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吉之助の雑談22(平成24年7月〜12月)  


○新しい歌舞伎座で見たい演目

来年4月再開場となる歌舞伎座の杮落とし興行・最初の3ヶ月の演目が本日発表になったようですが、これと連動した企画で朝日新聞が10月「新しい歌舞伎座で見たい演目」ということでアンケート募集をして・昨日そのベスト10の集計が発表されていたので、その結果をメモしておきたいと思います。応募総数5、350通の結果だそうです。

1.勧進帳、2.助六、3.京鹿子娘道成寺、4・白浪五人男、5.義経千本桜、6.船弁慶、7.連獅子、8.阿古屋、9.仮名手本忠臣蔵、10.NINAGAWA十二夜

1位が「勧進帳」であるのはいつもの通りです。これは不動のトップですね。「勧進帳」はもうカブキの代名詞と呼んで良い演目なのでしょうねえ。その他は順当なところが並んでいるようではありますが、今回は三大丸本が上位に入った(12位に菅原伝授手習鑑だそうです)のは、設問の作り方も関係していると思いますが(六段目・七段目としてしまうと「忠臣蔵」の票が割れますから)、ちょっと心強い気がしました。「阿古屋」というのは初心者に取っ付き易い演目とは言えませんけれども・恐らく玉三郎さんをご指名の演目ということでしょう。ホウ?と思ったのは10位の「NINAGAWA十二夜」ですねえ。あるいは(残念なことに先日勘三郎が亡くなってしまいましたけれど)「野田版・研辰」なんて演目が入ってくるかなとも予想しましたが、これも肩の力を抜いて・気楽に楽しめるエンタテイメントということなのでしょう。

発表された杮落とし興行の演目を見ると、このアンケートの結果もそれなりに反映されているとは思います。けれど、どこか「さよなら公演」の時の演目と同じようにも思いますね。(まっニーズがあるということでしょうかね。)歌舞伎座閉場の間の2年 ちょっとの間、歌舞伎界でもいろいろなことがありました。海老蔵事件に始まり、富十郎・芝翫・雀右衛門が亡くなり、まさかの勘三郎と続いて、どうも暗い話題ばかりが 先行したような気がしますが、年が変わったら・すぐ新・歌舞伎座開場ということですから、ここらで歌舞伎も気分一新、新鮮な舞台を見せて巻き返してもらいたいとお願いします。

ところで「歌舞伎素人講釈」は2本の連載を半年中断したまま・年越しをします。平日は会社から帰って物書きするのが体力的にきつくなってきたのと(要するに年取ったということですが 、書くという行為は結構体力を消耗するのです)、題材はいろいろ浮かぶのですが・歌舞伎以外の方面へ興味が分散したとか・いくつか理由がありますが、懸案のテーマ をひとつひとつ形にして進めていきます。来年は良い年にしたいものです。

(H24・12・20)


○人間国宝・玉三郎・その2

「歌舞伎素人講釈」はもうすぐ13年目になりますが、吉之助はこれまで何度か玉三郎論的な文章を書こうとして・その度原稿をボツにしてきました。実は吉之助にとって玉三郎はなかなか微妙な題材なのです。と云うのは、書き進めるうちに筆に何やら反・玉三郎的なネガティヴな方向へ論旨が向かいそうな気配があって、玉さまファンとしてはそれ が困る。ということは、やはり玉三郎の美学というものに歌舞伎と相容れない要素が若干あるのかなあとも思うわけですが、吉之助としてはそういう功罪も含めてやはり最終的にはポジティヴな視点で玉三郎論を仕上げたい。こうなると、玉三郎のマクベス夫人に衝撃を受けて「これから歌舞伎をもっと真剣に見ていこう」と感じたあの頃の吉之助が歌舞伎に何を期待していたのだろうかという点をもう少し突き詰めていかねばならないことになりますが、これがまた難しい。

現時点の吉之助には玉三郎は若干ネガティヴに映るのかも知れません。吉之助は歌右衛門論の方は書きましたし、もう少し踏み込んだものをいずれ書きたいと思っています。こっちは書ける自信がありますけれど、玉三郎論の方が当分先の話になりそうです。吉之助としては歌舞伎の女形論を歌右衛門論を第1部にして・第2部を玉三郎論として・それで対としたい。そのような設計を考えていますが、第2部の方向性が決まらないから第1部も書けない。今の吉之助はそういう状態なのです。ということで、今回は雑談の形で玉三郎のことを書かざるを得ないわけです。

例えばこの映像をご覧ください。これは昨年(2011)11月・玉三郎が京都賞を受賞した時の記念のワークショップの映像です。(注:これは京都賞主催の稲盛財団の公式アップ映像です。)ここで玉三郎が解説する「女形の所作の美しさ」について、役者の実践的解説としてまったくその通りだと思いますが、この映像で見る玉三郎の動作を見ていると、吉之助はやはり落ち着かない感じがしますねえ。本番の舞台ではなく・ワークショップで素で観客に見せているのですが、むしろそれだからこそ本舞台よりはっきり見えるものがあるのです。

坂東玉三郎の美の世界―第27回京都賞ワークショップ―第2部

例えば映像3分辺りで玉三郎が「娘道成寺」の所作をする場面ですが、何だか身体を苛めず、身体を楽ちんに置いている感じで、とても気になります。身体の軸がユラユラ揺れて、フォルムへの意識が希薄に感じます。 実はこれは本舞台での玉三郎の踊りの印象と同じです。きちんと枠のなかに所作を押し込む意識と云うか、身体の周囲に結界みたいな空間が見えてくる感覚が欲しいと思います。そういうものがフォルム感覚です。このようなワークショップで断片をちょっと切り取っただけで、役者のフォルム感覚がどの程度かは分かるものです。歌右衛門にはそうした感覚が厳然とありました。「娘道成寺」でも歌舞伎座ではなく・座敷で踊っているような気がしたものです。そのような感覚を吉之助は「古典的」と呼 びたいのですが、この玉三郎の踊りにはそういう感覚が希薄に思われます。たぶん玉三郎は踊りを流れで捉えているということでしょうね。しかし、もしかしたら歌右衛門の芸の在り方の方が先鋭的かなということを思いますねえ。

昭和63年(1988)11月・東京文化会館でのモーリス・ベジャール・ガラのことを思い出します。この時、玉三郎は「娘道成寺」の一部をジェルジュ・ドンと並んで同じ振りをやりました。さすが世界の頂点に君臨する踊り手だと感嘆しましたが、上半身裸の黒タイツ姿で踊ったドンは、見事に日本舞踊の所作の勘所をキッチリ取って見せました。軸がしっかりした安定感ある振りでした。一方、横で並んで舞台衣装を着けて踊っている玉三郎の方が、まったくクニャクニャ踊りでありました。頭もユラユラ揺れていました。ちょっと残念でしたね。この時、吉之助は歌舞伎の女形芸の脆弱性ということを思いました。

「舞台に立つ時は身体を正面に置かず(そうすると男が見えてしまうので)斜めに置く・そうすると美しく見える」と玉三郎が言うのは、実践者ならではの解説なのかも知れません。しかし、吉之助は歌舞伎というのは観客に対して正面に置くのが、どんな場合でも ・女形の場合であっても基本であると考えます。まずこの正面の感覚をしっかり押さえておいてから、「崩す」ということで身体を斜めに取るのならば・それは良いでしょうが、身体を斜めに取るのが女形の基本だみたいな解説はあまりして欲しくないと吉之助は思うのです。映像3分辺りでの「娘道成寺」の所作のことですが、この場面は能掛かりの箇所で・下半身は内輪に取りますが・上半身はナンバに置かないのですから、上体はしっかり正面に取らないといけません。右肩が前に出そうになる時には・右肩を後ろへ引くのです。だから結果として身体の軸がブレない・金冠の紐が揺れないということを口伝ではうるさく言うのです。身体を正面に取ることで能掛かりのフォルムが出るのであって、紐を揺らさないことで能の品格を出すというのでは本末転倒だと思います。

女形芸の脆弱性と言うのは、女らしさ・美しさを表現する為の技巧がフォルムから実質を以って発想されるという正しいプロセスを踏まずに、技巧が技巧として浮き上がっているということです。美しさの為だけにある技巧ということですかね。ワークショップでの玉三郎の教え方を見ると、そういう感じがします。これも実践者としての感覚ということでしょうか。それはともかく、京都賞関連での稲森財団の一連の公式アップ映像には玉三郎を考える為の興味深いヒントがあるので、是非ご覧ください。ともあれ、「玉三郎の美学と歌舞伎の美学と・・」という多少の齟齬がありそうな問題をひとつにすべく、吉之助は悩んでいる最中なのです。今回は玉三郎論ではなく ・雑談と云うことで。

(H24・11・25)


○人間国宝・玉三郎・その1

本年(2012)の歌舞伎界もいろいろなことがありました。そのなかで「文化審議会が7月20日、歌舞伎女形の坂東玉三郎を重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定するよう文部科学相に答申した」とのニュースは最も嬉しい出来事でありましたね。吉之助が人間国宝・玉三郎の報を聞いてまず感じたことは、何時の発言かは忘れましたが(多分30年ほど前のことと思いますが)玉三郎は「舞台での自分の姿が自分で綺麗だと思えなくなったら、その時は女形を辞めて、演出とか他の方面で舞台の仕事をしたい」という趣旨の発言をしたことがあったと記憶していますが、今回玉三郎が人間国宝の答申を受けたということは「玉三郎が歌舞伎女形として最後まで(死ぬまでという意味ですが)やっていく」という覚悟を 決めたということだと思うので、吉之助もとりあえずそれでホッと ひと安心したということです。

実は吉之助は、もしかしたら或る時点で玉三郎は女形を辞めるかも知れないと、ずっと心配であったのです。ここ数年は何だか昔の当たり役を再確認か・納めるかのようにひとつづつ順番に演じているような感じがあり、「娘道成寺」や「鷺娘」は止め狂言にしてしまったし、そのなかでは 平成22年(2010)3月歌舞伎座さよなら公演での「道明寺」で玉三郎が覚寿(三婆のひとつと云われる老け役の大役)を演じたのはちょっと 嬉しい驚きではありましたが、歌舞伎座が改築のため閉場すると東京であまり見掛けなくなって・玉三郎が歌舞伎に集中してないように思えて、まあそんな心配がずっと吉之助のなかにあ ったわけです。しかし、兎に角玉三郎が今回「歌舞伎女形として、後進の指導と歌舞伎の発展のため、責任を持ってやっていく」という気になってくれたことを、とても嬉しく思います。

本サイト「歌舞伎素人講釈」のどこかで書いたかも知れませんが、吉之助が本格的に歌舞伎を意識して見るようになったきっかけのひとつは、実は玉三郎でした。ただし歌舞伎の玉三郎ではなくて、新劇の玉三郎ですが。それは昭和51年(1976)2月日生劇場での「マクベス」(シェークスピア)でのマクベス夫人、次いで同年7月国立小劇場(これは2日間だけの上演でしたが) での「斑女」(三島由紀夫・近代能楽集)の斑女ということになります。伝統芸能のなかの女形芸というものに対する衝撃という点で、玉三郎のマクベス夫人が吉之助に与えたものは実に大きかったのです。その衝撃がいかに 大きかったは、この時に主役マクベスを演じた平幹二朗がそのすぐ後に女役に挑戦したことで分かるでしょう。吉之助が見ても・この時のマクベス夫人の出来は主役がかすむような気がしましたが、平幹もとても悔しく感じたようです。平幹の「俺にだって女役くらいできるぜ」という気概を示したのが、昭和51年7月国立小劇場での・まさに玉三郎が「斑女」を演じた同じ日に次の演目「卒塔婆小町」(三島由紀夫・近代能楽集)の舞台で 平幹が演じた老婆(小町)で した。もちろんこの舞台もよく覚えています。このしばらく後に平幹の最大の当たり役のひとつとなった「王女メデイア」が来ます。(後に玉三郎も同じメデイアを演じました(昭和58年・1982・2月日生劇場)が、こっちは平幹の圧勝でしたね。)

実は十代の頃の吉之助は歌舞伎を見てはいましたが・それはドラマとしてのみ関心があったことで、歌舞伎の女形への関心の方は意識的にこれを排除して見ていました。つまり女形というのは江戸の昔は女優が禁止されて仕方なく在ったものなので・本来あるべきものでない・だから「女形は記号として見るべし・記号に留めて置くべし」という見方でした。正直に云うならば、吉之助は女形は気持ち悪いと思ってまして(これは今でもそうには違いないですが)、歌舞伎の女形には距離を置いていました。だから、そういう障壁を乗り越えて、吉之助の伝統芸能・歌舞伎の女形芸というものへの関心を呼び起こしてくれたきっかけが、実は玉三郎のマクベス夫人だったということです。

以後の吉之助は次第に歌舞伎を熱心に見ることになりますが、もっとも吉之助の歌舞伎の女形芸への関心は、その後は玉三郎中心に展開したのではなく、もっぱら晩年の六代目歌右衛門 (それと同時期に並び立った七代目梅幸)を中心に展開しました。このことは本サイト「歌舞伎素人講釈」をお読みになれば歴然としています。吉之助の歌舞伎歴の中核にあるものは、間違いなく六代目歌右衛門なのです。これは 過程でそうなってしまったことで、そうなる必然は当然あったと吉之助は自己分析しますが、かと云って・その後の吉之助のなかで玉三郎への関心が失われたということはまったくなく、「玉三郎が○○に初役で挑戦」とか「玉三郎○○年ぶりの当たり役」なんて云えば、玉三郎の節目となる舞台は吉之助は 大体見てきたはずです。だから吉之助は自身を玉三郎ファンと呼んで良いと思っていますが、それにしても、歌舞伎の女形に関心を持つきっかけが歌舞伎の玉三郎ではなくて新劇の玉三郎 だったというところに、吉之助の歌舞伎の女形芸に対する見方の特異なところがあるのかも知れません。(この稿つづく)

(H24・11・23)


○現代演劇における女装俳優

本稿は別稿「美しいものは見た目も美しくなければならぬのか」の補足みたいなものです。下の映像は彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄演出によりシェークスピアを連続上演していく「オール・メール・シリーズ」での 「トロイラスとクレシダ」(平成24年8月)でのものです。「オール・メール・シリーズ」とは何ぞやと云うと、さいたま芸術劇場サイトの角書に拠れば「シェークスピアが戯曲を書いた時代のスタイルそのままに、全キャストを男優が演じる」というものだそうです。ただし、正確に言えばシェークスピア時代の英国演劇では女性の役を演じたのは声変わりする前の少年俳優であったので、成人男性が女装して女性の役を演じたわけではないのです。また少年俳優が成人して・そのまま俳優となって主役級に成長したという例も極めて少ないことが分かっています。(別稿「演劇におけるジェンダー」をご参照ください。)まあ蜷川氏は別に16世紀英国演劇の復古・考証上演を意図しているわけではなかろうから・硬いことは言わぬことにしますが、蜷川氏はシェークスピア演劇における少年俳優をどういうものだとイメージしているのか?何を以って「シェークスピアが戯曲を書いた時代のスタイルそのまま・・」と称するのか、吉之助にはよく分かりませんねえ。

 

この映像「トロイラスとクレシダ」で美女クレシダを演じるのは月川悠貴という役者さんで彼は「オール・メール・シリーズ」のヒロイン格だそうです。確かにお美しい。姿かたちはほっそりして・触れなば落ちん雰囲気。声も細くて・それらしいし、吉之助もそうと知らなければ女性だと思って見るでしょう。しかし、これは月川さんが役者としてどうのということはまったく関係ないことですが、この美しさには 素材として確かに「わあホンモノの女性よりキレイ!」という驚きはあるかと思いますが、これは本物の女優で出せない美しさなのでしょうか?女装男優でなければならぬような何か、本物の女優では置き換えられない何かがあるでしょうか?

自然主義思想に染まった現代演劇では、男性の役は男優が・女性の役は女優が演るのが恐らく当たり前のはずです。またそれが男女同権の時代の芸術思潮にかなってもいます。それを破るのには目論見が必要です。蜷川氏はどこら辺りに目論見を持っているのですかねえ。現代演劇で女装男優が女性を演じるならば、それはどこか奇矯(キッチュ)で異界な何ものかでなければならないでしょう。それが表象するものは滑稽か崇高か、あるいはそれが入り混じったものになるかは場合にもよりますが、現代という時代がヴァーチャルな虚構のなかで価値を生み出し・世の中を翻弄しているわけですから、女装男優は演劇がそうしたものにどこか通じる何ものかということになるでしょう。そうならないのであれば、本物の女性が演じた方が「ホンモノの強み」があるだけマシと言うものです。「オール・メール・シリーズ」 の制作会見で美青年俳優たちに囲まれてニヤニヤしている蜷川氏を見ると、どうも蜷川氏はそういうことをあまり考えてないようです。

日本では能狂言でも歌舞伎でも、女性の役を男優が演るのが「伝統」としてあるわけで、そのために歌舞伎の女形も最初からそのように在ったかのように思っている方が多いようです。歌舞伎は出雲のお国が始めたかぶき踊りから始まりました。お国という女性が男装して踊ったわけです。もともとそういうことがあったから、歌舞伎にはもとから性の境界みたいなものがなかった・だから歌舞伎が女優を禁止されて野郎歌舞伎になっても男性が女装して女性を演じるという発想はすぐ出て来た・歌舞伎の女形 というのは宝塚の男役とは逆ベクトルの性の越境だというようなことを言う方がいらっしゃいます。実はそういうのは大きな間違いで、歌舞伎の女形というのは不自然で捻じ曲げられた存在なのです。歌舞伎での女優の禁止(1629)から初代中村富十郎(1772〜89)の内輪歩き を編み出すまで百数十年、この長い年月を歌舞伎の女形がどれほど苦労をしてきたのかを想像すれば分かることです。歌舞伎という演劇は女形という存在に合わせて自らの在り方を変えざるを得なかったのです。それが分からないと歌舞伎という演劇も分かりません。(別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」をご覧下さい。)

ですから虚構の現代において、しかも歌舞伎の女形が「伝統」として厳然と在る日本において、現代演劇がホンモノの女性と見間違えるような・ホンモノそっくりの人造美人を「ホンモノの女性よりキレイ!」なんて褒め たところでツマラぬと吉之助は思いますがねえ。演劇的にはキレイな女優さんを使えばそれで済むことなのです。どうせ女装男優を起用するならば、別のことを考えて欲しいものです。蜷川氏は歌舞伎座で「十二夜」を演出して何を学んだのですかねえ。

スティーヴン・オーゲル:「性を装う―シェイクスピア・異性装・ジェンダー

(H24・11・13)


○新コーナーの設置のお知らせ

やたら暑かった夏が終わりまして・東京もめっきり涼しくなりました。体感温度差が大きいせいか・肌寒い感じもしますね。吉之助は暑いのが苦手で・例年夏は思考能力がガタ落ちで・執筆の方が進まなくなります。現時点で「三島由紀夫の椿説弓張月」と「音楽的な歌舞伎の見方」のふたつの連載がもう三ヶ月ほど中断しているのはそのせいなのですが、涼しくなっても再開しないのはネタが尽きたせいではなくて、三ヶ月の間に 神経が別のところに行っちゃったせいです。大筋は頭のなかにあるのですが、書き始めるのにはちょっとした動機(きっかけ)が必要で、 それさえあればいつでも書き出せるのですが、それが三ヶ月の間に途切れちゃった感じですねえ。 神経が別の方に向いてそちらの方へなかなか向かないのです。 ひとつには現在の吉之助がクラシック音楽の方へ強く傾いているせいです。(誤解ないように、歌舞伎に関心がなくなったということではないです。)とはいえ吉之助はこの三ヶ月の間に論考の為にいくつかの材料を仕入れました。その成果のひとつは先日出来上がった「ボクの四谷怪談」であったりしますが、他にもいくつかのテーマが頭のなかにあります。 (近日にチェーホフの「桜の園」について書くことも予告しておきます。)まあ焦らず・ゆっくり自分のペースで課題をひとつひとつ潰して行きますので、現在中断している連載もそのうち再び伸び出すと思いますので・お待ちください。

ところでサイト「歌舞伎素人講釈」においでくださるお客様にはクラシック音楽の方で検索して・本サイトに辿り着かれる方が結構多くいらっしゃいます。音楽ノートも、「グレン・グールドの演奏」も多くの方に 読んでいただいています。そこから歌舞伎の方に迷い込むきっかけにこのサイトがなるのならば、それはとても嬉しいことです。度々申し上げていますが、「歌舞伎素人講釈」はもちろん歌舞伎のサイトで ・これが本柱ですが、クラシック音楽をもうひとつの重要な柱としています。吉之助自身がクラシック音楽批評から歌舞伎批評に入った人間ですし、これは吉之助が師としている武智鉄二もまた同様でした。(このことについては「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」でも触れた通りです。)吉之助は武智鉄二の思想とは「伝統芸能にフォルム感覚を取り戻すことである」と考えており、その基本をリズム感覚に置いています。したがって、吉之助の歌舞伎批評はクラシック音楽と切り離せませんし、つねにそこに立ち返って・伝統芸能を眺めます。ですから「歌舞伎素人講釈」がクラシック音楽の方に傾くと、「・・そうじゃなくてもっと歌舞伎のことを書いて欲しいんだけどねえ」という声が読者にあることも吉之助も感じてはいますが、むしろ歌舞伎にさらに立ち向かって行くために・吉之助にはクラシック音楽が ますます必要です。

今回サイトに新コーナー「吉之助の音楽の雑談」を設置することといたします。内容としては「吉之助の音楽ノート」の方は楽曲が中心で、「音楽の雑談」はどちらかと云えば演奏家が中心ということになると思います。記事はYoutubeの音声を材料に使うつもりです。(リンクがいつまで保持されるかという問題はありますが。)最近はYoutubeにおいて音楽に限らず膨大な映像データベースが自由に使える環境にあります。吉之助は音楽を聴いていて「あの演奏家はここをどう弾いたかな?」と思うことが よくあります。有難いことにそういう疑問の解決にかなりの部分応えてくれるのがYoutubeです。(まあ著作権的にはこれはどうかと思うのも確かにありますが。)曲の気になる部分を複数の録音でその表現を手軽にピックアップして比較できることが楽曲の理解にどれほど 役に立つかということは、これをやる方には実感であると思います。残念ながら伝統芸能の場合には現状そういう環境にありません。吉之助は仕方ないので・台詞回しについて言及した論考では自分でしゃべった録音を台詞の実例としてアップして付けてみようかと真剣に考えたことがありますが(結局はやってませんが)、まあそれはともかく、著作権切れした映像など公共の研究の材料にできれば・もっと分かりやすい記事に出来るのになあと思うところはありますね。

そういうわけで・「歌舞伎素人講釈」は歌舞伎のサイトから離れるのか?という心配はまったくありません。是非「吉之助の音楽の雑談」でクラシック音楽をお楽しみください。


(H24・11・3)


○丸谷才一氏追悼

先日(10月13日)作家の丸谷才一氏が亡くなりました。個人的には丸谷氏の「忠臣蔵とは何か」に大変お世話になりました。御霊信仰のことは知識としてもちろん知っていましたが、歌舞伎との関連を強く意識したのは吉之助にとっては丸谷氏の「忠臣蔵とは何か」のおかげです。ただし、 この本には丸谷氏がもう少し歌舞伎に詳しければなあと残念に思うところがあり(基本的なところで若干誤解がおありのようです)、論旨が次第に別の方向へ行ってしまいます。後半のお軽・勘平とカーニヴァルの話になるとちょっと付いていけなくなりますが、しかし、知的遊戯として面白い本ですね。吉之助の別稿「忠臣蔵は御霊信仰で読めるか」は、この本を材料に書かれたものです。

芝居は忠臣蔵 (丸谷才一批評集)(「忠臣蔵とは何か」を含む、丸谷氏の歌舞伎関連批評を集めたもの・文芸春秋)

吉之助は実は丸谷氏の小説の方は全然読んでないのですが、書評、とりわけ山崎正和氏・木村尚三郎氏との座談会形式での「鼎談書評」など、実に長年に渡ってお世話になりました。その書評のおかげで知った本は数知れません。特に対談での丸谷氏は、冷徹な眼で読むに足る本か・そうでないかを斬り分けるという感じは全然なく(これは山崎氏・木村氏も同様ですが)、単なる本好きオジさんが集まって・好きに任せて読んで気に入った本を「これがいいよォ」とわいわい勧め合ってるといった風で・その楽しさが伝わってくる感じで、いつの間にやら「そんなに良いのなら、ちょっと読んでみようかな」という気にさせられるという、そんな書評でありました。しかし、その背景には広範な読書歴から来る教養と・それに裏付けされたきちんとした世界観のようなもの(持論・美学)があるもので、だからそれは確かに批評になっていて、安直なご感想では決してなかったのです。ですから後に単行本になってまとめられたものでも・とても愉しく読めます。雑談 でそのまま作品になっちゃうわけです。まあこれはある種の「芸」とも云えるものでしたね。

(H24・10・28)


○美しいものは見た目も美しくなければならぬのか:その3

四代目中村雀右衛門は、七代目梅幸より5歳年下・六代目歌右衛門より3歳年下でした。世代としてはそう変わらないのですが、雀右衛門の場合は出征などのブランクの為・女形としてのスタートが遅く、これがキャリア的に大きなハンデになりました。このことを雀右衛門はこう書いています。

『(六代目歌右衛門とは)年齢的には三歳しか違わないとはいえ、女形のキャリアとしては、二十年以上の差があるわけです。(中略)歌右衛門さんには蓄積がある、スタートからして早いじゃないか。どんなに言い聞かせてみても、片方は素晴らしい芸を見せるのに、こちらは成果があがらないとなると、劣等感を持たない方がおかしい。ねたみはあったとお尋ねですか。いえ、それはありませんでした。芸に感嘆する気持ちは、ねたみといった感情さえ超えてしまうのです。ただ悔しいという気持ちはありました。自分の芸の未熟さを悔しく思うのです。・・・それにわたしに女形の道をつけてくださったのは、成駒屋のお兄さまでした。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

吉之助が歌舞伎を熱心に見始めた昭和50年代前半の記憶ですが、当時の雀右衛門が梅幸や歌右衛門と比べて技芸的に見劣りするということは決してなかったと思います。ただし、見終わった後にあまり印象が 強く残らなかったのも事実です。美しいけれど、どこか芸が寂しい感じがしました。そこが梅幸や歌右衛門との差でありました。これは芸に対する自信の無さ(先輩ふたりに対して引け目を感じていた)から来るものであったのかも知れませんが、 これは何よりも、「芸の花」ということに関連する問題でした。吉之助の思い出としては、梅幸は清楚ななかに折り目正しく、歌右衛門は濃厚な味わいにしてテンションが高い、それぞれ輝くような芸の花を見せてくれました。それに比べると、当時の雀右衛門は芸のオーラがまだまだ弱かったのです。「見た目の美しさ」ということならば、当時の雀右衛門は間違いなく梅幸より・歌右衛門より美しかったと思います。しかし、吉之助は、まさにその「見た目の美しさ」が邪魔していると感じていました。吉之助が見るところでは、当時の雀右衛門の美しさというのはまだまだ「生(なま)っぽかった」のです。つまり、 歌舞伎の女形の本当の美しさにまだ至っていなかったと思います。当時の雀右衛門の美しさは、生(なま)の美しさ・素の美しさ、つまり女優さんの美しさに近い感じでした。

昭和55年(1980)3月歌舞伎座での第1回・「雀右衛門の会」のことを思い出します。昼夜に演りたかった演目をずらりと並べて・壮観でありました。あの辺りから雀右衛門の自己主張がグッと頭をもたげてきたということだっただろうと思います。しかし、雀右衛門の美しさが、女形の美しさとして吉之助に認知されるようになったのはもう少し後のことで、やはり平成に入ってからのことでした。これは雀右衛門が歳を取って・素の美しさに衰えが来たということではなく、梅幸が亡くなり・歌右衛門が舞台に立たなくなって・必然的に雀右衛門が立女形として立たざるを得なくなって、そのことにより生じた責任感ということも関連するでしょう。またそれが次第に自信に変わって行くということもあったでしょう。いずれにせよ素の美しさに頼るところがなくなってきたということです。長く舞台を見続けていれば、そのような役者の変容も目の当たりにすることができるわけです。

ところで昭和50年代前半頃であったと思いますが、雑誌「演劇界」のグラビアで革ジャン・サングラスでオートバイに腰掛けてイナセなポーズを取った雀右衛門の写真を見て「こりゃ何じゃ?」と驚いたものでした。あれほど歌右衛門を 尊敬していた雀右衛門のことだから、女形のイメージを大切にしようとするならば・普段も和服で美しくしとやかに、歌右衛門のやることなすこと真似しても良さそうに思いますが、ところが全然そうじゃないというギャップの大きさが実に興味深いのです。雀右衛門自身は書著「私事」のなかで、「いったん舞台から離れると歌舞伎からも離れたい、そうでもしないと、わたしは四六時中、歌舞伎のことで頭がいっぱいになってしまうのです」と書いています。「私事」のなかで雀右衛門は巡業先のホテルで衝動的に飛び降りしそうになったことを告白しています。そのくらい雀右衛門の芸のストレスはキツかったということでしょう。

一方、このことを別の視点から見ると、雀右衛門が女形の芸をひとつの技術として割り切っていたことを伺わせます。これは初代芳澤あやめが芸談「あやめ草」で語った「平生(へいぜい)ををなごにて暮らさねば、上手の女形といはれがたし、常が大事と存ずる」という教えとは、ちょっと次元が違う芸の世界なのです。つまり、姿も心も本物の女性に成り切ろうとする努力とは違うものです。女性は美しいもの、女形は美しくあるべきもの、そのような永遠のテーゼのなかで歴代の女形はみな苦しんで来ました。女形の芸をひとつの特殊技能として割り切ろうとする考え方は、演劇 のなかに女形という嘘が存在する必然がもはやない(むしろ排除されるべきものなのかも知れない)という時代の、とても現代的な俳優の意識の在り方なのです。

そうは言っても、やはり見た目が美しい方が女形として有利なことは間違いありません。美しいと言われる方が嬉しいのも、これも役者の感情として当然のことです。女形のなかには、どんな役でもやたら白く塗りたがる・目元や頬にぽっと紅を差したがるのが多いようですが、まあ その気持ちも分からないことはない。昭和後半は映画・テレビの時代、つまり女優さんの表情がアップで詳細に観察できる時代です。つまり美のお手本がゴロゴロしているわけで、世間の女形の美の基準がそこに影響されるのは致し方ないところです。だから、見た目にキレイであることが、さも女形の要件であるかのように錯覚されることになる。キレイでないと、女形の存在意義そのものが脅かされるような不安を感じることになる。そんなことで「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」ような錯覚が生まれます。もっとも、二代目扇雀や五代目玉三郎のように時代の嗜好にうまくマッチしてブレークする女形もいますが・そういうのは幸運なのであって、普通はそこにまで至らないわけです。雀右衛門もキレイな女形の部類には入っても、そこにまで至ったわけではない。

昭和の時点においては、雀右衛門も理屈として頭で分かってはいても、知らず知らずのうちに女優美を真似る方向へ引っ張られるということがあったと思います。これは現代の俳優であるからこそなおさらそうなるのです。しかし、それは雀右衛門の迷いであったのです。雀右衛門が立派だと思うのは、平成に至って、雀右衛門がそのような迷いを振り切ったところで、素の美しさに頼ることなく・女形の美しさを自然に提示できる境地についに達したということです。そこでは素の美しさは飛んでおりましたね。そういう生(なま)なことはもはや感じさせませんでした。「ウサギと亀」の話ではないけれど、雀右衛門はスタートは遅かったけれど、途中で迷いもしたけれど、一歩一歩着実に前に進んで・それで平成の立女形の位置についたわけです。

ですから吉之助が晩年の雀右衛門の芸を総括するならば、「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という迷いから脱したところで歌舞伎の女形の芸を確立出来た・恐らくは最後の女形・・ということになるかも知れません。これからの歌舞伎の女形は、本人がどう思おうが・喚こうが、否応なしに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」というところに縛られることになる。いや、すでにそうなっている。女形にとっては、つくづく難しい時代になったと思いますねえ。

(H24・9・30)


○美しいものは見た目も美しくなければならぬのか:その2

「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」ということを受け入れるとして、「見た目が美しい女形」とはどういう女形を言うのでしょうか。美しさの基準は人それぞれのことですが、一般的に云うならば、 この場合は現実の女性美を照らし合わせたところの美しさを指すのでしょう。

例えば「○○のような女」という言葉があります。○○のなかに役者の名前が入ります。女形は虚飾の存在ですから・ 女形が現実の女性の理想像になるというのは本来おかしなことなのですが、その関係が逆転して、女形が現実の女性の美を模倣するのではなく・女形が世の女性の美の在り様を指し示すということが起こり得るのです。歌舞伎の歴史のなかで明治以降そのような稀有な女形が三人いたと吉之助は考えています。見た目が美しい女形は数あれど、吉之助が厳選した三人です。

最初のひとりは二代目松蔦(明治19年〜昭和15年)です。(別稿「松蔦のような女」をご覧下さい。)松蔦は 比較的若くしてなくなりましたが、二代目左団次の新歌舞伎の相手役になくてはならない存在でした。松蔦の美しさは本郷座に押しかけた帝大の学生さんの憧れの的でした。彼らは良い女のことを「松蔦のような女」と形容し ました。折口信夫が指摘した通り、その美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく・素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさであったとしても、松蔦の美しさは大正デモクラシーの時代の女性の自我の目覚めと情熱を象徴した、それは当時の若者にとってまぶしい美しさであったのです。

次に挙げるべきは二代目扇雀・すなわち現・四代目藤十郎(昭和6年〜)です。扇雀ブームの始まりは昭和28年8月新橋演舞場での宇野信夫脚色による「曽根崎心中」初演でのお初でした。この時 にも「扇雀のような女」ということが言われました。徳兵衛の腕を引っ張って花道を入るお初の姿に、戦後の民主化と、婦人参政権など女性の意識向上を重ねたものでした。(別稿「曽根崎心中での男・徳兵衛」をご参照ください。)ちなみに扇雀が武智鉄二と出会う・つまり武智歌舞伎時代の始まりというのは昭和24年のことで、「曽根崎」の時点では武智の仕込みの成果はある程度あったと思われますが、扇雀ブームで騒がれたのはその素の美しさのことであって・技芸のことではなかったのです。 昭和29年の「高野聖」では扇雀は着物を肩を脱いで・背中を半分くらい見せた格好までさせられました。従来の女形からすればとても考えられない売り出し方です。上方歌舞伎の衰退もあって、むしろブームが過ぎた後の扇雀は その反動でとても苦労したと思います。現・藤十郎は変わらぬ美しさを維持していますが、女形としての美しさが技芸に裏打ちされた形で認められるようになったのは、そうそう昔のことではありません。

三人目が現・五代目玉三郎(昭和25年〜)であることは言うまでもありません。玉三郎が注目されるようになったのは、三島由紀夫が昭和44年11月国立劇場での「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢した頃からでしょう。玉さまブームは今も衰えていません。これは驚異的なことですね。 玉さまブームの背景にもこの時代の美学の何ものかがあるわけですが、これは現在進行中のことですから・いずれ総括して書くことにします。

以上のことは、吉之助が挙げた三人の女形の技芸の評価と、まったく関係のないことです。またご本人が「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」と考えていた(いる)かどうかも、本稿ではどうでも良いことです。しかし、それとまったく無関係な ・無責任なところで、世間が勝手に彼らに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という概念を重ねていた(いる)ということは確かにあると思います。それを「女優美」と言ってしまうと完全にぴったりは来ぬのですが・それに重なるところが多いもので、つまりそこにイメージされるのは現実の女性の美しさと照応されるところの素の美しさなのです。上記三人の女形の場合にはそれがその時代のイメージとどこかで強く結びついているということです。 それはもちろん大事な意味があることです。それでも歌舞伎を長く見ていれば、そういうものは女形の美しさの必要十分条件ではないということが自然と分かって来ると思います。ところで、四代目雀右衛門(大正9年〜平成24年)は次のように語って います。

『(女形修行を始めた)最初は、女性の真似をいたしました。母親や傍にいる女性や女優さんの仕草や身体の動きを頭のなかでスケッチしておき、それを真似して出すわけです。(中略)それはともかく、歌舞伎の女形の芸は、どんなに女性らしい人でも、実際の女性とはまったく違うものなのです。いわば、この世には現実に存在しない女性です。歌舞伎の女形は、女優や実際の女とはまったく違う、異界の住人です。(中略)そんなことにも気付かないまま、わたしは女の真似と型を繰り返していたのです。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

雀右衛門は年齢から言えば藤十郎より年上でしたが、出征のブランクなどあって女形としての修行が普通より遅く、後に岳父となる七代目松本幸四郎の勧めで女形として本格的に再スタートしたのが27歳の時(昭和22年)のことであったそうです。若き雀右衛門(当時は友右衛門)には不安も焦りもあったと思います。映画に寄り道するということもあったりして・試行錯誤を繰り返し、それでも諦めずに地道に修行を続けて、とうとう最後に女形の頂点に立った人でした。○○ブームなどというものには無縁な方で した。「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という時代の女形として藤十郎・玉三郎に先駆けたなんて事実がないのはもちろんのことです。(この稿つづく)

(H24・9・23)


○美しいものは見た目も美しくなければならぬのか:その1

『女形に美しい女形と美しくない女形がいる。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出てきたのは明治以後だと、市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さということもあろうけれど、 一体に素顔の良くない女形が多かった。(中略)この頃は女形が大体美しくなった。しかし美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。二代目 市川松蔦は生涯娘形で終るかと思われる位小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさである。』( 折口信夫:「役者の一生」・昭和17年・文章を通すため多少吉之助がいじりました。)

*折口信夫:「役者の一生」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

平成24年2月23日に人間国宝・四代目中村雀右衛門が91歳で亡くなりました。晩年まで若々しさと美しさを保ち続けた女形でした。その追悼の番組であったか、ある劇評家先生(敢て名前を伏す) がこんなことを仰いました。「雀右衛門とほぼ同世代であった六代目歌右衛門や七代目梅幸は型より人間を描くことを重視し、演劇としての表現は美しさだけでないものがあると考えた。これに対して雀右衛門は「美しいものはイメージだけではなく・見た目も実際に美しくなければならない、美しくなければ困る」と考えた最初の女形であった。以後の女形は、藤十郎も玉三郎も、現実に誰が見ても美しい女形を作るようになった。それは雀右衛門が拓いたことである」と云うのでした 。

・・・「私にはそんなつもりはありません」と訴える雀右衛門の声が吉之助の頭のなかで響いたような気がしました。ホントに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」のか。女形は見た目 が美しくなければ駄目なのか。ホントにそうなのか。この劇評家先生にそんなつもりはなかったのかも知れません。しかし、芸を深く理解しない人が聞くならば・そのように受け取 られかねない発言なのです。あの芸に謙虚だった・謙虚過ぎるぐらい芸に謙虚だった雀右衛門がそんなことを考えたはずがなかろうに。 それにしても雀右衛門の芸をこういう形で総括されたのでは、泉下の雀右衛門も浮かばれないことだなあと思いました。吉之助も約40年に渡りその舞台を見て雀右衛門にお世話になりました。だから雀右衛門の為に、そこのところを少し考えてみたいと思うわけです。

雀右衛門は確かに驚異的と云って良いくらい、晩年まで若々しさと美しさを保ち続けた女形でした。雀右衛門は六十代に入って体力の衰えを感じてストレッチを始め、以来ジムに通って筋肉トレーニングを欠かしませんでした。高齢になってそういうことを日常的に努めた女形は雀右衛門のほかにいないそうです。雀右衛門の芸の若々しさと美しさはそのような弛まぬ努力の結果であったでしょう。それはその通りだと思いますが、その背景に「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という思想があったということでしょうか。雀右衛門がそう考えていなかったという証拠を挙げておきます。

『人間というのは鏡を前にすると、どうしてもそこに映った姿に頼ってしまいます。自主的にやろうとする心がなくなってしまいます。歌舞伎では「心」を「胎(はら)」といいますが、胎を忘れて、うっとりしてしまう。役者が自分の姿に惚れてはおしまいです。そこから先は伸びないからです。しかし、人は心弱いものですから、鏡に映った自分の姿が一応整っていれば、それが自分の姿だと思いがちです。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

中村雀右衛門:私事(わたくしごと)―死んだつもりで生きている

雀右衛門が六十代以後芸を追求する時に体力の維持を重視したことは確かでしょう。だから筋トレ・ストレッチを欠かさなかったのです。そのことを雀右衛門はこう書いています。

『歌舞伎役者の仕事は、年を重ねれば重ねるほど、芸はよくなっていきます。歌舞伎に限らず、人の世には、年を重ねてはじめて分かることが多いものです。(中略)理屈としてはそうなのですが、六十を超えると、今度は身体の方が弱ってきます。うまくなってきたなというとき、体力という壁が立ち現れるのです。(中略)芸の上では八十歳になって、お相手の立ち役にトンとぶつかったときに、ようやく応えてくれるものを感じるようになったと申しました。八十歳になったとき、はじめて、何か摑めそうな感触があったのです。このとき、体力がないと、摑もうにも摑めない。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

雀右衛門は十全な芸を見せるために体力の維持が大事だと言っています。素晴らしい芸は美しく見えるはずです。しっかりと鍛錬された身体は十全な芸を見せてくれるであろう。芸が十全に表現されるならば、それは見た目にも美しく見えるであろう。しかし、吉之助が指摘したいのは、そのような雀右衛門の努力と、評論家先生が「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」と云うことと、重なるところがあるよう でいて、実は全然重なっていないということです。意図してか知らずか、巧妙な論理のすり替えが行なわれています。この劇評家先生が云う「見た目の美しさ」とは鏡に映った役者の姿、素材としての美しさ・素の美しさということだからです。それは雀右衛門が言っていることと全然違うと思いますがねえ。(この稿つづく)

(H24・9・16)


○「ラ・マンチャの男」・1200回・その3

ご存知の通り・初代白鸚は初代吉右衛門の娘婿であり、吉右衛門劇団で長く芸の修行をした人でした。ところで、吉右衛門にはこんなエピソードがあります。三代目中村歌六は幼少の長男・辰次郎(後の吉右衛門)を芝居に親しませるために、弟子の十郎を辰次郎のお相手につけました。十郎と毎日お芝居ごっこをしながら、辰次郎は芝居のコツを身に付けて行きました。ある時、辰次郎は十郎にこう聞いたそうです。「十郎、お前と芝居をしているとこんなに面白いのに、どうしてお父っつあんのしている芝居を見てると、あんなに詰まらないのだろう。」

十郎はびっくりして、「そりゃあ、坊ちゃん、私たちのしているのは遊びだからですよ。」と答えました。「あんなの、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。アタイに芝居をさせようと思ったら、あんな人形の真似をさせないで十郎が芝居を買いておくれよ。十郎の芝居は、生きた人間が出て、我々と同じような事を言ったりして面白いよ。」十郎は困っただろうと思います。「そんな芝居は歌舞伎のように長続きなんかしないんですよ。すぐ飽きられてしまうんですよ。」辰次郎はしばらく考えてこう言いました。「・・・そうかな、アタイには分からない。」

『「そうかな、アタイには分からない」、この幼い一言が吉右衛門の一生につきまとって離れなかった、彼の一生を決定する大事なキー・ポイントだった。』、小島政二郎は「初代中村吉右衛門」のなかで、こう書いています。

小島政二郎:初代中村吉右衛門:講談社

初代吉右衛門と初代白鸚に血の繫がりはありませんが、上記のエピソードを読めば、吉右衛門と娘婿・白鸚との間に、更にその延長線上を見れば・孫の九代目幸四郎へ向けて、真っ直ぐな線が引けることが分かると思います。芸脈というよりも、もっと根本的なもの、「生き方」というか、そういうものです。

巷の歌舞伎本など見ると、初代吉右衛門のことを「熊谷や清正など英雄豪傑の役を得意とした・スケールの大きい時代物役者」、初代白鸚についても「時代物の座頭格の役柄を得意とした英雄役者」ということが書かれてい ると思います。そういうのは演じた役どころしか見ないで・そのイメージだけで推し量って書いているのです。吉之助はもちろん初代吉右衛門の舞台は見ていませんが(吉之助の生まれ る前に亡くなっているのですから)、その舞台を見なくても・文献でも良い、その芸を仔細に観察するならば、彼ら三代の芸の根本にあるもの・観客に提示するものは、「演劇における真実とは何か・演劇におけるリアリズムとは何か」という疑問であることは自ずと明らかなのです。それは、それぞれの時代における歌舞伎の在り方への懐疑 、「人生の真実を描く演劇としての歌舞伎はこれで良いのか」ということに繫がります。(別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」をご覧下さい。)

但し書きを付けますが、歌舞伎への懐疑とはアンチ歌舞伎、歌舞伎が嫌だということではないのです。むしろ、その逆です。歌舞伎というのは彼らの故郷なのですから、常にそこに立ち返らねばならない・ 歌舞伎から逃げることはできないということを彼らはよく分かっているのです。だからこそ、歌舞伎への懐疑がつのるということです。そういうものが彼らの芸のなかに何かしらの「新しさ」となって現れます。

『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」)

小宮豊隆:「中村吉右衛門論」:(「中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)」に所収

恐らくそれは保守的な歌舞伎ファンを幾分イラつかせる要素を含んでいると思います。幸四郎が歌舞伎を演る時に、その演技が心理主義的でバタ臭いと云ってお嫌いになる歌舞伎ファンが少なくないことは、その辺に原因があると推測します。そういうものは大正デモクラシーや・戦後の変革期の空気には沿ったのだけれど、この保守的な時代においてはピッタリこないのかも知れません。昭和50年代くらいから平成の・現代歌舞伎は保守化の傾向にあるということは、吉之助は本サイトでもよく書いてます。(もちろんこれは平成という時代の在り方に大きな関連があることです。)例えば「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れた通り、現代歌舞伎のなかでその活性化に多いに寄与したと評価できる二代目猿翁(三代目猿之助)にしても・十八代目勘三郎にしても、「歌舞伎良いとこ一度はおいで」という明るく健康的な要素はあるにしても(それはそれとして役立ったということはもちろん認めますが)、歌舞伎への懐疑というものは あまり見られません。いわゆる「歌舞伎らしさ」を大事にして、「俺たちはいつだってこのようにしてやって来た」というような・惰性で持っているダルい要素に対する批判(疑問)を持たなかったと思います。 一方、吉之助は歌舞伎における幸四郎を何でも両手を挙げて評価しているわけではなく、弁慶道玄など細部に多少の異議を感じる場面もなくはないのですが、あるいはその辺に六代目菊五郎の贔屓が「播磨屋の芝居は臭い」とよく批判したのと同じ車輪に走る悪い癖が出てはいるのでしょう。まあその辺は血かなと思うところはありますねえ。しかし、吉之助は歌舞伎を伝統に繋ぎとめるために・歌舞伎への懐疑は維持せねばならぬ (それがないと「何でもアリ」になって歯止めが効かぬ)と考えますので、幸四郎がそのような「歌舞伎への懐疑」の気持ちを持ち続けていることを支持したいと思います。

『本当の狂気とは何だ。夢におぼれて現実を見ないものも狂気かも知れない。また現実のみを追って夢を持たないのも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いを付けて、あるべき姿のために闘わないことだ。』

ミュージカル「ラ・マンチャの男」でのセルバンテスの台詞です。 幸四郎は恐らくこの台詞に自分の芝居人生を重ねているでしょうし、同時にそこに三代の人生が重なってもいるのです。

(H24・9・8)


○「ラ・マンチャの男」・1200回・その2

幸四郎の父上・初代白鸚は、歌舞伎の家に生まれていなければ学者か画家になっていただろうと言われたほど実直で真面目な方でした。昨年(2011)12月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書・松本幸四郎」の記事では、幸四郎が昭和17年(1942)に生まれた時に、白鸚(当時32歳)が「吾児の生立」という育児日記の裏表紙に書き留めた父から息子への言葉が紹介されていました。

「今、日本では道義を提唱し仁義をといている。しかし一歩振り返ってその裏を見る時、ことに芝居道においては偽善者様の我物顔の横行は自分のような馬鹿正直者にとり実に慨嘆の堪づ。諸先輩は即是世の中なりと諭せども、自分はあくまで道義を携え心の真を信条に一生を終わらんと思ふ。何に感じてか君の父はこんなことを書いてみたくなったよ。馬鹿になりきれぬ/\」(「私の履歴書・松本幸四郎」・第3回・読みやすくする為多少文字遣いを変えました。)

これを読めば、歌舞伎役者として白鸚が時勢とのギャップに真剣に悩んでいたことがうかがわれます。同時に昭和36年(1961)の東宝移籍というのは突然降って沸いたことではなくて、白鸚のなかで・戦時中からくすぶりつつあった憂いが形を変えて噴き出たに過ぎなかったということも、実によく理解できるのです。東宝移籍発表の時に白鸚は「歌舞伎は曲がり角に来ている。その行き詰まりを誰かが解決しなければならぬ。それを私がやるというのは、おこがましいことだろうか・・」ということを語ったそうです。兎に角いま踏み出さねばいつ踏み切るのだ・・と云った切迫感・焦燥感 が感じられます。(その後のことは千谷道雄氏の「幸四郎三国志〜菊田一夫との4000日」に詳しく書かれています。 標題の幸四郎は八代目(=初代白鸚)のこと。)

千谷道雄:幸四郎三国志―菊田一夫との四〇〇〇日

このような白鸚の焦燥感は、世界無形文化遺産になって・興行的にもそこそこ安定して・すっかり保守化した感のある平成の歌舞伎しかご存じない方には、ちょっと理解が出来ないかも知れません。 戦前・戦時中の歌舞伎のことはあまり論じられていませんが、この時期にも歌舞伎は時局に迎合する形で大きく変質しました。このことは上述の白鸚の述懐にも出ている通りです。敗戦になると歌舞伎は一転して反動に見舞われました。世間の価値観が一変した のです。民主化した日本はさらに急激に欧米化していきます。歌舞伎は庶民の生活感からどんどん乖離して、さらに映画とテレビに観客を奪われて行きました。昭和20年から30年代の歌舞伎は存亡の危機に瀕していました。歌舞伎滅法論・女形不要論が盛んに議論されました。当時の白鸚の焦燥感は、 当時の歌舞伎の在り方への懐疑というところまで至っていたと思います。似たような不安は当時の他の歌舞伎役者にもあった と思いますが、誰もそこまで真剣に深くは悩まなかった。しかし、白鸚はそうではなかったのです。悩んだ末の東宝移籍だったのです。(別の意味において歌右衛門もそうではなかったと思います。別稿「歌右衛門の今日的意味」を参照ください。)

「歌舞伎役者が演じるならばそれは歌舞伎です」というのは移籍発表の時の白鸚の言葉でした。これは当時も正しく理解されなかったと思います。白鸚のちょっと世間からズレた感覚を示していると云うような揶揄した感じで語られることが多いようです。しかし、これを 当時の歌舞伎の在り方への懐疑を発端とすると読むならば、これはまことに真剣な・しかも非常に挑戦的な言葉なのではありませんか。これは「すべての演劇は歌舞伎である・歌舞伎の精神を吹き込むことで歌舞伎にできる」ということなのです。

もっとも白鸚にも具体的な理論とか・設計図とかがあったわけではありませんでした。結果としては思った通りにならなくて・松竹に復帰することになるわけですが、吉之助が幸四郎の「ラ・マンチャの男」のなかで白鸚のことを長々書くのは、白鸚の生き様が息子である幸四郎にはっきり継承されていると吉之助は思うからです。「私の履歴書」の記事を読めば 、父の生き方を受け継ぎ・何らかの形でこれを実現したいという幸四郎の意志がそこに明確に読み取れます。 菊田一夫に「このミュージカルを息子に演らせたい」と懇願した白鸚の気持ちを改めて思い起こします。白鸚はドン・キホーテの姿に自分を重ねたのでしょうねえ。そして その思いを息子に託する気持ちがあった。そう考えれば、役者幸四郎にとって「ラ・マンチャの男」がどのような意味を課せられた芝居であるかは、分かりすぎるくらい分かると思います。

ところで白鸚の歌舞伎の舞台は幸いなことに・良い画質で映像が多く残されています。機会があれば是非ご覧になってください。特徴的なことは、弁慶でも由良助でも、その表情がよく動くことだと思います。これはどこか自然主義演劇的にも見えます。これは昭和30年代の表現感覚をよく現しています。今の方から見ると、これは歌舞伎的でないと感じる人がいても不思議ではないくらいに、目が・眉が・頬が動きます。しかし、主人公が今何を考えているのか明確に分かります。実在の弁慶も・内蔵助もこういう腹の大きい人物だったのだろうなあ・・ということを吉之助は白鸚の舞台を見ながら感じたものでした。目の前に本物の内蔵助が立っているようなリアル感覚が白鸚にはあったのです。 (こういうリアル感覚は他の役者にはあまりなかったものです。巧かろうが・良かろうが・あくまでそれは芝居でした。)しかも、ここが大事なことですが、白鸚の演技はそれで立派に歌舞伎になっていたということです。

幸四郎の弁慶や由良助の演技も、上記のような白鸚のリアル感覚の延長線において捉えるならば、なるほどそうあるべくして出て来た演技だということはすぐ分かるのです。ですから歌舞伎に・翻訳劇に・ミュージカルに・・という幸四郎のダイナミックな生き方は実は白鸚から直截的に発しているわけであって、それは現代歌舞伎の在り方への懐疑という問題に自然に帰っていくものなのです。(この稿つづく)

(H24・9・2)


○「ラ・マンチャの男」・1200回・その1

幸四郎のライフ・ワークとも言えるミュージカル「ラ・マンチャの男」が去る8月19日帝国劇場の公演で通算1200回を迎えました。1969年4月の初演から43年余り掛 けての快挙であるそうです。 「ラ・マンチャの男」の主人公ドン・キホーテ役は、「勧進帳」の弁慶・「アマデウス」のサリエリと並んで、俳優松本幸四郎の三絶とも云える役どころです。

ところで新劇での幸四郎は、新劇・あるいは現代劇の俳優さんからどのように評価されているのでしょうかねえ。もしかしたら幸四郎の新劇は歌舞伎臭い・つまり型臭いとネガティヴな見方をする方も少なからずいらっしゃるのか なと思ったりします。新劇というものは理念的には旧劇(歌舞伎)の否定から発しているので、これを素直に認めたくないという気持ちはまあ分からなくもありません。しかし、吉之助から見ると新劇俳優のなかにあって幸四郎のインパクトの強さは群を抜いています。幸四郎の新劇は型臭い ・様式感覚が強いというのは多分その通りであろうと吉之助も思います。それは台詞や演技のちょっとした独特の間合い・緩急の効いたリズム感などから出てくるのですが、吉之助が思うには、そういうものが新劇には 全般的に乏しいように思われる・ そのせいで演技が痩せて見えることが多いわけです。新劇が標榜するところのリアリズムが、ショボく見えて来るのですねえ。(注:すべての新劇役者がそうだと言っているのではありません。少なくとも主役級には優れた方がいらっしゃいます。しかし、それらは個人の資質あるいは努力によるもので、新劇と云うシステムから出たものではないように思われます。)だから幸四郎が出てくると「ものが違う」ような気がします。台詞が美しく・力強く・説得力を持って響くというのはこういうことだなあと気付きます。「台詞が音楽的である(様式的に聞こえる)」ということはその結果に過ぎないのです。この時、歌舞伎という存在にハタッと思い至ります。幸四郎の演技は「この役者のバックグラウンドとなっている歌舞伎というのは一体どのような演劇なのか・その正体が知りたい」という興味を呼び起こさせるのです。

伝統芸能の演者が現代演劇で芝居をするというのは幸四郎以外にも例は沢山あります。演者が芸の巧さ・味わいの深さというところで・その特質を示すということはもちろん多々あります 。しかし、それがいつでも「伝統芸能は凄い」という認識に直截的につながるわけでは必ずしもありません。吉之助が思うにはそのような気持ちを起こさせる役者は、伝統芸能の世界でも、歌舞伎の幸四郎と・狂言の萬斎くらいですかねえ。それは彼らが伝統芸能の世界にスタンスを置きながら、同時にある意味で危機感に近いピリピリした感覚を以って現代という時代に対峙しているからであろうと思います。だから幸四郎が歌舞伎役者であるということを、萬齋が狂言役者であるということを最も強く意識させるのは、皮肉で言うのではなく、彼らが現代演劇の舞台に立っている時です。

一方、幸四郎が歌舞伎を演る時に、その演技が心理主義的でバタ臭いと云ってお嫌いになる歌舞伎ファンが少なくないことも、吉之助はもちろん知っています。これは上記の感覚が裏返しに出てくるのかも知れません。周囲が「俺たちはいつもこういう風にやっている」という無批判的な感覚に浸っているので(これについては別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」をご参照ください)、幸四郎の現代的な要素が逆説的に目立ってくるわけです。 あるいは見る側(劇評家も観客も)の持つ歌舞伎のイメージが近年急速に保守化していることが考えられます。恐らく幸四郎に、歌舞伎と新劇・ミュージカルを演じ分けているという感覚はないと思います。幸四郎にとって、どれも等しく「演劇」なのです。だからこそこのことはとても興味深い現象だと言えます。

先ほど「危機感に近いピリピリした感覚」と書きました。実はこういう感覚は特に敗戦直後の歌舞伎(昭和20年から30年代)には強くあったものでした。民主主義の時代に封建主義の芝居を 漫然とやっていて・このままで歌舞伎はいいのかという疑問、伝統という名のマンネリズムへの批判、と同時に・この伝統を足掛かりにして新しい歌舞伎の形を模索して行かなければ・歌舞伎は滅び るしかないという危機感・焦燥感です。歌舞伎の危機は映画やテレビに観客を奪われるという形で顕在化しましたが、それとは別に現代に生きる人間のひとりとして・現代に歌舞伎を演じることの感覚的なギャップで苦しんだ役者もいたわけです。六代目歌右衛門にもそのような 危機感はあったと思いますが、そういうことを真面目に・あまりに真面目に悩んだ歌舞伎役者として、初代白鸚(八代目幸四郎)の名前を挙げておきたいと思います。つまり現・九代目幸四郎の父上のことです。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」は1965年(昭和40年)ニューヨーク・ブロードウェイの初演ですが、白鸚はニューヨークで初演間もないこの舞台を見て感激し・早速東宝取締役・菊田一夫に 国際電話して「このミュージカルを是非息子に演らせたい」と 強く頼んだのだそうです。当時・高麗屋一家は松竹歌舞伎を離れて・東宝へ移籍していました。「ラ・マンチャの男」が現・幸四郎のライフワークになるきっかけは、白鸚が作ったわけです。 もしかしたら白鸚は、自分が若かったら・自分がドン・キホーテを演りたかったのではないでしょうかねえ。(この稿つづく)

(H24・8・26)


○絶対的なるもの(続)

前項「絶対的なるもの〜吉田秀和最後の言葉」で「そういうもの(絶対的なるもの)の存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・」という吉田氏の絶筆の文章を引きました。ここで「絶対的な存在・絶対的な美・絶対的な表現」というものをちょっと考えてみたいと思います。巷間多く見かける誤解は、絶対的なものというものを「唯一無二のもの」・ただひとつだけの完全無欠なものという風にイメージすることです。「○○の演奏が最高・これを聴かなければこの曲は分からない・これに比べれば他の演奏は聴けたものではない」ってなことを言う方にしばしば出くわします。そういう方に吉之助は別に反論はしませんけれども(お好きになされば良ろしいことです)、静かにその方の傍を離れます。

「絶対的な表現」というものの解はひとつではないのです。○○ではこの表現が絶対だと思えても、□□では別の表現こそ「これしかない」と思えることはしばしばあるものです。 また別の表現でもそれが起きる。だから、その解は無限にあるのです。それじゃ絶対とは言えないじゃないか・・と言う方がいるかも知れませんが、「絶対的な」というのは域のことを言うのであって、そこに至る過程(解)は無限にあるのですよ。音楽を聴き込んでいけば、そういう真理は自然に会得されるものだろうと思いますが、しかし、残念ながら、そうならない 方もしばしばお見受けいたします。

ですから「そういうものの存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・」という吉田氏の文章は意味深なのでして、 逆に返して言えば「そういうものの存在に無関心な公衆・そういうことを感じ取らない公衆が増えてくれば、絶対的な存在・絶対的な美・絶対的な表現も消えてしまうということになるのだろうと思います。

まあ雑音の多い世の中です。「曽根崎心中」を見ても絶対的なるものを感じ取れない政治家もいるようです。「曽根崎心中」が分からなくても良いのです。別にその必要もないと思います。しかし、人がそういう世の中を 懸命に生きてきた時代もあったんだなあという真実(絶対的なるもの)は感じ取れなければなりません。そういうことが感じ取れない人物に今という時代の真実が感じ取れるとは、吉之助には思えないのです。「私はそういうことが感じ取れない貧しい感性の人間です」と公言しているようなものです。そういうことは普通恥ずかしくて 公の場で言えないものだと思いますが、感覚が麻痺しっちゃってる方はそういうことさえ分かりません。「感動しました」なんて見え透いたお世辞を言う必要はないのです。ツマランものはツマラなかったと言ってもらって結構ですが、絶対的なるものに懸命に迫ろうとしている人たちに対する最低限の敬意は持ってもらいたいものです 。

これは音楽や歌舞伎・文楽に限ったことではありません。「絶対的なるもの」という感覚は、いろんなところに、政治の世界においてもあるものだと思います。そういうものの存在に生活レベルにおいて敏感でありたいものだと思います。これは一票を投じる我々有権者にとっても同様です。そうでなければ良い世の中になるはずはありません。

(H24・8・4)


○歌舞伎の現代化(?)演出

またオペラの話から始まりますが、そのうち歌舞伎の話になりますから。ペーター・コンヴィチュ二ーという演出家をご存知ですか。いわゆるスキャンダル演出家の異名を持ち・奇抜なアイデアで話題をさらうオペラ演出家です。(コンヴィチュ二ーの演出については本サイトでは「アイーダ」を取り上げたことがあるので、そちらをご覧下さい。)確かにアイデアの奇矯なことはあるのですが、コンヴィチュ二ーの作品・あるいは音楽に対する態度は非常に真摯なもので、貴重なヒントをもらうことがしばしばです。恐らくこの方は親切過ぎるくらい親切な方で、自分が作品(音楽)から感じたものを目に見える形にして説明し尽くさないではおけない・そうするとああいう 極端な形になってしまうということなのだろうと思います。

許光俊:コンヴィチュニー、オペラを超えるオペラ

そのコンヴィチュ二ー演出ですが、音楽を止めて寸劇を始めてしまうことが多いことでも有名です。例えば「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の最終場面は・主人公ハンス・ザックスがドイツ芸術の栄光を称えて・全員がそれを歌い上げることで高らかに締めくくられます。実はこのオペラはヒトラーの大好き だった曲で、ナチスによって国威高揚のため大々的に利用されました。ワーグナー死後のことですからワーグナー自身はナチスと直接の関係はないはずですが、作品のなかにその遠因みたいなものがあるわけです。(このこと話出すと長くなるので割愛。) このことはドイツ人にとってとても苦い思い出で、したがってドイツ人は「マイスタージンガー」最終場面を素直に聴けない・聴くとナチスのトラウマがうずき出すという精神状態に今もあ るのです。この為どの演出家もこの場面の演出に苦慮します。(典型的なのは2007年・バイロイト音楽祭でのカテリーナ・ワーグナー演出でした。)

コンヴィチュ二ー演出「マイスタージンガー」(2002年・ハンブルク州立歌劇場初演)では、ザックスがドイツ芸術の栄光を称え始めると・舞台の人たち(ニュルンベルク市民)が騒ぎ出し、やがて音楽が中断してしまいます。ある者が「○○(役名のザックスではなく・歌手の名前)、お前はこの時代にそんなことを歌っていいのか、駄目だろ」と言い出します。「仕方ないだろ、俺じゃない、ワーグナーがこう書いているんだ」、「フランス語で歌っても誰もわからないよ」とか、会話が続きます。そのうち誰かが「グローバル化すればいいんだ」と言い出します。「そうだ、ハンバーガーだ、コカコーラだ」と皆が言い出します。議論の収拾がつかなくなったところで、指揮者が「ハーイ、みなさん、音楽再開しまーす」と声を出して・指揮棒を振り上げて、めでたく音楽が終了するというわけです。この演出をとんでもないと憤慨なさる方はオペラ・ファンにももちろん少なくありません。しかし、音楽が中断されて雰囲気がぶち壊しになるかというと・まったくそんなことはなく、音楽という骨格があるからこそと言えるでしょうが、オペラはこういう扱いにも耐えるのだなあ・舞台芸術というのは面白いもんだなあと思いますよ。

こういうことを歌舞伎でやってみたらどうなるかということをちょっと想像してみて欲しいのですがね。例えば「寺子屋」の最終場面・いろは送りの場面で、白装束の松王が突然観客の方に向き直り、「狂言 途中ではありますが、ひとりの人間として申し上げたいのですが、主人のためとは云え・大事なひとり息子を身替わりに差し出すなんてドラマを、私は断じて納得できません。観客のみなさんは、どう思われますか? 自分の子供を身替わりにできますか? 私には出来ませんね。○○屋さんは如何です?」などと言い出したとします。その後、舞台上の役者が議論したあげく、「□□屋さん、あなたの仰ることは、いちいちごもっともではございますが、まあ今日のところは これくらいにして、そろそろ舞台を収めようじゃありませんか。」、「左様ですなあ・・・それでは竹本さん、もう一度いろは送りを最初からお願いいたします。」ということで舞台を再開して締める、そのような場面を想像してみて 下さいさい。

義太夫という骨格があるので、こんな過激な扱いにも「寺子屋」は耐え得るのではないかという気が吉之助にはするのですが。もちろんこういう演出(型)を定本にはできませんが、一度試みてみる と面白いと思いますが如何でしょうかね。

(H24・7・22)


○絶対的なるもの〜吉田秀和・最後の言葉

去る5月22日に音楽評論の御大・吉田秀和氏が亡くなりました。その翌日から本サイトのアクセスが急激に増えまして・何事?と思いましたら、調べてみると・それは別稿「吉田秀和は本当に偉いのか?」の記事のせいでした。これは現在も続いていて、吉田氏の根強い人気を改めて実感した次第です。わざわざおいでいただきました音楽ファンには大した文章でなくて恐縮でした。本サイトも歌舞伎でなく・音楽でおいでくださる方も多いようですので、そっちの方の記事も増やしたいなあと思っています。

さて「レコード芸術」誌の今月号(7月号)では・遺稿となった連載の「之を楽しむ者に如かず」と共に「吉田秀和・追悼特集」が組まれました。そこでの記事ですが、雑談・前回で触れた「レコード芸術」誌・6月号の「名演奏家ランキング: ピアニスト編」について担当編集者に、「どうして今、ポリーニでも・アルゲリッチでもなく、ホロヴィッツなんだろう?不思議じゃない?(中略)あのランキングは、少し前ならやっぱりホロヴィッツがこんなに支持されることはなかったんじゃないだろうか。こんな演奏がいい、と皆が感じる何かが変わった。簡単に言えば、より広く、より自由な表現がも求められるようになった。いろんなことがひと回りして、また時代が変わったんだよ。」と仰ったのだそうです。この発言が5月21日のことだったそうですから、これが事実上最後の言葉になったようです。

吉田氏の仰ることは何となく分かる気がします。吉田氏がホロヴィッツ1位の結果に異議を唱えているのでないのは当然のことです。吉之助が音楽を聴き始めた1970年代であれば、当時のクラシック・ファンには古い録音より新しい録音の方が良いという感覚が間違いなくありました。こういうのは未来に希望が持てて・頭打ちになることなくどんどん成長していく時代の雰囲気に関連するものだろうと思います。もしあの頃にランキングを取ったならば、少なくともモノラル時代の名演奏家は後退して・現役中心の順位になったに違いありません。どうして今、ポリーニでも・アルゲリッチでもなく、20年前に死んだホロヴィッツなんだろう?という疑問は、改めて問われてみると、なるほど確かに「時代の何かが変わった」ということなのでしょうねえ。そういうことをサラリと指摘できる感覚が吉田氏の鋭いところです。

実は吉之助は昔からのホロヴィッツ・ファンであるので、ランキングの結果に違和感はないのです。投票した音楽評論家諸氏もホロヴィッツに同時代で親しんだ世代だと思いますから、批評基準のなかにホロヴィッツが沁み込んでいると思います。しかし、ホロヴィッツは1989年没ですからレパートリー的にもほぼ全体像が見渡せるものを良好な 音質で十分量残せた(映像も結構残っている)ピアニストだと思いますから、今後も恐らく「神話」が揺らぐことはないと思います。ホロヴィッツは神話になり続けるでしょう。吉田氏は「時代の何かが変わった」ということの意味を詳しく語らなかったようですが、絶筆となった「之を楽しむ者に如かず」を読むと、その答えは出ていますね。

『音楽、いや演奏というものは、ある絶対的なものの追求に他ならない。その絶対的なものはちょっとやそっとでは捕らえられず、実現できない。演奏家たちはそれを掴まえようと決死しなっている。私たちは、その姿に感動する。そうしてその彼らのなかから、ある絶対的なものに到達して、あるいはほとんど到達して「神話」の高みにまでのぼりつめようとしたものが出てくる。(中略)そういうものの存在に敏感な公衆がないところには、「絶対的なるもの」のきれはしさえ存在し得ないのだろうか・・・。』(吉田秀和:「之を楽しむ者に如かず」〜「ある絶対的なもののために・ハイフェッツとボロヴィッツ」・絶筆・「レコード芸術」誌・2012年7月号)

100年に渡る録音アーカイヴの蓄積のなかで、音楽表現は地層のように積み重なって、伝統芸能の如き趣きを呈し始めているのかも知れません。「神話」が確かにそこに存在したということが、録音・映像という・ある程度確固とした情報で確認できるからに違いありません。あとは自分の感性 と想像力で肉付けしていけば、神話は出来上がります。実際優れた演奏家というのは、他人の演奏・いろんな録音を実によく聴 くものです。現代の演奏家はそのような環境から逃れることは決してできないのです。本サイトは歌舞伎のサイトなので・歌舞伎で締めますが、歌舞伎こそ伝統芸能なのですから、そのような「絶対的なるもの」への憧れが常に頭のなかになければいけないと思います。そういうものの存在を昨今の歌舞伎は・歌舞伎評論は忘れていませんかねえ。吉田秀和氏のご冥福をお祈りします。

(H24・7・7)


○名演奏家ランキング

いつもの通り歌舞伎と関係ない話から始まりますが、先月(6月)号の「レコード芸術」誌の特集が、30名の音楽評論家の投票に拠る「名演奏家ランキング:ピアノスト編」というものでした。吉之助はこの手のランキングにもう全然興味がないので、お遊び程度に考えれば良いことですが、一応、順位を記しておくと、

1.ホロヴィッツ、2.リヒテル、3.ポリーニ、4.アルゲリッチ、5.ルービンシュタイン、6.グールド、7.ミケランジェリ、8.グルダ、9.フランソワ、10.ゼルキン

でありました。別に順位はどうでもよろしいのですが、まあそれなりの名前が挙がっているとは言えます。この10人のなかで現役はポリーニとアルゲリッチのみ、他は物故者ですね。20位までを見ますと、

11.バックハウス、12.アラウ、12.(同点)ギレリス、14.コルトー、15.リパッティ、16.エマール、17.ハスキル、18.ブレンデル、19.ギーゼキング、19.(同点)ケンプ、19.(同点)ラフマニノフ

このなかで現役はエマールのみ。ブレンデルは既に引退、他は物故者です。コルトー、リパッティ、ラフマニノフなどモノラル時代の演奏家の名前も登場します。この辺は歌舞伎で言えば、六代目菊五郎・初代吉右衛門・十五代目羽左衛門というところになり ましょうか。いちおう、20位までで入るべき演奏家はほぼ入っているという・至極まっとうな結果になっているようです。(細部を見ると個人的にこの人を入れたいという 思いは残りますが。)この豪華顔触れだとこれからの若手ピアニストが将来に1位どころかベスト10に入ることも、ほぼ不可能でしょうねえ。誤解があっては困るので付け加えますが、音楽批評の場合は録音媒体を材料にすることが多いため、対象のピア 二ストの時代がほぼ100年に渡ってしまい、上記のような結果になってしまうわけです。音楽評論家が現役ピアニストを軽んじて・過去のピアニストばかり聴いているわけでないのは当然のことです。むしろ現役ピアニストの解釈論を展開するために、ますます過去のピアニストを聴かねばならないということになります。それにしても、現役若手ピアニストが 聴衆からホロヴィッツやリヒテルと始終比べられていると思えば、これは確かにシンドイことだと思います。実際、吉之助も演奏会から帰ってから・同じ曲のいろんな演奏家の録音を取り出して・解釈を比べてみるなんてことはしばしばあるものです。 表現の巧拙などではなく、解釈が作品の本質にどれだけ迫っているかということです。音楽批評はもはや時系列を越えたところで成立していますし、そうならざるを得ません。

映像記録が急激に増えているとは言え、歌舞伎のように生(なま)信仰の強い世界で同じような現象が起きることは当面ないでしょう。しかし、時代と伝統芸術との乖離が徐々に強まっている昨今においては、過去の映像を見ることのニーズはますます高まっています。これは「芸のレベルが段々落ちてきている」とか「型が崩れてきている」ということではありません。今の歌舞伎が見ていられな いレベルで・昔の歌舞伎の方が良かったなんてことを言っているのではありません。伝統芸術というのは過去から発し・そこから展開していくものですから、常に過去に立ち返り・過去から高められねばなりません。だから過去の映像の価値が次第に高まっているのです。同様な意味において、現役歌舞伎役者は六代目菊五郎・初代吉右衛門・十五代目羽左衛門と始終比べられねばならないと思うわけです。

『(渋)(九代目団十郎の)助六なんかはどうですか。/(遠)これは昔は団十郎以外はやらなかったから。/(渋)ダメですか。/(遠)だれも足元に及びませんよ。/(渋)写真で見ると団十郎って人はそう大きい人じゃないでしょう。だから(十五代目)羽左衛門の方が見栄えがあるというような気がす るんだけれど。/(遠)しませんね。それはもう大変な違いです。/(渋)例えば弁慶なんかなら、先代(七代目)幸四郎の方が立派に見えるように思いますけど。/(遠)だけどもダメですね。/(渋)動かなくても出てきただけでもダメですか。/(遠)ダメですね。/(渋)それは遠藤さんの信仰みたいなものじゃないですか。/(遠)いや信仰と言われるかも知れません。信仰と言われても、そうじゃないという証拠がないからな。/(渋)同時に信仰だという証拠は挙げられませんわね。たくさん芝居をご覧になってる遠藤さんがそう言われるんだから、そうに違いないと思うんだけれど、そうですかね。/(遠)これが六代目菊五郎のすることと勘三郎のすることと、どっちがうまいかと言われりゃ、両方見てる方ならすぐ答えられるでしょう。それと同じだと、あたしは思うな。』(対談「歌舞伎よもやま話」・渋沢秀雄・遠藤為春・季刊雑誌「歌舞伎」第6号・昭和44年)

団菊爺いの遠藤為春氏の対談です。どこがどう違うと説明しないで、「全然違うんだ」とただ繰り返すだけ。こういうのを老人の繰言だと笑う方は多いかも知れませんが、どうも九代目は違ったらしい・・・ということを教えてくれていれば、役目は十分果たしているのです。九代目のどこがどう違ったのか・どこが良かったのか 、そういうことは我々が考えるべきことです。音楽批評の場合は膨大な録音資料がありますから・そういう意味では楽なわけですが、方法論としてほぼ同じと考えてよろしい のです。

『人はいつでもこう言います。「誰々の指揮した(ベートーヴェンの)第7交響曲を聴きましたが、素晴らしかったです。」私は答えます。「そんなことを私に言ってはいけません。私は同じ交響曲をマーラーが指揮したのを聴いたことがあるのですから。私には分かっています。」』(オットー・クレンペラー:「クレンペラーとの対話」・白水社)

クレンペラーとの対話 ピーターヘイワース編

吉之助は上記のような音楽の聴き方に慣れていますから、歌舞伎の場合でもまったく同じ対し方です。40年前はビデオなんてものは普及していませんでしたから、若い 頃の吉之助は雑誌で戸板康二や渥美清太郎・志野葉太郎といった面々の・型の研究の記事を読みながら、さっき見た舞台の光景を反芻してみたものでした。そこから感触の違いを自分で 想像したものです。今でも吉之助は劇場から帰ってから、同じ作品の気になった場面を複数の役者の映像でチェックすることがしばしばです。九代目団十郎や六代目菊五郎は映像というわけに行きませんから文献との併用になりますが、映像記録媒体を使用することに全然抵抗を感じないのが吉之助の評論スタイルなのです。 そういうやり方を吉之助はクラシック音楽から学びました。

それは当代海老蔵や染五郎・猿之助ら若手の芸と、九代目団十郎や六代目菊五郎・初代吉右衛門の芸を同一線上で捉えるということです。 これは、どちらが良いとか悪いとか・好き嫌いを論じるということとは違って、何かひとつの尺度のうえで芸を論じるという対し方のことです。もちろんその尺度は吉之助のなかにあるものですが、批評のなかで尺度の意味自体も問われることになります。昭和30年前後は雑誌「幕間」などでも伝統芸能家ランキングなんて企画がありました(もっともこれは当時現役の伝統 芸術家のランキングでした)が、近年はそういう企画はないようです。あってもファンの人気投票みたいな感じになってしまうでしょうね。今は歌舞伎の世界よりも、クラシック音楽の世界の方が ある意味で伝統芸術的なのかも知れませぬ。

(H24・7・1)


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