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吉之助の雑談24(平成25年7月〜12月) 


○玉三郎さんのこと

舞踊「落人」(道行旅路の花婿)は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」のなかの・「四段目」の後の昼の部の追い出しとして上演されることが多いわけですが、これはまったくうまいことを考えたものだと思います。「四段目」ではどうしても観客は 胸にグッと押し詰まった深刻な気分になるものですから、観客の気分をパッと明るく・気持ちよく劇場を後にしてもらうためにも「落人」の幕は重要です。

ところで今月(平成25年12月)歌舞伎座の「忠臣蔵」昼の部での「落人」のことですが、海老蔵の勘平・玉三郎のお軽という人気役者の組み合わせで期待したのですが、 浅葱幕が落ちて笠を取ったところでは客席を沸かせたものの、意外なことに浮き立つところが少なく、拍子抜けする感じがしました。特に玉三郎に生彩がないと感じました。これはどうしたことだろうかと思いながら見ていましたが、吉之助には玉三郎の気持ちのなかに何か歌舞伎に集中できないようなものがある気がして、不安に思いました。そんなこんなで、吉之助は「忠臣蔵」昼の部を見終わって割り切れない気分で歌舞伎座を後にしたのです。その後で玉三郎が自身のサイトの「今月のコメント」でこんなことを書いているのを目にして、「ああそういうことだったか・・」と思いました。

『実は中村屋さんが亡くなられた去年から、かなり心細い思いが致しまして、今年の初めからは落ち込む思いが激しかったのです。(中略)6月が過ぎまして夏がやってまいりますと、自分の心にひたひたと寂しさが襲って来てしまいました。そして6月末から、7月、8月、9月とかなり落ち込みの日々が続き、心身の不安が募るばかりで、将来のことなど全く考えられない状態でした。やっと11月の金丸座の時から外の空気を吸うことが出来て、だんだんと回復して来たのです。皆様にここで、こんな心許ないことを申しましてもどうしようもないことなのですが、回復して来ました今でこそ打ち明けられる事柄ですし、実際の思いをこのコメントで述べさせて頂きたかったのです。』(坂東玉三郎オフィシャル・サイト:今月のコメント・2013年12月)

玉三郎の気持ちは分かる気がします。と同時に、上記文章では玉三郎が落ち込んだ直接的な引き金は十八代目勘三郎の死・あるいはそれに続いた十二代目団十郎の死であったように読めますけれど、恐らく事情はもっと複合的なもので、・・というのは鋭敏な芸術家の感性というものは時代の空気と鋭く対峙して・様々な直接的あるいは間接的な 作用を受けるものですから、ここ数年の歌舞伎の状況、あるいは3・11以降の日本の状況など、複合的に玉三郎の気分のなかに深刻な陰を差していると思います。 しかし、そのままに留まっていては良い仕事は出来ません。胸に詰まった思いを起爆剤にして奮い立たねば芸術家は決して良い仕事は出来ないのです。

吉之助が今回の「落人」の玉三郎のお軽のどこにそのようなことを感じたのかというのは、漠とした印象になりますけれど、今回の「忠臣蔵」での玉三郎に課せられた役割は幸四郎(今回の「忠臣蔵」では由良助を演じる)と共に 一座の若手を引っ張る・手本を見せるということにあると思います。役を教えるということもありますが、役者の生き様を教えるということです。しかし、「落人」での玉三郎のお軽は、吉之助にはそのように見えなかったのです。落ち込んだ気分をそのまま引きずっていると見ました。

旧・歌舞伎座閉場以来続いている役者の相次ぐ逝去・あるいは病気休養は、現在の歌舞伎の何かの無理から来るものと思います。玉三郎が決して頑健な身体ではない・無理が利かない身体であることは承知しています。ここで玉三郎まで倒れられては大変です。決して身体的な無理はしないでいただきたい。けれども、玉三郎にお願いしたいことは、ここであなたに奮い立ってもらわねければ歌舞伎は駄目になってしまう、だから歌舞伎の為にあなたがここで奮い立たないでどうするの・今でしょ、ということを言いたいわけです。表面的には客も入っているけれども、今の歌舞伎は確実に危機に差し掛かっていると思います。切符が売れてれば良いわけではない。

六代目歌右衛門は、ある時期に奮い立ったと思います。吉之助は、それは昭和30年代のことだったかなと思います。奮い立った歌右衛門について色んなことを言う人がいますが、あの時期に歌右衛門が奮い立たなければ、現在の歌舞伎はなかったと思います。だから玉三郎にお願いしたいことは、この時代に滅入った気分になることはよく分かる、だけど、それだからこそ・ここは奮い立っていただきたい。玉三郎なりの奮い立ち方があるはずです。そのような役目を、これからの玉三郎は否応なしに引き受けざるを得ないと思います。ここが歌舞伎の正念場だと思うのです。玉三郎も、そこのところを是非よろしくお願いしたいのです。だけど決して無理はしないでくださいね。

(H25・12・11)


○十八代目勘三郎・一周忌に寄せて

11月28日に吉之助の最初の書籍本「十八代目中村勘三郎の芸」が発売になり、勘三郎の一周忌にどう にか間に合いました。結果として、吉之助はこの一年間ずっと勘三郎のことを考えて来たことになります。

勘三郎が亡くなった日の記事に書きましたが、吉之助は七十代になった勘三郎の舞台を見ながら(つまりあと20年くらい後に)「ま すます先代に似てきたねえ・・・」などと言いながらポロポロ泣くのが夢で、そのひと言を言うために歌舞伎をずっと見て来たようなものでした。だから勘三郎が亡くなったことを聞いた時には 、吉之助のなかの歌舞伎のこれからの楽しみがもぎ取られたような気がしました。これから歌舞伎を見る気になるだろうかということを一瞬思いました。大げさな・・と思うかも知れませんが、勘三郎の葬儀の時に 三津五郎が「身体の半分がもぎとられたような・・」ということをつぶやいたそうですが、まさに同じ気持ちです。

これは吉之助にとって勘三郎が特別に好きな役者だったとか云うのと全然違うもので、完全に同世代あるいは同志感覚から来るものです。共に同じ時代を呼吸し、場面は違えど同じ気持ちで戦っているという感覚なのです。三津五郎の気持ちも同じであったと思います。だから、歳が離れている役者さんが亡くなった時には「これから舞台を見れなくなって残念だ」とか「惜しい方を失いました」という気持ちが当然湧きますが、勘三郎の訃報を聞いた時の感覚はそういうのとは全然違ったもので、強い痛みが 胸に来るような感じでした。だから吉之助は本を書いて、自分のなかの勘三郎に総括を付けなければなりませんでした。

今後、勘三郎は歌舞伎史のなかにどのように位置付けされることになるでしょうか。前稿において「勘三郎は記録よりも記憶に残る役者ということになるだろう」と書きました。まだどうかは分かりませんが、歌舞伎役者・勘三郎の演劇史的 評価をするのはなかなか難しいと思います。ひとつには、「野田版・研辰の討たれ」のように・勘三郎の個性にはめて書かれた演目は 、今後の再演が難しいと思われるからです。コクーン歌舞伎は形を変えて行なわれるかも知れませんが、勘三郎という強烈なキャラに拠るところが大きかった ところがあるので、様相はやはり変わらざるを得ないでしょう。ただし、これらについては幸い映像が多数残っていますから、 こちらについての評価はある程度されるでしょう。一方、古典歌舞伎においては、もちろん思い出す舞台はたくさんありますが、五十代の若さで亡くなった役者の評価は難しくならざるを得ません。吉之助は、勘三郎がコクーン歌舞伎や野田歌舞伎にのめりこむことの気持ちは痛いほど分かったのだけれど、「違うだろ、お前がホントにやらなきゃならないことは古典歌舞伎をヴィヴィッドに生きたものにすることだろ、六代目菊五郎を今に蘇らせることだろ」という ことをずっと感じていて、勘三郎に対して歯がゆい気持ちが強かったのです。だから 、これからの二十年の勘三郎に期待をしていたのですが。

吉之助は、勘三郎の古典に関して期待が大きい為、他の役者より評価基準を厳しく取っていたかも知れません。「十八代目勘三郎の芸」を読めば、それをお感じになるかも知れません。例えば、本では取り上げませんでしたが、平成24年2月新橋演舞場での「鈴ヶ森」の白井権八ですが、これは巷間とても評判が良いもの だったと思います。評判の良い理由はもちろん分かるけれど、吉之助は七代目梅幸の権八の舞台も・十七代目勘三郎の権八の舞台も見ておりますのでね、それと比べてどうかということになるから評価が自然と厳しくなります。吉之助の感じでは、勘三郎は先達ふたりの芸の記憶を「柔らか味」というキーワードでなぞろうとしているように思われました。前髪立ちを強く意識し過ぎで、どこか 変成男子に見えました。もっと凛とした感覚が欲しいと思います。特に台詞回しにです。それと目付きですね。吉之助のなかの記憶では、先達ふたりの権八は、柔らか味のなかにも凛とした感覚がしっかりあったと思います。ここが大事なポイントです。吉之助が思うには、勘三郎の権八を見ると、先達の呪縛がまだ感じられ 、イメージを表面に取って、これを勘三郎のキャラにおいて消化仕切れていない感じを持ちました。吉之助の記憶では、むしろ昭和五十四年十月御園座での勘三郎二十代の時の権八の方が、無心である分・凛としていたと思います。演舞場での権八 を見て、吉之助は「あれれ・・」と思いました。芸とは難しいものですね。

だから勘三郎は芸の発展途上で亡くなったというのが、現時点での吉之助の評価となります。役者・勘三郎の 芸の世間の評価はこれからのことだと思いますが、「十八代目勘三郎の芸」はそのようなことを見据えて、勘三郎の芸の演劇史的な位置付け への方向を示した最初の論考ではないかと思います。この本の副題は「アポロンとディオ二ソス」と言いますが、「祭祀としての演劇の理性と熱狂は同じ身体に宿るか」という問題は、吉之助のなかで勘三郎の死によって「保留」されたということです。七十代になった勘三郎 ならば、この問題に明解な解答を示してくれたことだろうと信じます。

(H25・12・1)


中川右介編著「十八代目中村勘三郎 全軌跡」のことなど

吉之助の最初の書籍本「十八代目中村勘三郎の芸」の発売が、いよいよ来週(11月28日頃)に迫ってきました。来る12月5日が勘三郎の一周忌ということで、マスコミもだんだん勘三郎の話題が多くなった感じです。勘三郎の一周忌に関連して、(吉之助のものも含めて)勘三郎本が4冊出ます。最強なのは好江未亡人による「中村勘三郎 最後の131日」かも知れませんねえ。関容子さんの「勘三郎伝説」も強そうですねえ。まあそういうことで、吉之助もちょっとおこぼれを頂戴したいと思います。吉之助の本が店頭に並んだら、是非手に取ってくださいね。表紙の勘三郎の髪結新三の鋭い眼差しが、なかなかアイキャッチングでしょ。

波野好江:中村勘三郎 最期の131日 哲明さんと生きて(集英社)
関容子:勘三郎伝説(文芸春秋)

ところで吉之助の本をプロデュースされたのは中川右介氏だということは先日お知らせしましたが、吉之助の本と前後する形で、中川氏も編著ということで「十八代目中村勘三郎 全軌跡」を上梓されます。この「全軌跡」ですが、これまでの朝日新聞の勘三郎関連の記事を時系列で整理して、初舞台から最後の舞台まで勘三郎の役者人生を俯瞰するという、これもまた従来にない形式のクロニクルです。淡々と過去の新聞記事を切り抜いて並べただけに見えるかも知れませんが、そこから役者勘三郎のダイナミックな生き方が浮き上がってくるところが中川氏の手腕なのです。吉之助の記憶では、この種のものは平成5年に 出た演劇界増刊「女形6世中村歌右衛門」のなかの土岐迪子編「歌右衛門切抜帳」という二十数頁の記事くらいしか思い浮かびませんが、この記事はとても重宝しています。(注:この増刊号は歌右衛門存命中のもの。)中川氏の「全軌跡」も今後重宝されると思います。

中川右介:十八代目中村勘三郎 全軌跡(朝日新聞出版)

このようなクロニクルは、まさに役者の人生がその時代と重なり合ったものでなければ、その面白さが出てきません。単に人気役者だというだけでは駄目で、役者の軌跡がその時代を象徴するような何かが見えてこなければ、役に立つ読み物にはなりません。例えば九代目団十郎とか・二代目左団次とか、そのような役者でなければならないでしょう。そこから団十郎が生きた明治と云う時代、左団次が生きた大正という時代の空気が立ち上ります。別に吉之助は、勘三郎の業績が団十郎や左団次に比すと言っているのではないのです。それを言うならば、むしろ勘三郎は記録よりも記憶に残る役者ということになるかと思います。しかし、平成の歌舞伎の ・少なくとも十年くらいは確かに勘三郎を中心に動いたと言って良いわけで、勘三郎の役者人生が平成の何かとしっかり重なります。歌舞伎ということでなく・他のことでも、現在の日本にはそれまで在った大事なものが 沢山次々と立ち去ってしまったような喪失感があります。瞬間的にパッと光り輝いて急に消えてしまった勘三郎が、吉之助のなかでそのような感覚と重なってしまった気がしています。

(H25・11・19)


○寺山修司没後30年

うっかりしてましたが、今年は寺山修司(1935〜1983)の没後30年だそうです。吉之助の世代にとって寺山はちょっと 上になります。学生時代の吉之助も「書を捨てよ 町に出よう」など寺山の本をいくつか読みました。しかし、当時の吉之助は音楽主体で、演劇に関してはまだ教養主義的段階(まずはシェークスピア・チェーホフから)で、アングラの天井桟敷 にまでは興味が行きませんでした。というよりも、1975年に東京阿佐ヶ谷近郊で行なわれた市街劇「ノック」は一般家庭の玄関の扉をノックし・家の人が出てくるとそこに 全身に包帯巻いたミイラ男が立っていたという具合で・驚いた人が110番して警察が駆けつけるという大騒ぎになりました。こういう報道が吉之助には「気色悪い」という印象になったせいで、当時の吉之助は天井桟敷をまったく受け付けませんでした。寺山自身の言に拠れば「あなたの平穏無事とはいったい何なのか?」(朝日新聞  昭和65年5月7日)という問題提起だったそうですが、まあ正直言ってこういうのは今もって理解できません。吉之助はその点保守的なのです。

そういうわけで吉之助は寺山修司と長い間疎遠でしたが、最近いくつか寺山の対談や評論を目にする機会があり、寺山と演劇ということについてちょっと関心が湧いて来たところです。そのことについてはいずれ書く機会があると思います。そんな時にタイムリーに先日(平成25年10月27日)早稲田大学・演劇博物館主催で「いまだ知られざる寺山修司」という講座がありましたので、これを聞いてきました。行ってみると、この講座はテレビ作家寺山のことが主で・吉之助の直接的な関心に応えてくれなかったのだけど、不勉強ながら吉之助は演劇に取り組む以前の寺山が放送台本を手掛けたということを知りませんでしたので、寺山の新たな一面を知ることが出来ました。講座では、寺山の構成脚本によるふたつのドキュメンタリー作品(TBS放送)が上映されました。ひとつは『中西太 背番号6』1964714日放送)、もうひとつは『あなたは・・・』19661120日放送)で、初回放送は 吉之助はもちろんどちらも見てません後者は日本のテレビ史に残る有名なもので・何かの機会に再放送を見たような記憶がありますが、寺山の仕事とは知りませんでした

ところで上記ドキュメンタリー上映の後・パネルディスカッションがありましたが、そこでの講師が制作サイドの方々であったせいか、久しぶりに作品を見直してご自身がどう感じたかとか・そういう話はなくて、寺山の裏話的な話に終始し、ドキュメンタリー作家としての寺山の本質に迫る発言が聞けなかったのは残念でした。作り手と受け 手(視聴者)との関係に関心がないのかなあと思いました。何となく電波垂れ流しの・一方通行メディアとしてのテレビの限界を思いました。もう双方向のメディアの時代がそこまで来ているのだけどね。

吉之助が見た感じでは、寺山構成による・これらふたつのドキュメンタリーはとてもメッセージ性が強くて、しかも、ある種の「押し付けがましさ」を持つものでした。まず『中西太 背番号6』は実際のプロ野球の試合を素材にしていますが、その試合展開にプレーイングマネージャーの中西太(つまり全盛期を過ぎた時代の怪童中西)の人生を強引に重ね合わせてストーリーを作って行く、「 こじつけ」とも言える・かなり強引な作りでした。視聴者に「ここはこう読め」と押し付ける感じが強い。これは恐らく当時の60年安保闘争世代の・肩肘張った感覚を反映していることは想像が付きます。『あなたは・・・』は、街歩く一般人に突然マイクを突きつけて「あなたは昨日の今頃何をしていましたか」、「あなたは人に愛されたことがありますか」などと一方的かつ機械的に脈路ない質問を次々と発して答えを迫り・最後に「あなたは誰ですか」という質問で締めるというものです。これなどはもっと押し付けがましい。しかも、こういう質問を誰かれかまわず延々と続けられると、視聴者の方も画面の人が答えている反応を第三者として笑って楽しむという余裕が失われてきて、「自分がマイクを突きつけられたら自分はどう答える?どんな顔をして答える?」というような圧迫感が次第に募ってくる。これが寺山の狙いであったことは明らかです。これもこの時代の空気を反映しています。

寺山は視聴者に対して「こういう時、あなたならどうする?」という問いを刃物のように突き付けます。そして視聴者に反応を迫って来ます。 その反応自体はどんなものでも良いのですが、しかし、その反応次第でどんな人間か判断されそうな感じがあって、それが怖い。当時は「お前は右か左か、親米か親ソか」などとすぐ主義主張を問われそうな雰囲気がありました。これは視聴者にとってあまり心地が良いものではない。そこに当時の寺山の焦燥感が見えるようです。(講師の方々はどうも軽く受け取っている気がしましたが)単にこういう趣向が面白い のじゃないかという好奇心で寺山があれこれ実験をやっていたわけではないと、吉之助は思います。と同時に、そこから
寺山が一方通行メディアとしてのテレビに飽き足らなくなって、演劇に走ったことの気持ちが見える気がしました。この『あなたは・・・』が、一般家庭の玄関の扉をノックし・家の人が出てくるとそこに包帯巻いた ミイラ男が立っていたという、あの市街劇「ノック」の前段階であることは、見れば明らかであると思います。表現者としての寺山は、受け手との間にもっとヴィヴィッドな関係を求めたのです。

パネルディスカッションでは「テレビの暴力性」という発言が最後に出たので、ああやっと出てきたかと思いましたが、そこまででしたね。(注:テレビの暴力性とは相手の都合も何も考えず・一方的に・ 家庭のお茶の間に上がり込んで・ そこに関係のないあらゆる情報を垂れ流すということです。)ともあれ、今回ふたつのドキュメンタリーを見て、吉之助は、寺山が市街劇「ノック」で何をしたかったのか、その気持ちが少し分かった気がしました。それにしても残念だったのは講座の参加者が少なかったこと、特に大学での開催ということを考えると若者が とても少なかったことです。もう寺山修司は過去の人ということか。60年代という時代とあまりに強く結び付き過ぎているということでありましょうか。

(H25・11・3)


○吉之助の最初の書籍本「十八代目中村勘三郎の芸」について

「歌舞伎素人講釈」は2001年1月に始めましたので、もうすぐ丸13年になろうとしています。吉之助は学校で歌舞伎を学問として専門に修めてきた人間ではありません。市井の批評家・その意味において「素人」ですが、インターネットというものがなければ、こういうことを発表する機会も多分なかったと思います。そうやってネット上で批評をシコシコ続けていましたが、まあそれなりの評価をいただけるサイトに成長してきたかなと思います。そんななか、有難いことに・出版社アルファベータ社長である中川右介氏からお声を掛けていただきまして、この度、吉之助の最初の書籍本が出せることになりました。ご存知かと思いますが、中川氏は最新の「歌舞伎 家と血と藝」など歌舞伎関連の本だけでなく、クラシック音楽など実に多方面に執筆されていらっしゃいます。

左写真 c松竹、2012年5月、平成中村座、髪結新三

どんな本を出そうか色々考えましたが、もうすぐ一周忌になる十八代目勘三郎について追悼の意味を込めて書こうと決めました。これは最初に出す本としては、時期的に話題性もあるだろうということももちろんあります。勘三郎が亡くなったのは、昨年12月5日 のことでした。手術直後に「手術成功・50m歩いた」という報道があって、事務所が近いうち経過発表しますと言ったまま何もないので漠として不安は感じてはいたけれど、「あの勘三郎に限ってそんな はずはない、来年4月の新・歌舞伎座開場には何かの役できっと復帰する」と信じていた(と云うよりそう思いたかった)だけに、彼の死は吉之助にも衝撃が大きかったのです。 吉之助は勘三郎とほぼ同世代で、正確には学年は吉之助がひとつ下ですが、吉之助が歌舞伎見始めた時から勘三郎(当時は勘九郎)はそこにおり、彼の成長を見ながら吉之助は歌舞伎を見てきたのです。そういうわけなので、勘三郎が亡くなったことで、吉之助としては自分のなかで総括を つけておかなければならない部分がありました。場面は違えど吉之助も現役バリバリの企業戦士でありますから、勘三郎が何を相手にして戦ってきたのかは明確に分かっているつもりです。ですから巷の「勘三郎本」と云いますと、「いつも明るくて元気いっぱいの勘三郎さん、ありがとう」という感じの本が多いだろうと思いますが、吉之助の「十八代目勘三郎の芸」は決してそうはなりません。

実は「十八代目勘三郎の芸」の執筆に関しては、実は最初の二ヶ月ほど難渋しました。「歌舞伎素人講釈」をお読みになればお分かりかと思いますが、吉之助の批評の強みは、どちらかと云えば歌舞伎の作品解析や理念論の方にあると思います。吉之助が劇評と呼ばずに観劇随想としているのはそこのところで、吉之助の批評では役者は材料に過ぎません。役者の芸を主体に書くということになると、そこがどうも勝手が違うのですねえ。しかし、二ヶ月過ぎた辺りで、役者論を書くについてのコツというか・方向性が何となく見えてきて、後はスムーズに書けました。「歌舞伎素人講釈」ならではの勘三郎本に仕上がったと思います。

それにしても最初の本を出すということは嬉しいような、ちょっと不安な気分ですね。そういうわけですので、今後続けて「歌舞伎素人講釈」本を出していくためにも、最初の「十八代目勘三郎の芸」は売れてもらわないといけませんので、是非手に取って読んでくださいね。歌舞伎好きのお友達にも是非教えてあげてください。

(H25・10・26)


○歌舞伎役者の体調管理のこと

今月(10月)2日、9月に手術を受けた三津五郎さんが退院の報告と年内は休演するとの記者会見がありまして、「ゆっくり静養して万全の体調での復帰を願いたい」などと思ったりしていた矢先に、今度は4日に、仁左衛門さんが右肩痛の手術のために11月・12月は休演 するとのニュースが飛び込んで来ました。原因経過はそれぞれのことですが、この数年、歌舞伎界は役者の訃報や休養が相次いでいます。これは単純に世代交代期であるということだけでは済まされないものがあるようです。一時巷の噂にもなった「旧・歌舞伎座の呪い」がまだ続いているのかと暗澹たる気分になります ね。松竹さんにはお祓いでも何でもしてもらいたいですが、安定的に興行打つために役者は大事な商品なのですから、役者の体調管理はしっかりして欲しいと思います。

考えて見れば、昭和前半期の名優で云えば、七代目幸四郎(78歳)などは長生きした方でして、六代目菊五郎は63歳、初代吉右衛門は68歳、十五代目羽左衛門は70歳で亡くなっているのです。その頃と比べると、日本人の平均寿命はずっと伸びたことは事実ですから、単純な比較は出来ません。戦後昭和歌舞伎の大幹部には長生きして80歳近くても元気に舞台に立っていた役者が多くいましたが、吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代前半に若手花形と呼ばれていた幸四郎・吉右衛門・菊五郎・仁左衛門(それぞれ当代)など、現在の幹部クラスの年齢も大体70歳前後のところに来ています。もうあれから40年近く経っているのだから、これは当然です。彼らはまだまだ現役バリバリみたいなイメージが吉之助にもありますが、実はもう彼らもいい歳なのです。しっかり身体のメンテナンスをしながら、長くやっていかねばならない年代です。本年4月歌舞伎座柿葺落の「勧進帳」で「幸四郎がハアハア言っているのを見て驚いた」と書いている劇評がありました。如何にも「鍛錬が足りない」と言いたそうな文章でした。70歳越えた役者が「勧進帳」を勤めることが体力的にどれほど大変なことか・分かっているならば、こういう文章はちょっと書けません。

吉之助は幸四郎よりもうひと回り下の世代で、三津五郎や故・勘三郎と同世代になりますが、彼らが体調を崩したりする報を聞くたびに気が気じゃないのです。と云うか、自らの状況を重ねて・彼らの置かれている状況が察せられるので、いたたまれないです。誰でも40代半ば過ぎた辺りから体力的に下降線を辿り始めます。その変調は傍目には見えてこないのだけれど、本人には何となく分かるものです。分かるけれど、本人にとっては認めたくないものであるし、まだ無理すれば他人には隠せる程度ではあるのです。しかし、その無理を続けていると、やがてその無理が予期せぬところにツケみたいな形で突然やって来るのです。そうなるともうどうしようもない。そのようなことが経験で分かってきます。故・勘三郎の場合がその典型的な例でした。身体的・精神的な無理が病になって出て来たのです。そこを乗り切るためにはセーヴが必要です。楽をする・手を抜くというのではなく、無理なく抑えることが必要になる。これが役者を長く・故障なく続けるコツです。同世代の吉之助には、勘三郎の置かれていた状況が 自分の身に置き換えて分かります。だから吉之助は勘三郎にそろそろ演じ方を変えなさい・「盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に演じなさい」と書いたのです。それは平成17年(2005)のことでした。結果は、残念ながら吉之助の危惧した通りとなりました。勘三郎の周囲にペースを抑えなさい・演じ方を変えなさいとアドバイスできるブレーンがいなかったことはホントに悔やまれます。 だから勘三郎は戦死みたいなものだと吉之助は思っているのです。

今回の三津五郎さんや仁左衛門さんの休演の件でも、日頃多少の不調を感じていても・仲間の役者が次々倒れて歌舞伎が危機のこの時に自分が休んでは・・ということでなかなか言い出せないうちにここまで来てしまったみたいな雰囲気を何 となく感じます。その責任感には感じ入りますが、吉之助は思うのですが、平成の歌舞伎ブームがいわれたこの十数年、歌舞伎の幹部クラスはちょっと酷使され過ぎではありませんか。昭和50年代のガラガラの歌舞伎座を知っている 吉之助には信じられないことですが、昨今の歌舞伎はある程度の観客動員が計算できるということで、各地の小屋でひっぱりだこの状況のようです。三ヶ月にひと月は必ず休養月を入れるとか、定期的に人間ドックを受けさせるとか、そういうことを松竹さんは企業体としてきっちり行なうべきではないかと思いますね。25日興行制も問題が多いと思います。歌舞伎は世界無形文化財ということですから、私企業であってもこれを守っていく責務が当然あるわけだし、役者さんが元気で舞台に立ち続けてくれることは、結局、松竹さんの為にもなることなのです。

(H25・10・6)


○「歌右衛門」のこと

来年(平成26年)に、福助が七代目歌右衛門を襲名することが松竹から発表となりました。襲名ということはただトレードネームを引き継ぐということでなく・代々の精神とか芸質とか・何かを引き継いで行くことだと言われますが、それは兎も角、歌舞伎の歴史を見ると、河原崎権十郎を名乗っていたのがいつの間にか市川団十郎になったり・市村羽左衛門が尾上菊五郎になったりしますから、時代関係を頭に入れておかないと、人物関係がごっちゃになることがしばしばです。

吉之助などは、初代白鸚はその名前で舞台に立つことが少なかったせいか、今でも八代目幸四郎と呼びたくなります。二代目猿翁もやはりまだまだ三代目猿之助と呼びたい気がしてなりません。これは当代幸四郎・当代猿之助がどうというのではなく、吉之助のなかの個人的な思い入れの問題です。仁左衛門のことも、吉之助は今でもつい孝夫と言ってしまうことがありますが、これは個人的に親しみを込めているつもりなのですが、いけないかも知れません。逆なのは故・勘三郎で、吉之助は十七代目のファンだったこともあり・最初は十八代目を勘三郎と呼び慣れるのに相当時間が掛かるかと心配しましたが、自分でも驚くほど「勘三郎」がスンナリ出て来ました。これは何故かと思うに、先代亡くなってから十八代目襲名まで時間が経っていたからかも知れません。まあ襲名に関して、このような混乱は歌舞伎ファンなら誰でもあるのではないでしょうか。またこういう混乱も歌舞伎ならではのお楽しみということでもあります。

そういうわけで、福助が七代目歌右衛門を襲名してスンナリ「歌右衛門」と口に出てくるか、吉之助には今は分からないのです。(もちろん慶事だということを前提にして言っておりますので、誤解なさらないように。)と言うのは、吉之助にとって「歌右衛門」というのは別格な名前であるからです。「歌右衛門」という名前は、吉之助にとって個人的に「団十郎」・「菊五郎」より別格に重いからです。これは故・十二代目団十郎や当代菊五郎を貶めているつもりはまったくないことはご理解いただきたい。昭和五十年代の歌舞伎の状況をご存知の方はお分かりの通り、その時代の役者の位置関係が吉之助の身体に基準として入っているのだから、これはどうしようもないことなのです。歌舞伎史のなかの「団十郎」・「菊五郎」の重みは理解してますが、それは別の話。吉之助のなかでは依然「歌右衛門」が一番重いのです。ですから福助が七代目歌右衛門を襲名することはもちろん目出度い。目出度いけれども、「しっかり継いでくれないと許さないよ」という気持ちもどこかにある。福助もその覚悟は当然あるはずだと思いますが、頼むよ、ホント。俳優協会会長を目指せと言っているのではありません。

ところで、歌舞伎役者というのは、幼い頃から根っからの芝居好きというのは意外と少なくて、「どうして自分は歌舞伎の家に生まれたんだろ」というようなことを自問自答しながら役者になっていくという道程を辿る場合も少なくないと思います。昭和五十年代前半、福助が十代・児太郎時代の頃に、やる気力がなさそうな舞台をいくつか見たものです。この時期の福助にはあまり良いイメージがありませんが、誰でもいろいろ悩みのある時期かと思います。そんな時期を乗り越えたところに、今の福助があるのだろうと思います。福助がやっと役者になったと思ったのは、猿之助・いや猿翁との「当流小栗判官」の照手姫(昭和58年7月歌舞伎座)でした。まったく役者というのは一生が修行です。

襲名と言っても、自分なりの「歌右衛門」を作っていけば良いことではあるけれども、福助にこれだけは受け継いでもらいたいのは、芸の品格ということです。芸の品格がなければ「歌右衛門」じゃない。吉之助としては、そこは譲れないね。本年八月歌舞伎座の「色彩間苅豆」のかさねはなかなか良かったと思います。いい容姿を持っているのだから、本年六月歌舞伎座の「助六」の揚巻での悪態の初音の 時のような品のない笑い方はせぬことです。そこを直すだけで十分良い揚巻になると思います。期待してるのだから、頼むよ、ホント。

(H25・9・11)


○諸井誠さんのこと

先日(9月2日)、作曲家・音楽評論家の諸井誠さんが亡くなりました。「レコード芸術」誌の交響曲部門の月評を長く担当されていたので、クラシック音楽ファンにとってはとても身近な存在でしたし、彩の国さいたま芸術劇場の初代館長でもあられましたので、演劇関連にも貢献なさいました。吉之助は諸井さんと親しいわけではないのですが、1983年にバイロイト音楽祭(ピーター・ホール演出、ゲオルク・ショルティ指揮の「リング」第2サイクル)を見に行きました時に、たまたま同じツアーに諸井さんがいらっしゃっいました。吉之助は気に入っていただけたのか、旅行中にかなり長時間にわたり個人的にお話をうかがえる機会があって、これは貴重な経験として吉之助のなかに残っています。

いろいろ話をしたのですが、記憶に一番残っていることは、諸井さんが「音楽を批評するならば、楽譜を読めることはもちろん、楽器の仕組みや奏法・その他に精通していなければならない。自分は作曲家で、そういうことが分かって批評を書いているのだから、他の評論家とそこが違う」という意味のことを仰ったことです。「それが分かっていないで批評をやっている人が多い」ということを言って、「・・その点で自分が評価できる評論家はハロルド・ショーンバーグくらいかな」と仰ってました。

吉之助が元々音楽批評を書きたいと思っていたのを断念して、その後、歌舞伎批評の方に転向したことについては色々背景があることですが、一番大きい理由は吉之助が楽譜が読めないことでした。諸井さんの言葉がその直接的な引き金になったわけではないのですが、諸井さんの言うことは吉之助の結構痛いところを突いていたのです。だから吉之助は、演劇批評の方は脚本を読めばまあ何とかなるから・・・というところで、歌舞伎に行ったという安直なところがなくもないわけです。吉之助が師とする武智鉄二も「自分 の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあった」ということを言っていますが、多分武智にも似たようなところがあったと思います。

諸井さんの御本、たとえばピアニストの園田高弘氏との往復書簡によるベートーヴェンのピアノ・ソナタ―分析と演奏 、あるいはロマン派のピアノ曲―分析と演奏、作家篠田一士氏との世紀末芸術と音楽についての往復書簡などは、音楽だけでなく、文学・絵画にまで言及し、さらにいろいろな演奏家の録音を取り上げて、そこから作品の本質に迫るということで、実に興味深く示唆があるものです。そこに作曲家ならではの分析が確かにありました。諸井さんの批評スタイルは、歌舞伎のビデオ映像と生(なま)の舞台とに 差を付けない今の吉之助の批評の手法に、間接的に影響を与えていることは間違いないと思います。

諸井誠のクラシック試聴室―ベスト・レコードはこれだ! 」(これは「レコード芸術」に連載されたものですが)なども、作曲家ならではの楽曲分析を踏まえつつ、いろいろな演奏の魅力を解き明かしていて、「この曲はこうなんだからこの弾き方でないと駄目だ」などという決め付けは一切なく、実に柔軟でバランスが取れた批評で、読み手を「それならばそのレコードを聴いてみようかな」という気に自然にさせます。 そうやって曲の多面的な魅力を明らかにして行くのです。実は吉之助は諸井さんに失礼なことを言ってしまったことがあります。どうして音楽雑誌には「ベスト・レコードはこれだ」的な記事ばかり多いのですかねえ・・とうっかり言ってしまったのです。諸井さんは申し訳なさそうな顔をして、「イヤあれは編集部からのリクエストで 断れなくて仕方なく・・・」と仰いました。しかし、吉之助は音楽を聴く時に、「諸井さんはこの曲 のことをどう書いたかな」と思って、この「レコ芸」の切り抜き記事に目を通すことが今でも少なく ありません。昨今の音楽雑誌の批評では、「俺は俺の感性でこの演奏をこう聴く、それが悪いか」みたいな感じの素人風批評(素人批評ではなく素人風批評ですからね、お間違えなきよう)が横行していますが、諸井さんのスタイルをちょっと見習って欲しいなあと思います。

筆名マコトニオ・モンロイで「レコード芸術」に連載された小説風エッセイ「ぼくのBBB 」(BBBとは、諸井さんの好きな、バーンスタイン・ブーレーズ・バレンボイムのこと)も、面白いものでした。そんなこんなを思い出しますが、諸井さんのご冥福をお祈りいたします。

(H25・9・7)


○中川右介著・「歌舞伎 家と血と藝」について

つい最近のことですが、講談社現代新書から中川右介著「歌舞伎 家と血と藝」という本が出まして、なかなか売れ行きも良いようです。歌舞伎の家系というのは複雑に入り組んでいて、芸脈ということを考える時に姓名だけでは良く分からないことがあります。例えば市川家の家の芸のはずの「勧進帳」がどうして松本家の幸四郎の代表的演目になるのか、市川家と松本家の関係はどういうものなの?みたいなことです。そういう知識は長年、雑誌「演劇界」や何やら読み続けていれば次第に蓄積されて来るものですが、吉之助の知識も雑多にはあるけれども、断片の集積にすぎません。

そういうことが整理してある本がありそうで意外とないのも、やってみるとあちこち途切れたり・変なところで繫がったりして、整理が一筋縄ではいかぬところがあるからだと思います。そういう面倒な仕事に中川氏が挑戦してくれまして、うっかりすれば筋が錯綜して・却って分かりにくくなりそうなところを、歌舞伎の七家の変遷を軸にして、主として明治から現在までの歌舞伎の家系の流れをスッキリと整理して見せてくれました。歌舞伎の歴史をこれから学ほうという方は、これを起点にさらに深いところへ入っていければよろしいでしょう。

中川右介:歌舞伎 家と血と藝 (講談社現代新書)

ところで、インターネットを見る限り、この「歌舞伎 家と血と藝」の本をお読みになった方のご感想としては、どこか国盗り物語か・コッポラ監督の映画「ゴッド・ファーザー」でのマフィア・ファミリー興亡の歴史を見るような面白さであったというものが多いようです。確かにそういう読み方もあると思います。役者に生まれれば誰だって主役を取りたいはずで、そう出来るようにひたすら芸を磨くわけですが、しかし、実力だけではどうにもならないことがある。そこには血筋とか人間関係とか興行的な思惑が、理不尽なほど強く作用することがしばしば起こります。だから舞台裏での駆け引きが頻繁に起こるわけで、そういうものに読み手の目が行くのは当然ですし、またそういう話は裏話的にも面白い。だから、そういう読み方もあるのです。ただし、これから歌舞伎を学んでいこうと真剣にお考えの方には、中川氏が「あとがき」でお書きになっていることをしっかり頭に入れたうえで、この本をお読みいただきたいと思いますね。そこに中川氏の本意があるからです。中川氏はこのように書いています。

『2013年4月2日、歌舞伎座新開場柿葺落の初日に出かけた。この日、いちばん盛り上がったのは、人間国宝や芸術院会員たちの重厚な演技ではなく、中村勘九郎の息子・七緒八が花道を歩いて出てきた時だった。台詞を言うわけでもなければ見得を切るわけでもない。ただ歩いて出てきただけだ。この子に役者としての才能があるかどうかなど、誰にも分からない。それなのに「中村屋」との掛け声と万雷の拍手、こういう光景は歌舞伎ならではのものだろう。』(中川右介:「歌舞伎 家と血と藝」・あとがき)

この本に書かれていることはすべて、この場面(歌舞伎座での七緒八の登場)に流れ込んでいるわけで、この光景の秘密が理解できるならば、みんなすべてなかったことにしても良いものなのです。それで歌舞伎の四百年の歴史と、これからの歌舞伎の未来の数十年くらいがパッと繫がって見える。そういう光景なのです。七緒八ってそれほどの子供なのかって?だからそういうことを言ってるのじゃないの。歌舞伎の歴史というのは、ぶつぶつ切れて・よじれて・曲がっていて全然繫がっていないのだけれど、しかし、こういう光景を見れば、歌舞伎の歴史は繫がっていて・これからもそうだと信じられる・そのような感覚なのです。その感覚が分からなければ、伝統芸能の芸というものは分からないと断言しておきます。

マスコミは市川家は元禄の昔から続く宗家だというけれど、実はあちこち途切れて・それをまた継ぎ木して・続いたことにしている十二代だということが、この本を読めば分かります。中村勘三郎家は江戸三座の猿若勘三郎から発する由緒ある十八代だというけれど、役者の家としては十七代目と息子の十八代目の二代で大きい名前にしたに過ぎないということも、この本を読めば分かります。しかし、「江戸の心」はずっとはるか昔から現代まで確かに続いているのです。だからマスコミの言っていることは、事実としては正しくないけれども、真実なのです。ぶつぶつ切れているのに、それは確かに繫がっている。

『そうするとだね、僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいのかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達した時になにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。何にもメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると、結晶体の上の一点からずっとつながっているかも知れないが、しかし、絶対流れていない。』(三島由紀夫:の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)

ですから、吉之助が言いたいことは、この「歌舞伎 家と血と藝」の本をお読みになる方は、まず「あとがき」の冒頭をお読みいただき、歌舞伎の歴史は過去から現代へしっかりと繫がっており・これからもそうだということを、まず腹のなかに納めたうえで、本書をお読みいただきたいということです。そうすると、本書のなかにあるいろいろなエピソードは後ろに遠退いて、伝統芸能の芸脈は、切れたり・よじれたりしながらも、どこからどういうところに繫がって・現代に伝えられて来た、ということを考えるきっかけが得られるはずです。そのようにお読みになれば、本書は芸の理解に必ず役に立ちます。

(H25・8・26)


○三津五郎の「髪結新三」・その2

今月(平成25年8月)歌舞伎座での、三津五郎の「髪結新三」について触れます。三津五郎は、総じて江戸前のサッパリした髪結新三で通しています。これはこれでひとつの行き方だと思います。ただし、三津五郎の仁としてどこか品行方正な新三に見えてしまうということがあり、陰のある根っからのワルに見えないところが損ではある。 その取りこぼしたところは少なくないのですが、江戸前の新三と上総無宿の新三を無理にひとつにしようとした感じでもなく、三津五郎は自分の仁において巧く新三を再構築できています。富吉町での新三を愛嬌のある気の良い男伊達という風に捉えるならば、その線で筋を通した形になっているので、新三の性格が そう割れた印象にならずに見ていられます。

先年亡くなった勘三郎であると脂ぎった体臭を感じさせるところがあって、こちらの方が新三の仁としては近いものでした。しかし、その一方で勘三郎の新三は、白子屋と永代橋・富吉町・閻魔堂前と通した時に、新三の性格が割れている感じがしました。永代橋での印象が やや暗くなって、富吉町の新三との間に性格の乖離が生じていました。これは必ずしも勘三郎のやり方が悪いということではなく、作品の新三の性格乖離を そのまま反映しているということです。だから本来愛嬌が売りである勘三郎の仁が、永代橋では十分生きなかったということになる。髪結新三というのは、なかなか難しい役なのです。この柿葺落興行の「髪結新三」は、もし勘三郎が存命で元気ならば、勘三郎の新三に・三津五郎の弥太五郎源七の組み合わせ が本来のところだと思います。三津五郎にもいろいろと思うところがあるでしょう。これは同じく同世代である吉之助も同様です。

三津五郎の新三の永代橋で忠七を蹴倒して言う長台詞の七五調は、写実でサッパリしてとても良い出来です。もっとたっぷり張り上げた方が芝居っ気があって良い とお感じの方がいるかと思いますが(勘三郎にはちょっとその気配が見えましたが)、
台詞終わり付近の「覚えはねえと白張りの・・」をちょっと時代に膨らませて、「しらをきったる番傘で・・・べったり印をつけてやらあ」をサラッと世話に流す、これが生世話の正しい行き方なのです。お手本にしたい七五調です。だから「ざまあ見やがれ」と言い捨てて去っていく新三の後ろ姿が、嫌味にならずに、痛快に見える。だからスッキリ江戸前の新三に見える。これから三津五郎に生世話の役どころで良い舞台を期待したいものです。歌舞伎の生世話の将来は 、この優に掛かっていると思いますね。

(H25・8・18)


○三津五郎の「髪結新三」・その1

歌舞伎というのはオリジナルな作品というのが意外と少なくて、歌舞伎や人形浄瑠璃の先行作があったり、読本・講談というネタがあったりすることが多いものです。そうすると、主人公の性格なども、そのような先行作やらネタでの主人公の性格を踏まえている・あるいは引きずっていることが少なくありません。これは昔の作劇が趣向本位なところで書かれているせいです。現代戯曲の視点から見れば作劇術が拙いということになるかも知れませんが、昔の戯曲というのは大体そんなものでした。だから、古典戯曲の場合は、役の検討の時に周辺作をチェックして見ると、そこに思わぬ発見があったりします。逆に、役の性格が分離して一貫性に欠けるように見えて、今ひとつ解釈に困ることもあって、その場合も、周辺作とかその他の要素が影響していることが多々あるものです。

「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」は明治6年(1873)5月中村座で五代目菊五郎が初演したものということは、ご承知の通りです。吉之助もそういうことは分かっていますが、それでも時々、吉之助は髪結新三を見ながら四代目市川小団次のことを思い浮かべてしまいます。実はそういうことはあり得ないのです。小団次は明治維新前の慶応2年(1866)に亡くなっているのですから、小団次が髪結新三を演じることなどあり得ないのです。しかし、黙阿弥は髪結新三を書きながら、「この役は小団次に是非やらせたかったなあ・・」と思って書いたのじゃないかと思うのです。菊五郎の方も、そういうことを何となく感じていて、黙阿弥が自分にはめて書いてくれたと分かっていても、「ここの箇所は小団次ならこうやったかな」ということを考えたような気がするのです。黙阿弥にとっても、菊五郎にとっても、それくらい小団次というのは大きい存在であったのです。

しかし、小団次と菊五郎との関係は、芸脈としては小団次の生世話を菊五郎が引き継ぐという位置付けにはなりますが、そこに二人の芸質(仁)の違いが、その演じる役どころに微妙に出てくるということになると思います。小団次の役どころを見ると、菊五郎が引き継いだものと、引き継がなかったものがはっきりあるのです。例えば、菊五郎が「村井長庵(勧善懲悪覗機関)」をやろうとせず、そのくせ黙阿弥に「長庵のような悪人が演りたい」と頼んで按摩道玄(盲長屋梅加賀鳶)を書いてもらったということに現れます。大体、昔の役者はその役が自分にぴったりの仁ではないと判断すると演じるのを躊躇したもので、仁ということにはとても敏感なものでした。

そこで髪結新三という役を考えてみると、やはり役の性格が割れているという 印象を吉之助は持つわけです。ひとつは、江戸前の粋(意気)な新三というイメージで、これは確かに五代目菊五郎のイメージということになるでしょう。もうひとつは、上総無宿の入墨新三ということで、これは小団次のイメージということになるのではないか。このふたつがぴったり重なることは、なかなか難しいように思います。昭和後半の歌舞伎 の新三役者で言えば、前者は二代目松緑、後者は十七代目勘三郎に代表されます。これはもちろんどちらも良かったのですが、そこに髪結新三の性格が割れているということを見ます。これは、多分、無理にひとつにしない方が良いのでしょう。やはり髪結新三は、白子屋 から永代橋・富吉町・閻魔堂前までを性格を一貫して通すことはなかなか難しいことだと、吉之助は思います。その辺の詳しいことはここでは省きますが、それはやはり「梅雨小袖昔八丈」の成立過程から来ているように思われます。

吉之助が思うには、新三の性格に無理に一貫性を持たせようとすると、特に富吉町の扱いが難しくなると思います。新三と家主長兵衛のやり取りというのは、どんな場合でも、落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいになるものです。つまり、軽妙で軽いお笑い タッチになります。大家と店子の馴れ合い構図みたいなものを感じてしまう。しかし、長兵衛の台詞をよく読めば、親分・弥太五郎源七にも屈しない新三がどうして年寄りの家主にかなわないのかがよく分かります。

『・・・入れ墨というものを手前は何と心得てる。人交じりのできねえ証だ。たとい手前に墨があろうが知らねえつもりで店(たな)を貸すのだ。表向き聞いた日には一日でも店は貸せねえ。・・・・おれが太えのを今知ったか。こういう時にたんまりと金を取ろうばっかりに、入れ墨者を合点で、店を貸しておく家主(いえぬし)だ。』

「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われる裏長屋の生活も、裏返せば、親方・子方という隷属関係によって常に監視される厳しい権力構造があったということです。 (別稿「かぶき者たちの心象風景」をご参照ください。)せっかく取った三十両の半分持っていかれるということは、新三も「仕方ねえなあ・・」とヘラヘラ笑って取られたわけではないし、長兵衛は有無を言わさず搾取するのです。そのような厳しい現実が、歌舞伎の「髪結新三」の舞台からは分からない。まあそれでエンタテイメントになるのかということは、別のこと。しかし、これは、多分、五代目菊五郎の初演の時から 今と同じ感触だったのだろうと思います。そこに菊五郎の仁が生きているということです。「髪結新三」は明治6年の初演なのですから、これはもはや江戸時代の歌舞伎ではないのです。

しかし、もし幕末の、明治維新前の東京ではない江戸で、本作を小団次の新三で初演したと、あり得ないことを想像してみれば、この富吉町の場面は、どうなったことでしょうかね。そういうことを想像してみることは、決して意味のないことではないと思います。(この稿つづく)

(H25・8・16)


○染五郎の伊右衛門

今月(7月)歌舞伎座の「東海道四谷怪談」の菊之助のお岩については別稿「お岩の悲しみ」で触れましたが、本稿では染五郎の伊右衛門をちょっと取り上げたいと思います。序幕や浪宅の印象では、どこかもっさりと冴えない伊右衛門という感じでしたねえ。線の太い悪人を出そう としてか、声色を太く低めに作ろうとしています。客席に声がよく通らなくて、ボソボソに聞こえます。何かをやろうという気概もなく、何をやっても気が乗らず・いつも大儀そうという感じに見える。これは伊右衛門の一面を確かに突いていると言えます。事実、伊右衛門という男は、結果的にはお岩を裏切ったには違いないですが、お岩がああいうことになったのは、伊右衛門が知らぬ内に伊藤家の者がやったことなので、伊右衛門に言わせれば「流れでそうなっちゃったけれど、あれは伊藤家がやったことで、俺 のせいじゃないも〜ん」というところが本音じゃないかと思われます。 根本的な反省が欠けているのです。刹那的な生き方をした愚か者ではあるが、決して極悪人とは云えません。とすれば染五郎の伊右衛門というのは、ちょっと中途半端な感じが吉之助にはしますね。つまり、行き当たりばったりの愚か者というにしては感触がやや重過ぎて 軽薄さに欠ける、強悪な人物にしては冷たさとニヒルさがちょっと足りない、そういう感じがします。

色悪の伊右衛門のイメージにこだわる向きには、恐らくこの染五郎の伊右衛門はちょっと点が辛くなると思います。色悪の伊右衛門というのは、お化け芝居としての「四谷怪談」上演の積み重ねのなかで怨霊としてのお岩に対抗すべく、伊右衛門に悪の強さを与えようとして出来上がったものです。これはもちろんそうなる必然性があってそうなったもので意味があるものですが、ただし、南北本来のイメージとはちょっと違うものです。吉之助には「隠亡堀」での「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞が取って付けたようで、いつも不自然に感じます 。強悪な伊右衛門を志向している今回の染五郎もそんな感じですね。それまでのこの芝居のなかで伊右衛門がそんな台詞を吐くほどの意思的なギラギラした悪に見えるしょうか?「取って付けたような」と書いたけれど、この台詞はホントに取って付けたもので、初演の翌年(文政9年)大坂での「いろは仮名四谷怪談」で書き足されたものです。まあしかし、今ではこれ が伊右衛門の性格を表す代表的な台詞ということになっているのだから、是非もなしです。吉之助の伊右衛門のイメージについては別稿「軽やかな伊右衛門」をお読みいただきましょうか。

ところで別稿「十二代目団十郎に捧げる助六」で海老蔵の喉の遣い方について触れました。歌舞伎役者というのは、役作りの時に声色を作ることで役のイメージに安直に対応しようとすることが少なくありません。つまり、意識的に声の調子を高くしたり・低くしたりして声色を 作るのです。これは決して良いことではありません。染五郎の伊右衛門にも、同様の問題を感じます。序幕や浪宅での伊右衛門の声が低く通らないことは前で触れました。一方、「夢の場」の伊右衛門の声は高く細めにして、客席によく通ります。これが染五郎の本来のトーンでしょう。恐らくこの場が色ものであるし、情緒たっぷりに甘い伊右衛門を見せようということで、そのように声を変えたのだろうと思います。しかし、同じ役のなかで場面 によって声の取り方を変えるのは、役作りに一貫性がないことで良くないことです。これはどちらかにすべきです。というよりも、染五郎の本来あるべき声(高い声)の方で統一すべきです。高く細い声だと極悪人の伊右衛門に見えないという不安があるかも知れませんが、結局、その方が染五郎の個性 に基づく説得力のある伊右衛門が作り出せるのです。そういうことを考えてもらいたいと思うのです。今回の染五郎の伊右衛門は、結構良いところを突いて悪くないと思いますが、今回はファウル・チップというところでしょうか。再演を期待したいですね。

(H25・7・28)


○古い映像を見る楽しみ・その2

前回シネマ歌舞伎クラシックについて触れましたが、昭和58年(1983)1月の歌右衛門の「十種香」について、ちょっと考えます。歌右衛門は大正6年(1917)1月生まれなので、 当時66歳の映像ということになります。歌右衛門はこの後、平成2年4月歌舞伎座でも八重垣姫を演じていますから、最後から2番目のものです。年齢を計算していてちょっとビックリしましたが、現時点の菊五郎(70歳)よりも若く、玉三郎(63歳)よりちょっと上 だったということになるわけです。こういうことは個人差が大きいことで、単純比較は出来ませんが、 玉三郎があの美しさをここまで維持しているのは稀有なことだと改めて思いますねえ。 (注:歌右衛門が美しくないということを言っているのではないので、念のため。)

ところで、当時の歌舞伎界での歌右衛門の位置(格)は、今に置き換えてもずば抜けて重いものでしたから、吉之助も当時、歌右衛門の一挙一動を見逃すまいと息を詰めて見たものです。歌右衛門の演技は見る者に緊張を強います。「十種香」自体がダレる場面がある芝居ですから、吉之助もさすがに緊張が途切れる時があり、「ここちょっともたれるなあ・・・ そう言えば三十年前も同じところでそう思ったな」などと、変なところで当時のことを思い出しました。もっとも吉之助は歌右衛門崇拝ですから、当時もこれを有難がって見たわけです 。

それは兎も角、生の歌右衛門の舞台を知らない・若い歌舞伎ファンの方は、この映像を見てどうお感じでしょうかね。「あ〜あ、演技がダラダラ長くて詰まらないなあ」とお感じか、 あるいは「(玉三郎さんと比べると)見掛けがちょっと気持ち悪〜い」とお感じか、まあそうお感じであったとしても別に不思議ではないこと です。玉三郎の美しさが歌舞伎の女形の基準になっている平成の世に、いきなりこの歌右衛門の映像を見せて「これこそ歌舞伎の女形の美だ」と言っても、ビックリするのも無理はないと思います。

しかし、願わくば、「演技がダラダラ長い」・「見掛けがちょっと気持ち悪〜い」という率直な印象をそのまま胸に秘めて、こういう奇妙な味が歌舞伎の味なのかなと思って歌舞伎を見続けていただければ・・・と思いますね え。三島は初めて歌舞伎の女形を見た時(十二代目仁左衛門演じる顔世御前)に、「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」ということを子供心に感じたと後年語っています。(「国立劇場俳優養成所での特別講義」昭和45年)そのようなくさやの味を、歌右衛門の八重垣姫に も感じてもらいたいものです。

30年前の吉之助が歌右衛門の八重垣姫に感じ、今度も映画を見て改めてありありと思い出したのは、「美しい着物着て化粧をした何か奇妙なものがヒナヒナ動きながら、そこに絶対的な美の概念を提示しようとしている」という、その感覚です。この感覚こそ 吉之助の歌舞伎観の原点です。美しい役者が演じているから八重垣姫が美しいというようなことではない。「美しい八重垣姫がいる」というイメージだけがそこにある。歌舞伎を見ながら、このようなことを考えさせる役者は、吉之助にとって、昔も今も、歌右衛門だけなのです。

(H25・7・10)


○古い映像を見る楽しみ

歌舞伎座が再開場して3ヶ月が経ちまして、歌舞伎に歌舞伎座があるのが当たり前の落ち着いた気分に、やっとなってきたところです。ところで、歌舞伎ファンの間で話題になっているのか・いないのか良く分かりませんが、6月末から東劇でシネマ歌舞伎クラシックという企画をやっています。(〜7月19日まで。)演目は昭和56年1月の六代目歌右衛門の「隅田川」、昭和58年1月の歌右衛門の「十種香」、昭和56年5月の十七代目勘三郎の「髪結新三」、平成9年9月の雀右衛門と富十郎の「二人椀久」に昭和59年4月の芝翫の「年増」です。(いずれも歌舞伎座)

吉之助はこれらの舞台を三階席から生で観ましたが、懐かしさもあったので、東劇に行って来ました。こういう映像は、昭和の歌舞伎を知らない若い歌舞伎ファンにこそ見てもらいたいものですが、客席を見回すと、やはり当時の舞台を見たであろうご年輩の方が多いように思いました。確かに芝居というのは生を見るのが基本ではありますが、有難いことに昭和50年以降は比較的映像記録が 多く残されていますから、探せば昭和の大幹部の舞台は結構見ることが出来ます。十八代目勘三郎や十二代目団十郎も、もう映像でしか見ることが出来ないわけです。若い歌舞伎ファンで、これからもっと深く歌舞伎を知りたいという方は、是非意識して映像を見て欲しいと思います。

吉之助は、クラシック音楽の場合でもそうですが、この曲の・この箇所をこの演奏家はどう弾いたかなという時に、手持ちの複数音源を、いろんな演奏家でとっかえひっかえつまみ聴きすることがよくあります。またそういうことが、楽曲分析の時に非常に役に立ちます。そういう聴き方が身についているので、歌舞伎映像でも手持ち映像を比較視聴することがしばしばです。もっとも吉之助は批評して文章を書くために映像を見ますので、こういう見方が誰にでもお薦めというわけではありませんが、得るところはとても多いと思います。大事なことは、こっちの方が良くて・ あちらは駄目とか、そういう決め付けをしないで見ることです。どんな解釈でも、それはそれとしてバックグラウンドというか・裏付けがありますので、そういうものはそういうものなのだなあと受け入れて見なければなりません。

今回改めてみた十七代目勘三郎の髪結新三(昭和56年5月歌舞伎座)のことでいうと、これは十七代目の一番最後の新三の舞台であったと思います。確かに晩年のことゆえ、万全とはいかないところがありますが、初めてこの映像をご覧になった若い歌舞伎ファンはどのようにお感じになったでしょうか。まず言えることは、思いのほか散文的な演技であるということです。これで歌舞伎なの?と云う方がいるかも知れない。これをちょっと崩れた感じできりっとしない世話だと受け取るか、力が抜けたいい感じの写実の世話だと受け取るかで、評価が分かれるところかも知れません。これはどちらの要素もあるところですが、型物的な世話物歌舞伎のお手本を見ようとすると、裏切られます。息子の十八代目の髪結新三の方がかっきりしていて、型物っぽい新三なのです。逆に云えば、意識的に型っぽくしないところが十七代目の特徴だと言えます。そういうところが、六代目菊五郎から十七代目・十八代目勘三郎へ向けて、線を引いて みると見えてくる。そこへ補助線として二代目松緑の新三へ線を引いてみれば、このことがもっとよく見えてきます。

例えば永代橋で新三が忠七を蹴倒して言う七五調のツラネなど、十七代目は「これよく聞けよ・・・」からの出だしは七五のリズムがきっぱりしない。というよりもリズムに乗るのを意識的に避けているような散文的な感触がある。(ここが大事なポイントなんですがね。)しかし、途中の「・・相合傘の五分と五分」というところではテンポを遅くして・そこをちょっと時代に張り気味にして、台詞にアクセントを付ける。ここでさりげなく七五のリズムを付けて おいて、また台詞を散文に戻す。台詞終わり付近の「覚えはねえと白張りの・・」でここをまた時代に張って、「しらをきったる番傘で・・・べったり印をつけてやらあ」をサラッと世話に流す。ですから、全体を散文で流しているように見えるけれども、勘所は しっかり七五で押さえており、微妙に台詞の色を変えている。台詞のなかに世話と時代の活け殺しがちゃんとあるわけです。実に巧いものですよ。

これと比べると、十八代目はかつきりはしているのだけれど、台詞の色はひと色でした。 十八代目の台詞が良くないと言うのではなく、このことから平成の歌舞伎が保守化の方向に傾いていることを読み取ってもらいたいわけです。ううむ、もし十八代目が七十代にまで長生きしていたとして、この十七代目の台詞の域にまで達したかな、そんな十八代目を見たかったものだなあなどと、そんなことを思いながら、十七代目の「髪結新三」の映像を見ていたのですがね。

(H25・7・4)


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