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吉之助の雑談(平成17年7月ー  )
         (「歌舞伎の雑談」改題)


○八つ橋の悲劇・その7:「つくづくイヤになりんした」

「籠釣瓶花街酔醒」原作は八幕の長編で因果話が絡んでいるそうです。佐野次郎左衛門という男が江戸吉原で八つ橋という女郎を嫉妬の挙句に惨殺したというのは享保年間の実話で、これはその後いろいろな芝居や講釈に仕組まれて伝わりました。三代目新七の「籠釣瓶花街酔醒」はその講釈の流れを汲んでおり、次郎左衛門の生い立ちやら、「籠釣瓶」という名の名刀村正( これは水も漏らさぬ切れ味の良さという意味であります)が次郎左衛門の手に入る経緯も前段までに描かれています。しかし、今の上演のように「仲の町見初めの場」から始める構成ならば、あまり深いこと を考えず・次郎左衛門をあばた顔にコンプレックスのある純朴一途な田舎者と考えてもそう間違いではないでしょう。

大事なことは八つ橋が次郎左衛門に何を思って笑みを投げかけたかも全然無関係なところで、次郎左衛門は自ら望んで恋に落ちて・縁切りをされ・勝手に破滅したということです。原作では次郎左衛門が江戸に出立する前に或る僧が次郎左衛門はいつか身を滅ぼすであろうと予言する場面があるそうで、それが名刀「籠釣瓶」の魔力の仕業であるようなことを暗に匂わせています。まさに次郎左衛門はホセと同じように、自らが望むように破滅すべく恋をして・裏切られ・そして破滅するのです。

縁切りの場面で八つ橋は「わたしゃつくづくイヤになりんした」と言っています。この台詞は脚本を見ると九重の「それではどうでも佐野さんを・・」の台詞を受けてのものですから 八つ橋は次郎左衛門を嫌になったと取るのが文脈であります。しかし、この台詞は八つ橋が「自分という人間が(あるいは女郎である自分が)つくづくイヤになりんした」と言って嘆いているように私には聞こえるのです。六代目歌右衛門の呻くような台詞は私にはそのように聞こえました。

「わたしゃつくづくイヤになりんした」、この台詞は二つの点でドラマのなかで決定的な意味を持ちます。ひとつは次郎左衛門の希望に止めを刺し・彼の存在をも否定し去る言葉としてです。もうひとつは八つ橋の心の奥底に潜む「死への衝動」を明らかにする言葉としてです。

次郎左衛門が縁切り場でいきなり刀を振り回すのでなく・再び登楼して八つ橋を殺すのに月日が立っているのが不自然だという指摘もあるようですが、このことにより瞬間的な激昂で次郎左衛門が殺しをするのではないこと が明らかです。次郎左衛門は妖刀の魔力に誘われるようにして登楼して八橋を斬殺するのですが、その死も八橋が間違いなく自ら望んだことであるのです。

「わたしゃつくづくイヤになりんした」、この台詞を発した時点で八つ橋はもう生きることをやめているように思えます。その後の八つ橋は生物学的には生きていても・演劇的にはもう死んでいます。次郎左衛門は舞台上で八つ橋を斬ってみせて 正しい形にして見せたに過ぎないのです。「わたしゃつくづくイヤになりんした」、そう言われた男が男であり続けようとするならば・次郎左衛門は八つ橋の症候に同化し・宿命を一身に引き受けるしかありません。ここで次郎左衛門が八つ橋を殺すのは絶望的で・かつ献身的とも言える八つ橋への愛なのです。 (この稿おわり)

(H17・12・18)


○八つ橋の悲劇・その6:虚構の権勢

吉原というものは江戸の文化サロンであったとか・いろんな評価も出来ますが、一面を見ればそれはやはり社会の暗部であるということは意識しておかねばなりません。歌舞伎を語る場合に遊郭文化のこと を外すわけにはいきませんが、しかし、あまり過度に美化するわけにもまいりません。その昔、室町時代に一休禅師が泉州堺の遊郭で評判の地獄太夫をたずねた時、地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうです。(別稿「桜姫の聖性」をご参照ください。)そのように娼婦を菩薩とあがめる伝統も日本には確かにありました。しかし、現実には (江戸期においては)彼女たちは奴隷同然であったということもまた事実なのです。

八つ橋ですが吉原で権勢を誇り・尊敬を一身に集める太夫であっても、所詮は売り物買い物でありますから本当の自由などないのです。八つ橋が持っているのは限定された場面での権勢であり・虚構の自由です。しかし、八つ橋にもそのバーチャルな権勢を真に自分のものと錯覚してしまう時があったかも知れません。またそう思わないと生きていけなかったかも知れません。八つ橋にも自分の魅力で吉原の世界を生き抜いてきた自負があったでしょう 。実際彼女を目当てに大勢の男たちが客として散財をしてきたのです。八つ橋が花道でにっこりと笑ってみせた時、向こうで田舎者がへナへナとなるのを見て・八つ橋は自分の権勢に酔ったかも知れません。しかし、実はそれは八つ橋の錯覚で・実はその権勢は虚構のものであるのです。彼女は男たちに弄ばれるだけの無力な存在であるのです。八つ橋もまたカルメンと同様に「社会の症候」であるということが言えます。

八つ橋はある種の権力の上に立ち・男たちを操ろうとしますが、同時に絶えず苦しみ・自由を求め・あるいは逆におぞましい暴力の犠牲になることを渇望しているのです。そのような女はしばしば曖昧で実に詰まらない人間の奴隷であったりします。八つ橋のヒモである繁山栄之丞がそういう人間です。このような歪んだ状況が縁切り場という事態にいたって 次郎左衛門の眼前であからさまになるのです。

八つ橋がまっとうな生活に憧れ・身請けを望み・このような歪んだ世界を抜け出そうとしていたのか。そこのところははっきりしません。もちろん次郎左衛門を好いていたのかさえも分かりません。次郎左衛門が嫌なのなら最初から身請けを承知しなければいいというのは理屈です。だから兵庫屋縁切りの場では周囲の人間はみんな次郎左衛門に同情して・八つ橋の肩を持つ者は誰もいません。しかし、八つ橋はこう言い切ります。

「及ばぬ身分でありんすが、仲三町を張るこの八つ橋、いったんイヤと言い出したら、おまえたちが口を酸(す)くして百万だら進めても、わたしゃ身請けは不承知さ。エエ、わたしゃイヤじゃわいな。」

そう言いながら八つ橋は苦しんでいるのか・楽しんでいるのか、はたまた周囲をを弄んでいるのか・彼女自身が弄ばれているのか、それもはっきりしないのです。どちらの状況もが両方この縁切り場に現出するのです。八つ橋がやっていることは・本人はどう思っていようが、周囲の人間からすればバラバラで矛盾しており・ある種のヒステリー症状を呈しているのです。八つ橋は次郎左衛門を圧倒する脅威を以って迫ってきます。この時、次郎左衛門の眼前で八つ橋の幻影が音を立ててガラガラと崩れ去るのです。 (この稿つづく)

(H17・12・16)


○八つ橋の悲劇・その5:赤いバラ

昭和23年10月東京劇場で上演された「籠釣瓶」序幕新吉原仲の町の場での八ッ橋が花道で次郎左衛門へ投げかける「笑み」について、初役で八つ橋を演じた六代目歌右衛門の演技は今では伝説になっています。(この時の次郎左衛門は初代吉右衛門でした。)歌右衛門の笑みが人々に与えた衝撃は戦後の歌舞伎の復興がここから始まったと言っても過言ではないものです。渡辺保氏は昭和26年1月の新装なった歌舞伎座での八ッ橋を見て「この歌右衛門の八つ橋が笑うのを見たとき、私は歌右衛門の美しさをみながら、ほとんどなにを見ているのか分からなかった。私はそのとき私自信の肉体の中で何かが美しい音をたてるような感触を体験した。まるで私自身がなにものかにひたされていくような感触のものであった。こういう体験はこの先にもなく、後にもない。』と書いています。( 渡辺保:「女形の運命」より)

それまでの役者の八つ橋の演技(初演の五代目歌右衛門を始めとして)では、六代目歌右衛門のようにはっきり笑うというものではなかったそうです。だいたい吉原の花魁は自然にか自分の意志かはともかく・笑うという事があまりなかったようです。それはそうでしょう。太夫と言えども所詮は籠の鳥、真の自由などないからです。太夫というのは人工の美しい造り物・太夫の権勢と言ったところで吉原という限定された空間だけのことなのです。しかし、六代目歌右衛門は見事に自分の意志で笑って見せました。そこに「戦後」の何かが反映されたに違いありません。歌右衛門は吉原の太夫もひとりの人間・ひとりの女性であることを肉感的な形で観客に実感させたのかも知れません。

あの八つ橋の笑みの意味は何かという質問を歌右衛門はたびたび受けたようです。口を開けて自分に見とれる田舎者の阿呆面が可笑しくて笑うのか・自分に魅せられている男がいるのが嬉しくて自然に笑うのか・女郎の商売上の媚態であるのか・それとも次郎左衛門を誘っているのか。加賀山直三との対談で歌右衛門は「この笑いは、もちろん、私は次郎左衛門の姿を可笑しいとだけ思って笑っているのではありません。遊女の職業としての習性ということもありますが、それに広い意味での歌舞伎の演出ということも考えられます。つまり、これは例になりますかどうですか、例えば「鏡獅子」の弥生が出てきて、踊りにかかる前にお辞儀をしますとご見物が引き入れられる、まず最初に惹きつける。そういった様なものもあると思います」と語り、さらに「この笑いははっきりと割り切らないで見るべきものではないかと思うのです」とも語っています。

八つ橋の笑みの意味はどのようにでも考えられると思います。しかし、八つ橋の笑みが次郎左衛門を虜にしてしまったことは間違いありません。次郎左衛門は田舎から出てきて・評判の吉原の夜景を見てみようと立ち寄ったまでのことで・その足で宿に帰ろうとしていたところです。そこで八つ橋が自分に対して何か笑みを浮かべたらしいことで、次郎左衛門はビビッと来てしまって「・・・宿へ行くのがいやになった」となってしまうのです。まさに「あんたは逃げるつもりでも /恋があんたをとらえて」いたのです。八つ橋の笑みはカルメンがホセに投げた赤いバラなのです。(この稿つづく)

(H17・12・14)


○八つ橋の悲劇・その4:「カルメン」との符号

「籠釣瓶花街酔醒」を考えるために・ここまでビゼー:歌劇「カルメン」のことを考えてきました。一見するとカルメンと八つ橋太夫は結びつかないかも知れません。片や自由奔放で積極的なジプシー女、片や吉原でも教養と品格を誇る太夫です。八つ橋は自分の思っていることをストレートに表現するような自己主張の強い女性には見えません。

しかし、状況を仔細に見ていくと「籠釣瓶」と「カルメン」は符合するところが多いのです。歌劇「カルメン」第1幕を見ていきます。セヴィリアのタバコ工場は産業革命まっただなかにある西欧社会の・搾取されつづける階層のある様相を示しています。これは江戸のなかで社会から隔離された悪所である吉原に相当します。タバコ工場で安い賃金で働かされている女たちは吉原で働く女郎たちと同じなのです。カルメンら女たちがジプシーだという設定も被差別階層である廓の人々の状況に符号します。カルメンはそこで働く女たちのなかでも抜群の色香を持ち・男たちの注目の的です。つまり、これは吉原で権勢を誇る八つ橋太夫であります。最初はホセはカルメンに何の興味も示しません。次郎左衛門はただ見物するために吉原を訪れて・すぐに宿に帰るつもりでありました。そしてホセはカルメンにバラの花を投げつけられて恋に落ちてしまいます。次郎左衛門もまた八つ橋に不思議な笑みを投げ掛けられて、宿に帰るのがいやになってしまうのです。佐野次郎左衛門は顔にあばたがあって男ぶりが悪いことになっています。ホセは舞台では純情ないい男に描かれる場合が多いですが、メリメの原作小説を読めば、彼は故郷で何か不祥事をやらかし・故郷を追い出されるようにして・ここセヴィリアに来ていることが暗示されています。つまり、ホセはただ純情一方の優さ男というわけではなく、心にあばたを持つ男なのです。

ビゼーの歌劇「カルメン」は1875年(=明治8年)パリ・オペラコミック座での初演。(メリメの原作小説は1845年=弘化2年)その初演は下層のジプシー女が主人公だというので興行の失敗が噂されたのですが、初演されてみると熱狂的な喝采で迎えられて・数あるオペラ作品のなかでも最高の人気作となっています。三代目河竹新七の「籠釣瓶花街酔醒」は1888年(=明治21年)千歳座(後の明治座)での初演ですが、本作は黙阿弥の「縮屋新助」(「八幡祭小望月賑」・1860年=万延元年市村座初演)の影響を強く受けています。

このような大まかな作品成立年代の符号は世界史レベルで見ると偶然のこととは思われません。別稿「歌劇におけるバロック」のなかで明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死 (すなわち江戸歌舞伎の終焉)と大正15年(1926)ミラノ・スカラ座でのプッチーニの歌劇「トゥーランドット」初演(すなわちグランド・オペラの終焉)がほぼ同時期に起こっていることを指摘しました。このことを考え併せれば、歌舞伎と歌劇 というふたつの芸能は場所を遠くはなれ・もちろんお互いに何の関連もないのですが・結果としてほぼ同時期に同じような軌跡を描きながら変遷しているのです。(このことは別の機会に考えて見ます。)(この稿つづく)

(H17・12・11)


○八つ橋の悲劇・その3:ホセもまた症候である

カルメンはタバコ工場で働く女工ですが、大勢の女たちのなかでもひときわ目立つ存在です。その色香はカルメンが登場するだけで・男たちが色めき立つほどです。ところが男たちのなかにただひとり・カルメンにまるで無関心な男がいて・それがホセなのです。ホセは田舎から出てきたばかりの純朴な青年で、ミカエラという許婚もいます。カルメンは「ハバネラ」を歌いながらホセに近づいて・赤いバラを投げつけます。(以上はビゼーの歌劇の設定で、メリメの原作とは異なります。)「ハバネラ」の歌詞は次のようなものです。

「あんたが嫌いでも/私は好き/私が好いたら御用心/あんたは捕まえたつもりでも/ 鳥ははばたき逃げてゆく/恋が遠けりゃ待つがいい/待つのをやめりゃそこにいる/あんたのそばに素早く来ては/素早く消えてまた舞い戻る/あんたは逃げるつもりでも /恋があんたをとらえてる」

カルメンがホセに花を投げつけたのはあまり深い意味はなくて、恐らく自分に魅せられている男たちばかりのなかで・ただひとり自分に関心を見せないこの男ホセの気を惹いてみたくなったという・ただそれだけのことです。カルメンは自分の関心がない男がいるのが癪なのです。しかも、ホセはなかなか いい男でもあります。それでホセにバラを投げつけるのですが、自分の企み通りにホセが自分に惚れてくると・途端にわずらわしくなってホセを遠ざける・ただそれだけのことです。カルメンは恋をしているのではなく・ 恋に恋している・あるいは恋をゲームにして弄んでいる・それだけのことで ・カルメンには何も信じられるものがないのです。男から男へ渡り歩いていなければ自分という存在が確認できないということもあります。これがカルメンの症候です。

一方、ホセというのは純情一途な男で・惚れてしまえば道を外してもどこまでもカルメンを追いかけて行きます。ホセはカルメンに弄ばれた哀れな犠牲者であると言うことはもちろんできます。 しかし、もうひとつ別の見方をすれば、ホセがカルメンに惹かれているのは彼女が魅力的な性的対象としての女性であるからではなく、カルメンがホセの破滅への衝動を引き受ける存在だからだということです。ホセはカルメンから花を投げつけられますが、ホセはその意味を「俺はこの女から惚れられているのだ」とか色々勝手に妄想したあげくに、カルメンに惚れてしまうのですが、ホセは自ら喜んでカルメンに惚れ・堕落し・破滅するという見方もできるわけです。カルメンが社会の症候を示すものであるならば、ホセもまたそうであるということが言えます。(この稿つづく)

(H17・12・8)


○八つ橋の悲劇・その2:カルメンは症候である

1978年ウイーン国立歌劇場でのフランコ・ゼッフィレッリ演出:歌劇「カルメン」の舞台にはもうひとつ印象的な場面がありました。それは第3幕の「トランプ(カルタ)」の場面です。カルメンがトランプを引くと何度引いても死を告げる トランプが出ます。愕然とするカルメンが背後の気配にギョッとして振り向くと、そこに今は密輸団の一味に落ちぶれたホセが死神のような貧相な顔をして立っているのです。トランプは明らかにカルメンの身に間近に迫っている死を予告しています。この時までカルメンは周囲の男たちの運命を自分の魅力で思うがままに翻弄してきたと思っていたのですが、実は自分の運命が目の前のみすぼらしい男ホセに握られていることを知るのです。最終場面で・ ゼッフィレッリ演出のカルメンはまるで自らを断罪するかのように・短剣を構えたホセの胸のなかに身を投じるのかも知れません。

このことは1983年に発表されたピーター・ブルックの「カルメンの悲劇」(日本では1987年3月・銀座セゾン劇場で上演)ではもっと明確な形で提示されました。ブルック版は何だかビゼーの歌劇の簡略上演版みたいな感じもあって・見る方は 歌劇のイメージにどうしても捉われてしまうので・もっと歌劇から思い切って離れた方が良いのにと思うところもありましたが、最終場面は衝撃的でした。歌劇では闘牛場から牛と闘うエスカミリオの 勝利を讃える観客の大歓声が聞こえるなかで殺人が起きるわけですが、ブルック版ではエスカミリオは闘いに破れ・牛に突き殺されるのです。カルメンの目の前を担架に乗せられたエスカミリオの死骸が通ります。魂の抜けたようになったカルメンはホセを人気のない場所に連れて行き、ホセの目の前にひざまずき・自分を殺してくれと哀願します。もはや関係修復は不可能と知ったホセは深い絶望のなかでカルメンを刺し殺すのです。

ブルック版はカルメン像を整理し過ぎたきらいがなくもないですが、カルメンの死への衝動を観客にはっきりと示して見せました。「トランプ」の場面でカルメンは自分の死すべき運命を知ります。恐らくカルメンはこれまで何人もの男たちを誘惑し・破滅させてきたのです。 自殺した男もいたかも知れません。そうやって男から男へと渡り歩き・喰いものにしながら彼女は生きてきたのです。ホセもそのようなカルメンの寄生の材料のひとりに過ぎなかったのです。しかし、カルメンは自分のことを性的魅力で男たちを翻弄し・男たちを自由に操っていた「主役」であると思っていたのですが・実は全然そうではなくて、自分が男なしでは生きられず・ 本当は男たちの欲望の的として弄ばれるだけの無力な存在であったことを悟るのです。「自由に生まれ自由に死ぬんだ」と叫びながら、カルメンは実は自分が犠牲者に過ぎず・勝手放題に振る舞いながら実は自由に餓えており・生に絶望していることを悟るのです。「死を示すトランプ」はそのようなカルメンの潜在的な死への願望を表すのです。それはカルメンがジプシーという西欧で虐げられている階層に属していることにも深く関連しています。カルメンはまさに社会の「症候」なのです。そのようなカルメンの虚無的な・潜在的な死への衝動が現在の恋人エスカミリオの死によって一気に噴出すわけです。

カルメンがホセに殺してくれと頼むのは、カルメンがホセを愛していたからでしょうか。それは分かりませんが、昔は愛していたことがあったかも知れないけれど・今のカルメンはホセに愛のかけらも感じていないようにも思われます。今は ホセが自分に対する殺意を剥き出しにしているから・死にたいと思っている今の自分には好都合な男だということだということだっただけかも知れません。しかし、ホセがカルメンに自分を殺してくれと頼まれて・彼女を刺し殺すのはほとんど絶望的な愛だと言えます。だから「カルメン」は愛の悲劇なのです。(この稿つづく)

(H17・12・6)


○八つ橋の悲劇・その1:「カルメン」が愛の悲劇であるならば

本稿は「籠釣瓶花街酔醒」を論じるのが目的ですが、唐突ですが・最初は「カルメン」から話が始まります。ビゼーの歌劇「カルメン」は恐らく数ある歌劇のなかで最高の人気作です。主人公カルメンは自由奔放なジプシー女で、周囲の男たちを幻惑します。堅物の伍長ホセもカルメンの誘惑の虜となって身を持ち崩してしまいます。しかし、闘牛士エスカミリオという恋敵が登場して状況は一変、絶望に打ちひしがれたホセはカルメンに自分のもとに戻ってくれと懇願しますが撥ね付けられ て、逆上したホセはカルメンを刺し殺します。

まあ、この幕切れは男と女の痴情のもつれのありふれたドラマではあります。しかし、演出によっては何だかカルメンは自分からホセに殺されに行っているようにも見えることがあるのです。例えば1978年ウイーン国立歌劇場でのフランコ・ゼッフィレッリ演出です。何となくカルメンはホセにぶつかっていって自ら殺されるようにも見えます。やっぱりカルメンはホセを愛していたのか・・・そんなことを考えてしまいます。(この舞台はDVDで見られます。カルロス・クライバー指揮、カルメン:エレナ・オブラスツォワ、ホセ:プラシド・ドミンゴ)

しかし、カルメンが最後の場面でホセの懇願に対して同情したり・ほだされたりすることはありえないのです。なぜならカルメンは「自由に生きて自由に死ぬ」ことを信条にしている ジプシー女であって、誰にも束縛されることを良しとしないからです。この場面でホセを拒否すれば・殺されるしかないわけですが、それでもカルメンは断固としてホセを撥ね付けるのです。メリメの原作小説からこの場面のカルメンの台詞を抜き出してみます。

『私を殺そうというんだろ。ちゃんと知っているよ。顔に書いてあるからね。だがね、お前さんの心には従いませんよ。ホセ、お前さんはできない相談を持ちかけているよ。私はもうお前さんにほれてはいないのだよ。ふたりの間のことはすっかりおしまいになったのだよ。お前さんは私のロム(情夫)だから、お前さんのロミ(情婦)を殺す権利はあるよ。だけど、カルメンはどこまでも自由なカルメンだからね、カリに生まれてカリで死にますからね。今では私は何も愛したものなんかありはしない。そして、私はお前さんにほれたことで自分を憎らしく思っているのだよ。』(メリメ:「カルメン」)

「カリ」とはジプシーの女のことで・「カリに生まれてカリで死にますからね」というのは、あくまでも自分らしく死んでいくの意味です。そうするとカルメンは「誰にも束縛されないジプシー女の自分らしさ」を断固として主張して・その信条に殉じるということになるのでしょう。もちろんそう考えることも出来ると思います。しかし、そうすると殺したホセが何だかただ女に振り回されただけの馬鹿者のようにも見えて・何だか哀れに思えます。「カルメン」が愛の悲劇であるならば・もう少しそこのところを考えてみたいと思うのです。 (この項つづく)

(H17・12・4)


○三島由紀夫没後35年

去る11月25日が三島由紀夫の没後35年ということでした。35年という節目ということで・新潮社の「新版・全集」はほぼ完結しましたが、11月上旬には「三島由紀夫・全戯曲上演プロジェクト」がスタートし・第1回公演として「サド公爵夫人」が上野・国立博物館・特別室で上演されました。装飾的な言葉で作り上げた工芸品のような戯曲を見事に舞台化してくれて ・役者さんも熱演でなかなか面白い舞台でした。

ところで昭和40年の本作初演のプログラムに三島がこんなことを書いています。日本の新劇はもともと伝統演劇(つまり歌舞伎)に反抗して赤毛芝居から出発した。それは中世の物真似演技の伝統を無意識に背景とし、ひたすら 馬鹿正直に・大真面目に・丁重に西洋人の動作の物真似に熱中し、ついには刀を差せばまるで格好のつかない新劇俳優が・西洋人が見てもそんなにおかしくないくらいの様式的翻訳劇にまで定着したというのです。

「私がそれを様式的と言うのは、もともとリアリズムの要求から発しながら、いつしか様式に固定するという、日本芸能独特の過程を翻訳劇演技もたどりつつあると考えるからである。(中略)日本の翻訳劇演技なるものは、世界演劇の要求を一足先に実現した、世界に冠たる珍品的文化財になったのであった。」(「サド侯爵夫人について」・昭和40年)

そこで三島はこの輝かしい「物真似演技」の伝統をほっておくのは勿体ないと思って・「フランス物真似芝居」(つまり戯曲「サド侯爵夫人」のこと)を書いたと言うのです。実に三島らしいユーモアと 皮肉を織り交ぜた表現ですが、 私が注目するのは「もともとリアリズムの要求から発しながら・いつしか様式に固定するという・日本芸能独特の過程」というところです。この箇所が三島の戯曲観・ あるいは歌舞伎観の勘所になっているところだと思うのです。

「リアリズムがいつしか様式に固定する」というのは二つの意味がありまして、ひとつは演技が研ぎ澄まされて象徴的演技にまで高められて固定するという場合と、マンネリパターン演技に墜して定型化するという場合があります。 つまり・いい意味と悪い意味と 言うことですが、三島は後者の場合も捨てがたい・勿体ないと思っているのです。むしろ三島はマンネリパターン演技の持つ臭みが結構好きなのですね。(とすると今回の「サド侯爵夫人」ももっと臭く演じるべきなのかな。いや、なかなか自然で素敵でしたけどね。)この辺が分かってくると三島晩年の歌舞伎「椿説弓張月」は面白くなると思うのですが、いずれメルマガで本作を取り上げたいと思っております。

(H17・12・2)


○世界のKABUKI

もう二十数年以上前の話ですが・MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)でバレエ・ガラが行われて・世界の名だたるバレエ・ダンサーたちが得意のパ・ドゥ・ドゥを披露した時・そのトリを玉三郎の「鷺娘」が勤めたことがありました。その時のテレビ放送を思い返しますと、それまでのプログラムのバレエの華やかな舞台と玉三郎の日本舞踊とが全然違和感がなくて、「ああ、これはジャパニーズ・バレエだな」と思ったことを思い出します。ひとつには玉三郎独特の照明演出のおかげもあったかも知れません。まったく空間がひとつに感じられて、言葉ではなくても・確実にイメージが伝わっていく肉体表現というものがあるのだということを思いました。

玉三郎の「鷺娘」をジャパニーズ・バレエと言うのは皮肉や・批判で言っているのではありません。おそらくNYの観客は「瀕死の白鳥」の日本版かなと思って舞台を見たかも知れませんし、そういう解釈で見ても別によろしいことと思います。舞台を見ながらいろんな思いを交錯させることは楽しいことです。そのお楽しみは自分だけのもので・それに正しいも間違ってるもあるものではありません。

去る11月25日、ユネスコの無形文化遺産に歌舞伎が指定されたということです。これで歌舞伎も「世界のKABUKI」になるということですね。ジャン・コクトーの六代目菊五郎評から我々日本人が新鮮な 示唆を得たように、これから外国の方々の感性から新しい歌舞伎論が生まれるかも知れません。

(H17・11・30)


○四代目藤十郎襲名

いよいよ今月30日より京都南座で四代目坂田藤十郎襲名披露が始まります。歌舞伎史では元禄期の江戸の初代団十郎と・京都の初代藤十郎は並び称される重要な存在です。「歌舞伎事始」は藤十郎の写実の芸に掛ける情熱を伝えています。しかし、あれから300年近く(初代藤十郎は宝永6年・1709年没)経っていることですし、藤十郎の芝居も今では文献でしか想像できないものになっています。

そこで今回の襲名ですが、上方での「鴈治郎」のネームバリューは今もそれなりの重さがあり・むしろ300年前の名跡より実効があると思うのですが、それでもなおご本人が「藤十郎」襲名にこだわったところにその気骨を見るべきなのでしょう。歌舞伎は現在かってない隆盛を見せてはいますが・よく見ると東京だけの現象であって、上方歌舞伎は見る影もありません。だから「藤十郎」を上方歌舞伎復興の起爆剤にできるかということが至急の課題になります。その意欲はご本人のインタビューからも確かに伝わってきますが、しかし失礼ながらご本人の年齢を考えてもそう長く待てないということもあります。早急に「藤十郎で何をやるか」という解答が求められます。

例えば上方歌舞伎復興のためにはこの2〜3年に藤十郎を中心としたプロジェクト・チーム(劇団のようなもの)を組んで短期集中で上方歌舞伎を上演していくというような試みが求められると も思いますが、それを本気でするつもりならもうとっくに準備を進めていなければならないでしょう。そう考えますと今月から始まる一連の襲名演目もまっとうな演目ではありますが、初代藤十郎を意識しているのか・やはり初代鴈治郎なのか・はたまた先代扇雀(ご本人)なのかよく分からないところがあり、まあ、現実としてなかなか難しいこととお察しをします。

となれば上方歌舞伎の復興ということよりも、むしろ初代藤十郎の写実の芸の理念を現行歌舞伎の型のなかにどう生かすかということの方が歌舞伎ファンにとっては とりあえずの関心事かも知れません。初代鴈治郎の「河庄」もそうした初代藤十郎に通じる写実の要素があったに違いないと思いますし、そこに大阪のアイデンティティーを見出すことができればそれなりの意義があるかと思います。そういうわけで今回の襲名での八重垣姫・政岡・団七・盛綱という丸本物の役柄の心理描写において四代目藤十郎がどういう写実の芸を見せるかを注目して見ていきたいと思います。

(H17・11・28)


○「桜姫」断章・その11:輪廻の確信

清玄と桜姫が互いに引かれては離され・離されてはまた引き寄せられる、その不思議な関係は宇宙の律の不思議さを現しており・それが「桜姫」の主題です。「桜姫東文章」では輪廻は重要なモティーフですが、輪廻は宇宙の律のひとつの現象に過ぎません。

「桜姫」においては「発端」から・白菊丸の輪廻を契機(きっかけ)にして一本の糸を手繰るように物語がつむぎ出されています。しかし、輪廻はあくまで「桜姫」の物語の契機であって・主題ではないのです。これは三島の「豊穣の海」四部作においても同じことが言えます。輪廻転生の証拠、桜姫の開いた左手から出てきた香箱であるとか・松枝清顕「脇の下の三つの黒子」で輪廻が科学的に証明されるはずもありません。そんなものは芝居や小説の小道具に過ぎないのです。また作者南北も三島もそんなものに 重きを置いてはいません。しかし、輪廻は観察者である清玄あるいは本多繁邦にとって間違いない確信なのです。その確信(実にあやふやで頼りないのであるが確かにそれは確信である)がドラマを展開させるのです。それは「何かがつながっている・流れている」という確信です。

「東西。さて分けて申し上げまするは、只今仕りましたるは、江ノ島稚児ヶ淵の場、清玄白菊の因縁物語、当狂言の発端にござりまして、この間十七年相立ちましたる狂言にござります。このところ序幕新清水の場、十七年立ちますると申す口上、さよう。」(「桜姫東文章」発端・幕切れ口上)

「何かがつながっている・流れている」ことを示すために「これより十七年相立ちましてござりまする」という口上が演劇的暗喩として大きな意味を持つのです。「発端」はその後の芝居の筋を分かりやすくするためではなく、「何かがつながっている」という時空的座標を示す・その演劇的暗喩のためにあるのです。「豊穣の海」での松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャン、そして安永透と四つの人生もそのように設定されています。一見バラバラに見えるそれらが 観察者には「つながっている」と感じるならば・それは確かにつながっているのです。この確信を他の誰も否定することはできません。

例えば・ある役者が先代と口跡・雰囲気がそっくりであると感動することがあります。それは親子で血がつながっているわけですから・遺伝(DNA)で受け継がれたものとして科学的に伝統の説明ができないものでもないでしょう。そう単純なものでもないけれど、まあそれで一応納得はできます。しかし、現代のある役者が荒事を演じて・ あるいは和事を演じてはるか昔の二百数十年前の元禄のかぶき者の心をまざまざと想い起させるとなれば、これは科学的な説明は不可能です。何かが確かに流れている・何かが確かにつながっている・これが伝統というもの なのかということしか言えません。しかし、その感動は自分のなかで間違いないものであるということは言えます。おそらく清玄の確信も・本多繁邦の確信もそのようなものなのです。

「豊饒の海」という題名は月にある窪地の名前から付けたということは、三島自身がそう書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴しているのだと・そう書いてある文芸評論 が少ないないようですが、そう言う方は石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が・視点を変えれば(つまり遠くから見れば)やはり豊かな生命の海であるという「事実」をお忘れなのです。

「桜姫」の大団円も同じです。情夫と赤子を殺した桜姫が平然とお姫様に戻るところに無限の味わい・歌舞伎の本当の面白さがあるのです。鶴屋南北のこの結末に豊かさを感じることのできる人は、月の窪地から無限の生命が湧き出るのを感じることができると思います。

(H17・11・26)


○「桜姫」断章・その10:桜姫のかぶき的心情

桜姫が情夫権助と赤子を殺すことの意味についてもう少し考えます。このことは桜姫にとって「過去を断ち切る」・「宿業の連鎖を断ち切る」ことを意味します。つまり、桜姫はここでひとつの「決断」をしたのであり・このことが桜姫に転機を与えるのです。前述した通り、この後にふたりの後を追って桜姫が自害するという選択肢もあり得ますが、桜姫 が自害するとしても・行為としては事後追認に過ぎないもので・それはどちらでもいいことなのです。実は権助と赤子を殺した時点で桜姫は象徴的自殺をして「ゼロ地点」に入っているのです。こ れ以前と以後とでは「桜姫はもはや同じ人物ではあり得ない」ことが、情夫権助と赤子を殺すことによって演劇的暗喩として明確に示されています。

このことは「かぶき的心情」として理解することもできます。例えば「熊谷陣屋」において、直実が我が子の首を義経に差し出した時・確かに直実は象徴的自殺を遂げたのであって、だからこそ直実は出家が出来 ます。この転機こそが「直実の殺したのは敦盛ではなく・我が子であった」という一大虚構を「平家物語」の世界のなかに収斂させるのです。あるいは「寺子屋」において松王が我が子を身替わりに差し出す。それにより松王 夫婦は確かに象徴的自殺をしたのです。だから松王夫婦がいろは送りで白装束に着替えるのは・演劇的形象として正しいわけです。その転機が「菅原伝授手習鑑」の虚構を歴史的事実に収斂させます。それでなければ虚構は芝居のなかで虚構のまま尻切れトンボで終わるでありましょう。

「熊谷陣屋」においても・「寺子屋」においてもその決断の原動力は「かぶき的心情」です。このことは桜姫においても同様です。情夫権助と赤子を殺す時には桜姫に「心情の強さ」・すなわちかぶき的心情が必要です。そのことが演劇的暗喩として形象されることで「桜姫東文章」は大団円を迎えます。(この稿つづく)

(H17・11・23)


○「桜姫」断章・その9:「桜姫」大団円の意味

決断がなされた後・すなわち桜姫が情夫権助と赤子を殺した後、桜姫の行動はいくつか考えられます。ひとつは桜姫もふたりの後を追って自害することです。出家して尼さんになるということも考えられます。しかし、桜姫は自害せずに・元のお姫様の姿に戻って吉田家を再興する方を選びます。お姫様に戻った桜姫はその後どうなるのでしょうか。それは分かりません。また新たな転落劇が始まるのかも知れませんし、あるいは生まれ変わった清玄といつか再会することになるかも知れません。いずれにせよ何かが始まるのです。

別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」において、三島の絶筆「豊穣の海」のエンディングについて考えました。月修寺門跡(聡子)はかつてあれほど愛し合った松枝清顕のことをすっかり忘れてしまっており、「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか? その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」と言われて、本多繁邦は自分でも何がなんだか分らなくなってしまうのです。

『「しかしもし、清顕君が初めからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のようにおもわれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」』「豊饒の海・第4巻・天人五衰」

「桜姫東文章」の大団円もこれと同じように見る必要があります。清玄は本多繁邦と同じく「桜姫という業(ごう)」の観察者ですが、清玄も権助も死んだ今、お姫様に戻った桜姫がこう言 うのです。

「こうすれば白菊丸も自久もいなかったことになる。清玄も権助もいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・それも心々ですから」

これが「桜姫東文章」の大団円の意味です。何ともシュールで・歌舞伎的な結末ではないでしょうか。しかし、このような結末は実は「桜姫東文章」だけのことではありません。歌舞伎の結末はたいてい「悪は滅び善は栄えこの世は太平」となって・それで発端と同じ状況に戻って終わるのです。さまざまな事件があり多数の人が死に・そこに葛藤がありドラマがあり・ そしてこの場はいったん幕を下ろすのですが、しかし、人々はその先も恐らく以前と同じ愚かしい過ちをやはり同じように繰り返すのでしょう。それが人間というものなのかも知れません。そしてそこからまた新たなドラマが始まるのです。いずれにせよ芝居は円弧を描くように閉じるのです。(この稿つづく)

(H18・11・21)


○「桜姫」断章・その8:決断がなければ転機はない

映画「ストロンボリ」はロッセリーニ監督が女優バーグマンを起用した最初の作品でした。火山島で生活するバーグマンが家長制の厳格な因習的な村の生活に耐え切れず逃げ出そうとして、彼女は島の反対側にある港 をめざして火山を登ります。しかし、噴火口に近づいた彼女は噴煙に巻き込まれて・息ができなくなって気絶してしまいます。眼が覚めると・もうすでに朝で周囲は晴れ渡っています。画面は煙渦巻く噴火口を映し出し、バーグマンが「神様、ああ、慈悲深い神様・・」とつぶやくところで終わります。何だか未解決のようなエンディングです。結局のところ彼女は村を去るのか・それとも引き返すのか 。そう質問されたロッセリーニは次のように答えています。

『私には分からない。そこから次の作品が始まることになるだろう。人生におけるあらゆる経験には転機というものがある。それは経験あるいはその人生の終わりではなく、あくまで転機だ。私の作品の結末はどれも転機だ。そしてそこからまた始まる。しかし、何が始まるかは私にも分からない。』

この映画でのバーグマン演じる主人公は、エンディングの時点でまだ行動は起こしていません。しかし、決断は明確にされているのです。決断というのはここで自然の圧倒的な力を見せ付けられて彼女は象徴的自殺を遂げ(噴火口で気絶したこと)・そしてすべてを投げ捨てたということです。そこから「神様、ああ、慈悲深い神様・・」というつぶやきが発せら れています。この決断がなければ主人公の転機はないのです。(映画「ストロンボリ」の別バージョンではバーグマンが村の方向へ山を下りて行くものもあるそうです。)

いずれにせよ決断がなければ転機はありません。桜姫の場合なら清玄の幽霊の言葉によって桜姫が自分の業(ごう)の深さに気付き・それがもたらした事態に真正面から対峙した時に決断はされねばならないのです。桜姫の取る選択肢は、幽霊の言うことを拒否し ・これからも権助と暮らすことを選ぶか、それとも権助と赤子を殺すかのどちらかです。選択はそのどちらであってもいいですが・とにかく桜姫はどちらかを選ばねばなりません。

桜姫が赤子を殺すことができず懊悩し狂乱する方が現代的ではないかと考える人もいるかも知れません。しかし、桜姫が赤子を殺せないということは桜姫が自分の置かれた状況に真剣に対峙しようとせず・決断することから逃げたということです。オイディプスが自分の目を潰さないまま狂乱するのでは ドラマにはなりません。メデイアが子供たちを殺さないで狂乱しては ドラマにはなりません。それが現代的だと言うならば、まあ・現代というのはそんなものかも知れませんね。しかし、それでは状況は決して変らないのです。主人公が状況に真正面に向き合おうとせず・決断しようとしないならドラマは転機を迎えることは決してありません。

「四谷怪談」の幕切れで伊右衛門が与茂七ら討っ手に取り囲まれた後、全員が刀を納めて舞台で平伏し「まず本日はこれ切り」とやりますね。あれは結論を出すのを保留しているのではないのです。もうあの時点では伊右衛門が討たれる運命は定まった(つまり演劇上の決断はされている)からその後を省くことができるのです。四十七士はこの後高家討ち入りで本懐を遂げることになります・そのなかに与茂七がいるのは観客の常識なのですから、この後で伊右衛門が逃げ延びる・あるいは与茂七が返り討ちになるなんて事態が起こることは絶対にありません。伊右衛門は間違いなく討たれる・そのような結論が定まってからでないと芝居が「まず本日はこれ切り」となることは決してありません。ここでも行動はまだ取られていない状態になっていますが、決断は明確にされています。決断がされているならば芝居は安心して幕を下ろすことが出来ます。

近松門左衛門は「お芝居は慰みでなくてはならない」と言いました。「こんなに悲惨な人生がある」と叫ぶだけでは芝居は慰みにはなりません。しかし、「それでも人は生きていかねばならない」とするならば芝居を慰みにすることができます。そのことを近松 も南北も知っているのです。(この稿つづく)

(H17・11・18)


○「桜姫」断章・その7:輪廻転生が主題ではない

「桜姫東文章」に関しては昭和42年3月国立劇場で上演された郡司正勝監修によるテキストがほぼ定本と考えて良いものです。この時に「発端・江ノ島稚児ヶ淵」が文化14年の初演以来初めて復活されました。もっともこれ以前の「桜姫」上演は初演を除けば・昭和2年・昭和5年・昭和34年の三回だけのことです。「桜姫」は戦後になって当代玉三郎によって見出された と言える芝居です。この「桜姫」は「発端」があるとの・無いのでは芝居の様相が全然違います。「発端」があると、この作品を貫く「桜姫という業(ごう)」が観客に明確に見えてくるのです。

「発端」では・桜姫の前世である白菊丸が登場しますが、この「発端」は輪廻転生という・現代においてはちょっと古臭い(?)仏教思想の説明のための場ではないのです。もしそうなら次の17年後の「新清水の場」において・台詞で経過 を説明して済ませてもそれで足りそうなものですが、そう言うものではありません。「業(ごう)」という宇宙の律を観客に印象付けるために「発端」は省かれてはならない場なのです。「桜姫」の主題は輪廻ではありません。輪廻転生は宇宙の律のひとつの現象に過ぎないのです。「桜姫」の主題は、その後の互いに引かれては離され・離されてはまた引き寄せられる清玄と桜姫のその不思議な関係のなかにあるのです。

このことが理解されれば、大団円で桜姫が元の姿に変わってしまうことが奇異に感じられなくなります。あそこまで堕落して・情夫も赤子まで殺して・それで平然として清らかなお姫様に戻れるのかというのは現代人の倫理感覚です。キャラクターと行動を連続 したものと考えるからそういう見方になるのです。この大団円は出発地点に戻ったと言うことではありません(表面だけを見ればそのように見えますが)。正確に言えば精神と肉体・あるいは善と悪 の葛藤状態から解脱し・感覚的な平衡状態(プラスマイナスゼロ)になったということです。そこから新たな物語が展開していくのです。 (この稿つづく)

(H17・11・16)


○「桜姫」断章・その6:「三囲」の重要性

「三囲の場」は母性喪失の・完成されないままに残された「隅田川」です。桜姫が一瞬垣間見せた聖性(母性)はひとつには隅田川河畔・梅若塚の傍という土地のイメージに桜姫が触発(インスパイア)されたものです。しかし、もうひとつ・それは清玄が桜姫のなかから引き出したものだと言うこともできるかも知れません。その聖性(母性・母親が持つ本来の人間性)は権助との生活のなかでは決して引き出 すことのできないものです。温かい人間性がこの場でその片鱗でも桜姫のなかに見い出されたということは、それは清玄が引き出したものです。それは清玄だからこそ可能なことです。

もしここで二人が出会うことが出来たなら、二人は赤子を伴ってどこかで暮らすことになったかも知れません。「隅田川」の斑女の前と梅若のイメージが観客のなかにダブります。「・・互いの存在に気が付いてくれ」と観客に思わせます。観客にそう思わせておいて・宿業は無情にもその寸前でふたりを引き離してしまいます。

この場では桜姫よりも・清玄の方がずっと惨めです。清玄は桜姫の子供を抱くという形でしか桜姫との絆を確認できません。桜姫の産んだ赤子は、清玄にとって白菊丸(=桜姫)の分身のように思われます。だから清玄はこの赤子を見捨ててしまうことができません。ここでは清玄は桜姫が喪失した母性を代替えすることを求められています。母親の役割を引き受けることによってしか、清玄は桜姫(=白菊丸)との絆を確かめられないのです。そこに清玄(=自久)の言い知れぬ哀しみが見えてきます。「三囲の場」で観客は前世のふたり・自久と白菊丸の不思議な因縁を思い起こさせます。清玄と桜姫は不思議な運命によって手繰り寄せられ・引き寄せられ、そしてまた引き離されるのです。

このような清玄と桜姫の宿業にからまった不思議な関係を象徴的に描いているのが「三囲の場」なのです。だから「桜姫東文章」において「三囲の場」は決しておろそかに扱われてはならぬ場です。それは芝居のほぼ中央に置かれ・桜姫あるいは清玄の転落のドラマの転換点に当たります。それは同じく鶴屋南北作である「東海道四谷怪談」で言えば「隠亡堀」に相当します。「四谷怪談」は初演時には「忠臣蔵」とテレコで2日掛けて上演されて・「隠亡堀」は第1日の終わりと第2日の始めに重複して上演されたことが知られています。つまり「隠亡堀」はお岩と伊右衛門とのドラマの転換点に置かれた重要な幕であるわけですが、「桜姫」での「三囲の場」も同じような重要性を持つ幕であることを付け加えておきます。(この稿つづく)

(H17・11・14)


○「桜姫」断章・その5:母性喪失の「隅田川」

桜姫に母親としての情があるだろうかということも問うてみる必要があります。はっきり言えば「ない」と言うべきでしょう。子供のことを思うようなことも桜姫は 劇中で確かに言っています。しかし、何だか取って付けたような白々しい感じがします。どこまで心底母親としての心情の台詞なのかがはっきりしません。「三囲の場」の割り台詞を見てみます。

「(桜姫)いずくの誰が手塩にて、育つ我が子を一目なと、(清玄)逢うて重なるこの恨み、(桜)恋しゆかしの、みどり子の、(清)顔が目先へ桜姫。(桜)逢いたい、(清)見たい、(桜)仏神様、(清)姫に、(桜)我が子に、(清)何とぞ、(両人)逢わせて下さりませ。」

二人の科白はすれ違いで、清玄は桜姫に逢いたがっていますが、桜姫が逢いたいと言っているのは我が子(清玄の抱いている赤子)です。お互い勝手に言われている・すれ違いの 割り科白です。しかし、一方でそれが微妙に呼応し合っています。そこに清玄と桜姫の前世の因縁を感じさせます。「恨みー恋し」・「逢いたいー見たい」・「姫にー我が子に」・「何卒ー逢わせてくださりませ」。オペラの二重唱のように二人の心情が溶け合ってひとつの科白を作り出します。

しかし、やはりここで桜姫が我が子に逢いたいと言い出すのはにわかに信じ難いのです。権助に逢いたいと言う方がまだしも本当らしく聞こえます。清玄と権助との間で揺れる桜姫が、突然ここで母親の情などと言い出すのは不似合いに思われます。そんな桜姫が我が子に逢いたいと言い出すのは何故でしょうか。それは きっとこの隅田川の畔・三囲神社に近い梅若塚の地母神が為させるものです。桜姫のなかに本来ほとんど存在しない要素がここで触発されて・呼び覚まされているのです。桜姫の姿が謡曲「隅田川」で我が子梅若丸の姿を求めてさまよう狂女の姿とだぶります。

観世十郎元雅の作と伝えられる謡曲「隅田川」は、子供を人買いにさらわれた都の女(斑女の前)が、子供の姿を求めてあちこちを尋ねまわり、ついにはるばる東国の隅田川のほとりに までたどり着きます。そこでちょうど一年前に隅田川のほとりで非業の死を遂げた少年があったことを知ります。その少年こそが我が子梅若であったことを知った狂女は塚に向って念仏を唱えます。すると我が子の幻が狂女の前に立ち現れるという悲しい物語です。

「三囲の場」は、清玄と桜姫の悲しい宿業を象徴しています。暗がりのために両人は互いにそれとも知らずにすれ違います。桜姫は我が子に逢うことは出来ず、桜姫のなかに一瞬 でも蘇った聖性(母性)は成就されません。つまり桜姫はついに「隅田川の世界」のシンボルたり得ません。「三囲の場」で二人はすれ違い、観客に謡曲「隅田川」の世界をすれすれに垣間見させて素通りさせてしまいます。「三囲の場」は母性喪失の・完成されないままに残された「隅田川」なのです。 (この稿つづく)

(H17・11・12)


○「桜姫」断章・その4:権助はもう死んでいる

「山の宿」では桜姫の傍に清玄の幽霊が登場します。桜姫は「前世は稚児白菊かは知らねども、こっちの知ったことじゃなし。いわばそなたにこっちから、恨みこそあれ恨まるる、コレ話はねえよ。世に亡き亡者の身を以って緩怠至極、エエ消えてしまいねえよ。」と幽霊に悪態をつきますが、幽霊が権助の正体を告げることで・ドラマは急展開します。結局、この後、桜姫は権助と・ふたりの間に出来た赤子を殺してしまいます。

ここで大事なことは、執拗につきまとう清玄からあれほど逃げ回っていた桜姫が・ここでは幽霊の言うことを素直に聞くことです。もちろん権助を殺す前に・桜姫は注意深く権助にそのことを確かめますが、桜姫が幽霊の告げたことを真実だと感じたことは疑いありません。もちろん幽霊の告げたことは正しかったのです。桜姫はもはや逃れようのない宿業のなかに自分があることを悟るのです。

なぜ桜姫は幽霊の言うことを聞くのでしょうか。清玄が生きていた時はねじれきった宿業が桜姫を遠ざけていました。しかし、死んだ清玄はもはや宿業の束縛から解き放たれています。だから桜姫の耳には幽霊の言葉が素直に響いてくるのです。桜姫が女郎屋にいる時は客が傍にいますから・幽霊は桜姫に語り掛けることができませんでした。そこで幽霊は客の枕元に頻繁に出てきて・桜姫が女郎屋勤めができないようにしてしまいます・そして山の宿で初めて幽霊は桜姫に語り始めるのです。

幽霊の告げるところによって権助が部分(パーツ)に過ぎなかったことが明らかになります。本体の清玄がこの世に在った時には・宿業の働きにより権助はその片割れとして対比的な位置を確保し・勝手な振る舞いが出来たわけです。しかし、清玄が死んだ今・権助の役割は終わっているのです。権助は精神を欠いた肉体だけの不完全な・魅力のない男性であることが桜姫の前に明らかになります。権助はすでに死んだも同然の存在です。だから桜姫は権助を簡単に殺すことができるのです。

権助との間に出来た赤子についても触れておきます。「不完全な男性」との間に生まれた赤子もまた「完全な赤子」とは言えません。この不幸な赤子は権助との愛の証などと言うものではなく、ただその腐れ縁を象徴するもの ・ただの付随物でしかないのです。だからこの赤子には名前さえありません。桜姫が自らの宿業に立ち向かい・権助を殺す時、我が子も殺してしまうのは非情だと思えるかも知れませんが、しかし、演劇的暗喩から見れば・ このふたりはセットなのです。桜姫が過去を清算する気なら・権助を殺しておいて赤子を殺さないでは済まないことです。(この稿つづく)

(H17・11・10)


○「桜姫」断章・その3:清玄が本体である

清玄と権助というふたつの部分(パーツ)が、もともと所化自久というひとりの男であったということは大事なことです。まあ、言ってみれば死に損なった自久から肉体 (権助)を取り去った抜け殻が清玄と思えば良いのです。しかし、清玄と権助のどちらが本体であるかと言えば・それは清玄であることは間違いありません。抜け殻であるとは言っても・自久の本質は清玄が引き継いでいるからです。権助には「桜姫という業(ごう)」を認知する能力はありません。権助が清玄の位置に取って代わることが決してできないのはここから来ます。しょせん権助は清玄から切り取った部分(パーツ)に過ぎ ません。

このことは「岩淵庵室」で明らかになります。清玄はトカゲの毒を飲まされますがなかなか死なず、しかし、顔に痣ができて面相が変わってしまいます。スッタモンダの騒動のあげくに・清玄は最後には死んでしまいますが、すると不思議なことに権助の顔に清玄と同じ痣が浮かび上がります。権助の面差しに清玄の面影を見て桜姫はギョッとします。ひとつにはここで清玄と権助は生き別れした双子の兄弟であったという背景が暗示されます。双子であるということはふたりが切り離された自久であるということの暗喩です。

権助の顔に清玄と同じ痣が浮き上がることの重要な意味がもうひとつあります。それは観念的に言えば「権助はもう死んでいる」ということです。本体が死んでしまえば、片割れが部分(パーツ)としての役割を機能することはもうないのです。確かに芝居では権助はもうしばらくは生かされます。しかし、演劇的暗喩としてはすでに死んでいるのです。だから済みなった権助を・桜姫は簡単に殺してしまいます。(この稿つづく)

(H17・11・8)


○「桜姫」断章・その2:切り離されたふたり

「桜姫東文章」のドラマは阿闍梨清玄と釣鐘権助は対比的に位置付けされて展開して行きます。清玄と権助との関係は男性の精神と肉体のふたつの要素に比喩されるでしょう。あるいは聖と俗に比喩されるとも考えられます。いずれにせよ桜姫は清玄によって引き上げられ・権助によって引きずり落とされるかに見えます。実は彼らは「桜姫という業(ごう)」によってそういう役割を演じさせられているだけなのですが、まあ、芝居においては彼らが桜姫を翻弄していると表面的にはそう見えます。だから清玄と権助は切り離された男性のふたつの部分です。このふた役をひとりの俳優が兼ねることで演劇的暗喩が機能するということは別稿「似てはいても別々の二人」でも考えました。

清玄と権助は切り離された男性のふたつの部分であるということは、どちらの存在も男性として完全ではないということを意味します。清玄は「肉体を喪失した精神だけの存在」、一方の権助は「精神を欠いた肉体だけの存在」です。どちらにしても桜姫を幸福にすることはできません。桜姫は清玄が自分を精神的に高めてくれる存在であることは分かっているのですが、それに応えることはできません。桜姫は権助に肉体的に惹かれていますが、それが幸福を与えてくれる存在でないことも分かっているのです。

それでは清玄と権助とがふたつに切り離される以前の完全な男性の形があったのでしょうか。それはあります。それは「江ノ島児ヶ淵の場」に登場する長谷寺の所化自久、すなわちその後に阿闍梨清玄となる男でした。自久は相思相愛の稚児白菊丸と児ヶ淵において投身心中を図りますが、岸壁の波に恐れをなして身を投げることが出来ず・死に損ないます。この時点で所化自久は「完全な男性」ではなくなってしまったのです。

江の島稚児ヶ淵から海に飛び込んだ時、白菊丸は自久との来世での再会を願ったでしょう。「お前と一緒に未来まで、どうぞ女子に生まれ来て・・・」その願い通りに白菊丸は桜姫に転生するのですが、自久の方が後を追って死ぬことが出来ずに白菊丸を裏切ったのです。本来ならば・ 白菊丸は桜姫として生まれ変わって、同じく生まれ変わった自久と再会 して結ばれるはずでした。しかし、裏切られた白菊丸は生き残った自久の不実を責める存在として転生することになるのです。その時から世界はねじれてしまったのです。

惨めにも生きながらえた自久・すなわち後の清玄はもはや「男性」として機能することはあり得ません。演劇的に見れば、自久はこれ以後ふたつに切り離されたのです。それが肉体を喪失した精神だけの存在である清玄と ・精神を欠いた肉体だけの権助のふたりなのです。(この稿つづく)

(H17・11・5)


○「桜姫」断章・その1:清玄の物語

別稿「桜姫という業(ごう)」で「桜姫東文章」において桜姫は清玄・権助というふたりの男性の間で翻弄され・右に行ったり左に行ったりして・いわば他動的に分裂した性格の変幻を見せる役だと一般的に思われていますが・実はそうではなかったということを考えました。

桜姫という存在が宇宙の連関性を消し去り・この世の本来あるべき姿をねじれさせ・周囲の人々を翻弄しているのです。このことを桜姫本人が自覚していようがいまいが、これが桜姫という存在が背負った業(ごう)なのです。つまり、「桜姫という業(ごう)」がデンとして作品の中心に一貫してあるのです。とすれば「桜姫東文章」のドラマは桜姫を中心に置いた曼荼羅絵の様相を呈してきます。この「桜姫という業(ごう)」の存在を唯一認知しているのが清玄です。このことは密教の根本である理趣教の思想と密接な関連があります。だから清玄は真言宗の阿闍梨に設定されているわけです。

以上のことから「桜姫東文章」は清玄の物語であると読むこともできます。もちろんもうひとり権助という・清玄と対立的に置かれている非常に重要なキャラクターがいます。しかし、それでも「東文章」を権助の物語であると言う事はできません。作品全体から見ると清玄の存在は決定的に重いもので、権助が清玄の位置に取って代わることは不可能なのです。

このことは「義経千本桜」において各段で知盛・権太・忠信が主人公として活躍しても・作品全体として見れば真の主人公は義経であるというのにも似ています。「千本桜」においても義経という存在がなければ、知盛も権太も忠信もありません。清玄は「桜姫東文章」の作品に一貫して「桜姫という業(ごう)」の存在を認知する者として在るのです。清玄がいなければ桜姫もいないとさえ言えます。そのようなことは作品全体を見渡して見えてくることです。(この稿つづく)

(H17・11・4)


○音楽と言葉・その16:山田耕作の挑戦

「オペラってものは拡大するんだ」という山田耕作の言葉は西洋のオペラのことを言っているわけではありません。自分が理想とする日本語の楽劇(オペラ)のイメージを言っているのです。これは山田耕作が歌舞伎をかなり研究したことをうかがわせます。日本語でオペラを作るなら「言葉は 自然と伸びる」・伸ばさないで済ますならその方がいいが・伸びる方向に向かおうとすると考えたのでしょう。「オペラってものは拡大する」というのは歌舞伎を知っている人でないとなかなか出てこない表現であると思います。

現代歌舞伎の黙阿弥の七五調を見ていますと、一音が一音符一拍子でタンタンタン・・と進み、もはや七五でもなく・拍さえ喪失している印象を持ちます。伸びきっちゃってるわけで、これを私は「黙阿弥のダラダラ調」と呼んでおります。「音楽的」ということを意識すると台詞は自然にそうなってしまうということなのかも知れません。だからこそ黙阿弥の台詞をしゃべる時には写実のベクトルを意識しなければならないわけです。

ところで西洋音楽というのは集積(アキュムレーション)の要素の強い音楽でして、第1主題があって・それが展開して第2主題に移行し・そして全体がひとつの形として構築されるという 建築みたいな感じが強いものです。和声(ハーモニー)も同じで、いろんな音の集積がひとつの内的なイメージに集約するという感じです。これに対して、邦楽の場合はひとつの音があり・それが 川の流れのように伸びたり縮んだりしながら・流れに身を任せたり離れたりという感じなのです。この西洋音楽と邦楽の相克のなかで山田耕作は苦しんだのでありましょう。

山田耕作の作品に長唄交響曲「鶴亀」(昭和9年)というのがあるそうです。先日(10月15日)に東京芸術劇場で「山田耕作の遺産」と題するコンサートがあり、湯浅卓雄指揮東京都交響楽団と長唄囃子連中によって演奏されたそうです。私は残念ながら聴いておりませんけど、聴いた人の話では和洋の オーケストラ(お囃子連中も英語で言うとオーケストラになる)のぶつかり合いが「実に気色悪い」(笑)とのことでありました。これは何となく分かる気もしますが、しかし、山田耕作がこういう挑戦をしたということを 吉之助は重く受け止めたいと思うのです。

(H17・11・2)


○音楽と言葉・その15:拡大する言葉

団伊玖磨氏の「一音符一語」批判をもう少し考えます。団氏の山田耕作の思い出話から引きます。

『山田先生のオペラは、一音符一語主義というご自分のシステムに忠実ですから、どうしても人間の思考速度が無視されるのです。歌劇「黒船」のなかの緊迫した場面で、お吉が弁天島で姉さんにものを聞く場面があるのですが、そこで「ね・え・さ・ん/お・し・え・て/ちょ・う・だ・い/な」って歌うんだな。(・は音符の区切り、/は小節の区切りとお読みください)自分の運命がどうなるかという差し迫った時にこんなのんびりした言葉は変だ。「姉さん・教えてちょうだいな」と言うのじゃないですかと言ったら、うん、それはそうだけど、オペラってものは拡大するんだとか言っておられた。劇的な迫力というようなものは管弦楽でつけて、歌はいつも情緒的に歌うのだとういうことを、ご自分独特の楽劇観からつねづね言っておられましたから、あのオペラも四時間くらいかかるでしょう。内容的には一時間半のものだと僕は思います。それがあんなに拡大されると、全部がピントの甘いレンズで見ているようなふやけ方になることにはどうも気がつかれなかった。あれほど演劇に詳しかった人でも自分のオペラになると、自分のシステムに淫したのですね。」(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

山田耕作の「オペラってものは拡大するんだ」という発言が非常に面白いと思います。団氏は「あんなに演劇に詳しかった人なのに・・」と言っていますが、逆に吉之助は「オペラってものは拡大するんだ」という山田耕作の表現は (団氏はよく呑み込めていないようですが)演劇に詳しい人でないと絶対に出てこない発言だと感じるのです。この場合の演劇はもちろん歌舞伎のことを言っています。もっと具体的に言えば黙阿弥の七五調です。黙阿弥の七五調の台詞もまた「拡大する」ものです。また、劇的な緊張は差し置いて台詞はいつも情緒的に歌われているのです。

「自分の運命がどうなるかという差し迫った時にこんなのんびりした言葉は変だ」というのは自然主義演劇の観点ならばその通りです。「あのオペラは内容的には一時間半のものだ」も 多分その通りだと思います。しかし、作品にするとこうなっちゃうわけです。

別稿「試論:黙阿弥の七五調の台詞術」でも触れましたが、吉之助は黙阿弥の七五調の本質は写実に立たねば見えないという考えです。黙阿弥を写実に引き戻すために 「一音符一語」のリズムは崩さなければならないと思っています。その意味では団氏の言いたいことは分かり過ぎるくらいよく分かります。しかし、そのような情緒に傾斜し・拡大しようとする傾向を黙阿弥の七五調が持っていることもまた確かなのです。そうして情緒を精妙に描こうとするほど次第に拡大して・ダラダラ調に変化していきます。その勘所が「一音符一語主義」にあると思っています。それと似たような傾向を山田耕作のオペラもどうも同じように辿っているらしいのが、実に興味深く・いじらしく思うのです。これは偶然の一致ではない。音曲に立脚したところの日本演劇の宿命みたいなものかも知れません。 (この稿つづく)

(H17・10・30)


○音楽と言葉・その14:「一音符一語」は不自然か

「一音符一語」というのは明治になってから西洋音楽が入り込んできて・西洋音階に日本語を無理矢理合わせたために出来たものなのでしょうか。どうもそうではないようです。子供に言葉を教える時に「サ・ク・ラ」、「フ・ジ・サ・ン」と区切って教えることは明治以前にもあったことと思います。だいたい日本語というのは音節が極端に少ない例外的な言語で・いくら小分けしても音節は百もないのですが、こういう言語は珍しいのです。中国語などは「ア」だけでも音節が上がったり・下がったり何種類もあるそうです。

話は変わりますが・明治になって隆盛を見た芸能に娘義太夫(女義とも言う)というのがありますが、これの大スターといえば呂昇でありました。全盛期の呂昇の人気は凄まじいもので、男子学生が劇場に詰めかけ・クライマックスになると「どうする、どうする」と叫ぶので「ドースル連」と呼ばれた追っかけ連中に囲まれていたくらいのものでした。その呂昇が各地を巡業しながら旅先で民謡採集を行い・三味線で採譜をして・それをせっせと東京に送っていたという話があるのです。譜を受け取っていたのは音楽学者の兼常清佐で した。彼は洋楽を研究しながら変った人でして、「ピアノなんぞにタッチなんてものはない・ルビンシュタインが弾こうが・猫が鍵盤の上を歩こうが・同じ音がする」という極説を唱えた人であります。この兼常が呂昇に民謡収集の必要性を説き・これに共鳴した呂昇が民謡収集を行ったのだそうです。呂昇の集めた譜は貴重な文献ですが、呂昇は旅先で土地の人を呼んで・その歌を三味線で音を合わせながら採譜したのです。基本的には今の音楽学者が五線譜に音をとるのと同じ手法です。つまり、やはり原則は「一音符一語主義」なのです。

呂昇は民謡の音は三味線の譜(つぼ)に決してはまらないものである・その音程のずれをどのようにつかむかが問題であるということも指摘しています。この点は別次元の問題ですが記しておきます。本稿では呂昇が「一音符一語」で採譜していることを確認しておきます。これは何でもないことのように思いますが、やっぱり大事なことです。つまり「一音符一語」というのは別に西洋音階の概念に慣らされた人だけのイメージではないわけです。案外、日本人の自然な言葉のイメージなのかも知れません。

ところが西洋音階で日本語の歌曲を作ろうとすると・団伊玖磨氏のように「一音符一語」に不自由さを感じてしまう人も出てくるというのが興味深いところです。「一音符一語」を頑なに守ったかに見える師の山田耕作の歌曲も、またその旋律のなかにもしかしたら団伊玖磨氏と同じ割り切れぬ思いをその心底に抱いていたかも知れぬ(別稿「その12」をご参照ください)とすれば、音楽と言葉の問題はなかなか微妙なものだということを感じずにはいられません。

西洋の絶対音階の体系で日本語の歌を書くことを仕事にしている団伊玖磨氏のような方が「一音符一語」に不自由さを感じている気持ちは何となく分かります。西洋音楽の授業では器楽から始まって・メヌエットを書く・変奏曲を書く・ソナタを書く・オーケストレーションを学ぶ、そうしたことの後で最も難しいものとして歌曲を書くことを学ぶのです。いわば音楽と言葉の融合作業は最も難しい・究極のものとしてあるのです。

その一方で、そのようなことをあまり深く意識しなければ(というと語弊があるが・気楽に考えればということですが)日本語の歌はびっくりするほどイージーに出来るのです。日本の場合は作曲も・まず歌から始まる場合が少なくありません。これは邦楽というものが声楽が主流で・言葉を転がせばなんだか歌のようになってしまう伝統から来るものかも知れません。 (この稿つづく)

(H17・10・29)


○音楽と言葉・その13:一音符一語

これも奇妙なことだと思いますが、クラシック音楽を専門で学んだ歌手が歌うと日本歌曲の言葉がよく聞き取れないということがしばしば起こります。シューベルトの歌曲は上手なのに、日本歌曲のイントネーションが変に聞こえるのです。むしろ、アマチュア歌手が歌う日本歌曲の方が発音が素直なのか言葉がよく聞こえます。これは恐らくクラシックの歌手は旋律の流れから情感を意識的に込めようとして・言葉の抑揚を無視してしまい勝ちだからかも知れません。上手の手から水が漏れるという奴です。しかし、両方描き分けられるのがホントのプロなのですがね。

『西洋の声楽家が日本に来て、アンコールに日本の歌をよく歌いますが、向こうの発声法の人であるにもかかわらず言葉がよく聞こえますね。これは日本の声楽家への大変な挑戦状じゃありませんか。向こうの発声法でもそのシステムが本当に身体の中に入り込んでいれば、外国語である日本語を聞いた場合に、自分の発声のヴァリエーションのどこかで日本語をとらえられるのではないですか。おそらくシューベルトの歌を歌う場合とモーツアルトのオペラを歌う場合は発声法を変えているのですね。しかし、それが生半可な習得だと、硬直状態でいつも同じ発声法になってしまうのではないでしょうか。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

ジェシー・ノーマンがリサイタルのアンコールで「さくらさくら」を歌ったのを聴いたことがありますが、やはり実に素直に歌っていました。「さくらさくら」のような一音符一語の歌であると「一音符」の長さをひとつの音程で一語を一定に保つことが・西洋歌曲の感覚であると単純過ぎて逆に難しいのだろうと思います。ノーマンは技術があるからそれができるのです。ひとつには息を腹に保つ力の差かも知れません。「さくらさくら」の時もひとつひとつの音を手のひらに乗せて大事に大事に扱うように発声している感じがしましたね。それと意味が分からないまでも日本語の語感を天性でつかんでいるのでしょう。

ここで「一音符一語」の問題が出てきます。団伊玖磨氏は日本歌曲のなかにある「一音符一語主義」に対してこう批判しています。

『日本語をどのような音型化してくかという問題にしても、一音符一語主義が無批判的に伝承されてきて、例えば「私はあなたを愛します」は「ワタシハアナタヲアイシマス」と十三の音符で書いて疑わない。外国の歌で「I  love you」なら三つ、「Je t'amie」なら二つの音符で表現できるのに日本語では十三音符が必要だということの不自然さに気がつけば、日本語をどう音楽化するかというシステムを作ったはずでしょう。そういうことだけでも先輩たちの手でできていたら、次の時代にまったく新しい生きた日本語の歌ができていたはずでしたね。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

この団伊玖磨の「一音符一語主義批判」については賛否両論あるところでしょうが、本稿においては日本の歌に「一音符一語」という原則みたいなものがあるらしいという認識に留めます。この「一音符一語」についてさらに考えてみます。 (この稿つづく)

(H17・10・27)


○音楽と言葉・その12:豊かな抑揚への憧れ

今回は前稿と逆みたいなことを書きます。手元に「へフリガー・日本の歌曲を歌う」というCDがあります。(1992年5月録音・東芝EIM) ドイツの名テノール:エルンスト・へフリガーが、ドイツ語訳で日本の歌曲を歌ったものです。これが 実に素晴らしいのです。この録音のきっかけはへフリガー自身がこう語っています。

『外国のアーティストが日本の歌曲を歌うことはこれまでもなかったことではありません。しかし、その多くがアンコールでのご愛嬌の域にとどまっていたのも事実です。私は、その日本歌曲の魅力を、純粋に私自身の目で、耳で、そして心で捉えた解釈で歌おうと考えたのです。』(エルンスト・へフリガー:CD解説より)

歌詞翻訳は村上紀子さんとマルグリット・畑中さんのふたりにより行われたそうですが、この翻訳が素晴らしくて・まるでこれらの歌曲が初めからドイツ語の詩に作曲されたかのように聞こえます。例えば山田耕作作曲・北原白秋作詞の「この道」を聞きますと、

白秋詩「この道はいつか来た道 ああそうだよ あかしやの花が咲いてる」
ドイツ語訳「Ja, diesen Weg / seh ichi mich einmal gehen. / Ja, Ja, auf diesem Weg, / Akazienbaeume seh ich,  / Akazien seh ich bluehen. 」

白秋の詩の雰囲気をドイツ語詩としてどこまで捉えているかは分かりませんが、曲のイメージはしっかり守られていて・実に音楽的な翻訳であると感心します。言葉の抑揚が音楽に結びついています。ヘンな話であるが日本語で歌われるよりもずっと良いと私には思われました。いや北原白秋にも・山田耕作にも申し訳ないと思いますが、しかし、このCDはずっと私の愛聴盤なのです。純粋に音楽が味わえる、そんな気がします。

吉之助がずっと感じていることは・この試みの成功は翻訳のうまさにだけ帰せられるものではなく・もうちょっと本質的な問題があるのではないかということです。それは山田耕作の音楽がもっと豊かな抑揚を その心底に求めているように思われることです。つまり日本語の平坦な抑揚では単純過ぎて・微妙な感情の綾を洋楽の手法では十分に拾い上げられない・ あるいは旋律の持つ叙情を日本語の抑揚が支え切れない、そのようなことがあるのではないかと感じます。そのような日本語と西洋音楽を結び付けようとする明治の先達の作曲家たちの苦労のほどが偲ばれる、そんな気がするわけです。ドイツ語の歌詞を得て・山田耕作の曲はやっと安息の地を見出したかのように聞こえるのです。やっぱりリートに向いているのはドイツ語だなあとも思いますね。

*注:「エルンスト・へフリガー・日本の歌曲を歌う」は東芝EMIから第3集まで発売されましたが、現在は廃盤のようです。機会あれば是非聴いてみてください。(この稿つづく)

(H17・10・25)


○音楽と言葉・その11: 音楽は原語で聴くべきか

義太夫や清元・長唄などを「言葉がよく聞き取れない・分からない」から敬遠するという向きは多いと思います。古いとは言え日本語ですから・部分的には分かると思いますが、全部理解しなくちゃいかんと重圧感じるのでありましょうね。聞き取れなくてもいいと思いますよ。全部聞き取ろうと思うと疲れるじゃありませんか。

西洋でもイタリアオペラを聴く時にドイツ人が・あるいはフランス人がどれだけイタリア語を分かって聞いているのかはよく分かりませんが、ついこの間までオペラは現地の言葉に翻訳された歌詞で歌われるのが普通であったことでその事情は大体察しがつくでしょう。手元に1955年のウイーン国立歌劇場で・当時の音楽監督カール・ベームの振ったモーツアルト:歌劇「ドン・ジョヴァン二」の録音がありますが、これはドイツ語翻訳による上演です。オーストリア出身のモーツアルトの作品が原語(イタリア語)でないのです。この時代には外国語のオペラは現地語に翻訳したもので上演されるのが当たり前のことでした。オペラは筋が分かるのが優先であったのです。しかし、たまに外国からゲスト歌手を招聘したりしますと、彼らは自分の国の言葉で歌うので・舞台で三ヶ国語が行きかうなんてことがウイーンでも珍しくなかったのです。

この慣行を原語上演に直してしまったのは1956年からウイーン国立歌劇場の音楽監督に就任したヘルベルト・フォン・カラヤンですが、これには物凄い抵抗があったのです。しかし、今ではどこでも原語上演が普通のことになっています。(現在は電光掲示で翻訳を流すということも可能になっていますので状況は改善されています。)カラヤンがオペラの原語上演で意図したものは、作曲者が意図した音楽的表現を実現しようとするものでした。つまり、音楽と言葉の 抑揚(イントネーション)のより緊密な関係の実現です。逆に言えばオペラの筋を理解することは二の次にされたということでもあります。まあ、予習して来なさいということかも知れません。

吉之助も長年オペラファンを自認はしてますが、イタリア語が分かるというレベルではとてもありません。それでも十分音楽は楽しめますが、しかし、やはり言葉が分かるに越したことはないと思います。台本を広げて・対訳を見比べながら・歌詞を追ってオペラを聴きますと、なるほど作曲者はこういう言葉の抑揚にこういうメロディを当てるのか・ 言葉の意味と抑揚はこれほどに緊密に結びついているのか・なるほど・・・とその妙に時間を忘れますよ。やはり音楽は原語で聴く方がいいのかなと思いますね。 (この稿つづく)
 

(H17・10・22)


○音楽と言葉・その10:音楽と朗誦

ディーリッヒ・フィッシャー=ディースカウは、ドイツ・リート界における巨人とも言うべき存在です。その詩文理解力は群を抜いており、歌唱において言葉が明瞭なこと、そのイマジネーションと言葉のイントネーションの統一感があることではほとんど比類のない存在と言ってよろしいでしょう。

一方で歌曲ファンには「F=ディースカウはどうも朗読みたいで・歌の面白味に乏しい」と言う方も少なくないのもこれまた事実です。いささか古いですが・例えばハインリッヒ・シュルスヌスやレオ・スレザークの歌う・実に甘美で響きの 滑らかな旋律で酔わせるシューベルトと比べると、F=ディースカウのは理屈っぽくて・どこかゴツゴツしている感触があります。しかし、読みの深さにおいてF=ディースカウほどの歌手はなかなかいないと思います。

シュタイナーの言うところの「音楽的要素を強調した朗誦」とは言葉自体というよりは抑揚(イントネーション)に重きを置いた朗誦です。これを延長していけば、抑揚のなかから自ずとメロディが生まれてきます。そして言葉の意味がメロディのなかに沈んでいくのです。「言葉が咲きか、音楽が先か」というのは、西洋音楽に出てくる永遠の命題ですが、このバランスをどう取るかが大事なのです。

『どういう詩にメロディをつけるべきかが作曲する時の最も大事な点かも知れません。詩によっては、最初からメロディをつけてくれと叫んでいるように見える詩があります。そういう詩に作曲する時は言葉のウェイトをちょっと控えておいてメロディ優先の書き方がとられるでしょう。一方、ある思考を的確に・確固とした形で表明している詩に対しては、むしろメロディにはお休みしてもらって言葉優先という処置が取られることになるでしょう。』(ディーリッヒ・フィッシャー=ディースカウ:1993年8月・「レコード芸術」でのインタビューより)

そのような言葉と音楽のバランスが最もよく取れた作曲家がシューベルトです。まず感心するのはその詩の選択・さらにその読み込みの深さです。そして言葉の抑揚とメロディが緊密に結びつき、逆にメロディが言葉の情感を見事に描き出していることです。

ゲーテは音楽に非常に関心の強い人で、その周囲には音楽家が大勢おりました。彼らはゲーテの詩に競って作曲して・その曲をゲーテに捧げました。しかし、ゲーテ自身はシューベルトの作曲をあまり評価しなかったようです。例えば「野ばら」ですが、ゲーテが好んだウェルナーの「野ばら」を聴きますと・そこに聞こえるのは可憐で素朴な野の花です。シューベルトの「野ばら」を聞きますと、その花の色はより鮮やかで妖艶です。まるで「私を摘んでごらん・その代わりあんたを刺してやるから」と誘っているかに聞こえます。シューベルトは詩のイメージを掘り下げ・ある意味で詩のイメージをさらに読み替えているところがあるかも知れません。ゲーテにはそこがちょっと疎ましかったのかも知れません。(この稿つづく)

(H17・10・21)


○音楽と言葉・その9:朗誦について

音楽と言葉との関係についてシュタイナーは次のように語っています。

『彫塑的・造形的なものは人間の個体化のために働き、一方、音楽的・詩的なものは社会生活を促進させるために働きます。音楽的・詩的なものは統一を作り出します。人間は彫塑的・造形的なものを通して個定化されます。個性は彫塑的・造形的なものによって維持され、社会性は音楽や詩の共同活動によって維持されるのです。(中略)だからこそ子供の心のなかに音楽と詩への欲求と特に喜びとが育成されるべきなのです。子供は早いうちから優れた詩文を覚えておくべきです。今日での社会では散文ばかりが幅をきかせています。今日多くの朗誦家がいますが、彼らは人々に散文だけを押し付けて、文芸作品の内容的側面だけに注意を向けています。そして詩を朗読する時にも内容上のニュアンスに重点を置き、そうすれば完全な朗誦になると思っています。けれども本当に優れた朗誦は音楽的要素を強調する朗誦なのです。シラーのような詩人は魂の奥底から詩を生じさせました。シラーは試作する時、しばしば魂のなかに、初めはメロディのようなものが浮かぶのを経験しました。そしてその後で彼はこのメロディのなかへ内容を、そして言葉を沈めたのです。現代風の朗誦の仕方では押し付けになると私は申しました。なぜなら散文、つまり詩の内容だけに主要な価値を置き、しかもそれをまったく抽象的に受け取っているからです。概念内容を芸術によって流動化しなければならないのです。』(ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

このように子音(彫塑的・造形的なもの)は人間の個体化のために働き、母音(音楽的・詩的なもの)は社会生活を促進させ、統一を作り出すわけです。ドイツ語はイタリア語と比べると子音が強く響き、そのために論理的要素の強い言葉です。イタリア語はどちらかといえば母音が強く残る言葉です。するとイタリア語を使ったモーツアルトの歌でも、ドイツ人とイタリア人ではアプローチが微妙に違うということも起こります。

名歌手ディーリッヒ・フィッシャー=ディースカウは歌唱における朗読の必要性を重視する人ですが、イタリア人歌手の歌うモーツアルトは自分たちドイツ人から見ると正しく歌えていないと言っています。モーツアルトは子供の頃からイタリア語を学び・流暢にイタリア語を話せたのですが、それは何となくオーストリア訛りの入ったイタリア語であるそうです。だから それを理解していないと、イタリア人がモーツアルトを歌う時のように必要以上に歌いすぎるというのです。(1993年8月・「レコード芸術」でのインタビューより)

 面白い指摘ですが・これは何となく分かる気がします。ミラノスカラ座での「ドン・ジョヴァン二」や「コジ・ファン・トゥッテ」の上演の録音を聴くと、歌は流麗(レガート)なのですが・ どことなく引かっかりが少ない感じがします。逆に言えばイタリア人から見ればモーツアルトの節付けはちょっと変だと感じるところがあるのかも知れません。 また、F=ディースカウは「ロッシーニのオペラのレチタティーヴォはしばしば音楽の流れを重視しすぎて・イタリア語のイントネーションから離れているように思われる」ということも言っていますが、これも興味深いことです。 (この稿つづく)

(H17・10・19)


○音楽と言葉・その8:言葉が先か・音楽が先か

言霊に対する特に強い意識を日本人が持っているのは確かですが、言葉の響きに対する意識はどの民族も同じように持っているものです。欧米の詩歌においても「韻を踏む」技巧は重要です。また欧米ではスピーチの意味が非常に重いのもそのひとつです。政治家にとって演説のうまいことは必須条件です。西洋史の節目には必ずと言っていいほど名演説があるものです。学術論文も印刷出版されただけではその権威は十分なものとは認められません。学会で口頭発表されることで、その論文の意義は公に確認されたものになるのです。言語が音声として発せられることの意味は欧米においてもそれほどに重いものです。

西欧のクラシック音楽の声楽には音を震わせる技巧というのはあまり見られませんが、コロラチューラ唱法では似たような技巧が見られます。一例としてモーツアルトのモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)の最終楽章の有名な「アレルヤ」を挙げておきます。歌詞はただ「アレルヤ」の繰り返しです。コロラチューラ唱法では「ル」の音を転がして「アーレールゥ〜ゥ〜ゥ〜ヤ」と歌っています。ここでも「アレェ〜ェ〜ェ〜 ェ〜ルヤ」なんて歌い方は 決してないのです。本曲では最初の「ア」を転がしている箇所がありますが、よく聞くと「ア〜ァ〜ァ〜ァ〜・アレルヤ」と歌っています。もちろんそう歌わなければ響きが形をなさなず・神を讃える響きにならないのです。音をどこでも引き伸ばして転がしてもいいわけではなくて、ルールは違えど・邦楽と同じように言葉が形をなすことは西洋音楽でも大事なこと だと思います。

西欧のクラシック音楽の声楽が言葉と強く結びついていることは西欧言語の論理性との関連からもうなづけることですが、音楽性を追求しようとすれば・当然ながら言葉の制約(あるいは束縛)から放れようとする動きも出てきます。コロラチューラ唱法はその具体的な表れですが、ただし・これは音楽表現の歪んだ一面を示すものとして退けられて音楽の主流にはなりませんでした。オペラ・ナポリ派のベル・カント唱法も同様です。やはり、西欧音楽の場合は言葉の論理性が非常に重要視されるわけです。それが証拠に西欧での作曲の授業は歌が最後です。器楽から始まって、メヌエットを書く、変奏曲を書く、ソナタを書く、そしてオーケストレーションを学ぶ、そうしたことの後で最も難しいものとして歌曲を書くことを学ぶのです。

「言葉が先か・音楽が先か」というのは西欧の声楽に常につきまとう命題です。言葉の束縛から放れようとする動きの反動が、歌唱よりむしろ伴奏の方に強く現われているようです。例えばヴォルフの「メーリケ歌曲集」のなかの「火の騎士」での・まるで 伴奏の位置を拒否して人声を乗り越えようとするかのように雄弁なピアノ伴奏、あるいはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」での色彩的かつ誘惑的なオーケストラの響き を思い出します。 ここでは言葉の越えられない制約を伴奏の側から崩そうと試みているようにも思われます。しかし、音楽と言葉のことを考える場合には言葉のイントネーションの問題を考えて見なければなりません。 (この稿つづく)

(H17・10・16)


○音楽と言葉・その7:母音のこと

前稿に少し補足をしておきます。言語における母音・子音の関係はそう単純ではありませんので、簡単に図式化するわけにはいきません。母音もA・I・U・E・Oの五音だ けということではなく、実はAにもいろいろな音があるのです。だから、あまりステレオ・タイプに考えない方がよろしいかと思います。まあ大体そんなイメージであるのかなと漠として捉えればいいのです。

ところで、角田忠信著「日本人の脳〜脳の働きと東西の文化」(大修館書店)という本がありますが、ここに興味深いことが書いてあります。西洋人は言葉を聞く時に、母音は右脳(つまり感情を司る部分)で・子音を左脳(つまり論理を司る部分)で処理する。ところが日本人の場合は母音も子音も同じ左脳で処理 しているというのです。これは日本語では母音単音でも意味をもつ言葉がある(え=絵など)があるからだと推測されます。この研究が示すところは、例えば日本語の「」は子音のKと母音のAで出来ているのではなく・まさに「」という音そのものとして日本人は聴いているのではないかということです。

しかし、この話を聞くとますます興味深いと思うのは、音曲で歌詞を「かァ〜ァ〜ァ〜」とずっと長く伸ばしていきますと、そこまで日本人が「か」の音を一体で持続して捉えているとは思えませんから・ それなら「ァ〜ァ〜ァ〜」と言うのは何であるかということです。これはたぶん言葉ではないのでしょう。言葉の影・尾っぽ、あるいはまさに言葉の裏に潜む霊魂の姿そのものなのかも知れません。そういうものを導き出しているということではないかとも思われます。その時には「ァ〜ァ〜」の響きは右脳で処理しているのではないかと思いますが、そこまでは角田氏の本では言及がないようです。

(注:角田忠信著「日本人の脳」は大変面白い本ですが、その結論については反論も含め・さまざまな意見があるようです。「歌舞伎素人講釈」でもいずれ別観点でこれを材料に取り上げたいと思っています。) (この稿つづく)

(H17・10・12)


○音楽と言葉・その6:母音と子音

ここでは音を伸ばして震わせる(または転がす)ことを考えます。「諸行無常」を「しょぎょォ〜ォ〜ォ〜ォ〜」とずっと長く伸ばすと最終的に子音は飛んでしまって・耳に残るのは「オ」の響きです。音を伸ばすと響き渡るのは母音なのです。このことから言葉が響きとなって形をなし・言霊の力を持つのは母音の響きの効果であることが推察できます。母音の響きは音声を発する人の身体(特に頭部・胸部)を振動・共鳴させて、その人の感情の奥底に直接的に作用します。ルドルフ・シュタイナーは母音の響きがもたらす不思議な作用を語っています。

『私たちは全人として、共感活動を育てています。そしてこの共感活動を胸部のなかで絶えず宇宙的な反感活動として絡み合わせています。そして反感と共感のこの相互活動の表現が人間の言語活動なのです。胸部のなかでの共感と反感のこの出会いが頭脳によってはっきりと受け止められる場合、そこに言語の理解が生じます。(中略)言語活動は基本的には感情と同じように、共感と反感の絶えざるリズムの上に成り立っているのです。』(ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

シュタイナーは母音の作用を次のように説明します。

『私たちが驚嘆という感情のニュアンスを以って宇宙と関わりを持つ時、その驚嘆はO(オー)になります。O(オー)という音声は、基本的には私たちの内部にある呼吸が驚き、驚嘆を発した時の表現に他ならないのです。O(オー)は驚き、驚嘆の表現として捉えることができます。(中略)事物に対する別な感情のニュアンスは、空虚なもの、あるいは空虚なものに似ている黒いものに対して持っている感情のニュアンスです。あるいはまた黒いものと共通している恐怖や不安の感情のニュアンスです。それはU(ウー)として表現されます。これに対して充実したもの、白いもの、明るいもの、明るさや白さに関係あるすべてのもの、さらに賛美や尊敬、これらの感情のニュアンスはA(アー)によって表現されます。ところが私たちが対象から身を遠ざけようとしなければならないという感情を持つ場合、自分を守るために対象から逃れなければならない場合、あるいは抵抗する場合、それはE(エー)によって表現されます。一方、それとは反対に、対象を指示したり、近寄ろうとしたり、ひとつになろうとしたりする感情はI(イー)によって表現されます。』(ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

シュタイナーは二重母音についても触れています・例えばAOUが共に響く母音があるとすれば、それはまず恐怖と伴っているが、それにも関わらずその恐怖のなかに入っていこうという感情も含まれている・そのような母音によって表現されるものは最高度の畏敬の念であり、この 二重母音は特に東洋の言語のなかによく見られるとシュタイナーは言います。

このような母音の生理的効果は西欧言語についてのみ当てはまるというものではなく・深い生理的作用に根ざしたもので、人類全体に共通したものだと言えます。もちろん日本語についても同じです。すなわち、すべての母音は事物に対する我々の魂の営みを反映したものなのです。これが言霊の力の源です。

母音は事物に対する我々の魂の内なる営みを表現するものですが、これを外部から形にするのが子音の役割です。我々が母音だけで語るならば、それは常に事物に対して帰依する態度・基本的につねに共感だけで接することになります。恐怖や驚愕の反応を示す時、我々は対象から離れて自分のなかに引きこもろうとしますが、それさえも共感で形作られているとシュタイナーは言います。そのような共感で作られたニュアンスを、反感によって外部から形になすものが子音なのです。それぞれの民族の言語を固有のものにしているのは子音です。

『胸部の人間のなかに表現される共感は、いったいどんな種類の共感なのだろうか。胸部の人間は反感を鎮め、そして頭部の人間はただそれに従うだけなのだろうか。その根底には音楽的な要素が働いているのです。それは音楽的であることの限界を越えて存在しているのです。根底に存在している音楽的なものが限界を越えて、音楽以上のものになっています。言い換えますと、言語は母音から成り立っている限り、音楽的なものを常に含んでいます。 これに対して、言語が子音から成り立っている場合は彫塑的、絵画的なものを内に含んでいます。そして語る言葉のなかで人間における音楽的要素と彫塑的要素とが総合され、統合されるのです。』(ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月・*以上の講義は、「ルドルフ・シュタイナー教育講座・教育芸術T・筑摩書房」に所収。)

このことはシュタイナーの音声言語論の私的理解でありますが、言葉と音楽との関連を考える場合に非常に示唆があると思います。(この稿つづく)

(H17・10・11)


○音楽と言葉・その5:二字目起しのこと

話がちょっと横道にそれますが、若い頃は洋楽に凝った方が歳取って演歌が好きになるということはよくあることのようです。吉之助はカラオケ好きというわけではないですが、「さざんかの宿」という演歌をご存知でしょうか。作詞:吉岡治、作曲:市川昭介、歌:大川栄策であります。

その昔、NHKのテレビで演歌の作曲家が自作を素人さんの歌唱指導をしますという番組がありました。その番組で市川昭介氏が登場して自作「さざんかの宿」をピアノを弾きながら指導したのです。「くもりガラスを 手で拭いて あなた 明日が 見えますか」という歌詞ですが、この「あなた」の部分を素人の受講者の方が「あなーたー」と歌ったのです。これはプロの大川栄策もそう歌っておりますから・それを真似たのだと思いますが、ここで市川氏が即座にピアノを止めてこう叫んだのです。「そこは、あなァ〜タと歌って欲しい、楽譜に私はそう書いたんだ!」これは二字目起しの原則に沿っているのです。さすがに演歌の作曲家は伝統に乗っとっているとえらく感動してしまいました。この後で模範歌唱ということで大川栄策が歌いましたが、やっぱり「あなーたー」と歌っておりましたねえ。市川氏はちょっと怒ってたのかもなあ。

演歌をカラオケで歌う時に、この二字目でこぶしを付けると・格段に情がこもってうまく歌えますからお試しあれ。演歌はやっぱり日本の音曲の伝統を引いて出来ているのです。しかし、このツボをご存知ない方は少なくないようですよ。(この稿つづく)

(H17・10・8)


○音楽と言葉・その4:「言葉が形をなす」ということ

山田耕作(1886〜1965)は「からたちの花」・「この道」などの歌曲、「赤とんぼ」・「お山の大将」・「ペチカ」などの童謡で有名な作曲家です。山田耕作に師事した団伊玖磨が「山田先生は助詞との接続にはあまりこだわらなくて、名詞の抑揚に特にこだわる人でした」と語り、こんなエピソードを語っています。

『ある曲のなかで「風」という言葉を僕は抑揚をどうしても逆に使いたくて、「ーゼ」とポルタメントで滑っていくように書いたことがあります。それが先生の逆鱗に触れた。「ぜ」という言葉はないのだ、日本語では「か」なのだから、ここは「 カーゼー」と上げるべきだ。僕が風にもいろいろな感じがあって、頭の上を通っていくような風とか、吹き降ろしてくる風とか、現象的にはいろんな風があるのだから、いろんな風の表現があってもいいのじゃないですかと言うと、イヤそうじゃない、「か」は上がる抑揚だから上げなくちゃいけない。でも頑なな考えの人じゃなかったのだなと思うことは、いざ本番の演奏になったら「風」のところで先生が片目をつぶって、これもいいねって言ったのを覚えていますよ。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー:上記は太字をアクセントと読んでください。)

このふたりの論争ですが・曲も聞かないで申し上げますが、吉之助は山田耕作の肩を持ちたいですね。「ーゼ」という言葉の形は日本語にはないのです。「カー」ならば まだ分かりますが。「ーゼ」では二字目起しの原則に沿っていないのです。山田耕作が名詞の抑揚にこだわり・助詞ではそうでもなかったというのは、日本の音曲の伝統を踏まえればそれは当然のことかと思います。

武智鉄二が団伊玖磨の歌劇「夕鶴」を演出した時の話ですが、与ひょうの台詞で「畦に鶴が降りて来てよ、矢を負って苦しんどっちゃけに抜いてやったことがあるわ」というのがありますが、曲では「アーゼニ、ツールガ、オリテキテヨ、ヤーヲオッテ、クールシン、ドーッタケニ」と一字目を伸ばして歌われているのに気が付いて「歌舞伎の悪いパターン化現象のように思われ」て、「ーテキ、ーッセイ」という唱歌調がどうしても重なって最後まで割り切れない気持ちであったと武智が書いています。 (武智鉄二:「伝統演劇の発想」より)これも「ーゼ」とまったく同じです。「ーゼ」・「ール」という響きでは言葉は正しい形をなさないように思われます。(この稿つづく)

(H17・10・6)


○音楽と言葉・その3:音を伸ばすことの意味

本稿においては「−」はその音程を維持したまま伸ばす、「〜」は音程を自由に動かし・震わせながら長く伸ばす、とお読みください。

日本の音曲では語尾を伸ばして震わせて歌うという独特の技巧が見られます。そうした古い形が伝承されているものに平家琵琶があります。その冒頭「祇園精舎の鐘の音」ですが、「ぎおォ〜ォ〜ォ〜んしょ〜おじゃのォ〜ォ〜」という風に声を微妙に震わせます。

これは何気なく聞くと気が付かないかも知れませんが、実は規則があるのです。「ぎィ〜ィ〜おんしょおォ〜ォ〜じやァ〜ァ〜ァ〜の」と語ることはないのです。こうした語り方をすると 言葉は分解してしまって形をなさないのです。ご注意いただきたいのは、ここでは「形をなさない」と書きましたので・「意味をなさない」とは書いていません。言霊にとって大事なのは言葉の意味ではないのです。言葉が響きとして形をなし・言霊の霊力を発揮する ためには、言葉が形をなさねばなりません。

音を伸ばし・震えさせる(または転がす)のは、言葉のどの部分でも伸ばしていいのではないのです。言葉の響きが形をなすために 音を伸ばすのはそこしかないという箇所があるのです。名詞・形容詞の場合は、それは必ず二字目です。例えば「諸行無常」は「しょぎょォ〜ォ〜ォ〜むじょォ〜ォ〜ォ〜」とは伸ばすことはできても、「しょォ〜ォ〜ォ〜ぎょうむゥ〜ゥ〜ゥ〜じょう」と伸ばすと変に聞こえるのは感覚で分かると思います。音を伸ばし振るわせるのは必ず二字目起しの箇所なのです。助詞の場合はそういう制約がなくて、自由に音が伸ばせますから、日本の音曲では歌詞の語尾がたいてい伸びて震わされています。

言葉が響きとして形をなせば、響きは自然と意味を帯びてくるのです。しかし、その形は如何ようにも受け取ることができます。幾通りかの意味を帯びてくる場合もあります。(例えば別稿「言霊の助くる国」で触れた「いそら」がそうです。その響きが伊勢の地名「磯良が崎」にもなれば・妖怪「磯良丸」にも掛ってくることになります。)そうした ところに日本の詩歌の「韻を踏む」・「掛詞」などの技巧が発達する背景があるのでしょう。(この稿つづく)

(H17・10・3)


○音楽と言葉・その2:天地を動かす力

紀貫之による「古今集・仮名序」冒頭に次のような有名な文章があります。

『和歌(やまとうた)は人の心を種にして、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に泣く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)のなかをもやはらげ、猛けき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。』

ここで紀貫之が言っているのは文学としての和歌というよりは、声に発して詠まれる和歌のことです。と言うか・当時の和歌は声に出して詠まれることを前提としたもので、文字で記録されることは二次的な意味でした。和歌を詠むということは、ある種の節付けをして朗誦するもので・それは純粋な意味での音楽ということではありませんが、まさしくそれは 「歌(うた)」なのです。

「力をも入れずして天地(あまつち)を動かし・目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」ということは、 朗誦=歌(うた)としての和歌の響きによって引き起こされる言霊の力です。その音の響きが必要なのです。その音を朗々と さらに効果的に響かせるためには節付けが必要です。必然的にそれは音楽に近いものになるのです。

このことは邦楽の伝統音楽に歌唱を伴うもの(声楽)が圧倒的に多いことに関連していると思われます。笛や琴のための・いわゆる純粋器楽ももちろん邦楽にもありますが、それは邦楽の本流をなしてはいません。邦楽の本流は声楽であり・それは言葉に強く結びついているのです。それは何故であるかを証明するのは容易ではありませんが、次のようなことが考えられると思っています。

楽器の音色が妖怪・怪物の心をも和らげる不思議な効果を持つという話は、ギリシア神話のオルフェウスの竪琴の話を例に挙げるまでもなく世界各地にあります。これは日本においても同様です。しかし、日本においてはそのような楽器の音色による魔力をさらに強めるために言葉の・すなわち言霊の力が求められたのです。あるいは言葉の・すなわち言霊の力をさらに強めるために音楽の要素が求められたのかも知れません。どちらが先なのかは分かりませんが、結果として音楽と言葉は互いを求め合う。そうした要素が邦楽の場合は強いのであろうと考えています。(この稿つづく)

(H17・9・30)


○音楽と言葉・その1:言霊の助くる国

本稿では言葉と音楽の問題などを逍遥してみたいと思っているのですが、どういう風に展開していくかは分かりません。最終的にひとつの論文にまとめる時にアレンジします。 だからタイトルは仮題です。

日本は言霊信仰の国だとよく言われます。

磯城島(しきしま)の大和の国は 言霊の助くる国ぞ 真幸くありこそ

これは「万葉集」での柿本人麻呂の歌です。日本は言霊の助ける国であると人麻呂は言うのです。「言霊」というのは言葉に魂がこもっているということで、言葉の内容に呼応して現実が動くということです。例えば「悪いことが起きる」と 口にしてしまえば必ず悪いことが起きると日本人は昔から信じていたのです。ということは、もし悪いことが起きそうな予感がしても・それを口にしては絶対いけないのです。いったん口にしてしまったら言霊の力でそれが実現してしまうからです。 これが日本の言霊信仰です。

例えばこういう話があります。貞観年間(859〜877)のことだそうですが、宮中でお神楽のために「磯良が崎」という歌が作られました。「磯良が崎に鯛釣る海人の我が妹子がためと鯛釣る海人の・・・」という歌詞だそうですが、これを歌って変事が起きたために、以後宮中でこの歌を歌うことは禁じられたということです。変事と言うのが何だったのかは伝わっていないのですが、実は海中深いところに棲む「あずみのいそら」(安曇の磯良 ・または磯良丸)と言う妖怪がおりまして、歌の「磯良」は伊勢の地名の磯良が崎のことで妖怪とは全然関係がないのですが・歌を聞いた妖怪が自分が呼ばれたと思って出てき て起こった事件だとされたようです。つまり、妖怪は「磯良が崎」という「いそら」の響きに反応したと考えられたのです。(「池田弥三郎:「日本の幽霊」より)

ここで気が付く大事なことは、言霊は発声されて初めてその霊力を発揮するということです。極端に言えばその言葉の意味などどうでも良いのです。言霊にはその音の響きが必要なのです。 (この稿つづく)

(H17・9.28)


○御霊神としての佐倉宗吾

別稿「荒事としての宗五郎」で御霊神としての佐倉宗吾について触れています。「魚屋宗五郎」の酒乱を荒事に連想するのは根拠のないことではありません。「佐倉義民伝」はまだサイトで取り上げていませんが、 佐倉宗吾は明治に入ってから自由民権運動のシンボルとして各地で祭り上げられました。「魚屋宗五郎」の初演は明治16年5月市村座のことですが、ちょうどこの時期が自由民権運動の最盛期なのです。したがって、黙阿弥が これに感化された可能性は大いにあり得ることです。

現在の宗吾霊堂は千葉県成田市東勝寺にありますが、実は昔は宗吾由縁の場所がもうひとつありました。それは近くの・かつては将門山と呼ばれていた小高い丘で、そこに将門の居館があったと伝えられています。江戸時代には 将門山の「口の宮神社」に宗吾は祭られており「佐倉宗五郎大明神」と呼ばれていました。つまり、宗吾は将門と重ね合わせて神として地元の民に崇められていたことが明らかです。

「佐倉義民伝・宗吾内」だけを見ておりますと・宗吾(宗五郎)に御霊神的要素があることは分かりません。しかし、「仏光寺祈念の場」では宗吾の叔父・光然がせめて子供の命は助けてもらいたいと祈念を込めたが・その願いが叶わなかったことを知り・数珠を切って憤怒の表情で印旛沼に入水する場面があります。この場は荒事の荒れの系統を引いてきます。宗吾を実事の役にして・荒事の要素を光然に担わせているのです。「義民伝」は瀬川如皐の「東山桜荘子」 が原作ですが、文久元年8月守田座での再演にあたり黙阿弥が改訂を施したものが現行の「義民伝」です。改訂の際に黙阿弥は原作の田舎源氏の筋を抜き・仏光寺の場を書き加えています。つまり、黙阿弥のなかに御霊としての宗吾のイメージが明らかにあるのです。その ことが「魚屋宗五郎」の執筆の時にふっと蘇ったということは、あの宗五郎の酒乱の場面を見れば十分に想像されることだと思います。しかし、そのような気配を微塵も見せず・さりげなくエンタテイメントに仕上げてしまうがプロの真骨頂というところでしょうか。それとも これがまさに黙阿弥の「黙」たる所以でありましょうか。

(H17・9・24)


○黙阿弥とマーラー

別稿「黙阿弥のトラウマ」では黙阿弥のよそ事浄瑠璃について考えています。そのなかで心理学者フロイトの作曲家マーラーの診療の話を引きました。マーラーは作曲中に気高い旋律を発想している時にしばしば通俗的な旋律が頭のなかに入り込んできて曲を台無しにされることに悩んでいました。フロイトはそれが彼の幼年期の体験から来るものと診断 したのです。マーラーの両親は夫婦仲が悪く・しばしば大喧嘩をしたそうです。見るに耐えない光景にグスタフ少年は戸外に飛び出し・町をさまよいましたが、その時に聞こえてきたのが・辻音楽師の手回しオルガンの奏でるウイーンの流行歌「おお、いとしのアウグスチン」でありました。「その時以来、深刻な悲劇性と軽薄卑俗な娯楽性が私の心のなかで結びつき、前者の想起は必ず不可避的に後者を呼び覚ます・・」とマーラーは書いています。

例えば交響曲第2番「復活」の第5楽章では舞台上の大編成オーケストラに加えて・舞台裏に第二(遠隔)オーケストラが設置されています。残念ながらその音響効果の面白さは録音(CD)では十分に分かりません。是非とも実演を聴く必要があります。 吉之助もこの曲はCDではかなりの数の演奏を聞いていますが、アバド指揮ベルリン・フィルの実演で初めてこのことを実感しました。客席からは見えない・はるか彼方から聞こえてくる行進曲風のトランペットと太鼓の響き(それは黙示録の世界の到来を告げるものです)は、まさに舞台上のオーケストラの奏でる旋律とはかけ離れた・まったく関連性のないところで鳴っているかのように響きます。とは言ってもひとつの曲ですから・もちろんそれは絡み合っていて・ひとつのイメージを成すわけですが、そこで浮かび上がるものは連関性の喪失した・引き裂かれたイメージなのです。これがまさによそ事浄瑠璃の効果です。

黙阿弥の芝居にはそうした場面が実によく出てきます。例えば慶応2年守田座での「鋳掛け松」です。しがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまいます。

だから吉之助には「十六夜清心」(安政6年市村座)の清元でさえ歪んで聞こえます。この清元はよそ事ではありませんが、明らかによそ事浄瑠璃の先駆です。あの清元を情緒纏綿たる色模様だと思っている限り、腹に刀を構えた清心が月を見上げて「・・・しかし、待てよ」と言って・善心と悪心の間に揺ら揺らしていた心の針が一気に悪の方へ大きく振れる最終場面に必然性を感じることは出来ないでしょう。「・・・しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたも、またこの若衆の金を取り殺したことを知ったのは、お月様と俺ばかり・・・」ここには清心のなかの外界からの強い疎外感がありありと見えます。その疎外感は前半の清元の歪んだ使い方から準備されていて、清心が自殺しようと刀を構えた瞬間にその歪みがついに裂けてぱっくりと口を開ける、 吉之助にはそのように思われます。残念ながら現実の舞台はそのようなことを実感させてくれたことはありませんが。

このような黙阿弥の疎外感はどこから来るのでしょうか。ライバル瀬川如皐に水をあけられ・隅田川に身投げしようかと思いつめ・街を当てもなくさまよった若き日の体験から来るのか、それとも幕末江戸の閉塞した空気が黙阿弥にそう思わせたのか。いずれにせよ黙阿弥の心理のなかの心理的外傷(トラウマ)がそこに見えます。それはフロイトがマーラーのなかに見たものと似通ったものなのは間違いありません。

(H17・9・17)


○やさしき武士

寿永2年(1183)、斎藤別当実盛は、木曾(源)義仲と平家との戦いで平家方について戦い、加賀の国江沼郡篠原の地で討ち死にしました。実盛は最後の戦いに臨み、老武者とあなどられぬようにと白髪を黒く染めて出陣しました。この話は「平家物語」によりよく知られています。

今でも田舎へ行くと稲に害虫がつくのは悪霊の仕業と考えて、虫をとらえ田のあぜ道を通って村の外へ送り出す「虫送り」という行事を伝えているところがあります。地域によってはこれを「実盛祭」と呼ぶそうです。その起源は 最後の戦いで実盛は稲の切り株に足をとられて転び・そのために手塚太郎に討たれた・その怨みから虫が出て稲を害するのだという怨霊信仰から来ています。民俗学(フォークロア)的には実盛は怨霊の系譜なのです。つまり、時勢に乗るには歳を取りすぎてしまった・俺がもう少し若かったら・・というような無念を含んでいると考えられたのでしょう。

ところが、歌舞伎の「実盛物語」の舞台からはそのような実盛の陰惨な影の部分をあまり感じ取ることはできません。その陰惨な運命は隠し味ですが、芝居の本質的な部分ではないのです。むしろ「実盛物語」の実盛は向かうべき未来(篠原の地での 寂しい死)を見据えて・それに向かって意思的に進んでいく明るさを感じさせます。実盛は予告したその通りに死んでみせるのです。それは「男ならばかく在りたい」と思わせるものです。中世期の実盛像とは百八十度違う感じがします。山本常朝は「葉隠」で次のように書いています。

『やさしき武士は古今実盛一人也。討死の時は七壱拾余也。武士は嗜(たしなみ)深く有るべき事也。』

その通り、歌舞伎の実盛はやさしき武士なのです。公文協主催・松竹大歌舞伎(西コース)での「実盛物語」での海老蔵の実盛は生締めの爽やかな容姿を堪能させます。物語に義太夫の修練が さらに必要とか・台詞に時々地が出るとか課題はもちろんありますが、役の実盛は四十に近い年齢で・海老蔵はまだ若いですから、海老蔵が役に近い年齢になる頃には良くなっていることでしょう。生締めの役は「やさしき男」でなければなりません。海老蔵にはそれがありますね。 (別稿「実盛の運命」をご参照ください。)

(H17・9・5)


○芝居における入れ物の重要性

「法界坊・双面」に登場する法界坊と野分姫の合体霊というのは実に奇妙なものです。哀れなのは野分姫で、松若に深い恨みを抱くのも法界坊に嘘の告げ口されたからですが・自分を殺した法界坊と合体しちゃうというのも救われない話です。こういう気色悪いものを作るのはどういう神経なのかと気になりますが、これについてはいずれ機会を改めて考えて見ます。

平成12年11月平成中村座の「法界坊」では勘九郎(現・勘三郎)が半男半女のグロテスクな化粧でこの法界坊と野分姫の合体霊を宙乗りで演じました。趣味が悪いと言えばまったくその通りなのですが、この化粧はなかなか歪んでいて・引き裂かれた感じがよく出ていて・バロック的で興味深く思われました。劇場構造を生かして宙乗りの法界坊が客席の上を上下左右に大きく揺れて行ったり来たりするのもなかなか効果的でしたね。それが平成中村座という小屋のコンセプトに合っていたとも言えます。

そこで本年8月の歌舞伎座での勘三郎の「法界坊」ではこの宙乗りはどうかなと思いましたら、劇場のせいで仕方ないとは言え・釣り糸に引っ掛かったボロ鯉のぼりが上下動しているようで・なんだか情けない感じでありました。それ以外でも串田和美演出は歌舞伎座という「入れ物」に苦慮した感じが窺われました。別稿「空間の破壊」でも書きましたが、部外者が歌舞伎の演出で勝負しようと思うなら・一番勝ち目のある方法は舞台空間を破壊し・まったく新しい舞台装置で演出することだと思います。その点で串田は勝負の仕方を誤ったと思いますね。だから小手先のギャグで勝負せざるを得なくなったというところでしょう。お芝居では「入れ物(劇場)」は大切なのですよ。雰囲気も作るし・芝居も作るのです。料理の味を引き立てるのはお皿や小鉢ですが、お芝居での入れ物の重要性はそれ以上かも知れません。(詳細は別稿「勘三郎の法界坊」をご覧下さい。)

(H17・9・2)


○歌舞伎における「盛綱陣屋」・その5:子役芝居の限界

実は吉之助は子役が活躍する芝居があまり好きではありません。演技の質をできるだけ揃える目的があるのでしょうが、あの子役独特の台詞の口調が駄目。これで涙している観客を見ると・こういう他愛ないので泣ける方が今の世にもいるかと思うと有難いとさえ思います。そういうわけで「盛綱陣屋」もいまひとつなのだなあ。

「盛綱陣屋」に登場する小三郎(盛綱長男)・小四郎(高綱長男)はどちらも数え年の十三歳です。ちょうど高綱が喧嘩して佐々木の家を飛び出した直後に生まれた子供たちで、だから叔父・甥ともお互いの顔を知らぬということになっています。ということは「一谷嫩軍記」の敦盛・小次郎の年(十六歳)に近いわけです。まあこの年頃の三歳の差は大きいとは思いますし・役どころとして規定しにくい年齢ではありますが、舞台でも「組討」の敦盛よりちょっと年若い感じに描けばよろしいかなという気がします。芝居がかなりリアルになるという気がします 。

歌舞伎の「盛綱陣屋」の小四郎は純然たる子役の役どころですし・小三郎に至っては幼児の初舞台にもなりそうな役どころで、この幼児に負けて生け捕りにされたというのでは小四郎も浮かばれますまい。(こういう所で「歌舞伎は理屈で見るものじゃない」などと言い出すような方は「歌舞伎素人講釈」などは読まないだろうと思いますが・念のために書いておくと、このサイトは理屈で芝居を見る方のためのサイトです。)こうした子役の使い方が「盛綱陣屋」をリアルから離れさせる要因のひとつになっています。と言うより「盛綱陣屋」を時代物の悲劇ということから観客の目をそらさせ・始めから「涙と人情の芝居」として演出しようという意図があると 勘ぐりたくなるくらいです。微妙と小四郎の追いかけっこなどそのいい例です。そこら辺の志(こころざし)がどうも低い・だから型の出来も自然と悪くなるという感じです。

もともと歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れるに当たって・これを情で読み取ろうという傾向が強いのです。浄瑠璃の「時代物」を歌舞伎は「お家物」として読む。同じ悲劇でも厳しさ・非情さを描くより、そこに涙を入れようというのが歌舞伎の傾向なのです。これが行き過ぎると情に流れて「お涙頂戴」になっていまいます。そこのところをグッと押し留まれるかどうかが分かれ目になります。

ここで最初の九代目団十郎の問いに立ち戻るわけですが、「武士が忠義の為には骨肉を屠(ほふ)るという勇気もなく、おのが主君を欺 (あざむ)くに非常なる苦心を為すのみか、欺きたる後その罪を悔いて切腹でもするかと思えば平気な顔をして生きながらえて居るなり 」という問題提起に対して、歌舞伎の現行の型は答えを出せていない・あえて言えば問題意識をそらそうとしているとさえ思えるのです。改めて九代目に「盛綱陣屋」の型を整理してもらいたかったなあと思いますねえ。

(H17・8・27)


○歌舞伎における「盛綱陣屋」・その4:盛綱の化粧

小島政二郎が大正13年邦楽座での初代吉右衛門の「盛綱陣屋」を見て・次のように書いています。

『(十五代目)羽左衛門なら顔を真っ白に塗り立て、鬢は漆塗りでテカテカ光り輝いて、目覚めるばかりの美しさに舞台を一身に引き締める。が羽左衛門の盛綱はどう見ても悲劇中の人物とは思われない。そこへ行くと吉右衛門は素顔に近い顔色をし、鬢も漆の黒光りでない為に、金襴の衣装ばかり光って、出は一向引つ立たない。舞台としては損かも知れないが、私にはこの方が親しい気持ちがする。』(小島政二郎:「乍憚劇評」)

この小島政二郎の「乍憚劇評」については、我が師匠・武智鉄二がその若き日に「こんな風に批評を書きたい」と思ったと評し・武智理論の原点だとまで書いています。また、武智鉄二はこの評論を引いて・今の幸四郎・吉右衛門に対し「御祖父さんのように砥の粉の顔の盛綱になさい」と劇評に書いていたことも記憶しています。しかし、それをご本人たちが読んだかどうかは知りませんが、残念ながら二人とも十五代目羽左衛門と同じく白塗りの盛綱のままですね。まあ、その方が舞台栄えはしますが。(ちなみに父上の初代白鸚も白塗りであったですね。)

それはともかく小島政二郎は盛綱を「悲劇中の人物」と看破しています。その通りでまさに盛綱は偽首を偽証し・小四郎を褒めてやり・扇をパッと掲げる瞬間に自ら喜んで悲劇の主人公に身を投じるのです。盛綱は「悲劇中の人物」の人物であるということが現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」でどのくらい意識されているでしょうか。悲劇は小四郎の方にあって・盛綱はそのサポーターだくらいに思われているのではないでしょうか。小四郎の死は確かに悲劇です。しかし、「盛綱陣屋」の主人公はもちろん盛綱です。盛綱が小四郎の死をも取り込んでもっと大きな構造のなかでの大悲劇を生み出すのが時代物というものの構造です。

盛綱が顔色を砥の粉色にすることは地味にはなりますが・印象は実事に近くなり、虚飾の人形身から人間に近くなることを意味します。それだけ感情はリアルに(写実に)描かれます。このことが時代物という非人間的な枠組みのなかで対立する人間性を描き出すことになります。(熊谷直実の化粧にも同じことが言えます。別稿「熊谷陣屋における型の混交」をご参照ください。)

本来が人形芝居である浄瑠璃を生身の人間がわざわざ演じることの意味を考えて見なければなりません。「人形味がある」ということを義太夫狂言の役者への褒め言葉だと思っている方は多いと思いますが、それも時と場合に拠るのです。人形らしく見えるほど芝居は真実から遠ざかることもあります。あえて人形から決別することがドラマを真実に近づけることもあるのです。砥の粉色の盛綱はもう一度試みられてもよいことだと思います。(幸四郎さん・吉右衛門さん、如何でしょうか。) (この稿つづく)

(H17・8・24)


○歌舞伎における「盛綱陣屋」・その3: 盛綱の加速度感覚

歌舞伎の「盛綱陣屋」(盛綱は十五代目羽左衛門だったそうです) の舞台を見た初代吉田栄三は武智鉄二に「歌舞伎ちゅうのは妙なことをするもんだすなあ。あれでは大将づきあいになりまへんがな」とボソッと言ったそうです。

北条時政は鎌倉方の総大将ですが、正確に言えば盛綱は北条家の家来ではないのでして・あくまで対等の御家人(=ここでは大名と解してよろしい)です。その意味では上下関係はあれども、格に違いはないのです。だからこそ時政は盛綱に対して心を許していない・いつでも寝返る可能性があると思っています。そこに小大名・佐々木家の生き残りを掛けた緊張があります。首実検はそういう緊張 した場面で行われているということを忘れてはなりません。歌舞伎の「盛綱陣屋」の首実検というのは、悪く言うと「盛綱のひとり芝居」なのです。盛綱ひとりがあれやこれや思案して・時間を掛けて勝手に百面相をしておるわけです。盛綱は時政を騙さねばならないのです。情にひたっている暇はないのです。

しかし、盛綱の首実検が他の首実検と違うのは、盛綱はもし小四郎の切腹がなければ・偽首を偽首だとはっきり証言したに違いないことです。小四郎の予想外の切腹があっ たから・盛綱は考えを首実検の途中で変えるのです。この心情的急旋回をどう表現するかです。観客はまだここでは首が偽首であることを知らされていないわけですが、この場面には急降下する戦闘機が機首をググッと上げて一気に上昇に転じるような加速度感覚が必要です。このように戦闘機が急旋回した場合に操縦者の身体にかかる加速度Gは相当なものだそうで、時には操縦者が失神してしまう 危険もあるくらいだそうです。同様にこの首実検での急旋回もまさに危険そのものです。このような加速度感覚が盛綱役者にないとすれば、この芝居は決してうまくいかないと思います。

この場面の盛綱の演技は歌舞伎では肚芸とも呼ばれ・無言のうちに盛綱の心情の変化を見せるものとされています。しかし、ホンモノの九代目団十郎の「肚芸」というものは短いのが身上です。息を詰めて掛かるのが九代目の「肚芸」なのですから、あんなに七色に表情を変化させて長々と首実検するの を「肚芸」とは申せません。第一それでは役者の息が持ちません。このことは「芝居のバランスを考える・その5・盛綱陣屋の場合」で考えましたから、そちらをご覧下さい。歌舞伎の盛綱の首実検は、悪い言い方をすれば「大仰(おおぎょう)で ・くどくて・しつこくて・臭い演技」です。これは九代目の芸風の対極にあるものです。だから、この場面が「肚芸の見せ場」だと思われていること自体に大きな誤解があります。 (これについては別稿 「九代目団十郎以後の歌舞伎・その3:菊五郎の古典性」をご参照ください。)九代目が本気で「盛綱陣屋」に手を入れたならば・首実検はもっと簡潔なものになったことでありましょう。 (この稿つづく)

(H17・8・21)


○歌舞伎における「盛綱陣屋」・その2:盛綱の決断力

「盛綱は頭がよく・読みは鋭い武将であるが、情にもろく・優柔不断な人物である」というのが歌舞伎の入門書にもよく出てくる盛綱の性格分析です。はっきり申し上げると「情にもろく・優柔不断」は間違いだと思います。それが「盛綱陣屋」のドラマをあやふやなものにして、引き締まった戦場のドラマに見せない原因になっています。盛綱は確かに情に厚い人物です。しかし、盛綱は鎌倉方で重要な位置にある武将です。情に左右されて・優柔不断な人物が優れた武将であるはずがありません。優れた武将とは ・情けももちろんあるが、何よりもまず判断は決して誤らない・決めたことを冷静確実に遂行できる人物です。そういう人物が盛綱であるということが「盛綱陣屋」の前提になる必要があると思います。

だから「思案の扇からりと捨て」の詞が重要になるのです。(メルマガ第157号「京鎌倉の運定め」をご参照ください。)盛綱は考えに考え抜いて結論を出し、結論を出したら決然とこれに向かう人物です。「思案の扇」と「からりと捨て」の捨て間のなかに、すべての思いを断ち切った・高綱のためにも・ また佐々木の家のためにも・ここは涙を呑んで・非情になられねばならぬ・小四郎は殺さねばならぬという決意が見えねばなりません。いったん思い切ったら盛綱は決して思い悩まぬのです。

歌舞伎の盛綱はここからがよろしくありません。盛綱が微妙に小四郎を殺してくれと頼む場面です。「聞き分けてたべ母人」の部分では盛綱は母親にすり寄り・膝に手を掛けて母親を揺すり・甘えているようにさえ見えます。事実、そういう風に演じることが歌舞伎の口伝になっています。子供に返って母親にせがむ心持ちだというのです。

しかし、考えても見てください。ここは母親に孫を殺してくれと頼んでいる場面です。お菓子をねだっている場面ではないのです。本当は自分が殺すべきだが・それは主人時政公に対して具合が悪いから・代わりに母親に孫を殺してくれと頼んでいるわけです。微妙がその通り小四郎を殺したとして・そのままで済むはずがないと思います。お咎めは必ず来ますから、本文には書いてありませんがこれは微妙に「孫を殺して母上も死んでくれ」と言っているに等しいのです。こんなことを母親に甘える調子で頼もうというのが・もう盛綱の性格描写をオカシクしています。

この「聞き分けてたべ母人」の場面の盛綱に「母上、もはや否応はなりませぬぞ」という決然たる態度がなくて何といたしましょうか。ここの盛綱には気迫で母親ににじり寄るという感じが欲しいと思います。そこに「非情なことを頼んでいる」という認識も必要です。まさに「せまじきものは宮仕え」という感じがなければなりません。それでこそ微妙が即座に手を打ち、「もっとももっとも・・(中略)可愛い孫なれども、思ひ切って切腹させう」と言えるのだと思います。(この稿つづく)

(H18・8・11)


○歌舞伎における「盛綱陣屋」・その1:九代目団十郎の気持ち

メルマガ第157号「京鎌倉の運定め」において「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」を考えています。九代目団十郎は盛綱を一度演じてはいますが、盛綱が大嫌いだと言って本作の型を十分練り上げないまま終わりました。つまり、「盛綱陣屋」は団菊の洗礼を受けないままに終わった時代物の大作です。まあ団菊が演らないから駄目というわけでもありませんが、 武智鉄二も言っておりますが・歌舞伎の「盛綱陣屋」は何となく「まとまりが悪くて・筋道が通っていない」感じがします。団十郎の型(演出)の代表作である「熊谷陣屋」を見て感じるのは「作品を読む視点がはっきりしている」ということです。「盛綱陣屋」にはそれがなくて、局面に面白い場面があっても・見終わると全体にダラダラと長い印象が残ります。

現行「盛綱陣屋」の最大の問題は、主人公盛綱の性根の捉え方にあると思います。「盛綱は頭がよく・読みは鋭い武将であるが、情にもろく・優柔不断な人物である」というのが一般的な解釈かと思います。そうしますと、盛綱は自分勝手に高綱の出方をあれこれ読んで想像して・悩み考え込み、甥小四郎の行動を見過ごすことが出来ず・その行為に踏みにじるにするのに忍びなく・やむなく偽証に追い込まれるという風に読めます。そうすると高綱の偽首は「情にモロい盛綱の性格にツケけ込んだ策略」ということになり、ドラマの関心は「盛綱は策略に引っ掛かるか」ということになります。

現行の歌舞伎の盛綱は、そういう性格の弱さを「盛綱は情に厚い」だから人間的だということにして、観客を一応納得させているということです。しかし、これでは「ドラマの動機」として弱いのです。これでは演じる盛綱役者の立場からは・偽首を偽証する気分をどうしても必然にまで高められない。ここが役者の苦労するところで して、だから九代目は盛綱は大嫌いだと言っているのです。

「盛綱と云える男、北条時政に仕え居りながら当時の武士が忠義の為には骨肉を屠(ほふ)るという勇気もなく、おのが主君を欺 (あざむ)くに非常なる苦心を為すのみか、欺きたる後その罪を悔いて切腹でもするかと思えば平気な顔をして生きながらえて居るなり(中略)君を欺き、兄弟なりとも敵と内通して恥じる色なきは武士にあるまじきことなり」(九代目市川団十郎・「最も嫌いな役」・「団洲百話」)

九代目の言うことはもっともだと思います。逆に言えば、九代目の言うことを認めつつ・それでもなおこの役を演じる価値を認めようと言うならば、それを越える論理を見出さねばなりません。それしか「盛綱陣屋」をドラマに高める方法はないと思うのです。かぶき的心情で「盛綱陣屋」を読むことは、そのひとつの解決策になるはずです。(この稿つづく)

(H17・8・6)


演劇におけるジェンダー・その 7:奪われた哀しさ

女性の異性装は見るものに何かしらの力を与える・なるほどそれは女優が男装して男性を演じるならばよく理解できます。しかし、シェークスピア時代のヴァイオラもロザリンドも女優ではなく・少年俳優が演じたのでした。だとすれば、そこにはどこか屈折した・捻じ曲がった心理があるようにも思われます。女装した少年たちを見る女性観客の心理はどんなものであったでしょうか。

オーゲルは次のように書いています。スカートをはいた少年を見ることは、女性観客にとって極めて女性的なやり方で(ある意味で屈折したやり方で)少年から武器を奪い・その本来性を奪うことで・彼を女性を代行する存在として社会化することであると。だから、女性観客は彼を仲間として(従順な者として)・つまりは女性として見るということになると言うのです。この背景には当時のイギリス社会の構造・とりわけ家長制の問題があります。その説明は長くなるのでここでは省きますが、ここに女性観客の心のなかの・オムパレーのように「奪い取ることの快感」が垣間見えるような気がします。そこに当時の女性の置かれた社会状況が現れているのです。

逆に少年俳優の側には「奪われた」という感覚があるかということも検討しておく必要があります。少年俳優の女装からはそういう「奪われた哀しさ」はあまり見えてこないようです。それが全然無いわけでもないのでしょうが、それはやはり「自然は男性を分割し・半分は娘たちのため・半分は男たちのためのものとした」という少年の中間性によるのかも知れません。「本来性を奪う」という行為が罪の意識にまで至らない程度に軽いのです。それが少年俳優の性の越境の軽やかさの印象につながっています。

一方、歌舞伎の女形を考える時には「本来性を奪われた」という感覚は、非常に重要な点になります。政治的に・強制的に本来性を奪われた野郎(成人男性)の女形には「奪われたことの哀しさ」という負の感覚が明確にあるのです。歌舞伎の女形に見られるのは強い喪失感です。このことが分かれば歌舞伎の女形のバロック性は理解いただけるだろうと思います。

(H17・7・21)


演劇におけるジェンダー・その6: 異性装の自己主張

別稿「本当は怖い道成寺」において白拍子の装束について考えました。白拍子とは白い水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)・白鞘巻(さやまき)の脇差を指すという男性のなりをして男舞(おとこまい)を舞ったりするものでした。宴に加わって舞いを舞い、歌をうたったりしました。鳥帽子というのはこの時代の青年男子の正装でした。つまり、鳥帽子を着けた白拍子というのは性別の枠を乗り越えて男と対等に生きていこうという意識のある女性です。

出雲のお国は慶長8年(1603)に四条河原で「かふき踊り」という官能的な前衛踊りを踊って歌舞伎の始祖と呼ばれています。お国は男装をして茶屋遊びをするお大尽などを演じました。お国の男装も白拍子の延長線上に考える必要があります。お国は自立し た女性なのです。安土桃山時代のダイナミズム・変革の意識は身分の障壁を壊し・誰でも実力があればのし上がれるという希望を生みました。またある場面において性差の意識も壊していたのかも知れません。女性の男装という行為は強い自己主張であり 、「かぶいた(傾いた)行為」の最たるものであったわけです。

ところでオーゲルは「ヴァイオラあるいはロザリンドのような女性の異性装の場面から利益を受け・そこから力を与えられるのは女性の方である」と書いています。

『結局のところ、ヘラクレスに女の衣装を着せるのはオムパレーであり、アントニーに頭飾りと上衣をまとわせるのはクレオパトラである。それは女性に力と歓びを与える変容として提示されているのである。』(スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」)

オーゲルは「利益を受けるのは女性の方である」と書いていますが、これは「男性にとってはそうではない」という意味ではありません。程度の差はあれど男性にとってもそうなのです。ヴァイオラも・白拍子も・出雲のお国も(宝塚の男役もそうだと思いますが)女性の異性装は同様に見る者に力を与えるのです。それが何かしらポジティヴな(前向きな ・積極的な)ものを感じさせるせいかも知れません。

(H17・7・17)


○演劇におけるジェンダー・その5:おお、わが美しき戦士よ

オーゲルは「近代初期の性別の概念は、多分、女性が公的世界で行動すれば男性的と考えられたということに過ぎない」と書いています。1588年・スペイン無敵艦隊がイギリスに迫った時、女王エリザベス1世はティルベリーにおいて兵士たちを前に有名な演説を行いました。「私は自分がか弱い女の身体を持っていることをよく知っているが、私には王の心と勇気がある。・・私のために何か不名誉なことが起きるよりも、私は自分で武器を取り、自分が指揮官となり、戦場での兵士の功績を逐一判断し、正しく報いたいのです。」このエリザベス女王の演説は後世において「まるでアマゾン族の女帝のような」と評され、兵士の前に鎧をまとった女王のイメージが盛んに喧伝され ・その姿は多くの絵になって広まりました。

史実のエリザベス女王は甲冑などを身に着けることはせず、馬上にあって・職杖を持っただけの姿であったようです。しかし、当時の記述にも「戦争の女王べローナの如くそこにおられ、高貴な励ましの言葉を述べられると、兵士たちはひとり残らずさらな る愛と忠誠心と決意を鼓舞された・・至高の姿を目のあたりにして感じ入ったのである」と確かに記されています。兵士たちがやはり何がしかの男性的なイメージを感じ取ったことは間違いないようです。オーゲルは次のように書いています。

『三軍の指揮官・裁判官・庇護者・戦争の女神・愛の対象・そして感動的な容姿、これらは女王が・このか弱い女性が演じた役割であった。この逆説は女王の理想化の不可欠な部分であった。当時の男の服装のオートクチュールの要素(短刀などの武器を含む)も、同じようなイデオロギーを有している。「おお、わが美しき戦士よ。」女性が装うのは自分自身の為や・そして他の女性に印象を与えるためだけではない。男性に対して魅惑的な存在になるためである。もし女性の男装が本当にいつも不快なものと思われていたならば ・それは粋(いき)とはされなかったであろうが、ルネッサンス期の男性のなかには(現代の男性のように)自分が憧れる女性のなかに自分自身の姿を見出して喜ぶ者がいたと結論せざるを得ない。」(スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」)

思えばギリシア神話における女神アテナは知恵の女神であると同時に戦いの女神でもありました。アテナ神は父ゼウスから与えられた光輝く甲冑を身につけています。男勝りの女性の行動が男たちを鼓舞し・その雄々しさを掻き立てるということが確かにあるのです。甲冑をつけたエリザベス女王の伝説はアテナ神からの連想もあるかも知れません。

日本においても・女性の男勝りな行動が賞賛されることがあります。例えば尼将軍と言われた北条政子が承久の乱を前にしての鎌倉御家人たちを前にした有名な演説がそうです。「頼朝公のご恩をお忘れか」と叱咤されて御家人たちは「女にそこまで言われちゃ男がすたる」と奮い立ったのです。馬に乗った男勝りの源義仲の愛妾・巴御前が魅力的なのも同じような理由であるかも知れません。歌舞伎にもそういう場面があります。「夏祭」で見事な義侠心を見せるお辰に対して三婦は「ハテ徳兵衛は頼もしい女房を持つたなア。なぜ男には生れて来ぬぞ、あつたら物を落して来たなア」と感嘆します。「先代萩」の政岡も忠義の重さを教えられて男たちでさえグッとくるものがあります。「先代萩」の感動も子を失った母の悲しみだけから来るのではないかも知れません。

(H17・7・14)


○演劇におけるジェンダー・その4:君が美しすぎるから

ギリシア神話におけるヘラクレスとオムパレーの逸話の示すところは重要です。恋愛とは愛する対象(異性)と同一化しようとする行為であると同時に自己の本性(男性ならばその男性的性格)を失わせることでもあるのです。例えば「ロミオとジュリエット」において・恋してしまったロミオは剣を抜いてティボルドと闘う気に どうしてもなれずに・とまどってこう叫びます。

『いとしいジュリエット、君が美しすぎるから、僕が女々しくなってしまった。僕の気性は勇気の鋼がにぶってしまった。』(第3幕第1場)

女性に対する情熱は男性を女々しくする・だから女性は男性にとって危険だということになるのです。「女々しい(effeminate)」という言葉はシェークスピアの時代には決まり文句のようなもので、こういう場面でしばしば出てくる言い回しであるそうです。

それでは日本において似たような事例を見出せるでしょうか。これは容易に見出すことが出来ます。日本でも戦場に向かう武士が妻や恋人のことを思うことは「未練である」とされました。このことは 現世・俗世の柵(しがらみ)を断ち切れていないということを意味するとされていますが・実はそれだけではないのです。むしろ女性に対する情熱が彼の戦う勇気・あるいは雄々しさを鈍らせることを言っているように思われます。(このことは当時の武士の衆道への関心に大いに関係してくると思います。つまり、若衆を相手にしている限りは自分の男らしさ・男性性は守られるとするのです。しかし、本稿の目的からはずれるので・この点については深入りしません。)このようなセクシュアリティの不安は我々が想像している以上に体制転覆的なものをはらんでいると考えられたのです。

(H17・7・11)


○演劇におけるジェンダー・その3:異性への憧れと忌避

プラトンは「饗宴」のなかでこんなことを語っています。もともと人間は神によって一体の形で創られたのであるが、後に神々が人間の完全な幸福を妬んで男と女に切り離してしまったのであると。この寓話は男性と女性の合体を望む・人間の深層心理的願望を説明しているのです。このことから愛の本質とは自分が愛の対象と同じようになろうとしていることだとも考えられます。だから、相手を真似ることが相手に求愛することになることがあるのです。例えば「アントニーとクレオパトラ」での一場面、クレオパトラは酔いつぶれたアントニーに自分の服を着せて面白がっています。

『あくる朝、九時前に私は彼を酔いつぶれさせたの。で、彼には私の頭飾りと上衣も着せておいて、私は彼の剣フィリッパンを腰に差したの。』(第2幕五場)

この行為は愛し合う男女の・他愛ないじゃれ合いのように見えますが、実はそれ以上の意味があるのです。クレオパトラはギリシア神話に出てくる女王オムパレーの英雄ヘラクレスに対する行為を再現しているのです。ヘラクレスは神々に命じられて・女王オムパレーの望むがままに奴隷のように彼女に仕えます。ヘラクレスは彼女に恋してしまうのです。古い絵ではヘラクレスはオムパレーの服を着て・糸巻き棒を持ち、オムパレーの方はヘラクレスのライオンの毛皮を見に着けて・手に棍棒を持っています。

このことが意味するところは、ヘラクレスは恋をして・女性の格好をさせられることで、その英雄に相応しい性格ー雄々しさや勇敢さ・大胆さ・行動力その他のすべての神々しい男性的性格を奪い去られたということです。神話研究家アレクサンダー・ロスは、ヘラクレスはオムパレーを愛することで・それまでの偉業をすべて帳消しにしてしまったとして、次のように書いています。

『女性がヘラクレスの名に掛けて誓いを立てること、ヘラクレス神殿に入ることは禁制であった。これはヘラクレスを女々しくさせたオムパレーの傲慢さに対して、女性に与えられた罰であった。』

つまり「アントニーとクレオパトラ」でのクレオパトラの行為は、劇中におけるアントニーの英雄性の喪失をそこに暗示していることになります。このことから思考を展開させると、恋愛とは愛する対象(異性)と同一化しようとする行為なのですが、それは同時に自己の本性(男性ならばその男性的性格)を失わせることでもあると人々は考えたのです。このような感情が異性への憧れと同時に恐れ・忌避を引き起こしたりします。この深層心理のメカニズムから異性装の問題を解き明かす必要があります。

(H17・7・9)


○演劇におけるジェンダー・その2:異性装の重さ

歌舞伎において・男が女に化けているという異性装の役と言えば・お嬢吉三や弁天小僧がすぐ思い浮かびます。しかし、こうした役柄が歌舞伎に多くあるわけでもないのです。しかも、これらはほとんど幕末の歌舞伎が崩れ始めた時代の役柄です。それ以前だと「扇屋熊谷」(享保15年竹本座)の小萩実は無官太夫敦盛なんてのも確かにないわけではないですが・これはもともとが人形浄瑠璃ではあるし・面白い趣向なのですが・これ以後に同様の役柄続出とは行かなかったのです。

吉之助が思うには「女性の衣装を着て顔にお白粉を塗っていれば・それは女性である」という約束を有名無実にしてしまっては芝居が成り立たなくなりますから、男が女に化ける(またはその逆)という趣向を歌舞伎は意識的に避けてきたのです。そのような合意が観客との間になければ「あそこの女はありゃホントの女なのかね・それともやっぱり化けてるのかね」ということになってしまいます。男の格好をしていれば男であり・女の格好をしているのが女なのです。それで芝居はしっくり きて・安心して見られるわけです。お嬢吉三や弁天小僧という役柄の場合は趣向が行き詰まったところから出ているもので・いわば観客の常識をぶち壊すところに賭けているわけですから、これを「十二夜」のヴァイオラの男装と同列に論じるわけにはいきません。歌舞伎における異性装では「性の境界を越えることの重さ」が非常に強く意識されているのです。

一方、シェークスピアにはヴァイオラの他にも女性が男装する趣向がまだあります。「お気に召すまま」のロザリンド、「ベニスの商人」のポーシャなどです。しかもこれらが少年俳優によって演じられたのを忘れてはなりません。それでは「男の格好をしていれば男で・女の格好をしているのが女だ」という約束がシェークスピア劇にはないのかと言うと、そんなはずはありません。そのことは歌舞伎とまったく同じです。しかし、シェークスピア劇においては少年俳優が女を演じることも・時としてそれが変装して男を演じるのも、ある意味において同列なのです。つまり、少年俳優の演じる役はそれが女であれ男であれ・ ともに成人男性俳優の演じる男の役とは常に対立しているのです。このことが少年俳優のイメージの軽やかさを生み出しています。

それがよく出ているのは「お気に召すまま」の納め口上です。ロザリンドに扮した少年俳優が観客に向かってこう言います。「もし私がまことの女でしたら、私の気に入りましたお髭をお持ちの方々に一人残らずキスして差し上げたいと思うところです。」それは観客への愛嬌と媚(こび)を含んでいます。

さらに思考は展開します。シェークスピア劇における少年俳優の異性装は、「性の境界を越えるのではなく・初めから越えてしまっている」のか・あるいは「性の境界を越えたように見せて実は越えていない」のかも知れません。もし成人男性の演じるハムレットやマクベスが女装したならば ・それは不道徳として糾弾されたかも知れませんが、少年俳優の異性装に関してはそうではなかったのです。

(H17・7・6)


○演劇におけるジェンダー・その1:少年俳優の軽やかさ

本稿は「演劇におけるジェンダー」の周辺を逍遥するのが目的で、話は古今東西に飛んで・歌舞伎からしばしば外れますから・その辺はご承知ください。これが「歌舞伎素人講釈」の思考回路ですから。

別稿「十二夜を記号論で読む」において・シェークスピアの喜劇「十二夜」を取り上げましたが、いくつかの関連エッセイを読んだなかで・現代において女優がヴァイオラを演じる時に男装することの「緊張」ということを書いている文章(参考にさせてもらって申し訳ないがあえて名前を伏します)がありました。私は異性装の緊張ということを考えていなかったので・ちょっと「へえっ?」という感じでしたが、こういうことだそうです。

例えば女優演じるヴァイオラが男装してシザーリオになって・公爵に仕えます。シザーリオが公爵に呼ばれてそちらへ行こうとする時に、すれ違った仲間が「たった三日で公爵に気に入られちゃうとは大したものだね」という感じで・すれ違いざまにシザーリオの胸をポンと叩くのです。シザーリオは慌てて舞台端に駆けて行き、胸を押さえて「ああ、女だということが危うくバレるところだった」という思い入れで深いため息をつきます・それを見て観客は大笑いというわけです。もちろん脚本には書いてないことですが、現代ではそういう感じの演出が多いようです。つまり、「緊張」というのはホンモノに見えるか・嘘がバレないかというスリル・恐れみたいなものを言っているらしいのです。

吉之助の読んだそのエッセイでは筆者の方は「シェークスピア時代の少年俳優はシザーリオを自然に演じたであろうが・逆に少年俳優がヴァイオラを演じた時には観客に別の緊張を与えたであろう」というようなことを書いていました。吉之助が考えるには、そういうことは全然ないだろうと思いますね。少年俳優は衣装を取り替えるだけで・容易に男性にも女性にもなり・そこに緊張などが生じることはなかったと想像します。ホンモノに見えるかどうかという「緊張」ということを考えるのは現代のジェンダーの視点ですね。現代の「十二夜」の演出なら・そこにジェンダーを意識するのはよく分かりますけど、その視点でシェークスピア時代の少年俳優を推し量ると間違えてしまうと思います 。

吉之助が想像するのは少年俳優のイメージの軽やかさです。そのイメージは衣装を着せ替えるだけで・男にも女にも容易に変化するのです。シザーリオはオリヴィアを魅了しますが、衣装を変えればヴァイオラになって今度は公爵を魅了します。オリヴィアにとっても・公爵にとっても・それはどちらでもいいことなのです。それは記号であり・余計な重さを背負っていないからです。スティーヴン・ブースはこう言ったそうです。「自然は男性を分割し、半分は娘たちのため、半分は男たちのためのものとした。」少年というものは誰のためにも何かを持っているというわけです。この言葉の示す意味は非常に重要であると思います。

一方、野郎歌舞伎の女形はその点が違っています。歌舞伎の女形は「哀しみ」とか「鬱屈」とか・何か重いものを背負っているのです。(別稿「バロック的なる歌舞伎・その4:永遠に女性的なるもの」をご参照ください。)けれども野郎(成人男性)の女形ではなくて、若衆の女形はそうではなかったかも知れません。それはシェークスピア時代の少年俳優と同じようなものを感じさせたかも知れません。そういえば若衆歌舞伎の時代というのは時代も比較的近い(共に1600年前後)のですね。

(H17・7・1)


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