義経は子方が演じることになっているのも この背景によります。

○そう言えば歌舞伎では「義経物」というジャンルがあるのですね。

歌舞伎の義経物はすべてそのような義経信仰の背景で読む必要があります。歌舞伎の義経は自分から積極的に前に出て・ドラマを動かすようなことはしません。しかし、常にドラマの流れと先行きを感じ取っている人物なのです。何が起き・どうしてこういうことになるのかが見通 すことのできる人物です。だからと言って・どうするわけでもない。義経はただ「是非もなき世のありさまじゃなあ」と言って涙するだけなのです。しかし、その涙が観客を癒すのです。それは義経が神だからなのです。

「千本桜」や「嫩軍記」で義経が先を読んで・手を打って・ズバリと決める・ 義経は冷徹な政治家・戦略家であると書いてある評論が散見されます。それは義経に神性を見ようとしないから・そういう解釈になるのです。しかし、そういう見方で「勧進帳」を読んだらどうなるのでしょうか。うまく富樫をやりこめて・まんまと関を通ってやったぜ・ざまあ見ろということなの でしょうか。そうなると情に負けて関を通した富樫はまるで馬鹿みたいです。日本人の心を熱くしてきた「勧進帳」のドラマはそんなものじゃないと思うのですよ。

○だから「勧進帳」を弁慶と富樫の対立構図で読んではいけないということなのですね。

ドラマ構図の芯に義経の位置を明確に見出さなければ「勧進帳」は読めないと思います。たとえ義経が舞台で動かなくても、弁慶と富樫の眼前に義経の姿がありありと見えなければならないのです。あえてイメージとして言うなら・「勧進帳」を義経を中央に据えて・左右に弁慶と富樫が向かい合って立つという三極構図で理解したいと思います。

○義経を中央に据えた三極構図で読むと、「勧進帳」の解釈はどう変るのですか。

富樫が弁慶一行の関通過を認めることについて明確な動機が見出されることになります。義経が神である以上・弁慶が義経を杖で打つなどという行為はあってはならぬ行為なのです。だから、それを見て耐えられなくなった富樫が思わず止めるということになります。

○それが「判官殿にもなき人を・・・」という富樫の台詞ですね。

富樫が制止しなければ、弁慶は義経を打ち殺していたでしょう。当然弁慶はそのような気迫で義経に打ちかからねばなりません。しかし、それは周囲にとって身振るいするほど恐ろしい行為 なのです。なぜならば義経は神であり、これを打つのは禁忌(タブー) なのです。富樫が思わずこれを止めるのは当然ではないでしょうか。弁慶が義経を打たねばならなくなったのは富樫が一行を引き止めたからですね。義経が打たれるのは富樫のせい だとも言える。富樫は神が打たれるのをとても正視できないのです。弁慶に神を打つのを止めさせるには、一行の関通過を認めるしかないのです。「判官殿にもなき人を・・・」という台詞は、 吉之助にはそうした富樫の心情の叫びに聞こえます。

○弁慶にとって義経が神であることは分かりますが、富樫にとっても義経は神なのですか。

そのことを疑う余地はありません。義経が神であるということは、富樫だけでなく・観客にとっても劇場という場全体が認識している「前提」としてあるということです。そうでなければ、富樫にとって は主人でもない・義理も所縁もない義経を守る理由はないのです。

○富樫はどの時点で義経を神であると知るのでしょうか。

冒頭の名乗りにおいて富樫が義経に面識がないことは明らかです。しかし、「勧進帳」のドラマを見ると富樫は一行のなかに義経の姿をチラリと認めた時点で、この一行のなかに「守らねばならない存在・義経」がいることを感知したと思います。

○それならどうして富樫は弁慶に勧進帳を読ませたり・問答を仕掛けたりするのでしょうか。

まさに弁慶に勧進帳を読ませ・問答を仕掛けること こそ・富樫が「この一行のなかに守らねばならない存在がいる」ということをうすうす感じていることの証(あかし)なのです。けれども富樫自身がそのことを確信し切れていないのです。もとより富樫の使命は義経を捕らえることなのですから、なぜ自分がそうしたことを感じるか も自分で分からないのです。ただ自分の直感が正しいのかどうかを確かめるために、まず弁慶に勧進帳を読めと言います。しかし、弁慶が見事に偽の勧進帳をデッチあげてしまうので、さらに山伏問答を仕掛けざるを得なくなります。

○この時点で富樫は弁慶一行を通過させる腹だったのでしょうか。

弁慶が勧進帳を読み上げ・問答に見事に答えた以上・通過を認めないわけにいきませんね。富樫としては何かしら釈然としないまま一行の通過を認めたと思います。しかし、番卒の指摘で富樫が一行を引き止めざるを得なくなります。ここで 初めて富樫は「守らねばならない絶対的存在」との対峙を余儀なくされるのです。弁慶はやむなく義経を打つという暴挙に出るわけですが、自分が一行を引きとめたことで神が打たれるのならば ・富樫は弁慶を制止しないわけにはいきませんね。

○「勧進帳」は富樫の心のドラマとして読めるということですね。

ここまでで理解されたかと思いますが、舞台では富樫は弁慶に対していますが、実は内面では義経に対峙しているのです。だから、弁慶対富樫の二極構図では「勧進帳」のドラマは読めないことが分かると思います。

吉之助は興味深いと思いますが、吉之助もそうですが・現代人は御主人大事滅私奉公などと言われると「封建主義は古臭い・身分は違えど人の命の重さに違いはない」と思うものかと思います 。しかし、弁慶を見ると「やっぱり忠義のドラマはエエなあ」という感じになっちゃうのが面白いと思いますねえ。しかし、本当は観客は弁慶に封建主義の鑑を見て感動しているわけではないのですよ。「勧進帳」は主人を捨て身で守る弁慶の忠義のドラマだなどと解説本に書いてあるから、ドラマの理解が変な方向に行くのです。観客はもっと時代を超えた熱いものを感じているのだと思いますね。

○時代を超えた熱いものとは何でしょうか。

それは結局、「我々には守らなければならないものがある」ということです。言い換えますと「君はそのことのために死ねるか」ということかと思います。

○もう一度聞きたいのですが、富樫にとって「守らねばならないもの」が義経だということになるのでしょうか。

富樫にとって義経が「守らねばならないもの」でないのならば、富樫は弁慶を制止する理由は何もないのです。義経が弁慶に打ち殺されたとしても富樫が責められる理由などないのですから。弁慶を制止したということは富樫にとって義経は守らねばならない存在であったということになるのです。それしか理由がないですね。

弁慶にとって義経が守らなければならない存在であることは、これは確かに忠義の論理で説明ができます。しかし、その同じ論理で富樫を計るなら富樫が守らねばならないのは主人頼朝 でなければならない。頼朝を裏切って義経を守るというのは・これは富樫にとって不忠の行為なのです。弁慶の忠義に感動して富樫が不忠を働く・それがいいなんてドラマはオカシクはないですか。だから、そういう風に「勧進帳」 のドラマを見ている限り、富樫の真の動機に行き着くことはできないと思います。主人だとか家来だとかいう関係を超えた・それ以上のものがそこになければ、富樫は主人頼朝を裏切ることは決してできないでしょう。それが「義経は神である」という絶対的確信なのです。これを認識した瞬間に富樫はすべてを悟るのです。

富樫が「判官殿にもなき人を・・・」という瞬間ですね。

その通りです。弁慶が義経を打つのを制止した時点で、富樫も弁慶と同じく義経信仰に帰依したということです。これは舞台上のドラマの目撃者たる観客全員に受け入れられる論理なのです。

○弁慶が「義経が神である」ということを富樫に示す場面はあるのでしょうか。

弁慶はとにかく「義経が大事」ということが性根ですから・どこがということはないですが、一箇所大事なところがああります。それは義経を打つ場面で金剛杖を振り上げる 腕の上げ方です。ここで杖を振り上げる時に肘が肩より高く上げてはいけないという口伝があるのです。これとまったく同じ口伝を持つ義経物の作品がありますよ。

○それは何でしょうか。

「鬼一法眼三略巻・菊畑」の智恵内(実は鬼三太)です。智恵内が虎蔵(実は義経)を打つ時にやはり杖を振り上げる時に肘が肩より高くなってはいけないという口伝があるのです。大事の主人を打つのに畏れ多くて・腕が上がらないという風に言われているようですが、突き詰めて考えれば実はそこに「義経の神性」を見てるということなのです。神を打つということがどれほどの禁忌なのか、ここでしっかりと示されねばなりませんね。

○富樫は弁慶一行を通した後に腹を切るのでしょうか。

弁慶は主人に手打ちになる覚悟で義経を打った・それを制止した富樫は頼朝の叱責を受けて腹を切る覚悟をして・弁慶一行の関通過を認めたということでしょう。大事なことは、これは弁慶に強制されて(あるいは脅迫されて)富樫がやむを得ず取った行動ではないということです。謡曲「安宅」ではそうなっていますが、「勧進帳」ではそうではない。それは義経信仰に帰依した富樫が自発的にとった行為なのです。つまり、富樫の行為は義経信仰への殉教行為なのですね。そこに富樫のカタルシスがあるのです。

○富樫は死ぬ覚悟をしたということは・そこに悲壮感があるのではないでしょうか。

弁慶一行の通行を認めたことで富樫が「俺の人生はこれで終わった」なんて感じるならば・最初から一行を通さねば良いのです。もともと義経に義理などないのですから。死を覚悟すると言うと・何だかそれでもう終わりみたいな絶望 感につなげちゃうと、富樫の心情は全然理解できないです。ここで死ぬことは永遠に生きることなのです。富樫は切腹しても・義経に帰依したことで救われるに違いありません。このことは弁慶が富樫のために延年の舞を舞うことで分かると思います。富樫は祝福されているのですよ。

○富樫は死んで義経に救われるわけですか。

義経物を考える時に大事なことは、義経は最後に奥州の地で寂しく果てる運命だということです。これは江戸時代の民衆が常識として持っていた義経物の大前提です。義経は奥州で死ぬから最後に本当の神になるのであって、逆に言えば義経が最後に奥州で死ぬ運命が意識されていない義経物などあり得ないのです。ということは「勧進帳」のドラマは弁慶一行が安宅の関を通過してハッピーで終わるのではないのですよ。この後も義経・弁慶一行は奥州での死に向かって旅をつづけるということなのです。一行は「神話の完成」に向かうのです。だからこれはめでたい旅立ちだと言えるわけです。そして、一行を送り出す富樫も、また神話のなかに組み入れられるということです。だから富樫の死もまためでたいのです。それが「勧進帳」の幕切れの意味だと思います。

(H18・2・26)

勧進帳 毛抜 暫 鳴神 矢の根 (歌舞伎オン・ステージ (10))

日本古典文学大系 98 歌舞伎十八番集
 

 

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