(TOP)        (戻る)

歌舞伎の雑談(平成17年1月ー 6月  )


○表現行為ということ

メルマガ154号「和事芸の起源」では、折口信夫の考察から「作り物語」であることの言い訳(逃げ)は滑稽味・諧謔味という形をとることが多いということを考え ています。このことは「逆説の日本史」の作家井沢元彦さんなら、「語り部が物語りをする時・怨霊の話をするならば・言霊信仰の日本人は必ず怨霊の祟りがあると考える・だから語り手のためにも・聞き手のためにも・その祟りを打ち消すためにそれが作り話だ・嘘だという形をとる必要がある 」という風に説明するかも知れません。そう考えてもよろしいのだろうと思います。

能と狂言が・つまりシリアスなものと滑稽なものが交互に演じられるというのも、そういうことなのでしょう。しかし、シリアスなものと滑稽なものを交互に演じるというのは日本だけのことでもないのです。ギリシア悲劇でも・最後は滑稽な要素のあるサチュルス劇で締めたのですし、初期のナポリ派の歌劇もシリアスな「オペラ・セリア」と滑稽な「オペラ・ブッファ」を交互に上演する形態でした。

だから言霊信仰や怨霊信仰のことだけに限定することもなかろうと思っています。真実を描くこと(物事の実相)に迫るということはいろんな意味で危険なことなのだという風に考えればいいのです。世の中では本音をズバズバ言い・ 本当のことを公言するのが必ずしもいいことばかりとは限りませんよね。そのために手痛いしっぺ返しを食うこともあります。芸術においても同じです。真実を描くということ・つまり表現行為というのは常に危険なことで、神に対しても人に対してもリスクを伴うことなのです。だから、そこをサラリとやり過ごすことが必要なこともあるのです。それはある意味においては「逃げる」ということかも知れませんし、あるいは「それでないと芸能は慰みにはならぬ」ということかも知れません。もちろん表現行為は表現者に血を流す覚悟を常に 自らに課するものですから、そうやって少しずつ表現は変化していくのです。

和事芸がシリアスななかに滑稽さを持つということの意味を、その辺の兼ね合いから考えて見なければならないと思います。つまり、和事芸というのもバロック的な芸なのですね。

(H17・6・25)


○鴈治郎の山賊姿の定九郎

いささか旧聞になりますが、先々月(4月)大阪・松竹座での「仮名手本忠臣蔵・五段目・六段目」のことです。吉之助は東京在住ですので・この舞台を見ていませんが・聞く所によれば、翫雀が勘平を勤め・鴈治郎の指導により上方型としてなかなかいい出来に仕上がったようです。特に注目されるのは「五段目」において仲蔵型の粋な浪人姿の定九郎ではなく、それ以前の古い型・すなわち百日鬘でドテラ を着た野暮ったい山賊姿の定九郎を鴈治郎が演じ、与市兵衛に止めを刺しながら「オオいとしや、痛かろけれど俺に恨みはないぞや。金がありゃこそ殺せ。金がなけりゃなんのいの。(「こんなことはしない」の意)金が敵じゃいとしぼや。南無阿弥陀。南無阿弥陀。」の台詞を定九郎が原作通りしっかりしゃべったことです。

全体としては平成14年11月国立劇場で鴈治郎が「忠臣蔵・七役替わり」で上方演出での通し上演をした時の型が基本になっていると思われます。この時も鴈治郎は山賊姿の定九郎を演じたのですが・それは与市兵衛との早替わりでもあり、今回の松竹座での上演の方が上方型としてより筋の通った「五・六段目」となったであろうと思います。

その舞台は時代物のなかの世話場の位置付けを明確に見せたであろうと想像します。よく「六段目」は時代世話であると言いますが・吉之助の言いたいのはそういうことではなく、時代物としての「仮名手本忠臣蔵」の構造のなかでの「 五・六段目」はやはり時代物としての柵(しがらみ)に強く縛られているということです。これはメルマガで展開中の「バロック的なる歌舞伎」にも大いに関連することですが、だから完全な同時代劇的世話物にさせてもらえないということです。世話を時代に引き裂き・歪みを入れるのが定九郎と二人侍の役目なのです。

現行の東京での仲蔵・菊五郎型の「五・六段目」はもちろん洗練されていいものですが、こういう上方型も一方の定型としてしっかり残しておいてもらいたいと思います。このところの諸作品での鴈治郎さんの型の再検討の試みは非常に興味深いものです。藤十郎襲名披露で予定されている「先代萩」・「二十四孝」・「盛綱陣屋」での再検討も期待されますね。

(H17・6・20)


○坪内逍遥の理論と実践

6月5日に歌舞伎学会ほかの主催による「坪内逍遥没後七十年記念シンポジウム」に参加してきました。坪内逍遥は脚本読みには定評のある人で、早大でのシェークスピア講義は名物でした。逍遥は九代目団十郎の大ファンでしたから、団十郎の息で台詞を読むということを心掛けていたのでしょう。遺された「沓手鳥孤城落月」の録音(昭和6年10月ポリドール録音)を聞きますと、確かにうまい。まずテンポがいい。リアルであって・それでいてサラリとした中に音楽的な抑揚があるのです。しかも決して様式に堕していないのです。

一方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)で吹き込んだ「沓手鳥孤城落月・糒庫」の録音(昭和6年ポリドール録音)ですが、この録音については逍遥が日記(昭和6年6月21日 の項)に「試聴してその拙きと・イキの合わぬに呆れる」と書いてあるそうで笑えます。五代目歌右衛門の台詞はさすがに当たり役のことでもあるし・なかなかのものであると思いますが、羽左衛門も中車も 脚本の様式を理解せず自分勝手にしゃべっていて・スタイルがバラバラで全然イキが合ってないのです。特に中車はこれでいいのかと思うような・旧態依然のだるい台詞回しで・がっかりします。

遠藤為春は「本当の団十郎の系統を継げたのは(六代目)菊五郎しかいない。強いて言えば死んだ(五代目)歌右衛門でしょうね。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)と言っています。 その通り、少なくとも歌右衛門は団十郎の台詞の息を継いでいるように思われます。このことを歌右衛門の淀君と・逍遥自身の朗読から・その近似した要素を改めて確認することができました。団十郎の台詞の本質は写実ということにあるのです。

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

逍遥劇の台詞の本質も歌うことにあるのではなく・あくまでも写実にあるのです。その台詞を地で言うのではなく・様式のなかに収めることに役者の技術はありますが、歌う こと(様式)が本質ではないのです。むしろ歌に堕することを避けなければ逍遥劇の台詞にはなりません。こうした逍遥劇の台詞は言葉少なくして余韻を重んじる団十郎の活歴に発しています。しかし、逍遥はそこに留まっているのではなく・その先を見ているのです。

当日のシンポジウムのパネラーの先生方は「台詞を歌う」ということを盛んに言っておられました。余韻を重んじ・言葉少ないのがいいとして逍遥が力を入れて書いたところより「そのお嘆きもお怒りも・お通理とも・ことわりとも・ごもっともとも・当然とも・申し上ぐる言葉とてもござりませぬ」(饗庭局)なんてところの方が 芝居らしくて面白いなどと仰ってましたが、そうですかね。そういう所に根っからの芝居好きである逍遥の地が出ていることは確かであるとは思います。しかし、そういうご発言は創作者としての逍遥の本意をちゃんと見てないのではないですか。

津野海太郎著「滑稽な巨人・坪内逍遥の夢」については以前に「歌舞伎の雑談」でも紹介しました。それを読みますと、逍遥は常に理論と実践を対で考えていた人であったようです。この点はじつに明治の先達らしい気概であります。まず理論がある・そしてそれを例証してみせるためにまず自分がやってみせる、そういうことを逍遥はいろんな場面で行うのです。ところが、いざやってみると理論通りには簡単にいかないこともよくある話で、そこでいろいろと不具合やらドタバタが起こる。そうしたことを逍遥はいたるところでやらかすのです。それが「滑稽な巨人」というタイトルになっているわけですが、もちろん逍遥の本質は滑稽にあるわけではありません。その態度の真摯なところにあると思います。

滑稽な巨人―坪内逍遙の夢

逍遥は新しい国劇の創作を目指すのですが、それならば逍遥は旧劇と蔑まれた歌舞伎などに目もくれず・まったく新しい演劇の提唱をしてもよかったのです。しかし、戯曲はやはり実際に演じられなければ意味がないし、何よりも彼自身が歌舞伎が大好きで・九代目団十郎の台詞回しが脳裏に焼きついていました。そこで逍遥は歌舞伎をベースにして新しい国劇の創造を試みようとするのです。逍遥は「桐一葉」の片桐勝元を九代目団十郎を想定して脚本を書いたと言われています。逍遥の「桐一葉」も「沓手鳥孤城落月」も・逍遥の歌舞伎への愛が溢れています。しかし、逍遥は「歌舞伎はこの時代に相応しいものに変わらねばならぬ」と考えていたわけです。その理論的実践たる部分に目を向けなければ逍遥を論じたことにはなりません。

逍遥の新歌舞伎作品を考えるには、逍遥の芝居の原点である九代目団十郎を考えなければなりません。団十郎の表現ベクトルの延長線上に逍遥があるのです。別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」シリーズはそのことを考える参考になるかと思います。

(H17・6・13)


○歌劇における「バロック」・その8:歌舞伎と歌劇

次に紹介する文章は当代・十二代目団十郎のものです。

『歌舞伎とオペラ。どちらも人間が舞台に登場し、感情を音楽に寄せて演じ、舞い、歌うことで物語が進められていく。洋の東西のまったく離れたところ。ユーラシア大陸の西と東の果て、優に2万キロもの距離を隔てながら、これほど似通った舞台芸術はあるだろうか。(中略)物事の始めには諸説があり、さらにその前置きの話があることは、よろず古今東西を問わないことである。しかし、この符合はどうしたことだろう。人間性は時代や場所に関わりなく、本質的な部分で全く変わることがないことを示しているようだ。』(十二代目市川団十郎:「音楽との出会い」」・モーストリー・クラシック・2004年1月号・ )

歌舞伎の起源は慶長8年(1603年)に出雲のお国の四条河原でかぶき踊りに始まったとされていますが、オペラの方もほぼ同じ時期の16世紀の末にフィレンツェのジョヴァンニ・ディ・バルディ公爵の邸宅で音楽劇が上演されたことがその 始まりと言われています。そして、「歌劇におけるバロック:その4・歌劇の観念上の死」で書きましたとおり、歌舞伎とオペラの観念上の死もまたほぼ同時期です。

永竹由幸氏は「オペラと歌舞伎」(丸善ライブラリー)のなかでオペラと歌舞伎の変遷の過程があつらえたようにピッタリ合わさることを面白く解説してくれています。ロッシーニと鶴屋南北・ヴェルディと黙阿弥・ボイートと九代目団十郎など、それはまったく「いやあ、そこまで見事にこじつけてくれるとは」と思わず笑ってしまいたくなるほどです。しかし、真面目に考えてみると・この相似は、団十郎の言う通り「人間性は時代や場所に関わりなく・本質的な部分で全く変わることがないことを示している」のかも知れません。

歌舞伎がバロック的であるのと同じくオペラもまたバロック的であるのです。恐らくそれが歌舞伎が吉之助を引き付け・オペラが吉之助を魅了するのでありましょう。そのことは機会を改めて考えてみたいと思います。(この稿終わり)

(H17・6・5)


○歌劇における「バロック」・その7:普遍的なるかぶき的心情

ドナルド・キーン氏は言わずと知れた欧米における日本文学研究の権威ですが、無類の音楽好きでもありまして・2冊の著書「音盤風姿花伝」と「音楽の出会いと喜び」(共に音楽の友社)で披露されるその豊富な音楽体験(特にオペラ) には吃驚させられます。そのキーン氏が「古典を楽しむ〜私の日本文学」(朝日選書 393)のなかで近松門左衛門の心中物(「曽根崎心中」・「心中天網島」など)を論じ・その論考の末尾を次のようなエピソードで締めています。

トスカニーニが歌劇「アイーダ」(ヴェルディ)をニューヨークで演奏会上演した時のリハーサルをキーン氏は見学したのだそうです。(多分1949年のことでしょう。この時の演奏は映像で残っています。)その第4幕はラダメスとアイーダという愛し合う二人が墳墓のなかに生きながら閉じ込められて死を待つシーンです。その最後の静かな旋律を二人の歌手が悲 しみを込めて歌いました。するとトスカニーニは即座にオケを止めて・こう叫んだそうです。「この場面は悲しみじゃない、喜びだ、無上の喜びなんだ!」

このキーン氏の近松心中論は上記のエピソードが最後に突然現れて・それで終わります。オペラを知らない方にはこの締め方は唐突というか・キーン氏が何でここでこんなエピソードを出すのか・何が言いたいのか分からないかも知れません。しかし、これはキーン氏のなかに完全な「必然性」があることが私には分かり過ぎるくらい分かります。「歌舞伎素人講釈」もまったく同じなのですから。

西欧には「心中」というようなロマンチックな響きの言葉はなく・強いて言えばDouble Suicideがそれに当たりますが、この響きは江戸幕府が「心中」の代わりに押し付けた言葉「相対死(あいたいしに)」に近いものです。しかし、西欧にも心中はないわけではありません。「ロメオとジュリエット」だって心中に近いものですし、この「アイーダ」もまたそうなのです。これもまさに「かぶき的心情」なのです。トスカニーニはさすがに言い当てていますね。(この稿つづく)

(H17・6・1)


○歌劇における「バロック」・その6:卑俗ということ

『ヴェルディは庶民的・農民的な・したがって「卑俗」な・我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。』(モラヴィア:「ジュゼッペ・ヴェルディの卑俗」)

ここでモラヴィアの言う「卑俗」とは何でありましょうか。それは「民族の血・民族の心情」みたいなものであろうと思っています。巷間よく言われることには、イタリア人が瞬間湯沸かし器のように熱狂するのは彼が激しい愛国の情に駆られた時か・愛する女が自分を裏切ったのを口を極めて罵倒する時なのだそうです。歌劇「ルチア」(ドニゼッティ)第2幕でルチアがアルトゥーロとの結婚証明書に署名したのを知ってエドガルドが怒り狂って「お前は天と愛を裏切ったのだ。おお、神の怒りの手がお前たちを一掃してくれるように」と叫ぶドラマチックな箇所 があります。この箇所のテノールの力強い高音と強烈なアクセントに観客が熱狂して立ち上がり・「ブラヴォ!」の連呼でしばらく音楽が聴こえなくなるということがイタリアの歌劇場ではしばしば起こるそうです。1835年ナポリのサンカルロ歌劇場でエドガルトを創唱したのはジルベール・デュプレという名歌手ですが、このエドガルドの歌唱のおかげで彼は「呪いのテノール」というニックネームを付けられたほどです。

ヴェルディの歌劇にもそのようなイタリア人の心情を強く刺激するものがあるのです。しかも、それがもっと庶民の心情レベルに近いところに降りて来ているのです。

永竹由幸氏が「オペラと歌舞伎」(丸善ライブラリー)でこんなことを書いています。「ルチア」のアリアがどんなに有名であっても技巧的に難しくて素人にはとても歌えるものではない・街を歩きながら・自転車に乗りながら口ずさめるものではない。でも「リゴレット」(ヴェルディ)の「女心の歌」なら誰でも知っているし、旋律がスラリと出てくる。それは江戸の庶民が一杯飲んで・風呂に入って気軽に口をついて出てくる黙阿弥の「知らざあ言って聞かせやしょう」や「月も朧に白魚の・」という名台詞と同じようなものだ、それが近世イタリア文化の華であり・江戸文化の華なのだと。なるほど、そんなものかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(H17・5・27)


○歌劇における「バロック」・その5:卑俗なるヴェルディ

イタリアの小説家モラヴィアがヴェルディに関して次のように書いています。

「それではヴェルディの卑俗とはいったい何であろうか。はじめの隠喩をもう一度用いるなら、それは今や廃屋と化して労働者や職人たちが住んでいる旧邸宅である。言い換えれば、それは反宗教改革の後にイタリアの支配階級によって見捨てられ裏切られ、庶民によって保たれながらも民間伝承(フォークロア)に過ぎないものとなっていた我らのルネッサンスのヒューマニズム的概念である。(中略)要するに、ヴェルディは、庶民的・農民的な、したがって「卑俗」な、我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。」(アルベルト・モラヴィア:「ジュゼッペ・ヴェルディの卑俗」)

ここでモラヴィアが言う「卑俗」は、スパッと斬り口が鮮やかで・鮮血がパッと飛び散るかのようなトスカニーニあるいはセラフィンの指揮するヴェルディの録音を聴いていただく方が長々しい説明を費やすよりずっと実感があるのですが、まあ、一応説明してみると ・これは「民族の血・民族の心情」とでも言うべきものであるかも知れません。

しかし、そう言い切ってしまうと「ヴェルディはイタリア人以外には分からんよ」というような話になりかねません。例えばイギリスにおけるシェークスピア、ドイツにおけるゲーテあるいはシラーにその民族に固有の心情があるとしても、むしろその素晴らしい個性を人類共通の宝といたしたいものです。(もちろん歌舞伎も同様です。)

ヴェルディの「卑俗」・この言葉はイタリア人の感情を底から熱くさせる何ものかを示しているのです。それはイタリア人がイタリア人であることのアイデンティティーに係わり・ 時にはそれが「愛国心」という形をとって現れます。

ご承知の通り、イタリアは西欧諸国のなかでは中央集権化・近代化に立ち遅れ・民衆が他国の圧制下で苦しむ時代が長く続きました。そのなかでイタリア国民の独立を熱い思いで鼓舞したのがヴェルディのオペラなのです。「イ・ロンバルデイ(十字軍のロンバルディア人)」・「アッティラ」・「ジョアンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」・「シチリアの晩鐘」などのオペラはヴェルディ愛国路線とも 言うべき初期の作品群です。「ナブッコ」というオペラは旧約聖書のダニエル書を題材にしていますが、ここでバビロニア捕囚で苦しむユダヤ人たちが失われた祖国を思って歌う合唱曲「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」はそのまま独立を願うイタリア人の思いでもありました。今でもこの曲は 「イタリアの第二の国歌」と言われています。VERDIとはVictorio Emmanuelle Re d’Italia(イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)の短縮形だと言う話が当時もあったくらいです。(この稿つづく)

(H17・5・21)


○歌劇におけるバロック・その4:オペラの観念上の死

哲学者ムラデン・ドラーは次のように書いています。

『もしオペラという荘厳でメロドラマティックなジャンルの最終幕が、その隆盛時の壮大さに適うものでなければならないとしたら、命日としてふさわしいのは間違いなくプッチーニの「トゥーランドット」が初演された1926年(=大正1 5年)4月25日である。その時のアルトゥーロ・トスカニーニの有名な身振りー彼はプッチーニが死んだために絶筆となった箇所で演奏を中断し・泣きながら指揮台を降りたのだったーは、オペラの荘厳な伝統を一時的に無効にし・その死を記し続けるものであった。』(ムラデン・ドラー:「音楽が愛の糧であるならば」〜ドラー/ジジェク共著「オペラは二度死ぬ」に所収・青土社)

「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1・時代にいきどおる役者」において、歌舞伎の(本質における)死が二度あったことを買きました。ひとつは寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。もうひとつの「節目」が明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死 、つまり江戸歌舞伎の終焉です。その後者のことですが、歌舞伎とオペラという似たような芸術ジャンルが共に同じ時期に観念上の死を迎えていることは非常に興味深いことです。明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死と大正15年(1926)ミラノでの「トゥーランドット」初演とは23年の時間の差がありますが、この程度は差と言えません・ほぼ同時に起こったことと考えていいのです。もちろん互いにまったく関連ない事象ですが、世界的レベルで見た時の同時代の現象としてとらえるべきことです。

ちなみに歌舞伎もオペラもほぼ同じ時期(1600年前後)に生まれているのです。この相似も面白いことです。どうして場所が離れたまったく別の事象が同じような変遷をたどるのか。この点についてはいずれ考えてみたいと思っています。(この稿つづく)

(H17・5・14)


○歌劇におけるバロック・その3:東西文明の衝突

歌劇「蝶々夫人」の愛の二重唱や有名なアリア「ある晴れた日に」の旋律はまったく日本的な旋律ではありませんが、何となくそんなものとして受け取っているのが不思議です。どこか西洋人の日本に対して持っている清らかで優しいイメージがあるようです。

今では「蝶々夫人」も人気作ですけれど、実は1904年(=明治37年)2月17日ミラノ・スカラ座での初演は散々と言っていいほどの歴史的大失敗でした。これを踏まえて何度か手を入れた改訂版が今日我々が耳にするものですが、初演稿とはかなり印象が異なるものになっているそうです。その改訂の経緯はここでは触れませんが、初演の失敗は日本の下世話な風俗をリアルに取り入れたことがミラノの観客に醜悪で不快な印象を持たれたこと、ピンカートンの無責任な人物を対比して・いわゆる「東西文明の衝突」をプッチーニが描こうとした (例えば初演版にはピンカートンが日本人を侮辱する場面があったりします)のが題材として刺激的過ぎたことなどが原因だとも言われています。全体として改訂版ではジャポネスクに憧れのイメージを持つ西洋の観客に目映りがいい改訂がなされているようです。(なお近年は初演稿による上演も何度か試みられています。)

日本の風俗描写に真実性を持たせようとしたというのはプッチーニはヴェリズモ(現実主義)の作曲家ですから当然とも思います。また、蝶々夫人が状況に押し流されて・ 言わばなし崩し的に自殺に追い込まれる(改訂版)のではなく、初演版では蝶々さんが自らの誇りと意志を以って・決然として自殺するという設定であったということも納得できます。これはすなわち「私があなたを愛しているのと同じに私を愛して」という「かぶき的心情」に近いものなのですね。(別稿「その心情の強さ」をご参照ください。)ジャン・ピエール・ポネル演出のオペラ映画版「蝶々夫人」(カラヤン指揮・ユニテル製作・通常の改訂版による演奏)では、ラスト・シーンで自害した蝶々さんの部屋にピンカートンが駆けつけると・遺された子供が父親を責めるように指を差す場面があってショッキングでしたが、やはりピンカートンの不実は糾弾されるべきでありましょう。

歌舞伎「蝶々夫人」はアメリカの劇作家べラスコの同名戯曲のオペラ化作品ですが、プッチーニは1900年6月ロンドンでその舞台を見ました。プッチーニは英語はほとんど分からなかったようですが、その異国情緒にあるれる舞台装置と彼好みの薄幸のヒロインを見て大感激して終演後すぐさま楽屋にべラスコを 訪ね、涙を流しながらべラスコに抱きつかんばかりにしてオペラ化を頼んだそうです。イプセンの「人形の家」(1879)を例に挙げるまでもなく、この時代は意志のある女性を文学でも舞台でも主人公によく取り上げたものでした。

それにしてもプッチーニがこの時代に「東西文明の衝突」的な着想を持ったことには興味をそそられます。「蝶々夫人」にも・やはり引き裂かれたバロック的な心情が間違いなくあるのですね。現行の改訂版からでもそれは十分に聴き取れると思います。(この稿つづく)

(H17・5・11)


○歌劇におけるバロック・その2:引き裂かれたオペラ

実は歌劇「トゥーランドット」は吉之助が好きなオペラです。ずいぶん昔の話ですが、私がヨーロッパに行った時のこと、そこで知り合った現地のオペラ好きが・吉之助が日本人ということもあったでしょうが「私は蝶々夫人が好きだ」と話しかけてきたことがありました。 吉之助が「蝶々夫人はあまり好きじゃないな、トゥーランドットの方が・・・」と言ったら、「オオッ」とのけぞっておりました。まあ、あちらではあまり趣味の良くないオペラと思われているところがあるようです。

しかし、今回久しぶりに「トゥーランドット」を聴きまして・痛切に感じたことは、全体に散りばめられた・その中国風旋律の無機的な使い方です。ただしリューの担う旋律だけは別ですが、特に合唱においてそれを強く感じさせます。その旋律の使い方は時に無機的かつ威圧的・暴力的であり、差し迫った非人間性への恐怖を強く感じさせます。吉之助の見た数少ない「トゥーランドット」の舞台のなかでは1986年9月に来日した英国ロイヤル・オペラのアンドレイ・シェルバンの演出が強く印象的に残っています。主役クラス以外の登場人物はすべて仮面をつけていて、つまり人間性を剥奪された虚無的な影のような人物たちでした。

メルマガで「バロック的なる歌舞伎」なんて原稿を書いている最中ですからそんなことを強く感じるせいもありますが、まさにこのオペラはバロック的な感覚のなかで引き裂かれているのです。確かにこのオペラには単純なハッピーエンドはふさわしくないと実感できました。

こういう感覚は「蝶々夫人」(1904年初演=明治37年)の方にはあまり感じませんが、これは作曲年代がほぼ20年離れている(つまり作曲当時の時代背景が全然違う)ことが強く影響しているのだろうと思いますが、題材の違い(中国と日本)もあるかも知れません。(この稿続く)

(H17・5・9)


○歌劇におけるバロック・その1:「トゥーランドット」について

歌舞伎と関係ないようです(実は遠まわしに関係あるのです)が、今回はオペラのことです。久しぶりにプッチーニの歌劇「トゥーランドット」を聴きました。演奏はゲルギエフ指揮の2002年ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音です。この録音を選んだのには理由がありまして、これはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオによる補綴完成版での初演演奏です。

「トゥーランドット」はプッチーニの最後の歌劇ですが、プッチーニは第3幕のちょうどリューの自決の所までを書いたところで1924年11月(大正13年に当たる)に亡くなり作品は未完に終わりました。作品は弟子のアルファーノによって完成され、1926年4月25日ミラノスカラ座でトスカニーニの指揮により初演されました。トスカニーニは、この日、プッチーニが絶筆した箇所でオーケストラを止め「ここまで書いてプッチーニは亡くなりました」と言って指揮台を下りました。(2日目からは通常に演奏されました。したがって26日を本当の初演日だとする説もあります。)

今日の一般的な演奏はアルファーノ版に拠っていますが、この版のエンディングは第3幕冒頭の有名なアリア「誰も寝てはならぬ」の旋律をただ繰り返しているだけだという批判もあって、評価は芳しくないのは事実です。アルファーノ版はカラフとトゥーランドット姫との愛の成就を高らかに歌い上げて合唱を加えてフォルテで壮大に締められます。しかし、実はプッチーニの遺したメモがあったそうで・それによればオペラはピアノ(弱音)で締められる予定であったとのことです。そこで今回のベリオ版の登場です。ベリオ版は作曲者の意図を汲んで静かに終わるエンディングを採用しているのです。この静かに終わるエンディングの意味ですが、「オペラは二人の愛の成就で終わるけれど・二人がいつまでも幸福であるかどうかはそれは分からないよ」というような皮肉が込められているということだそうです。(この稿つづく)

(H17・5・6)


○満開の桜

桜満開がこれからの地方もあることなので、「桜関連ネタ」をもうひとつ。今からちょうど60年前ということになりますが、昭和20年3月10日に東京大空襲があったのはご存知と思います。その年の春 も上野の山はやっぱり桜が満開でしたが、戦時下のこともあり・ひと一人もおらず・ひっそりとした桜満開の森にただ風のなかに花びらだけが舞っているという光景であったそうです。坂口安吾はその光景にショックを受けたようです。

『花見のひとの一人いない満開の桜の森などは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げ出したくなるような静寂が張り詰めているのであった。ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅に出て狂い死にする物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花盛りの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。』(坂口安吾:「桜の花盛り」〜「明日は天気になれ」・昭和28年1月から4月まで西日本新聞に連載されたエッセイより)

指摘するまでもないでしょうが、この上野の山での強烈な印象が安吾の小説「桜の森の満開の下」(昭和22年発表)の執筆動機になったのは明らかだろうと思います。「花のほかには松ばかり」という歌舞伎の「娘道成寺」の舞台面も実はそういう狂的な冷たい空気を裏にはらんでいるのかも知れません。

(H17・4・21)


○チェーホフの桜

東京の桜の花もそろそろ終わりというところですが、歌舞伎には直接関係はないようですが・いずれ「桜関連ネタ」にしようと思っていることを備忘録代わりに書いておきます。

チェーホフの「桜の園」と言えば、日本人に殊の外愛されている翻訳劇です。何と言っても「桜の園」という題名がよろしい、それだけで「道成寺」か「千本桜・吉野山」の舞台面が思い浮かびます。そしてラストシーンに没落貴族の哀愁と・散りゆく桜のはかない運命とを重ねて感傷にひたるということでありましょうか。これについては、 吉之助の学生時代ですが、劇に出てくるロシアの桜は収穫用のサクランボの木のことで・日本人が思い描いている桜とは違うのだそうで、その「平家物語」のような滅びの美学的見方はいかにも日本人的なことであるという評論を目にしたことがあります。それでずっと吉之助も「そんなものかな・・」と思っておりましたが、つい最近、「劇中の桜は日本のイメージである」という意見がロシアのチェーホフ研究家から出されて話題になっているのだそうです。チェーホフは園芸に熱心で・ヤルタの別荘に日本の木を何種類も植えていて、そのなかに日本の桜の木もあったそうです。

また、チェーホフには日本びいき的な発言が多いようです。1904年7月、チェーホフは肺結核のためにドイツの静養先で44歳で他界するのですが、この年の2月に日露戦争が始まりました。6月のベルリンのこと、義弟が「ロシア軍の勝利を望む」と言うと、チェーホフはこう言ったそうです。「そんなことは決して言っては いけない。我々の勝利は、専制を強化し・我々に息切れさせている圧政を強化することになるではないか。その勝利は迫り来る革命を阻止することになるだろう」

はたして劇中の桜は、花しか咲かない日本の桜なのでありましょうか。そこにチェーホフはどのようなイメージを託したのでしょうか。これはなかなか興味深いテーマでありますね。

(H17・4・15)

追記:日本の桜かどうかは分かりませんが、「桜の園」の桜は実のならない桜であり、さくらんぼの樹ではないことは間違いないようです。スタニスラフスキーの回想録「芸術におけるわが生涯」のなかの思い出話に拠れば、芝居の題名についてチェーホフがスタニスラフスキーに「聞いてください、桜の園(ヴィーシニェヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシニョーヴィ・サート)です」と言って笑い転げたとあります。「ヴィシニョーヴィ・サート」とは、実がならない・収入をもたらさない園であるとスタニスラフスキーは記しています。

スタニスラフスキー:芸術におけるわが生涯〈中〉 (岩波文庫)


○現代における「古典劇」の姿勢

メルマガ146号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その4:二代目左団次の革新」において、左団次は新歌舞伎と・いわゆる古典歌舞伎を別なものとして演じなかったということを書きました。 利倉幸一氏も「左団次自身はこのふたつの演劇に異なった姿勢で立ち向かっていたとは思えない。」と書いています。(雑談「大正の歌舞伎」・「演劇界」・昭和58年1月)左団次は器用な役者とは言えなかったようですから・確かに古典の役柄は拙かったでしょうが、どんな役でも一生懸命・全力投球で演じたでありましょう。左団次のそうした姿勢のなかから、歌舞伎十八番の復活(「毛抜」・「鳴神」など)や鶴屋南北の復活(「立場の太平次」など)も生まれたわけです。左団次がいなければ、現代歌舞伎は新歌舞伎だけでなく・古典劇のレパートリーもずっと貧しいものになっていたでしょう。

「新作・古典のふたつの演劇に異なった姿勢で立ち向かっていたとは思えない」というのは、九代目団十郎も六代目菊五郎もそうであったと私は思います。活歴などの演劇改良運動のなかで得た感覚を九代目団十郎は古典のなかで生かしました。それが「勧進帳」の弁慶であり・「陣屋」の熊谷・「忠臣蔵」の由良助であったのです。六代目菊五郎も新作歌舞伎の感覚を古典劇の再検討にフィードバックして見せました。「野崎村」や「吃又」・「堀川」の新演出がそうしたものでしょう。

今月(3月)歌舞伎座での十八代目勘三郎襲名興行を見てきました。満員盛況にてまことにめでたいことです。私は新・勘三郎とは同世代でもあるし、先代(十七代目)の舞台は思い出が尽きないですし、勘三郎には特別に期待したいと思います。個々の演目の細かいことはいずれ別の機会に書きたいと思いますが、ひとつだけ印象を書いておきます。

襲名興行の演目を見ても、勘三郎の芸域の広さ・器用さはよく分かるところです。しかし、「盛綱」と「鰯売・猿源氏」を見て・別の役者が演じているように感じられました。勘三郎は盛綱をいかにも神妙に、猿源氏をいかにも楽しげに演じています。これは逆であってもらいたい。盛綱を楽しげに、猿源氏を神妙に演じてもらいたいのです。それでちょうどいいのです。それならばひとりの役者が確かに舞台にいると感じられたと思います。古典はその作品が今まさに書かれたもののように、新作はそれが200年も昔から演じられていたかのように演じて欲しいのです。

三島由紀夫の「鰯売恋曳網」は昭和29年11月の初演。十七代目勘三郎の猿源氏と六代目歌右衛門の傾城の、その舞台は好評でしたが、三島本人とは座談会で「『鰯売』を褒められたのには、くすぐったくて、ほんとにいやになっちゃった」とにが笑いの発言をしています。

「僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」(雑誌「演劇界」での座談会:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

盛綱を神妙に・猿源氏を楽しげに演れば演じるほど現代における古典歌舞伎の齟齬が見え、新作歌舞伎の齟齬も露わになるのです。盛綱を楽しげに・猿源氏を神妙に演じる、それでちょうどいいのです。現代において歌舞伎が「古典」であるということはなかなか難しいことだと思いますね。

(H17・3・20)


○二代目左団次の旋廻走法

メルマガ146号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その4:二代目左団次の革新」では、二代目左団次の新歌舞伎について考えています。岡本綺堂の「番町皿屋敷」は大正5年 2月本郷座において、左団次の播磨・二代目松蔦のお菊のコンビにより初演されました。この芝居の最後で播磨はお菊を斬殺して井戸に投げ込んでしまいます。この場面はちょっと非情に過ぎるようで主人公に対する共感を呼びにくいところがありますが、 しかし、これは「播州皿屋敷」の趣向を借りているわけですから・お菊を井戸に投げ込まないと「皿屋敷」にはなりません。この芝居は「新釈・皿屋敷」なのです。死骸を井戸に投げ込んでしまうということは、その井戸はもう使えないということを意味します。つまり、最愛の女性を殺してしまった今・播磨はもう生きているつもりはない・青山の家を潰す気でいるということを示しているのです。

そこへ旗本奴と町奴の喧嘩の知らせが入ります。播磨は長槍を持って駆け出し、本舞台から花道へ勢いをつけて・旋廻走法で揚幕へ一気に駆け入ります。こういう遠心力を付けた走り方はそれまでの歌舞伎にはないものでした。これは左団次が西欧で学んだものと言われています。それではこの旋廻走法は、マッチョで体育会系の役者左団次が見せた奇をてらった走法なのでありましょうか。それが観客に新鮮な驚きを与えたと、ただそれだけのものなのでしょうか。そうではないでしょう。

旋回運動とは何でありましょうか。物体がある方向へ飛び去ろうとする時、その物体を引く・別方向の力が働くと、その物体はその力の方向(中心)へ向けて曲がり・放物線を描くのです。それが物理学の法則の教えるところです。播磨は喧嘩へ駆け出そうとしながら・井戸のなかのお菊に引かれているのです。これはお菊が播磨を呼んでいるとも 言えますが、播磨の心にあるお菊への未練な想いが彼を井戸の方へ引くわけです。これを形象化したのが左団次の旋廻走法です。播磨はその場でお菊の後を追って死んでしまいたいほどなのですが、その気持ちを振り切って死地に赴くのです。なぜなら彼は男のなかの男・旗本奴であるからです。だから、左団次は駆け出す前に・ぐっと息を詰めて井戸のお菊の方向を 一旦にらみつけるように見やり・お菊への想いを腹に詰め・それを振り切るように一気に揚幕に向けて駆け出したでありましょう。そして播磨は 井戸のお菊に引かれつつ放物線を描きながら走り去るのです。左団次は見事に作品を解釈しているとお感じになりませんか。

(後記)別稿「散る花にも風情がある」もご参照ください。

(H17・3・12)


○新作歌舞伎のヒント

メルマガ146号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その4:二代目左団次の革新」は「かぶき的心情」という個人の意識・アイデンティティーの主張に「社会」という方向性が与えられたのは明治後期のことで、これによって江戸の「かぶき的心情」は新歌舞伎として再生したということを書いています。

「深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。」 (坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

逍遥の言葉からは、いかにも肩に力が入った・時代は俺が作るというような気概を感じます。当時の日本人はみんなこんなところがありましたね。この逍遥の言葉が、新歌舞伎を創った人々の気持ちをよく表しています。この歴史的経緯からしますと、現代における新作歌舞伎のテーマも「かぶき的心情」に採った方が歌舞伎の様式に自然にフィットするのではないかと考えますが、如何なものでしょうか。

「二代目左団次の革新」でも触れましたが、明治30年代の雰囲気というのは意外にも・この平成の時代に似た様相を呈しています。現代は何でもできる権利と自由が与えられているはずなのですが、若者が何もやる気が起きない変な時代です。村上龍氏は小説「希望の国のエクソダス」において「この国には何でもあります。だけど希望だけがない。」と書いています。その一方で個人に尊厳を奪う何ものかの脅威がひたひたと感じられる時代です。9・11テロはそのことを身が震えるほど感じさせられた瞬間でした。ちょっと視線を動かせばこの世には不公平と不条理が満ちているのです。そこから目をそらして・せいぜい50センチ四方の世界の中心に閉じこもっていては仕方ありません。

野田秀樹氏の「野田版・研辰の討たれ」・「野田版・鼠小僧」はそれぞれ木村錦花・黙阿弥のオリジナルをよく生かし・最後にちょっとペーソスを利かすという趣向でうまくお芝居に仕立てているのはさすがです。しかし、私の好みもありますが・ドタバタと駄洒落がうるさ過ぎで(その饒舌さが現代的だということは 確かに言えますけどね)、幕切れのペーソスが芝居のオチのために・取って付けたようにも感じられました。

これら野田作品が「歌舞伎なのか」という議論は吉之助は意味のあるものと思いません。言い方は変ですがあれでも歌舞伎だと思います。歌舞伎は何でも取り込んじゃう結構懐の深い演劇なのです。しかし、さらに もっと歌舞伎的であろうとするならば、あれをペーソスで終わらせたくないと思うわけです。憤懣・いらだち・懐疑にまで持っていきたいのです。その取っ掛かりは野田氏のお芝居のなかにもあるのですが、もっと「平成のかぶき的心情」に熱くなって欲しいと思うのです。そこまで行ってこそ野田秀樹が歌舞伎に挑戦する価値があると言うものではないかと思いますが。「二代目左団次の革新」にはそのヒントがあると思います。

(H17・3・7)


○インターネット劇評「批評という鏡」について

渡辺保先生のインターネット(IT)劇評集「批評という鏡」(マガジンハウス)が出版されました。ITという新しい媒体を使った批評発表はこの世界初のことですから、まずはその事おめでとうございますと申し上げます。渡辺先生がIT批評に挑戦したきっかけについては同書のあとがきに書かれています。直接的にはそのきっかけは「定期的な劇評発表の場を失った」ことにあったそうです。未開拓の領域に踏み込むことへの不安が渡辺先生にもあったようで・これはサイト/メルマガを主催しております 吉之助にしても同様なことです。書き手にとって誰にも拘束されず自分のやりたいことが出来るというメリットがある代わりに、「読者」の姿が見えないことが非常に不安だろうと思います。これは雑誌の批評発表でも同じではないかと思われるかも知れませんが、雑誌の場合は少なくとも編集者という形の「読者代理人」との接触があり・原稿料という対価(これが一種の評価というものです)もあるわけです。無償のITサイトへの批評発表は、強いモチベーションを自分に課していかない限り継続は困難なものです。

「あとがき」のなかで渡辺先生は自分の批評に対する一部からの批判(抵抗)があったことも書いています。渡辺先生ほどの社会的影響力があれば・それは何を書いても何がしかの反応は起きるわけで、反対意見も当然あるでしょう。渡辺先生がサイトにE-メールアドレスを表示していないのも・ひとつにはそのこともあると思いますが、そのようないわば雑音に係わりあっていては書き手はものが書けないわけです。IT劇評という形式において自分と対峙し・毎月の演目を取り上げるなかで・そこに浮き上がってくるものは「渡辺保」という人間であって・演目はそれを映し出す像に過ぎないわけです。「批評という鏡」という書名はそのことを示していると思います。

確かに渡辺先生の劇評は従来の歌舞伎の劇評と趣きが異なるところがあります。その批評の根底のところが、対象に入れ込む(自己を没入する)ことで心情を読み込むスタイルなのです。劇評だから客観性を持たせた筆致にはなっていますが、ある部分の受け止め方が時に主情的とも思えるほどに熱い、そこが大きな魅力なのです。そこが「通めかして・対象から距離を置き・印象批評にしかならない」従来の劇評と違って書き手の個性(意識)がはっきり見える、だから「思い入れ過ぎるのじゃないの」と 吉之助でさえ感じることもたまにはありますが、これが渡辺先生の批評のスタイルなのです。とにかく些細な演技の襞の部分での読み込みにおいて、渡辺先生の批評ほど教えられるものは少ないと思います。

かなり芝居を知っている人ならともかく・「自分の見ていない舞台の批評を読んでもピンと来ない・関心ない」と思っている方は少なくないと思います。しかし、もし歌舞伎をもっと知りたいと思っているならば、何かの芝居を見た後で結構、その演目の過去の上演に関する批評をいろいろピックアップして並べて読んでみることは非常に有効ですから是非試みてください。観劇後の興奮を 再確認するだけが劇評の役割ではありません。そうすれば見てない過去の舞台まで見たようなものです。

しかし、今回の「批評という鏡」をざっと眺めますと、もともとがITの特性を生かし・その月のお芝居を舞台を見て数日でサイトに批評を掲示するスタイルを取っている(つまり速報性・新鮮さが売り)わけなのですが、こうして書籍になってみると若干その部分でのチグハグがあるようです。その月の舞台の配役等の事前情報をご存知という前提に立っているので、書籍として読むとすぐに頭に内容が入りにくいところがあるようです。この点は、毎月の批評の 冒頭に演目と主要配役を簡単に記すなどの編集の工夫・若干の加筆が必要であったという気がいたします。

批評という鏡

(H17・3・3)


○芝居のバランスを考える・その6: 「盛綱」首実検をどう演じる

「盛綱陣屋」は、「和田兵衛上使」・「小四郎恩愛」・「盛綱首実検」のみっつの場面に分けられます。本来はこの「盛綱首実検」での早瀬の登場から幕切れまで・大きなひと掴みの流れが三島の言うところの団子ひとつ分なわけで、首実検はそのなかのひとつの要素に過ぎないわけです。ところが歌舞伎を見ていると首実検の場面だけで大きな団子ひとつになっています。さらに後で小四郎を褒める場面も 小さい団子ひとつくらいにはなっています。そして、これが歌舞伎のバランスになっているわけです。首実検の場面を床本で見てみると次のようになります。

『三郎兵衛承り大将に一礼し、無慙の弟が死首に是非もなき対面やと呑込む涙、後ろより父の死顔拝まんと窺ふ小四郎、盛綱が引明る首桶の二目とも見もわかず「父様さぞ口惜しかろ、わしも後から追付く」と氷の刃雪の肌、腹にぐっと突立つる。「ヤレ母人お留めなされ、何故の切腹、仔細をいへ様子はいかに」と人々あはて介抱に、小四郎きっと目を見開き「何故死ぬとは伯父様とも覚えませぬ、卑怯未練も父様に逢たさ、父を先立てて何まだまだと生き恥をさらさん、親子一所に討死して、武士の自害の手本を見せる」と、きりきりと引廻すその手に縋り母微妙「ナウその立派な心を知らず、呵った婆が面目ない、こらへてたも」と右左、目をしばたゝく三郎兵衛「猶予は如何に、早実験、何と何と」と御上意に疵口拭ひ耳際までとっくと改め故実を守り、謹んで両手に捧げ「矢疵に面体損じたれども、弟佐々木高綱が首、相違御座なく候」と御前に直し押し下れば・・・』

歌舞伎では、この『とっくと改め故実を守り』(太字の部分)をたっぷりと時間を掛けて・盛綱の思考過程を分解して段階的 かつ説明的に延々と首実検を演じるわけです 。この首実検の場面を歌舞伎では「寺子屋」・「熊谷陣屋」と並ぶ最重要の場面としていますから、ここを念入りにじっくり見せ場として描こうとする気持ちはよく理解でき ます。

しかし、床本を読みますと「引き明くる首桶の二目とも見もわかず」とありますから、盛綱は「一目」は首を見る間があ ったわけです。しかも、 突然の小四郎の切腹に対して盛綱は「何故の切腹、仔細を言え」と叫んでおりますから、この時点で既に盛綱はそれを一目で偽首を見破っているのも明らかなのです。したがって、時政に催促されて改めて首実検を始める時には盛綱はもう偽首を弟高綱の首だと嘘をつく(つまり主人時政を裏切る)腹を固めているわけです。だから『とっくと改め故実を守り』の部分を十秒程度でさっと演り切ることは理屈として可能です。歌舞伎ではこの部分を分析的かつ説明的に・盛綱が偽首を前に長々と考え込んだりしていますから、これでは三島のように「何てバカでしょう」という 声が出てくるのも仕方ない所があるわけです。

それではこの場面を文楽に近く・十秒くらいでサッサと済ましちゃったらどうなるでしょうか。それは理屈ではあるのです。私がもし盛綱やるならそうしてみたいと思います。しかし、恐らくこの場面だけ仕事を変えたら・全体のバランスと感触が 狂ってしまってうまくないでしょう。多分「盛綱陣屋」全体の仕事を再構成して・バランスを調整しな ければならないと思います。そうしないと・首実検の場面だけが浮き上がってしまいます。その辺りが理論と実践の難しいところです。要するに、型というのは「あちらの良いとこ採って・こちらの良いとこも採って・両方合わせて良い型を作ろう」ということはできないものだろうと思うわけです。こういうことは・その型のその部分だけを見ていたら分からないのです。だから、芝居全体のバランスを考える必要があると思うわけです。

(H17・2・27)


○芝居のバランスを考える・その5:「盛綱陣屋」の場合

晩年の三島由紀夫が武智鉄二との対談でこんなことを言ってます。

『僕は前から思っていますが、武智さん演出で見たい歌舞伎がひとつあるんです。それは「盛綱陣屋」なんですよ。というのは「盛綱陣屋」くらい僕はつまらない芝居はないんですよ。あれは団子(だんご)です。団子という五つのエピソードがつながって、みんな同じ大きさで、串で刺してあるんですよ、今やっている(歌舞伎の)「盛綱陣屋」は。篝火の件、微妙の件、盛綱の件・・・みんな同じ重さで、クライマックスもなければ何もないんですよ。よくあんな退屈なものをものを見てると思う。だけど原作を読んでみると、決してそんなことはない。(歌舞伎では首実検の場面を)27分やった人がいるんですってね、なんて バカでしょう。』(三島由紀夫・武智鉄二:「現代歌舞伎への絶縁状」・昭和45年2月)

文楽では首実検の場面はあっと言う間に終ってしまいますが、歌舞伎では首実検の場面が最大限に引き延ばされてい ます。ここだけで一番大きい団子ひとつ分になっているのです。歌舞伎の盛綱はもちろん首を見てそれが偽首であることをすぐに見破るのですが、「弟・高綱は一体何を画策しているのか」という風に考え込む思い入れあって・さらに揚幕の方を見やり「さては死んだことにして身を隠し北条殿を狙おうとの魂胆よな・小癪な奴め 」というような感じでニヤリと笑い、次に傍らで腹に刀を突きたてて伏している小四郎を今更ながら見て驚き、「そうすると小四郎が切腹したは・・」とまた考え込み、それでハッと気が付いて・やっとこさ偽首を高綱の首だと言って北条殿を欺く決意を固めるという段取りになりましょうか。こういうのは「心理的描写」というとはちょっと違うようです。盛綱の思考過程を分解して段階的 かつ説明的に延々と首実検を演じているわけです。そこが表情と肚芸での見せる役者の仕所ということになっています。

そんなものパッと演っちゃいえばよろしい・長々とやるなんて何てバカでしょうと三島が言うのもそれはそれで一理あるのですが、しかし、逆に言えば (どこからどこまでの27分かもよく分かりませんが)こういう場面を27分も掛ける役者がいたというのは大したものです。一体どんなことをやって27分持たせたのかは興味あるところです。

盛綱の行動はかぶき的心情での反応でして、小四郎の心情にハッと気付いて・ううむそれなら・・・ と盛綱は勢いでいかないと、これが実際の出来事ならとても人間はああ行動できないかも知れません。しかし、歌舞伎はその・恐らく実際場面なら せいぜい十秒間のことを、十数分に引き伸ばしていると言えます。この場面は映画で言えば静止画像のモノローグとでも考えればよろしいのかなというのが一応歌舞伎を弁護してみた時の考えでしょう。

話が変わるようですが、昭和31年(1956)に三島由紀夫の「鹿鳴館」が文学座で初演されましたが・その舞台稽古の時、影山朝子が生き別れしていた息子久雄と再会するシーンで朝子の「私は知っていますよ。あなたの左のお膝にある小さな 細い傷跡も・・」という台詞に久雄役の俳優が何の反応もしなかったので、この部分の演技をなんとかしようと言う話になったのだそうです。この時にスタッフのひとりが「あそこは先代(初代)鴈治郎なら大変だったろう」と言ってその真似をしてみせたそうです。どうしたかと言うと、朝子の言葉にハッとして左の膝の傷跡を押さえ、次にその時の痛みを思い出したかのように顔をゆがめ、さらに「この傷のことを知っているあなたはやっぱり本当のお母さんなんだ・・・」という思い入れで朝子を苦しそうに見つめ、その表情が次第にウルウルとしてきて・感極まって久雄は地面に突っ伏し・地面をのたうち回る、それでみんなで大笑いだったと三島が書いています。

これでお分かりの通り、新劇であれば心理的な内面的な部分だとして表情の変化くらいで済ませて大げさな動きをしたがらないところを、歌舞伎はその心理を論理段階風に分解して・説明的に 順序立てて長々と見せてくれるわけです。悪い言い方をすれば、そうした「大仰(おおぎょう)で ・くどくて・しつこくて・臭い演技」が歌舞伎の重要な演技手法とされているのです。これは皮肉を言っているわけではなくて、そのような「嘘を嘘っぽく演じる」ことをその持ち味とする・これも歌舞伎の大事な演技手法のひとつなのですね。逆に言うと、こうやっていれば「それなりに歌舞伎らしく見える」ということでもあります。そして、この手法を応用すれば力量のある役者なら自分の持ち場を延々と引き伸ばすことができるわけです。「盛綱陣屋」の首実験はその代表例かも知れません。 (この稿つづく)

(H17・2・25)


○芝居のバランスを考える・その4:「熊谷陣屋」の場合

芝居には音楽と違って指揮者はいませんし・全体のバランスを管理するという人がいませんから・その判断が難しいのですが、芝居を見ていて「中盤がダレるなあ・・」とか「クライマックスに持っていく芝居が 長いんじゃないの」と感じるようなことはあるでしょう。 仮にある役者が自分の持ち場を延々と引っ張ったとすると、そのために全体が締まらなくなることもあります。そういう場合は全体が一尺にちゃんと収まらなくなるからそう感じるのです。だから芝居のバランスというものは確かにあるのです。

芝居のバランスは脚本だけではなく・配役によっても変化します。「熊谷陣屋」の場合で言えば、相模を歌右衛門が演じるならば・たとえ歌右衛門が控えめに演じようが相模のウェイトはどうしても重くなります。歌右衛門が演じれば相模が小次郎の首を抱えて嘆くクドキの場が重くなるのは当然です。これはこの場が時間的に長くなるということもあるかも知れませんが、心理的比重が重くなるということでもあります。これにより「一段一尺」のウェイト配分が変化することは言うまでもありません。相模が他の役者なら・それはまたそれなりの重さになるでしょう。こういうことは 実際に配役して舞台で演られてみないとそのバランスが良いかどうか分からないかも知れません。

「陣屋」の九代目型というのは「熊谷ひとり」にスポットを当てて・その無常感を表現しようというものです。そのために九代目は特に幕切れの段取りを大きく改変しました。それにより 「陣屋」の一段一尺のウェイトは幕切れが格段に重いものになっています。九代目型の場合は、すべてが熊谷の花道引っ込みに向けて段取りされているといっても過言ではありません。「そもそも熊谷の山は物語でも何でもなく、じつは出と引っ込みにあるのだ。直実は仏心に始まって仏心に終る。・・・要するに『陣屋』は花道の芝居である」と杉贋阿弥も言っています。

こういう九代目の芝居の作り方は、ひとつの主題(テーマ)を持って・それにそって筋(ストーリー)を構築していく・フィナーレに向けて一貫した筋を構築していくという近代劇に割と近いコンセプトなのです。つまり、「型」とは言っているけれど・「演出」に近いと思ったほうがよろしいようです。

九代目の工夫は、劇途中の部分である「十六年も一昔。ア夢であったなアとほろりとこぼす涙の露。柊(ひいらぎ)に置く初雪の日影に融ける風情なり」を最後に持って行って、これを幕外の花道引っ込みに使ったことです。本来ならば、「すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔、さらば、さらば、おさらばの声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く」が「陣屋」の最後 なのです。(「熊谷陣屋・床本」のコーナーをご覧下さい。)

まず音楽面から言えば、三味線のシャンの音で終結し・引っ張りの形で幕を閉めるべき「陣屋」の場を、花道の憂い三重により音楽的に未完にしてしまったことです。 演劇面から言えば、全体が大きく「平家物語の世界」へ収攬されていくはずのものが、実録物っぽい直実個人の悲劇に置き換えられています。極論すれば、「陣屋」の芝居が直実の花道引っ込みの為にあると言ってもいい構造に 変わっています。さらに花道引っ込みは役者の気分に応じて引っ張れるだけ引っ張ってもいいようになっています。(別稿「熊谷の引っ込みの意味」をご参照ください。)

このようなコンセプトに基づいて「陣屋」のバランスが根本的に作り変えられていきます。九代目が端場である「熊谷桜」の場をカットしたわけではありませんが、現在ではこの場が上演されることがほとんどなくなってしまいました。それは上演時間の問題もありますが、これを出すと主人公の登場が遅くなって効果的でないという理由もあるようです。確かに九代目型のコンセプトからすればこの方がドラマの密度が高くなるのです。当然、「陣屋」の登場人物の比重も変化してきます。敦盛を受け取る弥陀六は「陣屋」を平家物語の世界へ収攬させる大事な役割を持つわけですが、九代目型ではその印象が軽くなってしまう印象は否めません。

このように「一段一尺」のイメージで「陣屋」を計った場合に、(従来型である)芝翫型と・九代目型ではバランスが根本的に変わるということがご理解いただけましょう。芝翫型と九代目型 では、「型」として見た場合にほとんど隔絶している・まったくコンセプトが異なるのです。これだけコンセプトが異なれば、違う作品と考えていいくらいのものです。つまり版(ヴァージョン)が違うわけです。版を選択することが演技コンセプトを選択することになるわけです。(この稿つづく)

(H17・2・22)


○芝居のバランスを考える・その3:歌舞伎のバロック構造

先日、生まれて初めて歌舞伎を見に行ったという方の話を聞きました。本年1月歌舞伎座夜の部だそうです。「どうだった?」と聞くと、どうやら二番目の「土蜘」でメゲて・三番目は見ずに帰ったらしい。しかし、一番目の「鳴神」は面白かったそうです。その彼の感想ですが、「ディズニーランドだとミッキーを出してこれでこういう風に楽しんでくださいという感じで・お仕着せなんだけど、歌舞伎というのは素材を並べてどうぞご自由にという感じだなあ」と言うのです 。

彼は恐らく、ひとつのパッケージとしてお楽しみの仕方をご提供する芝居でなくて、素材が並列的にならんで・いろんなお楽しみが組み合わさっているバロック的なイメージを持ったのだろうと思います。これは歌舞伎のイメージとしては「的確」と言うべきで して、初めての歌舞伎でそれが分かるとは「君はなかなかセンスがある」と吉之助は褒めてあげました。

要するに、歌舞伎はひとつの主題(テーマ)を持って・それにそって筋(ストーリー)を構築していく・フィナーレに向けて一貫した筋を構築していくという近代劇の構造をとっていないわけです。各役者の持ち場・見せ所があって・その複合体として全体の筋が浮かび上がるという構造を持つわけです。それが歌舞伎です。

これは西欧でも昔の芝居(イプセン以前)はそうでした。シェークスピアを見れば、例えば「ハムレット」でのオフィーリアの狂乱の場・あるいは墓堀りの場などは全体の筋から見ると脇筋なのですが、こういう場面を役者が延々引き伸ばして演じるから面白いわけです。筋が一貫していないことも多いようです。私が最初に「オセロ」を見た時、途中ではゾクゾクするほど悪魔的魅力のある悪役であるイヤーゴが、最後のシーンでは存在感がまったくな くなってしまうのが不思議でなりませんでした。しかし、昔の芝居はあんなもんですね。歌舞伎でも魅力的な登場人物が途中でいつのまにやらいなくなるのがありますね。

ところで話を「熊谷陣屋」に飛ばしますが、熊谷の物語と首実検の間・すなわち青葉の笛と敦盛の幽霊の件ですが、最初に「陣屋」を見た時はこれは何のための場面なのか・まさか直実の着替えのための時間稼ぎじゃなかろうな、と私はホントに思いました。九代目型を見ていると思いますが、もし仮に九代目が首実検の前後で直実の衣装を変えずに通すというコンセプトを設定していれば・九代目は青葉の笛の場をカットしたかも知れないという気さえしています。直実ひとりの無常にひたる九代目型から見るとあの場は主題からはずれるわけです。

ちなみに岡本綺堂がこの青葉の笛の場が冗長で作者の腕が凡庸であると批判をしています。綺堂が九代目型の舞台を見て・文楽の舞台 を見ないであの文を書いたのは間違いないようです。しかし、九代目型だけで「陣屋」を論じるならばやはり青葉の笛の件はそう言われても仕方ないところがあると思います。九代目型の「陣屋」は脚本をイジり・入れ替えたりした弊害で全体の「一段一尺」のバランスが狂っているところがあるのです。その不備を感じさせないように・役者の方でバランスを調整して「 一段一尺」に収めてうまく演じているわけです。役者も苦労しているわけです。

しかし、原典である丸本を見れば・「陣屋」はやはりそれぞれの場面が独立していて・それぞれの役に見せ場があって、そしてそれが組み合わさって・複合的に大きなひとつの場を形成しているわけです。もちろん青葉の笛の件にも確かな意味があるのです。これが「陣屋」の本来の構造です。ちゃんと全体でバランス良く「一段一尺」になっているわけです。(この稿つづく)

(H17・2・19)


○芝居のバランスを考える・その2:音楽のバランス

「芝居のバランスについて考える・その1」での鶴沢道八の言葉が強く印象に残ります。

『例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。』

例えば交響曲1曲を一尺の長さとします。これを四つの楽章で・四つに割ります。その割り方・たどり方でその場その場の姿が現れるわけです。(注:ここでの「一尺」はひとかたまりの曲の単位というイメージでお考えください。線分図を想像していただければ良いかと思います。)

「割る時の比率」は物理的時間だけでは計れません。「心理的時間」 ・いわば曲想が導き出す音楽的密度も加味した上で、一尺を四つに割るイメージを考えたいわけです。だとしますと、「運命」の場合だと、第1楽章の繰り返しをするかしないか・第4楽章の繰り返しをするかしないという版(ヴァージョン)が変われば、当然各楽章の比重も変化することになりましょうか。

交響曲の場合だと両端楽章の比重はどうしても重くなり勝ちですが、中間楽章の比重の取り方で全体の印象は大きく変わります。「運命」交響曲のように非常に密度が高く緊張感のある第1楽章の後だと、第2楽章を同じ感じでは続けられません。安らぎというと何だが、第1楽章の熱さを冷ますところが欲しいと思います。第3楽章は第4楽章の爆発的な興奮にフィナーレに持っていくために・押さえ気味にドライブせねばなりませんが・かと言って重くなりすぎると 第4楽章にうまくつながらないわけです。そうするとおのずと自分のなかでの各楽章の比重のイメージが決まってくるのです。申し上げておきますと、もし上記と同じ考え方(コンセプト)で曲の比重を決めたとしても、それは個人の感じ方・解釈で微妙に配分は違ってくるものです。だから「比率の定数」があるわけではないのですが、しかし、「4つの楽章で一尺に収める」というイメージは必ずあるのです。

これが曲が違って・同じベートーヴェンの交響曲でも第7番なら・四つの楽章の比率はまた違ってきます。この曲の第2楽章アレグレットは非常に素晴らしいものです。ここを濃厚に生かすか・サラリと淡く生かすかは、指揮者の個性が出るところです。いずれにせよこの第2楽章は、リズムの刻みが明確な第1楽章につづく楽章として格別の意味があります。第3楽章スケルツォは比較的比重は軽めになるかも知れませんが、ここのリズム感が生きてこないと「舞踏への聖化」とも言われる第4楽章の重いリズムの饗宴が映えてこないのです。それでも結果としては「4つの楽章を一尺で収める」感覚になります。

各楽章のあるべきテンポはそうした指揮者の解釈のなかで必然的に決まってくるものです。曲の版が違えば・その解釈で当然「一尺」の長さ自体が違ってくるわけですから、その配分は変わります。また指揮者によってその「一尺」の感覚が違ってくるのも、当然かと思います。また、その人に心地よいと思えるテンポは心臓の鼓動とか呼吸数とか気分とか微妙なものに左右されますので、みんなが同じテンポであることの方がおかしいわけです。

しかし、その人のなかには「彼だけの・正しいテンポ」のイメージは間違いなくあって、指揮棒を一旦振り下ろした時に曲のテンポ設計も決まる。それで「一尺」の長さも決まる。あとは指揮者は曲を一尺に収めるべく足取りを進める、そういうものかと思います。各楽章のなかの構成も同様なイメージで割り振りができる。そのなかでテンポもフレージングも、その指揮者のなかで決まってくるというものかと思います。テンポもイン・テンボが必ずしもいいわけでもありません。曲想がテンポの変更を即す場合もあります。だから、指揮者が違えばテンポも違えばフレージングも全然変わるわけです。

ただし、これは演奏者は「どんなテンポ・歌わせ方をしてもいい」ということでは絶対にありません。結果として・そこに「4つの楽章で一尺」のフォルムが見えてこなければなりません。そこに「これがベートーヴェンだ」という足取りが見えてこなけれならないのです。その足取りを見抜くのが演奏者の仕事です。そのような構成が聴き手の眼前にまざまざと見えてこないのならばクラシック音楽ではないのですね。

もうひとつ、「テンポは演奏者が自分判断で自由に決めていい」ということでは絶対にありません。それは作品に無心に対した時の自分のなかの「内的必然」によって決まるのです 。自分のなかのテンポを決めるのは作品の方である、という謙虚な姿勢こそが芸術家の姿勢であろう(これについては別稿「批評について考える・その2」をご参照ください )と思いますが、これはやはり曲全体のバランス感覚で決まるものだろうと思います。

音楽批評で困るのは、客観的に計れるものがそれしかないせいで・テンポが解釈の指標みたいに書かれることが少なくないことです。例えば「彼のテンポは正確に守られて厳格である」とか「彼のテンポは柔軟でロマンティックな感情を呼び起こす」というような書き方になってしまいがちです。もちろんテンポは音楽の密度と密接に結びついている重要な要素ですから、こうした印象批評的な書き方になることも致し方ないところがあります。しかし、音楽のバランスを考えないで相対的なテンポの速い・遅いを議論してもあまり意味がないことは知っておく必要があります。(この稿つづく)

(H17・2・16)


○芝居のバランスを考える・その1:音楽の足取り

本稿は「芝居のバランス」を考えるのが目的ですが、最初の方は音楽の話ばかりです から、ご興味のない方は斜め読みでお流しください。吉之助の場合はクラシック音楽を長年聴いている関連で、芝居のバランスを音楽で考えることが必然があるのです。まあ、こういう聴き方もあるものと思っていただければ十分かと思います。

音楽の場合は、例えばオーケストラ曲ならば指揮者がその全体のバランスを司ります。芝居の場合はそういうわけにはいきません。だから、同じプロダクションでも・日ごとの出来不出来の差は、芝居の方がずっと大きいと思います。何が起こるか分からないところが芝居の面白いところではあります。みなさんは芝居のバランスなどということをあまり考えてみたことはないかも知れませんが、本稿ではバランスのことをまず音楽で考えてみたいと思います。

吉之助の初めて聞いて感激したクラシック音楽はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」で、ミュンシュ指揮ボストン響の演奏でした。これは 造形の引き締まった素晴らしい演奏です。吉之助が中学生のことでしたから、もちろんLPレコードの時代です。この演奏は第1楽章の繰り返しをしないのです。現代ではこの繰り返しをするのが普通 ですが、昔はしないのが結構ありました。吉之助はこれで「運命」のフォルムを刷り込まれたので、こちらの方が構造引き締まって聴こえるという感じもしますけどね。ワルター指揮コロンビア響も同様に繰り返しなしです。それと第4楽章繰り返しをする指揮者としない指揮者は、今でも半々くらいですかね。

第1楽章の繰り返しの件ですが、ワルターは「繰り返すと最初からやりなおしているみたいで嫌なんだ」と正直なことを言ってます。ワルターの冒頭・運命の主題ですが、4拍目を 通常の倍に伸ばしてダダダダーーーンという感じです。(ミュンシュはそうではないですが。)こういう伸ばし方は昔のドイツの指揮者には多かったのです。このワルターのやり方であると、冒頭部は完全に独立して聴こえて・第1主題はその後からになるという解釈であって、繰り返しができないのはこれだと当然かなとも思います 。

第4楽章繰り返しは、人によっては曲がフィナーレに至るのを少しでも引き延ばそうとしているように感じるようですが、確かにそういう要素がこの曲にないわけではないようで・あるいはベートーヴェンの繰り返しの意図もそこにあったかも知れません。

テンポとフレージングによって曲の印象は全然変わります。特に合わせ物、協奏曲・オペラなどはソリストの個性が強く出るのでもっと印象に差が出ます。

交響曲の場合であると、4つの楽章が緊密に関係しあってひとつの印象を作り上げるわけで・音楽はまさにブロックの積み上げ・建築のようなものであると感じます。ベートーヴェンの交響曲 第5番はまさにその典型です。さらに第1楽章の内部もブロックの積み上げで出来ています。西欧では音楽論を論理学の一部として研究していることもあるほどで、音楽はある部分は感性で聞くというよりは・論理の積み重ね、理性で聞くものだと言えます。

だから、吉之助が思うにはクラシック音楽は最初のタクトを振り下ろした瞬間に曲の最後までのテンポ・フレージングのあるべき形が決まるというイメージです。つまり、リズムもフレージングもすべてある解釈に直結しているというイメージです。こういう演奏はかつきりと決まって・規格正しいという印象がします。(もちろんそう言うフォルムへの強い締め付けをせずにゆったりと歌わせる行き方もあって 、それもまたその良さがあります。どちらも魅力的ですね。)

テンポ設計がうまくない場合は、第2楽章を聞きながら・もう少しここを早く(遅く)振った方がいいのにというような印象になったり(それは第1楽章とのバランスでそう感じられるのです)、あるいは 第5番の場合で言えば・第3楽章がえらく長く感じられて第4楽章への移行がうまく感じられないことがあったりすることがあります。

そこでですが、これを歌舞伎にうまく絡めなくてはならないのですが、九代目団十郎の言葉がありますね。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ』(六代目尾上菊五郎:「芸」より)

あるいは鶴沢道八の言葉です。

『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」より)

ということは、上記は「間」の芸談として受け取るのが普通なのですが、歌舞伎の芸・邦楽においても、テンポ・フレージングのバランスの意識は間違いなくあるということでもあるわけです。道八はこれを「足取り」と言ってますが、まさにこれはクラシック音楽のテンポ設計・フレージング設計の感覚となんら変わることはないと思います。クラシック音楽にも「足取り」は間違いなくあります。ブルックナーの交響曲など足取りが命であって、それがなければどうにもならぬものです。

だから、邦楽はリズムがない・調性がない・西洋音楽とは全然成り立ちが違うとも言いますが・音楽ということには変わりないのでして、そういう似たところを探し出していけば・意外とアプローチは簡単なんじゃないかと思います。(この稿つづく)

(H17・2・14)


○「近松物語」について

渡辺保先生の最新刊「近松物語〜埋もれた時代物を読む」(新潮社)が出ました。子供のためのシェークスピア入門として有名なラム姉妹の「シェークスピア物語」に倣って 、(これは子供のための本ではないですが)近松門左衛門の忘れられた時代物作品を読み下してみようとの試みです。近松は世話物作家のように思われていますが、その百二十編とも言われる作品のなかで世話物は二十四編にすぎません。当時の劇作家にとって本領は時代物ですから、時代物で声名をとってこそ本物なのです。

時代物というのは・すなわち歴史物語ですが、そこに江戸の世に人々の世界観や人生観、歴史観が色濃く反映されています。さらに江戸時代は同時代の出来事を自由に劇化することが出来ませんでしたから、作品のなかに時代の思いも託されているわけです。そのために時代物は非常に技巧的かつ構造的なフィクション(虚構)になっています。つまり、現代人のリアリズム・実証主義の視点から見れば非常に「嘘っぽい」わけです。しかし、逆に言えばそこが時代物の面白さです。これを解析していけば、当時の江戸時代の人々の精神状況をパズルを解きほぐすように探っていく面白さがあ るのです。

正徳4年4月(1714)竹本座初演の近松62歳の作品「相模入道千疋犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ)」は、鎌倉幕府の最後の執権北条高時が主人公です。史実の高時はことのほか闘犬を好みました。この作品は高時の最後を描いたものですが、高時の用人で御犬預かりの惣奉行五大院宗重の喉首を名犬「白石(しろいし)」が食いちぎるという場面が出てきます。もちろん高時は「犬公方」と言われた五代将軍徳川綱吉、宗重は 綱吉をそそのかして「生類憐れみの令」を出させた護持院隆光、そして白石は六代将軍徳川家宣を補佐し・「生類憐れみの令」を廃止した新井白石を擬しているわけです。既に綱吉が宝永4年(1709)に亡くなって5年ほど経っているとは言え・これほど露骨な政治批判は当時の役人でも気が付かぬはずがなかろうに一体近松は大丈夫だったんだろうかと読んでいる方が心配になりますねえ。

なかなか馴染みの薄い近松の時代物ですが、この「近松物語」をきっかけにして岩波書店の「近松門左衛門全集」のオリジナルの方にチャレンジしてみようかという方が出てくれば、渡辺先生の労も報われるというものでしょう。

渡部保:近松物語

(H17・2・12)


○六代目歌右衛門のこ

メルマガ・シリーズ「九代目団十郎以後の歌舞伎」から、さらに戦後の昭和歌舞伎を考えることもできるでしょう。そうなれば取り上げなければならない役者は六代目歌右衛門ということに当然なります。歌右衛門のことは別稿「歌右衛門の今日的意味」である程度言い尽くせていると思 っていますが、今回の考察では取り上げ る予定がないのは実は理由があります。歌右衛門もまた時代に対して・ ある種の「いきどおり」を見せた役者であると思うのですが、非常に興味深いことですが・「九代目団十郎以後の歌舞伎」で取り上げる三人の役者と比べると、歌右衛門の場合はその「いきどおり」の出し方がちょっと違うのですね。

団十郎らの場合は時代の空気を取り込み・それにより奮い立ち、歌舞伎全体を大きく動かしていくわけです。歌右衛門の場合は、時代との同化を拒否して・ 時代と隔絶したところで個人的に奮い立つ・それによって時代に自分の存在を認めさせてしまう、そういう「いきどおり」なのですね。歌舞伎の本質は確かに踏まえているのですが、今考えてみるとその「いきどおり」は個人的な次元の「いきどおり」であって、だから 歌右衛門は恐ろしいほど強烈に記憶に残る役者ではあるのですが・後世にあまり影響を及ぼさなかったような気もしているのです。幸いその舞台は膨大な映像が遺されていますし、その生の舞台に接したことのない若い世代もその映像を見て ・「こんな凄い役者がいたのか」とこれからも衝撃を受けるだろうと思いますが、歌右衛門が亡くなって4年が過ぎてみると・そういう空虚感が次第に強くなっています。

これは歌右衛門のせいと言うよりは、歌舞伎が時代と完全に離れてしまって・世間から見ればホントに特殊事象になってしまったことに原因しているのかも知れません。「いきどおり」を発してみたところで、結局、個人的に見えるような限定的なレベルの「いきどおり」にしかならないという不幸があるのかも知れません。どの世界においても昨今は大物が出ないという嘆きの声を聞きます。これは歌舞伎に限ったことではないかも知れませんが、現代において「いきどおり」を見せることは難しいことなのかも知れません。

(H17・2・9)


○「いきどおり」について

メルマガ第143号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1:時代にいきどおる役者」で折口信夫の「いきどおり」発言を紹介しています。この折口の発言は、いかにも折口らしい ・もってまわった独特の言い回しなので・人によっては抵抗を感じるかも知れませんが、別に難しいことを言っているわけではないのです。要するに、時代に選ばれた人だけが時代を動かす役割を与えられるということです。それはその人の実力以上の何ものかなのです。

ここでは折口が「大きなものの出た後には必ずつまらぬものが続いて出てくる・そうして大きなものを食いつぶしてしまう」と指摘していることを考えます。 時代に対して大きな「いきどおり」を発したのが九代目団十郎で、後に続く役者たちは「食いつぶし」ということになると穏当ではないです(これは「言葉の綾」とお考えいただきたい)が、つまりは・その「いきどおり」を受け継ぎ・守る人々がいるということです。こういう人たちがいて伝承が初めて成り立つということです。郡司正勝先生がこんなことを仰っています。

「皮肉を言うと、天才だけだったら残らないんです。天才をなぞって、これが菊五郎の型でございますと。そうすると自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす。六代目はこうやりましたと。これが金科玉条になる。だから伝承というものは高度な天才では伝承できない。それは通り過ぎていった箒星みたいなものだよね。」(郡司正勝インタビュー:「刪定集と郡司学」:「歌舞伎〜研究と批評・第11号」)

「自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす」という郡司先生の表現もちょっとキツいですが、要するに菊五郎の芸の域に少しでも近づきたい願いがそこにあるということです。これは伝承を引き継ぐ役割の人々には大事な気持ちです。

しかし、折口が「食いつぶす」と言ってますように、オリジナルの「いきどおり」はだんだんに風化していきます。トレーシングペーパーを重ねて絵をなぞっていますと、だんだん輪郭がオリジナルより甘くなっていくものです。こうして型が少しづつ違ったものに 変化していきます。また、このくらいはちょっと変えてもいいだろうという軽い気持ちから型を崩れていくことも多いのです。こういうのを「仕勝手」と言います。こうして型の輪郭がどんどん崩れていくのです。

これをオリジナルに近いものに戻していくのは冒険です。しかし、本当に創造力に富んだ演者ならばそれができるのです。そのためにはオリジナルと同じ息を以って・型の創造のプロセスをたどればいいわけです。そこのところ考えてみる価値があると思います。

(H17・1・30)


○「九代目団十郎以後の歌舞伎」について

メルマガ143号「九代目団十郎以後の歌舞伎」では、時代に対して「いきどおり」を発した役者九代目団十郎と、それに続いて「いきどおり」を発したふたりの役者・六代目菊五郎と二代目左団次を取り上げます。明治36年(1903)に九代目団十郎が亡くなって百年が過ぎたわけですが、つまり二十世紀の歌舞伎はほぼ「団十郎以後」の危機をどう切り抜けるかという模索の歴史であったわけです。それを振り返ってみるのは現代の歌舞伎を考えてみるということでもあります。

明治36年・団十郎の死により江戸歌舞伎は滅んだということは、本サイトでは何度か書きました。それ以後の歌舞伎は時代から遊離した演劇になってしまった・「型」が持っている意味が変わったのです。(これも何度か書きました。)以後の百年は歌舞伎が「古典」に変貌していく百年であったわけです。それはまだ完成していません。変な言い方ですが、 確かに歌舞伎はまだ死んではいない。しかし、確実に歌舞伎の「古典化」は進行しているのです。

歌舞伎の規範は現状においてはたとえどのような批判があったとしても・現状それが定型になっているところの九代目団十郎・六代目菊五郎に置かねばなりません。目下のところはそれしか手掛かりはないからです。しかし、結局は、六代目・九代目に規範を置いて歌舞伎を考えることが歌舞伎を古典化する上での正しい筋道になるのです。それは彼ら の芸の出目が明確で・規格正しさを持っていることに拠ります。「九代目団十郎以後の歌舞伎」シリーズは、そうした九代目・六代目の芸の歴史的な位置づけを明確にするための試みです。

(H17・1・25)


○「スタンダード」ということ

今月の雑誌「演劇界」 (2月号)のインタビューで三津五郎が「今の時代には難しいかも知れないが、スタンダードでありたい」と発言しています。昨今は「現代人に夢を与える歌舞伎をやりたい」などと発言する役者は多いかと思いますが、歌舞伎役者から「スタンダード」という言葉を聞くとは思いませんでした。正直大変頼もしく思いま した。やはり大和屋は代々そういう教育はしっかりしている家だなあと感心します。

外国の俳優が歌舞伎を見て感激するのはその内容ではありません。自分で独自のスタイルを築き上げていかねばならない西洋演劇では、そのこと自体が彼らへの物凄いプレッシャーになっていますから、彼らは「寄り掛かっても倒れない柱が歌舞伎にある」ことを羨ましく思うのです。フォルムが決まっていれば・そこから抜け出て冒険することもまた楽にできると彼らは思うのですね。

ところが実は外国人が思うほど歌舞伎のフォルムは確固としていないのです。まだまだ動き続けている。と言うか、下手をすると崩れてしまいそうに危ういのです。「伝承芸能としての歌舞伎」が始まったのは、実は明治36年(1903)に九代目団十郎が亡くなってからのことで、まだ100年しか立っていないわけです。こういう時期であるからこそ「スタンダード」ということの意味が重くなるのです。歌舞伎が歌舞伎であることの拠り所こそが「スタンダード」です。

明治36年から約100年を考えるということは・ほぼ20世紀の歌舞伎を考えるということであり、また現代の歌舞伎のあり方を考えるということでもあります。平成15年(2003)は歌舞伎400年でもあり・九代目没後100年でもあったわけですが、その辺の検証が十分にされたという印象があまりありません。そこで次回のメルマガ143号から「九代目団十郎以後の歌舞伎」というシリーズでこのことを考えてみようと思っています。具体的には、九代目団十郎・六代目菊五郎・二代目左団次の三人の役者を歌舞伎史にどう位置付けるかということで話を進めて行きたいと思います。

(H17・1・9)


○歌舞伎の見方

先日、インターネットでバラパラ検索していたら・興味深い発言が目に入りました。観劇歴10年近いの方のご発言かと思われます。その要旨はこんなところです。今の歌舞伎は歌舞伎見初めて3年くらいならそこそこ楽しめる。でも5年くらい見ているとゲップが出てくる・そこまでくると舞台に発見がないことを突然悟ると言うのです。ここ十数年の歌舞伎興行は初心者にとって楽しい状態が延々と繰り返されてきたのではないか・そんななかで歌舞伎を 十何年も見ている人は見続けてこられた理由は何なのでしょうかというのです。

非常に率直かつ・真剣なお問い掛けであると思います。吉之助が歌舞伎を片っ端から見ていた昭和50年代は歌舞伎のどん底期で何をやっても客は入りませんでしたから、世間とは関わりなく・これを演っておかないと後に引き継げないという思いで演った演目もあったかも知れません。ホントに20年先にも歌舞伎演っているとは思えませんでしたから、 吉之助も見逃すまいと思って見たものです。今は歌舞伎は興行としても美味しいものになっているので、どうしても観客の要望に合わさざるを得ないところがあるのでしょう。

恒常的に演じられるレパートリーが限られていて、(入門者向けというと語弊はあるが)すぐに同じ演目の繰り返しになるのも飽きが来る原因です。もっとも昭和50年代当時でも「勧進帳」などは「またかの関」と言われるほど出ていたもので した。吉之助も仕事の関係などあり・昔のような頻度で今は舞台を見ていないにせよ・もう30年も歌舞伎は見ているわけですが、やはり5年目くらいからは惰性で見ておった(ここまで来れば見た数で勝負みたいな)ところがあったように思われます。だから上記の方のご発言の気持ちはよく分かります。

吉之助が思うには、長く歌舞伎を見続ける秘訣は舞台を見ながら・舞台だけを見ぬことかと思います。舞台は材料に過ぎぬと思えば、舞台の出来に一喜一憂しないで・他のことをいろいろ考えながら見ることができます。舞台を 楽しむというより・観察するに近い感覚です。私の場合はかなり早い段階でそんな心境に至りました。(誰にでもお勧めしているわけではありません。)

歌舞伎を見始める動機というのは人それぞれでしょうが、昨今は教養として見てみようかという方が多いかも知れません。これは結構なことなのです。歴史や社会学のサンプルが舞台で展開されていると考えれば、それは生きた教材であるわけです。本「歌舞伎素人講釈」では「空想の劇場」ということを提唱していますが、歌舞伎を数年見て飽きが来たなと感じられた方は、こんなお楽しみも考えられてはいかがですか。細くても長く長く歌舞伎と付き合っていきたいものです。

(H17・1・5)


        (戻る)