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吉之助の雑談25(平成26年1月〜6月)


○埃沈め

映画「椿姫ができるまで」は、2011年エクサン・プロヴァンス音楽祭で、ナタリー・デセイのヴィオレッタを迎えて上演された歌劇「椿姫」の制作風景をドキュメントしたものでなかなか面白いので、オペラに興味お持ちの方には是非お勧めしたいものです。第一幕はヴィオレッタのサロンに集まる男性客の合唱で始まります。そのリハーサルで指揮者(ルイ・ラングレ)が合唱を止め、「このオペラで観客が一番最初に耳にするのは君達の声なんですよ。オペラで大事なことはどう感じるかだ。この場面は胸がはずむように歌ってほしい」と注意していました。その通りです。どんなオペラでも最初の声が大事なのです。それでその場面の雰囲気が決まります。これは歌舞伎でも同じではないでしょうか。

映画椿姫ができるまで (ナタリー・デセイ主演)

前項「実盛物語」のなかの世話と時代」で平成26年6月)歌舞伎座の「実盛物語」での世話の要素を担う九郎助(家橘)・小よし(右団次)・仁惣太(橘太郎)サイドのことに触れました。別に彼らの演技が悪いわけではないのです。しかし、もっと良いものに出来ると思います。冒頭で世話の雰囲気をしっかり出せれば、時代の要素を担う実盛(菊五郎)・瀬尾(左団次)サイドの登場がもっと引き立つように出来るはずです。琵琶湖湖畔ののんびりした百姓家に、突然政治の世界が割り込んでくることの異常さ・奇怪さが観客に感知させねばなりません。ですから大事なことは、九郎助住家の段(「実盛物語」)冒頭で如何に世話の雰囲気を作るかなのです。時代と世話の使い分けに、役者はもっと敏感にならねばなりません。

それにしても、上記の舞台とはまったく関係ないことですが、「埃沈め」という言葉があるように、歌舞伎には主役が登場するまでの時間を軽視する風があるように思います。埃沈めか・・何とも凄い響きですねえ。脇の役者に対する或る種の差別用語のようにも思えます。あるいは、幕が開いた直後の客席の騒音が鎮まるまでは軽くやってりゃいいや・・主役 が登場してからが芝居だよ・・・・という風に観客を小馬鹿にしているようにも聞えます。

しかし、本当は歌舞伎でも観客が聞く最初の声を大事にせねばならないはずです。最初から観客を惹きつける真剣な芝居を見せなければいけません。埃沈めなんて言葉が死語にならなければ、歌舞伎はいつまでたっても前近代的なままで、真の意味で現代に生きる演劇にならないと思います。

(H26・6・20)


「実盛物語」のなかの世話と時代

別稿「仁左衛門の松王」でも書きましたが、吉之助はここ40年くらいの歌舞伎について、全体の印象として重めで粘り気味であると感じています。もうちょっと軽めで・テンポを早く持って写実の方に寄るのがたぶん歌舞伎の本来の味だと思います。その結果、現代歌舞伎はどちらかと言えば世話物より時代物の方が安心して見られるということになるのです。吉之助が感じるには、現代の世話物は南北はもちろんのこと・黙阿弥でさえ世話の味が乏しくなって、感触が時代の方に寄っていると思います。現代歌舞伎では、世話物の将来がとても心配です。しかし、それならば時代物の方は心配ないのかと云えば、これも必ずしもそうとは言えません。

例えば今月(平成26年6月)歌舞伎座の「実盛物語」ですが、菊五郎の実盛はさすがの熟練した味わいを見せ、全体として平成歌舞伎の成果としてよろしいものだと思います。そこに殊更難付けする必要もないことですが、しかし、舞台の表現の彫りをもっと深くしようとするならば注文は出てきます。それは「実盛物語」のなかで時代の要素を担う実盛(菊五郎)・瀬尾(左団次)サイドに対して、世話の要素を担う九郎助(家橘)・小よし(右団次)・仁惣太(橘太郎)サイドのことです。別に失点があるわけではありません。手堅くやっていますが、もうちょっと世話に砕けた感じがあればなあと思います。特に台詞廻しの感触が時代の方に寄っていると思います。微妙な台詞のリズム・アクセントの違いなのですが、そこで世話を強調出来れば、時代サイドとの対立構図が
もっと印象付けられるのにと残念に思います。

それでも時代物というものは「主人公の犠牲を他者が然りと受け取る」というのを基本構図に置くものですから、
それで別に大きな齟齬があるわけでもないのです。これでも時代物として十分納まった形に
なってはいます。しかし、時代物の奥底へさらに踏み込もうとするためには、これでは物足りない。こういうことは現代歌舞伎の感触自体が重めで粘り気味である為に、これを気にする向きは少ないと思いますが、役者が(あるいは劇評家・観客もですが)このような世話の感触・写実の感触に鈍いということは、歌舞伎の将来を考えた時に非常な問題であると思うわけです。恐らくこの問題が解決できるなら、歌舞伎の世話物への不安もある程度は解消されるであろうと吉之助は考えます。

「実盛物語」・九郎助住家の段は琵琶湖の畔の百姓家。本来のどかで、そのような生臭い政治ドラマに全然ふさわしくない舞台面なのです。そんな静かな田舎で、突然源氏と平家の争いという事件が飛び込んでくる。そうなることの不自然さ、理不尽さ、奇怪さを感じて欲しいのです。世話の舞台のなかに刺さり込む時代、そういうことを考えて欲しいと思います。ですから実盛・瀬尾が乗り込んでくるまでは、芝居はまったく世話であって良いのです。むしろ 全体を世話の基調とすべきだと言って良いくらいです。今回の舞台の九郎助はじめ世話サイドはそこに物足りなさがある。「実盛物語」は時代物だという、そういう 決め付けがあると間違えてしまいます。もちろん分類すれば「実盛物語」は時代物には違いないですが、どんな芝居でも、ひとつの芝居のなかに世話と時代の局面がある。世話を担う役者と、時代を担う役者がいる。 世話と時代のふたつの要素が交錯して、入り交じり、世話と時代が押したり引いたりしながらドラマが展開する、そういうものなのです。そのようなドラマの流れを感知できなくなってるのかな、そういうことを思いますねえ。そういうことは「寺子屋」とか「逆櫓」などでも言えます。別に今回の舞台に限ったことではありません。

話を実盛に戻しますが、菊五郎の実盛は殊更に人形味を強調するところがなく、柔らかみのなかに時代の奇怪さを包み込む、これはまさに熟達の芸と云うべき実盛です。そこに実盛という人間の大きさが自然と出ています。このように肩に無理な力を入れず、勘所をしっかり押さえた菊五郎の実盛の物語を見れば、リズミカルに動作をカクカクとやって踊るのが義太夫味だというのが誤解だということが良く分かりますね。そんなことをしなくても、竹本と役者の掛け合いという手法自体が十分にアンビバレントな時代の要素であるからです。このような菊五郎の実盛の特質をより一層生かす為に、脇が世話の感触をより明確にくっきりと打ち出す必要があると感じます。まあそのところも含めて座頭である菊五郎が仕切るべきところかも知れませんが。

(H26・6・14)


芸能史を貫くもの

富岡多恵子:芸能に携わっている人自身が、「人間は、ゴハンと水だけでは生きていられない。やはり、芸能・芸術がなければ苦しいし生きてられない。だから、私たちは必要なのです」というのは、「それをいっちゃあおしめえよ」なんですけどね。昔の役者などは、そんなことは言わなかったと思う。
安藤礼二:まさに「乞丐相」(こつがいそう)、乞食としていかに生きられるかということですね。それが折口(信夫)の生涯と、この列島の芸能史を貫くものだったのではないでしょうか。
富岡多恵子:おひねりを投げてもらい、お布施で生きているんだから。
(富岡多恵子・安藤礼二:「折口信夫の青春」(ぷねうま舎)

富岡多恵子・安藤礼二:折口信夫の青春

富岡さんの上記発言ですが、芸能についてこのような感覚は、もしかしたら若い方にはもはや分からなくなっているかも知れませんねえ。何と言いますかねえ、ゴハンは喰わなければ生きていけませんが、芸術は生産的な行為ではなく消費的な行為なので、つまりその行為は人生のなかの或る種の無駄であって、その無駄は無駄であっても確かに意味があるに違いないのだが、しかしやっぱり無駄には違いないので、「そんなカスミ喰ってるようなので生きていけるか」と言われると何だか自信が持てない。芸術にうつつ抜かしている ことが、何だか後ろめたくなる、そういう感じでしょうかね。 折口自身は、こんなことを書いています。

『私どもの・青年時代には、歌舞伎芝居を見ると言ふことは恥ずかしい事であった。つまり、芝居は紳士の見るべきものではなかった。だから今以って、私には、若い友人たちの様に、朗らかな気持ちで芝居の話をすることが出来ない。私の芝居についての知識は、いわば不良少年が店の銭函からくすねて貯めた金のような知識で、理屈から言へば何でもないことだが、どうもうしろめたい。』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年)

吉之助も若い頃は「歌舞伎を観るのが好き」と他人様に言わなかったものでした。昨今は歌舞伎のサイトやってると云うと「いい趣味をお持ちで・・・」などと言われますが、時代が変わりましたね。しかし、芸術やってることの後ろめたさみたいな感覚が分かっていることは、芸能史を勉強する時には結構大事なことかなと思いますね。

(H26・6・7)


○上方歌舞伎の行方・続

別稿「上方歌舞伎の行方」において、吉之助の上方歌舞伎の行方への危惧を吐露しました。あの時はちょっと感傷的であったかも知れ ません。しかし、今後も上方歌舞伎がずっと上演され続けるとすれば、だんだん東京の役者中心にならさるを得ないと思いますし、そうすると上方和事も「与話情浮名横櫛」の与三郎とあまり変わらぬ 感触になってしまうのかなあと思います。まあそれも仕方ないことかも知れません。そんなことなど考えながら、4月歌舞伎座の、「坂田藤十郎一世一代にてお初相勤め申し候」との「曽根崎心中」を見たわけですが、藤十郎のお初は天満屋店先、徳兵衛を縁下に置いての「お前も友だち衆のこと、さのみ憎うはいはぬもの・・」以下の九平次への悪態は、声も力強くてさすがの芸を見せました。翫雀の徳兵衛も、長年演じ込んで来た役だけに手慣れたところを見せました。しかし、個々の役者の芸としては見るべきところがあるのは確かですが、全体からすると隙間風が吹く場面が少なくないようです。やっぱり芝居というのはアンサンブルなのです。

ところで「曽根崎」興行中の4月17日に、翫雀が来年(2016)1月大阪松竹座四代目中村鴈治郎の名跡を襲名することが発表されました。大阪の大名跡を継ぐのであるから頑張ってもらいたいと思います。現時点では襲名披露狂言はまだ決まってませんが、そうこうしているうちに本年7月大阪松竹座の演目が発表になりました。そのなかの「沼津」で翫雀が平作を勤めるのだそうです。ちなみに昨年11月国立劇場でも同じく「沼津」で藤十郎の十兵衛に付き合って翫雀が平作を勤めており、これが初役であったと思います。平作が悪い役などと言うつもりは毛頭ない・役の重い軽いを言うのではない・歌舞伎に平作役者が払底していることが悩みであるのもよく分かってはいますが、しかし、近い将来鴈治郎を継ぐことになる翫雀に何も平作をやらせることはないじゃないかと吉之助は思ったものでした。要するにこれは役者のイメージの問題なのです。鴈治郎という名前には色気が必要であると思います。これは大事なことではないでしょうか。故・勘三郎が平作を勤めたのとはわけが違います。勘三郎は出来上がった役者であるし、それが兼ねる役者を期待されていた役者の勲章にもなったのです。これから鴈治郎を継ぐ役者が平作をやるのでは御馳走にならぬと思います。昨年11月国立の時もそんなことを思ったものでしたが、いよいよ来年1月の襲名が決まった半年前の、襲名ムード盛り上げの大事な時期に、しかもご当地大阪で、息子・翫雀が平作をやるっていうことは、これは本来親父さんが配慮せねばならないことです。いくら「のほほん」の藤十郎さんでも、息子に十兵衛をやらせて自分はお米に回ることくらいは考えて欲しいものだと思います。(それでも十分お客は来るはずです。)翫雀を四代目鴈治郎として押し出すということは、上方歌舞伎の為に大事なことであるし、 立派になってくれなければ困るわけです。

上方芸の伝統の在り方は本来厳しいものです。「芸は親を真似するものやおまへん、自分で工夫するもんだす」というのが、上方の芸の伝承です。「息子は息子、俺は俺」というのが、藤十郎の考え方なのかも知れません。そういうこともよく理解できます。芸能の在り方とすれば、それが本来在るべき形だと思います。むしろ江戸の歌舞伎のように家系だ型だなどという方が権威主義的・形式主義的であって、本来的な意味からすれば芸道精神として脆弱であると思います。しかし、結果としては上方歌舞伎は衰退し、江戸歌舞伎は残るということになっています。だから、ここは上方芸というものも、しばらくは本来の在り方を曲げてでも、型を写し取るということをせねばならないと思います。願わくば「芸の心を写し取る」となって欲しいものですが、それが江戸歌舞伎の台木に上方歌舞伎を接ぎ木するようなことになったとしても、上方歌舞伎は残ってもらわねば困るのです。そのために鴈治郎と云う名跡も、上方歌舞伎の牙城として残ってもらわねばなりません。もちろん仁左衛門の名跡も同じことですが、本稿の筋が翫雀のことから始まっているのでそうなっているわけですが、翫雀には上方の芸の・どの部分を、おのれの仁において、どう継ぐか・どう真似るかということを、真剣に考えて欲しいと思いますね。そのためにまず役者のイメージを大切にしてください。このこと大事なことなのですよ。

(H26・6・1)


魁春の時姫

「鎌倉三代記・絹川村閑居」は三浦之助・高綱・時姫の三人の役者が揃えばずっしりとした時代物の重さがある場なのですが、一幕物として見た場合の筋の完結性が乏しくて、このままで残るのはチト苦しいなあと思うことがあります。予備知識なしでこのお芝居を初めて見た方はこの芝居のどこが面白いのか分からない かも知れません。この幕だけならそれも無理ありません。しかし、「鎌倉三代記」は筋が入り組んでいるけれども、文楽で通し上演を見ると実に面白い作品なのです。歌舞伎でも、前段の「入墨・局使者・米洗い」の場を巧くアレンジして半通しの脚本を整備すれば、下手な新作よりはるかに面白い芝居に仕上がると思いますが、誰か挑戦してみてくれませんかねえ。

それはともかく、平成26年4月歌舞伎座の「絹川村閑居」は、主役三人の芸が噛み合って見応えのする舞台でした。このように時代物の重厚な感触が堪能できる舞台も、久しぶりのことです。風情のある梅玉の三浦之助、形容の大きい幸四郎の高綱は、さすがと言うべきですが、今回の舞台の成功の要因に、特に魁春の時姫を挙げておきたいですね。魁春は六代目歌右衛門の指導宜しく、技芸はもちろんしっかりしているし、勤めるところにお行儀の良さがあります。それに魁春は赤色がとても良く似合います。だから魁春の時姫が良いのは予想されたことですが、魁春の時姫は出過ぎたことはしていないのに、いつにも増して活き活きと感じられました。幕切れで立役ふたりと並んでまったく引けを取らない立派な時姫です。この芝居が時姫のドラマであることが、この幕切れでよく分かります。

ところで4月歌舞伎座のチラシの解説を見ると、「三浦之助に自分と夫婦になりたければ父・時政を討てと迫られて時姫は迷った末に決意を固める、すべては時姫に時政暗殺を迫る計略であった」と書いてありました。 周囲の人たちが敵意と策意を以て時姫に対しているかのように読めます。まあどんな解釈もあり得ることかと思いますが、願わくば、その解釈で芝居を見て現代の観客が共感できるかどうかということをお考えいただきたいと思いますね。三浦之助と夫婦になりたい純な乙女心につけこんで周囲が彼女に父親殺しを強制する芝居に、現代の観客が共感出来るでしょうか?そのような封建思想だか女性蔑視の時代錯誤の倫理感覚に、現代の観客が共感出来るでしょうか?芝居を解釈する時には、役に共感できるかということを常に考えて欲しいと思います。そうすれば解釈は落ち着くべきところに自然と落ち着くはずです。

吉之助が「絹川村閑居」について思うところは、こういうことです。三浦之助も母長門も、時姫を愛し 、彼女が嫁に来てくれることを心から嬉しく思っているのです。彼らはみんな時姫を喜んで迎え入れたい。しかし、過酷な状況がそれを許さないのです。戦いで京方は追い込まれ滅亡寸前のところまで来ています。状況はもはや時姫にそのような頼みをせねばならないほど絶望的です。面相に入墨されて別人にすり替わる高綱も、そのようなゲリラ戦法を取らなければ一発逆転が出来ないから、そうせざるを得ないのです。ということは、時姫にまでそのような頼みをせねばならないということは、彼らがどれほど時姫を嫁として受け入れているか、どれほど時姫を愛しているかということの証に他ならないのです。そこのところが分からないと、この芝居は「すべては時姫に時政暗殺を迫る計略であった」ということになってしまいます。

もうひとつ、時姫が父時政の娘であることと、三浦之助の嫁であることを秤に掛けて後者を選んだと考えてはならないということです。三浦之助は時姫にとって許嫁であり、つまり時姫は三浦之助の妻になる為にこれまで育てられて来たのです。時姫が三浦之助のために尽くすことは、彼女が本来勤めるべき仕事です。それは三浦之助を許嫁に定めた父時政の言いつけを守ることでもある。だから、時姫には父を裏切るという感覚はないのです。「どんな状況であっても・たとえ父親 を殺してでも・夫に尽くせ」という状況になって、時姫が自己のアイデンティティーにどれほど忠実であるかが試されることになります。(別稿「超自我の奇跡」において八重垣姫で同様の問題を論じていますから、ご参考にしてください。)

「親に付くか、夫に付くか、落ち付く道はたった二つ、ササ返答いかに、思案いかに」と迫られた時、魁春の時姫はパアッと輝きます。それまでも時姫は三浦之助の家にあり嫁として受け入れられようと頑張って活き活きしていますが、この場面において時姫の感情に或るスイッチが入ります。その瞬間、時姫のアイデンティティーが立つことになる。その高揚感があるから、幕切れの引っ張りの時姫が引き立つのです。 状況にがんじがらめにされた時姫から、パアッとエネルギーが放たれます。魁春の時姫は、そこが素晴らしいですね。それはやるべきことをきっちりやっているからです。これほどの時姫ならば、魁春が演じる八重垣姫も、きっと素晴らしいに違いありません。是非見たいものです。

*併せて別稿「音楽的な歌舞伎の見方」で「鎌倉三代記」に触れていますから、これも是非お読みください。


(H26・5・25)


○海老蔵の幡随長兵衛

黙阿弥の「極付幡随長兵衛」は明治14年10月春木座で九代目団十郎が初演したもの。元禄の侠客幡随院長兵衛の芝居は数多いですが、今では長兵衛と云えばこの芝居となるのは「極付」と表題にある通り、長兵衛ものの決定版とすべく、実録風に長兵衛の真実を描こうという黙阿弥の意図があったからです。つまり、この芝居についてはそういう言い方がされないようですが、演劇理念的には活歴だということです。活歴というのは、九代目団十郎が明治初期に熱を上げていた、在来歌舞伎の荒唐無稽を排し史実を重んじて歴史上の風俗を再現しようとする演出様式を言います。活歴物は現在ではほとんど上演されません。活歴は演劇改良協会の指導のもと 九代目が推し進めたもので、彼らの攻撃目標は旧来歌舞伎の象徴たる黙阿弥でした。その黙阿弥の「この俺なら活歴でも君たちよりずっと良いものが書けるよ」という気概を示したのが、この「極付幡随長兵衛」であったと吉之助は思うわけです。初演の九代目はこの長兵衛を演じながら、どんなことを思ったでしょうか。福地桜痴なんぞよりやっぱり黙阿弥の方がやってて気持ち良いと思ったのではないかな。

どんな芸術作品でもそれが成立した時代の思潮の影響を受けるものです。本当のところは旗本奴も町奴も同じ無頼漢で、どちらも町人の嫌われ者でした。恐らく事実は、この「極付幡随長兵衛」のような綺麗なドラマではなかったでしょう。しかし、この黙阿弥の芝居では、武士の横暴な振る舞いに敢然と抵抗した庶民の代表幡随長兵衛という構図に仕立てられています。これは封建社会の江戸の世が終わった直後の、明治初期の庶民の気分が反映したものに違いありません。これが史実通りでないから良くないとか云うのではなく、吉之助はまさにそのような受け入れ方をされて来たからこそ、この芝居は人気があったということを大切に考えたいと思います。因縁付けられて理不尽に殺されるということが分かっているのに敢えて死地に赴くというところに庶民は長兵衛の「男」を見たわけで、その見方はあながち間違っているとは言えません。

そこで今月(5月)歌舞伎座の、海老蔵演じる幡随長兵衛は死ぬことの悲壮感より「俺は死ぬことなんか恐がっちゃいねえんだぞ」というような強がりが来る感じであり、そこが元禄の町奴の気分・つまり市川家の荒事の気分にどこか通じるところがあると云う、これはとても面白い長兵衛でしたね。死ぬ覚悟が出来ているかということなら、長兵衛を演じる役者ならもちろん誰でもそうですが、海老蔵の場合は、死ぬ気で相手にぶつかっていく気迫がドンと塊になって伝わってくる。肚芸というのともちょっと違って、芸というよりそれ以前の、これが海老蔵という役者の大きさというものでしょう。

(H26・5・18)


○幸四郎の髪結新三

今月(4月)歌舞伎座での幸四郎の髪結新三ですが、先月(3月)の按摩道玄もそうでしたが、散文的な演技に感じられるかも知れません。音楽美・様式美に寄りかからない行き方であるので、ちょっと新劇の時代劇っぽい感じに見えなくもなく、人によって好き嫌いがあるところかと思いますが、そこに幸四郎の主張がよく出ているのです。サバサバとした乾いた感触が、写実味に通じます。吉之助は、黙阿弥劇はねっとりと様式美に浸るよりも、散文的な台詞回しの方がましだと考えます。「黙阿弥の七五調を歌うものだなどと思ってはいけません」といつもサイトで書いているくらいですから、幸四郎の髪結新三は悪くないと思います。

出来としては富吉町の新三内の場が良いようです。幸四郎の髪結新三は上総無宿の入墨新三という陰のあるところを強く出しているところに、何となく十七代目勘三郎の感触を思わせます。そういう暗い陰が差すところは、息子の十八代目勘三郎よりも(十八代目の個性は陽性でありましたから)、むしろ幸四郎の方によく出ているかも知れません。中村屋をイメージしながらも、そこを幸四郎の個性で工夫し味付けしたという ところでしょうか。そこで見られる愛嬌もあざとくなく、幸四郎の持ち味として十分楽しめるものに仕上がっています。

しかし、永代橋の場での新三が忠七を蹴倒して言う長台詞は、もう少し工夫が必要です。この長台詞には、ツラネと呼んでも良い様式的な要素がやはりあるのです。ここの箇所には写実の芝居に刺さり込む時代の感触が欲しいのです。ここを散文的にサラサラやると、やはり物足りない。ブレヒトは「三文オペラへの註」のなかで、劇中ソングについて次のように書いています。

『歌を歌うことで、俳優はひとつの機能転換を行なう。俳優が普通の会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りを見せるほどいやらしいことはない。普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない。高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。』(ブレヒト:「三文オペラへの註」〜ソングを歌うことについて)

但し書きを付けねばなりませんが、黙阿弥の長台詞はソングではないのです。永代橋の新三の長台詞は感情が高められた台詞です。それは前後の写実の会話と、はっきり分離されねばなりません。その境目が見えないようでは、面白くなりません。そこは 、ブレヒトの言う通りなのです。十七代目勘三郎のこの場面の長台詞は、そこの境目をくっきりと付けていました。特に「・・相合傘の五分と五分」の箇所、そして「覚えはねえと白張りの・・」の部分は、これでもかというほど時代に張っていました。そこをサッと世話の息に返すから、時代 と世話の生け殺しが利くのです。(昭和56年5月歌舞伎座での十七代目勘三郎 の映像が遺っていますから、ご覧になると良いです。)時代と世話の局面の境目をもっと明確にすれば、黙阿弥劇の面白さが生きてくるのです。富吉町の新三内の場もそこを工夫すれば、さらに面白くなると思いますが。

(H26・4・21)


○三津五郎復帰

今月(4月)歌舞伎座を見てきました。何と言っても嬉しいことは、病気療養していた三津五郎の舞台復帰です。大役を一か月演じるにはまだ体力に自信がないとのことでしたが、元気な姿を見ることが出来て安心しました。無理せず、徐々に身体を慣らして欲しいと思います。いずれ大役を見せてくれることになるでしょう。三津五郎は故・勘三郎とは同世代で、つまり吉之助とも同世代ということですが、同世代の星として長生きしてもらいたいものです。

久しぶりに三津五郎の踊りを見て改めて感心することは、この優の踊りは基本にとても忠実なことです。かと言って四角四面に踊るというというのとは全然違って、自由自在に踊っているようでいながら・終わってみるとそれがすべて規格にぴったり納まっていたという感じなのです。ああ良いものを見せてもらった・・という気にさせられます。今回の「靭猿」でもさりげない踊りのようでいて、ホントに見応えがします。

三津五郎の踊りほど、振りの大切さを考えさせるものは滅多にありません。別稿「踊りの振りの本質」で触れましたが、例えば「右手を横に大きく振る」という振りがあったとして、右手を横に差し出していく動作が振りなのでしょうか。そうではなくて、右手を出し切って・指先を伸ばして決める、その形をしっかり取ることが重要なのです。動作はその過程に過ぎません。その瞬間の形を観客にしっかりと印象付けて、その形から瞬間に抜け出る、そして次の振りに向かうという繰り返しが踊りであると吉之助は考えます。優れた踊り手は、その瞬間の形を観客にしっかりと印象付ける十分な時間だけ維持出来るということです。それはほんのコンマ何秒という瞬間なのだけど、そ の形をどこまで長く保てるかということです。そこを我慢できないと、瞬間の形が観客の印象に残って来ません。そうすると形が流れてしまうのです。いくら勢いが良くでも、踊りが 粗い印象になってしまいます。三津五郎の踊りは、それがしっかり出来ている踊りです。

芝居というのは年期を経れば晩年に向けて芸がますます良くなるということもありますが、踊りというのは心技体の三要素の兼ね合いになるので、やはり見ておくべきピークの時期というのが必然的にあると思います。三津五郎・58歳、まさに踊りがピークの時期です。これからの三津五郎の踊りは、しっかり見ておきたいと思います。(付け加えますが、もちろんお芝居もです。)

(H26・4・13)


○過去の舞台映像を見ることの意義

「舞台映像(ビデオ)見ても・そこに演者の呼吸やタイミングなどは記録されていない」なんてことを言う方が未だにいるらしいことは、困ったことだと思います。まあ他人様のことはどうでも良いですが、そう仰る方は映像から呼吸を読もうとする気が端からないだけのことです。吉之助は映像から演者の呼吸を読むことは出来ますから、批評の材料に映像を積極的に取り入れています。「十八代目中村勘三郎の芸」は勘三郎の舞台映像を改めて見直して書きましたが、吉之助も故・勘三郎を約40年見てきたのだから、記憶だけで書いてもそれなりに書ける材料は持っています。 それでも「映像を材料にした解析」を全面に出したのは、生(なま)信仰の強い歌舞伎批評に一石を投じたいから、敢えてそうしたのです。生の舞台なら息が分かるけど、映像ではそれが分からないなんてことは絶対にありません。

八代目三津五郎が武智鉄二と一緒に、豊竹山城少掾の古い録音(古靱大夫時代)を聴いていて、「アッ、(相三味線の三代目)清六さんは息を詰めて弾いてはる」と叫んだそうです。これは別に三津五郎が名人だから録音を聴いても呼吸を読めたということではありません。自分の呼吸を音曲の呼吸に合わせて聴いてさえいれば、当然の如く分かることなのです。大正時代の・貧弱な音質の録音であっても、そういう情報はちゃんと入っているのです。自分の呼吸を対象の呼吸に合わせるなんて御大層なことに思うかも知れませんが、みなさんが好きな音楽を気持ち良く聴いている時は、みんな自分の呼吸が音楽の呼吸に合っている、だから気持ち良いわけですね。逆に言いますと、気持ち良くない場合は、何かの理由で自分の呼吸が対象の呼吸に微妙に合わないわけです。その呼吸が合わない理由を自分のなかで突き詰めて行くならば、批評が書けます。その理由を突き詰めないで「気持ち良い・気持ち良くない」だけで終わるならば、それはただのご感想です。批評と感想の違いは、そこだけです。

最近の役者さんの間では、過去の先人の映像をポータブル・ビデオなどで再生して台詞や動きを参考にするという方が増えているようです。それをとやかく言う人がいますが、漫然と見て手順だけ を真似るのなら、確かに効果はないでしょう。しかし、それならば舞台袖で芝居を見ても同じことです。(そう言えば黒衣も着て袖で先輩の舞台を見て学ぶなんて風景は近頃あまり見掛けないようであるが。)しかし、自分の呼吸を対象の呼吸に合せることが出来るならば、 効果は確実にあるのです。昔ならば、御曹司は芝居を良く知っているお弟子さんなどに教えてもらえて・駄目出しもしてもらったわけでしょうが、今の御曹司はそういう人がいないのだから、 現代においては伝統を継ぐということも孤独な作業であるなあと思います。吉之助は、残念ながら、伝統芸能は過去の名人の映像や音源を頼りにして芸を取っ掛かりを自ら求めて行かねばならない時代に入ったと思います。これは鑑賞する側にとっても同じことで、だから過去の映像が、ますます大事になってくるのです。とにかく大事なことは、自分の呼吸を対象の呼吸に合せようとする気持ちです。

故・十二代目団十郎がテレビのインタビュー番組でこんなことを語ったのを見て、えらく驚いたことがあります。十二代目が初役で助六を勤めることになった時、助六の出端の踊りの振りが分からない。父親(十一代目)はとっくに亡くなっていて、教えてくれる人がいない。それで途方に暮れていたら、誰かが十一代目の舞台の8ミリフィルムを探して来てくれた。それで動作は分かったが、音声がないので今度は振りの細かいところが分からない。それでまた困っていると、しばらくして、NHKに十一代目の舞台映像が音声付きで残っていることが分かって、それで事なきを得たと、十二代目が笑って 語ったのです。

多分十二代目団十郎は冗談っぽく面白おかしく脚色して語ったのだと信じますが、吉之助が驚いたのは、元禄から続く市川宗家に助六の出端の踊りの記録が何もないらしい?十一代目が亡くなったら周囲にそれを知っていて教えてくれる者が誰もいないらしい?というお寒い現実を知ったということもあります(イヤ伝統芸能というのは危なっかしいところに立っているものだね)が、もっと驚いたのは、十一代目の舞台の8ミリフィルムでは「音声がないので振りの細かいところが分からない」と十二代目団十郎が笑って言ったことです。助六の出端の河東節は分かっているのだから、8ミリフィルムを見て想像すれば、振りの息は分かるはずではないのか。これで分からないのなら、振り付け帳を見ても踊りが分からないのではないか?音曲の呼吸から想像するならば、音声がない8ミリフィルムを見ても舞台の息は推測出来るはずではないか。十二代目団十郎さんも悪い冗談はやめて欲しいと思います 。

そういうわけで、あの十二代目団十郎の・・ということは必然的に現在の十一代目海老蔵もそういうことになるわけですが、もしNHKに十一代目の舞台映像が音声付きで残っていなければ、助六の出端の踊りの振りが、今とは全然違ったものが出来ていたかも知れないと云うことを想像してみると、ちょっとゾッとして来ませんか。

(H26・4・6)


○大阪人の野性味

吉之助が折口信夫に傾倒していることはご存知の通りですが、折口の短歌の領分(つまり歌人釈迢空)についてはまだ知らないことが多い。その迢空の大正7年の文章に「茂吉への返事」と題するものがあります。「力の芸術家」を標榜する・田舎人斎藤茂吉に対して、迢空が「私は都会人です、しかし野性を深く遺伝している大阪人です」ということを言っています。そのなかに歌舞伎に関連して 吉之助に興味深く感じる記述があるので、ここに引用します。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

折口信夫文芸論集 (講談社文芸文庫)

ここで折口は「大阪人の野性味」ということを指摘しています。このことは近松門左衛門・そして彼の作中人物に発する上方和事芸の本質を考える時に、とても大事な点なのです。現代ではそれが「つっころばし」に代表される、ナヨナヨした・同じ仕草を行ったり来たり繰り返ししつこくやるのが上方芸みたいに思われています。どのような過程でそんな風に変質してしまったのかも、興味があるところです。吉之助が思うには、大阪人の野性味ということは気質としては、近松の時代から現代まで、ずっと繋がって来ているのだけれど、個々の時代感覚としては途切れているのだろうと思います。家系の変転が激しくて時代感覚が 連続して来ないので、同じ大阪人であっても昔のことはリアリティを持ってこないということかも知れません。上方和事芸の変質は恐らくそのことから来ます。このことは伝統というものに対する東京と大阪の態度の違いにも表れます。

しかし、平成の世において上方歌舞伎を復興しようとするならば、「願わくば近松の野性味を以て現代人を戦慄せしめよ」と言いたいですね。上方歌舞伎復興の手掛かりは、多分そこにしかないと思います。

(付記:別稿「上方歌舞伎の行方」をご参照ください。)

(H26・3・30)


○幸四郎の道玄・梅玉の松蔵

平成26年3月歌舞伎座・「盲長屋梅加賀鳶」の幸四郎の按摩道玄は、東京では三回目になります。平成19年6月歌舞伎座の時(2回目)については観劇随想で取り上げて、吉之助はちょっと辛口に書きました。もともと幸四郎は陰のある悪の凄みの表現に長けた役者ではあります。道玄は幸四郎に仁の役だと思いますが、2回目の時は愛嬌・と云うかおかしみを加えようとして、表現が水と油みたい に溶け合わず、そこがどうも居心地が悪い感じがしたものでした。しかし、今回(3回目)を見ますと、相変わらずおかしみの表現はあるものの、わざとらしさがなくなって、これはこれで幸四郎の持ち味として受け入れられるくらいに塩梅が良い感じに収まったようでした。そこに道玄という役をものにした幸四郎の余裕を見る思いでした。2回目と比べてはるかに良い道玄です。

ひとつには、梅玉の松蔵との相性の良さがあったと思います。梅玉はちょっと見の押し出しは弱い感じがしなくもないけれども、実際見てみると堂々たる親分で感心させられました。梅玉の松蔵が良い点は、台詞を歌い上げるようなことをせず・あくまで台詞としてしっかりとした足取りで、生きた七五調をしゃべることです。例えばお茶の水殺しの幕切れの松蔵の「アア按摩か」という台詞は、聞かせるための台詞ではありません。按摩の笛の音で冴え渡る舞台の雰囲気を世話でサッと切り上げて、道玄の花道の引っ込みをじっくり見せるための段取りなのです。梅玉はそういうことが良く分かっています。梅玉の松蔵は派手な感じがないように見えて、台詞が決して様式的な(つまり音楽的だが様式美だけの)定型に陥ることがない。だから本郷木戸前勢揃いでの梅吉(幸四郎)との対決も、
伊勢屋店先での道玄 との対決でも、しっかりドラマに出来ています。相手役が梅玉であることで、幸四郎がどれだけ助かっていることか。おかげで幸四郎の方も肩に余計な力を入れる必要がない。幸四郎の余裕はそこから出ているのです。芝居というものはつくづくアンサンブルであると思いますね。

(H26・3・23)


○吉之助の最初の書籍本・その後のことなど

御存じの通り、昨年(平成25年)11月28日に吉之助の最初の書籍本:「十八代目中村勘三郎の芸」がアルファベータより発売となりまして、3ヶ月を過ぎました。お陰様で無名の新人の最初の本としては、まずまずのスタートかなと思っています。あとは読者の皆様がお知り合いに紹介してくださるとか、 クチコミでじわじわ広がっていけば良いなあと思います。目下のところ、まだ詳細は明らかに出来ませんけれど、現在2冊目の構想に入ってますので、これも近いうちにお知らせできるものと思います。

吉之助の「十八代目中村勘三郎の芸」に関しては、対象(勘三郎)を突き放して見るその冷徹さ・批評眼が、故・勘三郎の熱い演技に共感を抱いているファンの方にどの程度受け入れられるかという心配をしていましたが、少なくとも吉之助の元にはそのような反応は来ておりませんので、まあまあ受け入れてもらえたかなと思っています。現在のところ 書評はそう多いわけではないけれど、ネットで読めるアマゾンでのレビュー記事や、サイトの書評的記事( 、リンク 貼らせていただきます・有難うございます) は、いずれも吉之助が意図したところを正しくお汲み取りいただきました文章で、大変有難く思っています。吉之助の意図したところは、役者(というか人間)勘三郎への個人的思い入れというところにはなく、少なくとも明治から昭和〜平成の百年ほどの歌舞伎史の流れのなかに役者勘三郎をどう位置付けるか、その役割を世間が彼にどう期待し・本人が これをどう認識して・期待に応えようとして奮闘し・そしてその途上で倒れたということについて、吉之助なりの見方を提示するということにありました。勘三郎が亡くなってから一年と三か月が経ちました。その間に新聞雑誌 あるいはネットにさまざまな論評が出ました。それらは役者(あるいは人間)勘三郎についてそれぞれの側面を見せてくれたと思いますが、歌舞伎史のなかに故・勘三郎がどういう位置にはまるかについて、そのような視点で論じた文章を他で あまり目にしないのは、残念なことです。人気役者が亡くなって悲しい・残念だみたいなことは誰でも書けます。しかし、歌舞伎批評の場合には、どんな場合でも、 演劇史観的な視点が常に必要なことだと思うのです。

一方、故・勘三郎が演じた役の数々を時系列を追って振り返って見てみると面白いことが見えてきます。吉之助の「十八代目中村勘三郎の芸」をプロデュースしてくださったのは作家・中川右介氏(アルファベータ社長でもある)であることは御存じの通りですが、これは意図してそうなったわけではなく・結果として同時出版になってしまったのですが、中川氏の方は十八代目中村勘三郎 全軌跡(朝日新聞出版) を上梓されました。しかし、期せずしてこの2冊は対みたいな関係になったようで、吉之助の本をお読みいただいた後で、中川氏の本を併せて読んでいただきますと、 その淡々とクロニクル的に綴った記録のなかから、戦後昭和から平成までの歌舞伎の流れとシンクロする何かが見えてくると思います。良い役者は大勢いますけれど、実は生涯を俯瞰してそのような 魅力的な一冊が出来る役者は決して多くはないのです。それは 芸の巧拙とかと直截的に関係がないことで、その役者が彼が生きた時代とどう対峙しているかということです。勘三郎が時代の空気を取り込んで、何か強い反応をしているから に違いありません。平成の・少なくとも十年くらいは、確かに勘三郎を中心に歌舞伎は動いたと言って良いわけで、勘三郎の役者人生が平成の何かとしっかり重なります。そういうわけで、吉之助の本をお読みいただいた方には、併せて中川氏の「全軌跡」をお読みになることをお薦めします。

第5期・歌舞伎座が開場し柿茸落興行も、来月(4月)で一段落が付くことになります。華やかな舞台を楽しみながらも、ふと舞台に勘三郎が・そして団十郎がいないという思いがよぎります。この空白感が結構強く胸に来るのは、歌舞伎座が閉場・再開場ということで・時代の区切り感覚が強いからかも知れません。それでも歌舞伎は続いていくわけですが、歌舞伎は伝統芸能でありますから、芸は過去に発し・常に過去から批評され・過去から鼓舞されべきものです。そのようなことを考えるきっかけとして、吉之助の「十八代目中村勘三郎の芸」が役に立つのであるならば本望であると思います。

(H26・3・16)


○吉右衛門の弁慶・菊五郎の富樫

平成26年3月歌舞伎座・夜の部・「勧進帳」は、吉右衛門の弁慶・菊五郎の富樫の共演でありました。吉右衛門の弁慶は、吉之助もこれまで何度か見ましたが、「主人義経を何としても守り抜かねばならない」という覚悟と気迫においては、吉右衛門はこれまでも優れた弁慶を見せてきました。しかし、吉右衛門の弁慶は残念ながら甲の声が遣えなくて荒事の発声がいまひとつのところがありました。例えば「先代萩・床下」の荒獅子男之助でも「きりきり消えてなくなアれエ」の甲の声がうまくないので、荒事にならない。そういうところがあるので、これまでの吉右衛門の弁慶は、勧進帳の読み上げから山伏問答を聞くと、台詞回しのうまい人ですから台詞の文句はよく聞こえる点は良いのだけれど・言葉を噛み砕いて聞かせてくれる(つまり台詞の意味に重きを置いた)感じで、歌舞伎十八番の台詞のしゃべりの技術・次第にアッチェレランド(テンポがだんだん速くなっていく)という音楽的な側面において物足りないところがあったのは事実です。吉之助が吉右衛門の弁慶を、肚においては十分であったということを認めつつも・これまで高く評価してこなかったのは、この点にありました。

しかし、今回の吉右衛門の弁慶は、勧進帳の読み上げから山伏問答において言葉を噛み砕いて聞かせる行き方は同じ・甲の声がうまくないのは同じであるとしても、言葉のリズムで押す感じがよく出てきて、滑らかな音楽性は出ていないとしても、アッチェレランドと同じような・アジタートな(急き立てる)効果がよく出せていて感心させられました。これは、ひとつの行き方として評価が出来ます。吉之助がこれまで見た吉右衛門の弁慶のなかでも、一番良い出来であると感じ入りました。まことに吉右衛門の円熟を見る思いです。

吉之助が感じるには、これには吉右衛門の弁慶と・菊五郎の富樫との相性の良さということもあったと思います。というのは、菊五郎は、昨年(平成25年)4月歌舞伎座で「勧進帳」で幸四郎の弁慶に富樫で付き合っていますが、基本的にはその時と行き方を変えていないからです。その時の富樫について吉之助は「菊五郎の富樫は問答で押す感じがしないが、問答のテンポは富樫が作るものですよ」と不満を書きました。今回の菊五郎の富樫も行き方としては同じで、問答で押す感じがあまりしません。しかし、この行き方が吉右衛門の弁慶には妙に似合うのですな。富樫が押さないで・ドンと構えているから、弁慶が気迫で押してぶつかって行くという構図になっているのです。そうなると吉右衛門の台詞術が生きてきます。結果として菊五郎の富樫も生きるということになる。言葉が粒立ち、しかも急き立てる効果が出た、見事な山伏問答に仕上がったと思います。芝居というものはアンサンブルであるなあと、つくづく思いますねえ。これまで吉右衛門と菊五郎はさほど共演が多くなかったように思いますが、親戚になったことでもありますから、これからの共演が楽しみであると、そういうことを思いました。

(H26・3・9)


○若手花形の「白浪五人男」

平成26年2月歌舞伎座・夜の部は、菊之助の弁天小僧・松緑の南郷力丸らによる若手花形の「白浪五人男」の通しは、なかなか楽しめました。別稿「柿葺落興行の弁天小僧において触れ ましたが、「白浪五人男」という芝居が本来持つ或る種の安手な感触、時代のなかに刺さり込む世話のパロディ的な意味が、この若手花形の舞台から実感出来ます。これは意図して出せる感触ではなくて、若い肉体だけが醸し出す感触から来るものです。やがて彼らの芸にも、適度なたるみが付いて、たっぷりし た脂が乗った濃厚な感触になっていくことでしょう。そうやって父親たちの世代の「弁天小僧」に近い練れた本格の感触になっていくでしょう。これが芸の道程というものなのです。しかし、吉之助はもちろん父親世代の「弁天小僧」を貶めるつもりはまったくなく、どちらの世代の芸にも、その世代なりの芸の楽しみを見つけることが出来 ます。

ところで若手花形の七五調ですが、例えば稲瀬川勢揃いの台詞を聴くと、総じてみんな散文的な台詞回しに思われました。台詞を聞いて観客が意味を取れることは良いことです。ダラダラ調でゆっくりと「イワモトインノチゴアガリ」と歌われても、何と言っているのだかよく分からない。菊之助が演じる弁天小僧では、ちゃんと「岩本院の稚児あがり」と聞こえます。これは良いことです。ただし、散文的でパサパサとした感触 で、黙阿弥の様式的な感覚がやや乏しいことも確かです。そこに一長一短があります。これは菊之助だけのことではなく、若手世代の黙阿弥 の七五調に共通して言えることです。まあこれが吉之助が云う安手感覚とどこか相通じるということも確かなのですがね。

「世話物の台詞は写実に根ざすべき」ということはその通りで、散文的な台詞回しになることは決して間違いだと云うことでもないのです。吉之助は「黙阿弥の七五調を歌うものだ などと思ってはいけません」といつも書いています。ですから吉之助はねっとりと様式美に浸るよりも、散文的な台詞回しの方がいくらかましだと思います。しかし、稲瀬川勢揃いの名乗り、あるいは浜松屋での 見顕しなどの聞かせ所は、 これは厄払いの様式を借りたものですから、やはり様式的な感覚がちゃんと表出できねばなりません。それでないと黙阿弥にならないのです。大事なことは、写実の台詞回しのなかにどのように様式的な感覚を加えるかです。五人男のなかでは赤星十三郎を演じる七之助がいくらかそのように聞こえるのは、赤星という役が持っている女形の台詞 術の要素が様式的な感覚にどこか通じるからです。しかし、黙阿弥の七五調のなかの写実性と様式性にどう折り合いを付けていくかということになれば、結局、大事な ことは言葉のリズムだということが分かってくると思います。 黙阿弥の七五調のリズムは七が早く・五はゆっくりの変拍子だということは、吉之助はこれもサイトのなかで何度か論じています。(詳しくは別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をお読みください。)

恐らく前の世代のダラダラ調の流れ からの揺り返しあるいは反省が、今の若手の世代に起きているのだろうと思います。これは現象としては、台詞の速度が心持ち早くなることに表れます。台詞を意味を取れること自体は良いことですが、ゆっくりしたダラダラ調の流れの台詞の速度を ただ早めただけでは、今度はパサパサの散文調に陥るだけです。それは一語一音二拍子の基本の流れが変わっていないからです。ですから(これは黙阿弥に限ったことではないのだけれど)言葉の持つ抑揚と、それを生かすための台詞のリズム、イントネーションをもっと研究していく必要があります ね。そのようなかたちで彼らの台詞術が練れていくならば、これからの黙阿弥はもっと良い方向へ向かうと思うのですが。

(H26・3・1)

青砥稿花紅彩画 (歌舞伎オン・ステージ)


○「九段目」における戸無瀬と小浪・その4

一方、今回(平成26年1月歌舞伎座)の「九段目」の舞台では、残念ながら扇雀の小浪は良い出来とは言いかねます。最初の「アノ力弥様のお屋敷はもうここかえ。わしや恥かしい」は 、「わしや恨めしい」と言い出すのかと思うくらいに、暗く粘っています。扇雀の小浪は、最初から「力弥と添い遂げられないならば生きてはいない」という悲愴な雰囲気であって、そういうことならばそれなりかも知れませんが、それならばこの台詞の直前の床の文句「谷の戸あけて鶯の梅見付けたるほゝ笑顔」をどう読むのか ということを問いたいですね。これは恋しい力弥の家にやっと辿り着いて、ここが彼の家なのね、嬉し恥ずかし・・という台詞ではないのですか。これではまるで小浪の性根が違います。「アノ母さまの胴欲な事おつしやります・・」以下の小浪の述懐では、扇雀はもう糸に乗り過ぎで、踊るが如し。こういうところに義太夫の修練不足が露呈しています。「力弥様よりほかに余の殿御、わしやいやいや・・」などは駄々っ子の如しで、小浪の 清らかな感情が伝わって来ません。しかし、吉之助が思うには、このような扇雀の勘違いは、そもそも藤十郎の戸無瀬の感触の重さから発していると感じます。藤十郎の戸無瀬が「何としても娘小浪を大石家に嫁がせて見せる、それが叶わないならば生きてはいない」というところを前面に強く出し過ぎであるので (前項で書いた通り・それはもちろん間違いではないのですが・強過ぎるということ)、扇雀の小浪もその線で構築されているからです。

繰り返しますが、小浪登場時の「谷の戸あけて鶯の梅見付けたるほゝ笑顔」という文句は、小浪の性根を読むための、とても大事な文句です。ここに聞こえるのは、判官刃傷・御家断絶・そして塩治家中の者たちはどうするなどという事情は小浪にとってまったく関係なく、小浪にとっては恋しい許嫁に合えることだけがただ嬉しいと云う、無邪気なほどに純真無垢な乙女の喜びです。小浪が力弥と夫婦になれそうにないと思った時、彼女が「殿御に嫌はれわたしこそ死すべき筈。生きてお世話になる上に苦を見せまする不孝者。母さまの手にかけてわたしを殺して下さりませ。去られても殿御の家こゝで死ぬれば本望ぢや、早う殺して下さりませ」と言うのは、社会道徳とか・恥の概念だとか、あるいは生きることへの絶望から来ると思う方がいるかも知れませんが、決してそうではありません。戸無瀬の場合には確かにそのような感情も絡みますが、小浪の場合はそうではないのです。小浪にとって死ぬということは、もっと純粋に個人的な、恋しい力弥と夫婦になるという目的の貫徹だということです。小浪は、そこまで思い詰めているということです。

このことから「九段目」のドラマを考えるならば、次のように読めます。小浪にとっては世間のことなど関係ない。小浪はただひたすら許嫁力弥と添い遂げることだけを願っています。このような小浪の思いは、まったく純粋無垢で暖かい血の通ったもので、人間が生きることの本来の喜びを訴え掛けるものです。大人たち・本蔵夫婦と由良助夫婦にとってもそれはかつて持っていたはずのもので、今はやむを得ぬ事情により捨てざるを得なくなってしまったけれど、彼らもずっと守っていたかった・決して失いなくなかったものでした。注を付しておきますが、それは若者がキレイで大人が汚れているということではありません。社会に生きていくなかで、人は否応なしに状況に適応し 、時には妥協し・人間的な感情を抑え込んで生きていかざるを得ないのです。それが生きて行くということなのです。しかし、本蔵夫婦と由良助夫婦にとって、小浪という存在は、それを失ってしまったらこの世が無味乾燥の世界に変わってしまうような大事なもの、それゆえ絶対に守ってやらねばならぬ・その願いを叶えてやらねばならぬと切実に思うような・とても大事な存在であるのです。ですから小浪というのは、ひたすら清らかで、純粋無垢なヒロインなのです。

「九段目」における小浪の思い とは、偽りの世界・つまり建前や義理が優先する世界を、実(まこと)の世界・すなわち人間的な感情が発露できる世界に変えようとするものです。この小浪の思いを叶える為に、大人たちはその身を犠牲にすることで、彼ら(大人)が生きる 社会の論理との折り合いを付けなければなりません。それが「九段目」のドラマなのです。ここで吉之助は、真山青果の「元禄忠臣蔵」シリーズ第1作・「大石最後の一日」(初演・昭和9年2月・東京劇場)のヒロインおみのを思い出します。おみのは磯貝十郎左衛門に逢わせてくれと、内蔵助に執拗に食い下がります。おみのはこう言います。

『一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りに終りますまい。実(まこと)のために運ぶことも、最後の一時を偽りに返せば、そは初めよりの偽りでございましょう。(中略)十郎左さまにさえお目にかかれば、やがて必ず誠に返してお目にかけます。十郎左さま方便の偽りも、おみのは 誠に返してお目にかけます。どうか、どうか十郎左さまに、お引きあわせを願い上げます。』

昭和の新歌舞伎のヒロインであるおみのは、積極的に自分の心情を告白し、その実現のために能動的に行動します。一方の小浪は、これは江戸時代の歌舞伎のヒロインですから、ただ状況に翻弄され、泣くだけで・何ら行動はしないように見えます。しかし、小浪の心情のなかには、間違いなく、おみのと同じ心情が熱くたぎっています。すなわち「その偽りを私が実(まこと)に返してみせます」ということです。ですから「九段目」のドラマを昭和の感性において書き換えて見せたのが、青果の「大石最後の一日」だということなのですね。

(付記)「大石最後の一日」のヒロインおみのの心情については、別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。

(H26・2・16)


○「九段目」における戸無瀬と小浪・その3

吉之助は、戸無瀬は刀の使い方を知らない女性であると想像します。そのことをもう少し考えます。戸無瀬が本蔵の後妻であることは、「九段目」で戸無瀬が小浪に対して「そなたは先妻の子・・」と言っていることで分かります本蔵と戸無瀬との関係は、歌舞伎では上演されない「二段目」を参照すると、何となく分かってきます。鶴が岡(大序)で若狭助が師直と口論になったという噂を心配して戸無瀬が本蔵に尋ねます。これに対して本蔵は、「一言半句にても舌三寸の誤りより。身を果たすが刀の役目。武士の妻ではないか」とたしなめます。確かに戸無瀬は夫の仕事に気を揉んで、あれこれ口出しをしたり、立ちまわったりするところが感じられます。おとなしく夫にかしづくタイプではなさそうです。饗応の打合せで力弥が来たことを知ると、戸無瀬は仮病の癪を装って応対の役を小浪に任せてしまったりします。小浪が許嫁の力弥に逢いたがっているのを知っているからです。戸無瀬は、機転が利いて世話好きな・ざっくばらんな性格の女性のようです。

ここから推察されることは、恐らく戸無瀬は 町人階級出身なのだろうということです。本蔵のお傍で女中奉公していて、見初められて後妻に納まったということかも知れません。本蔵に「武士の妻ではないか」とたしなめるのも、そう考えると良く分かります。当時、武家に女中奉公するということは、町人の娘が武士の妻になれるチャンスがあるということで憧れの就職先で、そのため町人階級では競って娘に読み書き・作法を習わせたものでした。吉之助が戸無瀬は刀の使い方を知らないだろうとする根拠は、そんなところです。

例えば「加賀見山旧錦絵」の中老尾上も町人階級出身です。町人から思いもかけず武士階級に上がった人は、「武士とはかくあるべし」という観念が普通の武士より人一倍強いようです。尾上は岩藤に辱められたことを恥じて自害します。戸無瀬は「娘小浪を大石家に嫁がせられないならば生きてはいない」という行動を取ろうとします。本蔵がそうしろと指示したわけではないのに、そのような事態になったら「生きてはいられない」という感情が、戸無瀬にごく当たり前のように生まれます。それは「武士の妻はかくあるべし」という観念が戸無瀬にとても強いからです。それは戸無瀬が町人階級出身であることに拠ります。加えて戸無瀬の場合には後妻であることで、義理の娘小浪に対して「理想の母はこうあるべし」という観念がこれまた人一倍強いのです。浄瑠璃が登場人物のバックグラウンドを綿密に考えてキャラクターを構築していることに感心させられます。

「九段目」だけ見ると、戸無瀬はずいぶんと気位が高さそうな女丈夫に見えます。これは歌舞伎では立女形が演じる役どころであること も影響しています。しかし、実は戸無瀬はか弱い女性であって、「武士の妻はかくあるべし」という観念に必死にしがみついて、理想の武士の妻・理想の母を勤め上げようとしてい ます。小浪への情愛が強い分、「あるべき論」がより強く出るわけです。しかし、そのような必死さがストレートに強く出過ぎると印象が硬く重くなってしまいます。女性の場合は、情の方に強く引き裂かれる感覚が欲しいのです。 強い乖離感覚をいなして、柔らかい・ちょっと粘った感覚で曲げて出す感じが欲しいわけです。

「二段目」との関連を考えるならば、「九段目」の戸無瀬は本当はもう少し世話の方に描いた方が良いのかも知れません。そう思って戸無瀬とお石とのやり取りを見ると、戸無瀬の「手前の主人は小身故家老を勤むる本蔵は五百石。塩谷殿は大名、御家老の由良助様は千五百石・・・」という台詞なども、何となく世話っぽ いところが感じられます。ですからそのような女性の乖離感覚は、男性の場合とは違った出方をすることが望ましい。そこに「女たちの忠臣蔵」の色合いがあるはずです。其日庵が「本蔵の出からは鍛錬さえすれば誰でも語れるが、それまでの前の部は、修業しても語れる人と語れぬ人が出来るのである」と言っているのは、そこのところが難しいのでしょう。大夫ひとりで、このような幅広い表現を実現することはなかなかハードなことなのです。(この稿つづく)

(H26・2・9)


○「九段目」における戸無瀬と小浪・その2

平成26年1月歌舞伎座の「九段目・山科閑居」は当代望み得る大顔合わせで、平成歌舞伎の成果として良いものでした。特に幸四郎の本蔵と吉右衛門の由良助が対決する後半がなかなかの出来で す。しかし、吉之助が思うには、 藤十郎の戸無瀬の持ち場の前半がちょっと重いようです。重いというのはテンポが遅いと言っているのではなく、藤十郎はさすが息を詰めた密度の高い演技で素晴らしいと思いますけれど、全体の感触として堅苦しく感じられて時代の印象が強いということです。もうちょっと「軽く」というと誤解を生じるかも知れませんが、時代の印象をいなして、柔らかい印象にして曲げて出す、そういう捻じれたところが必要であろうと思われます。そうすれば藤十郎の戸無瀬は、もっと良くなるはずです。

藤十郎の戸無瀬は、「何としても娘小浪を大石家に嫁がせて見せる、それが叶わないならば生きてはいない」という覚悟が極まっている戸無瀬です。これはもちろん性根として正しいことで 、戸無瀬については大事なことなのです。しかし、それがグッと前面に強く出過ぎると、これが「男たちの忠臣蔵」と同じような色合いを呈してしまうことになる。これでは前半の「女たちの忠臣蔵」と後半の「男たちの忠臣蔵」の、色合いの対照が付かない。そうすると「九段目」のバランスが悪くなるわけです。 「女たちの忠臣蔵」はあくまで前座なのですから。

例えば戸無瀬登場の第一声「大星由良助様お宅はこれかな・・」以下の挨拶の台詞、藤十郎の台詞回しは、これから由良助宅に乗り込む戸無瀬の覚悟のほどが感じられてまことに良いという批評もあろうかと思います。しかし、吉之助が感じるところでは、 これは重過ぎます。ここは威厳を保ちつつも、もう少し軽めの調子で言った方が良い。山口廣一著「文楽の鑑賞」のなかで鶴澤友次郎が次のように語っています。

『戸無瀬が戸口へ立って案内を乞うと、下女のりんが出てきて奥へ取り次ぐのですが、ここで戸無瀬がいう挨拶が、その家の主人ではなく下婢に向かっていっている挨拶ですから、そのつもりで少し軽い口調で申します。この挨拶を後段のお石に向かっていう挨拶と同じ調子で語っては間違いでございます。』(山口廣一・鶴澤友次郎:「文楽の鑑賞」・文章を吉之助が多少整理しました。)

鶴澤友次郎に拠れば、例えば戸無瀬が供の者に言う台詞も、あまり強い調子で言わないものです。なぜならば、八段目・道行では「腰元つれず乗物もやめて親子の二人連れ」と文句にあるのですから、九段目に出る駕籠は戸無瀬が道の途中で雇い入れたもので、国許から連れてきたものではない。だから自分の家来に言っているのではなく、昨今臨時に雇い入れた者に言っているのだとするのです。まあこれは文楽でのことで すが、実は九段目は、こういうところが難しいのです。そういうところにともすれば時代の重い武張った印象になるのを和らげようとする工夫があるのです。そういうさりげないところに、女性の色合いが出るのです。こういうことは、戸無瀬が下女に言う・あるいは雇い入れた者に言うから台詞が軽い口調になるということだけでなくて、もっと戸無瀬という役の本質に深く関連してくることなのです。さらに以降をお読みください。

もうひとつ気になることは、藤十郎の戸無瀬は、演技が「糸に乗っている」とまで言わないけれど、三味線に当たりを付けているところが散見されることです。これがよろしくない。こういうところが時代物の堅苦しい印象を生んでいます。例えば冒頭・戸無瀬が揚幕から登場し・七三で立ち止まって客席に振り返り正面を向く箇所、ここで三味線のトンに当てています。どうしてこんな箇所で当てるのでしょうかね。こうしたところでは当たりをはずした方が良いのです。あるいは小浪が死を決意し「涙とどめて立ちかかり・・」の後、小浪を見やりながら戸無瀬が大小を抱えて右足を段に下してきまる、藤十郎はそこでも三味線のトンに当てています。ここなら当てても良いところだと思うかも知れませんが、ここを当てると時代の武張った印象が強くなります。これは男の表現なのです。そこを敢えてはずす、つまり「いなす」から、女性の柔らかみが出るのです。戦後・昭和の最高の戸無瀬役者であった六代目歌右衛門の映像をご覧になれば、歌右衛門はどちらの箇所も三味線をはずしているのが確認できます。歌右衛門の芸談を見ますと、

『(戸無瀬は)役が大きくて重みがかかっていますが、政岡などとは行き方が違っています。政岡のようにあまり糸に乗って動くところが少なく、締めているだけ難しいのです。父(五代目歌右衛門)の戸無瀬はたいそう良かったと未だにありありと思い出しますが、「手の内」のきまりきまりなど、きりっとした中に何とも言えぬ柔らかみがありましたが、そんなところにこの役の特殊なものがあるのだと思われます。』(六代目中村歌右衛門:「演劇界」・昭和37年11月)

ですから、戸無瀬はできるだけ三味線に当てない・あるいは意識的にはずすことを旨とした方が良いのです。ちなみに戸無瀬という役には、「女武道の詰め開き」ということがよく言われます。詰め開きとは、駆け引き、あるいは立ち振る舞いのことを言います。それはそれで良いのだけれど、戸無瀬は政岡のような烈女とはちょっと違います。「女武道の・・」というところが、要らぬ誤解を生んでいるのかも知れません 。

ちなみに女武道について言えば、藤十郎の戸無瀬は、腰が入っていて刀の使い方を知っている女性に見えますね。バッサリと一刀のもとに小浪の首を斬ってしまう見事な腕を持っていると見えます。まあそれだけ藤十郎の戸無瀬の覚悟が極まっているということでもあるわけですが。ともあれ、戸無瀬が刀の使い方を本当に知っているか知らないか、それは本文では分からないことです。しかし、吉之助は、戸無瀬は刀の使い方を知らない、少なくとも慣れていない女性であると想像したい。だから、刀を構えた時でも、「御無用・・」の声が掛かってうろたえる時でも、戸無瀬は刀の使い方を知らない感じに見える方が良いと思うのです。ちなみに歌右衛門の戸無瀬はやや腰を浮かせ気味に取って、もし刀を振り下ろしていれば斬り損じたかなと思えました。 これはもちろん戸無瀬が本心では小浪を斬りたくないという気持ちの表われでもありますが、歌右衛門はそのような刀の使い方を知らない戸無瀬を演じたと、吉之助は思っているのです。(この原稿つづく)

(H26・2・4)


○「九段目」における戸無瀬と小浪・その1

「九段目」が浄瑠璃では超難物とされていることは、ご存知かと思います。豊竹山城少掾は「あんな恐い浄瑠璃はようやれまへん」と言って、 遂に「九段目」と「吃又」 をやらずに終わりました。「九段目」のどこが難しいのか、山城少掾はその理由について述べていません。やっていないから、芸談が残ってないのです。だから我々はその理由を想像してみなければなりません。一体「九段目」のどこが難しいのでしょうか。ところで杉山其日庵は「九段目」について、次のように書いています。

『本蔵の出からは豪(え)らいばかりで、ただの義太夫節になるのである。鍛錬さえすれば誰でも語れるが、それまでの前の部は、修業しても語れる人と語れぬ人が出来るのである。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」〜仮名手本忠臣蔵・山科閑居の段)

杉山其日庵:浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

「九段目」は虚無僧姿が本蔵の姿を現して・由良助宅に乗り込んでからの後半は豪(え)らいけれども何とか出来る、その前の部こそ難しい、つまり戸無瀬の持ち場が難しいということです。歌舞伎でも、「九段目」は大顔合わせでないと出来ない重い演目とされていますが、実際見てみると、腹にズッシリ来る手応えがある舞台は少ないようです。そもそも由良助が最後の方でちょこっと出るだけで為所が少ないので、芝居としては損な感じがします。重いと云われる割には「九段目」があまり人気がないのはそのせいかなと思います。最近はそういうことはしませんが、昔の芝居では戸無瀬と由良助の二役をよく兼ねたものでした。本蔵が出てくると戸無瀬に手紙を渡して使いにやって・それで戸無瀬は引っ込んで由良助に替わるのです。愚劣な型だと言われますが、由良助役者の気持ちを考えると、そういうことがしたくなるのもまあ分からなくもない。しかし、決してこの型を支持するわけではないですが、うがったことを考えれば、戸無瀬と由良助を兼ねるということは、「九段目」のドラマのなかでこの二役が何かを補完し合っているのかなということも、ちょっと想像してみたい気がするのです。

まず本蔵の登場を境にして「九段目」を前後に分けるとして、後半で対決するのは本蔵と由良助で、これがもちろんドラマの核心に違いありません。本蔵はもちろん死ぬ覚悟ですが、由良助に小浪を力弥の嫁にすることを承諾してもらってからでないと死ねません。由良助は本蔵の命をもらわねばなりませんが、本蔵の覚悟を確認した上で小浪を力弥の嫁に出来るかを決めねばな らない。芝居のなかで本蔵と由良助がいきなりぶつかっては二人は斬り合いをすることになり、そういうことにならずに終わってしまいます。だから二人とも自分が登場する場面を慎重に計っています。待って・待ちに待って、さあこの時だという場面で、二人は登場せねばなりません。ですから二人の急先鋒として戸無瀬とお石が前半で対決せねばならないのです。実はその背後に本蔵と由良助の目が光っています。ある意味において戸無瀬とお石は、前座として対決させられています。(これについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をお読みください。) つまり「九段目」において前半での戸無瀬とお石は、後半での本蔵と由良助とパラレルな位置にあるということです。これは言ってみれば、前半は「女たちの忠臣蔵」、後半は「男たちの忠臣蔵」ということなのです。

普通の時代物においては、世間の義理にがんじがらめに縛られた男がおり、例えば松王のように・男が自分の子供を主人の身替りにする、女はそれを嘆く・封建思想の非情を訴えるということにな ります。男は建前の論理・女は本音の論理ということになるかも知れません。これが時代物の男と女の構図であるかも知れませんが、「九段目」ではちょっと様相が違います。戸無瀬とお石は、どちらも夫から本心を打ち明けられてはいないと思います。しかし、彼女たちは夫のただならぬ様子から、判官刃傷と切腹・さらにお家断絶という事態から、夫が或る決意を持っていること が分かっています。そういうなかで、戸無瀬とお石も、否応なく男たちの建前の論理のなかにさらされています。一方、女の世界にも女なりの建前の論理があります。それは家の格式とか家風とか・家が釣り合うの釣り合わないのという話になるのです。だから表向きは小浪を力弥の嫁にするのしないのという話をしているようだけれども、そういう話をしろと夫に強制されて、恐らく真意は知らされないで、戸無瀬もお石も前面に押し出されているのだけれども、彼女たちはこれがどういう事態であるか、ちゃんと分かっているのです。これが女たちの忠臣蔵である・台所忠臣蔵であることが、戸無瀬もお石も分かっているのです。

ここで大事なことは、「女たちの忠臣蔵」と「男たちの忠臣蔵」、それぞれの局面が同じ色合いであって良いのであろうかということです。確かにキーワードは同じく「忠義」なのでしょう。忠義という論理によって、二組はそれぞれ対決しています。しかし、女たちにとっての忠義と・男たちにとっての忠義は、同じ色合いで良いのでしょうか。もし色合いが違うならば、それはどのような違いを呈するでしょうか。吉之助は、そういうことを問題にしたいと思うのですね。 (この稿つづく)

(H26・2・1)


○追悼クラウディオ・アバド

今月(1月)20日に指揮者クラウディオ・アバドが亡くなりました。吉之助がクラシック音楽を聴き始めた時にはアバドはまだ期待の若手筆頭くらいの位置(今のデュダメルやハーディングよりひと回り上の感じであろうか)でありましたが、とても斬れの良い・フレッシュな演奏を聴かせてくれました。吉之助がアバドの名前を意識したのは、多分、ミラノ・スカラ座管を指揮したロッシーニのFM放送ではなかったかと思います 。吉之助のお気に入り録音で言うならば、1978年ザルツブルクでのマーラーの交響曲第3番、同じく78年ですが、ミラノ・スカラ座でのヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」(五幕フランス語版)と歌劇「仮面舞踏会」の放送録音は、今でも吉之助は同曲のベスト・パフォーマンスと思っています。その頃から吉之助はアバドを一貫して追ってきました。来日回数も多かったし、当然、生(なま)で聞いたのも多い指揮者でした。こういう風に自分の音楽人生の節目で重なるところが多かった方が亡くなるのは、ホントにメゲますね。

昨年10月にはルツェルン祝祭管と来日する予定があって、恐らくこれが最後の来日だろうと思って吉之助も切符を買っていましたが、残念ながらアバドの体調不良の為に公演中止となりました。どうやら8月末のルツェルン音楽祭での演奏会が最後になったようです。この時の演奏会映像はBS2での放送がありました。これが日本で放送になったのは来日中止が決まった後で・そう思って聞いたせいもありますが、例えばベートーヴェンの「英雄」はもちろん良い演奏でしたが、ホントに微妙なところで表現が妙に弱 い感じでハッとした所が何箇所かありました。これはやっぱり体調が悪いのだろうなあ・・とは思いましたが、しかし、最後に生で聞けなかったのは大変残念です。

アバドの音楽的貢献についてはこれから多くが語られるでしょうが、恐らく彼の栄光のキャリアのなかで評価が微妙なのはベルリン・フィル音楽監督時代ということになるかと思います。 コアな音楽ファンの間ではベルリン・フィル時代がアバドの低迷期みたいに見られているようです。確かにそれまで斬れの良い・どちらかといえばシャープな印象があったアバドが、ベルリン・フィルの音楽監督になってからは恰幅が良くなって・響きは艶やかだけども・ちょっと重い印象に変化したように聞こえたかも知れません。ベルリン・フィル辞任後からの晩年、かつてのシャープさを取り戻した感があったので、ベルリン・フィル時代が余計重い印象が したということもあると思います。それにしても、これからアバドのことが語られるならば、是非ともベルリン・フィル時代の再評価をして欲しいと思います。現在のサイモン・ラトル体制のベルリン・フィルから過去を振り返れば、カラヤン時代からラトル時代への橋渡しとしてのアバド時代の 意義は明らかであると思います。現代音楽を積極的に取り入れること、小編成オケの試み・楽譜 (版)の検討など、ラトル時代に本格的になったことは、みんなアバド時代に始められたことです。ベルリン・フィル時代のアバドは結構風当りが強かったようですが、言い換えると、これは帝王カラヤンの後を継ぐということが如何に大変であったかということですね。アバドはそのきつい仕事をよくやったと思います。 アバドにしか出来なかったことじゃなかろうか。そこから指揮者アバドのベルリン・フィル時代の位置付けを、改めて見直してみたいと思います。ご冥福をお祈りします。

(H26・1・22)


○ヴェルディと内蔵助の、かぶき的心情

昨年(2013)はイタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの生誕200年であったことはご存知かと思いますが、10月10日(ヴェルディの誕生日)にシカゴで行われたシカゴ交響楽団での・ヴェルディの生誕200年記念演奏会(曲はヴェルディ:レクイエム)の為のリハーサル風景を収めたDVDがありまして・これは音楽ファンには得るところが多いので是非ご覧いただきたいですが、そのリハーサル場面で、指揮者のリッカルド・ムーティがとても興味深いことを楽団員に語っていました。ムーティが語った内容は大体こんなところです。

『我々イタリア人は、永遠の安息を得るために神に祈ることはしません。神に要求するのです。私たち人間を造り給うたのは、神様、あなたです。だからあなたには、私たちのことを思いやる責任があるのです。ならば、そのようにして下さい。あなたはその責任を果たしてください。神よ、私たちを救いたまえ。・・・これがヴェルディの「レクイエム」です。』(注:吉之助の意訳です。)

ドキュメンタリー:ムーティ・コンダクツ・ヴェルディ(DVD)

ムーティの言葉には、感銘を受けました。シカゴ響の楽団員にとっても啓示になったと思います。果たして本番の演奏は素晴らしいものになりました。確かにムーティの言う通りだと思います。「レクイエム」のみならず、ヴェルディのオペラ作品すべてが、そのような思いが託された作品です。「歌舞伎素人講釈」で、吉之助は歌舞伎とオペラの心情面での共通性を強調していますが、ヴェルディの心情というのは、まさに吉之助の云う「かぶき的心情」と同じものなのですね。

例えば別稿「「元禄忠臣蔵」の揺れる気分」で触れましたが、「最後の大評定」での磯貝十郎左衛門が泣き叫 んで発する台詞をご覧ください。これは「元禄忠臣蔵」中の最重要の台詞のひとつです。

『御兄上内匠頭さまの鬱憤を散じ、敵上野介さまを討ち果たしてこそ、はじめて大学頭さまは世に立って人中(ひとなか)がなると申されましょう。仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て、大学さまの武士道が立つとは申されませぬ。(中略)厭でござります、厭でござる。たとえ御公儀より大学さまへ恩命下って、日本国全体に、唐、天竺を添えて賜るほどの大大名になられましても讐敵吉良上野介をこのままに置くのは、厭でござります、厭でござります。 』(磯貝声を極めて泣く。)

上記の台詞を字面通り読むならば、確かに十郎左衛門の言うことは、「何としても吉良を討ち、亡き殿のご無念を晴らすのだ」ということです。しかし、それでは青果の「元禄忠臣蔵」が分かったことにはなりません。のみならず「仮名手本忠臣蔵」をも分かったことになりません。 十郎左衛門の気持ち、そして内蔵助の気持ちを理解する為には、十郎左衛門の台詞を心情で読まねばならないのです。

十郎左衛門の心情は台詞のどこに出ているのでしょうか。それはもちろん「厭でござります、厭でござる」という箇所です。磯貝は、「我々 がこんな理不尽な状況に置かれるのは納得が行かない、厭だ、我々は断固受け入れない」と拒否しているのです。誰に対して?何に対して?彼ら浅野家中の者たちをこんな理不尽な状況に追い込んだすべてのものに対してです。彼らの怒りの矛先は、神にも向くし、時代にも向くし、この世の生そのものに向くかも知れないし、もちろん上野介にも向くし、幕府という政治機構にも向くし、判断を下した直接の当事者(綱吉その人・あるいは幕府要人)に行くかも知れないし、場合によっては愚かな行為をした主人内匠頭にも向きかねないのですが、彼らの倫理感からすれば、その怒りが とりあえず上野介に矛先が向いたということに過ぎません。ですから十郎左衛門、そして内蔵助の心情は、次のように言い換えることが出来ると思います。

『日々を清く正しく慎ましく生きている私たちは、平和に安息に暮らせるのが当然なのです。だから、そうでないのなら、私たちを取り巻く状況を、そのように、我々が納得できるものにしてください。 そうでないのは、厭だ。絶対に厭だ。』

そうなっていないから、彼らは憤っているのです。これが「かぶき的心情」の根本です。「仮名手本忠臣蔵」や「元禄忠臣蔵」を仇討ちのお芝居・忠義のお芝居として読んでそれだけで終わってしまうなら、ツマラナイことではないでしょうかね。その内に秘められた心情は、時代も国も越えた共通のものだと思います。
 

(H26・1・3)


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