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吉之助の雑談26(平成26年7月〜12月)


イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル2014

メモ風になりますが、本年(2014)12月14日サントリー・ホールでのイーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタルの印象を記しておきます。いずれ機会を改めて 記事を書き足すと思います。まずポゴレリッチのリサイタルのお楽しみは、リサイタル前の会場で普段着姿のポゴレリッチが観客おかまいなしにピアノをポローンポロンと鳴らしているのを聴くことです。これが良い前座になります。今回も早めに着席しましたが、驚いたのは去年までと違ってポゴレリッチが旋律らしきものを弾いていたことでした。正確には旋律というよりパッセージというべきでまだ旋律とまで 行っていないかも知れませんが、去年まではポローンポロンとただ単音を、時に和音を鳴らすだけだったのです。何と今年は音が連なっている。ここにポゴレリッチの内的 な変化を感じないわけに行きません。これまでだと分解しそうな自己を繋ぎ合わせようとするような感覚がありましたが、ここまで繋がってきたかというある種の感動がありました。これを回復というべきなのか、吉之助には分かりませんが、そのように 受け取る方は多いだろうねえ。果たして本番はどんな感じになるかということで期待して、リサイタル開始を待ちました。

プログラムはかなり難易度が高い四曲で構成されていました。まずリストの「ダンテを読んで」はポゴレリッチの息の深さが素晴らしい。息の深さがあるから、遅めのテンポでも音楽が弛緩しません。思索の奥底まで連れて行かれる思いがしま した。シューマンの幻想曲はこれは浪漫主義の典型というべき作品で、響きの豊かさ・というか過剰さのなかから何を引き出すかということだと思いますが、ポゴレリッチは 重量感ある構造体を浮き上がらせました。それにしても、緊張感あるから持つとは言えこのカロリーたっぷりに付き合うのは、聴衆にとっても聴くこと自体がなかなかひと仕事です。ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」はそのリズム感もさることながら、他の奏者だと 特に冒頭のロシア舞曲はリズムと色彩の奔流でワーッと押し切る感じで目が覚める思いがしますが、そこ はポゴレリッチ、リズムの軽みとひとつひとつの音のニュアンスで勝負というところか。結果としてピアノという楽器の特質をよく生かした演奏であると云えます。ブラームスのパガニーニ変奏曲は、聴くとこれがいつものブラームスとはちょっと思えない技巧的な華やかさがある実験的な作品ですが、ポゴレリッチで聴くとどの音も尖っている感じでこれが良いのだな。

(H26・12・27)


○須磨寺訪問記

「一谷嫩軍記」の舞台・須磨浦(兵庫県神戸市)へちょっと寄って来ました。すなわち源平の戦い・一の谷の合戦の戦場となった場所です。何を隠そう、神戸は吉之助の生まれ故郷。須磨の海岸は吉之助が子供の頃によく海水浴した場所です。今も夏の須磨の海岸は海水浴で賑わうようですが、吉之助の思い出は50年 くらい前の話。あの頃はポートアイランドも淡路大橋もなかったのです。海の向こうにうっすらと淡路島がかすんで見えます。この風景から歌舞伎の「嫩軍記・組討」の場面を想像してみてください。兵どもが夢のあとという風情あるでしょう。

 

 

 

 

さてJR須磨駅から山手へ徒歩10分くらい歩くと、須磨寺(すまでら)があります。正しくは上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)と云いますが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれています。このお寺に無冠の太夫・平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚などがあります。写真は敦盛首洗いの池、その上に見えるのが義経腰掛の松で、義経はこの松に腰掛けて敦盛の首を実検したのだそうな。「熊谷陣屋」というのは、この辺にあったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 


首洗いの池から坂をちょっと登ったところに敦盛首塚があります。敦盛のご冥福を祈って来ました。やっぱり戦争はいけませんね。「熊谷陣屋」は反戦ドラマだと云う見方も、決して間違いではありませんね。

 













*須磨寺のサイトはこちら

*写真は吉之助の撮影です。
 

(H26・12・6)


近松門左衛門の墓参り

近松門左衛門の菩提寺・尼崎の広済寺に行ってきました。近松が亡くなったのは、享保9年(1724)11月22日(72歳)のことでした。広済寺では、毎年11月22日前後の休日に近松祭を開催して、本堂にて追善法要をしてから、その後墓前で読経をするそうです。どうして近松のお墓が尼崎の広済寺にあるのかと云うと、広済寺開山の日昌上人は広済寺を開山する前に大坂寶泉寺の住職をしていて、この寶泉寺から道頓堀までは約1キロくらいの近さなのです。つまり、近松が京都から大坂に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となった保元2年(1705)から、日昌上人が広済寺へ移る正徳4年(1714)までの9年間、ふたりは大坂のすぐ傍で生活していたということです。その頃にふたりは出会って親しくしていたということなのでしょう。

近松は広済寺の開山にあたり「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年九月)に名前を記しています。当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」と呼ばれた、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があったそうで、近松はここで著作をしたと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*弘済寺のサイトはこちら

*写真は吉之助の撮影です。

(H26・11・29)


音楽を聴くということ

前回の雑談で「音楽を聴くということはリラックスするということではない」というメッツマッハ―の言葉を引用しました。これは吉之助もまったく同感で、芸術は人生の真実の何かを描くものと思っていますが、音楽を聴いてリラックスするということが吉之助にはあまりないのです。と云うか例えば音楽を聴きながら文章を書くということが吉之助にはまったく出来ないのです。音楽が鳴っているとそちらに気が取られて、論理思考が出来なくなります。だから吉之助が文章書く時は無音状態です。吉之助は左能思考なのです。ただし、誤解されると困りますので付け加えますが、リラックスするために音楽を聴くというのを否定するつもりは毛頭ありませんので。吉之助がそういう聴き方ができないということだけです。可哀想な奴だと思ってください。

ところで、「音楽を聴くということはリラックスするということではない」なんて言ってますけどね、先日、音楽で心底リラックスする体験をさせられました。今月(11月)13日のサントリー・ホールでの、マレイ・ぺライアのピアノ弾き振りによるアカデミー室内管弦楽団の演奏による、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番のことです。これはピアノにも、オケにも両方に云えますが、まずリズムがとても適切 で心地良い、旋律のすみずみまで暖かい血が通っている音楽で、天上の音楽が鳴っているようで、ゲミュートリッヒカイトというのはこういうこと かと思うような演奏でした。ああ幸福な音楽はこういう風に鳴るべきだという真実を、今更のように思いまして、いや涙は流しませんでしたが、心のなかでは間違いなく泣きました。ほんとに音楽を聴くということでリラックスさせられた気分でした。

ロマン派嗜好の吉之助は、普段マーラーみたいな騒がしい音楽ばかり好んで聴いていることもあって、久しぶりのモーツアルトはやっぱりいいなあと思いました。大体、(吉之助を含む)ロマン派嗜好の連中というのは苦悩・ 悲しみばかりが大事と思うきらいがありますが、やっぱりそればかりではいけません。しかし、この曲を書いた頃のモーツアルトは決して生活は楽な状況ではなかったわけで、それでもこんな美しい曲を書いたモーツアルトという人は一体どういう人だったのだろうね。それを考えると、なんとも悲しくて、モーツアルトがますます愛おしくなります。というか、芸術は人生の真実の何かを描くというけれど、それはつまり人生が・この世が悲しくまた愛おしいということなのだね。ぺライアは日本での人気はいまひとつみたいですが、間違いなく現在聴くべきピアニストの五指に入る人です。今回ソロ・リサイタルを日本で聴けなかったのは残念でした。

(H26・11・21)


○演奏会の現代音楽プロのこと

先日、新日本フィルのConductor in Residence (ぴったりではないが主席指揮者みたいな感じか)の、インゴ・メッツマッハ―が二年で契約終了、来年4月が最後の演奏会となるという発表がありまして、もうちょっと長くやってみないと成果は判断できないのにと、残念に思いました。これは円満解消かも知れないし、契約が切れたことにどういう理由が背景にあるかは知りません。ただメッツマッハ―は、ベートーヴェンなどの古典作品に、ツィンマーマンなど斬新な現代作品を組み合わせて、現代比率50%近くのプログラム建てであったので、保守的な日本の聴衆からどのくらい受け入れられたものか、その辺が遠因であったかなという気もしますが、しかし、メッツマッハ―は普段から「音楽を聴くということはリラックスするということではない」と公言して現代音楽を積極的に取り上げている人ですから、これはメッツマッハ―と契約した時点で当然覚悟しなければならなかったことであったし、四・五年経ってみないと判断できないと思うのだがなあ。

*メッツマッハ―・インタビュー:「音楽を聴くということはリラックスするということではない」〜「指揮者が語る!―現代のマエストロ、29人との対話」に収録

正直申し上げると、吉之助も現代音楽というと二の足を踏む方です。それでも若い時には聴かなきゃと思ってクセナキスの世界初演など無理して聴いたりしましたが、さっぱり分からずでしたね。ただ選り取りで演奏会を聴いていると、曲目はたいていベートーヴェンやブラームス・マ―ラーに偏ってしまいます。演奏者で追って行けば、例えばポリーニを追っていれば、厭でもブーレーズやノーノの作品にぶつかる。マンゾーニの作品も聞いたなあ。まあそんなことで、自分からは決して選ばない曲もこうして出会うことになります。ごれも御縁と云うか、 決まった演奏家やオーケストラを続けて聴いていくことの役得というものです。(歌舞伎でも、いくら名作でも「勧進帳」や「忠臣蔵」ばかりじゃ詰らない。歌舞伎座の演目を3年も我慢して見てれば、ひと通りの演目が見られます。)

ところで、9月からの今シーズンの記者会見でメッツマッハ―は、「日本人は異文化である西洋音楽に対してリスペクトが強過ぎる。異文化を理解するということは、完全に受け入れるということ、完全にそのなかに身を置くこと、身体ごと委ねること」ということを語ったそうです。リスペクトがあるのは良いのだけれど、それが過ぎて敬して遠ざけると云うか、神棚に祀り上げる感じがするということでしょうか。まあご指摘通り、そのような傾向は、神代の昔のまれびとの考え方として日本に 伝統的なものとしてありそうです。これと、現代音楽とどういう関係があるかというのは、ひと口で言えませんが、西洋の現代音楽は、ヨーロッパの今の生(なま)な部分、厭なもの・汚いもの・見たくないものも含めたすべてをさらけ出しているということでありましょうかね。受け入れるならば、すべてを直視せねばならないということでありましょうか。そう言えばメッツマッハ―が指揮したツィンマーマン作品に「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」というタイトルがありました。まあしかし、疲れることではありますが。そういうわけで、ヴァレーズがプログラムにある来年4月のメッツマッハ―の退任演奏会は行くことにしました。

ところで先日(11月7日)の新日本フィルの演奏会は、メッツマッハ―ではなくてMusic Partner of  NJP(これも ぴったりしないが主席客演指揮者みたいな感じか)のダニエル・ハーディングが指揮するブルックナーの交響曲第5番でありました。ハーディングが指揮する第8番については別の機会に書きましたが、これも傾向として同じ感じでした。吉之助は、ブルックナーに関しては、曲の進行につれてフッと色合いが変わる瞬間、例えば急に厚い雲が太陽の光を遮って周囲が暗くひんやりとするとか、逆に雲が途切れて明るい陽射しが差し込むとか、そのような瞬間に魅力を感じます。したがって、そのような曲の色調の変化を出すには、実は結構目立たないところでテンポの仕掛けを入れなければならないと思っています。カラヤンやべームはそういうところが実に巧かったのですが、ハーディングは律儀にインテンポにリズムを刻むので、「そこのところちょっと拍を伸ばして見たら・・」と言いたいところがありまして、曲の色調の変化に乏しく、モノクロームな印象がしました。ただし、この演奏が駄目というのではなく、かつてブーレーズがブルックナーの音楽のことを「線の音楽というより、縦の音楽、どこもかしこもブロック・ブロックという感じ」と言ってい て奇異に感じたのを思い出しまして、ハーディングにはそういう感じにブルックナーが見えているのかなあということを思いました。そう思いながら聞いていると、ブルックナーの音楽というのはオーストリアの田舎の純朴なおっさんが書いたにしてはどんでもなく奇怪な音楽だと思いますねえ。何がこのおっさんを駆り立てたのかねえ。まあこういうことも、ドイツ・オーストリア系の指揮者ばかりを聴いていたのでは考える機会のないことです。

(H26・11・16)


○囲碁と歌舞伎

今回は本の紹介です。残念ながら吉之助は囲碁を嗜みませんが、歌舞伎には意外に囲碁が登場する演目が多いのです。例えば「祇園祭礼信仰記」(金閣寺)での大膳と東吉が囲碁で対決する場面がそうです。「碁盤太平記」、「碁太平記白石噺」なんて演目もありますね。なるほど囲碁文化は庶民の生活のなかにそれほどまでに浸透していたと知識としては知ってはいても、吉之助は不勉強なもので、囲碁と歌舞伎の共通項ということをこれまであまり考えたことがありませんでした。しかし、囲碁と歌舞伎というのは、思った以上に親密な関係にあるようです。囲碁と歌舞伎という、一見するとすぐ結び付かないふたつのジャンルは、実は「優雅さと庶民性」というキーワードで密接な関連を持っていたのです。そのようなユニークな切り口を、藁科満治氏が「歌舞伎に踊る囲碁文化」という本で提示してくださいました。歌舞伎の台本を多めに引用して、囲碁がよく分からない吉之助にも読みやすく書かれています。いつもと違った角度から歌舞伎を考えてみる良い機会になる本です。なるほど囲碁というのは優雅なのだね。江戸の囲碁文化のことももうちょっと知っておかないといけないなあと思いました。藁科氏には同じ囲碁シリーズで「浮世絵に映える囲碁文化」という兄弟本もあるそうです。こちらも面白そうです。

藁科満治歌舞伎に踊る囲碁文化(日本評論社)

(H26・10・28)


○歌舞伎座に吉之助の本が

今回はホントの雑談です。今月(10月)歌舞伎座の大歌舞伎は十七代目勘三郎27回忌・十八代目勘三郎3回忌追善ということで、勘九郎・七之助兄弟が熱の入った演技を見せてくれています。ところで千秋楽(25日)まであと何日もないですが、実は歌舞伎座地下の木挽町広場の売店に「吉之助の本が並んでるよ」と教えてくださった方がいて、さすがに気になったので、夕方、会社の帰りにノコノコ見に行きましたよ。

 

 

 

木挽町広場の特設店舗で中村屋グッズなどが売っているところの一画に書籍コーナーがありまして、「十月歌舞伎関連図書」ということで吉之助の本「十八代目中村勘三郎の芸」も置いてありました、ありました。歌舞伎座の売店に自分の本が並んでいると云うのは、嬉しいものです。やっぱり歌舞伎の本ですからね。置いてくださって、どうも有難うございます。この勘三郎の表紙はなかなか目立つでしょう。まだお手に取ったことのない方は、この機会に是非お買いください。勘三郎が亡くなって、もうすぐ2年経つのですねえ。

(H26・10・21)


○現世の芸能・その3

テレビ収録の能・文楽・歌舞伎の共演 “隅田川”」では、狂女(シテ・菊之助)と義太夫語り(咲大夫)が対話します。菊之助の狂女には現実に女性に近い感覚があり、したがって観客の視座はシテに重なって行きます。視点が現在にあり、観客は眼前に狂女の嘆きを目撃することになります。歌舞伎と文楽は同時代の芸能ですが、文楽の方が歌舞伎よりも古典的な佇まいを持ち、いくらか過去に向いています。これは過去に起こった出来事を語り手が語り継ぐという語り物の系譜にある義太夫の性格から来ます。また演劇として見た場合、人形より生身の人間が演じた方が、視覚的にも現実に近いものになります。これは歌舞伎が文楽より絶対的に有利な点です。だから歌舞伎は現世の芸能なのです。

そうしますとまず「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」の方は、もっと写実の方に寄った形となっても良いはずです。つまり地狂言(芝居)の方にもっと寄っても良いのです。実は吉之助は、この映像を見ていると、義太夫語り(咲大夫)が作品のなかでどういう 役割を持たされているのかが、どうもよく分かりませんでした。純粋な語り部であるのか、義太夫狂言で云えば台詞を抜いたト書きの語りに徹するかと云うとそういうわけでもなく、時に渡し守の台詞を取 ったりします。これでは芝居として落ち着かない気がします。芝居にするつもりならば、登場人物として渡し守の役を出して、台詞を渡した方が良いと 思うのです。その方がドラマに厚みが出るに違いありません。しかし、「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」では、 結局、そういうことはしません。

それではこれは舞踊なのかと云うと、そうとも言い切れない。語り物としての義太夫の特性を生かすならば舞踊にする方がしっくり行きそうに思いますが、吉之助が思うのは、いまひとつ義太夫が母親の哀しみに浸らせてくれない 不満を感じます。これは義太夫の持つ論理性が邪魔をしています。(もうひとつ、画面に字幕が出るせいも大きい。)吉之助は、もっと節付けに色の要素(謡う要素)を強くして、義太夫を情緒の方に傾ける工夫をして欲しい気がしてなりません。あるいは掛け合いにして派手さを補った方が良いかも知れません。結局、「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」を見た吉之助の印象としては、地狂言としても舞踊としても どっちつかずで、中途半端に思えるのです。こう考えてみると、歌舞伎の舞踊「隅田川」が情緒に重きを起きた浄瑠璃である清元を使うことは、やはり道理であったのだなあと思います。

もちろん謡かたり三人の会のここでの目論見は新作の義太夫狂言「隅田川」を作ることでも・舞踊「隅田川」を作ることでもないと思いますけれど、歌舞伎立方を起用 してしまうと、「謡かたり」そのものの構造が崩れる気がします。それは歌舞伎があまりに現世に根差した芸能であるからです。一方の「謡かたり」・語り物は、過去に根ざしています。語り物というのは、語り手が過去にあった出来事を自分が見て来たかの如く真実めかして語ることにその本義がありますので、歌舞伎のような現世の芸能とは、表現ベクトルが真っ向対立するものだと思います。ということは、「謡かたり」に歌舞伎を招いた企画自体にそもそも問題があったと云うべきかも知れませんが、まあこういうことも、試みて初めて分かるということもあると思います。この試みが無駄であったということは、決してないと思います。 人形を使えば面白いものが出来そうな気がしますが。

余談ですが、「語り物である義太夫と、現世の芸能である歌舞伎の表現ベクトルが真っ向対立するものであるなら、どうして義太夫狂言が成立するのか」という質問が出そうなので付け加えますが、、吉之助が思うには、まさにその相容れないふたつの要素を無理やり共存させることで生じるアンビバレントこそ義太夫狂言の魅力なのだと、とりあえず答えておきましょうかね。

(H26・10・20)


○現世の芸能・その2

霊的な存在が主役となる夢幻能は、特に能において特徴的なものとされます。夢幻能の典型的な構成は、例えば旅の僧(ワキ)が名所旧跡を訪れると、不思議な人物(前シテ)が現れて、その地にまつわる物語を語ります。やがてその人物はどこやらに去ってしまいますが、やがてその本来の霊的な姿(後シテ・過去の武将の亡霊など)を現して、昔の思い出を語って舞を舞うというものです。つまり夢幻能とは、ワキが見た幻のようなものです。ワキの立つ次元はこれははっきり明示されませんが、明らかに現在です。ですから観客はワキと同じ視座で、幻のなかで亡霊が語る物語を体験するのです。シテは過去から来るものです。前項において新作「謡かたり・隅田川」(平成17年初演)での映像断片を見た感想について、シテ(野村四郎)と義太夫語り(豊竹咲大夫)との対話は、底から蘇った狂女(梅若丸の母)の霊と現世の人間(渡し守)との対話のように思われたと書きました。吉之助は、これは夢幻能の感覚に近いと感じました。

ところが、原作の能・「隅田川」というのは、実は現在能なのですね。現在能とは夢幻能と対立する概念で、主人公(シテ)が現実世界の人物で、物語が時間の経過にしたがって進行するものを言います。能の「隅田川」での狂女との隅田川の渡し守の対話とは、現実世界の出来事です。明らかに時代は平安の頃という設定であり、京都北白川の吉田家の奥方が別れた息子を探して彷徨う姿を、観客は現実に起こった出来事として眼前に目撃することになります。つまり、次元としてシテと観客の視座が一致しています。

ですから吉之助が新作「謡かたり・隅田川」を夢幻能の感覚で受け取ったというのは、原作の能・「隅田川」の現在能とは、ドラマ感覚が異なるということです。この感覚の違いがどこから来るかと言 うと、恐らく能よりも文楽というものが、未来の芸能 ・ずっと具象的であり現実感覚に立つ芸能であるからです。これが能と文楽が共演したことによって生まれた効果です。能が過去の芸能であるから悪いと言っているのではないので、誤解のないように。観客が 義太夫語りの視座に立つことによって、能が過去から語り掛けて来るように見えるのです。謡かたり三人の会の面々がこの効果を意図して創出したのならば、「なかなかのものですなあ」などと感心しながら、吉之助はその映像断片を見ました。

一方、菊之助が加わった平成24年・テレビ収録の能・文楽・歌舞伎の共演 “隅田川”」の方に話を移しますが、映像を見るに、どうやら「謡かたり・隅田川」での義太夫語りの部分はほとんどそのままで、全然変えていないようでした。能シテの部分を歌舞伎の立方に置き換えて振りを付けたくらいで、目立った演出方針の変更はないようでした。吉之助には、これはちょっと工夫が足りないように思うのですね。前項に書いた通り、分かりやすく出来てはいるのです。しかし、分かりやすいことは良い点なのだけれども・まさにそこに裏腹な面があって、子供を失った母親の哀しみが論理的に説明されて頭で理解されるだけで、つまり母親が子供を失えばそりゃあ悲しいに決まってるということで理解されるということであって、子供を失った母親の哀しみが感覚的に胸にツーンと来る感じで伝わってくるということではなかったのです。そこに吉之助は物足りなさを覚えます。能シテを歌舞伎の立方に置き換えるならば、それに応じて演出・義太夫語りの方も適宜変えねばならないのではないかと、吉之助は思うわけです。(この稿つづく)

(H26・10・17)


○現世の芸能・その1

本稿は別稿「芝居と踊りと」の関連記事です。先日のEテレ「日本の芸能」 (9月26日放送)で「能・文楽・歌舞伎の共演 “隅田川”」という番組を放送したので、これを観ました。謡曲「隅田川」を、ユネスコの無形文化遺産である能・文楽・歌舞伎を横断する新作として、スタジオで新たに収録。「3つの芸能、それぞれの魅力を発揮した必見の意欲作!」ということだそうです。出演は能の大倉源次郎、文楽の豊竹咲大夫、歌舞伎の尾上菊之助、振付は藤間勘十郎。番組を見ると、能の存在感はちょっと 薄くて、文楽と歌舞伎の共演という印象がありますが、なかなか分かりやすく出来ていて、子供を失った母親の哀しみがよく理解出来たと思います。スタジオ録画で台詞が字幕で出るということもあります(これは結構影響がある)けれど、文楽(義太夫節)が持つ論理性(語りの要素)が、作品の分かりやすさに大きく貢献しています。

それにしても、この作品は芝居なのか、それとも踊りなのでありましょうかね。ああ舞踊劇?これはまたおあつらえ向きの用語があったものですね。歌舞伎では「勧進帳」や「関の扉」も舞踊の範疇に入れますから、これも同様に踊りということです。要するに芝居がかり、作品の骨格に何かの形でドラマが入っていて、踊りの意味と密接に絡まっているのです。

ところで今回の「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」は平成17年に野村四郎(能)・豊竹咲大夫(文楽)・村尚也(演出)が参画する謡かたり三人の会によって初演した「謡かたり・隅田川」をベースにしたものであるそうです。これは能の地謡いを義太夫語りに置き換えるという単純なものではなくて、作品を再構成して義太夫語りの要素を増やし、能シテが義太夫とどう対峙するかという、なかなか興味深い実験をしたものです。吉之助は残念ながらその舞台を見てないのですが、番組で紹介された 、初演の時の映像断片で、隅田川の畔での能シテと義太夫語りの対話の場面を見ました。

能シテ     さてその稚児の年は
義太夫語り  十二歳
能シテ     主の名は
義太夫語り  梅若丸

能の台詞と義太夫という意志津の芸能が交錯する対話は、吉之助には地底から蘇った狂女(シテ・梅若丸の母)の霊と現世の人間との対話のように思われました。そこに次元のギャップが感じられました。これは能の側から見れば、文楽というのは未来の芸能であり、より具象的な芸能ですから当然のことかと思いますが、義太夫語りが情景を語っても、隅田川の渡し守(能では ワキに当たる)の台詞を語っても、それは現世の人間の視点に立っているのです。義太夫語りは観客と同じ次元にあります。狂女だけが遠い過去・別の次元から来たように感じられます。この感触は義太夫節の論理性から来るものです。

一方、菊之助が参加した「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」の方は、舞踊の方に傾斜しています。歌舞伎も能から見れば未来の芸能ですから、能よりは写実な芸能であるわけです。視覚的な面からみると能の狂女は面をつけて様式に寄っていますが、歌舞伎の狂女は女性に近い感覚があり、特に菊之助のような美しい若女形が演じるならば、女形と言っても生身の女性との感触の齟齬は比較的少ないはずです。そうすると「能・文楽・歌舞伎共演の隅田川」の方は、原作の能・文楽の共演「隅田川」よりも、もっとずっと写実の方に寄っても良いはずです。つまり地狂言(芝居)の方にもっと寄っても良いはずなのですが、結局、そうならないのです。感触が舞踊の方に傾斜して行きます。芝居とも舞踊とも付かないが、どちらかと云えば舞踊の方に寄ったところの舞踊劇という形態に落ち着きます。能とはまたちょっと違う方向の・様式の方へ逃げて行くのです。これは興味深いことだなあと思いますねえ。多分これも義太夫節の論理性から来るものだろうと思われます。(この稿つづく)

(H26・10・13)


○芝居と踊りと・その6

『我々からすれば、能がかりだとか、芝居がかりでない方が踊りらしい気がする。だから、これでも踊りかと言う気のするものが多くて、踊り自身ですら早くから不純なものになつていたのではないだろうか。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

歌舞伎は、その発生当初から踊りと強く結びついていました。振事(ふりごと)・所作事と言われるものは、従来の踊りと違った・意味を持った新しい踊りということで、物真似狂言尽しを求めていた女形の地芸の影響を強く受けました。そのなかで踊りは、必然的に劇的要素(ストーリー性)を伴ったものとして発展していきます。

「日本舞踊Xオーケストラ」での踊りを見ると、例えば「ロミオとジュリエット」(2012年12月7日公演)が「妹背山」の雛鳥と久我之助に見立てられ、「展覧会の絵」(2013年10月3日公演)では終曲「キエフの大門」の鐘が「道成寺」の鐘に見立てられています。その見立ての発想は良く理解できますけれど、いささか芝居へ の紐付けが定型に過ぎる感じです。舞踊は芝居がかりにしないといけないみたいな決め込みがあるように思います。この「展覧会の絵」でも、中間部「ブィドロ〜サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ〜リモージュの市場〜カタコンブ」は、振りも変化に富んで自由な発想があってなかなか面白いのに、最後で「道成寺」に紐付きされると急に舞台が重ったるくなるのは残念なことです。確かに筋にオチが付く感じはしますがね。もっと 思い切って芝居がかりから離れて、変化舞踊のような軽みが出せれば面白いかなと思います。

同じようなことが、「プレリュード〜沈める寺」(2013年10月3日公演)にも言えます。ドビュッシーの前奏曲集のうちの四曲(西風の見たもの・亜麻色の髪の乙女・とだえたセレナ―ド・沈める寺)を原曲としていますが、これをオンディ―ヌ伝説(旅人を誘惑する水の精)に見立てて、筋に一貫性を持たせています。これも芝居がかりだと言えます。芝居がかりにすることの意味は、ひとつは「分かりやすさ」でしょう。「ああ、こういう主題の踊りなんだね」ということが分かるということです。逆に云えば観客はそういう予備知識的理解が先に在って、それを取っ掛かりに踊りを読もうとする(見るのではない)ということになるのです。そのことの良さもあり、悪さもあると思います。

ドビュッシーの前奏曲集の曲の配列の意図については、吉之助は今でもああかこうかと考えますが、いまだに謎です。またドビュッシーの曲については題名がヒントになると考えない方が良い、むしろ邪魔になるとさえ思うことがあります。吉之助 には、この四曲をオンディ―ヌの筋で整理した発想に感心するところと、「これで良いのかな」という疑問と、二つの考えが交錯します。しかし、今のところ、この四曲に意味の関連を見ることは、吉之助はあまりしたくない。バラバラで良いと思っています。オンディ―ヌ伝説について云えば、これを甘くやるせない憧れを歌うロマンティックなイメージに取る方は多いと思いますが、19世紀末から20世紀初頭にかけてオンディ―ヌ伝説に取材した文学・絵画・音楽などが頻出することを考え合わせれば、吉之助としてはその発想をドビュッシーにあてるならばもう少しバロック的な方向に見たい。ラヴェルの「夜のガスパール」(第1曲が「オンディ―ヌ」)などの同時代的関連において、四曲の乖離したイメージが味わえる踊りが作れれば良いかなということを考えます。もっと感触を軽くした方が良いように思います。

花柳寿輔の振付は、前述の「牧神の午後」と同様に、ドビュッシーの音楽がリズムの刻みが前面に出ないので踊りやすいということがあります 。曲の選択は良いのですが、今回の「プレリュード〜沈める寺」の印象は若干ロマンティックの方に傾斜 した感じがします。まあそれが悪いということではないが、つまり、重ったるい方向に向かっています。これはひとつには芝居がかりにしたことと、もうひとつ、共演のオンディ―ヌを玉三郎が踊ったこと も影響しているようです。玉三郎は異界の存在である女形の美を垣間見る瞬間も確かにありましたが、全体に和風バレエのようなムード舞踊でした。「日本舞踊Xオーケストラ」における日本と西洋の相克・葛藤なんてものは、ここにはあまり見えませんでしたね。

(H26・10・2)


○芝居と踊りと・その5

「牧神の午後」(2012年12月7日公演)が良かったのは、曲の選択もあったと思います。印象派の「牧神の午後」(ドビュッシー)は、リズムの刻みが前面に出る曲ではないからです。もちろん西洋音楽ですから基調のリズムを持っていますが、ゆったりとしたテンポでリズムの刻みが意識的にぼかされていますから、定間にはまることの少ない日本舞踊は振りが合わせやすいと思います。

そもそも日本舞踊の背景にある音曲(邦楽)は二拍子のものが多い。日本のわらべ歌・例えば「かごめかごめ」や「ひらいたひらいた」などを聞いてもお分かりの通り、日本の伝統音楽の基本リズムは二拍子です。逆に三拍子のものがとても少ないのです。(これについては民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」が参考になります。)邦楽を背景音楽に持つ日本舞踊の振りは、当然ながら二拍子ということになります。

小泉文夫:日本の音―世界のなかの日本音楽 (平凡社ライブラリー)

武智鉄二は、三拍子は旋回や跳躍を得意とする騎馬民のリズムで、農耕民である日本人のリズムのリズムではないということを言っています。ということは、「日本舞踊Xオーケストラ」のような企画でも、ワルツやメヌエットなどの三拍子の曲が出た場合、日本舞踊がこのリズムに無批判的に乗るということはあり得ないのであって、そこに相克・あるいは葛藤とでも云うものが生じるはずである。二拍子のリズムで培ってきた日本舞踊が慣れない三拍子の管弦楽に合わせることで、或る種のズレあるいは「いなし」が出て然るべしということを吉之助は考えます。例えば本来「ナ ム/アミ/ダ」の三拍子を、「ナム/アミ/ダ/ア」とか「ナム/アミ/ダン/ブツ」のように音を増やして四拍子で扱うようなことです。しかし、「日本舞踊Xオーケストラ」の場合、オーケストラにワルツを四拍子でやらせるわけには行きませんから、踊りの振り を三拍子のリズムに意識的に乗せない・あるいは二拍子的に崩すというような、ワルツの二拍子的処理をすべきだろうと吉之助は考えるわけです。

武智鉄二:舞踊の芸 (日本の芸シリーズ)

ところが「日本舞踊Xオーケストラ」での踊りを見ると、みなさんそういうことを あまりお考えではないようである。見事に三拍子の定間のリズムに乗っていらっしゃる。これは彼らも現代人であるから、日常生活のなかではむしろ三拍子の西洋音楽が満ち溢れているのですから、日本舞踊の踊り手も何の違和感もなく三拍子のリズムに乗れるということなのです。しかし、こうなると日本舞踊の特質というのは見失われてしまうと思います。だから和風バレエという感じに見えて来るのです。「日本舞踊Xオーケストラ」の、つまり西洋と日本の、本来在るべき対立関係が見えて来ない。武智が生きていてこれを見れば、そう言うに違いありません。武智理論なんてものは、現場では全然顧みられていないのだなあということを、武智の弟子を自称する吉之助としては改めて寂しく思いますねえ。

例えば「ボレロ」(2012年12月7日と2013年10月3日に、それぞれ違う演出で上演されましたが、どちらにも同じことが言えます)の群舞には、この問題がはっきりと出ています。ラヴェルの「ボレロ」のリズムは冒頭部の小太鼓のリズムを聴くと随分細かいように感じるでしょうが、曲が高揚した部分の金管が刻むリズムを聴けば、その基調のリズムは明確に三拍子なのです。演目のなかで三拍子が最も強烈に 前面に出るものであり、その意味において日本舞踊に最も不向きの演目であろうと思います。しかし、このクライマックスの群舞には、びったりと三拍子で定間の振りが付いています。「一二三一二三・・」という感じで踊っている。吉之助にはこれはとても日本舞踊には思えません。吉之助は、もしかしたらこれは東京バレエ団のメンバーが和服を 着て踊っているのかと思って、メンバー表を見直したくらいです。それくらいみなさん三拍子の踊りを見事に踊っています。「こういうことではちょっと困るなあ ・・」と思うわけです。もう少し日本舞踊の特質とは?ということに思いを馳せていただきたいのです。そうでなければ、 悪くすると西洋バレエを和服・和風で踊るだけの趣向の奇抜さに終わってしまいかねないと思います。

ただし、2012年12月7日公演の「ボレロ」は野村萬斎が舞台の中心のステージで踊りましたが、狂言の三番叟の踊りをイメージした萬斎の振りだけは、三拍子に乗らないことを意識していたようです。これは狂言舞が三味線音楽とは無縁のせいだろうと思います。さすがと云うべきか、萬斎は三拍子のリズムを「いなす」ことが出来ているし、足拍子もオーケストラのリズムに合わせていないのにも感心しました。高揚した音楽のエネルギーが萬斎の身体に取り込まれていく瞬間がありました。これが正しい「日本舞踊Xオーケストラ」の在り方であろうと、吉之助は思います。(この稿つづく)

(H26・9・27)


○芝居と踊りと・その4

日本の舞踊はどれも歌詞を伴っている。そこで吉之助は、日本舞踊は生者の言語に頼り過ぎるきらいがあり、踊りの内容・情感が歌詞で説明されてしまう分、 純粋な肉体表現としての舞踊の追求という意識が弱くなるという推論をしてみました。そうすると歌詞を伴わない純器楽で日本舞踊をやってみたらどうなるかということが、興味ある疑問として湧いてきます。そのような試みが、これまで全然なかったわけではないようです。例えば大正12年(1923)3月26日から31日まで帝劇で公演された五代目福助主催の羽衣会第2回公演で、メーテルリンクの「マリアマグダレエヌ」からヒントを得て山田耕作が作曲した舞踊交響曲「マグダラのマリア」が山田の指揮の管弦楽・福助の主演(マグダラのマリア)により新舞踊の試みとして上演されました。(別稿「西洋と東洋との出会い」、「山田耕作の長唄交響曲」を参照のこと。)どのような舞台であったかは 、よく分かっていません。それにしても福助にせよ・山田耕作にせよ、大正期の文化創造の意欲は凄いものがあったのだなあと驚きます。このような実験的試み がされたこともあったのですが、その後の日本舞踊の大きな流れにはならなかったようです。

ところで最近「日本舞踊Xオーケストラ」という題名で、花柳寿輔を中心とした日本舞踊の面々により生(なま)管弦楽の洋楽で日本舞踊を試みようという企画が行われて、大変話題となりました。ETVでも録画が放送されましたので、ご覧になった方も多いと思います。最初は2012年12月7日に、同様な企画が2013年10月3日に も行われました。また本年も12月13日(いずれも東京文化会館)に予定がされています。そこで、その映像を見ながら、歌詞を伴わない日本舞踊とはどんなものか・その成果を考えてみたいと思います。

どの演目も意欲的なもので・それぞれの持ち味があると思いますが、そのなかで吉之助が特に良かったと感じたのは、2012年12月7日公演の「牧神の午後」(花柳寿輔と井上八千代による素踊り、音楽はもちろんドビュッシー)でありました。これは「日本舞踊Xオーケストラ」の企画の打診を受けた時に花柳寿輔の頭のなかに最初に浮かんだ演目だったとご本人が記者会見で語っていましたが、なるほど完成度が高い舞台に仕上がりました。ポイントは素踊りにしたことと、相方に井上流家元・五代目井上八千代を起用したことにあります。踊りの粗筋は原作(うたた寝していた牧神の前にニンフが現れ水浴を始める・それに魅せられた牧神がニンフを誘惑しようとするが・ニンフは逃げる)を踏襲していますが、そのことに強く縛られた感じはありません。和服の素踊りにしたことで原作のイメージに過度に捕らわれることなく、自由な創作に出来ました。吉之助の見るところ、 西洋バレエのなぞりではない、自然な日本舞踊に仕上がって素晴らしいと思いました。

バレエ「牧神の午後」初演は1912年5月・パリ・シャトレ劇場で、ニジンスキー振付によるバレエ・リュッスにより行われました。ニジンスキーは伝説的なダンサーで、特に華麗な跳躍を売り物にしましたが、この「牧神の午後」の牧神では得意の跳躍を封じ、すり足のような平面的な動き を多用し、観客を戸惑わせました。その動きにどこか東洋的なものが感じられます。本人の談話 に拠れば、花柳寿輔はそこを今回の創作の取っ掛かりとしたようです。しかし、相方に京都地唄舞の井上八千代を起用したのがやはり成功のポイントです。日本舞踊の流派はだいたい歌舞伎から発したものですから、女性の踊りも歌舞伎の女形の動きを取っているものが多い。つまりシナを作って女らしさを出そうとするものが多いのです。シナとは、女らしさという嘘を表現するために、女形という男が作りあげた虚飾の技巧です。井上流は天明期頃に初代が近衛家に仕え、宮中の女官に踊りを教える のを仕事としたもので、そのような色気で舞うことを井上流は拒否するのです。余計なシナを作らなくても、女が踊ればそれで女舞そのものだという考え方です。武智鉄二が四代目井上八千代の芸に惚れ込んだのも、そこが理由でした。

「日本舞踊Xオーケストラ」の他の演目では、多くの他流派は歌舞伎から発しますから、女形芸を引き継いでおり、女性はシナを作って踊ります。そのことの良さもあり、弱さもあると感じます。吉之助の好みからすると、女の踊り手がシナを作ることで 、余命なものが一層まつわり付く感じです。衣装のビラビラした飾りなどもそうです。そういうものが、お節介にも踊りに何か余計なものを付け加えて、踊りをロマン ティック・バレエの方向に強く引っ張っています。それで何となく和風バレエという感じになる。(それが良いか悪いかということは、また別の次元の議論です。)一方、「牧神の午後」 の場合は素踊りですから、そういう余計な飾りがありません。小道具は扇子とニンフが持っているヴェールだけ。井上八千代が踊るニンフは、媚びない踊りです。だから女らしさの為の技巧の余計なイメージがまつわり付かず、踊りの振りそのものがシンプルに味わえます。結果として舞台が古典的な印象となり、このことが「牧神の午後」の新古典主義的な本質に通じます。(この稿つづく)

(H26・9・25)


○芝居と踊りと・その3

翻って芝居の方から踊りを見れば、初期の歌舞伎では舞踊は女形の専売とされていました。これはお国かぶきが念仏踊りや狂言小唄を取り入れた「ややこ踊り」で評判を取って以来、歌舞伎のなかで踊りが重要なショー要素であったこともありますが、それ以上に、寛永6年(1629) に江戸幕府によって遊女歌舞伎禁止の禁止・つまり歌舞伎での女優の禁止されたことが大きな要因です。技芸がまだ確立していなかった時代の女形は・演技をさせてしゃべらせると男が見えてどうもいけない。だから芝居では女形は補助的 な役割しか与えられず、綺麗な着物を着せて踊らせることが女形を活かす一番無難な方法でした。そのため立役は舞踊の領域に立ち入ることをしませんでした。それが宝暦期の頃から初代富十郎らによって内輪歩きなど女形の技芸が確立されて、義太夫狂言により女形が声質的に芝居のなかでの安定した位置をやっと見出せるようになって、初めて女形は芝居のなかに積極的な関与が出来るようになります。(これについては別稿「歌舞伎とオペラ」のなかの女形とカストラートの項を参照ください。)

この変化に呼応するような形で、天明期になるとそれまで遠慮していた立役が舞踊の領域に積極的に進出して来ます。「関の扉」・「戻駕」を初演した初代仲蔵がその代表ですが、これは実は女形の技芸の確立とパラレルな現象であったわけです。
極論を言えば、それまでの女形は「綺麗綺麗を見せるだけなら踊ってれば良い」というところに押し込められていたのが、芝居のなかに積極的な関与が出来るようになって初めて女形は舞踊中心の活動から解き放たれたということになるでしょう。

歌舞伎が写実の本義を貫きドラマ性を追求して行こうとするなら、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないはずだと書きましたが、女形芸の歴史を見れば、大まかにその流れが見えるということが言えます。しかし、歌舞伎と踊りの関係が絶たれるということはありませんでした。それは歌舞伎がドラマのなかに音楽的要素を取り込むことで女形の安定的な位置を見出したことから分かる通り、歌舞伎は写実 を本義としながらも技法が反写実な演劇となってしまったということにあります。女形が舞踊から離れ始めたら、今度は逆にその領域に立役が入り込んでいくという流れが、実に興味深いではありませんか。(さらに興味深いことは、芝居の面での初代仲蔵はその後・文化文政期の五代目幸四郎・三代目菊五郎に先立つ歌舞伎の写実化の先駆者であったということです。初代仲蔵が舞踊の領域に進出していったことは、仲蔵が志賀山流(踊りの流派としては最も古いもののひとつ)の八代目家元であり・舞踊が得意であったということだけが理由であるとは思えませんが、このことは別の機会に考えてみたいと思います。)こうして歌舞伎のなかでの舞踊は演目が増えて、ますます隆盛になって行きます。今日の舞台で見られる舞踊のほとんどは天明期以降のものです。だから女形でも立役でも、役者の修行のなかで舞踊の習得が大事なことになるのです。その結果、歌舞伎のドラマツルギーと舞踊のドラマツルギーが本質的なところで重なることになります。ここで芝居と踊りとの間を取り持つものが、実は言葉(歌詞)なのですね。(この稿つづく)

(H26・9・21)


○芝居と踊りと・その2

日本舞踊には役者の踊りと舞踊家の踊りがあると言いますが、もともと日本舞踊は歌舞伎役者が踊ったものが中心になって形成されてきたものですから、本家は役者の踊りの方なのです。今日の日本舞踊の流派 の多くは、もと役者か、あるいは座付の振付師などの家柄から出たもので、いずれにせよ芝居から発しました。(江戸期の芝居とは、もちろん歌舞伎のことです。)日本舞踊と芝居との関係は、互いが切り離せないくらい深いものです。また「勧進帳」・「関の扉」などのようなものは、役者としての修練なくては出来ぬもので、 舞踊の技術だけではどうにもなりません。郡司正勝も、『日本舞踊家は、かぶき役者の舞踊とは違った領域を開拓、獲得しない限り、その独立は求められないのではなかろうか。役者が追いつかれぬ領域を開拓するに至ってはじめて日本舞踊は自由になることができよう』(郡司正勝:「役者の踊と舞踊家の踊」・昭和55年「演劇界」増刊・「舞踊名作案内)と書いています。

舞踊が芝居から離れて独自の道を歩んだ方が良いということは、折口も同様なことを言っていますが、これは何となく理解出来ると思います。 舞踊家の踊りは、新作物を別にすれば、古典においては劇的要素の弱い「変化舞踊」(江戸後期のもの)においてその実力を発揮することが多いということも、頷けるところです。純粋に踊りの技術で勝負が出来るからです。明治期には坪内逍遥らによって、日本舞踊を世界芸術の水準に高めようということで「新舞踊」という試みが行われたことがありますが、そういうことも段々行われなくなり、現状においては、舞踊家の踊りは、家元制度とかいつくかの要因があって、思い切った試みが出来ずにいるようです。

ここからは吉之助の推論になりますが、日本舞踊が芝居からどうして離れられないかと云えば、多分その理由は劇的要素(ストーリー性と言い換えても良いと思いますが)のあるなしに拠るの であろうと、とりあえず仮定をしてみます。それが芸術性とか云うものに繋がるのだろうと思いますが、それを言えば西洋のバレエだって劇的要素を当然持っているわけです。そう考えてみると、日本舞踊が舞踊として純粋に踊りとしての展開をしないということに、吉之助はもうひとつ別の要因を考えてみたいのですね。それは日本舞踊の背景音楽としての邦楽が歌詞を伴っているということです。

邦楽というのは義太夫にしても長唄・清元にしても声楽であって、常に歌詞を伴っています。純粋器楽というものは尺八とか琴の曲とか邦楽にないわけではありませんが、日本舞踊の背景音楽としての邦楽は どれも歌詞を伴っています。振りというのは、「風流」の転訛語で、それは文芸的な主題性を持つ舞踊・つまり劇的要素を持つ舞踊のことを言います。日本の舞踊は、どれも歌詞を伴っていますから、すべて風流だと言えます。その逆が西洋のバレエで、現代バレエでは声楽を伴うものも多く作られていますが、基本的にはその背景音楽は純粋器楽です。

このことは「歌舞伎素人講釈」の最初期の論考「沈黙の言語」(2001年のネット登場時にアップした最初の記事のひとつです)から、実は吉之助にはずっと引っ掛かっている問題でした。この記事は昭和57年10月に来日したベルギー二十世紀バレエ団公演「エロス・タナトス」の舞台についての随想ですが、そのなかで吉之助は、「バレエ音楽として声楽入りの音楽を使うのはバレエの本義にもとるのではないか」ということを書きました。例えば「死者がわたしに語りかけるもの」では、マーラーの歌曲「トランペットが美しく鳴り響くところ」が使用されていますが、声楽を背景にして踊る時、踊り手の肉体は沈黙の言語で語ることを止めてしまっているように感じる。あるいはバレエが本来表現すべきはずの沈黙の言語が生者の言語でかき消されてしまっていると感じるということです。現代バレエの振付師のなかでもモーリス・ベジャールは声楽の使用頻度が高い、またいろんな曲を組み合わせてストーリー性・テーマ性を持つ集合体を制作することが多かったと思います。その意味でベジャールは現代バレエの振付師のなかでもちょっと 特異な存在だったかなと思います。

この考察を踏まえてみるに、日本の舞踊はどれも歌詞を伴っているからすべて風流であるということは、日本舞踊は生者の言語に頼り過ぎるきらいがあり、つまり踊りの内容・情感が歌詞で説明されてしまう分、 純粋な肉体表現としての舞踊の追求という意識が弱くなるのかな(踊り手にも観客についても云える)・・というのが、吉之助の推論です。ご異論もありましょうが、ここはあくまで吉之助の仮説ということで、お許しをいただきたい。(この稿つづく)


(H26・9・19)


○芝居と踊りと・その1

本稿は歌舞伎と踊りの関係を逍遥しながら考えるもので、結論めいたものは出ませんが、まあ雑談と思ってお読みいただきたい。歌舞伎という語に「舞」という字が入っていることでも分かる通り、歌舞伎と踊りは関係が深いということは、今更云うまでもありません。役者の修行のなかでも舞踊の習得は大事なこととされており、実際、踊りと関係ない場面においても役者の何気ない身のこなしに、舞踊の修練のあるなしがはっきりと見えたりするものです。しかし、折口信夫が「歌舞妓とをどりと」(昭和14年6月)という文章のなかでこんなことを書いていたので、吉之助はほうと思ったのです。

『(六代目)菊五郎などはあれだけを歌舞妓に専念したら、どんな役者になったらうか。あの人気の源になつている踊りは、あの人の芸を触んでいるものだと言うことに気がつかない筈はないと思ふのだが。又(七代目)三津五郎に踊りが出来なかつたら、あの特殊な顔を以つて、もっと役者としての大をなしているだらうに。踊りのために、実に其れだけの役者と謂つた形になつて終わつている。此ほどあの人にとつて気の毒なことはない。(中略)歌舞妓が、歌舞妓発生時代から劇的要素を自由に伸ばさないやうにさした踊りと、平行しているのがいけないのだ。そして歌舞妓芝居の景気の悪い時は、踊りでつなぐと言ふことが、いつも行はれるが、これは歌舞妓そのものから言つて悲しむべきことであるし、又踊りから言つても喜ぶべきことでない。歌舞妓と踊りは別個のものとして進んで行かなくては、どうしてもいけないだらう。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

多分、この折口の意見には首肯せぬ方が多いだろうと思います。歌舞伎役者にとって踊りは大事な要素だと考えるのが、普通の考え方であるからです。まして昭和14年当時の菊五郎・三津五郎と云えば、伝説の踊りの神様の全盛期と云うべき時代であって、役者としての彼らの魅力のかなりの部分を踊りが占めていると感じていた観客がほとんどだったはずです。折口の直弟子であった戸板康二がこの文章を読んでどう感じたかということは、吉之助には大変気になるところですが、残念ながら分かりません。ただ戸板のバランスの取れた客観性に重きを置いた歌舞伎評論は、一見すると折口の影響をあまり感じさせないものです。これは決して戸板を貶めているわけではなく、深いところではもちろん通じているのですが、戸板は折口から意識的に距離を置いて客観的なところでこれを 吸収しようとしていたように思います。むしろ吉之助の評論の方が、ずっと折口かぶれしています。多分、折口と吉之助は思考回路がどことなく似ているのです。だから折口の芸能分野での或る部分は、吉之助が継承 していると思っています。折口が言いたいことは吉之助にはよく分かります。ほう折口も同じようなことを考えていたんだねえと嬉しくなりました。

折口が言いたいことは、こういうことです。まず歌舞伎というものは、能狂言でも同じですが、物真似芸に発し、その本義は写実に根ざすものです。それに対して踊りというものは、表現ベクトルが反写実の方に向く。だから歌舞伎が写実の本義を貫き通 してドラマ性を追求して行こうとするなら、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないということです。しかし、もちろん折口は分かって書いているのであって、結果として歌舞伎が写実を本義としつつも・そのような反写実の要素(踊り)を平行させつつ推移したことに、歌舞伎の特質を見てもいるのです。以上のことを契機にして、歌舞伎と踊りの関係をちょっと考えてみます。(この稿つづく)

(H26・9・14)


○「太十」のこと

今月(9月)歌舞伎座で上演されている「絵本太功記・十段目・尼ケ崎閑居」は、通称「太十」(たいじゅう)と呼ばれる有名狂言ですが、有名な割に上演頻度が低いようです。光秀が出来る役者が払底しているわけでもないのに、吉之助の観劇歴40年のなかでも、数年に 1回というほどの上演頻度です。どうやらそれなりの顔ぶれが揃わないと出来ない重い狂言という位置付けになっているようです。「新薄雪物語」などもそんな理由が言われますが、「新薄雪」の方は通し狂言になるから事情はまだ分からないこともないけれども、「太十」の方は見取りで出来るのですから、「勧進帳」や「寺子屋」・「熊谷陣屋」をこれほど頻繁に出すくらいなら(もちろん名作ですが)、「太十」は代わりにもっと出て良い狂言だと思いますがねえ。

「それなりの顔ぶれが揃わないと出来ない狂言」と書いたけれども、昔は「太十」は素人が義太夫節を習う時の恰好の教材だと云われたものでした。立役から若者・姫・女房・老女まで 声質の異なる役柄が揃っていますから、義太夫節の習得にとても都合が良いわけです。逆に云いますと、歌舞伎の場合でもこれを上演すれば、いろんな役者でバラエティに富んだ配役が組めますし、まあ配役として多少アンバランスであったとしでもそれも修練の場として良い機会になると思います。伝承ということを考えた時にも「太十」は重要なレパートリーのひとつであるはずです。

近年の歌舞伎は番組の片寄りが強まっています。番組チラシを見て「またこの狂言かね」と思うことが多いですが、「太十」以外でも、もっと上演して欲しい大事な芝居はいくつもあります。特に義太夫狂言ですね。吉之助が義太夫狂言にこだわるのは、伝承ということを考えた時に義太夫狂言が歌舞伎役者の根本とならざるを得ないと考えるからです。郡司正勝先生は、最も歌舞伎的な作品は何であるかと云えば、それはホントは「曽我対面」とか「暫」とか云うものになるはずだけれど、それはもはや形骸化してしまって伝承芸としてはまことに頼りないものである。だから、歌舞伎にとって義太夫狂言は本道ではないのだけれど、歌舞伎を維持する力というのは「型を維持する力」なのであるから、「型もの」である義太夫狂言を守っていかねばならない、それだけが現代の衰弱した歌舞伎の最後の砦である、と郡司先生は仰っていました。(郡司正勝・合評「三大歌舞伎」・「歌舞伎・研究と批評」第16号)ですから、義太夫狂言の掘り起しをもっと意識的にして欲しいと思います。

(H26・9・11)


○谷崎潤一郎のこと

神戸市東灘区にある倚松庵(いしょうあん)を見学して来ました。関東大震災の後、谷崎は関西に移住し・数回住居を変えましたが、この倚松庵には昭和11年11月から昭和18年11月まで最も長く住みました。現在の倚松庵は平成2年に移築されたもので、元の場所は現在地より150Mほど南にあったそうです。

倚松庵に居住した時期の谷崎の重要な仕事としては、「源氏物語」現代語訳と小説「細雪」などがあります。特に「細雪」には、この地域の風土・住まい・出来事などほとんど事実通りに取り入れられているので、倚松庵は別名「細雪」の家とも呼ばれます。

ところで昭和の初め頃からの谷崎は、文学史では古典回帰の時期であると位置付けられています。「細雪」はその代表的な作品とされます。一方、谷崎には変態作家という異名もあって、「痴人の愛」(大正13年)もそうですが、晩年の「鍵」(昭和31年)・「瘋癲老人日記」(昭和34年)などは特にそうで、吉之助にはそこで古典回帰・日本の美意識の代表作とされる一般的な「細雪」のイメージとギャップが大きくて、それがどうもしっくり結びつかない。吉之助が『生きている人形〜「蓼喰う虫」論』・『鬼が棲むか蛇が棲むか〜「卍」論』を書いたのは 、実はそのギャップを埋めたいと考えたのがきっかけでした。内容は文楽人形論・「心中天網島」論と密接に絡んでますが、伝統芸能視点から、これら谷崎作品を分析した文芸評論は、吉之助が知る限り、類例がないと思います。「歌舞伎素人講釈」の記事のなかからベストの批評を選べと言われたら、吉之助は現時点でこの2本を挙げたいと思っているくらいです。 実は今回の倚松庵訪問には、吉之助には目的がありまして、 これには文楽も歌舞伎も絡められそうにないので困っていますが、吉之助はそのうち「細雪」論を書きたいと考えています。いつ書ける分かりませんが、お楽しみにお待ちください。

倚松庵訪問の後に、芦屋の谷崎潤一郎記念館にも寄りました。そこで昭和34年の晩年の谷崎のインタビュー番組(NHK)の映像を見ました。実は吉之助は動く谷崎を初めて見たもので、インタビューの内容自体は大したことはなかったですが、この爺さんが女中さんの脚を撫でたり・舐めたりしていたのかと興味深く映像を見ました。そのような人物にはとても見えませんでしたねえ。どこかの立派な社長さんのように見えました。しかし、晩年の谷崎は実際そういうことをしていたようで、それが「瘋癲老人日記」という作品になったわけです。まあ誰にでも秘密はあるものです。芸術作品が醸成する過程というものは、実に魔訶不思議なものですね。ところで現在「恐怖時代」についての観劇随想を連載中です。その連載のなかでどこまで触れるか分かりませんが、「恐怖時代」についても谷崎の残虐趣味・スプラッター嗜好と単純に考えてはならぬと思います。これももう少し時間を掛けて考えたいと思います。

*倚松庵の写真は吉之助の撮影したものです。

(H26・8・31)


○松緑のこと

このところ雑事が多くて、サイトの雑談にまで手が回りませんでした。そこで今回もホントの雑談になりますが、このところの観劇随想でそのことに触れることがたまたまなかったのですが、実は最近の吉之助は松緑の演技に感心することが多くなっています。先日(平成26年5月歌舞伎座)の「矢の根」も6月歌舞伎座の「蘭平物狂」もなかなか良かったし、この2〜3年でグッと役者振りが上がった気がします。このことを痛感したのは、昨年4月歌舞伎座杮葺落公演での「忍夜恋曲者(将門)」での大宅太郎光圀のことで、もともと踊りは巧い人ではあるのは知っているけれど、玉三郎演じる滝夜叉姫に引けを取らないというか・立派に拮抗する光圀でありました。役者が大きくなったなあと思いましたねえ。

ご存知の通り、音羽屋の名門ではありますが、松緑は若くして父と祖父を亡くし、大変な状況で頑張ってきただろうとことは、お察し出来ます。菊五郎が「あいつ(初代辰之助)が生きていれば、今の歌舞伎の状況はだいぶ違っていただろう」というようなことをよく言うそうですが、松緑の父・初代辰之助(死後に三代目松緑を追贈)はシャープな男らしい芸風で、台詞廻しも明晰でしたから、今生きていれば独自の位置を占めていただろうにと残念に思います。しかし、同世代にかち合う役者が多く、それで良い役が付かないことがあって、その憤懣あってか酒浸りになって身体を壊して亡くなりました。惜しい役者でありました。

こんなことを書いたのは、松緑のブログをたまに拝見することがあって、時たま一体何が起こったのやらこちらには分からないが、頭に来ることがあったらしい投げ遣りの文章を見ることがあるからで、やっぱり親父さんの破滅型の気質を継いでいるようだなあ・・と心配になることがあるからです。 (このところは精神状態が落ち着いているようである。)歌舞伎の社会というのは狭い閉鎖的な世界であるし、面倒なことが多いと思いますが、ブログにはそういうことは書かない方がよろしい。良かったこと、楽しかったことだけを書きましょう。好きなお酒はちょっと控えて、身体を大切にして、三代目左近クンの為にも、長生きして良い役者になって欲しいと思います。応援してるから頑張ってもらいたいですね。

(H26・8・28)


○東京・歌舞伎座の「夏祭」

別稿「上方歌舞伎の行方・続」でも触れましたが、今後も上方歌舞伎がずっと上演され続けるとすると、だんだん東京の役者中心にならさるを得ませんし、そうすると上方和事も「与話情浮名横櫛」の与三郎とあまり変わらぬ感触になってしまう だろうと書きましたが、先月(7月)歌舞伎座の「夏祭浪花鑑」でも 似た感じを持ちました。何と言ったら良いか分かりませんが、舞台に目立って悪いところもないけれど、何となくアッサリで物足りない感じがしますね。

もともと「夏祭」の団七の型については、二代目延若の純上方式の団七と、若干江戸前掛かった(しかし上方出身である父・三代目歌六から発したものですが)初代吉右衛門の 系統があるわけです。まあ、それだから吉之助がこれまで見てきた歌舞伎座での「夏祭」も当然吉右衛門系統で、どうしても上方の味わいが弱くなるのは仕方がないところでした。上方味というのは、義太夫味のことを言っているのではありません。歌舞伎の「夏祭」というのはずいぶんと丸本離れしたものですから、義太夫味はあまり関係がない。大阪弁のアクセントの違いは、関西出身の吉之助には気にはなりますが、確かにそれ も重要な要素には違いないが、もうそういうことは仕方がないという気に吉之助はなりかけています。

吉之助が言う上方味というのは、「ねちっこさ」ということになりましょうか。あるいはギトギト・ソースのお好み焼みたいな匂いとでも言いましょうか。払っても払っても身体に染みつく匂いです。多分、東京の方はそういうのはあまりお好きではないでしょう。7月歌舞伎座の「夏祭」だと、そこがあっさり醤油味になる感じです。これは好みと云えば、好みの問題だと言えなくもありません。だからこれから東京勢中心になっていく歌舞伎では、あっさり醤油味の「夏祭」が多くならざるを得ないでしょう。

例えばお辰が「うちの人が好くのはここ(顔)ではのうて、ここ(自分の意気地)でこざんす」と言うのは四代目源之助の型ですが、十七代目勘三郎は「ここでこざんす」でニッコリ 笑って胸を叩きましたが、声を強く張り上げはしませんでした。玉三郎は最後の「ここでこざんす」を張り上げて写実に言っていました。玉三郎の言い回しはスカッとしてなかなか気持ち良かったと思いますし、玉三郎の芸質にも似合っていました。しかし、どこか辰巳芸者のような感触のお辰ではあった。まあお辰は玉三郎のニンだと決して云えぬ役であるし、そこのところは仕方ない 。

同じようなことが他の役者にも言えます。今回の「夏祭」は団七(海老蔵)・義平次(中車)その他の役でも、みんなあっさり醤油風味に思われます。それは役の性根(解釈)ということと違うもので 、性根ということならば彼らは決して的をはずしているわけではありません。みんなそれなりに良く頑張っています。海老蔵の団七は、確かに良い男過ぎるところがあるかも知れません。そのせいもあって、背後に持っている経歴の暗さが見えて来ないところがある。中車の義平次も同じ ようなところがあって、この男が団七に殺されるべき悪い奴だという厭らしさは見せている。しかし、やはり背後に持っている経歴の暗さが見えて来ない。それはとてもねちっこいもので、暗く執拗にふたりに付きまとうものです。はっきり言わなくても「団七・・・暑いな、暑いな」としつこく言えば互いに分かるものなのです。もちろん団七には、はっきり分かっています。だから団七は義平次を殺さねばならなくなるのです。今回の「夏祭」だと、金銭に執着して執拗に邪魔をされて怒って、誤って義父を殺してしまった可哀想な団七さんということになってしまう。(別稿「夏祭」と「ウエストサイド物語」をご覧ください。)

まあ筋としては確かにその通りなのです。まあ結局、これもニンとしか言いようがないのですが、これは役者としてのニンというよりも、東京の歌舞伎と上方歌舞伎のニンの違いということなのかも知れません。あるいは東京の観客と、大阪の観客のニンの違いということになりましょうか。

(H26・8・15)


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