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吉之助の雑談17(平成22年1月〜 6月)   


イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル:その4

それにしてもポゴレリッチの紡ぎ出す演奏を聴くことはゲミュートリッヒカイト(音楽を聴く愉しみ)と対極にあることは確かなようで、深い思索と苦悩の洞窟を行く・ 聴衆もその道程を共に歩むかのようでした。そう言えば舞台を暗くしてピアニストだけ薄明かりで浮き上がらせた照明も何やら黒ミサの如き雰囲気 を醸しだしておりましたね。吉之助も聴いている間は没入して時間が経つのを忘れていましたが、聴き終わってドッと疲れが出たようで・しばらくイメージを伴った音を聴きたくない状態が続きました 。その間ずっと頭のなかでポゴレリッチの低音が響いていたようでした。こんなに疲れた演奏会は吉之助の経験も初めてでした。しかし、この疲れは吉之助にとってちょっと癖になりそうな 疲れでありました。

「ひとつひとつの音符を強調しようとするあまり・音楽の推進力が失われている」とか、「もはやショパンもブラームスも様式感が消し飛んで何の音楽を聴いているのかまるで分からない」と言う批判は確かにごもっともという気がします。ポゴレリッチは2000年頃に相次ぐ身内の死(妻と父親)が引き金になって(それと恐らく1999年3月・旧ユーゴスラビアでの内戦・いわゆるコソボ紛争も影響したでしょう)、神経的におかしくなって2年ほど演奏活動から退いた時期がありました。ポゴレリッチはそれまでも十分過ぎるほど個性的な演奏を聴かせていましたが、復帰後は表現のデフォルメがますます強くなって・世評では「音楽的に壊れた」という言われ方もされているようです。ただし、吉之助はポゴレリッチの演奏は音楽が分解してバラバラになったと感じることはなくて、 逆にポゴレリッチの演奏に響きが凝集して旋律になろうとする強い意志(あるいは祈り)を感じますので、その演奏がとても音楽的に感じられます。というよりもポゴレリッチから受け取らねばならぬものがあまりにも多いように感じられます。「この旋律のこの一音」への思い入れがポゴレリッチは人一倍強いのかも知れません。しかし、この種の演奏は演奏者との同時体験で(つまり演奏会で生で)聴くべきもので、録音で聴くにはふさわしくないのかも知れません。「録音では演奏会の雰囲気は捉えられない」という月並みなことを言っているのではなく、日常生活に片足置いたような状態で聴ける種類の演奏ではないということです。ポゴレリッチは90年後半からの公式録音はなく、 断片的に聴けるライヴ録音は自宅の居間で気楽に聴くにはどれも辛い演奏です。それで吉之助の場合はちょっと聴いて、間を置いてまたちょっとということになります。他人さまにはあまりお勧めできる聴き方ではないですが、この方が 細部の造形でのポゴレリッチの意図がよく分かるようです。

当日のプログラムではショパンの第3番ソナタの後でリストのメフィスト・ワルツ第1番の冒頭部を聴くと、第3番ソナタの第4楽章の激しいリズムが描くものは「煉獄」であったのだなあということが 改めてよく分かりました。しかし、ポゴレリッリの特質が最もよく現れていたのはやはりラヴェルの「夜のガスパール」であったかも知れません。特に「絞首台」から「スカルボ」は音の響きが色彩的イメージをもってユラユラと揺れ動くが如くで、まさに吉之助の考えるところの世紀末芸術の揺れる世界そのものでありました。

(H22・6・20)


イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル:その 3

この日(5月5日)のサントリー・ホールでのポゴレリッチのリサイタルは午後2時に開演でしたが、リサイタルが終わって外に出て時計を見たら何と午後5時20分を過ぎていました。最初ポゴレリッチが登場するまでたいぶ待たされたのは事実ですし、演奏者の希望により小品一曲追加されたということもありますが、このプログラム曲目ならばどれほど遅く弾いても終わるのはせいぜい午後4時半前というところかと思っていたので、時計を見て一瞬信じられなかったのですが、まあそれくらいポゴレリッチは遅いテンポで弾いていたということです。後で聴いた話によるとこの時のショパンの第3番のソナタも50分近く掛かっていたようです。普通なら25分程度の曲ですから、倍近い遅さということです。ただし吉之助は確かに遅いテンポだと思って聴いていましたけれども(ソナタの第3楽章は この楽章これほど長かったかなあと思って聴いておりましたが)、その音楽に完全に引き込まれていて・その遅さが全然気にならずにいたので、リサイタルが終わって時計を見た時には1時間ほどすっ飛んだような感覚で相対性理論でタイム・スリップしたような気分でした。こういう感覚の演奏会は初めてで・これは非常に興味深いことでしたが、マチネーで良かったと思いました。午後7時開演のリサイタルだったら、帰りの電車の時間が心配になって落ち着いて聴けなかったでしょうね。吉之助はポゴレリッチのテンポの遅さについては・近年のポゴレリッチの評判を聴いていたので決して驚きはしなかったのですが、早い箇所は誰よりも早く弾いて、遅い箇所は楽譜の指定を2倍・3倍にも引き延ばし、フォルティッシモは吼える如きの大音量・ピアニッシモは注意して聴かないと聴き取れないほどかすかな音ということで、なるほど聞きしに勝るエキセントリックなピアニストだなあと思いました。

それにしても吉之助が心底揺すぶられたのは、ポゴレリッチがひとつひとつの音符をまるで慈しみ・味わい尽くすかの如くの態度でした。これはもちろん他のピアニストが音符を大事にしていないということではないので、誤解のありませんように。しかし、ポゴレリッチの場合はその真摯さが尋常ではなく、その一音が完全に鳴り切ってその役割を終わるまでは次の一音は決して弾けないかの如くなのです。こうなると必然的にテンポは遅くならざるを得ません。その結果、その音とその前の音との関連が実によく分かります。そしてその音が響き渡っている時、旋律が正しく繫がるために次に鳴り響く音をどこに置くべきなのか・その方向性を探し求めるような感覚があって、その確信を以って次の音が弾かれるという印象があります。つまりポゴレリッチの弾く旋律はまさしくその場において生成する・定められた手順によって再現されているのではないという印象になるのです。それは聴き手に異常な集中を強いますが、一旦演奏者の息に乗って・その旋律生成の過程を一緒に辿っていくならば、その後ろに聴こえるものは確かに旋律となっているのです。吉之助は(曲は違いますけれど)ショパンの自筆譜を見た直後であったせいもあるのでしょうかね。ポゴレリッチのピアノを聴きながら、ショパンが曲を書いた時の心の動きを思い起こさずにはいられませんでした。

この日のリサイタルの評判を聞くと賛否両論、と言うよりも否の割合が若干多いようです。しかもかなり音楽を聴き込んだらしい方でもそのような声が多いようです。これは音楽の破壊だとか、もはやショパンもブラームスも消し飛んでまるで現代音楽みたいだと言う非難は、まあそういう声が出てくるのも吉之助も無理からぬところだと思います。ポゴレリッチの弾く旋律は粒(音符)の肌さわりが際立っています。音のツブツブ感覚が強くて、流れの感覚が弱いと言う人がいるかも知れません。箇所によっては音楽の推進力が乏しいと感じられるのも事実かと思います。しかし、この状態で音楽がまったく弛緩しないのは、ポゴレリッチの旋律の息の持続力の強さが尋常ではなく、なおかつ音と音との関連性を明確に際立たせるだけの抜群の技量を持っているからなのです。分解しているように聴こえても・流れをつなげて旋律を成立させようとする意志が響き自体に確かに感じられる音楽なのです。これは驚くべきことだと思います。「歌舞伎素人講釈 別館・クラシック音楽雑記帳」をご覧になれば分かると思いますが、吉之助の音楽の好みはどちらかと言えば新古典主義的で・かつきりと理知的な演奏様式が好みですので、ポゴレリッチは吉之助の好みからすると本来かなり遠いはずです。しかし、吉之助が今回ポゴレリッチに非常な興味を抱いた理由は、前節で書きましたが「ピアノだけが自分ひと りで音楽世界を完結させることができる」というテーゼに拠るのだろうと思っています。吉之助はこれが19世紀ピアノ音楽の本質だと思っているのです。それゆえ ピアノ音楽は個人の個の感覚に左右されるところが大きいし、またそのような表現が許されるのかも知れぬ・その可能性を考えています。吉之助が現在関心を以って研究しているところの19世紀のピアノ音楽のバロック性ということをポゴレリッチは多少極端であるとしても・とても明瞭に全開で表現していると考えます。残念ながらグールドは19世紀ピアノ音楽をレパートリーにすることをほとんどしませんでしたから、ポゴレリッチはその渇を癒してくれることになりそうです。グールドは演奏会をキャンセルして録音活動だけに専念したわけですが、逆にポゴレリッチは90年半ばくらいからは公式録音はなく・現状は演奏会でしか聴けないピアニストとなっています。表面的なところは対照的ではありますが、内面的 にふたりはとても良く似たピアニストだと思いますねえ。(この稿つづく)

(H22・6・14)


イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル:その

吉之助はこれまでどちらかと言えば管弦楽中心で音楽を聴いてきましたが、このところピアノを意識して聴くようにしています。ところで現代最高のピアニストであり・指揮者であるダニエル・バレンボイムが こんなことを言っています。

『僕は、音楽はいろんな意味で物理的な法則への反抗だと思っている。そのひとつが沈黙との関係だ。(中略)これはサウンドの現象学だ。サウンドが一過性のものであるという事実。サウンドは沈黙と極めて具体的な関係も持っているという事実。僕はよくこれを重力の法則と比較する。(中略)音を持続させたいのならば、そして持続的な音から生じる緊張を創出したいのであれば、関係の始まりの瞬間は、第1の音とそれ以前にあった沈黙の間のものだ。次に来るのが、第1の音と次の音との間の関係だ。そうして、これが無限に続いていく。これを達成するために、自然の法則を拒絶することになる。音が消えていくという、放って置けばそうなることを許さないのだから。(中略)音を通じて音楽を作る技術は、僕の考えでは錯覚を作る技術だ。ピアノを弾ク場合、音がひとつの音から増殖することができるかのような錯覚を作り出すのだが、ピアノには物理的にはそんなことはまったくできない話だ。弾き手はそれに反抗する。ブレージングしたり、ペダルを使ったり、その他いろいろな方法を駆使して、そういう錯覚を作り出そうとする。ひとつの音が増殖するという、在りもしないものを錯覚で作り出し、また音量が低下していくプロセスを遅延させているという錯覚を作り出す。』(ダニエル・バレンボイム:エドワード・サイードとの対話・「音楽と社会」)

バレンボイム/サイード 音楽と社会

実はこれが吉之助がピアノを聴く場合に常に気に掛けていることなのですが、多分このところ吉之助がピアノを聴くことが多くなってきたのはそのせいじゃないかと思ってい るのです。 旋律というのは音の連なりで成り立つものですが、個々の音は繫がっているわけではなく、バレンボイムの言う通り・物理現象としては繫がっているという錯覚で成り立っているのです。それならば、旋律とは点(音符)の集合体として捉えるべきでしょうか。それとも線(流れ)で捉えるべきでしょうか。それはどちらでもあるのです。それは光というものが粒子であり・同時に波でもあるという物理的真理を思い起こさせます。一般的には旋律というのは線(前進する力を伴う流れ) であると受け取ら れることが多いかも知れません。もちろんそれは間違いではありませんが、しかし、線をあまり意識し過ぎると、ひとつの音が持つ個々の意味が弱くなってしまう危険性があります。だから旋律とは音の塊り(点)であるという意識がどうしても必要になるのです。実はひとつの音が持つ意味はその音自体が持っているものではなく、そのひとつ前の音・さらにその次の音の連関によって創り出されるものです。ですから物理現象としては個々の音は切れているのだけれど、音と音が互いに結び合うような形で旋律というのは出来ているのです。ということは音と音との関連性を明確に浮かび上がらせるためには、個々の音が明確に弾き分けられなければならないということなのです。それが出来て初めて旋律という錯覚が産み出されるわけです。

このことは当然ながら台詞の言葉の問題にも強く関連します。だから関係ないように見えるけれど「歌舞伎素人講釈」で音楽のことをしつこく取り上げているのです。別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」のなかで音楽学者ハインリッヒ・シェンカーの「装飾音はクラヴィコード(ピアノ)という楽器自体の本来の要求である」という説を取り上げました。その意味はピアノだけがひと りで音楽の世界を完結させることができるということです。オーケストラのルバート・アッチェレランドがどれほど即興的に聴こえようが・実はそれは入念なリハーサルの産物であり、指揮者が思い付きで極端なことをしようとすればアンサンブルは無茶苦茶になってしまいます。ピアニストだけが旋律の微妙な表情付け、早く・遅く・短く・長くを自分だけの意志で自由自在に・しかも真の意味で即興的に操ることができます。逆に言えばピアノ作品には作曲者の時代の気分を直接的かつ濃厚に盛り込むことができるということです。このことはショパン・リスト・ブラームスを始めロマン楽派の作曲家の多くが優れたピアノストでもあったこととも密接に関連します。だから19世紀音楽芸術のバロック性ということを考える為にピアノ曲をもっと知る必要があるということで吉之助はこのところピアノ曲をよく聴くのだろうと自己分析しています。ただ吉之助の場合は古典的に締まった表現の方が好きというところが個人的な好みとしてはあるのですが、ショパン演奏の場合でもそれぞれの装飾音はその楽節の意図・表情付けによって、早く・遅く・短く・長く・強く・弱く演奏されるべき解釈の余地は結構大きなものがあるのかも知れませんねえ。

グールドとかブレンデルのような例外は確かにいますが、ピアニストでショパンの曲を弾かずに済ますということは普通はまず考えられません。誰でもショパンを弾きますが、「この旋律のこの一音」の重さを聞かせるピアニストは意外と少ないと思います。多くの場合は旋律の流れに乗ってしまっているようです。まあそれも確かに心地良いのですがね。ショパンが流れを吟味して整えて作曲しているのですから、その流れに乗りさえすれば確かに心地良く出来るのです。しかし、「この旋律のこの一音」の重みが流れに埋もれてしまって見えてこない・そのような演奏が少なくないように思います。しかし、超一級と言われるピアノストは「この旋律のこの一音」というこだわりの箇所(もちろんその箇所はその人の解釈によって違っていて良ろしいわけです)と独自の響きを確かに持っているものです。ショパンの自筆原稿などを見ながら・そんなことなど考えていたのですが、その足でイーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルを聴くためにサントリー・ホールに向かいました。音の響きへの特異なこだわりを見せるという点で現代のピアニストのなか でポゴレリッチは際立った存在かも知れません。(この稿つづく)

(H22・6・5)


○イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル:その1

本年(2010)はショパン生誕200年ということでショパン関連企画が多いのですが、5月の連休限定で丸の内の丸ビルホールでショパン展があってマズルカ・作品6−2の自筆譜が展示されるというので、連休最後の日 (5日)にちょっと見てきました。作曲家の自筆原稿というのは印刷された楽譜とはまた違ったインスピレーションを与えるものです。モーツアルトの原稿は清書したのかと思うような綺麗な原稿なので驚いてしまいます。 現実の創作はそんな簡単じゃなかったでしょうが、頭脳のなかですっかり出来った音符を紙に写しただけというような印象で、 さすが神童モーツアルトだなあということを改めて思います。ベートーヴェンの草稿は髪をかきむしり・ウンウン唸り・歯軋りしながらペンを走らせたかと思う・書き直しがあちこちにある汚い原稿で、これは楽聖のイメージに何となく似合うので 妙に納得されられます。ショパンの手書原稿も書き直しが多いのにはちょっと驚きましたが、ベートーヴェンのような苦闘の感じはあまり見えないようです。ふっと思いついた旋律を書き留めて・また思い直してやめるという試行錯誤がわりと軽いタッチで、流れるように作曲が進められているように思われました。まあこれは曲の性格にも拠るかも知れません。ベートーヴェンが交響曲で苦闘するのと負荷が違うことは確かです。それにしてもショパンの草稿では斜線を引いて削除した元の音符がはっきり読めて・ここから創作過程が伺えるので、音符が読める方には面白くてたまらないだろうと思いました。残念ながら吉之助はその域まで行きません。

吉之助も日常パソコンに向いて原稿書いて・ある種の創作活動をしているわけですが、書き始めの原稿と・推敲して出来た原稿を振り返ってみれば、てにをはを直すのはもちろんですが、文章の前後が逆転したり 、間に違う文章がはさまったり、時には大きな文章をごっそり落とすこともあるわけです。時々原稿を段階を追って直した順番にサイトで並べてみたら、吉之助の思考過程がご披露できてちょっと面白いかなと思うことがありますが、ショパンの手書楽譜を見ながらそんなことを考えておったわけです。吉之助が文章を書いていて一番気にするのは「流れ」です。 文章の流れが突っ掛かるのが吉之助は嫌なので、できるだけ声を出して読む時にスムーズに流れるような感じの文章にしたいということを考えます。論理は基本的には流れに拠るものですから、文章が流れない時は論理 が巧くないことが多いものです。その場合は思い切って文章を入れ替えたり、突っかかる箇所を書き直したりします。 しかし、文章の流れが整うポイントというのは実は勘所の語句の選び方にあると思いますねえ。その語句を選んだことで・文章の流れが一気に転換できて・後の文章がさらさら流れていく・そのような劇的な変化が起こる場合があるのです。これは日々文章を書いてうんうん唸っている方ならば理解できると思います。

吉之助はショパンの楽譜を研究したわけではないですが、ショパンの音楽の行き方からしますと、ある旋律が別の旋律へ移行していく過程のところ・変化する直前の旋律の持って行き方が常にポイントであると 感じます。パターンとしてはある美しい旋律が反復されるところで・音階が半音ほど微妙に変化することが多いようです。ここの音符の置き方で次の旋律の入り方が全然変わるのです。だからショパンはそこの音符を熟慮を重ねて・選び抜いた後に書いていると吉之助は思います。次の段階に入る直前に「ここから局面が変わるぞ」というサインになる音符がどんな曲にもあるものです。しかし、ある特定の一見さりげないような音符が重要な意味を持つということがショパンの場合は特に多いようです。 吉之助の感じるには、それらは半音階あるいは不協和音であることが多い。それがショパンの音楽の繊細な印象を生むと吉之助は考えているのです。

ベートーヴェンですと論理(ロジック)の積み上げの結果として旋律の変化が生じるということなので、その印象は当然重いものにならざるを得ません。ショパンの場合はその必然は感性から生じるものですから、時期や環境をちょっと違えて作曲したならその旋律はまったく別の経路を辿ったかも知れぬというようなことが考えられます。先ほど吉之助が「ショパンの試行錯誤はわりと軽いタッチで行なわれているように感じられる」というのはそういう意味なのですが、もちろんベートーヴェンと同様、ショパンの試行錯誤も確かな必然を以って行なわれているのです。 その必然が生じるきっかけとなるべき大事な音がショパンにはあると思います。試しに吉之助が「この音を大事にしたい」と感じる箇所をスコアで示してみても良ろしいのですが、吉之助が何故そう感じるかというのは論理的に説明するのがちょっと難しいです。吉之助が言葉を選びながら流れを整えていくのと同じで、ショパンもここではこの音符でなければならぬというものを流れで感じ取っているとしか言い様がないです。ショパンの草稿を見ていて・そんなことを改めて思いました。 (この稿つづく)

(H22・5・29)


○平成22年4月・ル テアトル銀座:「近代能楽集」〜葵上・卒塔婆小町・その3

武智鉄二が「近代能楽集」の「綾の鼓」を演出した時(昭和30年)の話ですが、ご承知の通り・武智は女形の台詞の末尾の「・・・じゃわいなあ」という修飾が大嫌いな人でしたから、次のようなことを書いています。

『例を挙げると「綾の鼓」の後の場で、華子が言う待ち謡(別段待ち謡として書かれたものではないけれど、しかし、能楽的ドラマツルギーのなかで、それは必然的に待ち謡の形式を捉えていた)の文句、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」を、謡のフシをつけて謡ってみると、それがいかにも冗長で冗漫な感じが、私にはしてきたのであった。つまり、それは接尾語だけが余分だという感じであった。謡の文句としては、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分なのであった。「わ」とか「よ」とかという言葉が、謡独特のフレージングをつけたユリブシで長く引き伸ばされて謡われる時、現代語の空虚が、伝統芸術という祖先の声によって、厳しく批判され、非難されているという気が強く実感として、私に起こったのであった。』(武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」・昭和46年)

吉之助は弟子を自認するくらいですから武智の言いたいことはもちろん良く分かりますが、これは「近代能楽集」が原作である謡曲の題材も形式も思想も現代劇のスタイルに置き換えた作品であると解釈するならばそういうことになるのかなと思います。そう解釈してしまうのは「近代能」というイメージに固執するからでしょう。しかし、ある頃から吉之助はそういうのは三島が付けた「近代能」という擬古典的な触れ書きに騙されているのだろうと考えるようになりました。三島がやろうとしたことはもう少し狡猾で、能の象徴性とか幽玄とか言うけれど、後世の眼から見れば演劇としてまだ未分化であった能楽が持つドラマのピュアな要素だけ抜き出して・これを使って現代の設定で描いてみせるということであったと思います。世阿弥が現代に生まれていればこんな現代劇を書いたかなという遊び心だと思うのです。ですから私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」と言う時に「わ」とか「よ」とかという台詞の語尾が現代語の空虚を呼び起こすという武智の指摘はまさにその通り正しいのですが、逆に言うならば現代という時代の空虚を描写するために「わ」とか「よ」とかという台詞の虚飾の語尾を三島は必要としたということなのです。それは虚の手法なのです。三島はそれを意図して私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」と書いたのです。そこに「近代能」を名乗ることの意味があると考えます。三島が美輪明宏に再三「近代能楽集」の上演を頼みに来たというのもそれを考えれば当然のことかと思います。女形というのは演劇における虚であるからです。虚の言葉を操るのに女形ほど視覚的にも実質的にも相応しい存在はないということなのです。

しかし、演じる役に対する思い入れが過ぎるとこれもまたチト困る場合があります。「卒塔婆小町」で美輪が美しい姿で小町を演じたい気持ちは良く分かります。また 演じさせてやりたい気持ちが観客にもあると思いますが、実際に美しく変身した小町が舞台に現れてみるとそれが芝居を視覚的に分かりやすくしていることは確かですが、やはり落ちる所に落ちた感じがするのです。「秘すれば花」ということもあるのではないでしょうかね。「どうせ美輪が出るのなら綺麗な姿が見たかったねえ」と言われても見せないというところに意味があると思うのですが、そこで見せちゃうから落ちちゃうわけです。「老婆から小町に早替わり」と言ってますが、舞台袖に引っ込んで の衣装替えは、猿之助の早替わりを知ってしまった吉之助には・たとえそれが時間半分でも早替わりには見えませんね。どうせやるなら「アマデウス」冒頭でサリエリ役の幸四郎がやったように、鬘とマントをバッとかなぐり捨てて老体から若返って見せる。これで良ろしいのではないでしょうか 。

美輪の演じる卒塔婆小町」は美し過ぎる私の永遠の悲劇・・というところでしょうか。吉之助は作品の主題を詩人の心情の方に読みたいと思いますが、まあ美輪明宏が卒塔婆小町」を演じるならばこうでなければならないということは吉之助も理解はします。それはやはり美輪の役(小町)に対する思い入れの強さということなのです。幕切れの巡査との会話で「(そこに転がっている男が)酔っ払ってきてやってきて、私に色気を出しやがるんですよ」という台詞は死者を冒涜する嫌な女の台詞だとしてカットしたのも、小町に対する思い入れから来るものでしょう。カーテンコールで美しい小町の姿に戻って踊 りまくるというのも贅沢なファン・サービスになっていると思います。ただし余韻という点ではちょっと・・というところかな。能楽の余韻は大事なんですよね。

三島由紀夫:近代能楽集 (新潮文庫)

(H22・5・24)


○平成22年4月・ル テアトル銀座:「近代能楽集」〜葵上・卒塔婆小町・その2

「私如きものが・・・」と遜りながら・気が付くといつも歌右衛門は最前列の真ん中に座っているとよく言われたものでした。しかし、役者の場合はそのような「自分が主役」という意識がどこかにあってもよろしいのではないでしょうかね。特に歌舞伎の場合はドラマがモザイク的に成り立つものですから、自分の持ち場は主人公然とやってよろしいのです。例えば「熊谷陣屋」ならば直実の物語りの場面で相模が 脇の位置をわきまえなければならぬのは当然ですが、我が子の首を抱いて嘆くクドキの場面では相模はその場の主役として突出して良いわけです。この場面での歌右衛門演じる相模はいつでも突出していましたし、歌右衛門でしかあり得ない濃密な時間がそこに流れていました。そこに吉之助は女形の突っ張ったものをいつも感じたものです。 他の役者であるとその演技の良し悪しは別にして、相模がすべて取ってしまって・そこから熊谷の悲劇がネガの形で浮き上がるような事態は起きないでしょう。これはまあ意地悪く見れば目立とう精神と似たようなものに見えるかも知れませんが、吉之助に言わせればこれは「私が演る以上はこの役の持つ情念を十全に描き切らないで置くものか」という役者根性なのです。「女形である私」という歌右衛門のアイデンティティーと結びついているからなおさら強いのです。

ところで今回の美輪明宏演出・主演による三島由紀夫の「近代能楽集」の舞台も、現代女形としての美輪のファルスを感じさせるものだなあと思いますねえ。三島の「近代能楽集」は8作ありまして・吉之助は「班女」が作品的に特に優れたものだと考えますが、美輪 が「葵上」と「卒塔婆小町」の2作を選んだのはこれは当然と言えば当然のことで、役に対する思い入れの強さがその選択のポイントなのです。吉之助は美輪の演技術を歌舞伎の女形のそれと比較するつもりはありませんし・またその必要もないと思いますが、美輪が演じる主役ふた役(六条康子と老婆(小町))はやはり女形のファルスというものを強く感じさせます。それは主人公に対する共感と言っても良いですし・自己同一視と言っても良いかも知れませんが、主人公に対する美輪の強い思い入れが感じられるものです。しかし、美輪の解釈は基本的にポジティヴで健康的な ものです。これは意外に思えるかも知れませんが・決してそうではなく、主人公を自分と重ねて思い入れするならば・それは自己肯定にならざるを得ませんし、またそうあるべきものなのです。

三島は「近代能楽集」において原作から幽玄だとか不条理であるとか、現代人が能楽に期待する高尚さや思想性を取り去りたかったのかも知れません。もちろんそのような要素を世阿弥の時代の能楽も持っていたと思いますが、当時はまだそれらは能楽が醸し出すひとつの雰囲気に過ぎなかったのです。後世にそれらのイメージが自己増殖して・それらがあたかも能楽の本質であるかの如くになってしまったのかも知れません。そのようなことを三島は考えたのかも知れないと想像をします。そしてその代わりにそれこそ原作から最も遠いような現代の俗悪な光景を与えたのです。そのような俗悪な光景のなかから数百年の時を隔ててドラマの線が浮かび上がってきます。美輪の演出はそのようなドラマの線を視覚的にスッキリと、具象的に分かり易く描き出しています。象徴的な舞台を作ってその余韻を味わってくださいという舞台を美輪は作らないのですねえ。そこが美輪演出の「近代能楽集」のポイントということになるかなと思います。

「葵の上」では若林光と葵は愛し合っている夫婦であり・(過去にいかなる経緯があったにせよ)六条康子は今は光に捨てられた嫉妬に身を焼く女として描かれており、舞台に登場する康子(それは生霊である)に対して光が冷たい態度で終始接するのがふつうの解釈かと思います。嫉妬に狂った女の怨念は恐ろしい、康子本人は認識しておらずとも・深層心理のなかに暗く渦巻く情念の嵐が葵を取り殺すということになります。まあ能楽の原作を踏まえればそういう解釈になるのが通例かなと思います。しかし、美輪演出では光と葵の夫婦関係は政略結婚で冷え切っており、光の真実の愛は過ぎ去った過去の康子との日々のなかにあ ったのです。企業戦士としての日々に疲れ切った光は、妻を捨て去り・青春時代の恋愛の世界へ自己逃避してしまいます。(上演プログラムの美輪明宏によるコメント「演ずるに当たって」より)どちらの解釈が良いかとか正しいとかは別に置きまして、美輪明宏が六条康子を演じるならば・その生霊も思い入れができるものでなければならぬ、真実の愛は康子の方にあり、その生霊は美しく肯定的でなければならぬというのは、吉之助には「美輪ならばそうでなければ叶わない」と納得できるものです。

誤解がないように付け加えますが、これは美輪が作品を自分の方に強引に引き寄せて解釈しているということではなくて、この方が主役(六条康子)に視点を置いた時の情念のドラマの線がシンプルに・ストレートに見えてくるのですねえ。美輪は「表向きはこうだけど内心は違うんだ」とか深層心理ではどうなるだのと、ドラマを意図的にこねくり回して・ややこしく複雑に解釈することをしないのです。そのきっかけというのは美輪が自ら演じる役に対する思い入れということにあります。つまり美輪のアイデンティティーと強く結びついているところの現代女形のファルスが根底にあるのです。「葵の上」終盤で、電話の傍にある黒い手袋を取り上げて呆然とする光の脳裏に、あの青春の日々の音楽が鳴り響き(ここではハチャトリアンの音楽が効果的に使われています)・光はすべてを投げ捨てるように舞台から客席の方へ駆け下りていきます。実はここでドラマは終わっており、幕切れでの葵の悶死はもはやピリオドとしての意味しか持ち得ません。しかし、それが逆にドラマの余韻を生むわけです。だから「近代能」だということです。(この稿つづく)

(H22・5・16)


○平成22年4月・ル テアトル銀座:「近代能楽集」〜葵上・卒塔婆小町・その1

『向こう岸から見た方が流れている渦巻きの形は客観的によく見えるでしょ。渦巻き自身に渦巻きは見えないですから。(中略)もののけですから、私。男でも女でもない。』(美輪明宏・インタビュー「美輪明宏が語る「私と三島由紀夫」:サンデー毎日・2010年4月11日号)

美輪明宏は現代女形の創始者と言われているのだそうです。彼(彼女か?)によれば 優れた女優はみんな女形で、杉村春子は三代目中村梅玉から学んだし、水谷八重子は喜多村緑郎から・山田五十鈴は花柳章太郎から影響を受けているのだそうです。(上記インタビューより) なるほどそうでしょうねえ。男から見た女を形象化する女形の芸を優れた舞台女優はちゃんと盗んでいるのです。ところで、美輪明宏が言うのと若干ニュアンスは異な るかも知れませんが、フロイト精神分析において女性を「男性ではない存在」と定義する理論は、歌舞伎の女形にこれを適用した時に最もぴったりと当てはまると吉之助は考えています。女形とはファルスを剥奪された存在であり、そのような女形を様式の中核に位置付ける歌舞伎という演劇には ファルスの欠如感覚が見られるということです。だから女形というのは「男でも女でもない」のです。(これについては別稿「歌舞伎とオペラ〜女形とカストラート」のなかで考察をしました。)女形とは江戸幕府の女優禁止という措置によって写実の本質を剥奪された歌舞伎が生み出した・極めて不自然かつ人為的な産物なのです。だから女形の芸にはつねに「喪失した・去勢された・剥奪された」という負のイメージが付きまといます。

ところが歌舞伎の家に生まれ・女形として生き・それしか生きる道がなかった役者にはある種の「開き直り」が生じたかも知 れないということを考えます。つまり「私は私なのよ・私は女形なのよ・それが私なのよ」ということです。そうするとそこに「女形のファルス」のようなものが生じます。どこか とんがったような・突っ張ったような何かです。心理学用語ではファルスは象徴的ペニスと規定されますからちょっと変な表現なのですが、やはりこれは女形のファルスとしか言いよう がないものです。それは女形自身のアイデンティティーと直結するもので、気を付けて見れば歌舞伎のいろんなところに女形のファルスが顔を覗かせているかも知れません。しかし、それはふつうはオカマ的な虚飾の芸に隠蔽されてあまり強烈に表に出ることがないようです。吉之助が見る限り、そのような女形のファルスを強烈に感じさせた女形はただひとりであったと思います。それは六代目中村歌右衛門で した。

歌右衛門は見かけが実にたおやかでしたし・物腰言動も優美でしたから、「突っ張っている」という表現に意外の感を覚える方が居られるかと思いますが、吉之助に言わせれば歌右衛門ほど凛として立つという印象を与えた女形はなかったのです。歌右衛門によく言われたところの権力志向などということを言っているのではありません。歌右衛門には「私から女形を取ってしまったら私じゃなくなるんだから」という切羽詰った感じがあったということです。三島由紀夫が歌右衛門に対して言った「時代に対する危機美」がまさに これをぴったり言い当てたものです。(これについては別稿「六代目歌右衛門の今日的意味」をご参照ください。)歌右衛門と同時代の名女形であった七代目梅幸は普段はどこかの上場企業の社長さんと言われればそれで通りそうな紳士でした。梅幸は気負ったところがないまったく自然体の女形で、女形のファルスという突っ張った印象とは無縁でした。もちろんそれは現代の女形のあり方としてとても素敵なあり方なのです。歌右衛門は歌舞伎の歴史のなかで例外的な存在かも知れません。

ところで、女形のファルスを感じさせるという点において美輪明宏は歌右衛門に ちょっと似たところがあると吉之助は思うのですねえ。何だかデンと舞台中央に居座っている感じがあります。「私を否定できるならやってごらんなさい」という感じです。もちろん表面の技芸・芸質は違いますが、この感覚がまさに歌右衛門だなあと思います。このふてぶてしさは、美輪明宏が近年インタビューなどでよく語っていることですが、彼自身が若い頃から世間の偏見中傷にさらされて・修羅場を経てきたことからくるものでしょう。その意味でも彼が現代劇の女形を名乗ることはさもありなんと吉之助は思うのです。 (この稿つづく)

(H22・5・8)


○ポゴレリッチ・デュトワのショパン・ピアノ協奏曲第2番

吉之助はどちらかと言えばレコード(CD)派なので・生(なま)の演奏会にそう頻繁に行くわけでもないですが、それでも長年聴いていれば忘れ難い演奏会というのがいくつかあるものです。演奏がずば抜けて良いとか言うのともちょっと違うもので、その行為自体がひとつのドラマとして神懸かり的 な熱気を帯びるのです。何がそのきっかけになるのか誰にも(当の本人でさえ)分かりません。それは実に他愛もないきっかけで起こる場合もあるかも知れません。とにかく演奏家を触発する何かがそのタイミングにおいて起こったということなのです。そのような機会に居合わせることは実に幸運なことですが、そういう意味で先日( 2010年4月28日)のシャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団とイーヴォ・ポゴレリッチによるショパンのピアノ協奏曲第2番の演奏はスリリングで 興味深く、これはこれからの吉之助にとって忘れ難い演奏会のひとつになりそうです。

実はこの演奏会はもともとマルタ・アルゲリッチが出演してラヴェルのピアノ協奏曲を演奏する予定であったものですが・アルゲリッチが実にプライベートな事情でキャンセルしてしまったので、ポゴレリッチによるショパンに差し替えられたものですが、おかげで思いがけずポゴレリッチとデュトワとの共演を聴くことになったわけです。今回の演奏が忘れ難いものに なったのは、ふたりの優れた音楽家・しかし芸風としてはぴったりとは行かないらしいふたりが・思いがけず共演することになって、互いの力量をいかに出し切るか の真剣勝負の雰囲気があったからでしょう。試合としては終始ポゴレリッチが仕掛けてデュトワがこれを受けるという展開でしたが、デュトワはこれを完全に受け切りましたし、 ここでロマン派協奏曲のひとつの形を提示してくれたという印象があって感服しました。ショパンの協奏曲第2番は第1楽章冒頭にオケだけの序奏が長く続きます。ここをデュトワは中庸よりやや早めのテンポで行ったと思いますが、ポゴレリッチは最初の一音でその流れを止めてしまいました。その後のオケとソロが作る間合いが押し引きするところが実に面白いのです。決してギクシャクする感じはありませんが、ポゴレリッチが「おっ受けたか、ホイこれならどうだオラオラ」と感じで間合いを引っ張る場面が随所にあって、確かにポゴレリッチは「おぬしワルであるなあ」と思わせました。しかし、ポゴレリチのピアノは第2楽章などの音楽の流れがせき止められたところにキラッと輝くものがあって、真に音楽的で美しい瞬間がありました。もともとデュトワは合わせ物 が巧い指揮者ではありますが、今回は顔を赤くしたり・渋面を作ったり (吉之助の側からは見えませんでしたが、反対側の席で聴いた方の話ではなかなか大変であったようですねえ)・ウンウン唸りながら、それでも見事なサポートを見せてくれました。 リズミカルな第3楽章はデュトワが主導権を取って、ポゴレリッチがそれに乗ってスイングした感じであったかな。イヤそれにしても指揮者もオーケストラもまことにお疲れ さまの伴奏であったと思います。そのせいかその後のプログラム(ラフマニノフの交響的舞曲、ラヴェルのラ・ヴァルス)はまるでその憂さを晴らすかのような 躍動感ある演奏を聴かせました。フィラデルフィア管はホント素晴らしいオケです。

「協奏曲の主導権を持つのは指揮者か・ソリストか」というのはしばしば言われる命題で、例えば1962年のバーンスタインとグールドが共演した時のエピソードなどはその典型です。まあ正解は多分「それはどちらでもある」ということなのかと思います。いずれにせよ互いに合せようという気がないのでは仕方ありませんけどね。本年が生誕200年ということになる フレデリック・ショパンはピアノの可能性をぐっと押し拡げてくれた作曲家で(グレン・グールドなら別の言い方をショパンにしたと思いますが)、吉之助もショパンのピアノ曲を愛すること人後に落ちないつもりです。しかし、吉之助はこれまで協奏曲 についてはいまひとつショパンの魅力が十分発揮されていると感じていませんでした。2曲の協奏曲はショパンの若い頃の作品ということもありますが、よく指摘されるのはオーケストレーションに多少の難があるということです。逆に言 うとピアノが管弦楽にやや遠慮気味に感じられることです。吉之助はショパンのピアノ協奏曲を聴くともう少しヴィルトゥオーゾ・コンチェルトのイメージにして欲しかった なあという不満をよく感じたものでした。まあショパン自身は確かにベートーベンを尊敬していましたから、古典的ながっちりした構成の協奏曲を書きたかったのかも知れません けどねえ。ところが、今回のポゴレリッチとデュトワの演奏を聴いていると、ピアノが思い切りやりたいことをやっている・途中はハラハラさせるけれども・結果としては管弦楽の作る枠のなかにちゃんと納まっている演奏になっているのです。「この曲は確かにロマン派協奏曲だったんだなあ」と 吉之助はショパンの協奏曲を 再認識した次第です。この演奏ではピアノの主張が確としており・オケに埋没する印象がまったくなくて、まさにヴィルトゥオーゾ・コンチェルトの様相を呈したと思います。

(H22・5・2)


○折口信夫の科学的思考

別稿にて「折口信夫への旅」という論考の連載を始めました。連載はいつもよりゆっくりしたテンポでたらりたらりと進みます。「歌舞伎素人講釈」を読めばお分かりの通り、折口信夫は武智鉄二と並んで吉之助に強い影響を与えているもうひとりの師匠です。最近の吉之助は文章を書いている時に「折口さんならここはこう書くかな」と思って書くことが特に多くなりました。そう言えば最近の文章の調子が何やら折口に似てきたように思いますが、そういうことも嬉しく感じます。そういうわけでそろそろ二人目の師匠についても少しまとまったことを書いておきたいと思いました。というのは、いわゆる折口学と呼ばれるものはよく引き合いに出される割に理解されていないと感じるからです。

折口信夫の文体がどうも・・という方は少なくないと思います。例えば「仇討ちのふおくろあ」を例に取りましょうか。(吉之助の論考では「かぶき的心情と仇討ち」のなかで引用しています。)

『横死というのは自分の意思で死んではいないのです。また神がそうさせたのでもないのです。してはならぬ事により、入ってはならぬ所にはいったり、動物に殺されたりした場合なのです。普通の場合、こうした問題が起きるのは、血を出された側の方から起こって参ります。死人が血を出して罪に触れた事を償う為に、その親族が斬り殺した者を殺すわけで、そうする事によって償いが完了することになるのです。いわば仇討ちはお祓いの一種だということになるのです。それをしないと、罪障が消滅しないのです。』(折口信夫:「仇討ちのふおくろあ」・折口信夫全集第17巻)

こういう調子で決め付けたように書かれると、人によっては「どうして論証を経ないでいきなりそんなことがまるで結論みたいに言えるんだ」と反発を感じることがあるようです。まあ相性ということもあるでしょうねえ。折口の思想と文体は一体でありますから、つまり折口の思考の紡ぎ方というのがああいう感じで出てくるのですから、文体が合わないのならば・残念ながら折口の思想とはご縁がないというべきです。どこやらに「折口の学問は尊重するけれども、文体がわたしの口に合わない」とお書きになった先生(名前はあえて伏す)がいらっしゃいました。分かったような振りをしないで・正直に「折口の言ってることが分からない」と書けばよろしいのです。別に恥ずかしいことではないと思いますけどねえ。折口の思考法というのは論証を段階的に積み上げていって結論を導き出すというような経路を取らないのです。まず結果に向かって一本の線を引いてみます。このような結果に至るために、プロセスはこのような過程を経るのが自然であろうと考えます。そのような考えに沿って周囲を見回してみると、その考えを裏付けるような事象がいくつか見付かる。ということはその考え方が正しい可能性が高いということです。もちろん否定する事象が見付かる場合もしばしばありますが、その場合は考え方に修正を加えれば良いことです。そうやって右から左から叩きながら修正して、正しくあるべき理論を構築していきます。折口の場合はそのような思考経路を辿るのです。だから初っ端が入れないと折口の思考に付いていけなくなります。

折口の思考は感覚的であるとよく言われます。言い換えれば折口の思考はしばしば飛躍して非科学的であると思われているのです。しかし、それは大きなお間違えです。論証を段階的に積み上げていって結論を導き出すような思考法だけが科学的思考法であると信じている とそういうことになります。それは吉之助に言わせればアインシュタイン以前の科学なのです。(いちおう吉之助は理系の人間ですので。)1905年に発表されたアインシュタインの相対性理論は1919年に皆既日食があって・太陽の傍にある星の光がアインシュタインの予言通りに曲がることが確認されるまで実験的には証明されませんでした。しかし、結果的に言えることですが、1919年以前の相対性理論は仮説としてあったのではなく・正しくあるべき科学的推論が導いた真理としてあったということです。科学史の教えるところはそういうことです。まあそういうわけで、科学を学んでいたおかげで・吉之助には折口信夫の思考法がとても科学的なことがよく分かるのです。

『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。このかつきりとした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかったものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)

六代目菊五郎に対して「科学性」という言葉を使うのが奇妙に感じるかも知れませんが、ここで折口にふっと「科学性」という言葉が口をついて出てくる所が、吉之助には 何とも嬉しく感じられるのです。しかし、吉之助の論考「折口信夫への旅」も科学的には見えないかも知れぬなあ。イヤ科学的なのですけどね。

(H22・4・27)


「きまることは嫌なこと」

先月(3月)のNHKハイビジョンで「伝統芸能の若き獅子たち」というドキュメンタリーがあって・その第1回目が「市川亀治郎・突っ走る歌舞伎の異端児」という番組であったので、これを見ました。実は吉之助は亀治郎の初お目見見得を見てまして・それは昭和55年(1980)7月歌舞伎座での「義経千本桜」の安徳帝でしたが、確かにその頃から芝居好きで利発な子という印象でありました。しかし、吉之助は最近の歌舞伎をいつも見ているわけではないので、亀治郎の舞台をあまり知らないのです。というか吉之助の見る舞台に亀次郎がたまたま出てないのです。そういうわけで吉之助に亀治郎のことを云々することはできませんが、雑談がてら思い付いたことを書いてみます。

番組を見ると亀治郎の普段の話し方や雰囲気が叔父(猿之助)そっくりなのでホウと思うところあり、叔父甥だから似てても当たり前ですが、亀治郎にもその気概を意識的に真似するところがあるのでしょう。亀治郎のなかに昭和50年代に熱かった猿之助歌舞伎の雰囲気を引き継ぎたい気持ちが強いのだなあということは確かに伝わって来ました。ただし嫌味を言うならば、20代の猿之助というより50代の頃の猿之助の雰囲気を醸し出している。そこがちょっと気にはなりますがね。ところで別稿「海老蔵の伊達の十役」でちょっと触れましたが、昭和50年代に吉之助は猿之助歌舞伎をかなり熱心に見ましたが、その後吉之助は猿之助から次第に距離を置くようになりました。猿之助は心底歌舞伎を愛していて・歌舞伎の良さを多くの人に知ってもらいたいと努力を続ける人です。このことは誰もが認めるところです。しかし、一方で猿之助は歌舞伎の悪い部分・何と言いますかねえ・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判をあまり持たなかったと吉之助は思うのです。例えば台詞のある箇所がどうも言いにくいとします。すると猿之助はそういう場合は台詞のリズムを直して言い易くすれば良ろしという考え方であったと思います。自分たち役者の台詞廻しに疑問を持つことはあまりなかったと思います。一応猿之助の立場で考えれば、現行の興行では座頭は芝居を5日で見られるものに仕上げなくてはならない・猿之助は徹底的に現場主義だということです。これは「・・らしい」芝居はすぐに作れるけれども、それ以上の芝居を練り上げることが出来ないということでもあります。

『歌舞伎の台詞というのはたいてい七五調だから、字余り字足らずは言いにくいんですよ。「ちと」とか「まあ」とかを入れることで、言いやすく美しく、音楽として聞かせる。これが歌にするという事なんです。』(市川猿之助・横内謙介:『夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来』)

夢みるちから―スーパー歌舞伎という未来

この猿之助の発言がまさにそうです。字余り字足らずの台詞が言えないのは役者の息に溜めがないせいだという風に猿之助は考えないのですね。 武智鉄二は役者の「ちと」とか「まあ」が嫌いでしたが、これは弟子である吉之助も同じです。「歌舞伎の台詞を歌として言いやすく美しく聞かせる」なんて言われると、吉之助は「七五に揃えさえすれば台詞は歌になるのかね」と聞きたくなりますねえ。実は歌舞伎役者の台詞の引き出しというのは案外狭いのです。それはせいぜい幕末歌舞伎以降の台詞のテクニックです。しかし、別稿「歌舞伎の台詞のリズム論」を参照いただきたいですが、現行歌舞伎では黙阿弥や新歌舞伎の台詞のリズムさえ怪しいのです。もっともこれは猿之助に限った現象ではありませんが、猿之助の場合は演出をやるわけですからその考え方が他に波及するから困るのです。以上は台詞のことですが、猿之助歌舞伎では必然のあまりないところで見得・ツケを多用するなど演出面にも同様の問題が少なくなかったと思います。こうすれば「・・らしくみえる」という良く分からないものが判断基準になるところがあると思います。しかし、まあこれは吉之助が批評する立場で猿之助歌舞伎を見ればそうなるということでして、総合的に見れば猿之助の業績はもちろんそれなりに評価されるべきものだと思いますが。

ところで番組のなかで「金幣猿島郡」の終幕「双面道成寺」での狂言師升六で・猿之助と亀治郎の演技を対照させてみせる場面がありました。「さればひとさし舞ましょうか」という台詞ですが、亀治郎は「舞いましょう・・」のところをテンポを落として台詞を膨らませて、「ましょう・・・かあ」とひた呼吸ほど間を置いて・腹に一物あるところを台詞と表情に匂わせてニヤッと笑う演技をしました。オリジナルの猿之助の方はあまり下心を匂わせるでなくサラリと流しています。亀治郎の演技は緩急利いていて確かに器用なものですが、番組プロデューサーはどういう意図でこの映像を選んだのでしょかねえ。吉之助の個人的な好みを言えば・吉之助はこういう演技があまり好きではないのです。理屈で言えば升六がここで底を割るのは良くないということが言えます。山場はずっと後ろにあるのですから、ここは余計なことを匂わせずサラリとやれば良いのです。理屈ならそういうことですが、「ましょう・・・・かあ」で台詞を七の調子に揃える感覚が良くないと思います。七五調で締めれば人を殺してもセーフという感覚は吉之助は嫌なのです。これは猿之助のサラリとした台詞の方がずっと良い。亀治郎にその違いが分かる役者になって欲しいなあと思います。

別稿「歌舞伎とオペラ・24」で「最近の歌舞伎ではきまることが嫌なことだという意識が役者に余りないようだ」と書きましたが、亀治郎のような演技を見るとそれを思い出しますねえ。と言うより、この番組で升六の演技やたっぷりとした見得の仕方を見る限り(決め付けるつもりはないですが)「 こうすれば・・らしくみえるだろ」という感覚が亀治郎は叔父よりさらに強いのではないかという感じがします。これは世代の差もあると思いますが、こうした現象は歌舞伎の保守化傾向を良く示していると思います。まあこの感覚は実は亀治郎だけのことではありません。別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」・あるいは「菊五郎の弁天小僧」でも書きましたが、吉右衛門や菊五郎にもあることです。しかし、何と言いますかねえ。吉右衛門や菊五郎のような出来上がった役者ならそれは 彼らのスタイルとして受け取っても良いですが(まあ仕方ないということもある)、亀治郎は若いのであるし・「歌舞伎の異端児」を標榜するのならば、こういうところで無批判的にどっぷりと「・・らしく」に浸りきる感覚は良ろしくないのではないですかね。伝統必ずしも良いことばかりではありません。 グスタフ・マーラーは「伝統的であるとは、だらしないということだ」と言い切りました。伝統が内包するダルいものへの批判を常に持ってこそ新たな展開が可能になるのです。若い世代には「きまることは嫌なこと」ということをちょっと考えてみて欲しいと思うのですねえ。

(H22・4・11)


○平成22年3月・日生劇場:「染模様恩愛御書」・その4

衆道という症候(ラカン的な言い方をすればそれは症候となります)は心理学でも容易に論じられるものではないですが、本稿ではかぶき的心情の観点から衆道を見てみたいと思います。別稿「演劇におけるジェンダー」において、昔の人々はセクシュアリティの不安に関して我々が想像している以上に体制転覆的なイメージを感じ取っていたことを考えたわけです。恋愛とは愛する対象(異性)と同一化しようとする行為である。と同時に自己の本性(男性ならばその男性的性格)を失わせることでもあるのです。例えば「ロミオとジュリエット」において・恋してしまったロミオは剣を抜いてティボルドと闘う気にどうしてもなれずに・とまどってこう叫びます。

『いとしいジュリエット、君が美しすぎるから、僕が女々しくなってしまった。僕の気性は勇気の鋼がにぶってしまった。』(第3幕第1場)

ロミオのこのような感じ方が「女性に対する情熱は男性を女々しくする・だから女性は男性にとって危険である」という感じ方に転化していくのです。日本においても戦場に向かう武士が妻や恋人のことを思うことは未練なことで男の恥だとされました。このことは一般に現世・俗世の柵(しがらみ)を断ち切れていない・生への執着を意味すると理解されていますが・実はそうではなく、それはむしろ女性に対する情熱が彼の戦う勇気・あるいは雄々しさを鈍らせることを言っています。このことが戦国時代から江戸初期にかけて・つまりかぶき者の衆道への関心に強く関連すると吉之助は考えています。つまり同性を相手にする限りは自分の雄々しさ・男性性は守られるとするのです。ご承知の通りかぶき的心情とはアイデンディティ ーの主張であるわけですから、ここで衆道がアイデンディティーのひとつの主張として機能することになります。(注:衆道の対象がしばしば若衆となることについては散り行く花に対して美しさを感じるという・また別の美学が絡みます。この要素は分けて分析されねばなりません。)

現代の人々のイメージよりも、かぶき者の衆道はずっと骨太いものであったことが想像できます。もっとも無骨な男同士の恋愛模様を舞台で見せ付けられて絵面の舞台になるのか・エンタテイメントになるのかという問題は確かに残りますが。そこのところも染五郎と愛之助という素材ならうまく処理すればそれなりに見られるものが出来そうに思いますが、しかし、実際の舞台で見るとやはりヤワい印象です。どこかに照れが出るのですねえ。この照れは観客の方にもあります。だから友右衛門と数馬の出会い・あるいは双方がその真情を確認する場面などどことなく滑稽なタッチで処理されています。観客も笑うことでごまかします。本来ならばここはもうちょっとシリアスなものだろうと思います。そうでないと仇討ちや火事場の奮闘という行為に衆道が同じ線上に並んで見えてこないわけです。だから今回の舞台の衆道の場面が何だか衰弱したセンチメンタルな印象、心理学的に言うなら去勢された・ファルスを奪われた状態に見えてきます。まあそこに江戸中期以後の衆道の様相が垣間見えて興味深いということは言えます。

江戸期の「細川の血達磨」の数馬がもっぱら女形で演じられてきたことは先に述べました。ナヨナヨとした女と見分けがつかない男女(おとこおんな)の数馬です。歌舞伎のなかで衆道がこのようなヤワい形で描かれてきたことは、ひとつには先に述べた通り江戸の封建社会を生き抜くための歌舞伎の哀しい知恵でした。しかし、もうひとつの要因も考えておいた方が良いと思います。それは歌舞伎は衆道をこのような形でしか描けなかったということです。ひとつは江戸期の衆道は本来持っていた自己主張の要素を否定されて(つまりファルスを奪われて)地下に潜った形で存続したということ、もうひとつは歌舞伎という演劇が去勢された・ファルスを奪われた演劇であったからです。女形とはあらかじめファルスを奪われた存在です。かぶき的心情はアイデンティティーの主張ですから、当然ながらかぶき者の行為というのは常にファルスの誇示です。歌舞伎もまたかぶき的心情に裏打ちされたドラマですから、そのドラマツルギーは本来ファルスの誇示を含んでいるのです。しかし、歌舞伎は本質的なところでその主張を奪われています。その要因のひとつが女優の禁止ということで、吉之助は歌舞伎史のなかでこれを「歌舞伎の第1回目の死」と呼んでいることはご存知の通りです。(別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」をご参照ください。)女優の禁止によって生まれたのが女形です。ですから衆道という典型的なかぶき的心情のドラマがこのような形で歌舞伎で処理されることに吉之助はある種の感慨を覚えますねえ。それは歌舞伎という演劇の在り方と自然にオーバーラップしてくるのです。今回の「細川の血達磨」上演はこのようなことを考える良い機会を与えてくれました。

(H22・4・4)


○平成22年3月・日生劇場:「染模様恩愛御書」・その3

「細川の血達磨」がかぶき的心情のドラマであることが分かれば、不義の罪で手討ち寸前の友右衛門と数馬を助けた細川公の行動も理解できます。細川公はふたりの仇討ちを認めますが、その後・たまたま立花家の使者として細川公の許を訪れた図書がその仇であることを知らされると、細川公はすぐさま屋敷の門を閉じさせ・家来に図書の捕捉を指令し仇討ちの加勢を始めるのです。図書に外交特権があるわけではないですが、図書は立花家の正使として細川家を訪れているわけで、先方主家に何の申し渡しもせず図書を屋敷内で討ち果たすのでは立花家の面目は丸潰れです。これは事後の通知で済むものではありませんし、下手をすれば両家の戦さにもなりかねない危険な行為です。しかし、細川公はそれを平気でやるのですねえ。このことから細川公も相当なかぶき者であることが明らかなのです。実は江戸初期の仇討ちというのは、どちらに正義があるかというのは二の次のことで・討つ側と討たれる側の親類縁者一門が集まって行なう一大イベントみたいなものでした。とにかく親類あるいは家来に討たれる・あるいは返り討ちに合う者が出るというのはその一門の名折れであるというので、それぞれの面子を賭けて双方が集まり・熱くなって睨み合ったものでした。ですから細川公は家来思いの気持ちから仇討ちの加勢をしているわけではなく、自分の家来から仇討ちで名を挙げた者が出れば主人として鼻が高いというかぶき者の心情で仇討ちをけしかけているわけです。

「細川の血達磨」は全体を見れば仇討ち芝居の構図ですから、衆道ドラマかと思って舞台を見ているといつの間にか忠義・武士道のドラマに無理やりこじつけられちゃったように見えるかも知れません。だから「男同士の恋愛が武士道や忠義に昇華していく」なんて解釈が出てくるわけですが、実を言えばこれは転化でも昇華でもないのです。この芝居は最初から最後までかぶき的心情のドラマで、そこに一本太い筋が通っています。衆道も仇討ちも・火事場の犠牲的行為もすべて同じかぶき者の心情から発しており、彼らの論理からすればまったく当り前のものとしてそれらの行動が出ているのです。

今回の上演脚本はテンポアップもされて要領良くアレンジされており、吉之助の上記の考察に足るだけの材料は見ようと思えば舞台のなかに十分見えます。そこにかぶき的心情を見るか見ないかは、まあ解釈の問題と言えます。それでは染五郎や愛之助が語るところの「男同士の恋愛が最後に武士道や忠義に昇華していく」という解釈が間違いかというと・必ずしもそうとも言い切れないと思います。結局、「細川の血達磨」という芝居が江戸期にお上に抹殺されることなく・それでも何とか命脈を保って来れたのは、この芝居が特異な形であっても忠義のドラマだという風に読まれてきたからです。それはそれでこの「細川の血達磨」の真実です。ただし表向きの真実ということですけどね。しかし、舞台に隠された真実を読み取ってその奥底に入り込んでいけば、まったく違う骨太い男のドラマが舞台に見えて来ます。

それにしても火事場で奮闘して焼死した友右衛門が賞賛されて・御家の守り神に祀り上げられるのは、当のかぶき者・友右衛門からしてみると「面映い」か・あるいは「有難迷惑」かも知れませんねえ。本人にしてみれば「天晴れじゃ!」と言われさえすればそれで十分なのです。この辺に大衆を取り込もうとする体制 の狡猾なレトリックが潜んでいます。このような体制のレトリックが骨太い男の純情をヤワい男の恋心に変えてしまうのです。だから衆道と最後の火事場の憤死とを結ぶ連続した線が見えなくなってしまって、これを無理に連続させようとすると「昇華」という風に言わざるを得なくなるわけです。そういう時には補助線を引いて考えれば良ろしいのです。それがかぶき的心情ということです。

骨太いかぶき的心情のイメージからすると、友右衛門の恋の相手である数馬はあまりヤワい感じに処理するのではなく・まあせいぜい「鈴ヶ森」の白井権八くらいの優男に留めて欲しいものだと吉之助は思いますが、「細川の血達磨」の江戸期の上演記録を見ると、数馬を演じた役者は佐野川市松(初代)・芳沢あやめ(五代)・瀬川菊之丞(四代)・岩井半四郎(八代目)などどれも女形系統の役者です。如何にもナヨーッとして女と見分けがつかない男女(おとこおんな)の数馬が想像されます。江戸時代からずっとそのような形で衆道が描かれてきたわけです。しかし、これは江戸の封建・検閲社会を生き抜くための歌舞伎の哀しい知恵ですから責めるわけにもいきませんが。愛之助のせいではないですが、今回の舞台の数馬も男装したご令嬢の如くで・いまひとつピンと来ません。何だか衰弱した センチメンタルな印象で、ここからかぶき的心情のエネルギーを想像せよと言ってもチト難しいかなあとは思います。もっとも現代の観客はこのような絵面の処理の方が衆道に対する興味が掻き立てられるのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(H22・3・27)


○平成22年3月・日生劇場:「染模様恩愛御書」・その2

「細川の血達磨」では友右衛門と数馬が衆道関係にあることが明らかになり・ふたりは不義者としてあわや手討ちになるところでしたが、主人細川公の温情により許されます。それが火事場に友右衛門が飛び込んでお家の重宝を身を犠牲にして守るという行為につながっていくわけです。ここでまず衆道関係だとどうして不義でお手討ちなのか・その理由が問題になると思いますねえ。一般的には衆道というものは道徳的に許されない行為であるから・それで手討ちの対象になるのだと説明されていて、昔はそんなものなのかいなと思って芝居を見るわけです。だから不義者のふたりを許してくれた細川公は情のある良い殿様で、その殿様の恩義に報いるために身を犠牲にした友右衛門は天晴れだということになります。そうすると「細川の血達磨」は前半の主題は衆道であるけれど、後半の主題は忠義(さらにこれには仇討ちが絡みます)という風に理解されると思います。筋書きを読むと染五郎や愛之助も同様に「男同士の恋愛が 最後に武士道や忠義に昇華していく」ということを語っています。これは「まあ確かにそういう見方もありますねえ」と言うことにしておきます。多分そういう形で「細川の血達磨」 というドラマは江戸の昔から世間に受容され、最後に忠義の行為で終わるからそれで良しとされてきたのでしょう。しかし、そのような説明では友右衛門の前半の衆道行為と・最後の火事場での犠牲行為とが心情的にぴったりと繫がらないと吉之助は思いますねえ。衆道の友右衛門が一転して犠牲行為に突っ走っていく論理が一本線で見えてこない。だから「昇華」という言葉を使わなければならなくなると思います。どうして衆道は不義なのですかねえ。

衆道関係というものは古今東西において見られるものです。日本においては特に戦国末期から江戸初期において顕著に見られました。一々例を挙げるまでもなく大名でもその趣味の方が実に多くありました。五代将軍徳川綱吉なども「前の世からの女嫌いにてまします」と言われた男色家でした。ということは衆道はお上のご趣味であったわけですね。それならば家来が同じご趣味なら結構なことじゃないでしょうかね。奨励されこそすれ、手討ちにすることはないだろうと思いませんか。しかし、現実には家来が衆道関係であることが発覚して手討ちになる事例がしばしば起こりました。衆道関係のもつれなどで刃傷沙汰がしばしば起こったこともまた事実です。衆道は不道徳だから 駄目だというなら、将軍様も不道徳だということになります。まあ将軍様は不道徳でも良いが下々は不埒なことはならぬという論理もあり得ますが、説得力はないですねえ。 今回の上演では細川公のご趣味はよく分かりませんが、衆道関係だとどうして不義なのでしょうか。この場では友右衛門も数馬も自分たちが手討ちになることは仕方ないと観念しているようです。衆道は不義だという共通した認識が双方にあるようです。

実はなぜ衆道が不義とされたのかは、「かぶき的心情」ということを考えないと決して理解が出来ません。「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情についていろいろと考察してきました。かぶき的心情とは江戸初期を覆う時代的気質です。それは個のアイデンティティーの発露であり、おのれの「意地」や「一分(いちぶん)」を非常に激しく主張するものでした。このような気風はもともと戦国時代に発するものです。バサラの気風がそのひとつですが、戦乱期は個性がものを言った時代ですから・その時代にはかぶき的心情は良い方の作用をしたのです。しかし、平和の時代になり・社会機構が固まって組織の維持・継続が至上命題になってくると、個人がやりたいことをやってそれで良いということにならなくなってきます。個人が勝手なことをやり出すと組織としては非常に迷惑なのです。そうなると個人は社会のなかで生きるのが窮屈になってきます。行き場を失って・持て余したエネルギーがいろんな方向に噴出し始めます。これが江戸初期のかぶき的心情なのです。つまり江戸のかぶき者の心情・歌舞伎のルーツなのですが、実は同じような気風が大名から町人まであらゆる階層に及んでいました。

かぶき的心情はいろいろな現われ方をして、決して一様なものではありません。別稿「かぶき的心情とは何か」では代表的な現象として仇討ち・殉死・心中ということを取り上げましたが、本稿では衆道ということにちょっと触れます。これは「歌舞伎素人講釈」ではこれまで取り上げなかったものです。もちろん衆道というものは日本の歴史のなかで古くからあるものですが、江戸初期の衆道はかぶき的心情と強く結びついて・特異な様相を示すのです。それは単に若者が前髪立ちの美少年に寄せる恋心というものではありません。もちろんその要素は核としてあるもので・その点では伝統(?)を継いでいますが、個の主張という行動論理を持つことで・江戸初期の衆道はラジカルな自己表現という様相を見せ始めます。つまり仇討ち・殉死・心中などというかぶき的心情の自己主張のひとつとして衆道があるのです。ですから自己主張が叶うならばそれは別の行動に置き換えることが可能だということになります。「 細川の血達磨」で見れば、後半に仇討ちがあり・これは言うまでも泣くかぶき的心情の行為です。さらに火事場に友右衛門が飛び込んでお家の重宝を身を犠牲にして守るという行為も、どれもかぶき的心情の行為なのです。ですから「男同士の恋愛が武士道や忠義に昇華していく」という表現は正確なところではなく、本当は友右衛門は最初から最後まで徹頭徹尾かぶき的心情に生き・かぶき的心情に殉じたと考えて良ろしいわけです。友右衛門の行動はかぶき的心情として完全に一貫しています。それが「細川の血達磨」のドラマの真相なのです。

そう考えればなぜ衆道が不義とされたかも分かってきます。少年は自分を愛してくれる若者と義兄弟の契りを交わすことで、一人前の男になることを学び・精進を重ねたわけです。付け加えますと義兄弟というと兄と弟という上下関係に取るかも知れませんが・そうではなく、これは上下関係のない一対一の男と男の対等な関係です。そしてどんな場合においても彼らは義兄弟の誓いをまず第一としました。そこに個人の意地や一分が掛かっているからです。それがかぶき的心情というものです。組織の維持を至上命題とした江戸の封建体制が嫌ったのはまさにこの点だったのです。封建組織は家来に対して主君への絶対的・継続的な忠誠を要求します。しかし、かぶき者(もちろん衆道者が含まれます)は我らの誠を尽くすべきものは他にあるとするのです。主人の要求が自分の主義に反さない場合には良いのですが、反すると思えばかぶき者は主人を平気で裏切るのです。な ぜならばかぶき者にとって義兄弟の誓いの方が重いからです。こんな手前勝手な論理を封建体制が許しておくはずがありません。ですから封建体制は衆道は不道徳であるから駄目だ・不義だと決め付けたのです。社会組織が整備されていくうちに・だんだんそれが世間一般の感覚になっていきます。衆道は地下へ潜ることになります。しかし、その罪の意識が自己表現の手段としての衆道の快感を高めることにもなる。だから不義だと言われてもますます衆道に走る者が出る。江戸初期の衆道の様相はそんなところでありましょうかね。

蛇足ですが、歌舞伎史を読むと遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を幕府が禁止したのは風紀の乱れからであるとどの本にも書いてありますが、それは表向きの理由に過ぎません。歌舞伎が振り撒くものに反体制的な匂いを嗅ぎつけたからこそ、幕府は歌舞伎を弾圧したのです。(女優の禁止が歌舞伎の表現を捻じ曲げたということを「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の第1回目の死」と呼んでいます。別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」をご参照ください。)確かに歌舞伎役者(遊女・若衆)をめぐった色恋の刃傷沙汰などが問題になった事実はありましたが、いつの時代においても為政者が自分の気に入らないものを消し去る時には「不謹慎だ・不道徳だ・風紀を乱す」と言うのです。これがいつの時代にも為政者がとる論方だということです。ちょっと見方を変えて見れば真実は別なところにあるということが分かると思います。(この稿つづく)

(H22・3・23)


○平成22年3月・日生劇場:「染模様恩愛御書」・その1

『私どもの青年時代には、歌舞伎芝居を見るということは恥ずかしい事であった。つまり芝居は紳士の見るべきものではなかった。だから今以って、私には、若い友人たちのように、朗らかな気持ちで芝居の話をすることが出来ない。私の芝居についての知識は、いわば不良少年が、店の銭箱からくすねて貯めた金のような知識で、理屈から何でもないことだが、どうも後ろめたい。どうも私の話につきまとう卑下慢式なものを嗤ってください。』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年10月)

ここに掲げたのは折口信夫が「菅原伝授手習鑑」についての随想の冒頭部です。この後に続く「菅原」論とはまったく関連がないもので、どうして折口がこのような文章をマクラに置いたのかその意図は推しはかるしかありません。「歌舞伎芝居を見るということは恥ずかしい事だった・芝居は紳士の見るべきものではなかった」ということは若い歌舞伎ファンの方は全然理解できないかも知れませんねえ。折口が若い頃は「大学で 芝居を学びたい」などと言おうものなら「そんなものを男子一生の仕事にしたいとは何事か」と父親は怒り母親は泣くような時代だったのです。当時は実学(じつがく)という言葉がありまして、学問は実利に直結するものがまず求められた時代でした。歌舞伎を 愉しみとして観るのはともかく・学問とするなど考えられない時代でした。

ある時、池田弥三郎が師である折口に「芸能とはイコール民俗であるか」という質問をしたことがあったそうです。折口はしばし考えて・慎重に「芸能は多分、民俗ではあるまい。もし芸能が民俗であるならば、柳田(国男)先生が芸能研究の分野を自分に任せるはずがない 」と答えたそうです。(池田弥三郎:「芸能の流転と変容」)折口は言葉を選んで「柳田先生が芸能分野を自分に任せた」と言っていますが、真実のところは柳田は芸能を研究対象として見なかった・というより価値を認めていなかったので、「そんなものに関心があるのならお前(折口)やってみな」と折口にカスを放り投げたということです。折口もそのような柳田の冷たい視線を感じたと思います。だからああいう慎重な発言になるのです。柳田も能ならば対象に考えなくもなかったでしょうが、歌舞伎となると軽蔑しか感じなかったでしょうねえ。

その意味というのは、上掲「手習鑑雑談」とはまったく別件ですが、「歌舞伎を見るということは恥ずかしい事」だったということは、歌舞伎がある種の猥雑な・反道徳的な要素と強く結びついており、歌舞伎を論じる時にこのことを完全に切り離すことが出来ないということにあります。実はそれが柳田を生理的に嫌悪させたものです。歌舞伎のなかの猥雑な要素というものはいろいろありますが、代表的なものをひとつ挙げれば・ 例えば男色のことです。しかし、この「歌舞伎素人講釈」もそうですが、歌舞伎研究というのはどれもその辺に深入りすることを慎重に避けながら論理を進めているところがあるのです。女形を論じる時でも、 女形は男色という問題と切っても切り離せないものです。女形の魅力など論じながら・そっちの方面へ話しが行くことがないように誰でもそれとなく注意しているのです。吉之助がそちらの方面に全然関心がない(こういうことをワザワザ書かねばならぬところにそもそも問題があるわけですがね・・笑)ので、歌舞伎を純粋に学問的な材料として論じたい・風俗的に論じるつもりはないという意識は吉之助にもかなり強いものがあります。そういうわけですから、本稿では衆道(男色)を主題に扱った芝居を取り上げますが、まあ学問的にサラリと論じたいところですね。

今回の「染模様恩愛御書」(そめもようちゅうぎのごしゅいん)は通称「細川の血達磨」と呼ばれるもので江戸時代はよく上演されたものですが、大正頃から衆道というテーマの特異さと火事場演出の難しさから上演が途切れたようです。今回は染五郎(友右衛門)と愛之助(数馬)による久しぶりの上演ですが、衆道という主題を歌舞伎が取り扱うなかに実に歌舞伎らしい処理が見えるのが興味深く思われるので・ちょっとその辺を書いてみたいと思います。(注:「染模様恩愛御書」は今回の上演だけの外題であるので、以下本稿では衆道を主題としたこの芝居を「細川の血達磨」という作品名で統一することとします。)(この稿つづく)

(H22・3・21)


○平成21年5月27日歌舞伎座:矢車会・「勧進帳」・その4

七代目団十郎はどうして新作を原作と同じ「安宅」とせず「勧進帳」と命名したのでしょうか。能掛かりのイメージを利用するなら「安宅」を名乗った方が有利なのは明らかです。ですから「勧進帳」という題名には七代目が能の真似事ではない歌舞伎独自のものであることを主張する意味があるはずです。七代目は当時講談で呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させて、これを芝居のなかに取り込みました。山伏問答は原作「安宅」にはないもので、七代目がこれを新作の眼目としたのは明らかです。勧進帳読み上げは市川家伝来の荒事のツラネの様式を踏襲したもので、元禄歌舞伎の「しゃべり」の技術をそこに再現しようとしたのです。 七代目はさらに続く弁慶・富樫の山伏問答でその技術的・演劇的発展を試みました。(別稿「アジタートなリズム」の荒事の項をご参照ください。)

今回の舞台の富十郎の弁慶の読み上げから問答ですが、現実場面にありそうなリアルな問答を意図しようということかと思います。「さすが富十郎だけに言語明瞭・緩急自在の台詞回し」と褒めたいところですが、しかし、荒事のツラネの様式の観点から見ればこれは「崩れまくっている」と言って良いものです。まず勧進帳を構えたところから始終チラチラと富樫の方を見やり、富樫に一々反応して目を瞑ったり笑ったり ・表情や姿勢を頻繁に動かすなど、弁慶の人間を小さく見せると言うだけでなく・安易な写実に墜したという印象です。台詞の緩急・声の高低を大きく付け・その意味ではダイナミックな台詞回し ですが、確かに新劇で安宅の関の場面をやるならこの台詞回しで良いでしょう。しかし、これは歌舞伎の山伏問答ですから様式を意識させてくれなければ困ります。一方の吉右衛門が現行の「勧進帳」そのままの感覚にどっぷり浸かった富樫なので・ますます富十郎の意図が理解できなくなります。富十郎がともかくも従来の感覚とは違う弁慶を作ろうと奮闘しているその眼前で、いつもと同じ調子で富樫を演って平気でいられる吉右衛門の神経が分かりません 。富十郎は「忙しいなか一日だけの公演に特段の配慮で出演していただいた播磨屋さんに煩い注文は出来ません」ということで遠慮したのでしょうかね。おかげで弁慶と富樫が視覚的にも様式的にもまったく噛み合わない印象の山伏問答になりました。 と言っても吉右衛門の富樫が良いわけでもありません。「そもそも九字の真言とは如何なる義にや・・」で富樫が詰め寄る場面は、最近の舞台ではいつも富樫だけが勝手に興奮しているようにしか見えませんが、吉右衛門の富樫も同様です。それは台詞の息が詰められてないからです。

最近の「勧進帳」の舞台を見ると、弁慶と富樫の山伏問答を対話劇と捉えて観客に問答を分かり易くきかせるように・噛んで含めるようにゆっくりと言い、相手の台詞に一々反応して写実に言う傾向がますます強くなっています。今回の舞台の富十郎と吉右衛門にしても、様式的に は噛み合っていないけれども 、双方ともそれと同じコンセプトです。ですからこういう問答を「分かり易くて良い」などと評する方が出てくると思いますが、しかし、よく考えて欲しいのですが、ここでの山伏問答は、富樫は何とかして弁慶に返答を詰 まらせて・ボロを出させて捕まえようという腹で次から次へと矢次ぎ早に難問を繰り出すのです。対する弁慶の方は、専門用語を並べ立て・もっともらしい理屈 をサラサラと連ねて・相手を丸め込み一刻も早く逃げようという腹で、返答を早口でまくし立てるのです。お互いに「お前・これが分かるか・分からないだろ・どうだどうだ」という問答なのです 。だから相手が理解しやすい問答など全然意図してはおらぬのです。相手の返答を聞いて納得して・ ホウなるほどね・それでは次の問いですが・これについてお答えくださいねというような悠長な紳士の問答をしているのではありません。山伏問答とは、片方は何としてでも関を通 る・片方は如何様あっても通すことはできない・という双方の気迫が真っ向からぶつかる場面であることが分かれば、弁慶にとって勧進帳をデッチ挙げることなど簡単なことだ・山伏問答などお安いことだなどと言う解釈が腹違いであることはすぐ分かることです。この辺は「勧進帳は音楽劇である」をご参照ください。

別稿「勧進帳の変遷」でも触れた通り、七代目初演の「勧進帳」が現行の形に変化し・今日歌舞伎最高の人気作となっていく過程は、そっくりそのまま富樫の性格の変化を反映した結果です。そしてこのような仁義ある富樫の性格は七代目初演の「勧進帳」に全然なかったものではなく・その内面にあって隠れてはっきり見えていなかったもので、そ の意図が上演を繰り返すなかで次第に明確になってきたということです。ですから「勧進帳」演出の再検討をするならば、富樫の検討から始まらなければホントは意味がないのです。富樫の位置が決まることで、相対的に弁慶の立ち位置が決まって来るのです。富十郎はその辺をよく見定めないで、弁慶にばかり凝ってそれで良しとしてしまったように思 います。ところで師匠・武智鉄二は富十郎のことを次のように評しています。

『富十郎は頭が良い。理解力が早い。これは武智歌舞伎の昔からそうであった。彼の最大の欠陥はそこにあった。頭が良いから頭を使わないのである。頭を使うまでに行き着かないうちに、何事も理解が付いてしまうのである。彼は孤独、孤児的環境を頭を使うことで紛らすことができる世にも恵まれた環境にいる。それを人間臭さ、寂しさを口実に韜晦(とうかい)して、ごまかして生きてしまっているのではないか。』(武智鉄二:「中村富十郎」・昭和51年)

どうも今回の「勧進帳」を見ると武智の指摘することが当てはまる気がしますねえ。この富十郎の弁慶に対しいつも通りの富樫を演って平気な吉右衛門の感覚も困ったものだと思いますが、富十郎もこの辺は遠慮せず忌憚ないところを言い合いながら、弁慶・富樫で一致したコンセプトで舞台を作り上げていかないと良い「勧進帳」は出来ないということを申し上げたいですねえ。

(H22・3・13)


○平成21年5月27日歌舞伎座:矢車会・「勧進帳」・その3

今回の富十郎は観世流のかんとん縞の水衣で直面(ひためん)で弁慶を演じ、ちょっと見ではこの「勧進帳」は本行(能)返りの「勧進帳」ということになるのかも知れません。しかし、直面とはいえ富十郎の弁慶は表情が実によく動きます。現代劇と言って良いほど表情が動いて、まるで能の直面の雰囲気になっていません。強弱緩急を大きく付けた台詞回しも、とても謡掛かりには聞こえません。これで何のための本行返りなのでしょうかね。幕切れの飛び六法ですが、富十郎は六法の足踏みをちょっと見せた後・摺り足で花道を入るやり方を見せました。仮にですが歌舞伎の「勧進帳」を能楽堂でやらせてもらうようなことがもしあって・弁慶が橋掛かりでこんな引っ込みを見せるならば、まあそれらしいかもねと思います。別稿「玉三郎新演出の舟弁慶」でも触れましたが、この辺に能に対する歌舞伎のコンプレックスを垣間見る気がします。それほど本行返りがしたいなら本物の能の「安宅」を見ればよろしいことなのです。七代目団十郎は本行を崩したのではなく・本行に歌舞伎独自の視点を加えたのですから歌舞伎役者はもっと自信を持てば良いのにと思います。幕切れの弁慶の飛び六法は、他に元禄見得や不動の見得・石投げの見得などが角々の決まりにあるとしても、現行の「勧進帳」が歌舞伎十八番・つまり江戸荒事の系譜を引くということを想起させる唯一の箇所だと言っても良いほどです。最も歌舞伎らしい幕切れをこのようにしてしまうのは実にもったいないことです。

ところで歌舞伎の「勧進帳」で富樫は弁慶の忠義の心に感じ入り・自分の判断で義経一行の関所通行を許すことが本行との決定的な相違であることは先に述べました。そこに歌舞伎の「勧進帳」の近世江戸の視点があるのです。「勧進帳」の初演は天保11年(1840)。明治維新はもうすぐそこまで来ているのです。 「勧進帳」はそういう時代の作品であることをお忘れなく。能の「安宅」では富樫は弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すのですから、その人間描写は比較的単純です。但し書きをつければ、それは能の「安宅」の出来が悪いということではなく・「安宅」は室町時代の中世的な視野に立つドラマなのです。近世江戸の歌舞伎の「勧進帳」の富樫はそうではなくて、関所通過を認めに至る経過に心理的な葛藤があって・そこに複雑なドラマがあるのです。歌舞伎の「勧進帳」はもちろん弁慶のドラマですが、それと同じくらいに富樫のドラマなのです。そう考えた時に歌舞伎の「勧進帳」で弁慶が舞う延年の舞の意味が明確になります。延年の舞は富樫を祝福するために舞われているのです。別稿「勧進帳についての対話」をご参照ください。

富十郎の弁慶は富樫から杯を受ける時に・富樫と番卒の方にチラリと警戒の視線をやり「これが毒酒であっても仕方ない、えいままよ」という面持ちで意を決して酒を飲むような印象です。だからあまり美味そうな酒に見えませんねえ。最後まで弁慶は富樫に心を許していないことが明らかです。弁慶の肝っ玉が小さく見えて、延年の舞いにカタルシスが感じられません。男の心に男が感じ・富樫は義経一行の通行を許したというのに、弁慶の方は富樫の気持ちに応えるつもりがまったくないように見えます。延年の舞いで弁慶は無言のうちに感謝の意を富樫に示すからこそ、この場面がでっかい男のドラマになるのです。延年の舞いはもっと朗らかに・浮き立つように踊られるべきものです。ところで能の「安宅」の小書きでは弁慶は酒を持ってやってきた富樫に心を許 さず・酒を毒酒と疑ってこれをこっそり捨てて・決して酔って延年の舞いを舞うのではないというのがあるそうです。これは「安宅」では富樫は弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すという筋ですから、それならば当然あり得る解釈です。しかし、何度も書きますが・歌舞伎の「勧進帳」で富樫は弁慶の忠義の心に感じ入り・主人頼朝の命に背くのを覚悟で・自分の判断で義経一行の関所通行を許すのですから、「勧進帳」に能の小書きが応用できるとは思えません。と言うよりすべきではないのです。もしそれをするならば富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」という台詞はカットすべきで、富樫の性格を元の「安宅」の形に書き直さねばなりません。けれども今回の吉右衛門の富樫は現行の歌舞伎の「勧進帳」の富樫まったくそのままなのです。

気になるところはまだあります。「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」で富十郎の弁慶が3歩ほど富樫の方に向かって踏み出し威嚇の風を見せることです。確かにこれはハッと させますが、こうなると四天王も当然弁慶に続いて押し出さざるを得ません。すると富十郎の弁慶は今度は一転して四天王を押し止めに掛かる(ここは現行通りそのまま)というのは矛盾してると思うのですねえ。それならばいっそのこと・弁慶は四天王を従えて富樫たちに一気に押しに掛かり両者睨みあうという方が展開として理にかなっているように吉之助には思えますがね。またその場合は弁慶は金剛杖を威嚇する形で高く構える方がよろしいかと思いますが、ここでの富十郎はいつもの通り逆手で低く金剛杖を持つのです。つまり勇み立つ四天王を弁慶が抑えるいつもの形になっているのです。結局、「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」で弁慶が3歩踏み出すことにどういう意味を見出すかということが「勧進帳」全体のなかで曖昧なのです。今回の舞台は「勧進帳」全体を一貫して解釈する視座に欠けており、弁慶だけにいつもとちょっと違う本行風の味付けをしてみただけという感じが否めません。(この稿つづく)

(H22・3・3)


○平成21年5月27日歌舞伎座:矢車会・「勧進帳」・その2

別稿「勧進帳のふたつの意識」において天保11年(1840)に七代目団十郎が創始した「勧進帳」のなかにふたつの表現ベクトルが見えることを考察しました。ひとつは七代目が市川家伝来の荒事芸を新しい形で蘇らせようとしたことです。当時の評判記には荒事はもう古臭くて時代遅れ・筋が単純で退屈だというようなことがよく出てきます。七代目はこのことに強い危機感を持ったと思います。このため七代目が計画したのが、荒事の代表的なキャラクターである弁慶を主人公に新作を上演して・これをきっかけに成田屋の家の芸のキャンペーンをぶち上げることでした。それが「歌舞伎十八番」なのです。当然ながら「勧進帳」でも荒事の要素は元々強く意識されていました。しかし、現行の「勧進帳」を見れば荒事ということがあまり見えないかも知れません。

もうひとつは能の「安宅」を材料にして能的な表現にできるだけ近づいて高尚化していこうという意識です。「勧進帳」の高尚化・上昇化を強力に推し進めたのは九代目団十郎でした。それを象徴する出来事が明治20年の天覧歌舞伎での「勧進帳」上演であったことは言うまでもありません。このことは七代目の初演時にはさほど顕著ではなかったのですが、それでも初演の評判記「役者舞台扇」には「おいらたちはやっぱりたて狂言がおもしろい。あまり弁慶にばかりこられたせいかひと言もいつもほどたましいがないように思われた」と書かれています。江戸の観客は「これはどうやら俺たちの弁慶 とはちょっと違うらしい」と感付いたのです。ですから七代目の意図のなかにも潜在的に高尚化はあったのです。(これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番」をご参照ください。)

このような流れが「勧進帳」演出にどう反映しているかについては、別稿「勧進帳の元禄見得」に掲載した写真をご覧ください。岩田秀行氏が発掘された明治5年2月の守田座で若き日の九代目団十郎(当時は河原崎権之助)の弁慶の元禄見得の写真です。これを見れば右手を水平に差し出し・勧進帳を下に構える現行の元禄見得とは違って、右手を上にして勧進帳を力強く振りかざす形です。「車引」の梅王や「暫」の権五郎の元禄見得を考え併せれば、これが「勧進帳」の弁慶の元禄見得本来の形であったことは容易に想像出来ます。つまり九代目の「勧進帳」の高尚化の過程で荒事の要素がアク抜きされる形で洗練化 したのが現行の弁慶の元禄見得です。これは「勧進帳」検討の時の大きな材料になります。

もうひとつ別稿「勧進帳の変遷」において服部幸雄先生の校訂による「勧進帳」初演本・再演本・現行本を比較していますからそれをご参照ください。まず初演本 ・再演本には弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」がありません。(注:この台詞は能の「安宅」にはあるものです。)また富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」 という有名な台詞は初演本にはなく、それは再演本に初めて現れるのです。(注:この台詞は歌舞伎のオリジナルです。)最終的にこのふたつの台詞が「勧進帳」に取り入れられることで、弁慶と富樫の性格がどのように変化したかということを考えねばなりません。

能の「安宅」は富樫が弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すというのが大まかな筋です。歌舞伎の「勧進帳」はそうではなく、富樫は弁慶の忠義の心に感じ入って・自分の判断で一行の関所通行を許します。これが「勧進帳」と本行との決定的な相違です。ただし初演本ではこのような富樫の性格はまだそれほど明確ではなく、どちらかと言えば「安宅」に近い雰囲気が濃厚に残っています。これが再演本になると富樫の人間性と・義経一行の通行を許すに至る心理変化がとても強く出てきます。名優小団次を富樫に据えたことにより・富樫の役がずっと重い役に改訂がなされたのです。富樫の性格が変化することで、相応する形で弁慶の性格も必然的に変化せざるを得ません。またこれにより義経一行の関所通過というドラマの意味が根本的に変化しました。「勧進帳」が今日の歌舞伎の最高の人気作としてあるのはこのような改訂の結果です。

したがって「勧進帳」演出の再検討を行う場合、七代目創演時のコンセプトを想像するということは必ずしも本行(能)返りに直結するということではないのです。かと言って単純に荒事味を強くすれば良いというものでもないのです。能の模倣ではない歌舞伎の・しかも荒事の歌舞伎十八番の「勧進帳」のベストの形態を見出そうと思えば、「勧進帳」のふたつの表現ベクトルの程良いバランスを見出さなければならないのです。こういうことは文献的・考証的な研究だけではなかなか巧くは行きません。どれを取って・どれを捨てるかというセンスが要ります。昭和39年の武智鉄二演出の「勧進帳」も七代目のコンセプトを想像するということでしたが、もちろん七代目初演の舞台の復元ではありませんでした。そこで今回の富十郎のかんとん縞の弁慶の「勧進帳」ですが、いったいどの辺に「勧進帳」のベストの形態を想定した演出なのか・よく分からんと言わざるを得ませんねえ。(この稿つづく)

(H21・2・26)


○平成21年5月27日歌舞伎座:矢車会・「勧進帳」・その1

吉之助が師匠と仰ぐ演出家武智鉄二は昭和24年(1949)から昭和27年頃にかけて歌舞伎再検討公演を主催しました。「武智歌舞伎」というのはマスコミが名付けた呼び名ですが、 これは大資本松竹と逆賊武智という対立構図を見立てて、そこには多分に揶揄した響きが感じられます。武智歌舞伎の舞台は今は文献でしか確認できないもので・想像するしかありません。 遅れて生まれた 吉之助は晩年の武智の演出作品はいつくか見ましたが、武智歌舞伎の雰囲気をちょっと味わったという程度のものです。ところで武智歌舞伎から出たスターは三人いました。藤十郎(当時は中村扇雀)・富十郎(当時は坂東鶴之助)、そして後に映画に走り夭折した市川雷蔵です。武智の証言によれば 、武智の所に来たばかりの頃の扇雀はまったくひどいもので、松竹では「扇雀には台詞がある役をやらせるな」という話があったほどであったほどだったそうです。八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門らの協力を得て・時間を掛けて根気良く練習 して実力を付けていって、やがて藤十郎は昭和28年「曽根崎心中」で大ブレークをすることになります。日経新聞の「私の履歴書」(2005年1月)のなかで藤十郎は九郎右衛門宅で来る日も来る日も畳の縁をすり足で歩く練習ばかりさせられたという話を書いていました。実際・藤十郎はよく武智歌舞伎の話をしますし、そこに自分の原点があるということを感じているようです。

一方、武智歌舞伎時代の富十郎には藤十郎のような逸話がないようです。どうやら富十郎は最初から出来上がった役者らしくて、武智歌舞伎の優等生だったのです。富十郎のかっきりした折り目正しい芸風は武智の好みに良く似合うようですが・それはどうやら武智の仕込みのおかげということではなく、それは富十郎が元々備えていた資質によるものだと思います。そのせいか藤十郎と違って・富十郎は武智歌舞伎の話をほとんどせぬようです。これは別に非難しているわけではなく、富十郎は言われたことはちゃんとその通り出来たのだろうし、本人には「武智歌舞伎のおかげ」という実感が正直少ないのだろうという気がします。それにしても平成21年矢車会での「勧進帳」の舞台映像を見ると、富十郎には武智歌舞伎に対する思い入れが希薄だなあということが改めて感じられて、武智を師匠とする吉之助としてはチト寂しい気がしたのも事実です。

ところで武智演出の「勧進帳」が上演されたのは、昭和39年1月・日生劇場のことでした。正確に言えば武智歌舞伎以後の武智の仕事ということになります。この時の弁慶は富十郎(当時は鶴之助)・富樫は雷蔵でした。この時の「勧進帳」についてドナルド・キーン氏は次のように語っています。

『それまでに僕は、何回も名優と言われる人の「勧進帳」を見ていたのですが、鶴之助さんの弁慶は実に見事なものでした。それは絶対的なものでした。こうしたらいい、右手をもう少し上・・などという注文は、ひとつもなかったのです。「勧進帳」というものは、こうでなければならない。まるで幾何学のように、解決は絶対にひとつです。(中略)僕は泣けない人間です。どんな悲しいことがあっても涙が出ないんです。そんな僕が泣いたんです。なぜ、あのときに泣いたのか、後で自分の気持ちを分析してみました。あまりにも素晴らしくて泣いたのでした。人間があんなに素晴らしいことをすることが出来た。人間は、そんなに偉いはずがないのに。そう思いながら泣いたんですね。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行〜三島由紀夫の作品風土」)

ドナルド・キーン/徳岡孝夫:悼友紀行―三島由紀夫の作品風土

現行の「勧進帳」の弁慶は能の金剛流の梵字散らしの水衣ですが、武智演出では観世流のかんとん縞の水衣でした。実は七代目団十郎創演の時の衣装はかんとん縞で、これを梵字散らしに変えたのは九代目団十郎でありました。九代目の贔屓に伊勢のお殿様の藤堂高潔がいまして・この方が金剛流の名手でありましたので、九代目はその拝領した水衣を着て弁慶を演じたと思われます。九代目が衣装をいつ頃変えたのか正確な記録が残っていませんが、明治20年の天覧歌舞伎の時には既に梵字散らしであったようです。しかし、これは衣装の変更だけに留まらないもので、九代目は本行(能)を参照しながら「勧進帳」の細かいところを改変しました。当然それは観世流から金剛流への微細な変更を含むと思います。武智は弁慶の水衣をかんとん縞に変えると同時に「勧進帳」を七代目創演時のコンセプト を想像してみたい(ただしそっくりそのままということではありませんが)ということを試みたのです。この武智演出の「勧進帳」は、舞台を見に来た十一代目団十郎が怒り出し・上演差し止めを要求するという事態に発展して、そのため内容以前のところでマスコミの話題にされてしまいました。もっとも武智の方は宗家からの抗議を予想して「歌舞伎十八番の内」という角書を最初から外していたのです。

実は今回の矢車会で富十郎がかんとん縞で弁慶を演じたという話を聞いて、さては武智版「勧進帳」の再現か?ということで吉之助も色めき立ったのですが、しかし、結論として・これは吉之助の早合点で、今回の「勧進帳」は確かに衣装を変えたり・本行(能)の感触を取り入れたり工夫はしていますが、その演出コンセプトが甚だ不明確なものでした。もちろん富十郎も事前のインタビューでもチラシでも「武智」とひと言も言っていません。おまけに富十郎は「歌舞伎十八番の内」の角書を平気で使ってさえいます。映像を見て今回の「勧進帳」の舞台は武智と関係ないことがよく分かりました。しかし、それはともかく富十郎が弁慶をかんとん縞で演じて・そこに武智の思い出がまったく出てこないというのも、これまた寂しい話ではあります。富十郎にとって武智歌舞伎時代とは何だったのでしょうかねえ。(この稿つづく)

(H22・2・21)


○平成22年1月新橋演舞場:「慙紅葉汗顔見勢・伊達の十役」・その

「伊達の十役」は「伽羅先代萩」と内容がダブりますが、「先代萩」の世界は先行作が歌舞伎から来たり・浄瑠璃から来たりして成立過程が複雑で「どれが決定版」と言えるものがないのが実態かと思います。例えば「伽羅先代萩」を見ると床下の仁木は妖術を使ってカッコ良いのですが、後の刃傷では目を血走らせて短刀振り回して暴れなくても得意の妖術使ってスマートに決め ろよと言いたくなります。どうやらここでの仁木は妖術が使えなくなって並の人間らしいのですが、「伽羅先代萩」の舞台を見ているとその理由が全然分かりません。しかし、「伊達の十役」を見ると仁木が妖術を使えなくなるのは、忠臣(与右衛門)が犠牲になって仁木の通力を無きものにしたという伏線がちゃんと付いています。類似作をいろいろ眺めていると「先代萩」の世界のイメージがおぼろげに見えてくるようです。 「伊達の十役」はそれをダイジェスト的に早廻しで見せてくれるお芝居だと考えて良いと思います。

ところでこの「伊達の十役」は「飴のなかから海老蔵」と言うべき芝居なのですから・そこから海老蔵という役者の多面的な魅力と可能性が引き出されていればそれで良いのです。しかし、海老蔵は役によって声色を使い分けようと意識しているように思います。これはまあそういうことになるのも仕方ないところですが、あまりそのような意識を強く持たずにむしろ口調によってこれを仕分ければ良いと思います。十役を一通り見ると声質的に見て海老蔵に最も良く似合うのはやはり与右衛門で・事実この役は海老蔵に一番ぴったりはまる仁であるし、最も良くその声が客席に通っています。役によって声の客席への通り具合に結構差があるようでしたが、口上の場面の海老蔵が意外に声が通って来ないのはやはり喉をどこかで作っているせいだと思います。色々な役を一度に演じれば自分にぴったりの・喉に負担の掛からない声域がどこにあるが感覚で分かってくると思います。そのなかで喉に負担の掛からない声域(それが一番客席に通る声域なのです)を見つけて自分なりの台詞回しを探っていくべきだろうと思います。声だけ聞いたらどの役だか分からんと言われても気にすることはありません。名優というのはみんな自分の声色を持っているものです。

「伊達の十役」のなかでは政岡が最も重い役であるし・海老蔵がこれをどう演じるかが興味の中心になるのは当然ですが、海老蔵にとってこれは加役であるし・それが八汐みたいに見えたところで別にどうってことはないのです。海老蔵の政岡は千松がなぶり殺しになって声を上げる度にギュッと身体を硬くして息を詰めるのが実に良く分かる政岡で、これは予想以上に良い政岡であったと思います。しかし、荒事の総本家である成田屋が床下の荒獅子男之助の発声があまり巧くなかったのはちょっとガッカリで、これは何とかしてもらいたいものだと思いました。これは声域の置き方が違っているようです。喉に無理しているから甲の声が出ないのです。海老蔵の場合は多少声が細い感じになっても・もう少し声のトーンを高めに置いた方が喉に負担が掛からないはずです。昨今は荒事は太い声が良いという思い込みがあるのかも知れませんねえ。これは恐らく二代目松緑の荒事のイメージから来るのではないかと思いますが、吉之助は荒事の発声は本来高調子で行くべきものだと思いますし、その方向で言い回しを研究した方が海老蔵の声質に合うはずだと思います。それにしても何と言っても海老蔵で良いのは床下の仁木弾正で、これは妖気・凄みともまさに一級品でありました。海老蔵の仁木が宙乗りで浮き上がって引っ込む光景を見るだけで「伊達の十役」を見る価値はあったと言うべきでしょう。

(H22・2・12)


○平成22年1月新橋演舞場:「慙紅葉汗顔見勢・伊達の十役」・その2

同じ芝居のなかでひとりの役者がふたつの役を兼ねるという時、そこには必ず理由があるものです。例えば何者かが或る人物に化けているという場合(「河連法眼館」の源九郎狐と佐藤忠信)、あるいはふたりの登場人物が演劇的に等価に置かれる場合(「桜姫東文章」の清玄と権助)などが考えられます。そこにふたりの容貌がそっくりであるということの演劇的な意味があるわけです。しかし、「伊達の十役」のように何でもかんでも役を兼ねるということになると、そこに演劇的な必然はあるものでしょうか。本稿ではまずそのことを考えて見ます。

別稿「兼ねることには意味がある〜変化舞踊」でも触れましたが、変化舞踊において同じ役者が複数の違う役を演じるということの本来の意味は、まったく違う複数の人格を連関なく演じ分けているということではなく、同じ人格が見た目の表面の姿だけを色々に変化させているのであり・その本質はまったく変わらないということです。つまり、それは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。時代を下るとこのような「変化」の趣向が定着していくなかで、その演劇的必然が形骸化して・見た目の変りようだけを狙ったものになっていきます。

「伊達の十役」のような早替わり芝居も同様に考えられます。ひとりの役者が複数の役を連関なく演じているようでも、実はそれはすべてひとりの人格がまとった仮の姿であるということです。歌舞伎には昔から「役人替名」という考え方がありました。これは芝居のなかの登場人物名はその役者が舞台上で仮に名乗っている名前であるという考え方からきたものです。歌舞伎にはそのような伝統がありましたから早替わりの趣向も観客に抵抗なく受け入れられたと思います。

ですから「伊達の十役」の眼目は、ひとりの役者が複数の役柄を的確に演じ分けられることができるかということでは必ずしもないのです。もちろんそれも芝居の楽しみ方としてはあるものですが、役者の芸を味わうのならばしかるべき演目を選んでじっくり味わうのが本筋です。早替わり芝居の眼目とは、ひとりの役者がその個性の色々な可能性を引き出して見せる、そこにはぴったりはまる役も・いまいち仁にない役もあるでしょうが、それも含めてその役者の多面体的な魅力を引き出すということにあります。それらすべてがひとりの役者がまとった仮の姿の集積となるということです。その昔、戸板康二氏が猿之助の芝居の劇評で「飴のなかから猿之助」と書いたことがありました。早替わり芝居というのは「変化」の趣向自体がお楽しみなのです。今回の「伊達の十役」でも横の席のお連れさんが「筋書き見ないとどれが何の役だか全然分かんない・あれは何の役なの?」とボヤいておりましたが、こういう芝居は観客にそうした混乱を引き起こすことこそ本意というべきなのです。(この稿つづく)

(H22・2・9)


○平成22年1月新橋演舞場:「慙紅葉汗顔見勢・伊達の十役」・その1

今思えば吉之助が歌舞伎を熱を入れて観ていた昭和50年代というのは猿之助が最もエネルギッシュであった時期でした。毎月々々趣向を凝らした演目に吉之助も「猿之助は次は何をやるか・何を仕掛けるか」ということで芝居を見るのが楽しみであったものでした。吉之助は個人的に猿之助歌舞伎の復活物で最も出来が良かったのは「菊宴月白浪」(昭和59年10月歌舞伎座)であったと思いますが、昭和54年4月明治座初演の「伊達の十役」は早替わり・宙乗りの猿之助人気を決定付けたもので・猿之助 歌舞伎の代名詞的な作品であると言えます。しかし、平成に入った辺りから吉之助はいろいろ理由があってだんだん猿之助から距離を置くようになりました。このことについてはいずれ機会を見て何か書きたいと思いますが、平成 8年7月たまたま仕事の帰りに歌舞伎座の前を通ってぶらり立ち寄って観た「独道中五十三駅」はただ決まった段取りだけをこなす生気のない舞台で、吉之助はホント悲しい気分にさせられました。猿之助も岐路に立ったなあ・そろそろ身体が動かなくなってきた猿之助が今後役者としてどういう変化を遂げるのかなどと思いましたが、その後不幸な病気があって猿之助は現在舞台に立てないでいます。猿之助の心中察するに余りありますが、しかし、昭和50年代に猿之助が生み出した流れは現在でも確かに続いてい ます。右近や段治郎ら二十世紀歌舞伎組の連中の成長もそのひとつですが、例えば勘三郎のコクーン歌舞伎や野田秀樹との提携も直接的には猿之助の流れではないにせよ・猿之助が切り拓いたものがなければ決して生まれなかったものです。そして今回の海老蔵の「伊達の十役」への挑戦ももちろんそういうものです。ゲーテは次のように言っています。

『私にとっては、われわれの霊魂不滅の信念は活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現世の生存の形式ではもはや持ちこたえられない時は、自然は必ず別の生存の形式を与えてくれるはずだからね。』(エッカーマン:「ゲーテとの対話」・1829年2月4日)

それにしても海老蔵が「四の切」の狐忠信を猿之助に教わって宙乗りした時にも軽い驚きがありましたが、まさかその後に「伊達の十役」も演ることになるとは。後になればああそういう流れであったかというようなものですが、しかし、考えてみれば猿之助は願ってもない後継を得たのではないでしょうかね。(この稿つづく)

(H22・2・8)


○台詞のなかの時代と世話

別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」のなかで、昨今の歌舞伎は全体的に重ったるい方に傾いていること・時代に納まることを歌舞伎らしいと感じる風が役者にも観客にも強いということを書きました。例えば「せまじきものは宮仕えじゃなあ」の最後の「・・じゃなあ」を詠嘆調に引き伸ばす・そこに感情を込めるのが歌舞伎らしいと感じるような風潮です。「宮仕えじゃなあ〜あ」と詠嘆すれば子供を殺してもセーフというわけです。吉之助の師匠である武智鉄二は「・・じゃなあ」と台詞の語尾を整えるこうした歌舞伎の癖が大嫌いでした。しかし、これは単なる好みの問題ということではなくて、・・じゃなあ」と引き伸ばすことで台詞が収束していまうことがいけないと武智は言うのです。

前述の論考のなかで、吉之助が演るならば「宮仕え」を強く時代に張って・「・・じゃなあ」を詰めて言うようにしたいと書きました。この点についてちょっと補足をしますが、語句を仕分ければ「せまじきもの」と「宮仕え」は概念的に対立しているのですから、その相克を際立たせるように時代と世話のリズムを決めれば良いということです。しかし、これは「宮仕え」が時代の語句か世話の語句かというような ことではありません。そういうことは実はどうでも良いのでして、「せまじきもの」が時代なら「宮仕え」は世話となり、「せまじきもの」を世話とするならば「宮仕え」は時代だと考えれば良いのです。とにかく対立した概念だということで、そこから台詞のリズム処理を組み立てていけば良いということです。そうすると「・・じゃなあ」が台詞の末尾に付くか付かないかで、台詞全体のリズムがガラリと変わってきます。仮に歌舞伎の台詞が丸本と同じせまじきものは宮仕え」で止める台詞ならば、吉之助ならせまじきものは」を時代に強く言い・「宮仕え」を詰めて言うでしょう。つまりポイントは台詞の末尾ということになります。源蔵戻りの緊迫した場面では吉之助はこの台詞を詠嘆調に流したくはない・したがって台詞の末尾から逆算で台詞のリズムを組み立てるということです。

歌舞伎の「寺子屋」では源蔵が「せまじきものは宮仕えじゃなあ」と言うのはもう定型なのですから、それはそれで良いのです。吉之助はそれを丸本通りにやるべきだなどと言うつもりなど毛頭ありません。しかし、「宮仕えじゃなあ〜あ」と詠嘆して・語尾に感情込めるのが如何にも歌舞伎らしいなどという感覚は困ります。何故ならばこれを詠嘆で終わらせてしまえば、それで完結しまって後に疑問が残らないからです。ですから「宮仕えじゃなあ」は歌舞伎の定型であっても何とかこの形を破綻させたいという芸術的意欲は持ってもらいたいと思います。六代目菊五郎も初代吉右衛門もこの点はとてもこだわったと思います。歌舞伎ではこういう一番大事なことが継承されていないのですねえ。形ばっかり真似したって駄目なんですよ。

(H22・2・3)


○ポスト・モダンとしての歌舞伎

実はちょっと仕事で海外出張して本日戻ってきたばかりです。ところで海外では車や電器製品・アニメーションを始めとして日本という存在がその生活のなかにかなり浸透しているようで、外国人と初対面で話をしても「私は日本語の単語いくつか知ってます・いつか私は日本に行きたいです」などという話になる事が多くて、そういう意味では会話のきっかけがあってとても助かります。しかし、向こう(外国)の方が日本という国 にどのようなイメージを持っており・日本のどこに興味を持っているのか、具体的にもう少し探ってみる必要があるようです。彼らが日本を正しく理解しているか否かということではありません。彼らはとにかく日本に良い意味で興味・好意を持ってくれているのですから、これを巧く利用しながら・さらに深い真の相互理解につなげて行かねばならないと思うのです。そういう点では逆に日本人の方が外国に日本を紹介する時に「フジヤマ・ゲイシャ・キョウト」になり勝ちのようで、なかなかその機会を巧く生かすことが出来ないようです。

NHK-BSに「Cool Japan」という番組があるのをご存知でしょうか。吉之助もたまに見るのですが、「ホウ外国の方は日本をそういう風に見てるんだなあ」という軽い驚きがあってなかなか興味深い番組です。なるほど日本の事象・風俗にはそんな良さがあったかと気付かされる場面があったり、日本をそういう風に見てくれてるとは面映く(あるいは奇異に)感じる場面があったりするわけです。しかし、それは決して見方が間違っているということではなく・彼らの目に見える日本のひとつの側面(真実)であるわけです。このことは認めなければなりません。ともあれ「Cool」という単語がキーなのです。この番組を観ていると「Cool」は単純に「カッコいい」という意味だけでなく色んなニュアンスがあるのだなあと思います。このような色んなニュアンスを総合して「Japan is cool」というならば、この国際化の時代に日本人はこれを利用しない手はないと思います。米国在住の作家冷泉彰彦氏の「クールジャパンの悲劇と再生」from911/USAレポート」はこの問題に触れていますが、とても参考になるものです。

『一言で言えば、海外の視線は「日本文化はポストモダンだからクール」だというハッキリした認識に基づいているのだと思います。ポストモダンという言葉の定義ですが、思想的には色々と厳密な話もあると思いますが、ここでは「単一の価値観を前提にして、機能主義的な合理性を追求する価値観」を「近代=モダン」とするならば、そのカバーできない範囲を求めて「異なる価値観の共存、効率だけでない感性や美意識の追求」などを行う発想のことだということにします。(中略)ところが、日本では「海外に受けるものは日本の伝統文化が中心」という発想がまずあり、そうした日本の伝統というのは「古くさい前近代」(プリモダン)だという認識があるのです。例えば、今はもう流行遅れになりましたが、バブル時代とその余韻の時代にはフランスやイタリアの料理が進んでいて(モダン)、寿司とか天麩羅は古くさい(プリモダン)という感性が強くありました。今でもそうした発想は残っています。アニメやマンガもそうで、日本ではもう主要なメディアとして定着してしまっており、今更そこにカテゴリとしての新しさを感じるということはないように思います。更に、様々な「外国人受けする」カルチャーに関していえば、サムライ文化にしても、禅、茶道、生け花、着物、歌舞伎、能狂言、伝統工芸などについても、今現在では例えば東京圏の人々の日常生活の中には「メインストリーム」の存在としてはないと思います。好きな人にとっては非日常であり、そうでない人にとっては古くさい「過去の遺産」(プリモダン)なのです。』(冷泉彰彦氏の「クールジャパンの悲劇と再生」from911/USAレポート」・JMM・2009年12月19日号・全文はこちらのサイトで読めます。)

外国の日本の見方はポスト・モダン、しかし日本人が外国に対して自分を意識する時にはその感じ方が未だに「古臭いプリ・モダン」というわけです。 つまりまったく正反対の角度から日本文化を見ているのです。そこで「歌舞伎素人講釈」ではこの話題が最後に歌舞伎に転換するわけですが、昨今の巷の歌舞伎の 評論など見ても、日本人はその大方の歌舞伎の見方がプリ・モダンだと思いますねえ。時代に背を向け・時代に適応できない寂しさを持ちながら・現代の世話しない喧騒を離れて・失われた過去に寄せる限りないノスタルジアというわけです。まあお楽しみは人それぞれのことですから、そうした楽しみ方があるのは当然です。しかし、吉之助はそれとはまったく異なったポスト・モダンの視点から歌舞伎を解析していきたいと思っています。現在サイトで連載中の論考「歌舞伎とオペラ」はここ数年の「歌舞伎素人講釈」の総括になるものですが、「江戸は西欧の19世紀末芸術を先取りした」という視点で展開しています。ポスト・モダンという視点で見れば、歌舞伎は驚くほど鮮やかで活き活きした同時代的なものに見えて来るのです。そういうわけで論考「歌舞伎とオペラ」の更なる展開をお楽しみに。

(H22・1・30)


○平成22年1月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛〜源氏店」・その 3

現在の与三郎ということなら第一に名前が挙げるのは仁左衛門だと思います。ただし仁左衛門の与三郎は十五代目左衛門に対する世間のイメージを受け継いだもので・もちろん色男の風情を感じさせる優れたものですが、致し方ないですが・やはり上方和事の色が濃いもので・江戸前の感覚とはちょっと違う与三郎です。(注:ここで吉之助が上方和事と言うのは、いわゆる柔らかさ強調した伝統的な上方和事のことです。別稿「和事芸の多面性」を参照ください。)何と言うか、全体にねっとりと滑らか過ぎて、そのため型物めいた印象になっています。仁左衛門の「しがねえ恋の情けが仇・・」の七五調のフォルムは黙阿弥との区別がついておらず・しかもいわゆるダラダラ調で、吉之助には違和感があるものです。江戸前の生世話としてはもうちょっとサッパリとした切れが欲しい のです。しかし、まあこれは上方の仁左衛門ならではの与三郎であると言うべきです。そういう意味で次代の与三郎役者に期待したいわけですが、そこで染五郎ということになります。

染五郎の与三郎は風情として仁左衛門を引き継ぐ良い資質を感じさせ、手順も大筋で仁左衛門を踏襲しているように思います。染五郎は見掛けより意外と声の調子が低いようで、仁左衛門のような朗々とした台詞回しとは行きません。これは損な面があるのは確かで・印象が地味で渋く見えるのはそのせいですが、与三郎の実(じつ)の印象が強まったという点でなかなか興味深いものを感じさせます。 またこの場面で敢えて台詞を歌わないという姿勢も評価できます。この感じで「江戸の親には勘当受け」などでちょっと憂いを入れる工夫をすれば、与三郎の心情にもっと実が出てくると思います。しかし、染五郎の七五調も二字目にアクセントを打っており ・頭打ちの江戸前のアクセントになっていないのと、やはり台詞全体にリズム感が欲しいのです。リズムが頭打ちになれば台詞に押す力が出てくるのです。 先に書いたようにそれは新歌舞伎のように強いリズムではありませんが、前に押すリズムが「自分が本当に生きたいのはこのような人生ではない」という与三郎の実の心情を表すのだということを考えて欲しいなあと思うのです。

福助のお富は・元は赤間の親分の妾であるからさほど素性の良い女でないという解釈で演じているのでしょう。藤八や蝙蝠安に対する態度がずいぶん悪婆めいた感じです。まあ お富は辛抱役でいまひとつ役として食い足りないところがあろうから、こういう解釈をしたくなる気持ちも分からぬことはないなどと思って見ていると、与三郎や多左衛門の前では打って変って従来のお人形さんのお富さんになるので、役の性根が一貫せぬようです。これはどちらでも良いですがどちらかに通して もらいたいですねえ。福助はちょっと考え過ぎではないでしょうかね。

(H22・1・25)


○平成22年1月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛〜源氏店」・その2

「人から金を借りることに対する卑屈さがない・金の苦労とか世間の苦労ということも頭のなかに観念として全くない」と書くとちょっと頭の弱そうなボンボンが思い浮かびますが、 実はそうではありません。もちろん与三郎も本人なりの苦痛や苦悩を内に秘めながら生きています。別稿「和事芸の起源」において「廓文章」の伊左衛門の台詞に「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞が出てくるのはそこに大阪商人の意気地が出ているのだということを考えました。与三郎もまったく同じで、そこに 大店の若旦那の気概があるのです。それがヤンワリした印象で出るのが和事です。どんな苦労があってもそれを苦痛として表情に表すことを潔しとしない育ちの良さということです。言い換えれば内面の強さということになります。この点において上方和事でも江戸和事でも変りはありません。

しかし思いを致させねばならぬのは、借金取りを見事にかわした八代目団十郎でさえ不可解な自殺という形で その生涯を閉じたことです。つまり美男でモテモテで 、何の悩みもなく・やりたいことは何でも出来たように見えた八代目でも、やっぱり何かしらの苦悩を抱えて生きていたわけです。まあ生きている以上は誰でも何かしらの悩みがあるの は当然ですが、これは芝居の伊左衛門や与三郎にとってもまた当然です。和事のやつしとは高貴な身分が落ちぶれて哀れな様を見せるものだとよく言われます。しかし、それはやつし を表層的に理解しているのであって、本当に大事なのはそんなことではありません。やつしの本質とは「自分が今この世で生きているのは仮初めの人生である・ほんとうに自分が生きたいのはこのような人生ではない」という思いにあります。そういう鬱々とした思いを内に秘めて・それを見せないのがやつしなのです。内心に沸々として煮えたぎ り・しかし蓋でしっかり押さえられていた心情が何かのきっかけでワッと噴出します。「イヤサお富、久しぶりだな」というのはそういう台詞なのです。

死んだと思っていたお富・言わば宿命の女がそこにいると気付いた瞬間から与三郎は自分が抑えられなくなっています。こうなると与三郎も元若旦那でも何でもなくなって、ここで与三郎の男としての心情が噴出し始めます。「・・・そりやナ、一分もらって有難うごぜエますと言って帰るところもありゃあマタ、百両百貫もらっても帰られねえところもあらあナ・・」という与三郎の台詞ですが、最初は与三郎も抑えた調子で言い始めますが、与三郎はしゃべりながら段々自分を抑えられなくなってきます。「・・有難うごぜエますと言って帰るところもありゃあマタ」という部分はしゃべりながらだんだんカッカしてくる感じでクレッシェンドしてしゃべり、「・・百両百貫もらっても」ではついに声を張り上げてしまうのです(つまり時代の口調になる)。逆に「・・ところもあらあナ」では若干気分を戻して(世話に戻して)、ここを早い調子で 強く言い切る。するとこれが江戸前の世話の感覚になるのです。「・・あらあナ」の部分をゆっくりと言う役者が多いと思いますが、これでは時代の感覚になってしまいます。ここが与三郎の見顕しの終わりならば時代で納めてもまあ良いと思いますが、見顕しはこれから始まるのです。

「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを・・」という有名な台詞ですが、歌う必要はありませんが、リズム感は必要です。この台詞は基本的に七五調ですが、黙阿弥の七五調とはリズムが全然異なります。黙阿弥風に言うならば二字目にアクセントが付きますから、「シネエコイノ/ナケガアダ●」(七七)となるわけです。(赤字をアクセント とお読みください)だいたい現行の舞台で聞く与三郎は、これをダラダラ調に言っているものと考えて良いと思います。

しかし、本当の瀬川如皐の七五調は関東方言の頭打ちIのアクセントになるので・最初にアクセントが付いて、「ガネエコイノ/サケガアダ●」(七七)の感じで言うものです。 これが江戸生世話のリアルさを生んでいるのです。さらに台詞を細分化していくと「「ガネエイノ/サケガダ●」という風に、更に細かいリズムがタンタンタンと頭打ち の感じで付くのがお分かりかと思います。黙阿弥の七五調は押しては引く緩急のリズムになります(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)が、如皐の場合はそれとはまったく異なり 、そのリズムが微妙にプッシュする感覚となります。ですからこの台詞も若干早めのテンポで押した方が良いのです。そうすると歌うような感覚は当然弱くなります。この如皐の七五調のリズムはもちろんアジタートのバリエーションです。それは後の二代目左団次の新歌舞伎の急くリズムにどこか似ています。そのリズムは新歌舞伎ほど意識された強いものではありませんが、それを未来に予期したリズムなのです。この急いた感覚は、もちろん与三郎のなかにある・ずっと腹のなかに溜め込んでいたものを一刻も早く吐き出してしまいたいという思いから来るのです。(この稿つづく)

(H22・1・20)


○平成22年1月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛〜源氏店」・その1

『一時廃れていたこの狂言を再興したのは先代(十五代目)羽左衛門であるが、羽左衛門の芸の先輩五代目菊五郎はあまりそれも芳しい評価を受けずに、与三郎をただ一度演じたに過ぎない。昔の俳優は柄(がら)というものに実に敏感で、多少でも自分と役との間に溝が感じられるときは、演ずることを躊躇したようである。与三郎は実は八代目(団十郎)一代のものであったかも知れぬ。九代目(団十郎)は「江戸の親には勘当受け」の台詞で見物をホロリとさせたと言うが、羽左衛門のは大分違った与三郎になっていた。わずかに、安に帰ろうとせきたてられて「そんなに言わねえでもいいじゃないか」という台詞を、甘ったれたように言って、その言いまわしに、八代目以来の役柄をほのめかしたに過ぎなかった。これは羽左衛門が五代目菊五郎というものを濾過した歌舞伎の俳優だったからである。』(戸板康二:「続・歌舞伎への招待」〜「切られ与三郎」・昭和26年5月・文章は多少吉之助がアレンジしました)

戸板康二:続 歌舞伎への招待 (岩波現代文庫)

冒頭に掲げたのは昭和後半の最も重要な劇評家のひとりであった戸板康二氏の文章です。この文章を読んで吉之助がホウと思うのは、戸板氏の世代ならば与三郎は十五代目羽左衛門が極め付けというのが ほとんど信仰に近い常識であって、ましてや戸板氏は自他共に認める橘屋贔屓であったにも係わらず、「与三郎は実は八代目一代のものであったかも知れぬ」と 戸板氏が書いていたからです。もちろん羽左衛門の与三郎が悪いと書いているわけではなく、その辺は戸板氏らしい抑制の効いた筆致ではありますが、しかし、羽左衛門のはホントの与三郎 とは違うかも知れぬと戸板氏が言うのです。ひとは誰でも自分が熱中して見た時代の歌舞伎が最高と思いたいもので、「俺の贔屓の橘屋の演じる与三郎、いいねえ、これを見た人でなきゃ与三郎は分からないネ」となりやすいものです。まあファンとして楽しむ分にはそれでもちろん良いわけですが、批評を書くならばそれでは困るわけです。舞台を見た印象だけから作品や役を考える ならば、それ以上にイメージが拡がることがありません。しかし、大正〜昭和前半を通じ羽左衛門の与三郎が最高と言われた時代が確かにあったわけで・戸板氏もその芸を堪能したでしょうが、感心するのは 戸板氏が羽左衛門の舞台の印象だけで与三郎という役を推し量らないことです。戸板氏の文章は芸を楽しむ余裕と・芸を突き放してみる客観性を兼ね備えていて、これは見習いたいものだと思います。

「与三郎が八代目団十郎一代のもの」ならば、その与三郎はどんなものであったでしょうか。そういうことをいろいろ考えてみるのは愉しいことです。八代目は美男役者と言われましたが、こんなエピソードが残っています。八代目は借金を多く抱えていましたが、その日の朝も玄関先に証文を手にした借金取りが集まっていたようです。そこに八代目が現れて、借金取りが詰め寄ろようとしたところ、八代目はにこやかに「みなさま、よくおいで 下さいました。私はこれから芝居に出なければなりませんのでお相手ができませんが、どうぞごゆっくりなさってください」と挨拶したそうです。すると居合わせた借金取りたちが「行ってらっしゃいませ」とそろって頭を下げたそうです。このエピソードは人柄の大きさと言うのともちょっと違 っていて、人から金を借りることに対する卑屈さもない、金の苦労とか世間の苦労ということも頭のなかに観念として全くない・春風駘蕩たる雰囲気、そういう感じがあったのだろうと想像します。

このエピソードなどから想像すると八代目の与三郎というのは、フッとしたことからお富という女に何となく惚れてしまい、それが赤間という親分の妾だったのでエライ目にあってしまったけれど・それも何となく風に吹かれるままのことで、今は蝙蝠安と強請り稼業をしているけれど・それも風の向くままで、そこに運命流転の暗さや落ちぶれたことの卑屈さはないものだろうと言う気がします。蝙蝠安が与三郎を連れまわしているのはいろいろ理由があるでしょうが、結局、与三郎という人間が可愛 いのだろうと思います。何と言いますか、安から見ると与三郎には自分に全然ないものがある・それが安にはたまらなく羨ましく愛おしいのです。だから ついカッとなってきついことを言ってしまっても ・与三郎に「そんなに言わねえでもいいじゃないか」と言われると、「いけねえ、こいつは俺が言いすぎた」と頭を掻きながら笑って許してしまう。逆に言えば与三郎にどこか守ってやりたい魅力がある。吉之助は与三郎をそういう感じに見たいなあと思うのです。 (この稿つづく)

(H22・1・17)


○同時代的な歌舞伎の見方

NHKハイビジョンに「100年インタビュー」という番組がありまして・各界著名人がインタビューの最後に100年後の人々にメッセージを送るというものですが、昨年(2009年)9月は演出家・蜷川幸雄氏が 番組に登場しました。蜷川氏のメッセージは現代の我々にも参考になるものだと思うので、ちょっとここに採録しておきます。

『チェーホフの戯曲で100年後の未来について激しい希望と不安を感じている戯曲があります。我々はチェーホフの時代から100年後を見て、ああ 現代はチェーホフが見ていた世の中ではないなあと感じていました。今後は僕自身の100年後、それが美しい未来であって豊かな日々で優しさに包まれた人間的な世界であればいいなあと思います。そのために僕らの苦闘もあ って、日々がどういう思いで成り立っているのか、歳をとるとそのことを痛切に知らされるわけです。ですから穏やかで優しい日々が100年後に実現されていれば良いなあというのは、これは僕の願望です。』(蜷川幸雄:100年後の人々へのメッセージ:「100年インタビュー」・2009年9月放送 ・語句は多少吉之助がアレンジしました。)

この蜷川氏の言葉で吉之助が感銘を受けたのは、「チェーホフの時代から100年後の現代を見た時・今の時代はチェーホフが夢見ていた世の中とは違う」という思いです。チェーホフが未来への希望あるいは不安をその作品のなかで描きました。我々が古典作品を読む時・それは自分の時の作品に重ね合わせるということですが、大事なことはその時代の人々が苦難のなかで痛切に願ったような世の中に現代はまだなっていないという思いなのです。つまり、非常に残念なことに・あるいは非常に恥ずべきことに現代の我々は彼らの夢を実現できていないということです。「俺だけが悪いわけじゃない が、チェーホフさん、 御免、人類を代表して謝る、人類はまだあなたの期待に沿うほど賢くないようだ」という感じでしょうかねえ。だから、我々もチェーホフの思いを引き継いで悪戦苦闘するということです。 蜷川氏も演出なさる時に常にそういうことを考えているのだろうと思います。

チェーホフの「桜の園」の幕切れに(アーニャ)「さようなら、古い生活」(トロフィーモフ)「こんにちは、新しい人生」という台詞があります。桜の園を離れる彼らがどんな生活を夢見たか・どんな未来が待ち受けているかを考えることはもちろん価値がありますが、もっと根本の問題として・この時・チェーホフがどんな生活を夢に描いたかということ を考えなければなりません。つまり100年後・あるいは200年後の未来の世界についてのことです。古典作品と対する時にはそういう問題について我々は内的に対話する義務が常にあるのです。古典作品が成立した時代は 場合によっては民族も国も異なり、また社会も・考え方もその成り立ちからして現代ともちろん異なりますが、そのような柵(しがらみ)を越えて・作品と直截的に対峙する為に現代においてはこのような 心情で作品の本質を大きく掴みとる視点が必要になっています。作品を心情的に読むことが古典作品を同時代的に読む最も早道であると吉之助は思います。

あまり好ましくないのは古典作品を読んで「今の時代は昔とは違う・あそこが違う・ここが違う」と決めてかかって読むことです。古今東西、古代ギリシアであろうが・エリザベス朝英国であろうが・はたまた江戸時代であろうが、人間の感じることなど現代の我々と大して変りはないのです。例えば毎年上演される「忠臣蔵」は歌舞伎の定番ですが、お家断絶に直面した赤穂の武士たち の心情を平成不況でリストラされた労働者の心情と重ね合わせることは直接的には無理があ ると思うでしょうが・吉之助は見立てをするつもりはなく、その怒り・憤りの気分が心情的に非常に似通うことに注目したいのです。忠義とか封建道徳とかいう概念はその後に来るもので・そういうものはその時代や社会と密接 に関連したものですから、そういうものから作品解釈に入るとその解釈も当然時代に縛られたものになってしまいます。

「六段目」で仇討ちの軍資金を調達しようとして結果的に腹を切る破目になる勘平・同じくそのために身を売る女房お軽。彼らは封建倫理の犠牲者である・だから「忠臣蔵」は忠義批判の作品であるという見方も角度を変えれば確かに可能で、そういう分析で作品の違った様相が見えてくることがないとは言えません。しかし、そういう見方は所詮「現代はそのような封建主義の時代ではない」という安全地帯にいるところで成り立つもので、封建社会を必死で生きた登場人物の視点に立ってはいないのです。吉之助に言わせると、それは昭和20〜30年代頃の戦後史観から抜け出ていないものです。仇討ちとか忠義という論理は「忠臣蔵」の枝葉の問題で、ホントはどうでも良いことなのです。もし会社を首になったとすれば「これから俺はどう生きていけばいいんだ」という時の憤りの心情の方が現代と江戸時代の心情とを直截的に繋げる糸口になります。実はこういう憤りの心情は非常に危険なアナーキーな要素を孕んでいるのですが、そう考えると仇討ちという行為の意味も分かってきます。また大石内蔵助という人物がそのような危険な憤りの心情を秘めながら・見事にそれを制御し切ったことも分かるはずです。「最初に忠義ありき・仇討ちありき」で内蔵助が一直線に行動したと考えるなら、そういうものは決して見えてこないと思います。年号も平成になっているのですから、もうそろそろ戦後史観から抜け出たところで歌舞伎作品を読むことをしたいものであるなあと思います。

ところで昨年(2009年)はベルリンの壁崩壊20年でした。冷戦の象徴・東西ベルリンの街を隔てた壁は1989年11月10日に実にあっけなく崩壊しました。昨年11月にはそれに因んだドキュメンタリーがテレビで放映されましたが、そのなかでとても印象的な場面がありました。 ある旧東ベルリンの住民がこう語ったのです。彼は「俺はあの壁崩壊の日のことは決して忘れない。あの日のテレビ演説でコール首相(当時)がこう言ったんだ。『東のみなさん、自由社会へようこそ。我々はあなた方にバラ色の未来をお約束します』ってね。・・(20年後の) 今の我々の生活がバラ色なのかね。これがあの時の我々が夢見た生活なのか、とんでもない。』と吐き棄てたのです。強い失望と憤(いきどお)りが渦巻く言葉です。彼をあざ笑うことは簡単かも知れません。旧東ドイツの人でも・統一後に努力して成功 した人も大勢いるからです。しかし、現在の東欧を見渡してみれば、冷戦が終結して民主化した後の民衆の生活レベルはむしろ悪化しており、「あの民主化は一体なんだったのか・これなら共産社会の方がずっとましだった」という声が日増しに高まっているようです。このような状態にある時、彼の憤りの言葉はとても重い意味を持ってきます。西側の人々が東側の人々を放置した・冷遇したということではないと思います。 西側の人々にも統合の負担が重く圧し掛かって・それに対する不満がつのっているようです。結果として事はまだ巧く運んでいないということです。以上は西欧のことだけのようですが、実は似たような問題が世界の平和をジワジワと脅かしているのです。地球温暖化あるいは核やテロリズムの問題もそのような課題のひとつです。世界同時不況など経済の問題もそうです。そのような問題が複合的に醸し出す心情は突き詰めれば「これは我々が望んだ平穏で温かく平等で人間的な世界ではない」というものになるのです。ちょっと間違えばそれはアナーキーな思想にもなりかねないのですが、その心情をじっと内に秘めて燃やし続ければ・それはいつか世界を根底から動かす原動力にもなり得るわけです。(関連する記事としては「村上春樹・または黙阿弥的世界・その3」をご参照いただきたいと思います。)

別稿「歌舞伎とオペラ」などで度々触れている通り「今は我々が望んだ平穏で温かく平等で人間的な世界ではない」というのは典型的な19世紀西欧芸術のロマン的心情だと言えますが、それは江戸初期(17世紀前半)のかぶき者の「生き過ぎたりや」のかぶき的心情と全く同じものです。現代の状況は19世紀西欧あるいは17世紀江戸よりも様相が一段と複合化・混迷化し たものと言えますが、基本的にその延長線上にあると見てよろしいものです。ですから現代においても「今は我々が望んだ平穏で温かく平等で人間的な世界ではな いが、いつかはそういう未来にしたい。」と考えることはとても大事な意味があって、そこに古典を同時代的に鑑賞するヒントがあると思います。

(H22・1・4)


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