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吉之助の歌舞伎の見方講座

11講:「型」を楽しむ:その2


1)劇評について

六代目菊五郎は芸に関して厳しい人で、自分の信念を貫き通して・他人の忠告や助言を聞かぬのでしばしば「傲慢」だと言われました。その菊五郎が、劇評について次のようなことを書いています。

「評をされて不愉快に思うのは、見た感じで好き嫌いを決められることである。私が批評家に望むところは、誰それの型はこうであったなどと言うことよりは、役で出た人物についての評をしてもらいたいことである。その人物に見えるとか見えないとか、この点を厳しく批評してもらいたい。私はひとつの劇評を読む度で、ちょっと憤慨を感じるのは、私は眼の動きひとつ、一歩踏み出す足にしても、工夫を積み研究を重ねてから舞台の動きにするのであるが、そんなことはほとんど顧みられていないことだ。演る方の血みどろな工夫をしていることなどが、あっさりと手軽に片付けられるのでは、私はとても浮かばれない。」(六代目尾上菊五郎:昭和10年4月毎日新聞:「楽屋宵語」)

菊五郎の芸には観客に対して「どうだい、分かるかい」というところがあったようで、そういう自分の工夫を指摘されると多いに喜んだそうです。ちょっと嫌味な感じもしますが、それだけ真剣に役作りをしている からなので、そこを評価されると嬉しいという気持ちは分かる気がします。

ところで劇評について「見た感じだけで好き嫌い・いい悪いを決める」と菊五郎が不満を言っていることについて考えてみたいと思います。劇評を読んでみると、先代はああだった・こうだった、口跡がいいの悪いの、ああ演ると哀れが効かぬ・こう演ると形が悪い、などの印象評が確かに多いようです。

こう演ると形がいいの・悪いのというのはホントの批評なのでしょうか。これはたんに見た目の好き嫌いの個人的感想を言っているだけではないのでしょうか。もしその形が悪いというのなら、どういう理由でいけないのかを役作りからの必然性から論議しなければならないでしょう。 それがないならば形が悪いという批判は意味を持たないはずです。しかし、そういう観点からの批評はあまり見られ ずに、印象だけのいい悪いが公然とまかり通っているのが日本の批評です。それは「型」がそうある(べき)という認識のもとに寄りかかっているからそうなっているのです。

しかし劇評がそういう見方をするというのは、観客もそういう見方を自然としているということだろうと思います。あるいは観客のニーズがそういう劇評を生み出しているのかも知れません。

「歌舞伎は型の芸術だ」などと言う人もいますから(注:吉之助はこういう言い方は好きでありませんが)、熊谷を演じるのに、団十郎型はこう演じる・芝翫型はこう演じる、というのは情報 ・知識としては大事なことではあります。 また、こういう情報は歌舞伎の入門書には知っておくべき知識としてよく書いてあります。だから、舞台を見る時に制札の見得の形がいいの悪いの、制札を突く位置がどうの、居所がどうの、という見方に自然となってしまうのでしょう。 そういう話をしていると何となく「通っぽい」。しかし、「熊谷陣屋」での制札の見得において制札を上にして見得をするか・下にして見得をするかなどということは ホントはどうでもいいいのです。

熊谷のふたつの型の意味については別稿「熊谷陣屋における型の混交」において触れましたからそちらをご覧ください。 もし芝翫型のこころで団十郎型を演じるならばそれは間違っており、団十郎型のこころで芝翫型を演じてもやはり間違いと言うべきです。また、ここの部分だけちょっと拝借なんてこともよく考えた上でしなければ、それだけで全体のデッサンが狂ってしまうものなのです。

肝心なことは、役の性根をどうとらえて解釈して・それを形象化してこの「型」が出来ているのか、その「こころ」を理解すべきだということです。最初に型があるのではなく、役作りの結果として型があるのです。残念ながらこのことを読み手に意識させてくれるような批評が少なすぎると思います。

2)型も動いている

別稿「熊谷陣屋における型の混交」では現代の熊谷役者の顔の癇筋が濃すぎることを問題視しました。これは芝翫型のこころで団十郎型を演じることだ、と私は感じています。熊谷の無常の気持ち・人間的弱さを表現するのに、あの癇筋は印象が強過ぎると思います。そして容貌は人形に近くなり、生身の人間から離れていきます。団十郎型を突き詰めれば、当然に顔は素に近くな っていくはずだと思います。癇筋が濃い方が豪快で歌舞伎らし くていい、などというのは理由にならんと私は思います。

これについては六代目菊五郎が面白いことを言っています。菊五郎自身は熊谷を演じておりませんが、これを読むと菊五郎も吉之助と似たようなことを感じているらしいので、意を強くいたしました。

『熊谷の陣屋で出てきてね、前の熊谷の物語であの頭と顔でいて、それに似合う顔をしているんだね。すると今度は坊主になると、それでは顔が似合わんですよ。また坊主になる前にその顔にしておくと、前の間はおかしいですよ。ところが団十郎はどっちも似るのだね。だからこれは顔のたちにもよるのかも分からないけれども、大体においては気持ちのうえから顔が出てはこないですかね、と思うな、僕は。』( 六代目尾上菊五郎:昭和7年6月「新潮」での里見クとの対談)

菊五郎の言うように「気持ちのうえから顔が出てくる」べきではないでしょうか。だとすると、現行の熊谷役者はその表現しようとしていることと、その化粧はギャップがあるとお感じにはなりませんか。

同じ里見クとの対談では、熊谷が僧形になる時に先に甲冑を脱いで最後に兜を取るのが不自然だと言われて、菊五郎は「僕は古いことは知らないが、それが型なのかも分からないのだね、後から取るのが。けれどもいま団十郎がいていろいろ話をするとすると、きっと頭を先に取るでしょうね。」と返しています。

現行の団十郎型と呼ばれるものを九代目団十郎は一気に完成させたわけではありません。九代目自身も演るたびにあちこちいじって演じています。 「勧進帳」の弁慶でも何人もの役者が「九代目直伝」を称して、みな演ることが違う。よく調べてみれば、団十郎から教えてもらった時期がそれぞれ違うのです。もちろんどれが間違いというわけでもありませんし、最後のが一番いいというわけでもないでしょう。まあ、「 九代目直伝」と言ってもこの通りです。だから型なんぞ意味がないと言っているのではありません。しかし、その型が出来上がった背景を知らないで型だけを有難がるとすれば、それはまったく見当違いだと言うこと なのです。

九代目(明治36年没)が最後に熊谷を演じたのは明治31年10月のことですが、もし団十郎が長生きしてもう一回熊谷を演じていれば、さらにまた演ることが変わっていたかも知れないのです。 そう考えると団十郎型もまだまだ発展途上、型は動いている・動いて然るべきものなのです。

この認識は「型は守るべきもの」という概念からすると相反するもののように思われますが、決してそうではありません。守るべきものは手順ではなく、先人の「こころ」だということだと思います。 「こころ」さえ守っていれば、手順はおのずと定まってくるものでしょう。

3)芸の特殊相対性理論

本稿は六代目で始めましたから六代目で締めることにいたします。これもやはり九代目が得意とした「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時に「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われた のだそうです。ご承知の通り、菊五郎は九代目の家に預けられて厳しい芸の指導を受けました。しかし関兵衛の踊り を団十郎から直接習ったことはなかったそうです。

「しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人か ら「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。」(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)

「それがつまりコツだね。」と菊五郎はサラリと言ってしまっていますが、その裏に、菊五郎のどれほどの芸の修行と努力と試行錯誤があったのかは想像もできないことです。

菊五郎が「吃又」(傾城反魂香)の新演出を行ったのは昭和14年5月歌舞伎座でのこと。この上演にあたり、菊五郎は物知りの七代目三津五郎に乞うて従来型の「吃又」を2日間にわたり詳細に伝授してもらっています。 二階の稽古場に部外者をシャットアウトして二人だけでドタンバタンとやって、誰それはこうやった・ああやった、と言いながら演技を付けもらう。3日目に菊五郎は三津五郎にこう言ったそうです。

「お稽古有難うございました。寿作ちゃんね、考えたけれども君に教わったのは僕にはあの通りできないし、柄が違うから、僕は今度新しく作り直そうと思う。それでせっかく教えてもらったからそれを基本にして、新しく作り直そうと思いますからどうぞ悪しからず」 (注:「寿作」は七代目三津五郎の本名、武智鉄二と八代目坂東三津五郎の対談:「芸十夜」より)

こうして出来たのが六代目型の「吃又」(いまの舞台はたいてい六代目型です)です。しかし、型を伝授した三津五郎が型の変更を簡単に承諾したように思ってはいけません。お互いの技量を認め合う三津五郎との友人関係・その頃の菊五郎の劇界に置ける地位を考えれば当然なようにも感じられましょうが、この話の裏はそう 単純なものではありませんでしょう。

教えてもらった型を自分の柄に合わない・納得できないからと言って安易に変えることは役者の礼儀に反しています。もちろんそんなことは菊五郎は承知のことです。考えに考え抜いて・しかも先人の型のこころを生かしつつ自分の 信じられるものを作りたい、と菊五郎は2日間悩みぬいたに違いありません。 菊五郎がその2日間だけで型を変えようと決意したなどと考えないで下さい。その背景にどれほどの長い年月の芸の修練と苦闘があったものか、我々如き者に想像がつきましょうか。

その芸の修練の積み重ねと・先人のこころをないがしろにしない姿勢のある男だと三津五郎が見込んでいるからこそ、三津五郎は菊五郎の申し出を了解したのでしょう。それでなければ芸に厳しい菊五郎が型を変えるなどと言い出すはずはなく、また同じく芸に厳しい三津五郎がそれを許すはずもないことなのです。

菊五郎の創り出した「吃又」の型は当然ながら賛否両論を巻き起こしました。「あれは 菊五郎歌舞伎で本物の歌舞伎ではない」という批判さえ出ました。しかし、今になってみれば「吃又」の舞台でこの菊五郎型の影響を受けていない舞台はひとつもありません。

「型は守るべきもの・尊重されるべきもの」であり、また同時に「型は動いて然るべきもの」なのです。

 いや、これはまったく「光は粒子の流れであり・同時に波動でもある」などという物理理論と同じようなものですね 。「質量とはエネルギーのとる仮の姿であり、相互に変換が可能である」という理論もあります。型もまた役者のこころ・エネルギーから発するものであり、すぐれた演技からはエネルギーが発散されるものです。 何事においても真理はひとつということか。 これは「芸の特殊相対性理論」というべきでしょうか。頭のなかで具体的にイメージしようとすると混乱しますからヤメましょう。しかし、これはホントに大事なことなのです。その実践的な追求は、これからも「歌舞伎素人講釈」のなかで考えていきたいと思います。

(H14・9・8)
 

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