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吉之助の音楽ノート

ベルリーニ:歌劇「清教徒」


昨年(2007)はインターネット回線でMET(ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場)数公演が世界主要都市にライヴ中継されるという画期的な試みが行なわれました。どこの公演も素晴らしくて、METの水準の高さを見せ付けられた思いでした。歌手の顔触れもさることながら・METは演出がオーソドックスで・奇をてらうところがないので安心して舞台を見ていられます。現在のヨーロッパのオペラハウスでは「読み替えしないのは演出じゃない」みたいな風潮があって・作品の時代設定を現代に置き換えるものが多くて、何を考えているのかその意図がよく分からず・音楽を聴くのにかえって邪魔になる演出も少なくありません。まあ、こういうのは観客がその作品をよく知っていることを前提としているわけで ・METの演出を「観光客向け」などと馬鹿にしたりする人もいますが、すべての観客が通だというわけではないのですから・特に上演機会が少ない作品の場合はやはりオーソドックスな舞台が嬉しいですねえ。そういうわけで今回のベルリーニの歌劇「清教徒」(2007年1月7日・パトリック・ザマーズ指揮、サンドロ・セキ演出)の中継は有難いことでした。

ベルリーニの歌劇「清教徒}は1835年1月パリでの初演作品です。舞台は17世紀清教徒革命さなかの英国。国王派と議会派が争っているのですが・この辺の歴史事情は分からなくてもまあ良し。主人公エルヴィーラはアルトゥーロと婚約していますが、王妃が議会に召集され・処刑の危機が迫っていると察知したリッカルドが王妃を連れてどこかへ 逃げてしまいます。結婚式直前にリッカルドが他の女性を連れてどこかへ去ったと聴いてエルヴィーラは発狂してしまいます。第2幕のエルヴィーラの狂乱の場がこの歌劇のハイライトです。第3幕ではアルトゥーロは戻って来て・捉えられますが、最後に許されて・正気に戻ったエルヴィーラと結婚することになってメデタシメデタシで幕。METの中継は今旬の美人歌手アンナ・ネトレプコのエルヴィーラも なかなかの好演で・よい出来の舞台となりました。

有名な第2幕の「狂乱の場」は吉之助にとってはマリア・カラスのアリア集でおなじみでしたが、全曲の舞台を見て改めて感じたのは・オペラの筋立てというのは歌舞伎と同じで・結構いい加減であるなあということです。第2幕で発狂したエルヴィーラが第3幕ではケロリと正気に戻るのを見ると、あのエルヴィーラの狂乱は一体何だったのと思いますねえ。そんな簡単に正気に戻っちゃっていいのとか・その後のエルヴィーラに心理的外傷の痕跡はないのかとか考えるのは我ながら心理学の本の読み過ぎであると反省しましたが、結局、分かったことはこのオペラは最初の発想にプリマドンナの芸を最大限に生かすための「狂乱の場」がまずあって・その前後に筋を適当に付けているという構造だということです。郡司正勝先生が中国へ行って、中国の古い演劇をいろいろ調べているうちに・こんなことを考えたと語っておられたのを思い出しました。

「昔の(歌舞伎の)腹切りはもっと長かった。たとえば権太が腹を切るのは今は簡略過ぎますよ。合邦のお辻も同じこと。梅玉(三代目・・・玉手を得意とした名女形)なんてのは、胸を突いて息を引き取るまでが長いんですよ。そのためにストーリーが前に付いているという感じですよ。モドリになってからが長い。戯曲の構成というものはそれが眼目であったなということが分かるんです。中国に行ってきて、改めて気がついた。昔はそうだったなあ、ということが。今はストーリーを通すために満遍なく平均して筋がならされていくわけですね。だから演出が変わってくる。そうするとかえって矛盾が目立ってくるんです。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

こう考えますと・改めてマリア・カラスのアリア集の凄さを感じます。カラスのエルヴィーラの「狂乱の場」を聴くと・エルヴィーラの引き裂かれた思いが錯綜していて、この場面だけ聴いたら・多分この後で のエルヴィーラは首を吊るか・河に飛び込んで死ぬかであろうなあと誰でも思うと思います。このオペラの結末にハッピーエンドが待っているとはとても想像ができません。もっともこの有名なアリア集「スカラ座のマリア・カラス」(EMI録音)に収録された「清教徒」の狂乱の場(セラフィン指揮)は53年録音の全曲録音からの抜粋で・リサイタル盤としての単独録音ではないのですが(アルバムに予定されていた曲にカラスのOKが降りず・急遽全曲録音からの抜粋でスペースを埋めたということだそうです)、カラスの凄いところはある場面だけを切り抜いても・単なる場面の切り抜きに終わらず・そこに完結したドラマが 聴こえるということです。そういうわけで・吉之助はこのオペラがハッピーエンドということに未だ実感が湧きません。と言うか・吉之助のなかではエルヴィーラは狂い死にしたということにしておこうかなと思います。

このことはちょっと歌舞伎の通し上演と見取り上演との関係にも似ておりますね。「狂乱の場」の部分だけ切り取って聞けば・それは絶望に押しひしがれた悩乱なのですが、全体から見ればその絶望はフィナーレの爆発的な歓喜を引き立てる為の段取りであ ったわけです。また前述のように「狂乱の場」の発想が先にあって・その前後に筋がついているという風に見ることも出来るのです。見る角度によって様相が変わって見えるのですが、そのど れもが間違いではなく・真実であるのです。そこが面白いところです。

オペラの筋立てはいい加減ということは昔から言われていることで、ダ・ポンテ(モーツアルトの「フィガロの結婚」)やボイート(ヴェルデイの「オテロ」)・ホフマンスタール(シュトラウスの「薔薇の騎士」)などの作家を例外とすれば、オペラの文学性というのはだいたい欧米でも二流と位置付けられているようです。まあ、これは歌舞伎もオペラも昔はそうだったということです。19世紀前半のベルリーニからドニゼッティ・ロッシーニに至るイタリア・オペラを特に「ベル・カント・オペラ」と称します。ベル・カントは高度な装飾技法を持つ歌唱法のことを指し・それ以前のバロック唱法が発展したものと言えますが、19世紀後半・ヴェルディ以後にはベル・カント唱法は技巧的に派手なだけで・内面的なドラマに乏しいということで衰退しました。久しく上演がされなくなっていたベル・カント・オペラを次々と復活したのはカラスの功績でした。

ベル・カント・オペラの華は何と言ってもヒロインの狂乱の場です。この「清教徒」もそうですが・ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」・「ルチア」、あるいはトーマの「ハムレット」などです。いずれもカラスの見事な「狂乱の場」の録音が残されています。カラスの歌唱がただ技巧的なだけで内容がないとされていたこれらの役に命を吹き込んだのです。別稿「破滅のパラダイム」でも触れましたが・フランス革命以前のオペラはハッピーエンドが多く、革命以後・19世紀のオペラの多くは壮大な破滅のパラダイムであって、ヒロインが何らかの不幸に巻き込まれて破滅するパターンが実に多いわけです。

『ディ-ヴァは火中に身を投じ(「ノルマ」・「神々の黄昏」・「ホヴァンシチナ」)、子供は火のなかに投げ込まれる(「トロヴァトーレ」)、また、ディーヴァは刺され(「リゴレット」・「カルメン」)、絞殺され(「オテロ」)、生き埋めにされ(「アイーダ」)、自殺し(「マダム・バタフライ」)、城から身を投げ(「トスカ」)、結核で身を落とし(「椿姫」・「ラ・ボエーム」)、愛で死ぬ(・・・・・)。(中略)破滅というルールは絶大な力を持っている。オペラを見に行くことは、むしろ、まやかしの喜びから涙や絶望へという行程を進むことなのである。そして良質の涙をもたらす力こそが、良質のオペラのトレード・マークとなるのだ。』(ムラデン・ドラー:「音楽が愛の糧であるならば」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「オペラは二度死ぬ」に所収、青土社)

オペラは二度死ぬ

こう考えて見ると19世紀前半のベル・カント全盛期のオペラにヒロインの狂乱場面が特に多いことは偶然ではないのです。気が狂ったヒロインの虚ろで・実体のない言動・行動がそのまま外面的・装飾的な歌唱になって現れ ます。つまり、ベル・カント唱法それ自体が引き裂かれた表現であったということです。 それにもっともふさわしいドラマがプリマドンナの「狂乱」であったということです。カラスの天才がそれを明らかにしたのです。

ところで歌舞伎にも主人公が狂乱する場面は少なからずあります。荒事の荒れはまあ狂乱の一種と考えて良いと思います。道成寺物や獅子物の舞踊もそのように考えられます。歌舞伎でも狂乱物は初期のものに多いわけです。劇としての形態が整備されていくとそうしたものは次第に影が薄くなって・破滅のパラダイムはもっと内面的な 表現形式で描かれていくのです。そういうわけで・オペラと歌舞伎というのは非常によく似た展開のパターンを示しているのですね。


(吉之助の好きな演奏)

カラスの狂乱物の歌唱のアリア集としては上記の「スカラ座のマリア・カラス」と・「カラス/狂乱の場」(ドニゼッティ:「アンナ・ボレーナ」他を収録) という2枚のアリア集を聞けば、オペラの全曲録音を聴かなくても・これで十分だろうと思います。カラスの歌唱は外面的な技巧のキレイキレイに留まっておらず・裂け目から鮮血がほとばしるような生々しさに満ちています。これは技法的にはリズムを意識的に揺らす・音程をずらす・音色を変えるなどの工夫を駆使しているのですが、様式的な歌舞伎の発声法にいかに生々しさを吹き込むかのヒントにもなるものです。 他の歌手ではエディタ・グルヴェローヴァのアリア集を是非お聴きください。その完璧な技巧はカラスとは違うベル・カントの側面を聴かせてくれます。

(H20・2・23)

スカラ座のマリア・カラス(アリア集、EMI)


 

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