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吉之助の雑談19(平成23年1月〜6月)   


○伝統を信じる心

武智の演出場面に居合わせた方(あえて名前を伏す)の思い出話ですが、「鳴神」を演技指導をするなかで武智が「谷を隔ててという口伝がある」とか色々おかしなことを言い出す、そもそも「鳴神」というのは二代目左団次が復活するまで約二百年絶えていたものなのにそんな口伝が残っているのか?、こういうことを言って煙に巻くから普通の人は付いていけなくなるんだ、そのような笑い話であったかと思います。こういう話を聞くと、武智は伝統であるとか・口伝であるとか・型であるとか、 たとえ出任せであっても・もっともらしい屁理屈を言って、その権威で以って相手を黙らせようとするという印象になるのかもしれないと思います。確かにそのようなはったりの要素がなかったわけではないかも知れないと思います。そのように感じるのも武智の普段の言動に原因があったのでしょう 。しかし、吉之助はもうちょっと別のことを考えてみたいと思うのです。

武智が武智歌舞伎を始めた時、武智の述懐によれば、その時の扇雀(現・四代目藤十郎)は下手でどうしようもなかったといいます。一方で舞踊その他のジャンルから参加してきた人は、もともと芝居が好きで飛び込んで来た人たちなので器用で教えたことはすぐ取ったそうです。ところがそういう器用な人たちは「この役はこうでなければならない」、「ここはこういう声を出さなければこの役にならない」という肝心な時に反応しない。逆に不器用だった扇雀はこれは最初はどうなるかと心配していると、 口伝という言葉にピーンと反応して、苦労しながらでも遂にはものにするといいます。「これは家庭教育の問題ーつまり家庭環境が歌舞伎になっているということだ」と武智は言っています。(詳細は「芸十夜」・第9夜をお読み下さい。)

武智鉄二・八代目坂東三津五郎:芸十夜

「この役はこういう風に、こういう声で演じないとこの役にならない」と言われた時に、「どうしてそんなやり方でやらなきゃならないんだ、俺なら最少の努力でもっと効果の上がるやり方ができるぜ」なんて思っていると、遂に歌舞伎にならなくて終わってしまうということなのです。扇雀のような御曹司は、なかなか出来なくて苦労しても、「ここはこうでなければならない」という言葉、型とか口伝といわれるものを信じてひたすらついて来る、そうすれば下手でもいつか必ず歌舞伎になるということです。

まあこれは言い方を変えれば、実は「指導している俺(武智)を信じて黙って付いて来い」ということに等しいわけです。歌舞伎というのは、伝統芸能であるはずです。だから歌舞伎役者たる者は「これは口伝である」・「これは昔からの型である」という言葉に、神の言葉を聞いたかの如くに、無条件でピーンと反応してくれなければ困るということなのです。それをひたすらに信じて、苦しみながらでも・泣きながらでも、それでも付いて来れば、彼はいつか何かをつかむということです。口伝とか・型というものはそういうものだと武智は言っているのです。口伝とか型というものは、受け継ぐ者がそれが大事である・守らなければならぬ物であると認識することによって、初めて口伝となり・型となるのです。吉之助は 、「谷を隔ててという口伝がある」云々と武智が言ったということも、そのような意図が背後にあったに違いないと 確信しています。上記の挿話はそのようにお読みいただきたいわけです。

ですから、そんな口伝がホントに残っているのか?そもそもそういう口伝は正しいのか?何か文献的な根拠があるのか?なんてことが疑問として湧いてくる のは分からなくはないですが、そういうことは 実はどうでも良いことなのです。過去(先人)を信じる気持ちこそが大事なのです。それは信仰の如きものです。これを伝統・口伝・型として認める権利は、受け取る者が常に持つのです。つまり、伝統のスタンスは常に現代にあるということになる。このことが分かれば、伝統とか・口伝・型ということの本当の意味がおぼろげに見えてきます。

しかし、一般には、伝統・口伝・型などと言えば、それは「昔から守らねばならぬものとして厳然とあって・これを受け継ぐ後世の者は半ば義務としてこれを守ることを課せられる」みたいなイメージを持つのでありましょうねえ。それだから上記のような挿話が笑い話になってしまうわけです。武智はまだまだ誤解されていますねえ。

ところで、このところすっかり忘れ去られた感のあった武智鉄二の評伝が、つい最近、ひょっこり出版されましたので紹介をしたいと思います。森彰英著・「武智鉄二という藝術〜あまりにコンテンポラリーな」です。実は本の帯に「伝統を守った男はなぜボルノ映画の監督になったのか。豪放と虚栄、奢侈と零落・・」とあったのでゴシップ興味の内容(まあ世間の目を引こうとするなら武智への興味はまだそんなところにあるのでしょう かね)かと危惧しましたが、幸い内容は弟子である吉之助が読んでも納得できるもので、伝統芸能方面・映画その他の活動も含めて武智の業績をトータル的に素直に網羅できていて、「武智はどんなことをした人 なの?」という興味のある方には役に立つ本であると思いました。著者個人の生きた時代と重ね合わせる手法もそれなりに効果をあげています。

著者の武智の理解が正しいものであることは、「あまりにコンテンポラリーな」という本の副題からも分かります。 「伝統を守った男はなぜボルノ映画の監督になったか」という世間の興味は、あの謹厳な倫理道徳の先生が実生活では乱れまくっていたみたいなミスマッチングに受け取られていることから来ますが、結局、武智鉄二にとって、武智歌舞伎も映画も、どちらも現代にスタンスを置いたアヴァンギャルドな 芸術活動なのであって、両者に境目はなかったということなのです。吉之助は、そのような武智の考え方はノイエ・ザッハリッカイトの芸術思潮であったということを申し上げています。そのことが分かれば、武智歌舞伎とは何だったか・武智にとって伝統とは何だったかということも分かってきます。

残念ながら、武智の周囲にいらした方で武智の思想なり・方法論を継承発展させることを自ら任じて行なわれた方はいらっしゃいませんでした。それは武智の弟子を自認する不肖・吉之助の役目だと思っていますので、さらに伝統芸能での武智の思想を踏み込んで学びたいとお思いの方は、吉之助のサイトの記事などお読みいただきたいと思います。

森彰英:武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

(H23・6・5)


○武智のアバンギャルド感覚

前項において「武智の演出のセンスというのはこういうものだったのだなあ」ということは、いわゆるお芝居 の演出作品よりも・「蝶の道行」のような所作事の方が感覚的に・よりピュアにつかめるということを書いたわけです。それは巨大な蝶や花のオブジェとか・衣装デザインとか、そのような目に見えるもののことだけを言っているので ありません。武智の演出の基本になるものはアバンギャルド感覚だということなのです。それは明確に武智が生きた時代の感覚に立脚しているのです。このことが「蝶の道行」の舞台を見れば、感覚 としてパッと分かると思います。「アバンギャルドavent-garde」という言葉を最近はほとんど聞きませんねえ。つまり前衛芸術(または前衛美術)のことです 。20世紀初頭の芸術運動であり、特にロシア革命前後に起こったロシア・アバンギャルドはその代表的なものです。吉之助は別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」において、20世紀初頭の芸術思潮としてのノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)のことに触れましたが、アバンギャルドもその流れを汲むものです。

武智鉄二は「伝統」ということをとても厳格に考えた人であるというイメージが、世間にはあるだろうと思います。まあ、それは確かにそういう言い方もできると思いますが、ということは「伝統」という言葉にどのようなイメージを持つかで、武智の見方が百八十度変わっちゃうということなのです。「伝統を守る」というと、これは口伝だからその通りにやるべしとか、これは型を守らねばならぬから・こういうやり方を守るべしとか、 守るべき規範が最初からあって・これを遵守するというような保守的なイメージになり勝ちです。

例えば実際に武智歌舞伎の舞台を見た方のよくある感想として、従来の歌舞伎では腑に落ちなかった部分が武智歌舞伎を見ると「あっ原作はホントはこうだったんだ」という発見・感動があったというのがあります。これはその方の正直なご感想としてはもちろんよく分かります。しかし、それが現行の歌舞伎が原作を歪めたものであって・ 長い歴史のなかで埃や手垢にまみれたものが現行の歌舞伎であり・武智はそのような垢を洗い落として原作に回帰しようとしたという認識、あるいは現行の歌舞伎は堕落しており・武智はそれを 伝統の名において元に戻しに掛かったのだというような認識になるならば、それはちょっと困るのですねえ。「武智歌舞伎というものはそのようなものだったのじゃないか」と期待をされる方は巷間少なからずいらっしゃると思います。しかし、それはちょっと違うと吉之助は思うのです ね。そのような誤解は「伝統」という言葉の保守的な・旧弊的なイメージから生じるのだろうと思います。(もちろん大資本松竹に立ち向かうプロレタリア演出家武智みたいな はったりポーズをご本人が意識して取ったことも事実としてありますがね。)

伝統というものを、ずっと歩いてきて・ある時ふっと振り返って見て・後ろにはるかに見える長い道という風に考えたいのです。振り返って見た時に、そこに自分の出発地点が見え・試行錯誤の跡もそこに残っている、そのような道であるとします。だとすれば、自分の行き先を見失った時には・もう一度自分がいた場所に戻ってみればよろしいわけです。そこからもう一度新たな歩みを進めれば良いのです。武智は ただ頑なに「伝統」というものを守るべきものだとしたことは決してないのです。伝統とは我々日本人が歩いてきた道なのであり、出発点から現在までの地点に線を引いてみれば、我々日本人がこれから進むべき方向は自ずと見えるということです。そのような 創造・再構築の起点として伝統を捉え直すということなのです。

ですから武智歌舞伎とは、現代的感性で原作を読み直して・演出が伝統のなかに収斂(しゅうれん)されていく過程をヴィヴィッドに追体験しようとしたということなのです。それはアバンギャルドな創造行為なのです。吉之助が目にした武智の演出作品は数はそう多くはありませんが、それらはどれも出来立ての浴衣みたいに・糊がよく利いたパリッとした印象であったと思います。そこに吉之助は武智のアバンギャルド感覚を見たい わけです。西欧の現代演劇では、シェークスピアを現代風俗に置き換えてしまうような手法が今も流行です。しかし、武智のアバンギャルド感覚は、少なくとも歌舞伎では、そのような 手法で発揮されることはなかったと思います。武智は作品の再構築ということを古典化という手法で捉えようとしました。武智はその方法論を「伝統」という旗印のもとに構築しようとしたということです。(この稿つづく)

(H23・5・27)


○武智鉄二の「蝶の道行」のこと

ご存知の通り、歌舞伎の舞台というのは決して初演時の形態をそのまま伝えているものではなく、上演される度に役者の工夫が加えられ・さらに長い歴史のなかで取捨選択がされた・その結果が地層のように積み重なったものなのです。なかには作品解釈の見地からは理屈にはずれた・おかしな演出もしばしばあるのですが、そういうものさえ長年繰り返し上演されていくなかで歌舞伎の型としてこなれて・認知され るものになっていく、そうやって型は歌舞伎らしくこなれていくのです。そうやって「これでやらなければ歌舞伎じゃないよ」というものになっていくのです。型というものは初めから型として 創造されるものと思っては間違いです。型は繰り返し上演されていくなかで、本物の型になっていくのです。

ところで今月(平成23年5月)明治座では舞踊「蝶の道行」が染五郎の助国、七之助の小槙で上演されています。これは武智鉄二演出・川口秀子振付・山本武夫美術に拠るものです。「蝶の道行」は「けいせい倭荘子」という 天明期の歌舞伎のなかの所作事で、これは昭和37年(1962)9月歌舞伎座での武智鉄二演出による復活上演で大評判を取ったものでした。(この時の助国は七代目梅幸・小槙は六代目歌右衛門でした。)つまり武智がこの時に復活して いなければ、もうすっかり忘れ去られて我々の記憶のなかに残らなかった作品なのです。それも今では「蝶の道行」のひと幕だけがかろうじて上演されているだけですが、それでも「蝶の道行」が上演されるおかげで・「けいせい倭荘子」の名は残り 、我々も天明歌舞伎の名残りにちょっと触れることができるわけです。そして今は文献で想像するしかない演出家・武智鉄二の演出にも 、ここでちょっと触れることができるわけです。この武智の演出について「初演の時は斬新に見えたが・今見ると巨大な蝶や花・義太夫の曲・古色蒼然として もはや時代遅れに見える」というようなことを言う方がいらっしゃるようですね え。

吉之助が思うには、武智演出による「蝶の道行」の舞台は昭和30年代半ばの アバンギャルド感覚を反映していて、確かにその時代の空気を濃厚に感じさせるものです。昭和37年は吉之助はまだ物心付くか付かないかの時代ですから・もちろん吉之助はその初演の舞台 を見ていませんが、その時の観客が感じたであろう新鮮な感覚は何となく想像ができます。その初演時の観客の感動を大事にしたいと思うのですねえ。 これは役者だけのことを言っているのではありません。観客にとっても同じことなのです。例えば九代目団十郎も・六代目菊五郎 もそれぞれの生きた時代の感覚を取り込みながら型を創造してきたのです。そのような・それぞれの時代時代の感覚も歌舞伎は取り込み 、それを地層のなかに組み込みながら、歌舞伎は少しつづ変化して来たのです。そのなかに武智の感覚が取り入れられ ることは、むしろそれはとても素晴らしいことだと吉之助は思うのですね。型というものは、つねに時代に立脚し・そこから発するものですが、良いものはやがて時代の制約から離れていくものです。その過程にあるものをよく見極めることです 。我々は型が型になっていく・その過程を見ているのです。そういうことを考えながら舞台を見てもらいたいと思うのです。

吉之助はもちろん伝説の武智歌舞伎時代は文献で想像するだけで見てはいませんが、それでも幸い武智の存命中にいくつかの演出作品を目にすることができました。(注:武智歌舞伎というのはマスコミが付けた呼び名で、当時は歌舞伎再検討公演と言いました。)だから、それらの舞台に共通した我が師匠である武智の理念というものをそれなりに感じ取っているつもりですが、いわゆるお芝居より・「蝶の道行」のような所作事の方が、理屈より感覚として「武智のセンスというのはこ ういうものだったのだなあ」ということが、よりダイレクトに・よりピュアにつかめるような気がしています。お芝居というのは、やはりどこか理屈が先に立つものです。所作事の方が作り手のセンスが生(なま)に出るのでしょう。武智の古典感覚が直接的に分かるという意味においても、「蝶の道行」は是非長く伝えて欲しい舞台だと思うのです。

それでは「武智のセンスというのはこんなものだったのだなあ」というのはどういうところにあるかと言えば、それはやはり20世紀初頭のノイエザッハリッヒ・カイトに根差したアバンギャルドな感覚であるということです。それが武智の「蝶の道行」であり、つまりアバンギャルドな感覚において古典を再構築しようとしたのが武智歌舞伎であったということなのです。「蝶の道行」の舞台をご覧になれば、そのことが実感としてお分かりになるはずです。(この稿つづく)

(H23・5・19)


岩波現代文庫「市川海老蔵」

昨年末・曽我五郎孝俊は名刀友切丸の詮議の為西麻布近辺を潜伏捜査中・喧嘩ふっかけた相手に逆に鼻の穴に屋方船を蹴り込まれ重傷を負ったとか。とんだリオンいや梨園の騒動でありましたね。まっそれはともかく、岩波現代文庫から犬丸治さんの新著「市川海老蔵」が出ましたので、これを紹介したいと思います。

犬丸治:市川海老蔵 (岩波現代文庫)

犬丸さんが御本で述べていらっしゃる大事なことは、長い歌舞伎の歴史のなかで市川団十郎(並びに海老蔵)という名跡が持つ位置・というより役割ということです。言うまでもなく歌舞伎の芸脈の流れというのはいくつもあって、もちろん市川家もそのひとつの流れに過ぎなかったわけですが、いつしかそのなかで市川家が特別に重い役割を負わされていくことになる、そのことなのです。吉之助はそれは案外それほど昔のことではないと考えますが、現代においては市川家という名跡が歌舞伎の本格と言うのと等しいような扱いを受けるようになっています。歌舞伎の何を以って「本格」と称するのかということは、非常に難しい問題です。人によって出す答えがさまざまになるのかも知れませんが、一応吉之助はここでは「元禄の昔から現代まで真っ直ぐにつながって見える歌舞伎の一筋道」としておきます。そういうものがある。そのことを海老蔵にはよ〜くお考えいただきたいわけです。

現代において伝統芸能の家に生まれることは決して居心地の良いものではないと思います。根っから芝居好きで・やっぱり役者の子じゃなあという子供もいるにはいますが、生まれた時から道を決められているというのも辛いだろうと思います。大抵の子供は学校の友達ともっと遊びたいのに厳しい稽古の毎日・どうして歌舞伎役者の家なんぞに生まれたのかと自らを呪う日々ということがあるかも知れません。それでもいつの間にやら役者になっていきます。役者にされていくのではなく・役者になっていくわけです。しかし、大名跡の御曹司として生まれるということは並大抵のプレッシャーではないでしょう。傍から見る者には計り知れない苦悩・ストレスを海老蔵は背負っているに違いありません。そのことは十分察させられますし、まあそういうことが今回の事件の伏線になっていると思います。しかし、もうそれは制御されねばなりません。それは結局、長い歌舞伎の歴史のなかでの市川団十郎(並びに海老蔵)の位置・役割をよ〜く踏まえるということなのです。

海老蔵の初演の「助六」を見た時には、吉之助も「これで歌舞伎の寿命は50年延びた」と感激したものでした。しかし、助六は確かに元禄のかぶき者・ならず者・愚連隊ですが、それは三百年以上経って干物になって・たんぱく質は良い感じに変質し旨味を増して・元のものとはまったく違ったものになっているのです。生(なま)物ではありません。現代の劇場でならず者・愚連隊の行為をまともに見せ付けられちゃあ、生(なま)過ぎて嬉しくない。制御されてしまえば・芸が小さくまとまって 魅力なくなってしまうなんて言う人が時々いますが、制御ができてない芸などホントは芸とは呼べないのです。それで小さくなるなら小さくなるで結構、吉之助は制御された芸が見たい。舞台で愚連隊の振る舞いは見たくない。芸というものは、観客に熱さを感じさせても・決して物を焼き尽くすことのない火みたいなものなのです。本物の火とは違う。この違いを分かってもらいたいと思うのですねえ。

四代目団十郎は息子(五代目)が定九郎を新趣向で演じたいというアイデアを出した時に「団十郎は左はせぬものなり」と言ったということです。吉之助は、海老蔵が猿之助に教えを乞うて「四の切」や「伊達の十役」を演じたことを必ずしも否定的に見てはいませんが、そうした要素をも長い歌舞伎の歴史のなかでの本格のなかに取り込む覚悟があるならば良しということです。吉之助は海老蔵にその気概ありと見ましたが、それならばなおのこと逸(はや)る気持ちをうまく制御願いたいものです。歌舞伎四百年の時の流れを考えれば十年・二十年など一瞬のことなのですから、一筋道をひたすらまっすぐ堂々進んで欲しいと思いますねえ。

(H23・5・8)


○N響イン・パーチェス

いつものように歌舞伎と関係なさそうな話から入りますが、そのうち歌舞伎にも関連してきますので・まあお読みください。先月11日の東日本大震災の2日後・13日のことですがNHK交響楽団の一行が北米演奏旅行に出発し、名指揮者アンドレ・プレヴィンの指揮のもと4箇所で公演を持ちました。突然の大災害のことであり・時間が経つにつれその被害が並大抵でないことが明らかになってきて・公演中止が心配されましたが、身内が被災された若干名の団員を除いて・結局演奏旅行は行なわれたわけです。当然ですが、迎えるアメリカの聴衆の心境も複雑だったと思いますが、全体的に公演は好意的に受け止められたようです。この演奏旅行のひとつ3月20日・ニューヨーク郊外・ニューヨーク州立大学・パーチェス校ホールでの演奏会がNHK教育テレビ「プレヴィン・N響 祈りの響き〜N響イン・パーチェス」というタイトルで放送されました。

北米旅行の演奏会では当初予定されたプログラムに先立ち大震災の犠牲になった方々への追悼の意味を込めてということでバッハの管弦楽組曲・第3番から「アリア」が演奏されました。しかし、この演奏を聴いていて・吉之助は何とも不可解な気分に襲われました。それは「プレヴィン・N響 祈りの響き」という番組タイトルとまるでかけはなれた印象でした。テンポが若干早めだが、しかしまあ早過ぎるというわけでもない。テンポが問題ということではないですが、あまりに淡々とし過ぎるように思われました。弦の旋律がまったく心に沁みて来ない。もっと息を込めて旋律を弾いて欲しいと思いました。 不感症的に音楽を奏でているように感じられました。これはどういうことなのか。どういう気持ちで楽団員はこのアリアを弾いているのか。これは考えてみるに、感情込めてしまうと取り乱して弾けなくなりそうなので、努めてそのことを考えないように・形を整えることを優先して弾いているというような・そのようなマイナスの気持ちが、楽団員のなかに強く作用しているように感じられました。これは非常に良ろしくないことで、吉之助が不可解に感じたくらいですから、日本の甚大な被害に同情して犠牲になった方々に祈りを捧げようとしているアメリカの聴衆には相当に不可解であったと思います。事実、その翌日(21日)であったか、ニューヨーク・カーネギー・ホールでの演奏会のアリアの演奏について、ニューヨーク・タイムズの批評は読んだ感じは吉之助とまったく一緒であって・「儀礼的に演奏された」と書かれています。一応形通り演奏されたということであって、祈りの気持ちをその場の聴衆と共有できたというところに至らなかったということだと思います。

吉之助は放送を見てこの不可解な印象が演奏会の最後の最後まで抜けませんでした。武満徹の「グリーン」は癒しの響き・祈りの響きがある佳品ですが、表面は整っているけれども硬い感じがしま した。まあ分かり易いと言えないこともないが、もっと澄んだ水のような響きが欲しいと思います。エルガーのチェロ協奏曲は憂いの表情が強い曲で、独奏者のダニエル・ミュラー・ショットは追悼の意味を込めたということでしょうか・それを振幅の大きい表現でとても濃厚に出しました。ところが、オケの方がそれを受けきれていない。何だか感情を出すことを控えているような感じさえしました。最後のプロコフィエフの交響曲第5番は硬めのリズムが前面に出る曲なので・さほどの違和感はなかったけれども、いまひとつインパクトが足りないと思いました。 リズムにぐっと腹に来る怒りというか・憤りというか・そういう重いものが欲しい。それが弱い。こういう演奏になったのはもちろんプレヴィンが責任を負うべきですが、N響の楽団員の方々もこのような状況においては感情の揺れというものを恥ずかしがらずにもっと素直に出すということが出来ないと、N響はいつまでたっても世界の超一流に伍すオケになれないなあという印象を強く持ちました。

何かが原因で感情が異常に高ぶっている時に・その感情を表情に出して取り乱してしまうのを強く恥じるところが日本人はあるようです。これはルース・ベネディクトの「菊と刀」にも出てくる日本の「恥」の文化ということに発するのかも知れません。それは日本人の美徳ということに深くつながっている部分もあるのかも知れません。しかし、少なくとも音楽のような世界の共通言語的な分野においては・しかも外国の聴衆相手に演奏とするということになればそういうパターンは捨てないと、いつまでたっても世界のなかで「日本人は何を考えているのかよく分からん・日本人は気味が悪い」ということになりますね。

このことは別稿「町人階級と浄瑠璃」で触れましたが、司馬遼太郎氏は小説「菜の花の沖」で、ロシアに拿捕された主人公高田屋嘉兵衛がその最大の難局において彼がとった演劇的とも言える行動(嘉兵衛はマストによじ登り髻を切り落とし刃物をかまえ船長リコルドに「お前と一戦交えてその後俺は腹を切る」と叫んだそうです)は、当時の商人の素養としての浄瑠璃から発しており(嘉兵衛は拿捕されてロシアの船に移動する時にも浄瑠璃本数冊を持っていくほどの浄瑠璃好きであった)、これが浄瑠璃の素養がない武士であったとしたら・たとえ嘉兵衛と人格で劣らない人物であったとしてもこうはいかなかっただろうと書いています。司馬氏は、「嘉兵衛の演劇性がリコルドに我意を折らせた」というのです。つまり、これはコミュニケーションの問題という風に読むことも可能なわけですが、大事なことは嘉兵衛がその怒りの感情を躊躇せず・生のまま直截的にぶつけているということです。もしリコルドが怒り出して 最悪の事態に至っても・それならそれで構わない・俺は心の友と信じたアイツにこの自分の気持ちをぶつけないと収まらないというところから出てくるのです。損得勘定が消し飛んだところから出てくる行動です。これは司馬氏の指摘する通り、浄瑠璃の主人公に頻出する行動パターンなのです。それは吉之助が主張しているところの「かぶき的心情」のことです。ですから「感情が異常に高ぶっている時に・その感情を表情に出して取り乱してしまうのを強く恥じるところが日本人はあるのかも・・」と前節で書きましたけれど、そういう「恥」の文化がホントに日本古来のものなのか・疑ってみる必要がありますねえ。そういうものは、実は江戸中期以後に生まれた武士階級の感情パターンではないですかね。江戸の庶民 にはもっと素直な直截的な感情パターンがまだまだ生きていたはずです。まあそういうことが、かぶき的心情ということを考えていると、だんだん分かってくる気がします。

司馬遼太郎:菜の花の沖〈1〉 (文春文庫)

話をN響に戻しますが、今回の大震災に誰もが心を痛めている・・被災された方々を悼む気持ちもある・不安な気持ちにもなり・泣きたくもなるというのは当たり前のことです。 そのような気持ちの揺れを素直にその場の聴衆と共有すれば良いのです。アメリカの方々も日本の事態に心底同情してくれて、誰も海の向こうの関係ないことだと思っている人はいないのです。そういう気持ちでみんながバッハの旋律を聴きたいと思っているのですから、そういう風に弾いてください。涙を流して弾いてもいいじゃないか。それで弾けなくなったといって一体誰が笑うのか。形を綺麗に整えることよりも大事なことがあるのです。そうすることができるならば、N響は必ずやひと皮剥けたオケになると吉之助は思うのですがねえ。

(H23・4・24)


○吉之助が「芸十夜」を読む・後編・その2

『いまはテープで聞いて覚えちゃうからいけないんですね。呼吸(いき)はテープで録れないですからね。テープでは上げ下げしか分からない。』

これは「芸十夜・第三夜」に出てくる武智の言葉です。武智の言いたいことは、映像や音声で遺された記録(今で言えばDVDとかCDのこと)を鵜呑みにせずに・自分の身体で体験してみて・そこから得たものを大切にせよということです。これは伝統芸能に限らず、物事を学ぶ態度として当然のことですね。表面をサラリと撫でただけで・分かったつもりになってはいけないということは、これも当然です。しかし、世の中には出来る人はいるもので、一を聞いて十を知る人もいるにはいるものです。どんな分野でもこんな簡単に要点をさらっ ちゃっていいのかと驚くような人が確かにいます。そういう方は・傍から見れば表面をサラリと撫でただけで・要領が良いだけのように見えるけれども、ちゃんと奥底まで真実を見抜く手法(コツ)を知っているのです。それには心構えが必要なのです。

武智は映像やレコードは真実を記録しないなどということを言っているのではありません。表面的に受け取るなと言っているだけのことです。まあ演劇においては生(なま)信仰が依然強いのは仕方ないところではあります。しかし、特に伝統芸能においては、古い映像やレコードはその価値をますます増していくこということを言っておきたいと思います。これは今の舞台で見る芸に価値がないということではありません。しかし、伝統演劇というものは常に過去において計られ・過去から高められるものなのですから、古いものがどんな形であれ・多少であっても・具象的な形で残っているならば、それはとても力強い導きになるものです。その力を信じなければなりません。

クラシック音楽の世界では・昔のSP録音の時代(まあ大体1945年以前とお考えになれば良い)は、指揮者でも・器楽奏者でも・その録音を聴けばそれが誰が演奏しているかすぐ分かるほどの強い個性をそれぞれが持っていたものでした。昨今の演奏家の演奏を聴くと・技術的には相当の進歩があるけれど・それを聴いて誰かすぐ分かるというような強烈な個性がない・まっとうな解釈だけれどみな横並びで特色がない・これは今の演奏家が他人の録音をよく聴くので解釈が自然と似てくるせいだ・昔の演奏家は他人の演奏など聴かなかったものだと、そういうことを言う方がクラシック音楽の世界にもいらっしゃいます。まっそういう方もいっらしゃいますがね。しかし、昨今の演奏は解釈の点においても練れていて 、 トンでもなくはずれた解釈はまずありません。昔よりも全体の水準はずっと高いことは確かなのです。 これは大事なことなのです。それは現代の演奏家が他人の演奏を実演でも録音でもよく聴いて学んでいるからです。同様に観客の方も耳が肥えているということが言えます。実際、優れた音楽家は実演でも録音でも他人の演奏を実によく聴くものです。ただそれを公言しないだけのことです。ホントに音楽が分かる人ならば、どんなに貧しい録音であっても・たとえ断片であったとしても、それを手掛かりに何かを得ることができます。記録された映像や音声については、ロラン・バルトが古い写真について語ったことをそっくりそのまま当てはめることができます。すなわち、それを信じる者だけがその価値を感じ取ることが出来るということです。

『写真は過去を思い出させるものではない。写真が私に及ぼす効果は(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある。写真はつねに私を驚かす。(中略)写真は何か復活と関係があるのだ。写真については、ビザンチン人がトリノの聖骸布にしみこんでいるキリストの像について言ったことを、そのまま繰り返すことができるのではなかろうか。つまり、それは「人為に拠るものでない」と。』(ロラン・バルト:「明るい部屋〜写真についての覚書」)

ロラン・バルト:明るい部屋―写真についての覚書

いつぞや御曹司(誰だか失念)がひとり部屋にこもって・昔の父親だか祖父だかのビデオを見ながら一生懸命振りをさらっているのをテレビの放送で見たことがあります。周囲にそれを教えてくれる先輩がいないのか、お弟子さん筋にもそれを知っている人もいないのか、それをチェックしてくれる人もいないのか。実に孤独なことだな あと思いました。現代においては伝統を継ぐということは、とても孤独な作業なのかも知れません。口伝でも文献でも、何かを手掛かりに ひとりで伝統を必死で追い求めていかねばならない時代に、「ビデオで見て覚えちゃうからいけないんです」という悠長なことはもう言ってられないのです。どんなものでも古い音声や映像が残っているならば、これほど有難いことはないのです。それを取っ掛かりにして何かをつかめば良いのです。現代の伝統芸能というのは、概にそういう危ない崖っぷち 状態にあるのです。 これは観客についても同じです。ですからひとり部屋にこもってビデオで振りをさらう御曹司も、彼がそれを信じて・何かを求めながら・それを見るならば、そこから彼は何かをつかむことでありましょう。その力を信じなければなりません。(この稿つづく)

(H23・4・2)


○六代目歌右衛門10年忌のことなど

本サイト「歌舞伎素人講釈」がスタートしたのは平成13年(2001)1月のことですが、同じ年の3月31日に六代目歌右衛門が亡くなりました。あれからもう10年経ったということなのですが、今月はそんな感傷に浸っていられない事態となってしまいました。それはもちろん今月(3月11日)に起こった東日本大震災のことです。現在も捜索・救援活動は全力で続けられており、地震に関連した福島原発の事故についても予断を許しませんが・まさに命をかけた復旧作業が行なわれています。まずは被災された方々に心よりお見舞い申しあげると共に、救援・復旧に従事されている方々に感謝申し上げたいと思います。阪神大震災(平成7年)の時がまさにそうでしたが、遠く離れたところに居る者には「何もできない・何の役にも立たない」ことの・負い目というとちょっと違うかも知れませんが・無力感の強い痛みが心にズキズキ来ることがあります。これは神戸が吉之助の生まれ故郷である・身内も知り合いもいるせいだとずっと思っていましたが、今回もやはり同じような痛みがズキズキ来ますねえ。それでしばらく書くことをする気分になりませんでしたが、やっと思い直してサイト更新に取り掛かろうかと思い始めたところです。新橋演舞場の大歌舞伎興行は(何日かの休演もありましたが)他劇場が相次ぎ興行中止を決めるなかで変わらず興行を続けています。この時期に芝居どころかという批判もあるのは当然のことですが、こういう時であるこそ・われわれが普段やっていること・やらねばならぬことを淡々と続けること、復興に向けての段取りはそれしかない、遠く離れたところに居る者にはそれしかできない・そういうことで東北の人々を応援することくらいしかわれわれにはできないという気にだんだんなりかけています。歌舞伎の関係者の人たちの思いもそこにあると思います。まあ計画停電などもあり・交通手段が制限されている現状ではつらいところがありますが、その思いは理解したい。そういうわけなので、歌舞伎のサイトなんぞ震災に遭われた方々に何の役にも立ちはしませんが、そんなことくらいしか吉之助にはできませんので、吉之助ができることということで少しづつサイトの更新を始めたいと思うわけです。

歌右衛門が亡くなった平成13年と本年(平成23年)では世界の置かれた状況も・日本の状況も大きく様変わりをしました。歌舞伎の様相も確実に変化しているようです。この変化を良いとか悪いとか判断するのはまだまだ時期尚早です。しかし、このところ富十郎を始めとする貴重な役者の訃報が続き・さらに役者の不祥事と・良くないことばかり相次ぐと(歌舞伎チャンネルの放送中止もこれに加えても良いと思いますが)、歌舞伎の終わりがいよいよ始まったかとさすがに気が滅入ります。トドメは勘三郎の病気 休養でしたね。勘三郎は(吉之助と同世代なのですが)現役バリバリの・まさに芸でも体力でも絶頂期にあり・間違いなく現在最も集客力がある役者ですから、もし休養が長期に渡るとすれば・これは歌舞伎にとって大震災級の深刻な事態と考えねばならぬと思います。先月(2月)勘太郎に長男が生まれた(つまり勘三郎がお祖父ちゃんになった)ことはこのところの歌舞伎界にとって唯一の慶事というべきですが、これをきっかけに勘三郎の病気が快方に向かうことを祈りたいと思います。この現在の歌舞伎の状況を良いとか悪いとか書くのは時期尚早ということではありますが、歌舞伎の ・六代目歌右衛門以後の・この10年を考えると、歌舞伎は腰が浮いて・立ち位置決まってなかったのじゃないかと、吉之助には思えますねえ。このことは歌舞伎役者にだけでなく、興行をあずかる松竹にも申し上げたい。某役者の不祥事もそういうところから来たものだろうと思います。もう一度仕切り直して、歌舞伎がやらねばならぬこと・ 歌舞伎が守らねばならぬこと・歌舞伎しかできないことを淡々とやり続けること、そういうことを真剣に考えてもらいたいと思いますねえ。

(H23・3・19)


○吉之助が「芸十夜」を読む・後編・その1

吉之助は武智鉄二の弟子を自称しているくらいですから・武智の思想をなぞるところから出発していることはもちろんですが、何から何まで武智の発言が正しいと思っているわけではありません。下記は「芸八夜・第八夜」に出てくる武智の発言です。

『外国の芸術というのは心臓の動悸がもとで、トントントンと常間に運ぶんです。日本のは呼吸作用だから、すーッと引くのと、ふーッと吐くのと、その間合いでしょ。』

師匠には申し訳ないですけれど、今どき「西洋音楽のリズムは呼吸に根差してない」なんて言うのは、昔の西洋音楽の理解です。 明治時代の学者が「ルビンシュタインが弾いても、猫が鍵盤の上を歩いても同じ音がする」と言ったのとあまり変わりない程度のご理解です。現代日本の生活を見てください。周囲に西洋音楽がわんさか溢れており、それを避けて生活できることなぞあり得ないのです。逆に三味線の響きは意識してそうしようと思わなければ年に一度さえ耳にすることができないくらいです。我々は知らず知らずのうちに西洋音楽脳で音を図っているのです。西洋音楽への理解は昔とは比べ物にないくらいに進んでおり、我々の内部にあるのです。我々は否応なしに、そのような時代に生きています。ならばこの状況を逆に利用していくしかないのじゃないでしょうか。

吉之助がまず申し上げたいことは、「世界の音楽のなかで邦楽はまったく独自のものである」などと言うのはもう止めにしませんかということです。世界の音楽って16〜7世紀にヨーロッパで生まれた平均律で組み立てられて発展してきた音楽のことを言ってるのですか?確かに西洋音楽はいま世界を席巻しているかも知れませんが、グローバル・スタンダードでも何でもありません。むしろ、世界の音楽のなかでみれば、もっとも特異で歪(いびつ)な発達をしたのが西洋音楽だと言っても良いくらいなのです。西洋音楽は確かにリズムの打ちが前面に出ることが多い音楽ではあります。武智が若い頃によく聴いたノイエ・ザッハリッヒカイトの演奏家たちはイン・テンポ(テンポを一定に保つ)をその理念としていました。表面的にはメトロノームが打つテンポを厳格に守る音楽のように思うかも知れません。しかし、そんなことは決してありません。インテンポという旗印がどういう意味があるかと言えば、音楽を演奏する時にテンポを一定に保つことがいかに難しいかということを逆説的に教えているのです。なぜならば 歌や旋律は息に(つまり呼吸に)根差すものですから、ある一定の揺らぎを持つのは当然です。それが旋律の自然さを生むわけです。ノイエ・ザッハリッヒカイトには「楽譜に記された通りにやる」いう理念もあります 。それがイン・テンポに持つための理論的根拠としてあるものです。しかし、五線譜の記譜法で音楽のすべてが表現できるはずがないことは昔から言われていることです。だからこそ逆に原典としての楽譜にしがみつこうとするのです。これは歌舞伎が「型を守らないと歌舞伎じゃない」と言っているのとほとんど変わりないわけです。

「歌舞伎素人講釈」はノイエ・ザッハリッヒカイトは20世紀初頭の世界的な芸術思潮であるということを場面をいろいろ変えて申し上げています。自らを意識的にイン・テンポの表現に縛っていくという行為は、近代社会のストレスの掛かった精神生活の或る一面を反映しています。ノイエ・ザッハリッヒカイトを標榜する武智は、もちろんそういうことを分かって言っているのです。むしろ、武智はそのような芸術思潮のまっただなかにあって・これを吸収してきたわけですから、イン・テンポが基調になった設計のなかに敢えてテンポの自由を盛り込むことに反義的な意味を見出したと思います。例えばそれは六代目菊五郎の舞踊への傾倒になっていきます。かつきりした規格正しい踊りのなかに表現の自由さを盛り込んでいく菊五郎の踊りは日本におけるノイエ・ザッハリッヒカイトの理想であると、武智には思えたことでしょう。これと武智が愛したギーゼキングの弾くモーツアルトが対立構図に位置すると思いますか?そんなことがあるはずがありません。だから吉之助が武智から教わったことは、つまりこういうことです。ギーゼキングのイメージで歌舞伎を見るならばそれで六代目ということです。実に単純でしょ。

あるいは音階面から言えば、武智がシェーンベルクの十二音(無調)音楽・「月に憑かれたピエロ」を聴いて・そこに邦楽の音階との共通性の響きを聞き取ったというようなことです。それは三代目鶴沢清六や豊竹山城少掾の芸への傾倒につながっていきます。武智は晩年に「伝統芸能における自分の評論の原点はクラシック音楽批評にある」と告白しています。だとすれば歌舞伎の美学を西洋視点で計ることこそが武智理論の独自性だと言うべきなのです。その基礎がノイエ・ザッハリッヒカイトであることは「歌舞伎素人講釈」で申し上げている通りです。(別稿「伝統における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご覧下さい。)

ですから「西洋音楽はトントントンと常間に運ぶもので、呼吸に根差していない」と武智が言うのを真に受けて、 呼吸が邦楽だけに特有の本質だなんて思わないで欲しいものです。身体芸術でも・スポーツでも身体を使うもので呼吸のリズムに根差さないものなど、世界のどこにも在り得ません。そんなことは当たり前のことなのです。武智の場合は日本の芸能関係者のご機嫌を損ねないように、「アンタ達が一番」と持ち上げている だけのことです。それが上記の武智の発言ということですね。(この稿つづく)

(H23・2・8)


○自然な台詞回しとは何か

下記は「吉之助が「芸十夜」を読む」の番外編みたいなものです。

「勧進帳」で弁慶が発する最初の台詞ですが、「ヤアレ暫く、御待ち候え、道々も申す如く、これは由々しき御大事にて候。・・・」に始まる長台詞があります。伝えられるところによれば、この長台詞を九代目団十郎はひと息で言ったそうです。「この長い台詞をひと息で言 えるはずがない、だからどこかで息を継いでいるはずだ、観客に息を継いでいるのを分からないようにするのがすなわち芸だ」なんて言ってるようでは、芸談を読む意味が全然ありません ね。そういうことを言う方は、長い台詞をひと息で言えるかどうかは肺活量の問題だと思ってるのでしょうね。

九代目団十郎はこの長台詞を確かにひと息で言ったのです。この神話を信じて、そのようにひと息で言うならばどのようにすれば良いか・それをとことん考えてみるところから芸が始まるのです。そうやって考えてみて・結局分かることは、弁慶の長台詞を「ひと息で言うか・言えないか」なんてことがこの芸談が教えるところの核心ではない ということです。台詞というものは・人間が身体から発する言葉なのですから、もともと台詞のなかにあるべき呼吸があり・息があるのです。その呼吸に沿って台詞を発声するならば、台詞は淀みなく流れて・息継ぎは自然とその流れのなかに乗ってくるのです。そうすると息継ぎをしていることは観客に意識されません。言っている役者にさえ意識されません。その台詞はひと息で言われている如く流れてるように聞こえるのです。それじゃあやっぱり息継ぎしてるのじゃないかって・・・そういうことを言ってる方にはいつまでたっても芸が分かりませんね。台詞がひと息に聞こえるのは自然な台詞廻しの結果に過ぎないのです。ひと息に聞かせる為に息継ぎを工夫するならばこれを誤魔化しと言うのです。そういうのを芸とは呼びません。折口信夫は次のように言っています。

『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうでなくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年・かぶき讃 (中公文庫)に収録

二代目左団次は明治39年〜40年に欧米演劇視察旅行をして、ロンドンの演劇学校で指導を受けました。このときの経験を左団次は小山内薫との対談で次のように語っています。こういうことに左団次が素直に驚いているのは、逆に言えば歌舞伎に発声法という概念がなかったということなのです。 そのような素直な驚きから左団次が創始した新歌舞伎は始まっているわけです。このことは別稿「左団次劇の様式」をご覧下さい。

『私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 』(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版「演劇新潮」)

ところで現在NHK教育テレビで「スーパーオペラ・レッスン〜バーバラ・ボニーに学ぶ歌の心」という番組をやっています。(2010年1月〜3月)アメリカ出身の名ソプラノ・バーバラ・ボニーが、若い歌手を相手に歌唱の指導をしています。題材はプッチー二の歌劇「ボエーム」ですが、ボニーは受講者に対して、この役柄はこうあるべきとか・どういう歌唱スタイルがヴェリズモの様式かとか、そのような指導をほとんどしませんね。彼女がアドバイスするところは、どのような姿勢で・どのような顎の使い方で・お腹の力の入れ方で空気をたっぷり取り入れて、身体全体を楽器のように声を無理なく自然に響かせて、歌唱を行なうかということです。言葉をどういう風に使うか・特に子音の使い方はオペラでもリートでも大事なことですが・それはその次の段階のことです。まず大事なことは呼吸の仕方・そして息の正しい通し方です。それが正しく出来ていれば言葉は自然に正しく出て来るのですね。

ですから「ヤアレ暫く、御待ち候え・・」という弁慶の長台詞を九代目団十郎はひと息で言ったという芸談を読む時に考えなければならないことは、台詞それ自体が求めている呼吸のリズムを取って・そのリズムでいかに自然な台詞回しを心掛けるかなのです。「スーパーオペラ・レッスン」をご覧になれば、オペラも歌舞伎も・発声の基本に何ら変わりがないことが分かると思います。オペラファンのみならず演劇ファンにもボニー先生のレッスンを是非ご覧いただきたいですね。

(H23・1・23)


○ゴッホのなかの日本

昨年の話ですが、先日(12月)、ちょっと近くに所用があったので・次いでに六本木の国立新美術館での「没後120年・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ展」に寄ってきました。平日で比較的空いていたので、絵をじっくり鑑賞できました。展覧会ではゴッホと同時代の、モネ・ゴーギャン・スーラ・ロートレックらの作品も併せて展示されたのも、ゴッホ(1853〜1890)が生きた時代の美術の位置付けを考えるうえで有用であったと思います。

吉之助は絵との距離を測りながら・いろんな角度でゴッホの作品を眺めてみたのですが、実はこれは吉之助がよくやる鑑賞法なのですが、まず絵から5メートルくらい離れまして 、まず絵の全体を眺めます。それから視線を絵に置きながらゆっくりと絵に近づ いていきます。すると突然絵全体がフッと立体的に浮き上がって見えるポイントがあるのですね。そのポイントはぜいぜい30センチかそこらの狭い範囲でして、そのポイントより近づき過ぎても駄目です。これは或る種の3D効果ということです。恐らく画家が絵を描く時に全体を眺めて チェックしては・また手直しをする、その時に画家が立つのが多分この立ち位置だろうと吉之助は思っているのです。これは絵の描き方にも拠りますが、今回の展覧会の絵ではゴッホでもモネでもスーラでもこの現象が起きます。そのポイントの絵からの距離は、絵の大きさとか・見る人の視力とか・両目の瞳の間隔とか微妙な要素が絡むのではないかと思いますが、ゴッホの作品であると・吉之助の場合には絵から概ね3メートル20センチ前後のところです。ああゴッホはこの位置に立って絵を見 ていたのだなと吉之助は思うわけです。

こういうことは混雑する展覧会の人混みのなかで・慌しく絵を見ている時にはなかなか出来ません。しかし、吉之助の見たところではこの位置から絵を眺めている方はほとんどいませんでしたね。みなさん絵に近づき過ぎだと思います。そんなに近づくと絵の具の塗りたくりの具合は分かるけど、絵は見えません。実にもったいないことです。

試しに1887年の「灰色のフェルト帽の自画像」(上の絵)を見てみます。絵に近づきすぎると筋は明確に見え過ぎて・分裂症的な印象が強くなり過ぎです。5メートルくらいの位置からであると目から顔の輪郭へ細かく走っている線はぼやけて見えません。顔の色は全体が混じった色に見えます。そこから絵を視線を置きながらゆっくりと絵に近づきますと、3メートル20センチ前後のところで目の下の頬のあたりから線が浮き出し始めます。これは感動しますよ。はっきりと浮世絵の荒事の役者の筋隈の如きに見えます。ゴッホは意図的にやってるのだなあと思いますねえ。 ゴッホはかぶき者なのですねえ。ジャポ二ズムの影響がはっきりと見えます。

(H23・1・17)


型とは箒星の光跡なのです

サイトでは「吉之助が「芸十夜」を読む」ということで、八代目三津五郎と武智鉄二の対談「芸十夜」を、武智理論の継承者である吉之助がどう読みかというポイントをご披露しています。

ところで、有名な映画「二十四の瞳」(昭和29年)などは吉之助の生まれる前のことなので・吉之助には同時代的な思い出はあまりないのですが、映画評論の佐藤忠男氏が昨年暮れ(12月28日)に亡くなった戦後映画の名女優高峰秀子さんの追悼記事を日経新聞に書いておられます。(平成23年1月3日:「高峰秀子さんを 悼む〜戦後の心に染みた名演技」)そのなかで興味深い挿話があったので・ここで紹介をしたいと思います。高峰秀子は戦前のアイドル時代に長谷川一夫と時代劇映画で共演することが多かったそうです。長谷川一夫は芸の薀蓄を共演者にすることが大変好きであったので、佐藤氏が高峰秀子に「長谷川先生からたくさん学んだでしょう」ということを聞いたことがあったそうです。高峰秀子は「長谷川先生からは何も学んでいません。先生は演技を型として考える人でした。私は役の心を考えることから役に入っていくのでなければならないと考えていましたから。」とあっさり答えたそうです。

高峰秀子の返答は自然主義リアリズムから役作りをする映画女優の立場からすれば至極当然の答えだと思います。どうやったらこの役の気持ちを一番表現できるかということを真剣に考えている女優さんに、「こうやったらもっと女らしく見えるよ・・こういう風にやったら形が良く見えるよ・・・ 」なんてことを言っても・嫌味なだけで、「そんなアドバイスは私には不要です」となるのは当然ではないでしょうか。イヤもちろん天下の二枚目長谷川一夫が表面的に形を繕うだけの演技をしていたとは決して思いません。しかし、型の裏側にある豊かなものを高峰秀子に気付かせることができなかったのならば、これは長谷川一夫の負けではないですかね。高峰秀子が悪いのではありません。これは教え方が悪かったと言わざるを得ない。

別稿「伝統芸能から何を摂取するか」でも書きましたが、伝統芸能の「ない」の美学・「引き」の美学なんて言ってるようでは、役作りを真剣に考えている現代演劇の役者さんたちに伝統芸能の持つパワー・そこに潜む無限のアイデアを気付かせることは決してできないのです。彼らにしてみれば「そういうことは役の気持ちから入ろうとする自分たちの行き方とは違う」ということにならざるを得ない。それを受け入れれば自己否定になってしまうからです。だから現代演劇の役者さんに「型」の力を気付かせるためには、教え方を変えなければいけませんね。

「歌舞伎の型」などという本を読むと、○○型では「こういう衣装で・・右手をこうして・・・身体をこうして・・」なんてことばかり書いてあります。歌舞伎は形から役の心に入っていく・・・なるほどねえ。しかし、「型」というものを演技の手順 、あるいは「・・らしく見せる」為の技術であると理解するのは「型」のひとつの理解ではありますが、あくまで理解のひとつでしかないのです。虎の毛皮を見せて、「これが虎だ」と動物生態学を論じるようなものです。かと言って「型とは心だよ」 などと言ってしまうと、それまで確固として形があったものが途端に砂のように崩れて消えてしまうようで心もとないかも知れませんが、型とは結局それなのです。郡司正勝先生がこんなことを仰いました。

「皮肉を言うと、天才だけだったら残らないんです。天才をなぞって、これが菊五郎の型でございますと。そうすると自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす。六代目はこうやりましたと。これが金科玉条になる。だから伝承というものは高度な天才では伝承できない。それは通り過ぎていった箒星みたいなものだよね。」(郡司正勝インタビュー:「刪定集と郡司学」:「歌舞伎〜研究と批評・第11号」)

それは目の前をピューと通り過ぎて・網膜のなかに残された光跡に過ぎないのかも知れません。「あっ、分かった、これだ」と思った時には、もうそれはそこにないのです。それがあったことは確かに網膜の記憶のなかにあるのですが、形にして再現しようとするとこれが曖昧で・何とも頼りない。しかし、それは確かにあったのだから、「あっ、分かった、これだ」とあの時に感じたことを正しいと信じて、そのようにやろうとする のです。型というのは、そういうものの集積なのです。高峰秀子は若い時に大先輩杉村春子の演技に驚いて一生懸命演技の研究をしたそうです。彼女は杉村春子に箒星の光跡を見た・そういうことですね。

(H23・1・9)


○五代目富十郎追悼

昨日(1月3日)に人間国宝・五代目中村富十郎さんが亡くなったとのことです。最近は体調が悪かったらしく今月・新橋演舞場での初春歌舞伎も休演とのことで心配はしていましたが、まだまだ長生きされるものと思っていたので、「歌舞伎素人講釈」の新しい10年の最初の歌舞伎記事が富十郎訃報になるとは思ってもいませんでした。最近の吉之助は歌舞伎を毎月見るわけではないので、吉之助が見た富十郎の最後の生(なま)の舞台は昨年4月歌舞伎座での「熊谷陣屋」の弥陀六でありました。その時もだいぶ足腰が弱っていたようで・幕切れで鎧櫃を背負うことができない状態でしたが、台詞の方は比較的しっかりしていたので安心はしたのですが、今となってみればあの時舞台を見ておいて良かったと思います。吉之助にとってサヨナラ歌舞伎座がサヨナラ富十郎の思い出になったわけです。これでまた歌舞伎界から大事な役者が失われました。

富十郎については舞踊を特筆せねばなりません。かつきりとして・折り目正しい踊りには定評がありました。ああいう舞台に根が生えたというような・身体に芯が一本通った安定感ある踊りはもう見られないかも知れません。富十郎の踊りの映像はこれから大事に見て参考にして欲しいと思います。「娘道成寺」・「鏡獅子」・「舟弁慶」など思い出しますが、雀右衛門との「二人椀久」、勘三郎(当時は勘九郎)との「三社祭」・「棒しばり」など特に忘れ難いものです。

富十郎のことは「歌舞伎素人講釈」でもこれからも書くことがあると思います。吉之助が筆頭に挙げたいのは「寺子屋」の源蔵ですが、富十郎は「道明寺」の宿禰太郎でも・黙阿弥の世話物でも何だって巧かったのです。吉之助が一生懸命見た昭和50年代の歌舞伎の富十郎は当時の大幹部連中と若手花形と言われた世代との間に位置しましたので、役に恵まれたとは言えないところがありました。当時は大幹部連中の脇に回ることが多く、平成になると成長した元若手花形の上置きとしてやはり脇に回るということで、まあ何と言うか・なまじ実力があるので便利屋にされちゃった感がありましたが、こういうのは実力とは関係ないところの・人気とかいろんなものが絡むので何とも言えませんが、もうちょっと自分の演し物をさせてあげたかったと思います。

(H23・1・4)


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