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吉之助の雑談13(平成20年1月 〜7月 )


伝統芸能における古典(クラシック)・その15: 蜀の犬

中国の蜀の国は霧の深い土地柄で・霧が濃い時は太陽が見えないほどで、朝に太陽が昇る時刻になると・霧のなかで蜀の犬は一斉に吠えるのだそうです。太陽に憧れて吠えるのか・それとも太陽を畏れて吠えるのか・それは分からない。武智の第二劇評集「蜀犬抄」の題名はこの逸話 を取ったものです。(「蜀犬抄」は昭和25年の出版ですが・内容は主として戦前に雑誌に発表された劇評を集めたものです。)武智の場合も何に対して吠えるのか・ 伝統芸能の真実か芸の秘密か・それとも既成概念に凝り固まった役者か劇評家か・はたまた資本家松竹でありましょうか。武智の生涯はこの蜀の犬のエピソードに集約されるような気がします。

断弦会に代表される最後の芸能パトロンとしての武智の功績、武智歌舞伎での演出家としての武智にも触れるべきですが、本稿では吉之助にとっての武智理論というところに焦点を置きましたので割愛をします。冒頭書きました通り吉之助は武智を師匠と仰ぎ・武智理論を継承発展することを本「歌舞伎素人講釈」の旗印としています。振り返れば「歌舞伎素人講釈」はその道程は取れていると思いますし ・まあ多少は師匠に顔向けはできるものと思っていますが、それにしても吉之助にとって武智はなお偉大な存在なのです。

武智理論をお知りになりたいのならば・いきなり定本武智歌舞伎・全6巻(三一書房)を読むよりも、軽い入門編としてまず八代目坂東三津五郎との対談「芸十夜」(昭和47年・駸々堂出版)あるいは富岡多恵子氏との対談「伝統芸術とは何なのか」(昭和63年・学芸書林)から始めることをお勧めします。

芸十夜―対談 (1972年)

伝統芸術とは何なのか―批評と創造のための対話

(H20・7・2)


伝統芸能における古典(クラシック)・その14:フロイト心理学

フロイト心理学は古代から占い師らが行ってきた「夢見」と表面的なところが似ています。そのせいかフロイト心理学も人間の行動の裏に隠された性的な本音や欲望を見立てによって探るものという誤解が世間にあります。まあ悪く言えば下司の勘ぐりということですかねえ。フロイト自身もこのような世間の見方に悩んで、その著書「夢判断」では「このようなことを書くからと言って・私が女性蔑視者だと誤解しないで欲しい」というような言い訳を書いているくらいです。このようなフロイト心理学に対する偏見が今も世間に強く存在しますし、残念ながら武智の場合も少なからずそんなところがあります。フロイト心理学の正しく科学的な姿はユングらによる批判検討と・ラカンらによる再評価を経て見出されることになります。

ともあれ武智が「武智歌舞伎物語」(昭和30年)において、これをフロイト心理学の応用だとして歌舞伎における振袖の扱いの解釈を語ったことは 非常にショッキングでしたし、またこれは正鵠を射た指摘でした。これについては別稿「振袖について考える」を参照ください。しかし、「合邦」の玉手御前が深層心理では俊徳丸を愛していたのであるとする解釈については吉之助はそう考えませんし、これはフロイト心理学の表層的な理解に止まっていると思います。またその後の歌舞伎の作品解釈に少なからず悪い影響を与えたと思います。これについては別稿「科学的な歌舞伎の見方」の最後の章で取り上げましたからそちらをご覧ください。

フロイト心理学における無意識(深層心理)とは内心に隠された具体的な欲望・願望のこと(例えば「合邦」で言えばホントは俊徳丸が好きというような願望)を指すのではないのです。それはもっと根源的なところから自己を突き動かすもので、本人から見ると「抵抗しようにもしようがなく・ただ操られるがまま」の認識しがたい巨大な存在として立ち現れます。フロイトの無意識の発見はとても「世紀末的」な事件でした。個人が状況によって圧倒され・乖離感覚を感じ始めた19世紀末という時代を認識しなければ・この時代にフロイト心理学が登場することの必然が理解できません。

ご承知の通り「歌舞伎素人講釈」は歌舞伎に見られる江戸の精神状況は19世紀末の西欧の状況を先取りしたということを大きなテーマとしています。なぜならば「かぶき的心情」はジャポニズムに心酔した西欧の心情とぴったりと重なるからです。正しく科学的なフロイト心理学の利用によって歌舞伎の検証が可能になります。ですから師匠・武智がフロイト心理学を標榜したのはその先駆けであり、弟子の吉之助もまだ十分にフロイト心理学を理解したわけではないですが、本「歌舞伎素人講釈」において歌舞伎の心理学的解析を続けていきたいと思うわけです。(この稿つづく)

(H20・6・30)


伝統芸能における古典(クラシック)・その13:階級闘争史観の弊害

階級闘争史観は武智理論の根幹のように言われますが、弟子を自認する吉之助はそう考えていません。階級闘争史観は武智が 自説(理論)を展開するためのきっかけに過ぎないのです。(同じことは武智が利用したフロイト心理学にも言えます。) 理論とはすべて方法論・あるいは思想と言っても良い ものです。武智理論とは・芸の本質を見据えることで・人間の本質あるいは日本人の本質に如何に迫るかという科学的な筋道のことを言います。(このことは本論前半でその概略を説明した通りです。)階級闘争史観はそこに表層的に現れた切り口に過ぎません。事実、晩年の武智の言説はその著作をずっと読んできた人間から見ると・時折あれっと思うような・逆さまのことがあったりしたものでした。

ベルリンの壁が崩壊した現代では階級闘争史観はもはや流行遅れの感あり・ひとつの切り口に過ぎなかったことが明らかです。 社会学も思想史もそこからずっと先のところに行っています。しかし、歌舞伎研究や劇評を見ると階級闘争史観はむしろここ十数年ほど前から流行になっているようです。(ちなみにベルリンの壁崩壊は1989年のことです。)まあ武智理論もだいぶ浸透してきたということでしょうが、吉之助から見ると・「個人=善」・「社会・世間=悪」のステレオ・タイプに作品を安易に読んだ珍妙な解釈が近年少なくありません。これは武智の悪影響かも知れません。しかし、繰り返すと・階級闘争史観もフロイト心理学も武智理論の表層的なものに過ぎないのです。

例えば「忠臣蔵」を忠義批判・封建批判であるとする読み方は歌舞伎の劇評によく見られます。「六段目」の勘平や「九段目」の本蔵の死の・そのことだけを見るならば確かに それはあり得る見方です。吉之助はひとつの見方としてこれを認めますが、それだけで作品全体を矛盾なく見渡せる見方となり得るかということをもう少し考えねばなりません。多角的なアングルからその見方を検証してみる必要があります。例えばもし「忠臣蔵」が忠義批判ならば勘平・本蔵を死に追い込んだ由良助はどう見るべきか・ということです。仇討ちの論理を押し付ける由良助は否定すべき存在でしょうか。しかし、「忠臣蔵」における由良助の立場は絶対的ではないでしょうか。ならば「忠臣蔵」を忠義批判であると100%完全に決め付けることはできないと吉之助は思います。忠義批判という視点を作品全体の解釈のなかにどういう形で取り入れれば居心地 (バランス)が良いかということを多角的に検証せねばなりません。こうした振り返りが絶えず内部でなされることで・見方はその作品の構造のなかで矛盾のない・バランスの取れたものに育っていきます。(吉之助が「九段目」の由良助をどう見るかについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をご参照ください。)

「忠臣蔵」は封建批判であるという見方を延長すれば「忠臣蔵」は徳川幕府批判であるという見方も出てきます。さらに高師直を討つのは実は徳川将軍を討つ暗喩で あった・「忠臣蔵」は将軍呪詛の芝居であったという発展もあり得ます。これも実は「民衆=善」・「社会・権力・資本家=悪」のステレオタイプな階級闘争史観の産物です。しかし、出雲・千柳らが徳川将軍を討つ暗喩をこめて「忠臣蔵」を書き・庶民はこれを自明のこととして「忠臣蔵」を見たと言うのなら、徳川政権が二百数十年も続き・民衆革命がついに起きなかった・明治維新も民衆革命ではなかった・その理由がまず検証されなければなりません。「忠臣蔵」は昔も今も日本人の美談であり・日本人の倫理道徳に強い影響を与えてきました。だとすればそこに日本人の心の真実のどういう要素を見るかということです。実はこちらの方が本当に大事な・我々の考えるべき問題です。そこから見て・「忠臣蔵」の構造のなかで無理が出てくる解釈ならば・それは見直されなければなりません。このような方法論こそ吉之助が師武智から学んだものです。作品をあれこれと解釈してみるのは楽しいことです。しかし、これは批評行為であるということを自分に課すならば話は別になります。(この稿つづく)

(H20・6・28)


伝統芸能における古典(クラシック)・その12:階級闘争史観

批評家としての武智が異彩を放ったのは階級闘争史観を理論的背景にして、浄瑠璃・歌舞伎を徹底的に読み込んだことです。例えば「歌舞伎演出〜絵本太功記を中心として(昭和23年)で武智は次のように書いています。

『歌舞伎劇は由来封建制度の非人間性に対する新興町人階級からの批判の立場で書かれたのであったが、後に町人階級の身分制度が本来的な封建的性格に基づいて確立されるにつけ、町人金融資本や問屋親方などの支配的身分のための御用演劇と化し、それが政治的支配階級の利害と結びついて幕末においては本来の批判精神を失い、犠牲と諦観の封建思想宣伝機関と化し・・・』

歌舞伎の劇評は・江戸の評判記の系譜を引いており・その舞台が良かった悪かったを書くのが主目的です。紙数の制約もありますが、批評の裏づけになるところの歌舞伎観・作品論を感じさせる劇評は少ないようです。武智の出現は、いわゆる「通」とか見巧者が幅をきかせる歌舞伎劇評の世界に・初めて鋭い「理論」を持つ書き手が登場したということでした。武智は歌舞伎を「民衆劇」として位置付けます。そして歌舞伎の民衆劇としての初心が政治権力によってどこのように捻じ曲げられ変容したか・あるいは権力と妥協して民衆を裏切る形でどう変質したかを解き明かします。しかも、その視点が丸本の深い読みに裏づけ られているのですから、吉之助が影響を受けないはずがありません。

まあ今から思えば・階級闘争史観は時代の流行みたいなものでした。これはマルクス主義の影響で、当時の学生なら誰でも一度はかぶれたものです。しかし、マルクスの階級闘争史観もベルリンの壁が崩壊して・ソビエトという共産国家さえなくなった現代においては時代遅れの感があります。「民衆=善」・「社会・権力 ・資本家=悪」のステレオ・タイプの二元論だけではどうにも割り切れないものが出ます。上記に引いた武智の文章についても、その昔・吉之助の「歌舞伎素人講釈」が武智の視点から出発したことは事実ですが、現在の吉之助は細かい点で見解の違いを感じます。本稿ではその相違について述べることはしませんが、江戸期においての心情を「対社会」の視点で捉えるのではなく・ これを個の問題として捉え直した点が、師匠武智と吉之助との違いかと思います。しかし、今でも吉之助は折に触れて武智の批評を読み返しますし、そのたびに新しい発見をします。(この稿つづく)

(H20・6・25)


伝統芸能における古典(クラシック)・その11:「正しい・正しくない」という感覚

戸板康二氏は武智と同時代の批評家ですが、戸板氏の批評は文章スタイルにおいても・批評の立場においても・物事の白黒をはっきり付けて容赦がない武智の批評と対照的でした。吉之助は武智の弟子を自称している位ですから、戸板氏の批評を「ぬるい」と思っていた時期が確かにありました。(現在は 中庸を保った戸板氏のスタイルは学ぶところが多いと思っています。)ある時 、戸板氏が「岡(鬼太郎)さんは文章が下品。私の理想は三宅(周太郎)先生である」と書いていたのを思い出します。戸板氏にしてははっきり書いたなあと思って強く印象に残っています。多分、戸板氏は武智の文章 を下品と感じていたと思います。武智は役者の演技をこきおろす時に「国語の勉強をやり直せ」とか「脳膜炎」とか罵詈雑言をぶつける傾向があったのでそれで要らぬ敵を随分作ったと思います。 まあ武智本人は憎まれ役を気取っていたとは思いますが。

歌舞伎学会誌「歌舞伎」26号で・山田庄一氏が武智氏の思い出を語っておられます。昔、山田氏は「武智はけしからん。あんなことやっていたら、むしろ歌舞伎は滅びる」ということで友人と夜中に武智氏宅に押しかけたのだそうです。

『そしたら武智さんがいて、「どうぞ上がってくれ」と。それで上がってしゃべったら、書いていることとしゃべるのと全然違うんだよ。こっちが自分の意見を言うと「その通りだ」って言われて、こっちは何か拍子抜けして、しゃべっているうちに何かうまくまるめこまれちゃった。それがつきあいの始まり。(中略)悪いところもすっかり分かっていて、しかもそれが必ずしも嫌いじゃなかったと思う。直接に話をしていると、それをすごく感じた。』(座談会「武智歌舞伎とその時代」)

文学でも音楽でも芝居でも同じですが・「私はこれが好き・これが嫌い」という感想は誰でも持てます。批評も好き嫌いが確かに原点ですが、これとは別に「正しい・正しくない」という尺度が存在します。「好き・嫌い」は個人の嗜好に過ぎないと決め付けることもできますが、何が正しくて・何が正しくないかというのは難しい問題ですが・これは観念的なものを含んでおり、ある意味で主体を突き放したところの客観性を持っているのです。「この演技は好きだけど正しくないね」 ・「この演技は面白いけど良くないね」という場合があるのです。 もちろん「この演技は正しいけれど面白くない」ということもあるでしょうが、その場合はまだ何かが足らぬのです。残念ながら日本では書き手の側にも・読み手の側にもその辺の線引きが曖昧です。個人の「好き・嫌い」を前面に出して・辛口批評を気取っているようなものが少なくありません。日本で真の批評文学が育たないのはその辺が原因かと思います。「好き・嫌い」だけで舞台のことを書くならば・それは素人のご感想と変わりありません。自分のなかの「好き・嫌い」と「正しい・正しくない」を明確に分けて分析できるのが批評家なのです。

そこで武智のことですが・山田氏の証言でもお分かりの通り、武智は「好き・嫌い」と「正しい・正しくない」を自分のなかで明確に一線を引いていたと思います。批評家の態度として「この演技は好きだけど正しくない」というものは頑として排除したと思います。「あれも好きだけど・これも悪くない・これも味があって捨てがたい」では批評にならないし・演出もできないのです。しかし、武智が六代目菊五郎や山城少掾を評価していたのは別に「正しい」からではなく・それはもちろんのことですが・やはり個人としてその芸が好きであったと思いますねえ。(この稿つづく)

(H20・6・21)


伝統芸能における古典(クラシック)・その10 :科学的感覚・その2

武智の著書に「舞踊の芸」(東京書籍・1985年・今は古本屋さんでないと手に入らないと思います)がありますが、「娘道成寺」か「鏡獅子」がよく分かる入門書みたいな期待をして読むとこれが大違いで・まるで日本古代史か民族史のような感じで話が始まるのでビックリするだろうと思います。しかし、武智の考えでは日本民族の成立過程を踏まえないと・日本舞踊の動きの本質は分からないということかと思います。

武智は日本の民族舞踊を研究していくなかで・そこに農耕民族としての生産性に根ざした動き・大地をしっかりと踏みしめる安定感のある動きが基本であることに注目します。跳躍のような反動をつけた動き・旋回のような遠心力をつけた動きは騎馬民族の動きであり、日本舞踊にはこの動きがあまり見られないと武智は分析します。また日本の伝統音楽の基本は二拍子であり・三拍子の民謡はあまりありません。これは朝鮮半島でも状況は同じで・農耕歌はだいたい二拍子で、三拍子の民謡はほとんど生産から離れた遊び歌です。三拍子は馬が駆ける時のギャロップの時の縦振動のリズムから来るもので、こうした動きは日本の民族舞踊に見られません。この認識から武智は江上波夫が提唱した「騎馬民族征服王朝説」に異議を唱えるのです。江上説が正しいのならば・日本人の動きのなかに騎馬民族の動き(跳躍・旋回など)が混入するはずだと武智は言 います。武智の「古代出雲帝国の謎 」(祥伝社・1975年)も同様な考えからのものです。このように武智は伝統芸能を実践する立場から歴史学・社会学に対して反証し・提言を行なうのです。

例えば社会思想史などで江戸期の社会・世間についての見方を論じる場合、劇作品としては近松門左衛門の世話物が引き合いに出されることが多い(近松以外は触れられることさえない)ですが、社会学の先生の読む近松の読み方は芝居好きから見ると納得行かないものが多いと感じます。芝居を見たことあるのか知らんと思います ねえ。逆に言うとその本で論じられているところの江戸期の社会・世間 あるいは武士道などの概念がどこかしら変だと感じられることが多い。ところが、逆に歌舞伎の研究者や劇評家の方にそうした社会学・思想史の成果をそのまま鵜呑みにして歌舞伎を解釈してるものが多い。だから結果として歌舞伎研究や批評には珍妙な作品解釈が少なくないと思います。伝統芸能は歴史的過程の積み重ねですから・経時変化があるとは言え・いわば生きている時代の証人です。タイムマシンがない以上は、当時の人々の心理感情をヴィヴィッドに追体験するには文学や芝居など芸術体験に頼るしかありません。文学や演劇研究の立場から もっと感覚的に生きた・積極的な提言が歴史学・社会学・思想史の分野にもっとされても良いと思うのです。武智の業績がその分野でどのように評価されているのかは定かではありませんが、吉之助の見る限りでは芸能の世界でそういう活動を意識的にしているのは武智以外では・映画評論の佐藤忠男氏くらいのものだと思います。

民俗学研究においては現地でのフィールドワーク・つまり実証という作業が大事な仕事です。ところが芸能分野はその変容の度合いが非常に大きなものがあって・その変り様がまったく別物と考えてもいいほどのものもあります。したがって、田植え唄であるとか・巡礼唄のような素朴な芸能ならば話は別ですが、今現在の舞台で見られる形態の能狂言や歌舞伎を認めつつ・これらをフィールドワーク的に研究していくことは 非常に難しいことになります。しかし、能狂言も歌舞伎も間違いなくそのルーツを民俗に持っているのですから、現行の舞台からそのルーツを類推あるいは想像することは決して不可能ではありません。どこかにその痕跡が間違いなくある。だからこそ能狂言も歌舞伎も「伝承芸能」と称するのです。能狂言や歌舞伎のような芸能分野を研究対象にしようとするならば、その見方にある種の感性の飛躍(ワープ)が必要になります。そうすることでそこに原点からまっすぐにつながる一本の線を見出すことが出来ます。これが科学的思考(プロセス)というものです。折口信夫と武智鉄二はそういう思考が出来た人だったと吉之助は思います。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)(この稿つづく)

(H20・6・18)


○伝統芸能における古典(クラシック)・その9:科学的感覚

ご存知の通り・現行の歌舞伎十八番の型は九代目団十郎が最後に弁慶を演じた明治32年(1899)4月歌舞伎座 での舞台を原型としていますが、たび重なる九代目の工夫により父・七代目団十郎が演じた「勧進帳」の舞台とは 随分違ったものになってしまいました。武智がいわゆる武智歌舞伎で「勧進帳」を演出(弁慶は富十郎・富樫は雷蔵)した時・七代目の舞台を復元してみようということになり、武智は九代目なら「こう考えてここを変えただろう」というプロセスを逆に取って型を検討していったそうです。すると九代目の型は筋道がしっかりしていて・そこを直すと・ぴった りと元に納まって七代目の型らしくなっていく・まことに直しやすい。武智は「なるほど九代目の手を経た歌舞伎は確かに筋目がしっかりしている」という印象を持ったそうです。実はこの事実は「科学」というイメージにとても近い感覚です。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」を参照ください。)恐らくは明治から大正にかけての雰囲気と密接につながるもので、九代目団十郎の時代に芽生え・六代目菊五郎の時代に全盛期を迎えるものです。つまりそこに明確な論理性があり・この時期が歌舞伎の古典化の時代であったということを示しています。「科学」というものがある種の明るさに見えた時代でありました。むしろこうした科学的感覚は現代の方が希薄になっています。 ところでグレン・グールドがこんな発言をしていて面白いなあと思いました。

『私が信じられないのは、わざわざこう発言する人がいることです。「この曲を弾いてみようと思います。なぜならXとYとZが弾いているからです。ただし私なりの独自性を少々主張するために、ほとんどXの弾き方を踏襲しつつ、Yの弾き方の10%を加味し、もしかしたらZのテンポを採用するかも知れません。そうすればこの三人の誰とも微妙に異なって聴こえるでしょうから、前にもそうやって弾いた人がいたよ、などと言われずに済みます。」これは音楽を構造として捉える私の態度とはかなり異なるプロセスです。』(グレン・グールド・1980年のインタビュー)

歌舞伎の役者でも似たような発言をする人がいますね。また劇評家にもそういうのを役者の工夫だと評価する方もおられるようです。しかし、解釈や型というのはここをつまんで・ここは捨てて・ここをもらって・くっつければ独自の ものが出来上がりというものではないのです。部分を変えれば・全体の解釈のバランスが崩れてくるのです。表面的な演技の手順が「型」だと思っているからそうなるわけです。 あるいは面白ければそれで良いじゃないかと思っているのかも知れません。「歌舞伎素人講釈」では「型の概念の転換」ということを何度か取り上げましたが、現代においてはその辺がますます曖昧になっています。「型」というのは解釈・その作品(あるいは役)をどう捉えるかの筋道です。「筋道が通ってるかどうか」ということを計るのにはやはり科学的感覚が必要です。武智はそのような科学的感覚を大事にした演出家であり・批評家でありました。(この稿つづく)

(H20・6・14)


○伝統芸能における古典(クラシック)・その8:記録媒体の登場

ノイエ・ザッハリッヒカイトの思想の背景に、写真・映画・録音などの近代技術の影響があるということも付け加えておきます。少年武智が蓄音機でのクラシック音楽 に親しみ・それが武智の批評の出発点となっていることも・そこが原点となります。写真・映画・録音などの近代技術が音楽・演劇あるいは絵画に与えた影響という ものは計り知れないものがあります。例えば絵画でも写真登場以前には「まるで本物を見ているみたい」という細密描写を売り物にした絵画が多かったのですが、写真の登場はそうした絵画を無意味にしてしまいました。パフォーミング・アートでも映画・録音の登場以前は「感情表現を細やかに」という意図で・結果的に細部にこだわり・全体のフォルムを見失う表現が少なくありませんでした。映画・録音はこれをいつでも見直せる・あるいは比べられるものにしました。このことがパフォーミング・アートに与えた概念上の影響は非常に大きいものがあり ます。現在においてもその影響は正確に見定められてはいません。しかし、「芸が残せるものになった」ということはノイエ・ザッハリッヒカイトの思想に直接的に影響しています。

明治の義太夫の名人・摂津大掾は大正2年に引退しますが、明治38年(1905)に「本朝廿四孝・十種香の段」を録音しました。粗悪な音質ですが、美声で鳴らした大掾の芸が伺える貴重な録音です。山城少掾によれば・「大掾師匠の「十種香」はこんなものではありません」ということのようです 。しかし、 武智はこの録音について「大掾は恐らく古格を正しく後世に伝えるために・忠実に師伝を祖述したのだろうと思う」と書いています。(昭和50年・「レコードに残された名人芸」)其日庵の「浄瑠璃素人講釈」のエピソードを読めばその理由が分かります。。大掾に「寺子屋」を教わっていた其日庵が叱られる話が出てきます。其日庵が「健気なヤアツーウウアアーアア」(後半のモドリの松王が死んだ小太郎のことを言う台詞)と語ったら大掾がこれを制してこう叱ったそうです。

「なぜそんな所で売りに来やはります。みっともないじゃおまへんか。年取ってどうにか前をせねば商売ができぬ私などの高座でする悪いことばかり覚えはってはドモなりませんな。アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えてあげたいと思いまして、一々調べたうえでお聞かせ申しておりますがナ。少しは気を止めて聞いとクンなはれぬと困りますがナ。」

其日庵に教える場合でもこの通り。要するに「この録音は残るものだからみっともないことはできん・自分は後世に正しい芸を残す」という意識です。そこに未来の聴衆が意識されています。録音技術が進歩して編集やミスの修正が出来るようになるとその事情は多少変わりますが、当時の録音技術では一回演ったら録り直しは効きませんでした。いずれにせよそれまでは演ったらその場で虚空に消えていくしかない・見た人の記憶にしか残らないと思われていたパフォーミング・アートが「残せるもの・伝えられるもの」となったのです。歌舞伎など伝統芸能の古典化が始まったちょうど同じ時期にこうした記録媒体が登場したことは概念的に非常に大きな意味を持ちます。「団十郎はこうやった・菊五郎はこうやった」という型の記録も江戸時代にはなかった意味を持ってきます。それは残されることを前提としているのです。 つまり、それはどこかで「科学」とつながっています。

武智は能・文楽・歌舞伎というパフォーミング・アートに実践的に係わり・その芸の深さを知っている人ですから、「録音なんぞにその芸の真髄は記録できない」と否定的発言をしたっておかしくはない のです。しかし、武智には記録媒体に対する拒否感覚が全然ありません。また武智は映画製作にも積極的に係わっています。これらすべて少年武智が蓄音機でのクラシック音楽に親しんでいることから来ているわけです。(この稿つづく)

(H20・6・8)


○伝統芸能における古典(クラシック)・その7:時代との乖離

ここで時系列を整理しておくとノイエ・ザッハリッヒカイトの思想が西洋から日本に入ってきたのが大正から昭和初期頃のことで、青年武智はクラシック音楽を聴きながら・その 芸術思潮に染まっていったと考えられます。ちなみに九代目団十郎の死が明治36年(1903)のことで、昭和元年が1926年になります。このように時系列を見ると歌舞伎の古典化は・西洋のノイエ・ザッハリッヒカイトの勃興と時期的に並行している のですが、歌舞伎の古典化それ自体はそうしたことと関係なく・明治半ば頃から進行していたことが分かります。

例えば義太夫の「風」の概念は杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」によって初めて世に出たものです。「浄瑠璃素人講釈」の出版は昭和元年(1926)ですが、その原稿は雑誌「黒白」に連載されたものですから成立は大正10年 より以前のことです。其日庵の言うことは即ち「名人芸妙の風を守るべし」ということです。これも明治半ばから大正期の文楽が時代と乖離していくことの危機感から生まれたものと言えます。もちろん其日庵自身はノイエ・ザッハリッヒカイトの洗礼は受けていませんが、「浄瑠璃素人講釈」を座右の書とした武智は明らかにノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮においてこれを読んだわけです。

こう考えた時に武智が伝統芸能において尊敬してきた芸術家たち、歌舞伎で言えば六代目菊五郎・七代目三津五郎、文楽で言えば山城少掾や初代栄三といった人たちの芸 の共通したイメージが浮かび上がってくきます。彼らは芸術思潮など語りもしませんでしたが、その仕事が時代・社会との距離を拡げつつあることを感覚で感じ取っていました。そして「古典化」という手法で時代との乖離を強く意識する態度が、まさにノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮と期せずして合致するのです。ですから武智の功績のひとつは歌舞伎の古典化の流れを西洋のノイエ・ザッハリッヒカイトの 芸術思潮を借りて・それを「伝統芸能」という概念で受け止め・概念化しようとしたことにあると吉之助は考えています。(この稿つづく)

(H20・6・5)


伝統芸能における古典(クラシック)・その6:バロックへの意識

西欧の音楽表現の流れを見ると、ロマン主義的な表現が19世紀に全盛期を迎え・爛熟して・やがて行き詰まり・ 崩れていったものが世紀末芸術であり、これを古典的な感覚へ引き戻そうとするものがノイエ・ザッハリッヒカイトであると一般的に考えられています。これはもちろんそういう見方 もできます。一方、「歌舞伎素人講釈」のバロック論ではロマン派芸術の本質に潜んでいるバロック性が露わに顔を出したのが世紀末芸術であると言う見方を提唱しています。この見方を取れば、古典的な方向に表現を引き寄せながら・逆に自らのなかにあるバロック性を強く意識しているのがノイエ・ザッハリッヒカイトなのです。

「歌舞伎素人講釈」では江戸の状況は19世紀の西欧の状況を先取りしており、19世紀末のジャポニズムは西欧の芸術家たちに自分たちの進むべき道を指し示したのであると考えています。興味深い現象が20世紀初頭に起きています。まず歌舞伎において明治36年(1903)に九代目市川団十郎の死 ・つまり江戸歌舞伎の終焉が起きます。そして西洋音楽においては大正1 5年(1926)ミラノにおけるプッチーニの「トゥーランドット」初演・つまり19世紀グランドオペラの観念上の終焉が起きるのです。(別稿「歌劇におけるバロック」を参照ください。)ノイエ・ザッハリッヒカイトはこのような時期に勃興した芸術思潮であることに注目をしてください。

九代目団十郎の死の後・歌舞伎は滅びるという危機を残された歌舞伎役者たちは「団十郎はこうやった・菊五郎はこうやった」ということを金科玉条にして切り抜けたということは別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」において考えてきたことです。九代目団十郎の死以後の歌舞伎は、もはや同時代の演劇ではなくなったのです。この時から歌舞伎の「型」は、その通りにしなければ歌舞伎にならない・その通りにしさえすればとりあえず歌舞伎に見えるというものにな りました。逆に言えば「歌舞伎」とは何であるか・どうすれば歌舞伎に見えるのか・ということを常に自らに問い掛けねばならぬ芸能になったということです。これが「歌舞伎の古典化」ということです。

江戸の時代には歌舞伎は同時代の演劇であり、何をやっても歌舞伎は歌舞伎でした。面白いとか・詰まらないという議論はあったでしょうが、それをやったら歌舞伎じゃないという議論はなかったのです。しかし、現代においてはそうではありません。いくら舞台として面白かろうが・客が入ろうが・それをやっちゃあ歌舞伎じゃないよ・お終いよということが確かにあるのです。しかし、現代でもこの事実は未だに認識が十分にされていません。役者も観客もどこかで「歌舞伎はまだ死んでいない」と思っています。確かに興行としては十分成り立っていますが、伝統芸能の理念から見れば歌舞伎はもうとうに「死んでいる」のです。歌舞伎の「型」がその通りにしなければ歌舞伎にならない・その通りにしさえすればとりあえず歌舞伎に見えるというものになったということは・そういう意味です。手順をなぞればそれで良いと言っているのではありません。歌舞伎はもう死んだと認識することで、歌舞伎のなかにある「かぶいた」表現を逆に強く意識しようとするものです。ノイエ・ザッハリッヒカイトも同様です。「ロマン的な表現は死んだ」と宣言することで・逆にロマン主義のなかに存在するバロック的な本質を強く意識する芸術思潮がノイエ・ザッハリッヒカイトです。 (この稿つづく)

(H20・6・1)


伝統芸能における古典(クラシック)・その5:聴覚の基準

義太夫の三味線と大夫の駆け引きに、西洋渡来楽器である三味線と語り物の系統である(在来の邦楽である)浄瑠璃とのぶつかりあい・つまり西洋音楽と邦楽の衝突であると捉えるところに武智の独特の感覚があります。その発想の原点は武智が大夫の語りを聴く時にそれが三味線のツボにはまらないことがある・そこに何とも言えない無調感覚を感じることにあります。逆に言えば武智は聴感に基準になるツボを持っているということです。基準があるから「はずれる」という感覚があるわけです。聴感に絶対的な基準がなければ「はずれる」という感覚もないことになります。武智はその感覚をどこから得たかと言えば・それはやはりクラシック音楽です。

山田耕作が長唄交響曲(昭和9年・1934)を作曲した時、「長唄においては三味線が常に定旋律を形成し、唄はその定旋律に対して自由に流転する対位的旋律を形作っている」と見なし、三味線の旋律から管弦楽をの旋律を対位的に作曲していったそうです。これは長唄は唄が主旋律で・三味線は伴奏であるという一般的見解と全く異なる考え方です。しかし、武智の三味線渡来楽器説を知っていれば・長唄のなかに西洋音楽との接点を見るならば・三味線をベースに管弦楽を構築していく ことはまったく道理だと思います。長唄を研究するなかで山田耕作も武智と同じような結論に達したと思います。 (別稿「山田耕作の長唄交響曲」をご参照ください。)

同様なことはリズムについても言えます。正しい拍(リズム)の感覚がなければ「間が良い・間が悪い」ということの解明はできません 。武智の「間(ま)」の理論もクラシック音楽から得たものです。義太夫でも長唄でもその拍の基準は三味線が作り出しています。ですから「邦楽は西洋音楽的な音程がない・リズムがない」とよく言われますが、武智は西洋音楽的な視点から邦楽の独自性を押さえようとしています。三味線の示す音程を大夫がその独自性を主張するかのように音をはずしにかかる・あるいはそのはずした音程に三味線の方からにじり寄る。義太夫を聴きながらそこに西洋音楽と邦楽の軋轢と融合のイメージを武智が思い描いたということは、その感覚の鋭さと想像力に感嘆するばかりです。(この稿つづく)

(H20・5・30)


伝統芸能における古典(クラシック)・その4:ノイエ・ザッハリッヒカイト

武智少年がベートーヴェンを聴いて頭が痛くならなかった・多分に西洋音楽脳的な音楽の聴き方をしていたらしいことは非常に大事なことです。吉之助の体験で言えば・クラシック音楽にのめり込んだきっかけは、ベートーヴェンの交響曲第5番が建築とも言える論理構造にとって作られていると 知った時でした。ヨーロッパでは音楽を論理学の一種として教えるそうです。吉之助にとってクラシック音楽の事件はいくつかありますが、いくら聴いても線と色の変化にしか聴こえなかったワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が突然構造で明確に聴こえてきた体験は吉之助にはとても感動的なものでした。

このように音楽を構造として捉えるのが吉之助の聴き方ですが、もうひとつの聴き方は音楽を情緒(気分)として捉える行き方です。日本人の場合かなりのクラシック音楽通でも音楽を情緒で聴く傾向が強いようです。別に聴き方に良し悪しがあるわけではないですが、実は音楽の感じ方に結構違いがあります。(この点はいずれ別の機会に考えたいと思います。)武智の場合は吉之助と同じく音楽に構造を聴くという傾向です。この類似は武智の文章を読めば・吉之助には明確に感じ取れます。

「音楽を構造として聴く」とは、音楽を音階とリズムの構造体として受け止めるということです。作曲者は何を訴えるのか・この旋律は何を表現しているのかなど文学的修辞(メッセージ)を恣意的に読まないということです。もちろん芸術作品のなかにメッセージが厳然としてあることは間違いないですが、メッセージは受け手の脳裏に映像のように浮かび上がるもので・媒体自体にメッセージはないとするのです。音楽の場合は楽譜がありますから、調性・音階は変えることが出来ません。作曲者が楽譜に明確に規定することが出来ずに・演奏者の裁量に任されるところが大きいのはまずテンポ・次に音量ですが、特にテンポの影響が大きいことは言うまでもありません。音楽表現に恣意的な要素を介在させないということになれば、取るべきテンポは 当然「イン・テンポ」(最初に取ったテンポをあまり動かさないで・できるだけ一定に保つ)ということになります。これを演奏様式のなかに当てはめるとノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)ということになります。

別稿「左団次劇の様式」のなかで「ノイエ・ザッハリッヒカイト」について触れました。 それは20世紀初頭に勃興した芸術思想を指し、当時の音楽界では指揮ではトスカニーニ・ピアノではギーゼキングがその代表でした。日本では昭和初期に西洋から流入した芸術思潮です。ノイエ・ザッハリッヒカイトの特質は演奏用様式としてはイン・テンポ、解釈の態度としては原点主義になって現れます。武智の根本にノイエ・ザッハリッヒカイトがあることは武智がかっきりとした理知的な芸風を評価したことを考えればわかります。武智は歌舞伎では六代目菊五郎を評価し、初代鴈治郎や十五代目羽左衛門をその対極に見ていました。文楽では山城少掾や初代栄三を評価し、三代目津大夫や文五郎(難波掾)を評価しようとしませんでした。また歌舞伎批評においても徹底した丸本の読み込みによって・歌舞伎の仕勝手を糾弾しました。これすべてノイエ・ザッハリッヒカイトの態度から出ている のです。ただし、イン・テンポや原点主義という要素はノイエ・ザッハリッヒカイトの思想の表面に出てくるものに過ぎません。武智理論の根本を考える為には芸術思潮としてのノイエ・ザッハリッヒカイトがどういう意味を持つのかを考えてみる必要があります。(この稿つづく)

(H20・5・25)


伝統芸能における古典(クラシック)・その3:邦楽と西洋音楽

武智の出発点がクラシック音楽にあることは、武智の批評のどういうところに出ているでしょうか。その原点は邦楽を聴くとそれがどういう音程なのか・その音のツボが全然分からない・無調音楽を聴いている気分になって・意識がふっと宙空に飛ぶという感覚にあると思います。

武智は三味線のモデルは安土桃山期に南蛮人によってもたらされたギターであると推察しています。(注:これについては未だ結論は出ていないようです。)同時に間違いなく西洋音楽(主として教会音楽)が流れ込んできたでありましょう。(これも 十分な史料がなく・実態は推測の域を出ない。)当時の西洋音楽はルネサンス期の教会旋法による音楽で・我々がよく知っているバッハ以降の西洋音楽よりも以前のものです。武智は三味線の登場が邦楽にもたらしたものは、音程・明確な定間のリズムの概念・そしてそこから派生するところの間(ま)の概念であると指摘しています。「歌舞伎素人講釈」ではそのすべてを検証してはいませんが、 例えば「試論「間(ま)について考える」をご参照下さい。音程のことで言えば、義太夫では大夫はしばしば三味線の作り出す音程のツボをはずそうとし・逆に三味線は大夫の音程に近づこうとする(ニジる)ということがあります。ここに武智は西洋音楽由来になる三味線と・邦楽の語り物音楽の系譜を引く大夫との 軋轢と融合を見るのです。こういうイメージは武智が西洋音楽も邦楽も理解しているから出来る推察です。

邦楽が西洋音楽の概念に当てはまらない独特なものだということを説くのにやっきになってるみたいな本を見かけま した。西洋音楽がグローバル・スタンダードのように思っているのでしょうが、実は世界の音楽からすればむしろ西洋音楽の方が特異な発展を遂げた形態であって・邦楽の方がノーマルな形態なのです。(同様のことは思想分野での西洋合理 主義についても言えます。)そう考えればシェーンベルクの十二音音楽(無調音楽)が西洋音楽史のなかでどういう意味を持つかはおのずと分かります。それは調性音楽の崩壊ということではなく・民族音楽への回帰という面を持つわけです。武智はシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」に触れて・十二音音楽と邦楽との感覚的な類似を記しています。日本人の生活のなかに西洋音楽がこれほど当り前になった現代において、邦楽が西洋音楽の概念で解明できない独特のものだと力説するのは尊皇攘夷論みたいで滑稽なことだと思います。むしろ西洋音楽理論をしっかり踏まえた視点での邦楽論がそろそろ出てきても良い頃だと思います。武智の邦楽論はまとまったものがあるわけではありませんが、その音楽論・リズム論はとても示唆あるものです。(この稿つづく)

(H20・5・21)


○伝統芸能における古典(クラシック)・その2:西洋音楽のこと

最晩年(昭和63年)のことですが・武智鉄二が座談会で・今後はどのような活動をしていくつもりかと問われて、「僕についてこのことは誰も指摘してくれないのだけど・・」と前置きして、自分の評論の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあったこと・そしてできればもう一度その方面の活動に戻ってみたいと語った そうです。このエピソードに吉之助が感じることはふたつあります。ひとつは誰でもそうですが人は最後に自分の原点に戻っていくものかなという感慨と、もうひとつは伝統芸能の分野に関してはもう自分の仕事は終わったというような武智の軽い脱力感とふたつです。そのふたつの気持ちが武智のなかで交錯しているようです。

武智本人が自分の評論の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあると語ったことは非常に興味深いと思います。実は吉之助も歌舞伎批評をやる以前にクラシック音楽批評を志していたということがあり、歌舞伎よりクラシック音楽の方がつきあいが長いのです。吉之助と武智はその出発点に共通項があるわけです。武智は大正元年(1912)の大阪生まれですが、学校での音楽授業のこともあって・武智は少年時代からせっせとSPレコードを集めて・蓄音機でベートーヴェンなどよく聴いていました。今の時代ならばこれは当たり前のことのようですが、大正の当時にそういうことが出来たのは金持ちに限られていました。蓄音機自体がまだ日本では世に出たばかりでしたし・洋楽に親しむ習慣自体が一般的でありませんでした。

武智少年が蓄音機でレコードを聴いていると・武智の母親は頭がガンガンして気持ちが悪いから止めてくれとよく言ったそうです。周囲に西洋音楽が溢れている現代では想像が出来ませんが、当時の日本人は洋楽を聴くと気分が悪くなる人が多かったのです。邦楽と比べると西洋音楽は音もリズムも明解で・かっきりした構造を持っています。邦楽脳で聴けば・西洋音楽はとても窮屈で自由度がないように聴こえるようです。逆に西洋音楽脳で聴けば・邦楽は曖昧模糊としてとらえようがないということになります。ここで注意せねばならないのは武智少年がベートーヴェンを聴いて頭が痛くならなかったらしいことです。大事なことは武智少年がまだ完全ではないにしても多分に西洋音楽脳的な音楽の聴き方をしていたということです。もちろん武智少年の周囲にはそれ以上に邦楽が溢れており・それを精神的土壌とするところがあったのですが、武智少年にそのどちらも受け入れる素質があったということです。これが晩年の武智自ら言うところの武智理論の原点です。

現代においては学校教育・あるいは社会環境によって・日本人は西洋音楽と無縁でいられることはあり得ません。どんな人でも良かれ悪しかれ西洋音楽の影響をこうむっています。例えば民謡でも現代の歌い手による民謡は・どことなく西洋音楽音階的に聴こえます。NHKの古い音源で昭和初期の同じ民謡の歌唱を聴くと、これはちょっと同じ音楽とは思えないほどです。昔の音源を聴くと・こちらの頭のなかにある西洋音階が全然当てはまらないようです。これがどういう音程なのか・自分で同じようにうなってみてもその音のツボが全然分からないということがしばしばあります。無調音楽を聴いている気分になります。これがホントの「正調」かということに軽いショックを覚えます。一方で現代の歌い手による民謡は正調と銘打っていても・どこか聴きやすいのです。どこがどうと明確に指摘できないですが、知らず知らずに西洋音楽の影響を強く受けている のだろうと思います。これは必ずしも邦楽が駄目になったということではなく・現代に生きている以上そうならざるを得ない・仕方のないことだと思います。

同じことは民謡だけでなく、実は文楽の義太夫・長唄やその他の邦楽でも言えます。山城少掾の録音を聴きながら・それに合わせて同じように口のなかで音を追っていると・「これは何の音だ」と思うものに必ずぶつかります。吉之助にとってそれはある種の違和感であり・不快でもあり、しかし刺激的でもある不思議なものです。それは無調感覚であり・意識がふっと宙空に飛ぶ感覚です。山城少掾以前の古い義太夫の録音ではこうした 感覚がしばしばあります。ところが現代の大夫ではそう した場面がぐっと少なくなります。頭のなかで処理しやすい音であり・西洋音楽を聴きなれた耳には聴きやすいのですが、意識が宙を飛ぶ場面は少ないようです。演奏する側と・聴き手の相互の関係もあり、これは邦楽の堕落だと安直に決めつけるわけに行かない・なかなか複雑な問題を孕んでいます。(この稿つづく)

(H20・5・18)


○伝統芸能における古典(クラシック)・その1:古典ということ

本年(2008)は昭和63年(1888)7月26日に亡くなった武智鉄二の没後20年にあたります。武智鉄二(大正元年〜昭和63年)は演劇評論家であり ・伝統芸能の最後のパトロンであり、優れた演出家・映画監督でもありました。最近の歌舞伎の世界では武智鉄二の名前を聞くことはほとんどなくなりました。「武智歌舞伎」もはるか昔の出来事のようです。しかし、今の藤十郎や富十郎のきちんとした 風格の舞台を見れば・その芸の原点にあるところの「武智歌舞伎」での修練とはどんなものであったか・ということも思い浮かぶかと思います。

生前の武智に影響を受けたと発言している方は少なからずいらっしゃいます。しかし、批評の世界で武智の思想を継承発展したと思える方は残念ながらあまりいないようです。せいぜい階級闘争史観やフロイト心理学を作品解釈に取り入れるといった武智理論の表層的な摂取に留まっています。いわゆる武智理論と言われるものは歌舞伎をそのような社会学的・心理学的視点から解釈するものだと一般的に理解されていると思います。まあそういう点では出現当時は斬新な見方と言われた武智の歌舞伎観も定着して・普通の見方になってきたということができる と思います。しかし、そういうものは武智がある種の時代的 な流行(はやり)から取り入れた理屈であって、実は武智理論の本質的なところではないのです。マルクスの階級闘争史観もベルリンの壁が崩壊して・ソビエトという共産国家さえなくなった現代においてはもはや時代遅れの感があります。フロイト心理学も何でもかんでも性(セックス)の視点から裏の心理を読むものだというのが昔のイメージ だったと思いますが、そう思っている限り発展はありません。もうそろそろそ れを越える視点があっても良い頃だと思うのです。しかし、歌舞伎批評を見る限り武智の指摘したところから発展した様子はないようです。

歌舞伎批評において武智が真に重要であるのは、芸能の世界に「クラシック(古典)」という概念を武智が提示したということです。この認識から武智は伝統というものが民族に及ぼしている影響とは何か・伝統に立ち返ることはどうしたら可能か・ということを考えるのです。この問題は歌舞伎という芸能にだけ係わるものではなく、我々日本人が日本人であるということはどういうことかという問題にもなって きます。このことが現代において重要さを増していることは言うまでもありません。しかし、実はこれが最も疎かにされている問題です。これでは武智の名前が忘れ去られるのも無理もありません。

「歌舞伎素人講釈」で吉之助は武智鉄二を勝手に「我が師匠」としています。吉之助は武智と個人的な面識はありません。吉之助が見た武智の演出作品は歌舞伎では10本程度、あとは「月に憑かれたピエロ」(シェーンベルク)や「カーリュー・リバー」(ブリテン)くらいのものです。しかし、武智の著作 (定本「武智歌舞伎」全6巻)は吉之助にとってバイブルです。サイト「歌舞伎素人講釈」は武智理論に 出発点としており、これを継承発展することをひとつの方向に持っています。吉之助が提唱している「かぶき的心情」も・バロックの概念も、実は武智の思想と方法論をそのルーツに持っています。 そこで我が師匠武智鉄二没後20年にあたり、本稿では武智の多彩な側面のうち・芸能思想家 (芸能史家)としての武智に焦点を絞って・吉之助が武智の思想からどのような影響を受けたか思いつくまま書いてみたいと思います。(この稿つづく)

(H20・5・14)


○在るべきイメージ・その2

トーマス・マンは小説「魔の山」の最終章の「妙音の饗宴」のなかで主人公ハンス・カストルプがサナトリウムで蓄音機で音楽を聴きながら生活をする様子を描いています。あらゆる学問分野を学ぶ学生カストルプは、やがて人生が錬金術のごとく・絶え間ない崩壊と再生の過程であると知ります。そうしたなかでカストルプは身体を病み・サナトリウムで療養の日々を送ります。サナトリウムが「 ポリュヒュム二ア」という蓄音機を購入し・それに付いていた各12枚・12冊のレコードを夜ひとりで静かに聴きながら、 カストルプはお気に入りの音楽を聴くための荘重な儀式を作り上げていきます。「妙音の饗宴」で取り上げられる音楽は「ボエーム」・「カルメン」・「ファウスト」・「アイーダ」などのオペラの抜粋のほか・シューベルトの「菩提樹」などが含まれており、長い章がレコード音楽の熱い感想で占められています。音楽に興味のない読者はこの章を省いちゃうのじゃないかと心配なくらいです。

「魔の山」の舞台が第一次世界大戦直前(1910年代)であることを考えると・これほどレコード録音の音楽に真正面に向き合った文章は当時は音楽評論でも少ないようです。真夜中にひとり蓄音機の前に音楽に聞き入り・思索するカストルプの姿に彼の精神状況が伺われ ます。カストルプのお好みとする音楽は死のイメージにつながるものが多いからです。しかし、本稿においてはSP録音の貧弱な響きがカストルプが音楽を思索するのに何ら障害となっていないことに注目をしたいと思います。当時ラッパ吹き込みのSP録音は響きが貧しいだけではなく、響きやダイナミック・レンジを補強するため ・あるいは限られた収録時間に収めるために録音のために編成を変えたり編曲することがしばしばあり・特にオペラ抜粋の場合はそうでした。それでも「在るべきイメージ」 はちゃんとカストルプに正しく伝わっています。彼はそれを「妖精の音楽」と呼び、情熱と陶酔と愛情を感じていました。カストルプにとって再生音楽は生の演奏が聴けないから仕方なく聴く偽物の音楽ではないのです。カストルプは再生音楽をまさしく音楽そのものと受け取っています。

グールドが「僕のピアノはシュナーベルみたいな音で録って欲しいな」と言ったエピソードについて考えます。恐らくグールドが感じているところの「シュナーベルの音」とは・ピアノの響きのなかの磨かれた表面的なもの・響きのなかにつきまとう聴き手のイメージを左右しそうな余計なものをを削ぎ落とした「響きの核(コア)」のようなものをイメージしてい るのです。ちょうどカラー写真より白黒写真の方が強い印象を見る者に与えることがあるように・貧弱なSP録音は現代のPCM録音よりも強烈な陰影を以って聴き手 の耳に響くことがあります。結果として「響きの核」のなかから・楽譜に記載された音程とリズムが示す音楽のピュアな姿が見えてくるとグールドは考えたのかも知れません。打楽器 的な性格を持つピアノという楽器の奏者がそのようなことを考えるのはごく自然のように思えます。

(H20・5・12)


○在るべきイメージ

「ハイファイ(HI-FI)」という言葉は今どきは死語なのですかねえ。「ハイ・フィデリティ(高忠実度)」とは、「原音をどれだけ忠実に再現できるか」ということで・これはオーディオ機器開発の基本概念です。しかし、実際にはアンプ・スピーカー など機器が異なれば音響は変りますし、聴く場所の環境などの要素もあります。ハイファイなんてことをあまり聞かなくなっ たのはオーディオ機器が成熟したということがあるでしょう。昔は再生音楽は缶詰音楽とも言われて馬鹿にされたものですが、今はそんなことを言う人はいないと思います。街中には音楽・音響が溢れかえっています。音楽は空気か水のように・そこにあって当たり前のものになっています。当然音楽の聴き方も変ってきます。

名ピアニストのグレン・グールドが録音セッション休憩中にスタッフにこんなことを言ったそうです。「君たちは僕のピアノをとっても響き豊かに美しく録ってくれるのは有難いのだけれど、できればシュナーベルみたいな音で録って れないかなあ。」 これを聞いたスタッフは「それならレコード掛けて・別の部屋で電話を通して音楽を聴いてくれれば良いんだよ」とおおいにボヤいたそうです。面白いエピソードで あります。

シュナーベルはSP初期のピアノの巨匠で・グールドは少年時代からその録音を愛聴していました。SP録音のピアノの音は針音が多くて・響きが乏しく・潤いがなく・硬い響きです。実際のシュナーベルはそんなものではなかったと思いますが、当時のSP録音の技術では記録できる音響のレンジは残念ながら非常に狭かったのです。ですから我々が現在録音で聴くことができるシュナーベルは 多分真実とは違うでしょう。しかし、一方で貧弱な響きではあっても聴き手に伝わってくる「これがシュナーベルだ」というイメージも確かにあるのです。何が聴き手にそう感じさせるのか・という事がここで問題になってくると思います。 グールドが夢みたのはそういう響きであったのかも知れません。

グールドにはもうひとつ面白いエピソードがあります。若きグールドが自宅で新しいレパートリーを練習していて・どう弾くか四苦八苦していたその時に、グールドの脇で突然掃除機の音が鳴り響いたそうです。

『ちょうどその時家政婦と険悪な状態で・彼女の嫌がらせでした。きちんと聴こえなくなったのです。ところが自分の演奏が感じ取れる。つまり、触感によってフーガが立ち現れたのです。指の位置で分かると言うか・あるいはシャワーを浴びながら首を振って水が両耳から飛び出す時に得られるような響きにも似ていました。こんなに心躍ることはほかに想像できません。輝くばかりに美しい響きでした。まさに翔び立ったのです。』(ジェフリー・ペイザント:「グレン・グールド、音楽、精神」・音楽之友社)

その後のグールドはこの経験を利用して、練習に行き詰まるとテレビを2台持ち出してきて・放送してないチャンネルを選んで、ホワイト・ノイズを大音量で鳴らし、大騒音のなかでピアノの練習をするということをしばしばしたそうです。このことは奇行に 思えるでしょうが、優れたピアニストというのは初見で楽譜を見ても音楽が分かる・その時に指遣いまでイメージできるものです。ところがその頭のなかの指遣いを鍵盤上で自分の指がその通りに再現できるか・ということが現実の問題になってきます。そこで大理石を敵だと見なしたというミケランジェロの話に返りますが、イメージしたように反応しない自分の指が・鍵盤が・ピアノが障害に思えてくるわけです。

グールドが「人生最高の瞬間」と言った・その出来事は、イメージした通りにまだ動いていない音楽(それは自分の指が弾いているものです)が自分の耳にどんどん入って来る。それが自分の頭のなかにある大事なイメージを壊してしまうのです。そのイメージはちょっと触れると形が変ってしまいそうなほどにデリケートなものです。イメージを強固なものにしていかねばならない大事な段階で・自分の弾いているピアノの音がそれを自ら壊しているようにグールドには思えるのです。掃除機の騒音は無機的な意味を持たない騒音であるが故にグールドの頭のなかの大事なイメージをまったく壊しません。むしろここでは自分の弾いているピアノの音をかき消してくれるが故にグールドを守ってくれます。だからグールドは自分の頭のなかのピュアな「在るべきイメージ」を掴み取ることが出来たということなので しょう。

(H20・5・9)


○鉛筆指揮のすすめ・その2

『私が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。このことは肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない。では、どちらでもあり・どちらでもないとすれば、どうなるのか。弓と矢と的とおのれのずべてが融けあうと、もはやこれらを分離することは出来ない。そして、分離しようとする欲求すらなくなる。だから、私が弓を構えると、すべての事柄がクリアで、面白いほどシンプルになる。』(オイゲン・へリゲル:「「弓道における禅の精神」)

これはカラヤンが指揮の極意を語る時によく引き合いに出した文章です。同じことは実は鉛筆指揮の場合にも言えます。鉛筆指揮の場合は音楽に合わせて指揮の真似をしているだけですが 、自分は音楽に合わせて振っているのか・自分の振りに合わせて音楽が鳴っているのか・そこの境目はあるようでないのです。大事なことは音楽と自分が一体になって鳴っているという感覚です。このことが非常に重要です。指揮の本質というのは他人を操ることではなく・そこに在るべきイメージを感知することです。

このことが分かるとオケが同じ曲を違う指揮者で演奏する場合にも・まったく異なった解釈に驚くほど容易に順応できる理由がおぼろげに理解できます。名指揮者ジョージ・セルはクリーヴランド管弦楽団の音楽監督で・このコンビはプロコフィエフの交響曲第5番をとても得意にしていました。セルはカラヤンが クリーヴランド管を振ることになった時・自分のオケがどれほどこの曲を深く理解し演奏できるかカラヤンを驚かせることが出来るとひそかに楽しみにしていたそうです。ところがリハーサルが始まった途端に自分のオケがカラヤンの解釈にいともやすやすと順応して・響きが変化していくことに、セルはとてもショックを受けたと後でカラヤンに語ったそうです。

よほど極端な解釈でない限り・オケが指揮者の要求するテンポに反応できずに・演奏がギクシャクするというような事態は起きません。極端なルバート・アッチェレランドはそれがどれほど即興的な・新鮮な表現に聴こえたとしても・実はオケとの入念なリハーサルの結果なのであって、逆に言えば本当は綿密に意図されたものであることも分かります。

このことは鉛筆指揮でも同じです。最初に振り出したテンポとフレージングで音楽の流れは大体きまりますから・演奏が変わったとしても「そこに在るべきイメージ」が掴めれば、それに合わせて振ることは難しいことではありません。最初の振り出しで・次はここはこう振り出すべきというイメージは明確に見えてきます。これは実に不思議なことですが、確かなことです。

ここでは鉛筆指揮の例を挙げましたが、身体を動かすかどうかの違いで・座って静かに音楽を聴く場合でもこれはまったく同じです。音楽を聴くという行為においては・演奏からイメージを直接受け取っているわけでは ありません。物理的には単なる空気振動に過ぎない音響から何かのイメージを脳内に自ら生み出すという行為を行なっているのです。ですから純音楽的な意味においては「演奏する」と「聴く」には可逆性があるということになります。

(H20・5・4)


○鉛筆指揮のすすめ

今でもそう言うかは知りませんが、昔は男が一度はしてみたい職業はプロ野球の監督とオーケストラの指揮者だとか言われたものです。マスコミがそう言う時の指揮者のイメージは間違いなくカラヤンです。カラヤンは「帝王」などと呼ばれていましたから、指揮者というと集団の上に立つリーダー・自分の意志のままに集団を操る 権力者みたいなイメージがあると思います。しかし、これはトンでもない誤解です。

あまり人様(ひとさま)に見せられない癖ですが・音楽を聴く時に興奮すると思わず鉛筆でも手にして指揮者の真似をしてしまう音楽ファンは少なくないはずです。かく言う吉之助もそのひとりです。オーケストラを指揮してみたいなどと言うと、人を操りたいという権力願望・あるいはナルシスト趣味があるなどと深層心理をご託宣なさる方がいますが、失礼ながら・そういうことを言う方は音楽を あまりお分かりでない方だと思いますねえ。音楽に合わせて・鉛筆を振ってみれば・その面白さはすぐ分かることだと思います。

まずCDを聴きながら鉛筆をリズムに合わせて振ってみます。まあそれだけなら・ディスコでリズムに合わせて踊っているのとたいして変わりませんが、基本はそこです。まずは音楽の流れに虚心に身を任せることです。しかし、ディスコの踊りでも曲が分かって踊るならば・次元は全然違って くるはずです。ジャンルは違いますが、菊五郎の芸談集「をどり」のなかで踊り手の至福の瞬間について菊五郎は次のように語っています。

「だから何度やっても、やはりその度に何だか夢中で雲の上でも歩いているように思うことが時どきありますよ。こういう振りはこういう形だなんて勿論、思ったこともないのです。ただひとりでに踊れてくるんだ。あの三味線は舞台で数十回、数百回聞いているけれど『聞いたことのない三味線だな。なんの三味線だろう。そういえばこの踊りもはじめてだな。』とそんな気持ちでただ夢中で踊る、それが僕は楽しいんだ。そこまで行ってはじめて本当の踊りが踊れるのじゃないかな、気狂じみているけれども。唄も三味線も何にも分からずにパッと舞台に出て、やりたい放題に勝手に踊る、それでいてちゃんと間にも拍子にも合っている。それが本当の踊りじゃないかしら。」(六代目菊五郎:芸談「をどり」)

「やりたい放題に勝手に踊る・それでいてちゃんと間にも拍子にも合っている」・そのような時は、自分の身体から音楽が出ている・あるいは鳴り物を自分で操っているような感覚になるものです。これは鉛筆指揮でも同じです。例えば曲がゆっくりとクレッシェンドする場面で右手をぐっと前に差し出し・そしてゆっくりと腕を上げていきます。それで音楽が少しづつ高まっていくと 脳内でアドレナリンが放出されていくのを感じますねえ。あるいは左手を横にかざして・ちょっと手のひらを柔らかく返してみせる。それで第一ヴァイオリンの節回しに微妙なニュアンスが付くような気がします。それがイメージ通りのものであるとその心地良さは何とも言えませんねえ。音楽を聴きながら鉛筆持って振るのは確かに疑似体験ではありますが、実際にオケを前にして指揮棒を持って振るのと本質的なところで何の変わりもないのです。音楽創造の過程を追体験する感覚になります。 ただし鉛筆指揮でなければそういう感覚にならないというのではありません。指揮の真似をしていると・吉之助の場合は身体に音楽が入り易いのです。

鉛筆持って振る疑似体験と違って・現実の指揮は生身の人間集団であるオケを相手にしますから実務的な側面においてはもちろん全然違います。リハーサルで指揮者がどういう風に演奏を作っていくかというのは舞台裏を知る意味でも極めて面白いものです。しかし、そういうことは実は音楽イメージそのものに直接的に関係ない実務的な部分です。純音楽的な面から見れば誰でもその人なりのイメージというものを持ってい るはずです。もちろんプロはそのイメージを設計図のように明確にもっており・その研ぎ澄まし具合に格段の差がある(そこがプロのプロたるところ)のですが、純音楽的なイメージというのは誰にでもあるものです。ですから「音楽する」という意味において「演奏する」と「聴く」には可逆性があると吉之助は思います。実は我々は音楽を聴くという行為のなかで・単に演奏を聴いているのではなく・音楽するという行為を 頭のなかで演奏者と一緒に行なっているわけです。これはすべての芸術鑑賞行為において言えることです。

実は指揮者と同じ動きを真似て・素人が鉛筆指揮で振るのはかなり大変です。吉之助は勘所だけの鉛筆指揮です(そんな一曲振り通す体力はありません)が、アインザッツのきっかけを間違えたって誰にも分かることではないので・そ ういうことは別にどうでも良いのです。しかし、呼吸の仕方は非常に大事です。テンポの速い・リズムの刻みが強い箇所でバンバンと棒を振って・同じリズムでハッハッハッとやっている と(曲自体はそういう息を要求しているということなのですが)・振っていて息が持ちません。こういう場合は棒の刻むリズムから離れて・まったく違うゆっくりしたリズムで呼吸を深く保つのです。また同様に緊張感あるピアニシモが非常に長く続く場合は息を詰めたままでは呼吸困難になってしまいます。こういう場面も意識を音楽から話して・呼吸を楽にとって深く息をする必要があります。これは吉之助が鉛筆振っていてひっくり返りそうになった経験から学んだものです。指揮というのは音楽に没入して無我の境地にいるように見えますが・実は対象を突き放した醒めた面が必要なのです。そのバランスがとても重要になります。

(H20・5・1)


○指揮の不思議

指揮者とオーケストラというのは実に不思議な関係です。指揮者というのは自分で音を出さないくせに一番偉そうな感じであり、演奏会でまっさきに拍手を浴びるのは必ず指揮者です。しかし、なぜ指揮者が必要なのかを説明するのはなかなか難しいことです。

吉之助は指揮者とオーケストラの関係は「こっくりさん」みたいなところがあると思っています。指揮者がオーケストラに対して「こうあるべき」というようなイメージを提示していることは確かです。 しかし、指揮者の指示を受けてオーケストラは必ずしもその通りに動くわけではありません。人柄が良くて楽団員に好かれている指揮者だから良い演奏になるというものでもありません。集団のなかから生み出される 大きな意志みたいなものがあって、それが指揮者の介在によって・もっと高次の導きのなかで動かされるのです。ですからオケにとって指揮者は必ずしも必要条件ではない(指揮者なしでも優秀なオケならとりあえず演奏はできる)のですが 、指揮者なしでは十全な演奏はできないのです。

1977年11月15日に東京で行なわれたカラヤンとベルリン・フィルの演奏会のことを思い出します。吉之助の席は一階の前から5列目くらいのちょっと右側あたりで・カラヤンの指揮がよく見えました。曲はべートーヴェン:交響曲第7番でしたが、曲が開始されてすぐにオーボエが音をひっくり返したのです。吉之助はビックリしましたが、実はオーボエというのは とても繊細な楽器で・このようなアクシデントがしばしばあるのです。曲が始まって30秒もたっていなかったので・吉之助はカラヤンがオケを止めるかと思って・息を詰めてカラヤンを見ていましたが、カラヤンは指揮棒を止めませんでした。まるでオーボエのアクシデントが耳に入ってない如く・カラヤン の指揮棒は眼を閉じたまま・正確にリズムを刻んでいました。そのうちにオケは立ち直って・終楽章は見事なものになりました。

ところで当日の演奏会は放送録音が残っており・吉之助は25年ぶりくらいで久しぶりにこの演奏を耳にしました。この録音を聴くと、オーボエの音がひっくり返った瞬間にオケ全体(この場面であると弦セクション全体)が一瞬 ブンッと揺れるのです。オーボエ奏者は頭のなかが真っ白になっていて・自分がどこを吹いているのか分からなくなっています。オケ全体が方向を見失っているオーボエの音を支えようとするかの如く にオケの響きがオーボエを包み込み、「こちらだ、こちらだ」とオーボエの音を導くように、まさにひとつの生命体であるかのように・あるべき音・あるべきリズムの方向へ向かってオケ全体が態勢を立て直していきます。そしてオーボエが正しい位置に納まると・何事もなかったかのようにオケは音楽を続けていきます。 それはほんの一瞬の出来事です。この時吉之助の脳裏に・身体をピクリともさせずに・正確にリズムを刻んでいたカラヤンの姿がありありと蘇りました。「これはもの凄いオケだ・・」と吉之助は心底驚嘆しました。これはほとんど自律修正機能とでも言うべき能力なのです。当日の吉之助はオーボエの音がひっくり返ってビックリしていたので・ こういうことに気が付かなかったのです。25年ぶりに録音を聴き直してこのことを痛感しました。

カラヤンが確信を以って・タクトを振り続けたことがこの現象を引き起こしたことはもちろん事実ですが、これはオケ全員が耳を澄ませて・互いの音をよく聴き合っているから起こる魔術でもあります。現場に居合わせた吉之助 の記憶ではカラヤンはまったく何もしませんでした。ただ正確にタクトを振り続けただけのことです。オケは自分で態勢を立て直したのです。しかし、やはりカラヤンが何もしなかったことに秘密があるのかも知れません。カラヤンがアクシデントに反応して・眉をほんのちょっとピクリとでもさせていれば・結果は全然違っていたと思います。

(H20・4・26)


○イメージとの格闘

夏目漱石の「夢十夜」の第6夜は、運慶が仁王像を彫っているのを夢に見るという話です。

『「・・よくああ無造作に鑿を使って、思うようなや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にっているのを、の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出したそれで急に自分も仁王がってみたくなったから見物をやめてさっそくへ帰った。道具箱から金槌を持ち出して、(中略)一番大きい薪を選んで、勢いよくり始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪をから彫って見たが、どれもこれも仁王をしているのはなかった。』(夏目漱石:「夢十夜」・第6夜)

この話はとても興味深いと思います。若い男が「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない・あの通りの眉や鼻が木の中にっているのをの力で掘り出すまでだ」と言ったことです。これはある意味で正しい洞察であると吉之助は思います。すなわち運慶は自分の頭のなかにある仁王のイメージを材料である木に投影して・そのイメージを追いながら・鑿を使っているということです。巧く思ったような彫刻が彫れない ならば、自分の頭のなかのイメージが十分に研ぎ済まされていないか・あるいはそれを表現できるだけの技量がまだ自分に備わっていないかのどちらかです。

ミケランジェロは大理石を・自分の芸術的意志に逆らう敵だと見なしていたということです。この話を聞いてミケランジェロが「俺の鑿で大理石という敵を征服してやるんだ」と考えていたと思うなら・それは大間違いです。ミケランジェロはそんな傲慢な人物ではありません。もし自分のイメージ通りの彫刻が掘れなかった時、ミケランジェロは「糞っ、いまいましい腕め、この腕を切り落としてやりたい」と自らに叫んだかも知れません。芸術家は頭のなかにある素晴らしいイメージを・形のあるものにしようと奮闘していますが、それは実はとても困難な仕事です。いろんな障害が付きまといます。事がうまく行かない時には・ 大理石も・道具も・ あるいは自分の腕さえも・自分のイメージの実現を阻む悪意を持った障害に見えてくるものです。まさに芸術活動は素材との格闘です。しかし、その仕事が見事になされた時には、それはまるでミケランジェロがこともなげに大理石から像を掘り出したように見えることでしょう。

これは文筆でも言えることで・吉之助の場合でもある程度イメージの当りをつけて文章を書き出すわけですが、そこまで出掛かっているイメージがなかなか形をなさないで苦しむということはよくあることです。結論はおぼろげに見えているのに・ その途中の論理が不十分で展開がうまく図れない・それで原稿がお蔵になってしまうことがあります。そう言うときはペンが・紙が(あるいはキーボードが)障害に感じられるものです。それと自分の頭ですね。調子の良い時は指先から文章が出るように感じられるものですが。

ですから・ミケランジェロが「大理石は敵だ」と見なしていたという話も、これは自然を如何に手なづけるか・つまり自然と人間の意志との対立であり・これはいかにも西洋人らしい二元論思考である云々・なんてことを言い出す人が 必ずいるので・言っておきたいのですが、そういう方は創造活動がどういう過程で生じるのか・その秘密をお分かりではないのです。自分の頭のなかのイメージを思うように表現できないもどかしさ・いらだちを、ミケランジェロは大理石に対して「お前は敵だ」と・八つ当たり気味にぶつけてみたに過ぎないのです。その点でミケランジェロはあけすけなほどに真正直です。

指揮者カラヤンがベルリン・フィルとのリハーサルで・どうしても思うような響きをオケから引き出せずに・苛立って「今の私の気持ちを言えば、君たちを全員縛り付けてガソリンをかけて火をつけてやりたい」と口走ったそうです。一瞬その場は凍りついたようになりましたが、しばらくして団員のひとりが「そんなことをしたら、もうあなたは私達とはやれませんよ」と言いました。「・・・そうか、それを忘れていた。」

この話をオーケストラの上に君臨し・彼らを押さえつけ・自分の意志に従わせようとする権力者のエピソードだと読んではなりません。「 君たちを全員縛り付けてガソリンをかけて火をつけてやりたい」というカラヤンの発言もミケランジェロの「大理石は敵だ」発言と同じようなものです。団員は「私たちはあなたの身体の一部ですよ。自分の身体を失ってあなたは音楽が出来るんですか。」と言ったのです。「・・・そうか、それを忘れていた。」このエピソードはカラヤンとベルリン・フィルの ・単なる信頼関係という以上のものを示しています。それは彼らが創造活動のなかで一体と化していたことを示 しているのです。

(H20・4・21)


○「七段目」の虚と実・その8:「やつし」の本質

「七段目」がとても興味深いのは、時代物のなかでも「七段目」には特異な要素があることです。一般的に時代物は武士を中心とした歴史物であり、庶民を主人公とし・市井の生活を描く世話物と対立するものであるとされます。個人の本音・心情というものは・時代物のなかの実(じつ)の要素になります。この図式で読めば時代物において主人公に忠義・犠牲の行動を強いる封建社会の非人間的論理とは、主人公の実を脅かすもの・つまり虚ということになります。ふつうの時代物においてはこうした虚と実の対立図式は概ね正しいと言えます。例えば「六段目」を見れば与市兵衛一家の生活のなかに実があり・まことの人間の感情があります。そこに仇討ちという封建社会の論理(虚)が無理やり入り込んでくることでドラマが展開することになります。

ところが「七段目」の場合はこの図式が捻じれています。それは「七段目」での由良助の実(つまり本音)が仇討ちにあるからです。由良助は実(仇討ちの意図)を隠すために・遊蕩放埓の虚を着るのです。ですからふつうの図式では封建社会の論理(虚)の方が恐い顔をしており・観客はそこにドス黒い非人間的な要素を見るのですが、「七段目」の由良助の場合はそれが逆になっています。茶屋での遊蕩放埓の虚はいかにもにこやかで愛想良い顔をしており、逆に由良助の本音の実(じつ)の要素がギラギラとした殺意と敵意を含んだ非人間的な要素となるのです。

これはラカンの心理学用語で言うと「転移」と呼ばれる現象です。つまり、由良助は仇討ちという非人間的状況に生きているので・そのような自らの存在を憎しみの鬼にする(非人間的なものにする)ことで 由良助は自らが置かれた異常な状況に適応するのです。「七段目」の由良助の「やつし」の芸に見られるものはそういう状況です。また歌舞伎の「やつし」の芸の本質がそこにあるのです。同様に「九段目・山科閑居」での由良助もそのような視点で読 む必要があります。(「やつし」については別稿「吉之助流・仇討ち論:今日の檻縷は明日の錦」をご参照ください。「九段目」については 別の機会に考察をする予定です。)

一方、「七段目」での平右衛門とお軽の兄妹の場合の実(じつ)とは勘平の死・与市兵衛の死を見据えることです。それは厳しい現実ですが、彼らの生活・感情にしっかり根ざしているものです。ですから芝居の実の要素として齟齬はありません。平右衛門とお軽の兄妹の存在はこの「七段目」においては実であると言えます。しかし、「七段目」での兄妹の会話は祇園一力茶屋という遊郭の虚の空間の捻じれによって、本音をしゃべろうとして食い違い・すれ違い、悲しいことをしゃべろうとしても・可笑しくなり、しんみりしようとしても・ドタバタになってしま います。そこに歪んだ要素があり、別稿「誠から出た・みんな嘘」において触れた通り、仁左衛門(平右衛門)と玉三郎(お軽)のコンビはこのことを見事に舞台上に見せてくれました。

ですから平右衛門とお軽の兄妹の実の要素を歪ませる強い力を持つものが別に存在するのです。歪んだ遊郭の虚の空間の中心に存在し・周囲の空間を歪ませる強力な力を持つものが「七段目」の中心に存在するのです。そのようなブラック・ホール的な存在が由良助であったわけです。そのことを明瞭に示すのが由良助が九太夫を打ち据える「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」という台詞です。幸四郎の由良助はこのことを明瞭に視覚化して見せてくれました。

この乖離した存在である由良助を表現するために、竹田出雲は歌舞伎の「やつし」の芸・宗十郎の大岸宮内の芸を必要としたわけです。そのような乖離した空間を表現するために竹田出雲は「七段目」を わざわざ掛け合い場としたのです。このことが分かれば「七段目」を歌舞伎化する時には・歌舞伎に「移す」というより・どこかに「戻す」という感覚が必要であり、音曲の縛りを解体する方向に・つまり本行のツボをはずす方向に演技ベクトルを振り向けた方が歌舞伎の「七段目」はうまく行くということが理解されると思います。

(H20・4・19)


○「七段目」の虚と実・その7:荒事風の台詞回し

お軽は結局救われることになりますが、罪もないお軽を殺すことに対して由良助が同情の念・罪の慄きを感じているらしいことは本文にも確かに描かれています。それでは由良助は九太夫に対してはどう感じているのでしょうか。九太夫は加茂川で平右衛門に殺されることになります。九太夫は裏切り者であり・仇である師直方に加担する者です。由良助が九太夫を殺すことに何の罪の意識もあるはずがないと考えるなら、それはちょっと違うと思います。九太夫が憎いことは確かだとしても・人間を情け容赦なく切り捨てて良いはずがありません。このことは幕切れで九太夫を打ち据えて「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」で始まる長台詞で分かります。この台詞にも「主君の仇討ちを遂行するために私は鬼になるのだ」という叫びが感じられるからです。ここでの由良助も倒錯しているのです。(このことは「七段目」の由良助だけのことではありません。「九段目」・すなわち加古川本蔵に対する由良助についても 同じことが言えます。本蔵に対して由良助は憎い心はないのですが、主人判官が「本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と由良助に言ったことが由良助の全身を縛っているのです。)

本稿冒頭に書いた通り、虚飾で固めて・純粋的に楽しい社交を愉しむのが遊郭のルールなのであり、そのような場所で・このような仇討ちの大望を叫ぶことはあってはならない・恐ろしいことなのです。そのことを承知で由良助はわざとルール違反をやってい ます。そして茶屋の者たちが来ると・サッと表情を変えて・「喰らい酔うらるその客に、加茂川で、ナ・・・」と 笑顔で平然として殺害を指示します。本人も自覚している・この二面性の恐ろしさを描いてこそ歌舞伎の由良助になると思います。

「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」という由良助の台詞は本行と同じような調子でこの台詞を言うと歌舞伎の場合は印象が重くなってしまって・歌舞伎の由良助の面白さがいまひとつ出てきません。別稿「誠から出た・みんな嘘」で吉右衛門の由良助のこの台詞が重く感じられると書いた理由はそこにあります。吉右衛門の台詞は義太夫の息に近いもので・それだけを聞けば確かに悪くはないものです。しかし、吉右衛門の台詞には九太夫を地面に擦り付けるようなリズムの揺れがなく・また甲(かん)の声が使えていないので歌舞伎らしい由良助の台詞にはなっていません。歌舞伎の場合の由良助は「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」は「獅子身中の虫とは・・」までを早めのテンポでに急き立て、「おのれがこと」を一転してテンポを遅く 粘らせて・高調子で張り上げるという風に、テンポを早めたり遅くしたり・音色を低くしたり高くしたり、台詞をグイグイ揺らしていかないと歌舞伎の由良助の台詞の面白さは出ないのです。ここでは荒事の発声法を積極的に利用して・思い切って本行から離れる必要があります。そうやって乖離した感覚を出すことで由良助の台詞がぐっと歌舞伎らしくなってきます。

この場面の由良助の台詞を荒事風の味付けにすることは意味があることです。「四段目」において主人判官から「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」と由良助は命令を受けており、主君の怨念を胸に・ 否応なしに「生きた御霊」とならざるを得なかったのです。ここに由良助の乖離した・倒錯した実体が現れているわけです。言うまでもなく・これは「忠臣蔵」の歌舞伎的な理解であって・本行の解釈と必ずしも一致はしません。しかし、語り物的な要素を解体する表現ベクトルを内在した「七段目」において、この荒事的解釈は「七段目」を歌舞伎に「戻す」という点で大きな意味を持つのです。

この場面の台詞がとても巧いと吉之助が思ったのは初代白鸚の由良助でした。これは緩急の押し引きがとても巧いダイナミックな台詞廻でした。また・これは映像でしか知りませんが、十一代目団十郎の由良助はさらに荒事味が加わった力強さがあって、これもとても良いものです。どちらも映像が残っていますから、機会があれば是非見てください。当代・幸四郎の由良助のこの場面の台詞廻しは父・初代白鸚の 台詞回しの特徴をよく取っています。例えば「五体も一度に悩乱なし、四十四の骨々も砕くるようにあったわやい」での・「あった」の部分で一気に高く張り上げる甲の声の立ち上がりの鋭さなどハッとするほど見事なもので、この場面での台詞だけでも最高の由良助と言って良いものです。 (この稿つづく)

(H20・4・15)


○「七段目」の虚と実・その6:倒錯する由良助

同様に・幸四郎の由良助で興味深いのは「あの嬉しそうな顔やいわい」の箇所です。この場面の由良助は 「・・この由良助に請け出されるが、それほどまでに嬉しいか」をちょっと憂いを入れて言い、無邪気に喜んでいるお軽を見て「・・あの嬉しそうな顔やいわい」で思い入れあって・扇を開き・顔をそむけて決まります。由良助にはお軽が憎いという心はまったくないのですが、手紙を見てしまった以上は・仇討ちの企てを隠すために・ 不憫ではあるがお軽には死んでもらわねばならないということです。由良助には「可哀相に・・」という気持ちがあるので・「・・この由良助に請け出されるが、それほどまでに嬉しいか」を ちょっと低く憂い声で言って、「・・顔やいわい」で一転サラッと流す・その演技の息の変えようが由良助の型の面白さということです。

この場面での幸四郎の演技はとても考えさせるものです。幸四郎の由良助は「・・この由良助に請け出されるが・それほどまでに嬉しいか」の部分に泣きが強く入っており、これは「檀特山」で熊谷直実が息子小次郎を斬る場面のような切羽詰った感じに似て、確かに感情移入をもう少し抑えた方がいいかなという気もします。しかし、役者幸四郎はこういうところに人間としての真(まこと)があるので、吉之助はこれはこれで良いと思います。「非人間的な行為をしなければならない ことに自分はどれほど苦しんでいることか」という状況に倒錯するのが幸四郎の由良助なのです。これはバロック的な歌舞伎の見方として・正しい解釈のひとつだと感じます。

ハンナ・アーレントは著書「エルサレムのアイヒマン」のなかで、次のようなことを書いています。ナチスの死刑執行人たちは普通の市民であり・決して悪人だったわけではありません。彼らは自分たちの行為が犠牲者に与えた苦痛と死をはっきり自覚していました。それでは・その恐ろしい行為に耐えるために・彼らはどういう心理回路でこれを切り抜けたかということです。

『自分は人々に対して何と恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだ--自分は職務遂行の過程で何と恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務は何と重く私にのしかかってきたことか!』(ハンナ・アーレント:「エルサレムのアイヒマン」)

これは彼らが言い逃れをしているのではありません。彼らは他人に苦痛を与えるという重荷を引き受けることでその職務にかろうじて耐えるのです。そうでなければ真人間はこのような異常な状況に耐えられないのです。この倒錯感覚によって彼らは引き裂かれてい ます。幸四郎の演じる直実も松王も・由良助もそのような人物なのです。この場面の由良助は「何の罪もないお軽を殺すことで、私はどれほどの苦しみを味あわねばならないのか。主君の仇討ちを遂行することで ・私はこれからどれだけの罪を犯さねばならないのか。」ともがき苦しむことで耐えるのです。これが「あの嬉しそうな顔やいわい」の場面の由良助の姿です。幸四郎の由良助ほどその引き裂かれた状況を視覚的にはっきりと見せてくれる由良助はありません。 (この稿つづく)

(H20・4・11)


○「七段目」の虚と実・その5:乖離した感覚

別稿「クリティカルな黙阿弥のために」で幸四郎演じる魚屋宗五郎について論じました。そのなかで幸四郎の宗五郎の演技は「型の手順・約束を忠実に守り・そこに写実の表現を入れようとして、結果的にその手順がフォルムに落ち着くのではなく・技巧として浮き上がるという非常に興味深い現象を呈している」と書きました。幸四郎の見得はその形を見せるためだけに段取りされているように見えることがあります。写実の動きがそこで中断されて「ハイ、お約束のポーズ」という感じで・動きに連続性がなくバラバラに見えることがあります。幸四郎のこういうやり方はいわゆる「通」と呼ばれる方に評判がよろしくないようです。しかし、吉之助は幸四郎のやり方に批判的ではありません。幸四郎の演技には時代と世話の裂け目が明確に見えるからです。このような乖離した感覚は歌舞伎のバロック な表現にとって非常に大事なことです。先人の手順をその通りなぞってさえいれば一定の評価が得られる歌舞伎の世界でこうした演技ができるというのは実は凄いことなのです。確かにもう少し工夫が必要かなと思うところもなくはないですが、無理にこれを直すと・逆に幸四郎の良さが失われてしまいかねないので難しいところです。

平成20年2月歌舞伎座・「七段目」での幸四郎の由良助ですが、虚と実の相克が見えるとても優れた由良助です。例えば「ようまあ風に吹かれていやったのう」の場面です。由良助の嘘と本音の交錯した段取りの意味が幸四郎の演技に明確に現れます。人によってはそれを説明的とか心理主義的と評するかも知れません。確かにこの場面の幸四郎の演技は説明的で段取り然としています。縁下から伸びてくる手を見て・ハッとする仕草を見せて、次は屋台端からツツツ・・と中央へ移動して・ぺタッリと床に座って「ようまあ風に吹かれていやったのう」という段取りは「ハイお約束のポーズ」のように見えます。その演技が段取り然として・わざとらし く感じるかも知れません。

しかし、この由良助の仕草(型)はお軽が二階から自分の挙動を不思議そうに見ているので・それを誤魔化すためにわざと酔っ払った振りをしてよろけて見せているのです。由良助はホントに酔っているのではないからです。浮かれた気分で笑っているのでもないのです。これはわざとよろけているんですということを明確に見せることは由良助として必要な演技です。この場面を如何にも遊里気分でゆったりと柔らかく見せねばならぬというの は・もちろん間違いとは言えませんが、まあ言ってみればそれは由良助の第一段階なのです。そうしていれば確かにとりあえず由良助には見えます。しかし、さらに高次の芸を目指すならば・その浮かれた気分の背後にギラリとした刃を感じさせたいのです。この場面の由良助は引き裂かれているからです。

「ようまあ風に吹かれていやったのう」と笑いながら・由良助が考えていることは・お軽と縁下に潜む者(九太夫)を茶屋の者たちに知られずにどう始末するかです。由良助はお軽に二階から梯子で降りて来いと言いますが、それは階段を下りて回ってくれば・お軽が由良助のところへ行ったことを茶屋の者に知られる危険があるからです。お軽がどこへ消えたか・誰も分からないように始末せねばなりません。由良助は恐るべき人物なのです。顔は笑っているようでも・眼は決して笑ってはいない。その笑顔の背後に漆黒の闇が見えます。歌舞伎はバロックの・その乖離した演技様式によって・それが表現できる演劇です。残念ながら文楽ではその表現に限界があります。それは文楽を貶めているわけではなくて・古典的様式のなかにしっかり納めるのが文楽の本質であるからです。文楽とはそういう芸能なのです。しかし、竹田出雲は宗十郎の宮内の舞台を見ながら・きっと引き裂かれた由良助を夢見たと思います。だから出雲は「七段目」を掛け合い場にしたのです。

ですから「ようまあ風に吹かれていやったのう」の件での由良助は虚と実の狭間で乖離しており、その手順が段取り然としてバラバラに見えることはむしろ望ましいと言うべきなのです。もちろん完全に分解してしまっては芝居にはなりませんが、乖離した要素をどういう形でひとつにまとめるかです。その意味で幸四郎の由良助のこの場面の演技は非常に興味深いものだと思います。 (この稿つづく)

(H20・4・8)


○「七段目」の虚と実・その4:ギラリとした殺意

歌舞伎の「七代目」の由良助は実事をベースに処理した方がよいということをさらに考えます。「七段目」の由良助はモドリではないからです。放埓三昧で「由良助は仇討ちの志を捨てた情けない奴だ」と観客さえも怒らせて・芝居の最後になって実はそれは嘘でした・由良助は仇討ちの大望を捨ててはいなかったのですというサプライズの構造に「七段目」はなっていないのです。確かに「七段目」のなかの登場人物・例えば三人侍や平右衛門にとってはサプライズかも知れませんが、観客にとっては全然サプライズではないのです。むしろ力弥から手紙を受け取る場面、蛸肴の件で踊りながら・九太夫を睨みつけ「おのれ・・」と つぶやく場面など由良助が仇討ちの本心を見せる場面が少なくありません。

例えば由良助が御台所からの手紙を読み・それをお軽に見られたことを知って・「・・ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って床にペッタリ座る場面は歌舞伎の由良助の為所ですが、ここはどういう場面でしょうか。まず由良助は御台所からの大事の手紙を読むために・周囲に誰もいないことを慎重に確認します。さらに誰かに見られても・それが愛人からの手紙でも読んでいるかのように装うために・柔らかい雰囲気を出して手紙を読みます。その雰囲気にお軽も騙されて・手鏡でそれを盗み見てやろうという遊び心を起こすのです。簪の落ちる音を聞いて・由良助はギクリとしますが、なおも平静を装います。まずここで手紙を見たのがお軽であったことを 冷静に確認します。お軽とのやりとりの最中に・手紙が千切れていることに気付いて・由良助はまたギクリとしますが、紙を落として・縁下に誰か隠れていることを確認して・これで手紙を見た者が二名いたことを知ります。

歌舞伎の由良助が「ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って床にペッタリ座る仕草(型)の意味ですが、由良助は縁下に紙を落として・何者かが潜んでいることを確認し ますが・由良助の一連の挙動を二階のお軽が不思議そうな顔で見ているのに気が付いて・「ようまあ風に吹かれていやったのう」と言って誤魔化して・酒に酔ったふりをして床にペッタリ座ってわざとおどけて見せるのです。文楽の人形の由良助は歌舞伎のような仕草をしません。由良助は立ったまま・すぐに「・・いやお軽、ちとそもじに話したいことがあるが・・・」と台詞が続きますから、この台詞はあくまで遊里の柔らかい雰囲気を出すためのものと解釈 して良いと思います。しかし、歌舞伎の由良助ではそうではないのです。歌舞伎の一連の手順ではそこに由良助の嘘と実が交錯して・クルクルと変転して・そこに引き裂かれた要素がはっきりと見えて、これは実によく練られたものだと思います。

こうした場面で「(お軽は)ようまあ風に吹かれていやったのう」という由良助の台詞はどういう意味を持つのでしょうか。それは「これで手紙を読んだ奴は全部分かったぞ・二階のお軽と縁下に潜む者・・・生かしてはおけん」ということなのです。ニコッと笑った由良助の笑顔にギラリとした殺意が見えなければなりません。これは文楽の解釈としてはふさわしくないかも知れませんが、吉之助は歌舞伎の由良助の場合にはこの台詞をそう読む必要があると思うのです。 (この稿つづく)

(H20・4・4)


○「七段目」の虚と実・その3:実事の由良助

「七段目」の由良助のモデルとなった延享四年(一七四七)に京都・粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の茶屋場遊びでの初代宗十郎の大岸宮内はどんなものであったでしょうか。残念ながら「大矢数四十七本」の脚本は残っていません。しかし、宗十郎の宮内が和事のやつしの演技であったことは疑いありません。ここで和事芸の滑稽味や諧謔味は実はシリアスな真面目な実事と背中合わせに出てくるものであるという認識が役に立ちます。(詳細は別稿「和事芸の起源」をお読みください。 )

「廓文章」の伊左衛門の和事芸のシリアスな要素は「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞に出てきます。そこに大阪商人の意気地が出ているのです。こういうことは三枚目との兼ね合いがとても難しいですし・舞台では伊左衛門の阿呆ボンぶりばかり目に付く かも知れませんが、伊左衛門とてもこの通りシリアスな要素を持っているのです。まして仇討ちの大望を胸に秘めて茶屋に遊ぶ由良助のやつしがそうでないはずがありません。ですから「七段目」の由良助のやつしのシリアスな実事の要素にもっと眼を向ける必要があります。

歌舞伎の由良助の名優の芸談を読むと「四段目の由良助より・七段目の由良助の方がはるかに難しい」ということが共通して言われていて、歌舞伎の「七段目」の由良助は確かに遊興三昧の柔らか味を主体に組み立てられてきたことが明らかです。 つまり、由良助の仇討ちは本心なのか・嘘なのか・それさえ見分けが付かない。柔らか味のどこに仇討ちの本心をチラリと見せるか・というのが歌舞伎の由良助の仕事であるとされてきた わけです。それも分からないことはないですが、吉之助は歌舞伎の由良助の演技ベクトルは逆でありたいと思います。つまり、その本心になるところのギラリとした刃(やいば)・仇討ちの大望を内に 秘め・いかに柔らかく嘘で隠してみせるかという演技ベクトルです。逆に言えば衣の裾から絶えず刃の光がチラチラせねばならない・これを由良助の仕事にしたいと思うのです。そうすれば由良助は実事をベースとした役となり・比較的処理しやすい役になるわけです。

近代の最も優れた由良助役者と言えば・九代目団十郎であることは疑いありません。団十郎の由良助は「勧進帳」の弁慶・「熊谷陣屋」の直実と並んで・明治の忠君愛国の思想を体現したものとして非常に重要なものでした。その団十郎も「四段目の由良助は兄貴(五代目彦三郎)に負けない自信があるが・七段目の由良助は兄貴にかなわない」と漏らしており・柔らか味の表出に苦労したようです。しかし、 団十郎と何度もお軽で共演した五代目歌右衛門の思い出話を読むと・団十郎の由良助はなかなか大したものだったと思います。歌右衛門は次のように証言しています。

『九代目(団十郎)はあんな謹厳な人でしたが舞台では始終私を笑わせようとしていました。「待っておいで、今天ぷらを持ってくる」などと突拍子なことを大声で言うので・ 私は可笑しくて仕方がなかったのですが、観客はそんな台詞を聞かされても九代目という人物に心服しているのか・ちっとも笑いませんでした』(五代目中村歌右衛門:「演芸画報」・昭和13年11月)

このことはとても大事なことです。観客は史実の大石内蔵助が見事仇討ちして大望を果たしたことをもちろん十分承知です。ですから観客は一力茶屋での団十郎演じる由良助の遊興三昧を、由良助が仇討ちの意志を強く持っており・敵を欺くため・ そのギラギラした本心を如何にやんわりと嘘事で隠し通すか・それが芸の見所であると思って舞台を見るのです。ですから団十郎が「今天ぷらを持ってくる」などとおどけてみても、観客の方は「そら由良助はお軽を(我々観客も)騙そうとしている」と思って・その演技の心理の綾を見ようとしますから・それがいかに巧くても笑わないわけです。それだけ団十郎の由良助が実事味の表出に長けていたということの証明になります。 (この稿つづく)

(H20・3・31)


○「七段目」の虚と実・その2:統一感の破壊

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」の「七段目」の項に「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という義太夫の口伝の話が出てきます。詳しくは本をお読みいただきたいですが、要するに・この口伝の示すところは、まず平右衛門は台詞を言ってから相手の反応を常にうかがうように ・決して言葉尻に息を抜いてはならぬということです。由良助については・ そこに由良助のお大尽然としたのんびりした遊郭の雰囲気と・仇討ちの大望を秘めた由良助の思慮が聞こえねばならぬので、間合いをはずして・相手の台詞にかぶるように言ってはならぬということです。

これだけだと「なるほど」で終わりかも知れませんが、吉之助にはどうも引っ掛かるところがあります。それならば出雲が「七段目」を掛け合い場にしたのは何故かということです。「台詞をかぶせる」ということはひとりの太夫で語る時には不可能なことで、本来これは掛け合い場のセールス・ポイントなのです。掛け合い場で「台詞をかぶせるな」というのは得意技を封じよということです。「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という口伝はそういうことです。それならば全部ひとりの太夫で語れば良いはずです。ならばどうして出雲は「七段目」をわざわざ掛け合い場にしたのでしょうか。

吉之助の考えるところはこういうことです。義太夫はひとりの太夫で複数の人物を声色を変えて見事に描き分けますが、音声学上から見れば・これはキーを変えているだけで・まったく違う声で語っているのではないのです。声紋を見れば声色を変えたようでもまったく同じ人間の声であることがすぐ分かりますし、このことは聴覚で も感知されます。逆に言えば、だからこそ作品中に多くの登場人物が入り乱れても音曲としての統一感が失われないのです。

掛け合い場の場合には複数の太夫が役を受け持つ特殊な場ですから、声質の違う太夫の声が錯綜することで、音曲としての統一感を完璧に維持することは困難 になります。ひとつには掛け合い場は語り物より芝居の方へドラマツルギーを傾斜させているということがありますが、しかし、出雲が「七段目」において掛け合い場という形式を採用したことにはさらに深い意味があ ります。掛け合い場の意図するところは統一感の破壊ということです。そして舞台に乖離感覚・引き裂かれた感覚を呼び起こすということです。そこまで意図して出雲は「七段目」を掛け合い場にしていると思います。

文楽と違って・歌舞伎の場合は乖離感覚を表出することは・お手のものです。歌舞伎の本質はそのような乖離したバロック感覚にあるからです。ですから掛け合い場である「七段目」を歌舞伎化することは、「六段目」を歌舞伎化するのとは意味合いが違 うと思うのです。これは「七段目」のドラマの本質に根ざす問題です。本稿ではそのことを考えます。(この稿つづく)

(H20・3・27)


○「七段目」の虚と実・その1:「七段目」の乖離感覚

「七段目」は竹田出雲らが書いた「歌舞伎へのラヴレター」であると、別稿「誠から出た・みんな嘘」 で書きました。「七段目」の華やかさというのは場面が祇園一力茶屋であるということだけではなく、生身の役者が芝居を演じるリアルさへの憧れから来るのです。「七段目」は掛け合い場と言って・複数の太夫が役をそれぞれ分担して受け持って進めるもともと演劇的な要素が強い場です。この場の由良助は延享四年( 1747・つまり「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の初代宗十郎が演じる大岸宮内(おおぎしくない)の茶屋場遊びをモデルにして作られたものでした。つまり人形浄瑠璃の「七段目」は歌舞伎を原型イメージとしており・そこからその骨格を作り上げているのです。

ですから「七段目」を人形浄瑠璃(文楽)から歌舞伎に移し変えることは、「忠臣蔵」の他段を歌舞伎化する場合と意味合いがちょっと違うということを考えてみる必要があります。語り物である浄瑠璃を歌舞伎に移す時に・原作の音曲の骨格を意識せざるを得ないのは当然のことです。世話場である「六段目」のように・あれほどに歌舞伎化された音羽屋型でさえ・それを強く意識させる場面があります。しかし、「七段目」を歌舞伎化する時には・歌舞伎に「移す」というより も・どこかに「戻す」という感覚があるのかも知れません。つまり、音曲の縛りを解体する方向に演技ベクトルを向けた方が歌舞伎の「七段目」は間違いなくうまく行くのです。例えばお軽と平右衛門の兄妹の 可笑しいじゃらじゃらしたやり取り・それがパッと明るく発散されるように演じられることは・兄妹の哀れさが際立たないということになり、文楽の解釈から見れば本筋から逸脱 していると言えなくもないのです。しかし、歌舞伎の「七段目」の場合にはそれが意外にも本質に沿うことになるのです。平成19年2月歌舞伎座での玉三郎のお軽と・仁左衛門の平右衛門の見事な舞台がこのことを明瞭に示しています。(これについては稿「誠から出た・みんな嘘」をご覧下さい。) 「こういうところが役者の味でする歌舞伎の面白さ」と言っているだけならそこで話は終わってしまいます。本筋から逸脱するかのようなじゃらじゃらこそ歌舞伎の「七段目」にふさわしいと感じることに、「七段目」の持つ本質を示唆する何 ものかがあると吉之助は思うのです。

このことは「誠から出た・みんな嘘」という「七段目」の深層部分を考えさせます。遊郭というのは虚構で成り立つ場所です。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘で ある。真実・本音は隠されており、彼らはそれを決して表には出しません。しかし、ここが大事な点ですが、真実・本音を大っぴらに出すことが人間関係において必ずしも良いことなのでしょうか。我儘勝手が罷り通って・ 人間関係は却ってギクシャクしてしまうかも知れません。結局、遊郭に来る客が偽りであることは・世間の憂さを忘れて・その場を純粋に楽しみたい客たちの社交術・マナーなのです。それは必ずしも悪いこととは言えません。そのような場所で真実・本音をあからさまにすることは実は野暮なこと・いけないことなのです。

ですから「七段目」の由良助を考える時、由良助が仇討ちの大望を秘めて敵を欺くために酒色にふけるのか・あるいは仇討ちの意志もなくただ酒色に溺れるのかという点はもちろん表面上大事なことですが、 そのようなことより実は「七段目」にはもっと大事なことがあるのです。「七段目」幕切れで由良助が九太夫を打ち据えてその本音(仇討ちの大望)を叫ぶことは・この遊郭一力茶屋において敢えてそれをすることは、実は恐ろしいことなの ではないか。そういうことを考えてみる必要があるのです。つまり、「七段目」は虚 と実の狭間で引き裂かれており・その裂け目から見える本音というものが・実はギラリと光った刃(やいば)であるのです。これが歌舞伎の「七段目」です。文楽の「七段目」ではそういう感じは見えにくいですが、文楽 とはそういうもので・そこに文楽の領分があるのです。しかし、「七段目」の隠された本質は実は乖離感覚にあると思います。吉之助は歌舞伎の「七段目」は引き裂かれていなくてはならないと思います。 (この稿つづく)

(H20・3・24)


○左団次劇の様式:エピローグ

昭和36年1月明治座での「婦系図」映像に大詰・久能山の場で・主人公早瀬主税が仇敵・河野英臣に対して長台詞の啖呵を切る場面があって、主税を演じる花柳章太郎の台詞のリズムが小気味の良い二拍子で感 じ入りました。左団次ならもっと強く太いイメージであったでしょうが、花柳章太郎のリズムにも確かに二拍子で押す感じがあります。花柳章太郎のイメージのなかに左団次のリズムが入っていることは疑いありません。左団次の台詞のリズムは歌舞伎より・むしろこういうところに残っているのです。

ところで・「婦系図」は泉鏡花の長編小説が原作ですが・芝居の方は鏡花の脚色ではなく・芝居の筋は原作と甚だしい相違がありますが、久能山での主税の長台詞は鏡花の原作を大筋で取ってい ます。原作小説から主税の啖呵の一部を引きます。

『迷惑や気の毒を斟酌(しんしゃく)して巾着切ができるものか。真人間でない者に、お前(めえ)、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査(おまわり)ほどにも恐くはねえから、言句(もんく)なしに往生するさ。軍(いくさ)に負けたと思えば可(よ)かろう。掏摸(すり)の指で突(つつ)いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濠を掘って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。』(泉鏡花・「婦系図」・明治40年)

鏡花が戯曲創作に意欲を見せ始めるのは大正になってからのことで、この時期(明治40年代)の鏡花は小説専門でした。しかし、この主税の啖呵を見ると・まるで誰かに劇化されるのを意識して書いたのかと思うほど・言葉にリズムがあります。しかも明確に二拍子のリズムです。この時期には左団次の新歌舞伎の試みは既に始まっていましたから・その影響を受けたと考えられなくもないですが、むしろ鏡花が時代的気質に押されるままに書いた啖呵が自然に二拍子のリズムを取ったと考えた方が良いかも知れません。 しかし、これは決して偶然のことではありません。共通した何かがそこにあるのです。(泉鏡花と時代的気質との関連については別の機会での論考を準備しています。)

もうひとつ・吉之助 が左団次の台詞のリズムの系譜を持つものと感じるものがあります。それはスーパー歌舞伎での三代目(現)猿之助の台詞です。スーパー歌舞伎の第1作「ヤマトタケル」の初演(昭和61年2月新橋演舞場)の時のことを思い出します。あの幕切れ近くのヤマトタケルが死んで白鳥に変わっての宙乗りシーンでの長科白の時、吉之助は猿之助の科白廻しに「もう少しひと工夫が欲しいなあ」などと思いながら聴いておりました。リズムがタンタンタン・・・と表面的に早く進む感じで、感情がこもった感じに聞こえなかったのです。何箇所かで「どうしてこういう言い回しをするの」と 疑問に思う箇所がありました。しかし、後年ハタッと気が付いたのですが、これは左団次のリズムの感触に近いものだったのです。左団次のリズムのイメージと比べ るとちょっとリズムの打ちが浅い感じはしますが、その二拍子のリズムはとてもよく似ています。折口信夫が左団次の台詞に「生きた人間のする発声法でなかった」という感想を持ったの ともよく似ています。

スーパー歌舞伎での猿之助の台詞廻しは三代目寿海と並んで左団次劇団の副将格であった祖父・猿翁(二代目猿之助)を経由して・猿之助のなかに流れ込んでいるものだと吉之助は考えています。新歌舞伎を演じる時の猿之助にも明らかにそうした感じを思わせるところがあります。例えばこれは猿翁の初演作品ですが・「じいさんばあさん」(宇野信夫作)の猿之助演じる伊織の台詞廻し・例えば第1幕幕切れで庭の木の幹を触りながら「・・きっと帰ってくるぞ」という言い回し にも明らかに他の役者と違う感触があ ります。これは明らかに祖父の流れから来るものですが、さらに辿ればそれは左団次に行くようです。考えてみれば・猿之助の生き方・スーパー歌舞伎などの挑戦自体が時代を変えて左団次の新歌舞伎運動と重なるものであるという見方も出来るわけです。

まあそういうわけで・不明を恥じるようですが・「ヤマトタケル」幕切れで宙に舞い上がった白鳥姿の猿之助の台詞を聞きながら・当時の吉之助は首をひねっていたのですが、吉之助の横に座っていた女子大生らしい二人の女性は驚いたことに・ハンカチを握りしめて「かわいそう・・・」と言って泣いていたのでした。彼女たちが正しかったなあと今にして思いますねえ。台詞のリズムに虚心に身を任せれば・感じるものは確かに感じられるということなのです。大正時代に左団次・松蔦のコンビを見ながら・熱い涙を流した観客もきっとそうだったと思います。

(H20・3・21)


○左団次劇の様式・その19:左団次の発想のプロセス

昭和31年・二代目左団次十七回忌ということで・「今様薩摩歌」が再演され、初代白鸚(八代目幸四郎)が菱川源五兵衛を演じました。この舞台稽古で新内を聴きながらじっと座っている源五兵衛を左団次がどう演じたのかが問題になったそうです。(「その16・岡鬼太郎と小山内薫」をご参照ください。)この場面の新内はとても長いので・役者はその間を持たせるのに苦労して・部屋をあっち行ったりこっち行ったりしてジリジリする心理を表現したくなるものです。そこで左団次劇団の名脇役であった荒次郎に・この場面を左団次がどう演じたかを訊ねると、荒次郎は「何もしませんでした」と答えたそうです。「じゃあ、ここはどうしたんだ」と聴くと荒次郎は「じっとしていました」と答える。「これでは何も分からない・この場面を何もしないで持たせるとはやっぱり伯父さんは偉いんだなあ」ということになって、結局、白鸚はこの場面を自分で工夫して勤めたということです。

左団次にはこういう話が実に多いのです。いつも最後は高嶋屋(左団次)の独特の大きさは他の役者が真似をしようとしてもとても真似できるものではないという結論になってしまいます。これは褒めているように見えますが、風格の大きい役者がただボーっと突っ立っていて・その無技巧が良かったと言っているようなもので・実は左団次の芸の本質が何も分かっていないのです。「その16」で書 いた通り、実は左団次は何もしなかったのではなく、むしろ内面が激しく動いているのです。左団次は表面上は何もしていないように見えても・その内面において激しく動いており・息を詰めた緊張感を持続した演技をしているわけです。これは走者を背負った緊迫した場面でピッチャーが・バッターの間合いをはずすべく・しきりにキャッチャーとサイン交換をしてみたり・プレートをはずしてみたり・一塁に牽制球を投げたりするのと似てい るのですが、左団次投手の場合には行動は表面に出てきません。しかし、その裏には息と・間合いの葛藤があるのです。記録上はピッチャーがどんな球を投げて・バッターが打ったか打たなかったしか残りません。しかし、ピッチャー とバッターの駆け引きの面白さはスコア・ブックには残せないものです。歌舞伎の芸だってそうなのではありませんか。

問題は左団次のこうした演技を見る時に「高嶋屋はここをこうした」という・眼に見える表面上の手順(段取り)だけにしか「型」を見ていないことにあります。左団次の内面の心理構築のプロセス に「型」を見ないのです。これでは左団次の芸を理解することはできません。そうなってしまう理由は「補足・演出なのか型なのか」で触れた通り、歌舞伎の型が「それをしなければ歌舞伎には見えない・同じことをやってさえいればとりあえず歌舞伎に見える」というものになったからです。歌舞伎役者は「団十郎はこうやった・菊五郎はああやった」ということ ・表面的な手順だけを金科玉条にしていますから、「高嶋屋は何もしなかった」となるともうお手上げになってしまうのです。本当は受け継ぐ側が何を・どういう要素を「型」として受け取るかという姿勢の方が大き い問題なのですが。

しかし、本稿「左団次劇の様式」をここまでお読みになった方はお分かりでしょうが、左団次がじっと黙って動かないことも・突然ワッと泣き出すことも・二拍子のリズムで台詞をまくし立てることも・歩きながら台詞を言うことも、実はすべて同じ発想から出ているのです。 左団次が花道七三で止まらず揚幕に一気に駆け込こんでしまうことも・台詞を間違えると最初から言いなおすのも・脚本を大事にして一字一句も変えないこともすべて同じ発想から来るのです。また左団次にその作品を提供した戯曲作家たちも・左団次が演じることを(つまり左団次の芸風を)念頭に入れて書くことで、左団次と同じ発想で戯曲を書いていることになる わけです。それが登場人物の発言・行動になって現れているのです。これらはすべて底流において密接に関連しており、或るひとつを崩すと・他の要素の規格まで崩れてしまうのです 。

これは左団次劇に限ったことではありませんが、伝統芸能の場合はその発想の根本をきちんと押さえなければなりません。新歌舞伎(=左団次劇)の発想の根本はそれが生まれた二十世紀初頭における世界に共通した時代的気質に拠ります。それは自分の置かれた状況に対して「自分たちはこれでいいのか・これで正しいのか」ということを常に悩み・苛立ち、時に憂い・怒り・迷う気分であり、それがどこかイライラ・セカセカした気分になって現れ ます。ですから、そのことを理解していれば・その発想プロセスを辿ることで、左団次ならきっとここをこうしただろうということは・その舞台を実際に見ていなくても 分かることなのです。それが「左団次劇の様式」なのです。ですから・八代目三津五郎が「左団次のリズムをはずしたら・芝居は壊れてしまって・新歌舞伎にならない」と言うのは、そこのところです。三津五郎の言葉をもう一度読んで見たいと思います。

『新歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調から離れようとしていても、言葉に感情を入れて、それで調子を付けるのです。正しいエロキューションは、新歌舞伎の作者が皆考えていたことで、ただ無意味な節をつけることは嫌っていましたが、正しい台詞廻しは求めていたのです。(中略)リアルにやっても調子の出るところは・リズムがなければ駄目なので、岡本(綺堂)先生には岡本先生の台詞があるのです。「鳥辺山心中」にしても「番町皿屋敷」にしても、岡本先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです。(中略)岡本先生が左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いていられるのだから、あれより他の言い方は考えられないのです。』(八代目坂東三津五郎:名作歌舞伎全集・第20巻・月報)

(H20・3・19)


○左団次劇の様式・その18:真山青果の「元禄忠臣蔵」

連作戯曲「元禄忠臣蔵」連作は昭和9年2月・東京劇場初演の「大石最後の一日」が最初の作品です。その初演は大好評でしたが、実はこの時点での青果に「忠臣蔵」を連作にする構想はなかったのです。松竹社長・大谷竹次郎と左団次の懇請により赤穂義士の討ち入り事件を発端から終結までを描く連作戯曲にすることを青果が決意したのは、その初演から半年ほどたってからのことでした。

まず作品成立の背景として「大石最後の一日」初演の昭和9年(1934)から「御浜御殿綱豊卿」初演の昭和15年(1940)頃までの時勢を考えておく必要があります。 晩年の左団次はその風格の大きさの故か・乃木大将や東郷元帥のような・大人物を演じる(あるいは演じさせられる)傾向があって、これは確かにある問題点を孕んでいます。この時期に「新・忠臣蔵」を作ると言うこと も「忠君愛国」を国民に求める時局の要請と興行者(松竹)の思惑が明らかに絡んでおり、青果・左団次はこれに乗ったという一面が確かにありました。しかし、昭和14・5年頃のことですが、青果は娘の美保さんに「待ってろよ、戦争が終ったらもっとはっきり書いてやる。内蔵助の真意を書いてやる。楽しみにしてろ。」と言ったそうです。「元禄忠臣蔵」を忠義の概念から解き放ってみると、そこに大正期の新歌舞伎と共通した気分がそこに見えてきます。別稿「元禄忠臣蔵の揺れる気分」で触れ たように、連作「元禄忠臣蔵」の基調にある気分はふたつあります。ひとつは事を性急に急ごうとする急き立てる気分・イライラした気分であり、もうひとつは「自分の進むべき道はこれで良いのか・正しいのか」ということを常に思い悩みユラユラと揺れる気分です。このふたつの気分が交錯するのが「元禄忠臣蔵」なのです。

『助右衛門、男子義(ぎ)によって立つとは、その思い立ちの止むに止まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。吉良の生首を、泉岳寺の墓前に捧げさえすれば、内匠頭の無念、内匠頭の鬱憤はそれで晴れると思うのか。そちたちにして義理を踏み、正義を尽くす誠あらば、たとえ不幸にして上野介を洩らしても、そちたちの義心鉄腸(ぎしんてつちょう)は、決してそれに傷 つけられるものではない。そちたちの今はただ、全心の誠を尽くして、思慮と判断と知恵との全力を尽くすべき時なのだ。思慮を欠き、判断に欠くるところあらば、たとえ上野介の首打っても、それは天下擬人の復讐とはいわれぬのだ。何故何故何故、おのれ、たとえ吉良上野介を討ちそこなった場合でも、みずから顧みて、疚(やま)しとも口惜しとも思わぬほどの仇討ちをしようとは企てないのか?』(ダンシ/ギニ/ヨッテ/タツ/トワ/ソノ/オモ/イノ/ヤムニ/ヤマ/レヌ/トコ/ロニ/アル/ノダ/ゾ●/ギノ/ギト/スベ/キハ/ソノ/オコル/トコ/ロニ/アリ/ケッシテ/ソノ/シト/ゲル/トコ/ロニ/アル/ノデハ/ナイ) (「御浜御殿綱豊卿」)

文章を読むだけで綱豊の台詞の二拍子のリズムが浮かんでくると思います。そこにあるのはこの思いを相手(助右衛門)に納得させずには置かぬという切迫した気分であり、またその思 いによって自分自身も叱咤せずには置かぬという気分なのです。なぜなら・それを自分にも言い聞かさなければ・自分も揺れてしまいそうだという不安がそこにあるからです。このことは・昭和10年代の時局を考えれば 分かると思います。さまざまな思いを抱きながら・国を守るため・妻子を守るために戦地へ赴かねばならなかった兵士たちの思いにもそれはどこか重なる気分でした。「元禄忠臣蔵」の興行的な成功の秘密もそこにあ ったのです。(ただし、付け加えておけば・太平洋戦争の賛美であるとか・あるいは批判であるとして「元禄忠臣蔵」を思想的に読もうとすることはあまり意味が ないことです。ただ気分においてのみ重なっているという現象面だけを見るべきなのです。)だから台詞の末尾を音楽的に響かせようとして詠嘆調に引き伸ばし・情緒に流してはならないのです。台詞の末尾を気分でグッと押すことが必要にな ってきます。(この稿つづく)

(H20・3・14)


○左団次劇の様式・その17:真山青果の「頼朝の死」

二代目左団次にとって綺堂と共に最も重要な作家である真山青果の作品を取り上げます。まず「頼朝の死」(昭和7年4月歌舞伎座)です。初演の配役は源頼家(二代目左団次)・尼御台政子(五代目歌右衛門)でした。

頼家「誰ぞ、誰ぞ、重保を引っ立てよ。獄に下せ、獄屋へ引けい」
尼公「いや、小周防の成敗は尼の言い付け、重保の科(とが)ではない。たって重保を鞠問(きくもん)せんとするならば、母には母の決意がある」
頼家「いや、為らぬ。重保は父上御最後に・・」
尼公(長刀を取り)「又それを言い張らるるか。秘密をつつむも源家のためじゃ。家のためじゃ。家門の大事には兄弟血族とてもゆるさぬは、源氏代々の掟なのじゃ。御祖父義朝公は保元の乱に、御父六條判官どのを打ち参らせ。故(こ)との頼朝公は家のために、義経範頼二人の兄弟までを斬ったるぞ。」
頼家「うう、うう・・・」(母を睨みて声をふるわす)
尼公「この上にも父上御臨終のさまなどあなぐり立てなば、頼家、わどの運命もそのままには居らぬぞ。故との御臨終のさまは、母政子存生の間は、何人にもその事実を包む、この秘密の扉は何人にも開かせぬぞ。」
頼家(声を絞りて)「母上!」
尼公「何ー?」(政子、キッと頼家を睨む)
頼家「さらばわが身は源家あっての頼家にて、頼家のための源家にては・・・ないのでござりまするか。」
尼公「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」
頼家「ええ、そのお言葉に我が身の末も見た。もうこれまで。」(頼家、立ちよって重保を斬らんとす。尼公、頼家を引き戻してキッと長刀を頼家の前に構える)
頼家「母上!うむ・・、うむ・・・、うむ・・・。」(怨念を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ出し、小児のように声を立てて泣き出し、その声次第に高くなりゆくうちに・・・幕)

引用が長くなりましたが、「頼朝の死」幕切れでは・ピーンと張り詰めた緊張感が、政子の「事も愚かや・家は末代・人は一世じゃ」という台詞でブツッと音を立てて切れて・頼家の号泣でまるで破綻し途切れるように幕切れます。「歌舞伎は絵面の引っ張りで終わり」などという常識に真っ向から挑戦する幕切れです。まるで二死満塁ツースリーの緊張した場面でピッチャーが暴投して・三塁から走者が生還して試合終了してしまうというようなあっけなさです。

この幕切れのテンポを想像してみます。政子が「家は末代・人は一世じゃ」と叫ぶまでの場面は、頼家と政子が一歩も譲らぬという形で対立しています。ちょうど「勧進帳」での弁慶と富樫の山伏問答を思い出せば良いと思います。こ こまでの台詞のテンポはクライマックスへ向かって一気に駆け込むプレストです。 この部分に早い二拍子のリズムがふさわしいことは説明するまでもありません。このリズムが「家は末代・人は一世じゃ」でブツッと切れて・急転直下で破綻します。同じような破綻のエンディングが同時代のラヴェルのバレエ音楽「ラ・ヴァルス」終結部(1920年)にも聴かれます。ここに時代への不信感・不安感を見ないわけにはいきません。(別稿「家は末代・人は一世か」をご参照ください。)

「頼朝の死」で大事なことはこの幕切れに至るまでに・退屈に見えるほど回り道をしながら・頼家のイライラした気分を着実に描いていることです。劇前半で頼家の奇矯な言動が描かれているので、最初は観客は頼家という人物にあまり共感を持てないかも知れません。しかし、頼家には表面の強気とは裏腹に ・何も実体と言えるものがないのです。将軍というのは名ばかりで・実は頼家は自分で意志で動けません。そのことを頼家自身も分かっているのですが、分かっていても・それを自分で認めたくないないのです。だから頼家は始終イライラしています。頼家の神経は不安でワナワナと震え・ジリジリして・今にも泣き出しそうなほどであることが次第に明らかになってきます。頼家の気持ちにトドメを刺すのが政子の「家は末代・人は一世じゃ」 という言葉です。これを聞いて頼家は堰を切ったように泣き出します。マザコン将軍がお母さんに叱られて泣き叫んでいるように見えますが、それはアイデンティティーが抹殺された恐怖の叫び なのです。

現代の役者はこうした急変する感情表現が苦手のようです。ぐううっと息を詰めて・噴出す感情を抑えようとして・しかし耐え切れずにウルウルとしてきて、ついにウワッと泣き出す・こういう積み重ねの心理過程を踏まないとどうも泣けない・それがリアルな心理描写の演技だと思い込んでいます。そういう プロセスだけが感情表現だと思い込んでいると、左団次の演技は不器用な役者が巧 く心理表現が出来ずに・唐突に泣き出すような奇異な印象に見えるようです。しかし、左団次の表現は唐突でもなんでもありません。実はその前に実に長い長いイライラした気分の積み重ねがあるからです。左団次は表面上は何もしていないように見えても・その内面において激しく動いており・息を詰めた緊張感を持続した演技をしていたと思います。そしてついに耐え切れなくなった緊張の糸がプッツンと切れた時に・左団次の号泣が始まるのです。芝居はそのようなテンポ設計がされているのです。

青果の作品に急変する感情表現が多いことはご存知の通りです。例えば「将軍江戸を去る」(昭和9年)での将軍慶喜もそうです。「元禄忠臣蔵」でも誰彼となく・すぐに顔を赤くして声高に叫び出し・自分を熱く主張して・突然泣き出し たりします。如何にも青臭い感じがしますが、しかし、それは実は作品全体に漂うジリジリした気分・イライラした気分から出るものです。それは左団次の個性であると同時に・昭和初期という時代の感覚と密接に結びついているわけです。(この稿つづく)

(H20・3・8)


○左団次劇の様式・その16:岡鬼太郎と小山内薫

最近はとんと上演されませんが、左団次の初演した新歌舞伎のなかでも重要な二作品を取り上げます。まず岡鬼太郎の「今様薩摩歌」(大正9年10月・新富座初演)の源五兵衛の台詞です。

『路傍の石にも春の風、暖かき人の世の花の眺めを今日知った。次右衛門、命の瀬戸にも手を下げぬ源五が一生の頼み、おまんの返事ひとつにて、三五兵衛が勘当赦され、昨日のままの身に生きらるれば。われもひとしく救わるる。多年の情誼唯一言、何とであるな。』(ロボ/ウノ/イシ/ニモ/ハルノ/カゼ/アタ/タカキ/ヒトノ/ヨノ/ハナノ/ナガ/メヲ/キョウ/シッタ/●/ジエ/モン●/イノ/チノ/セト/ニモ/テヲ/サゲ/ヌ●/ゲン/ゴガ/イッ/ショウノ/タノ/ミ●/オマン/ノ/ヘン/ジ/ヒトツ/ニテ/●/サゴ/ベエ/ガ/カン/ドウ/ユル/サレ/キノ/ウノ/ママ/ノ/ミニ/イキ/ラル/レバ/●/ワレモ/ヒト/シク/スクワ/ルル/●/タネン/ノ/ジョウ/ギ/タダ/ヒト/コト/ナン/トデ/アル/ナ●)

左団次の演じる源五兵衛は硬骨漢の武士ですが、訳あっておまんを一室に預かっています。源五兵衛はひとりで夕食を取っていると隣家から新内が聞こえてきます。その煽情的な新内を聞きながら源五兵衛は隣室にいるおまんのことを考えて・次第にジリジリとしてきて、ついに心変わりしてしまう。取り上げたのはその変心の台詞です。

この場面の新内は長いもので・役者はその間を持たせるのにとても苦労して・部屋をあっち行ったりこっちを行ったりしてジリジリする心理を表現したくなるものです。しかし、左団次の源五兵衛はこの場面で何もせず・ただじっと座っていただけだったと言われています。実は左団次は何もしなかったのではなく、むしろ内面が激しく動いているのです。源五兵衛は息を詰めて・隣室にいるおまんのこと・これから自分はどうすべきか・ 身体を固めて全身で考えているのです。これが左団次のリアリズムの演技です。

左団次の演技をリズムの視点から考えると、野球で言えば・投手が打ち気にはやる打者の間合いをはずし・一塁に牽制球を投げたりして時間を稼ぐのによく似ています。観客は左団次が台詞を発するのを今か今かと息を詰めて待っています。聴こえてくるのはただ扇情的な新内の旋律だけです。ところが左団次はなかなか台詞をしゃべらない。観客のジリジリした気分が・源五兵衛のジリジリした気分と何だか妙に重なってきます。そしてついに耐え切れなくなった源五兵衛が突然堰が切れたようにおまんへの思いを吐き出し始めるのが上記の台詞です。同時に観客はその吐き出されるリズムに自然と興奮させられることになります。台詞は一見すると旧式の戯作者風の文体に思えますが・そうではありません。そのリズムのなかにその思いを述べねば堪らぬという急き立てられたリズム感覚が加わることで・その台詞は新歌舞伎になるのです。

特に重要なのが最後の「何とであるな」です。ここを詠嘆調に伸ばすと印象が弱くなって・左団次劇の様式が壊れます。ここはインテンポで押し切る場面です。こうすることで「ここまで言った俺に対してもはや否とは言わせぬぞ」という切迫した感情が強く出て来ます。これがかぶき的心情です。

次に小山内薫の「西山物語」(昭和3年4月歌舞伎座初演)を見てみます。題材は明和年間に実際に起きた「源太(げんだ)騒動」と呼ばれた事件で、結婚が許されない恋人の実家に花嫁姿をした妹を連れて行って・兄が妹を切り殺すというものでした。(この事件は「妹背山婦女庭訓」に強い影響を与えています。別稿「ますらおぶりの情緒的形象」をご参照ください。)引用するのは、左団次演じる源太が相手先の当主である団次に 妹の結婚を談判して・相手がついに承知せぬので・妹かえを切り殺してしまう直前の切迫した台詞です。

『こうして頼む以上は、返事次第でかえも生きては帰るまい。だが、そのようなことになったら、お前のためにもよくあるまい。心を落ち着けて返事をしてくれ。』(コウ/シテ/タノ/ム/イジョウ/ハ/ヘンジ/シダイ/デ/カエモ/イキ/テハ/カエル/マイ/●/ダガ/ソノ/ヨウ/ナ/コト/ニ/ナッタ/ラ/オマエ/ノ/タメ/ニモ/ヨク/アル/マイ/●/ココ/ロヲ.オチ/ツケ/テ/ヘン/ジヲ/シテ/クレ/●)

小山内薫の書く台詞はスッキリとした現代語の文体で・無駄がなく、新鮮な感覚があります。台詞自体は新劇的に素でしゃべっても十分通ります。 しかし、この台詞を自然にしゃべったのでは新劇の時代劇になってしまって・新歌舞伎にはなりません。新歌舞伎にするためには・相手を押して畳み掛けていく台詞のリズムが必要になってきます。左団次の男性的な太いイメージと強い意志が二拍子の早いリズムになって現れるわけです。(この稿つづく)

(H20・3・4)


○左団次劇の様式・その15:岡本綺堂

新歌舞伎の作者たちは二代目左団次が主演することを念頭に入れて作品を書いたのです。二代目左団次が初演した新歌舞伎作品のなかの台詞から、左団次劇の台詞の共通したイメージを考えてみたいと思います。まず左団次と最も深い関係にあった岡本綺堂の作品から「修善寺物語」(明治44年5月・明治座初演)の夜叉王の台詞を見ています。

『幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、我つたなきにあらず、にぶきにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、初めて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれ天下一じゃのう。』(カミ/ナラ/デハ/シロ/シ/メサ/レヌ/ヒトノ/ウン/メイ/マズ/ワガ/サクニ/アラ/ワレ/シハ/シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●/イズノ/ヤシャ/オウ/ワレ/ナガラ/アッ/パレ/テンガ/イチ/ジャ/ノウ)

この台詞を「強・弱」の二拍子のリズムを基調に読んでみて下さい。台詞は単純な二拍子ではなく・リズムを壊す単語を挿入して・微妙な変化をつけてい ますが、その基調は二拍子なのです。自分の打った面を見ながら・湧き上がる不思議な感動で胸を抑えきれない夜叉王の興奮がリズムに現れているのがよく分かります。夜叉王はこの興奮を一気に吐き出さ ずにはいられません。この台詞を抑揚をつけて・のんびりと歌っていられるとは吉之助には思えません。この台詞には畳み掛ける・急き立てる感覚が必要なのです。同様のリズム感覚 は「番町皿屋敷」(大正6年・本郷座)で・お菊が皿をわざと割ったことを知って播磨が怒る場面の台詞にも聞くことができます。

『こりゃよく聞け。天下の旗本青山播磨が、恋には主家家来の隔てなく、召仕えのそちと言いかわして、日本中の花と見るはわが宿の菊一輪と、弓矢八幡、律儀一方の三河武士がたたひと筋に思いつめて、白柄組のつきあいにも吉原へは一度も足ぶみせず、丹前風呂でも女子のさかずきは手に取らず。かたき同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ。一夜でもそちの傍を離れまいと、堅い義理を守っているのが、嘘や偽りでなることか。積もってみても知るる筈。何が不足でこの播磨を疑うたぞ。』(カタキ/ドウ/シノ/マチ/ヤッコト/ミッカ/ケンカ/セヌ/ホウモ/アレ/ヒトヨ/デモ/ソチノ/ソバヲ/ハマレ/マイト/カタイ/ギリヲ/マモッテ/イル/ノガ/ウソヤ/イツ/ワリデ/ナル/コト/カツ/モッテ/ミテモ/シルル/ハズ/ナニガ/フソ/クデ/コノ/ハリ/マヲ/ウタ/ゴウ/タゾ)

播磨は心の底から湧き上がって来る怒りを抑えきれず・その思いを一気にお菊にぶつけます。その思いが二拍子のリズム感覚になって現れるのです。次に「鳥辺山心中」(大正4年9月・本郷座初演)の菊池半九郎の台詞を見てみます。

『わしもそなたを色里に沈めて置くがいじらしく、身受けして親許へと、思いしことも食い違うて、こうなるからはいっそのこと、そなたを殺すはそなたを救う、慈悲の殺生であろうも知れぬ。濁りに沈んで濁りに染まぬ、清いおとめと恋をして・・・』(ワシモ/ソナ/タヲ/イロ/ザトニ/シズ/メテ/オクガ/イジ/ラシ/ク●/ミウケ/シテ/オヤ/モト/ヘト/オモ/イシ/コトモ/クイ/チゴウ/テ●/コウ/ナル/カラ/ハ/イッ ソノ/コト/ソナ/タヲ/コロ/スワ/ソナ/タヲ/スク/ウ●/ジヒノ/セッ/ショウ/デ/アロ/ウモ/シレヌ/・・/ニゴ/リニ/シズン/デ/ニゴ/リニ/ソマヌ/キヨイ/オト/メト/コイ/ヲ/シテ ・・・)

本作は竹本を入れた擬古典的な作品であり・台詞は七五調にも取れるように巧く書かれています。しかし、七五調で気持ちよく歌ってしまっては新歌舞伎にな りません。義太夫が作り出す音楽の流れと乖離したところで・人間の生(なま)な声を新鮮に響かせることがそこに意図されているからです。台詞は音楽的な雰囲気を壊してはいけませんが、糸に乗 ってしまう・調子を合わせる感じでは駄目です。七五調の定型から離れて・台詞をいかにリアルに人間の肉声として聞かせるかが、綺堂が左団次に与えた課題なのです。遅めの二拍子のリズムは大正のロマンテ ィシズムを感じさせますが、すでにお染・半九郎のふたりの意識は死に向かっています。そのリズムは緩慢ではあっても・そこにヒタヒタと迫り来る運命の重圧を表現しているのです。(この稿つづく)

(H20・2・29)


○左団次劇の様式・その14:歌舞伎十八番のリズム

ところで二拍子のリズムは従来の歌舞伎の台詞のなかにもあります。邦楽の場合は拍(リズム)の明確な概念がなくて、表間(おもてま)・裏間(うらま)と言ったりしますから ・歌舞伎の台詞もリズムの概念で捉えることがあまりありませんが、例えば歌舞伎十八番です。「助六」でのツラネは厄払いの様式をとっており、台詞は緩急が付いていますが・部分的に早めの四拍子(四拍子は二拍子 を細分化したものです)でタタタタと進む場面があります。関東方言ですから・頭打ち(拍の頭にアクセントが付く)で、「強・弱」の四拍子のリズムになっています。そのリズムにいきり立つ男達(おとこだて)の気分が現れています。

『遠くは八王子の炭焼売灰の歯っ欠け爺い、近くは山谷の古やりて梅干婆ァに至るまで、茶呑み話の喧嘩沙汰、男達の無尽のかけ捨て、ついに引けステを取ったことのねえ男だ』(ハチ/オウ/ジノ/スミ/ヤキ/バイ/タン/ノ/ハッ/カケ/ジジ/イ/チカ/クハ/サン/ヤノ/フル/ヤリ/テ/ウメ/ボシ/ババ/アニ/イタル/マデ/チャノ/ミ/バナ/シノ/ケン/カ/ザタ/オト/コ/ダテ/ノ/ムジ/ンノ/.カケ/ステ ・・・)

「勧進帳」の山伏問答における弁慶が一気にまくし立てる長台詞も同様に「強・弱」の四拍子のリズムになります。

『それ九字の真言といっぱ・所謂、臨兵闘者皆陳列在前の九字なり・・・』(ソレ/クジ/ノ/シン/ゴン/ト/イッパ/イワ/ユル/リン/ピョウ/トウ/シャ/カイ/チン/レツ/ザイ/ゼン/ノ/クジ/ナリ・・・)

この場面は山伏問答のクライマックスであり、興奮が最高潮に達しているところです。山伏問答の緊張とプレッシャーが弁慶の台詞を早い四拍子のリズムを取らせるのです。同時にその早いリズムは弁慶一行に押し寄せる政治的な状況のなせるものです。ですから、これに対抗する弁慶の台詞のリズムは非人間的な切迫した様相を呈すわけです。対する富樫の詰め寄りの台詞も同様です。富樫の台詞も職務として弁慶にプレッシャーを掛けているというだけではなくて、その内心に沸々と湧き上がる畏敬の念(その正体を富樫はまだ見極めていない)に押されるが如くに急くのです。(この富樫の心理については別稿「勧進帳についての対話」をご参照ください。)

『そもそも九字の真言とはいかなる義にや、事のついでに問いもうさん』(ソモ/ソモ/クジ/ノ/シン/ゴン/トハ/イカ/ナル/ギニ/ヤ/コト/ノ/ツイ/デニ/トイ/モウ/サン)

「本論考・プロローグ」において・左団次の富樫は他の役者の演じる富樫とは別格であると述べたことの理由もここにあります。二代目左団次の功績として・新歌舞伎作品を上演したことの他に、「毛抜」・「「鳴神」など歌舞伎十八番の復活ということがあります。(他に鶴屋南北作品の復活ということもあります。) これは古典作品が得意ではなかった左団次劇団が乏しいレパートリーの拡充のために行ったことに違いありませんが、左団次が歌舞伎十八番に着眼したのは上記のことを考えれば必然なのです。それは元禄の荒事が表現するところの時代の空気と、左団次の生きた大正・昭和の空気とその閉塞した気分において非常に似かよったところがあり、その台詞の様式感覚が極めてよく似ているからです。歌舞伎十八番は左団次の芸風にピッタリくるということです。(このことは別の機会にも考察する予定です。)

このように左団次劇の二拍子の台詞の直接的な発想はシェークスピアですが、実は深いところで日本の伝統に通じるわけです。そうでなければ 左団次劇は根無し草のように一時のアダ花で終わるしかなかったでしょう。以上の考察を以って・左団次の初演した作品のいくつかを検証していきます。(この稿つづく)

(H20・2・27)


○左団次劇の様式・補足:相手を押す台詞

「歌舞伎素人講釈」の提唱する重要な概念に「かぶき的心情」があるのはご承知のことと思います。かぶき的心情のドラマの核心はその心情の強さにあります。かぶき的心情は個人の心情の強さに根ざすものですから、威圧的・強迫的になることがしばしばあります。「俺のこの気持ちがお前にはなぜ分からないのか・俺がこれだけ思っているのだから・お前はそれを理解 し受け入れるべきだ」という感じになりやすいのです。こうしたかぶき的心情は左団次劇の場合には畳み掛ける二拍子のリズムにまず出ますが、もうひとつの特徴は台詞が断定口調になることです。台詞の末尾をテンポを速めてグッと押して決めることで相手を押し切 ろうとするのです。つまり台詞の決めが胸元内角直球になるわけです。

台詞の末尾を詠嘆調に伸ばすというのは自分の心情に酔っているが如きです。台詞のベクトルが相手に向いていない。これでは心情で相手を押すことはできません。これは相手の打ち気をはずす変化球を外角に投げ込むようなものです。前章で挙げた「元禄忠臣蔵・御浜御殿」の綱豊の台詞の末尾は・なぜ伸ばしてはならないのか・それを考えます。

綱豊「・・・助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼(まなこ)を見よ。俺は、あっぱれ我が国の義士として、そちたちを信じたいのだ。」
助右衛門、一語一語に迫り来る綱豊の台詞に、次第に頭さがり、ついにはその真情に打ち負けんとする自分を押さえて強いて反抗的に頭を上げる。
助右衛門「恐れながら殿様には、大石めが、いま放蕩に身を持ち崩すゆえ、仇討ちの企てがあるにそう相違ないと仰せあるのでござりまするか。それなれば私も、申し上げたいことがござります。・・・」

綱豊の台詞で助右衛門は綱豊の心情の強さに感じてしまって・自分の仇討ちの意志を危うく漏らしてしまいそうになります。揺らぐ自分を感じて・その気持ちを断ち切って、 突然助右衛門は反抗的にグッと顔を上げます。そして「綱豊が将軍家の眼を気にして作り阿呆にしている」ととんでもないことを綱豊に対して言い始めて・綱豊を怒らせてしまいます。この場面では前の綱豊の台詞を息を詰めて受けてじっと聞き入り・今度はその詰めた息をカッと吐いて・自分のなかの内蔵助への憤懣を綱豊に対して一気にぶつけて行く・その気持ちの転換のきっかけが必要です。綱豊に「そちたちを信じたいのだ」を詠嘆調に伸ばされると、助右衛門のきっかけが曖昧になってしまいます。

綱豊の台詞が二拍子の強いリズムを持っていることは、青果がト書きに「一語一語に迫り来る綱豊の台詞」と書いていることではっきりと分かります。青果は明らかに左団次のリズムを意識して台詞を書いています。リズムで相手を押す・その心情で相手(助右衛門)を説得せずにはおかぬ・という台詞です。ここで台詞末尾が詠嘆調に伸びるということは考えられません。「そちたちを信じたいのだ」を速い調子で詰めれば・しばし間を置いて助右衛門役者はグッと反抗的に顔を上げ・綱豊を怒らせる台詞に突入していくきっかけが作りやすくなる。そのようなリズム設計がこの場のふたりの会話のなかにあるわけです。

平成19年6月「御浜御殿」の仁左衛門の綱豊は「シーンジタイーノーダーー」と長く引っ張って詠嘆調に伸ばしています。そのために綱豊の心情が情緒的に流れています。助右衛門が初役の染五郎のことを考えても、ここは台詞の末尾で相手をグッと押す方が都合が良ろしいのです。そうすれば染五郎は「コンチクショウ」という感じで台詞を叩き返せます。(この部分については別稿「指導者の孤独」をご参照ください。)

同じことが「御浜御殿」幕切れ・能舞台脇中庭で綱豊が助右衛門を押さえつけて・義士の道理を説く長台詞の末尾「・・・助右衛門、分かったか」でも言えます。ここでも仁左衛門は「ワカッタカアー」と末尾を 長く引き伸ばしています。左団次劇の様式ならば ここは「ワカッタカッ」と相手を一気に押し切るものです。もうここでの綱豊は相手に理解を求めることはしません。これは相手に有無を言わせぬ・押し付ける台詞なのです。ここで台詞を断ち切ればそのきっかけで・助右衛門はハーッと平伏して・「恐れ入りました」を叫ぶように言うことが出来るわけです。(注:現行の「御浜御殿」脚本では「・・・助右衛門、分かったか」となっていますが、青果のオリジナル脚本は「・・・助右衛門、そちにはこの道理が判らぬか」です。 オリジナルの方が二拍子が明確なのは言うまでもありません。初演の左団次がこの台詞を変えたのではありません。左団次は台詞を改変することは決してしない役者でした。 )

青果の芝居では最も肝心な台詞にしばしば断定口調が使われています。そのような台詞は実はすべて左団次劇のリズム様式に拠っています。ところが現代の歌舞伎役者が演じる青果劇では、そのもっとも肝心な場面の台詞において・まるでそこが観客の拍手を受ける場所だと言わんばかりに・末尾が詠嘆調に引き伸ばされています。また劇評でもそれが良いみたいな文章をしばしば見掛けます。しかし、左団次劇の様式を理解していれば・その台詞をどう処理すれば良いかは自然に見えてくるはずです。

(H20・2・23)


○左団次劇の様式・その13:寿海の工夫

このように左団次劇の二拍子のリズムのもともとの発想は、逍遥と同様に・直接的にはシェークスピアから来たものだと吉之助は考えています。発想の原点が伝統の歌舞伎の七五調の音楽的な言い廻しのイメージの否定・破壊にあるからです。しかし、誤解があるといけないので付け加えますが、二拍子のリズムが外国から来たリズムであり・日本古来のリズムではなかったということではありません。日本のわらべ歌・例えば「かごめかごめ」や「ひらいたひらいた」などを聞いてもお分かりの通り、日本の伝統音楽の基本リズムが二拍子であるからです。

ここで注意すべきことは、「かごめかごめ」と同じ言葉を繰り返す時に・同じリズムを単純に繰り返しているかと言うとそうではないということです。最初の「か」は一拍分長く、二番目の「か」は短くなります。最初の「め」は短いですが、二番目の「め」の後には一拍の休止があります。ただし、この休止は休みでも良いし ・「めー」と一拍分伸ばしても良いのです。すなわち、最初の「かごめ」は頭に大きな音価が来て・次の「かごめ」では末尾に大きな音価が来て・このセットでフレーズのまとまり感 を出すのです。本件については民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」・平凡社ライブラリーをご参考にしてください。小泉文夫氏の指摘は、「一本調子」という批判も受けた左団次の二拍子の台詞に いかにして抑揚を加えて・フレーズのまとまり感を生み出し、そこに自然な台詞の印象を生み出すかという課題のヒントになります。これがまさに三代目寿海が試みたことでした。

左団次が台詞を言う場合、例えば「伯母さまは苦手じゃ」ならば(バ/マ/●/ガ/ジャ)となり・二拍子の頭の打ちが強めになります。左団次は抑揚をあまり付けないのです。左団次はそのリズム感(急き立てる気分)を優先したとも考えられます。これはインパクトを大事にする変革者としては当然の選択だと思います。テンポも若干早めであったと想像されます。 こうすると台詞はン・・・と棒で読む感じに聴こえます。そのため「一本調子で焦き込みがちに台辞を畳む」という印象が生まれることになります。

これに対して寿海の場合はリズムの打ちを弱めて・テンポも若干緩めて、(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ)と頭の(オバ ・・)に音価を置き、末尾の(・・テジャ)に音価を置きます。これで(伯母様は)・(苦手じゃ)のふたつのフレーズにまとまり感をつけるのです。こうすると感覚としては五・五の調子に近い感じにも聴こえます。この手法によって寿海は従来の七五調の台詞回しとの間に感覚的な折り合いを付けているのです。つまり左団次型と従来型との折衷と言うことですが、実は寿海は二拍子の基本をしっかり守ってい ます。 寿海が二拍子をちゃんと守っていることは台詞の末尾が伸びていないことではっきりと確認できます。( 注:上記には五・五の例を引きましたが、七の場合は同じ考え方で五に二を足した感じで末尾に音値を置けば・七のように聞こえるのです。昭和38年12月京都南座での寿海の播磨の映像が残されていますから、そこのところ機会あれば確かめてみてください。その他の場面でも寿海の台詞の工夫が随所に見られます。)

現代の役者は寿海の台詞まわしをベースにしていますが、寿海の台詞の根底に二拍子があることを理解していないのです。緩急つけた音楽的な七五の節回しのイメージに捉われているので、(オバサマハ/ニガテジャア●)と五・七で言って・自然に口調を七五調に揃えてしまう。だからフレーズの末尾が間伸びしてしまいます。近松でも南北でも何でも台詞を無意識に七五に口調を揃えてしまうのは、歌舞伎役者の悪い癖です。「その4」で触れた通り、寿海の勝負球は何か(左団次の後継としての台詞回しのポイントは何か)を見極めないで、寿海の台詞を表面的に受け取るから・こうなるのです。特に台詞の末尾が詠嘆調に伸ばされることが左団次劇の様式を決定的に壊します。台詞の急き立てる感覚は見失われることになります 。

別稿「指導者の孤独」でちょっと触れた平成19年6月「元禄忠臣蔵」の仁左衛門の綱豊の台詞廻しは緩急自在で・総体としては世評通り「寿海張り」と褒めても良いですが、仁左衛門が二拍子を意識していないことは台詞の末尾をしばしば詠嘆調に伸ばしているのを聞けば明らかです。例えば「俺はあっぱれわが国の義士としてそちたちを信じたいのだ」という 重要な台詞では・「信じたいのだ」の部分でテンポを急に落として・「シーンジタイーノーダーー」と長く引っ張って、これで左団次劇の様式を壊しています。左団次劇の様式としてはこの部分こそインテンポで息を詰めて押し切るべきです。決め球は直球でなければならないのです。

付け加えておくと・応用手法として(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ )という言い方も考えられます。つまり、五・五に仮想したユニットの頭に音価を置くという考え方です。こうするとインテンポで・左団次が頭打ち(強/弱)のリズムをつけたのと同じ感覚になり、リズムがプッシュされて・左団次の台詞と同じ急き立てる気分が生まれてきます。別稿「元禄忠臣蔵の二枚の屏風」で触れた平成18年11月 「元禄忠臣蔵」の藤十郎の内蔵助の台詞廻しは・リズムに微妙に緩急を入れていますが・感覚的にこれにとても近いものです。この時の巷間の劇評では「藤十郎の台詞廻しが青果の文体に合わない」と書いているものを見かけましたが、左団次劇に何が必要かが分かれば藤十郎の工夫が分かるはずです。急き立てる気分をベースに聴くならば・これは広義に左団次劇(=青果劇)の様式にちゃんと合うわけです。(このことは和事の台詞廻しの本質にも深くつながっています 。このことは別の機会に触れたいと思います。)(この稿つづく)

(H20・1・21)


○中休み:「左団次劇の様式」の周辺

「左団次劇の様式」の連載をちょっと中休みして・その周辺のことを書きたいと思います。年明けから「雑談」コーナーに連載を始めた論考「左団次劇の様式」も二月半ばを過ぎました。これでどうやら半分をやっと越えたかなというところです。「左団次劇の様式」は恐らく「歌舞伎素人講釈」の単独論考として これまでで一番長い記事になると思います。いつもより遅いペースで連載が進んでいるのは・完成した原稿を章毎に切り分けてサイトにアップしているのではなくて、大筋は決めていますが ・原稿が未完の状態なので・各章を都度アップする段階で書き直しながら進めており・この時点でさらに内容を加筆しているので ・それで時間が掛かっています。ひとつには本論考はリズム論・シェークスピアから新即物主義まで吉之助の演劇史観を総動員したものになっているので・論旨をじっくり固めながら進めたいということがありました。

「左団次劇の様式」の二拍子のリズムの件はかなり以前から吉之助の頭のなかにあったものです。これが具体化したのは昨年 (2007年)3月に「急き立てる台詞」というテーマで行なった公開講座でのことでした。内容はロマン派音楽のアジタート(急き立てる・あるいは気ぜわしくという意味 のイタリア語)なリズムのパターンをいくつか取り上げて、これに元禄の荒事・和事に始まって・黙阿弥の七五調・左団次の新歌舞伎までの台詞様式を乗せていく試みでありました。(「アジタート」については吉之助の音楽ノート:シューマン「謝肉祭」をご参照ください。) これを実感するのは音楽を聴き込む必要があって・講座では時間が限られていたので十分な紹介ができませんでしたが、「急き立てる」をキーワードにして・すべての歌舞伎の台詞様式はそのバリエーションと見立てられるということです。このことは「歌舞伎素人講釈」のバロック論で提唱している西欧ロマン派芸術と歌舞伎との類似性に関連する重要な事象です。

したがって本来はこの「左団次劇の様式」の前に・元禄の荒事から幕末の黙阿弥に至る歌舞伎台詞様式のリズム分析がまずありまして・左団次劇は最後の項目に来るのが最初の「急き立てる台詞」の構想でした。しかし、原稿を書き始めてみると・左団次劇の部分が突出して多くなりましたので・後半部分を「左団次劇の様式」として独立の論考にしたというわけです。二拍子は急き立てるリズムの基本形ですから、これをしっかり押さえて置 けば・他のバリエーションの分析が楽になるということもあります。「急き立てる台詞」の前半部分についてもいずれ整理して・サイトにアップする予定です。

もうひとつ・「左団次劇の様式」で吉之助が問題提起したいことは、歌舞伎は台詞廻しについて・これを「調子がいい/悪い」とか「歌う/歌わない」とか・ただ印象批評 で論じるだけで、様式(フォルム)の議論をとても曖昧にしてきたということです。折口信夫は次のように書いています。

『これだけは恐らく歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)

このことは歌舞伎で正しい発声・台詞廻し(エロキューション)があまり顧慮されていないことを示しています。言ってみれば・台詞廻しというのは役者の味でするものだから個性に合わせて 「その役らしく」やればそれでいいじゃないかみたいな感覚です。こういう感覚が役者はもとより・劇評家や「通」と呼ばれる方でも当たり前になっています。ですから時代的に一番近いはずの左団次劇でさえ・その様式が崩れる事態になっても・その事態が正しく認識されないわけです。「左団次劇の様式」前半で書きました通り・左団次の決め球がもはや分からないということです。フォルム感覚の欠如の問題は台詞廻しに限りません。それはいろんなところに現れます。そこで「歌舞伎素人講釈」では、まず左団次劇を皮切りに・ ゆっくりとフォルム論を続けていきたいと思っています。

(H20・2・19)


○左団次劇の様式・補足:時代の構図

演劇に新らしいスタイルを作り出そうと思えば、それに一番ふさわしい題材は当然「現在」ということになります。ですから明治になってからの歌舞伎でも、当時の世相・風俗を取り入れた芝居が盛んに作られました。それらは興行的に当ったものもありますが、しかし、結局そのほとんどは内容的にいまひとつで・一時の花火にしかなりませんでした。芝居に深みを増した人間描写をさらに求めるなら「現在」をそう在らしめたところの「過去」の細密な描写が必要になってきます。芝居の筋の構築には伏線(因果関係のようなもの)が必要なことももちろんありますが、この時代の芸術には個人は世界と対峙しており・個人を通して世界が表徴されるという明確な意識があったからです。このことは19世紀に個人の在り方・生活が急激に変化したことと大きな関連があります。ある意味でみんな気負っていたのです。19世紀半ば頃の西欧の作家たちは自己を歴史に重ね・後世に読まれることを意識して日記や手記を盛んに書いたもので した。また歴史を題材にした長大な物語が盛んに書かれたことにもそうした背景があります。このことは日本においても同様です。

「深刻な・もっと細緻な・もっと痛切な・一家・一城・一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にしてその実は人間全体・世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が作者にもあれば見物人の心にもある。」 (坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

坪内逍遥がこのように書くのは日清・日露戦争など日本固有の状況ももちろんありますが、これは世界的な芸術風潮なのです。逍遥が「桐一葉 」・「沓手鳥孤城落月」のような史劇を書いたのは・逍遥が歌舞伎役者を想定していたことも確かにひとつの要因です。しかし、それよりもっと大事なことは・史劇の方が個人に刻々と迫り・個人を否応なしに巻き込んでいく時代の状況・重圧というものの構図を作品のなかに取り込みやすいし、また見物もそれを感じ取りやすいということです。だから逍遥は大坂夏の陣をその題材に選んだわけです。逍遥は左団次と縁が深い作家ではありませんが、左団次に作品を提供した同時代の作家たちにも同様な想いがあるのは当然のことです。

ですから・左団次劇はもちろん歌舞伎役者である左団次のために提供されたのだから・もちろん歌舞伎として上演され・だから主として江戸の風俗を題材としているのですが、それだけが江戸を背景としている理由ではないわけです。そこには江戸を題材とする内的な必然がありました。個人と状況との関係が明確に見える近過去・江戸を題材とすることは、作家にとっても・左団次にとっても・もちろん見物にとっても 確かな意味があったのです。その方法論によって作家は自分の想いを左団次に託したのです。左団次が新歌舞伎150曲を初演した記念として出版された冊子「松莚戯曲目録」(昭和2年・1927)の前書きに小山内薫は「私は高橋君(左団次)が新作のみの役者になることの・そう遠くないのを信じる」と書いています。左団次に作品を提供した作家たちの新しい演劇への想いがそこに見えます。 (この稿つづく)

(H20・2・17)


○左団次劇の様式・その12:二拍子のリズムが描くもの

二拍子のリズムで勢いよく台詞をまくし立てると、そこにセカセカした・急き立てられた・気ぜわしい感覚が生まれて来ます。そのリズムはともすれば一本調子にも感じられて、どこか機械的で非人間的な感覚も併せ持っています。しかし、 一旦この快速リズムに乗ってしまえば・人はそのリズムに身体を後ろから押されるように熱狂的に興奮した感覚を自然と感じることもあるのです。

久米正雄が「左団次があの一本調子を以って焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて・吾々のそれとピタリと合致する。その調子の緩急を以ってすわなち台辞のテムポーを以って ・知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは・彼を措いて外にはない」と書いたものがそれです。また折口信夫が「あの息長く・脈動するようにあやつられた台詞廻しに誘惑があったのである」と書いたのもそのことです。一本調子の二拍子のリズムが生み出すものは、その時代が持つ切迫した ・背中を後ろから押されるような・急き立てられた熱い思いです。坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

逍遥は20世紀初頭の状況を「無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代」と書いています。これが日本だけでなく・この時代の世界全体を覆っていた気分 なのです。

「深刻な・もっと細緻な・もっと痛切な・一家・一城・一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にしてその実は人間全体・世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が作者にもあれば見物人の心にもある。」

これはこの時代の芸術表現を考える時に見逃してはならぬ文章です。すなわちそれがどんなに個人的に過ぎない・些細なことを 描いているように見えても、それはこの世界全体の在り方と重ね合わさっているという思いです。それは個人が世界と対峙しており・個人を通して世界が表徴されるという意識から出ます。この考え方によって・同じかぶき的心情を材料にしていても・新歌舞伎の様式は従来の歌舞伎と は一線を画するのです。その様式は台詞の二拍子のリズムとして現れます。(この稿つづく)

(H20・2・14)


○左団次劇の様式・その11:新しい歌舞伎のヒント

シェ-クスピア全集を翻訳した英文学者の逍遥がその台詞の影響を受けたと言うのはなるほどと理解できますが、いつ左団次はシェークスピアの知識を得たでしょうか。左団次が松居松葉(しょうよう)とともに西欧の演劇を学ぶために洋行したのは、明治39年(1906)12月から翌年8月までのことでした。この時、左団次は27歳。明治37年に父・初代左団次を亡くして、若輩の身で座頭として明治座を引き継いで2シーズンを経たが、前途は厳しい。そんななかでの洋行でした。この旅で左団次はシェークスピアに出会ったと吉之助は推測します。

洋行した左団次は松葉のガイドでフランス・イギリス・ドイツ・イタリアなどを周遊して(最後にアメリカを経由して帰国)、片っ端から芝居を見て回りました。夕方ある町に着くと ・その晩に劇場で芝居を見て、よく朝は次の町に移動して・またその晩はそこの町の劇場で芝居を見るというような旅であったそうで、風景・名所旧跡などは全然見ていないと左団次は回想しています。さらに英国の俳優学校に行って演技の指導をしてもらったり、名女優サラ・ベルナールや・戯曲家のサルドゥーに会ったりもしています。

言葉が分からない左団次がどういう風に芝居を見たかというと、劇場に入る前に松葉に脚本を読んでもらって、大体の筋を理解してから芝居をみたそうです。そして、芝居を見ている間は松葉とはお互い口を利かないという約束をして芝居を集中して見ました。筋の大体を理解したあとは、俳優としての感性だけで舞台から伝わってくるものを必死で吸収・理解しようとしたということです。明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談で ・左団次は次のような会話をしています。

小山内「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
左団次「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」
(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」)

「当たり前の台詞でもまるで歌を聞いているようだ」というのが、当時の西洋演劇を見た日本人の驚きであったわけです。この頃の西洋演劇はイプセンなどの自然主義演劇が勃興した時期にあたりますが、現代から見ると演技・台詞廻しには様式的な感じが濃厚に残っていました。日本語は音節の数が少ないですから・全体的に平坦でのっぺりした印象があるので、左団次 も小山内薫も西洋演劇の台詞が音楽的なことにショックを受けたと思います。これは現代の我々が歌舞伎の台詞は音楽的であると感じていることと・かなり感覚的なギャップがあることにも注目をしたいと思います。彼らが西洋演劇の台詞の方に歌を聴いているような感覚を持ったということは、そこに非常に大きな示唆があります。左団次と小山内薫は歌舞伎より西洋演劇の台詞の方が音楽的だという印象を確かに持ったと思 います。そう考えると左団次が西洋演劇の台詞の言い回し(エロキューション)の秘密に関心を持たなかったはずがありません。その西洋演劇の台詞術の基本がシェークスピアです。左団次は英国俳優学校でシェークスピアの台詞のリズム様式・弱強五歩格のことを必ず教わったはずです。そして、そこに新しい歌舞伎の台詞術のヒントがあると感じたに違いありません。つまり、歌舞伎の台詞に 明確なリズム感覚を持ち込むことです。

左団次の欧州演劇旅行の成果については歌舞伎史研究のなかで正当な評価がされていないと思います。せいぜい「鳥辺山心中」の幕切れで菊池半九郎とお染が加茂川の河原を歩く時・石ころだらけの河原を歩くのを左団次と松蔦がつま先立ちで歩いた・それが西洋のバレエの影響であるとか言われている程度のことです。しかし、あれほどの欧州演劇旅行だったのですから、後年の左団次に間違いなく大きな影響があったはずです。その成果のひとつが台詞の二拍子のリズムであったと吉之助は思っています。 (この稿つづく)

(H20・2・11)


○左団次劇の様式・その10:シェークスピアの様式

シェークスピア劇の英語の台詞のリズムの要点を簡単に書くと次のようなことです。当時の芝居は基本的に詩劇でした。韻文(音韻を踏んだ文章)が基本ですが、シェークスピアの特徴はブランク・ヴァース(blank verse)すなわち韻を踏まない韻文です。韻を踏まないのになぜ韻文と言うのかと言うと、行末を空白(blank)に置くからです。つまり、文章にリズムがあれば・それが韻を踏んだのと同じ効果を生むことになり・そ れは詩(韻文)になるのです。シェークスピアの代表的な台詞のリズムは弱強五歩格(ianbic pentameter)と言い、「弱い/強い」のリズムが五回繰り返されるものです。「十二夜」冒頭のオーシーノの台詞を見ます。

「If  mu/sic be / the food /of love, /play on.」(もし音楽が愛の糧であるならば、続けてくれ)

上記の台詞は「弱/」のリズムです。弱強五歩格になるのは・これが英語の持つ自然のリズムであるからです。しかし、シェークスピアの台詞すべてが「弱い/強い」のパターンではありません。もちろんいろいろな変形があります。例えば「ハムレット」の有名な第4独白です。

「To be, /or not / to be, / that is /the question」(このままでいいのか・いけないのか、それが問題だ。)

この場合は最初の3拍が「弱/」(ianbic)ですが、4拍目の「that is」は「強/弱」(trochiaic)」になっており、5拍目の「the question」は「弱弱(amphibrachic)」のリズムとなっています。(注:「the ques/tion●」と解することもできます。)こうした拍の打ちの違いは もちろん語句のアクセントから来ます。いずれにせよ「弱 」と「強」の組み合わせによる二拍子が基本リズムになっていることが分かります。このリズムによって役者は台詞を勢い良くまくし立てることが出来て、しかも台詞は音楽的な印象を帯びるのです。ですから、シェークスピアの台詞は「弱/」のリズムを単純に機械的に打つわけではありません。工夫次第で揺れるような台詞のリズム感覚を生み出すことができます。「マクベス」の独白を見てみます。

「Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow, Creeps in this petty pace from day to day・・・」(明日、そして明日、また明日、毎日毎日、このようにゆっくりと過ぎる・・)

このように[「弱/」と「強/弱」のリズムが交錯し、韻律を乱して・台詞に揺れる感覚を与え・それにより不安定な気分を与えることができます。悪夢にうなされる 「リチャード3世」最終幕の独白を見ると、その抑揚の取り方はさらに複雑になります。

「The lights burn blue. It is now dead midnight. Cold fearful drops stand on my trembling flesh. What do I  fear? Myself? There's none else by. Richard loves Richard: that is I am I. Is there a murder here? No. Yes, I am.」(蝋燭が燃えている。今は死んだような真夜中だ。冷たい恐怖の汗がこの身体にあふれ出る。何を恐れている?俺か?他には誰もいない。ここに殺人者がいるのか?いない。いや、いる、この俺だ。)

このようにシェークスピアの台詞では二拍子が基本リズムであって、実際に舞台で役者が台詞をしゃべる時は韻律に合わせて強弱のアクセントを交錯させ・さらにテンポを微妙に伸縮させることで個性を発揮することが可能になります。これがシェークスピアの様式なのです。

このリズムがまさに「様式」(フォルム)であることは、英国人が米国人のシェークスピアを見て鼻で笑うのを見ると・よく分かります。同じ英語でも米国人の場合は台詞が自然に(写実に)傾きがちで・ 口調が滑らかでそのリズム感が際立たず・弱強五歩格の様式が感知されないことがしばしばあるからです。シェークスピア詩劇の古典的様式はそのリズムに現れるのです。このことは新しい時代の演劇を創始しようとした坪内逍遥に大きなヒントを与えたに違いありません。(この稿つづく)

(H20・2・9)


○左団次劇の様式・その9:焦き込む台詞の工夫とは

どうして二拍子のリズムがノイエ・ザッカリッヒカイト(新即物主義)の感覚になるのか。このことを考えます。歌舞伎史的に見れば、これは無意識的に台詞の調子を七五に整えようとする伝来の歌舞伎の台詞廻しの否定・破壊であると考えて間違いありません。そこに新歌舞伎の「新」ということの意味もあるわけです。左団次の台詞廻しは従来の感覚から見ればストライク・ゾーンを外れています から、「一本調子で・焦き込みがち」という否定的見解も生じることになります。だから左団次の死後にある種の揺り返しが起こって・この感覚を修正しようという作用も当然働くわけです。

まあこういう反動化は左団次劇が古典化して・歌舞伎のなかに取り込まれていく・ひとつの自然な過程であるとも考えられます。これは左団次の位置付けが歌舞伎の本流でなかったせいもあります。左団次の作品を継承することになった三代目寿海の苦労もそこにありました。寿海は左団次の芸風の先鋭的な要素を巧みな台詞廻しで和らげることで・新歌舞伎のレパートリーの存続をどうやら果たしたわけです。ですから巷の劇評家が「新歌舞伎の魅力は台詞を朗々と音楽的に歌うことである」と書くのは、いわば歌舞伎が左団次劇を取り込むに当たって・その先鋭的な部分の毒気を抜き去ろうとする過程に似ています。それは新歌舞伎を伝来の七五の抑揚のイメージに置き換えようとする反動的な動きなのです。 そうすれば左団次劇は古典化して確かに「歌舞伎らしく」聞こえるかも知れません。しかし、逆にノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚は弱められることになります。そもそも「歌舞伎らしい」とはどういうことを言うのか・という根本に立ち戻らねばなりません。

話はちょっと変わりますが、明治44年(1911)帝国劇場において坪内逍遥をリーダーとする文芸協会が第1回公演としてシェークスピアの「ハムレット」を上演しました。それ以前にも翻訳劇は上演されていますが、演劇史において「新劇の創始」とされるのはこの帝劇公演です。この公演の評判はあまり結構なものではありませんでした が、この時の芝居で「主役の台詞がせきこみ過ぎである」という評が出たそうです。つまり、新歌舞伎での左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」と批判されたのとまったく同じことを言われているわけです。これに対して逍遥は次のように反論しています。

『 僕の耳に触れた評のたいていは、我々の劇を評するに在来の劇を評するとまったく同じ標準を用いていたようである。たとえば土肥氏の台詞回しをせきこみ過ぎると評した人があったが、その実あの調子が我々の工夫の一である。人物の性格に応じ、その情調に応じて在来の台詞回しにはかってないような調子を用いさせたような例がいくつもある。』(坪内逍遥・「ハムレット」公演後の所感・明治44年6月)

逍遥は「そのせきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言っています。その急き込むリズムは実は逍遥が意図したものだったのです。このように逍遥と左団次がそれぞれ 別の過程でまったく同じ方向(急き立てる・一本調子のリズム感覚)に達していることは注目すべきことです。逍遥はその工夫の背景を上記文中では述べてはいません。しかし、逍遥の周辺の論文を追って行けばその察しはつきます。そのヒントはシェークスピア劇の英語の台詞のリズムなのです。 (この稿つづく)

(H20・2・6)


○左団次劇の様式・補足:演出なのか・型なのか

「左団次劇の様式」連載でノイエ・ザッハリッヒカイトの原典主義について触れましたので、ちょっと補足します。演劇における原典主義(脚本第一主義)とは、作品それ自体が自立した戯曲であり・作品解釈は演出者あるいは役者自身による脚本の読み込みから発した独自のものでなければならぬ・ということになります。

「番町皿屋敷」で播磨が本舞台から旋回する形で一気に花道に駆け入り・七三で止まらず・そのまま揚げ幕へ駆けていく幕切れは「息」あるいは「間(ま)」の視点から見れば「その7」で述べた通りですが、これも脚本の深い理解から出たものです。物体が放物線の弧を描くのは、物体が飛び去ろうとするベクトルに対して別の方向から力が掛かって・その軌跡が捻じ曲がるということを示しています。これがニュートン物理学の教えるところです。もはやこの世には未練はないとして・町奴たちとの喧嘩で死ぬ覚悟で走り出す播磨には、播磨が斬って・井戸に投げ込んでしまったお菊に 対する未練がしっかりと残っているのです。播磨は引き裂かれているのです。だから播磨の軌跡は井戸(お菊)の方向に引かれる形で捻じ曲がるのです。それが本舞台から花道へ旋回する播磨の走りが示すものです。左団次は物理学を知っていたのかって? もしかしたら洋行の時に英国の演劇学校で教わったのかも知れませんね。しかし、そんなことを知らなくても・実際に走ってみればどこかを中心点に置かないと旋回ができないことは 感覚で分かると思います。左団次は身体で分かっていて・幕切れの播磨の心理を形象化しているわけです。

この幕切れは左団次の近代的な役作りのプロセスから出たもので、確かに「演出」と呼んで良いものです。そんなところから「左団次は型は残さず・戯曲だけを残した」(出典はあえて伏す)という見方も出るのかも知れません。それではそれ以前の歌舞伎の役作りにこのようなプロセスが全然なかったのでしょうか。そんなことは決してありません。優れた歌舞伎の型はすべて作品の深い読み込みから生み出されたものです。九代目団十郎はその生涯に「勧進帳」の弁慶を20回(興行)演じました。九代目は演る度にどこかを変えて演じたそうです。現行の「勧進帳」は恐らく九代目最後の明治32年(1899)4月歌舞伎座を原型としており・これを七代目幸四郎を始めとする弟子たちが洗い上げて・完成させたものです。団十郎最後の「勧進帳」も・最後の「熊谷陣屋」も近代的な役作りのプロセスを踏んでおり・間違いなく演出と呼んで良いものでした。

「歌舞伎素人講釈」は歌舞伎の型の概念が団十郎の死後に劇的に変化したということを提唱しています。(別稿「型の概念の転換〜九代目団十郎以後の歌舞伎」をご参照ください。)団十郎自身が「俺が後世の規範になる 型を残す・俺の型を死後も絶対守るべし」などと言ったことは一度もありません。しかし、団十郎死後に歌舞伎を受け継いだ者たちは「九代目団十郎と同じことをしなければ弁慶には・直実には見えない」として・団十郎の舞台の手順を必死で守ろうとしました。その時から歌舞伎の型は「それをしなければ歌舞伎には見えない・同じことをやってさえいればとりあえず歌舞伎に見える」というものになったのです。団十郎を受け継いだ者たちが駄目だった・愚かだったと言うことではありません。歌舞伎自体が時代の背景(江戸)を失った演劇になったからです。歌舞伎を江戸につなぎ留めるために「団十郎はこうやった・菊五郎はああやった」という風に型の意味を変える必要があったのです。 型は残す者がこれを型だとして次代に託すのではなく、受け継ぐ者がそれを型だと認めるから型になるのです。受け継ぐ者が「託された」と感じることの意味が団十郎の死以後に決定的に重くなるのです。 これが型の概念の転換ということです。確かに型という言葉自体は江戸の昔からあったものでした。しかし、江戸の時代の「型」と・団十郎の死以後の「型」はまったく意味が違います。残念ながら巷間では新旧の「型」の意味をごちゃまぜに使っていて・それで良しと しています。

大正時代に生まれた芝居だから江戸とは関係ないというのは誤解です。左団次劇を歌舞伎とする以上は、この型の概念の転換を念頭に入れた上で左団次劇を見なければなりません。「型」の新旧の概念をごちゃまぜに考えているから・「左団次は型を残さなかった」という見方も出てくるわけです。「左団次は型を残さず・戯曲だけを残した」という見方が正しいのならば、左団次の初演した作品群を「新歌舞伎」と呼ぶこと自体が否定されねばなりません。それならばその作品群は「旧劇の残渣を引きずった前段階の新劇である」とでも演劇史に規定すべきです。 もしそうならば『岡本綺堂は左団次のエロキューションを考えながら書かれているのだから・それをはずしたらもう芝居は壊れてしまうのです。左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いているのだから ・あれより他の言い方は考えられないのです』という八代目三津五郎の言葉も否定されねばならないことになります。役者は左団次の言い回し・演技などにこだわることなく、戯曲自体を吟味して・自らに合った演技や言い回しを自由に研究すべしと言わねばな らなくなります。

しかし、これは確かなことだと思いますが・「歌舞伎素人講釈」だけでなく・世間でも左団次の初演した作品群を「新歌舞伎」と呼んでいると思います。なぜ歌舞伎なのでしょうか。初演したのが歌舞伎役者だったからというのではお話になりません。それらを新歌舞伎と呼ぶのは伝承芸能である歌舞伎の系譜の最後に大正期の左団次劇を置くことを認めたということを意味するのです。したがって左団次の演技は演出と言うべき・近代的な役作りのプロセスを確かに含んでいるのですが、受け継ぐ者はこれを明確に歌舞伎の型として受け取らねばならないということです。だから左団次の様式(型)をはずしてしまったら・それだけで左団次劇は壊れてしまって・それは歌舞伎ではなくなるのです。八代目三津五郎の言葉をそのように聞かねばなりません。 (この稿つづく)

(H20・2・2)


○左団次劇の様式・その8:原典主義

様式としては明確に現れないものですが・新歌舞伎におけるノイエ・ザッカリッヒカイト(新即物主義)の思想のもうひとつ大事な点は、脚本を役作りの根拠として・つねに脚本に忠実であろうとする態度です。つまり原典主義です。例えば音楽表現における原典とは楽譜です。即物主義と言うと・ぶっきらぼうで事務的 で冷たいイメージがするかも知れませんが、要するに作曲者の意図は楽譜にすべてが書き込まれているのだから・そこに表現者の恣意的な要素を介入させず・冷徹かつ虚心に作品(楽譜)を見据えることで音楽を演奏しようという態度が音楽表現における即物主義であり、そのひとつの表れが原典主義(楽譜第一主義)なのです。この考え方が新歌舞伎にも強い影響を与えています。

歌舞伎の台本は狂言作者がその時の座組みに従って・その上演の度に書き換えるのが本来の形でした。狂言作者は役者の個性に合わせて・あるいはその時の趣向なども取り入れて台本を書きます。さらに役者から自分の役が悪いとか・台詞が言いにくいとか横槍りが入ったりして・それらの都合で台本が書き換えられることがじつに頻繁にあります。それでオリジナルの形とは相当変わってしまったものが膨大にあります。つまり、歌舞伎の台本は芝居の素材に過ぎないのであって・絶 対的なものではないのです。後に近松・南北・黙阿弥などの作者も出て・そういう名作は大事にされて歌舞伎の財産となりましたが、それさえも細部がかなり改変されて・現在では完全な形で上演される古典作品は ほぼ皆無です。またそれで良いものと歌舞伎ではされていました。従来の歌舞伎は役者第一主義の演劇であったわけです。

こうした考え方を修正したのが新歌舞伎での左団次でした。左団次は芝居の筋の展開の具合が良くないとか・この役は悪いとか・台詞が言いにくいとかいう理由で・場面をカットしたり台詞を改変することがほとんどありませんでした。このことは外部の作家に作品を提供してもらう場合に非常に大事なことです。作家として自分に敬意を払ってくれて・またその作品を大事にしてくれると思うから、作家も左団次のために一生懸命に脚本を書くわけです。作家と演者の間に明確な信頼関係が存在するから、また次の作品を提供しようという気持ちになるわけです。こうして多くの作家がこぞって左団次のために作品を提供し、岡本綺堂・真山青果などの作家も育っていきます。(注:六代目菊五郎の場合は新作上演の時に場面や台詞の改変が少なくなかったことを付け加えておきます。別稿「暗闇の丑松の幕切れについて」を参照ください。)

原典主義(脚本第一主義)の特徴は役作りに現れます。歌舞伎の場合は役者は芸の引き出しを多く持って、新作であっても・この役は和事の役であるとか・この役は古典の似た役柄の性根でやるとか・ある種のパターン処理で済ませることがしばしばです。しかし、原典主義の場合は役の性格はその作品の固有の主題を反映するものであり・役の性格把握の根拠はすべて脚本のなかにあるとするのです。当然脚本の深い読み込みが必要になってきます。

原典主義の考え方は偉大な作家・役者の提携において一時的な形では歌舞伎にもあったことです。初代藤十郎は近松門左衛門を大事にして・その台本の「てにをは」さえ一座の役者に変えることを許さなかったと言われています。四代目小団次と黙阿弥の提携も喧嘩めいたやり取りもあったとは言え・互いの信頼関係があったからこそ名作が次々と生み出されてきたわけです。しかし、新歌舞伎での左団次と作家との関係は「作家は芸術として真摯に作品を提供し・演者は作品に敬意を持ってこれを誠実に舞台に掛ける」という関係であり、それまでの歌舞伎の狂言作者と役者との関係と はまったく次元の異なるものでした。それはノイエ・ザッカリッヒハイトの原典主義という思想を濃厚に反映したものです。

左団次には台詞を間違えるともう一度最初から台詞を言い直したという有名な逸話があります。これは左団次の愚直とも言える真面目な人柄を示すものであり・しばしば笑い話の種にもなりますが、これは左団次の演劇観の根本から来るものでもあります。恐らく左団次は提供してもらった作品を真摯に誠実に演じようとして・例え台詞をトチってもその場を適当にごまかすなんてことを自分に許さなかったのです。そういう役者だったからこそ左団次は多くの作家たちの支持を得たのです。

左団次が新歌舞伎150曲を初演した記念として昭和2年(1927)に「松莚戯曲目録」という冊子が編纂されました。明治37年9月初演の竹柴秀葉の「牛若丸」から始まる154作品がリストアップされています。(松莚は左団次の俳号。昭和2年のことなので・それ以後に初演された青果の「元禄忠臣蔵」などの作品は含みません。)これを見ますと今日上演機会を見るものは10曲 くらいというところですが、その打率が問題ではないのです。 左団次という誠実な役者がひとつひとつ着実に積み上げていった道程の背後に、左団次と同時代の作家たちとの強い信頼関係があったということです。これがこの目録が示すものです。それは同じ時代の空気を吸った者たちだけが持つある種の気分(時代的心情)もまた共有しているということです。作家が描く題材はそれぞれです が、それらの作品は左団次を核として共通した時代の気分を持ち、それが様式となって舞台に現れます。それが左団次劇の様式なのです。(この原稿つづく)

(H20・1・30)


○左団次劇の様式・その7:急き立てる様式

新歌舞伎のノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚は台詞の急き立てるリズムだけに現れているのではありません。「番町皿屋敷」の幕切れを見てみます。往来で旗本奴と町奴の喧嘩が始まったと聞いて・播磨は槍をつかん で・本舞台から花道を駆けてあっと言う間に揚幕に駆け入ってしまいます。これが二代目左団次の型です。

初めて「番町皿屋敷」の幕切れを見た観客はびっくりすると思います。普通の歌舞伎らしい幕切れならば、播磨は花道七三で立ち止まり・いったんお菊の死骸を投げ込んだ井戸の方を見て・恋の未練を断ち切る思い入れあって、ここで槍を改めて構えて揚幕へ駆け入るということになるはずです。それならここで「高嶋屋ッ」と大向こうから掛け声も掛かると思います。普通の歌舞伎の幕切れならば・七三で主役が演技しないで花道を引っ込むなんてことはありません。ところが、そこをしないのが左団次劇です。役者がそのまま揚幕まで駆け込んでしまうと、役者が七三で止まると思っていた観客はあっけに取られるでしょう。掛け声を掛けようとしてもきっかけがつかめず・ウッと息がつまった感じになると思います。これがまさに打ち気に行っている打者の手元で浮き上がる直球の感覚です。観客は見事に三振に切って取られるのです。 (この場面の播磨の駆け込みの意味については別稿「二代目左団次の旋回走法」もご参照ください。)

「修善寺物語」は明治44年5月の明治座初演で左団次が演じたのは夜叉王で・頼家を演じたのは十五代目羽左衛門ですが、第二場の頼家と桂が野を散策する場面において・頼家が歩きながら台詞を言う場面があります。ご存知の通り、歌舞伎というのは役者は立ち止まって台詞を言うのが普通です。舞台で歩みを止めて「ここで私は台詞をしゃべります」と観客にはっきり示してから台詞を言う ものです。しかし、普段の我々は歩きながら会話をしたりもするわけです。だから、立ち止まって台詞を言うという歌舞伎の約束は決して自然な写実の演技ではないのです。「修善寺物語」に限らず・左団次劇では役者が動きながら台詞を言う場面が多く出てきます。これも左団次劇の様式のひとつになるものです。

役者が動きながら台詞を言うのはもちろん写実の発想から来ます。しかしそれはごく表面的なことで、もっと大事なことが息の問題にあります。観客の方は歌舞伎では役者が立ち止まって台詞を言うものだと思っていますから・役者が歩いていると観客の方はまだ台詞を聞く準備が出来ていないのです。だから役者が歩きながら台詞を言うと・観客の方は間をはずされた感じになります。これは野球で言えば・まだバットを構える準備のできていない打者の打ち気をはずすように・クイックモーションですばやく球を投げ込むようなものです。

もうひとつは、呼吸の関連で台詞のリズムと動きのリズムが必然的に一致してくるということです。頼家の台詞のリズムはその歩くリズムに近づくわけです。つまり、その台詞はゆっくりとした二拍子 になっていきます。頼家の台詞「あたたかき湯のくところ、温かき人の情も湧く」は(アタ/タカキ/ユノ/ワク/トコロ/アタ/タカキ/ヒトノ/ジョウモ/ワク)が基本リズムになります。

もしかしたらそのゆっくりしたリズムに急き立てる感覚を感じにくいかもしれませんが・実はそうではないです。「それに比べて鎌倉には温かき人の情がない」という忸怩(じくじ)たる思いが頼家の台詞の裏側にあるからです。それが人間の情の温かさに恐らくは初めて触れた将軍頼家の感動の根源にあるものです。頼家の置かれた切迫した政治的状況は台詞のゆっくりした二拍子のなかに緩慢な形で影を落としているのです。作者・岡本綺堂はそのように台詞を書いているわけです。(この稿つづく)

(H20・1・27)


○左団次劇の様式・その6:急き立てる感覚

寿海が師匠左団次の台詞の台詞回しをどう受け継ぎ・消化して・どのように自らの工夫を台詞回しに加えたかを考えました。 このような工夫を寿海がしなければならなかったのは、左団次劇団が歌舞伎の本流(菊吉を中心とする流れ)に属していなかったことも大きな要因としてあり ました。次に挙げるのは「芸十夜」での武智鉄二と八代目三津五郎での対談からの会話です。

武智:「それまで左団次の芸というのは歌舞伎の方では脇筋で、自分としてはそれを踏襲してたら一流になれないという一種の劣等感みたいなものが寿海にはあって、それで羽左衛門に憧れたりしてたんですね。それで「左団次の芸はこれは大変なものですよ」ということを、三津五郎さんと二人で口を極めて言ったら、それで自身をつけて、それでああ言う名人になったんですね。」
三津五郎:「それでその次に寿海さんが「鳥辺山」をやった時に、二人でそろってニヤッと笑ったもんですよね。以前は左団次の真似をすることに後ろめたさばかり感じてた人が、自信を持って颯爽としていましたね。それ以来、声がすっかり良くなりましたね。」

寿海の新歌舞伎での台詞回しは、寿海が左団次コンプレックスを乗り越えるなかで編み出されたものでした。それほどまでに寿海にとって左団次が偉大な存在であった わけです。同じような左団次コンプレックスが寿海と並ぶ左団次劇団の副将格であった猿翁(二代目猿之助)にもあったと思います。「修善寺物語」は明治44年5月明治座において左団次が初演したものですが、昭和32年歌舞伎座での「修善寺物語」で猿翁演じる夜叉王の映像が残っています。猿翁も台詞回しに定評ある役者でしたが、 ここでの猿翁演じる夜叉王の台詞を聞けば・やはり寿海の播磨の場合と同じことが言えます。幕切れの有名な長台詞を聴けば猿翁には微妙な息の緩急の巧さがありますが、その裏にトントンと勢いで押していく二拍子のリズム感覚が確かに潜んでいます。猿翁がそこに左団次譲りのイメージを見ていることがよく分かります。 また、猿翁にとっては左団次の生き方自体が大きな影響を与えたかも知れません。そしてそれは孫の三代目猿之助の猿之助歌舞伎・スーパー歌舞伎などの試みにも伝わっていると思います。

以上でお分かりの通り、「岡本(綺堂)先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです 」 と言う三津五郎の言葉を考える時には、舞台を見て・役者の台詞の表面的な巧拙だけを聞くのでは駄目です。台詞の表面的な巧拙だけを聴いているから「新歌舞伎の魅力は緩急自在の音楽的な台詞廻しである」 という受け取り方をしてしまいます。何が左団次の台詞の本質なのかを考えて舞台を見れば見えないものが見えてきます。新歌舞伎の台詞の真の魅力は「トントントンと勢いで観客を押していく・急き立てる感覚」です。それが一本調子の二拍子のリズムに現れるものです。このことは新歌舞伎の生まれた大正〜昭和初期・つまり20世紀初頭の時代感覚であるノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚と密接に重なっています。

実は極端に言えば・そこに急き立てる感覚があるならば・どういう手法で台詞を言おうが、それは左団次劇の様式に合致していると言えます。急き立てる感覚はトントンと一本調子で行く感覚が基本 になりますが・決してそれだけではありません。リズムが微妙に遅くなったり早くなったり・一定の間で揺れる場合でもリズムがプッシュされて急き立てる感覚を起こすことができます。振れの間(ま)をひとつのユニットとして捉え て・そのユニットを等分に保つならば・その台詞も広義にインテンポであると言えるわけです。(注: この場合はユニットの頭にアクセントを置くことが大事になります。別稿「元禄忠臣蔵の二枚の屏風」において触れた藤十郎の内蔵助の台詞回しがこれに当ります。 これについては後述。)したがってその表現手法はひとつに限りません。しかし、二代目左団次個人の場合で言えば・その台詞はインテンポの二拍子のリズムであるということになります。さらに左団次劇の基本様式を検討していきます。 (この稿つづく)

(H20・1・24)


○左団次劇の様式・補足:ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)

「左団次劇の様式」連載で触れたノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)について補足がてら考えてみます。ノイエ・ザッハリッヒカイトは二十世紀初頭に勃興し・第1次世界大戦(1914〜18)以降にはやった芸術思想を言います。ちなみに1900年は明治33年であり、1912年が大正元年になります。ノイエ・ザッハリッヒカイトは個人の内面の探求を目指す主観的な表現主義と対立するもので、逆に主観的な要素を極力排して・冷徹に表現を対処しようとするものです。したがって「即物的」という言い方がなされますが、表現主義の立場からみれば無機的・機械的で冷たいという感じになります。逆に即物主義の立場から見れば表現主義はフォルムが崩れていて・自分の感情に溺れすぎという感じになります。

音楽表現におけるノイエ・ザッハリッヒカイトは「楽譜忠実主義(原典主義)」が、そのひとつの在り方とされました。楽譜がすべての表現の拠り所であり、作曲者が楽譜に記したテンポ・和声・アコーギクというものをできるだけ忠実に守って演奏しようとする態度です。これについては即物主義の代表的な指揮者であるトスカニーニがベートーベン:交響曲第3番「英雄」第1楽章について「ナポレオンかアレクサンダー大王か・あるいは誰かにとっては哲学的な命題かも知れぬが、私にとっては単なるアレグロ・コン・ブリオである」と語った有名なエピソードがその思想を最もよく現しています。これに対してもう一方の表現主義の代表的な指揮者であるフルトヴェングラーは「私は楽譜の裏にある作曲者の意図を読む」と 語っています。

しかし、どちらの側も作曲者の意図を尊重している(つもり)なわけで・その点では共通しているのです。作曲者の意図が楽譜にすべて記されているのかという疑問も確かですが、すべてが楽譜に記されていないなら・演奏者が自分の主観で読むことが許されるのかというとそれも疑問です。そういうことで、こういう議論は結局堂々巡りなのです。楽譜忠実主義というのはノイエ・ザッハリッヒカイトの重要な旗印ですが、それが本質的なものであると吉之助は思っていません。

音楽表現におけるノイエ・ザッハリッヒカイトは「イン・テンポ」の思想に明確に現れるというのが吉之助の考え方です。つまり、アレグロならアレグロ・アンダンテならアンダンテという指定を守って、曲冒頭で振り出した指揮棒のテンポをできるだけ正確に保つということがひとつの要件です。テンポを守ることで・楽譜に記された曲のフォルムを明確に印象つけようという態度です。この印象を強調するにはリズムの打ちを明確にする・できればテンポが速めの方が 旋律線は引き締まって・より印象は強くなるということになります。トスカニーニの行き方は後進の指揮者たちに強い影響を与えましたが、しばしばテンポの速さ・直線的な歌いまわしが表面的に模倣されたきらいがあります。大事なのはリズムの打ち(刻み)の深さで、これがあるからトスカニーニの表現は息が深く・歌心(うたごころ)が決して失われないのです。トスカニーニのインテンポの表現をお知りになりたいのならば、ブラームス:交響曲第1番・第4楽章の最後の2分間ほどを独墺系の指揮者のそれと聴き比べてみればよく分かると思います。独墺系の指揮者ならここはテンポをぐっと落として重厚な印象で締めるところです。 この場合は濃厚なロマン性が壮大に広がる感じとなります。トスカニーニはここを速いテンポを押し切って・聴き手を急き立ててい くので、ストイックで厳粛な感じが強くなるでしょう。(興味がある方はYoutubeに音声がありますので・これをお聴きください。)

イン・テンポの表現を視覚的な印象にしますと、建築絵画における新古典主義がそれに相当するものです。別稿「歌舞伎におけるバロック的なるもの:その3:舞台構造」をご参照ください。この論考で紹介した建築家シンケルの設計によるベルリンのアルテス・ムゼウムの横長のムカデ構造の建築、あるいは京都の三十三間堂がトスカニーニの演奏の印象に非常に近いものです。ご承知の通り・吉之助はエウへーリオ・ドールスの「バロック論」に基づき・ロマン派芸術の本質に潜んでいたバロック性が露わに顔を出したのが世紀末芸術の表現主義であるとする見方ですが、崩壊する表現を正常な方向に引き戻そうとする形で・逆にバロック性を強く意識しているのがノイエ・ザッハリッヒカイトの表現であるわけです。

したがって、黙阿弥の七五調の揺れ動くリズムと・二代目左団次の一本調子のリズムは表面上対立しているように見えますが・実はそうではなくて、歌舞伎のバロック性から見ればどちらも「急き立てる(アジタート)」な気分を共通して持つものであり・同じ歌舞伎のバリエーションに過ぎないのです。このことを論考「左団次劇の様式」と・その続編において検証するつもりです。 (この稿つづく)

(H20・1・20)


○左団次劇の様式・その5:二拍子のリズム

「番町皿屋敷」は大正6年2月本郷座において初演された二代目左団次の新歌舞伎の代表作です。まず綺堂の決め台詞とされる台詞を「歌舞伎らしく・音楽的に」言うならばどうなるかを考えて見ます。一般的に歌舞伎らしく音楽的な台詞廻しと言 えば、語調を七五に無意識のうちに整えて・緩急をつけて・ゆったりと歌うように言う黙阿弥調の台詞のことを指しています。これが地球の引力の影響を受けた直球の軌道のイメージです。まずテンポをゆったりと七五調に整えた黙阿弥調のイメージで次の台詞をお読みください。

「伯母さまは苦手じゃ」(オバサマハ/ニガテジャア●)
「散る花にも風情があるのう」(●チルハナニモ/フゼイガ●/アルノォオォ●)
「何を証拠にこの播磨を疑うた」(ナニヲショウコニ/コノハリマヲ/ウタゴウタ)
「一生に一度の恋を失のうて」(イッショウニ/イチドノコイヲ/ウシノオテ)

それでは師匠左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」であったことを念頭に入れたうえで、三代目寿海が上記の播磨の台詞をどう発声しているかを昭和38年12月京都南座での録画映像で見てみます。(別稿「散る花にも風情がある」をご参照ください。)寿海は心持ちゆっくりと台詞を言っていて・抑揚も適度につけていますが、よく聞けばその基本リズムは七五ではなく・二拍子であることが分かります。機械的な印象に陥ることを巧みな抑揚で押さえてはいますが、リズム感覚の根本が実は二拍子なのです。

「伯母さまは苦手じゃ」(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ)
「散る花にも風情があるのう」(チル/ハナ/ニモ/フゼ/イガ/アル/ノオ)
「何を証拠にこの播磨を疑うた」(ナニヲ/ショウ/コニ/コノ/ハリ/マヲ/ウタ/ゴウ/タ●)
「一生に一度の恋を失のうて」(イッ/ショウ/ニ/イチ/ドノ/コイ/ヲ/ウシ/ノオ/テ●)

「伯母さまは苦手じゃ」と言ってから・間を置かずに「所詮頭は上がらぬわ」をサラリと流すように言う。「散る花にも風情があるのう」と言ってから・間を置かずに「ドレそろそろ帰ろうか」をサラリと言う。そこに大正のノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の写実の感覚があるのです。言うまでもなくノイエ・ザッカリッヒハイトは20世紀初頭の世界的な芸術風潮でした。その音楽的様式の基本感覚はイン・テンポ(テンポを一定に保 って揺らさない)ということにあります。これはまさに打者が次は外角にスローカーブが来ると予想しているところへ・胸元内角に直球をポンと投げ込む感覚になります。寿海投手はそれほど球威もスピードもあるわけではないけれど、遅い変化球を待っていた打者は タイミングをはずされて・あっけに取られて球を見送って・三振に取られるのです。

これは左団次の台詞の欠点と言うことになりますが、久米正雄は「一本調子を以って・焦き込みがち」と評し、折口信夫は「現実離れして・生きた人間のする発声法でなかった」と書いています。それは左団次が二拍子のリズム感覚を前面に出し過ぎる感じ(つまり 一拍目にアクセントが付いてリズムの打ちが耳に付く感じ ・恐らくテンポも若干速めだったと思われる)があるのでそういう印象になったと思います。それは従来の歌舞伎の緩急をつけた音楽的な七五調の台詞のリズムから外れる感覚です。つまり従来の台詞回し ではストライクゾーンから外れる感覚になるので「左団次は台詞が下手」みたいな評価になってしまうのです。ノイエ・ザッカリッヒハイトのインテンポの音楽表現はしばしば人間的ではなく・機械的に聴こえるという批判を受けたものでした。 名指揮者トスカニーニはリズムの打ちが明確なので・口の悪い音楽ファンから「軍楽隊みたい」と言われたりしたものです。周囲からそのような批判雑音を言われないように配慮しながら、寿海の台詞回しはテンポをゆったりと保ち・リズムの打ちをあまり前面に出さないようにして・抑揚を適度に付けることで一本調子の印象に陥らないように巧みに台詞の工夫をしているのです。しかし、その根本では寿海は二拍子のテンポ感覚をキチンと守っています。ただそうしていると見せないだけの話です。そして最後をさりげなく直球で決めています。寿海は決してそれが決め球であると相手に悟らせないのです。

このような工夫を寿海がしなければならなかったのは師匠左団次と寿海の芸風がかなり違っていたせいですが、左団次劇団が歌舞伎の本流(菊吉を中心とする流れ)に属していなかったということ も大きな要因です。左団次の死後・新歌舞伎しかできない役者という定評が出来てしまえば寿海自身の歌舞伎界での活躍の場は限られてしまうからです。寿海の芸のルーツとしては左団次とともに十五代目羽左衛門が挙げられます。だから変化球投手寿海が師匠である剛球投手左団次の芸風を生かしつつ・羽左衛門の台詞の技巧を生かす・これが彼自身が歌舞伎界のなかでしぶとく生き抜いていくための・彼なりの工夫であったわけです。これで寿海は左団次譲りの定評を得て地歩を築き、なおかつ古典歌舞伎においても当り役を作って・「台詞の巧い役者」という評判を確立していきます。

だから寿海の新歌舞伎での台詞廻しだけを表面的に聞けば「音楽的で緩急のついた抑揚のある巧みな台詞廻し」という印象になり、緩急のついた音楽的な台詞が新歌舞伎の台詞回しの魅力であるということになるのかも知れません。しかし、師匠左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」であり・「現実離れして・生きた人間のする発声法ではなかった」と言われたことを念頭に入れてその台詞を聞けば、「左団次譲り」というイメージを作るために寿海が何にこだわってきたかは歴然としています。それは一本調子の二拍子の急き立てるリズム感覚 、そして特に肝心なのはその台詞の末尾なのです。(この稿つづく)

(H20・1・19)


○左団次劇の様式・その4:寿海の勝負球は何か

話が変わるようですが、吉之助の野球の思い出話です。その昔・今はなき阪急ブレーブス(現オリックス・ブルーウェーブ)に山口高史という豪腕ピッチャーがいたのをご存知の方も多いと思います。上体がギッコンバッコンして・ぎこちない投球フォームで・球種は少なくて・投球は一本調子の感じ がありましたが、とにかく球が滅法速い投手でした。スピードガンがなかった時代なので実証は出来ませんが、球速が160キロ以上出ていたという話があるくらいです。山口投手がこれも今はなき後楽園球場(現東京ドーム)で八者連続三振の日本タイ記録を達成した時に、吉之助はたまたまバックネット裏近くでその投球を生で見ていました。山口投手は変化球はほとんど投げずに・直球一本槍の投球で、次に直球が来るのは誰の目にも見え見えなのに・あまりの剛速球に打者はただバットを振り回すだけで全然歯が立たず・バットは球にかすり さえしませんでした。まさに快刀乱麻という表現がぴったりでありました。

この時の山口投手の投球ですが、次に直球が来るのが分かっているのに・プロの名だたる打者たちがただ翻弄されるばかりだったのは、その球速が滅法速いこともありますが・その球の伸びが関係しているのです。投手の投げる球はそれがマウンドから捕手のミットに納まるまでに地球の引力の影響を受け るので・直球と言えども実は自然に何センチか落ちているものです。それが通常の直球の球筋 (軌道)として打者の脳裏にインプットされているイメージです。その直球のイメージを持って打者は打席に立ちます。ところがスピン(回転)の利いた直球の場合は・空気抵抗で揚力が掛かり・通常の直球よりその落ち具体が少なくなることがあります。こうした直球は打者には手元で浮き上がるように錯覚され るのです。そのような球を伸びのある速球と呼びます。

吉之助がバックネット裏から見ていると、実は山口投手の球はストライクゾーンを外れて・高めのボールと判定されるような球がほとんどに見えました。打者がバットを振らずに立ってさえいれば・四球連発になっていたように思えました。ところが打者の方がバットを振らずにはいられないのです。打者の脳裏には通常の直球の軌道のイメージが植え付けられているので・その球がストライク高めギリギリに決まると見えるのです。打者はそのイメージでバットを振る・ ところが球はグッと 手元で伸びているのでそんなに落ちない・その結果バットは見事に空を切るというわけです。

吉之助は二代目左団次の台詞廻しというのは・野球で言えばこの山口投手の投球だと思っています。変化球を交えず・一本調子のストレート・小細工を弄さず・球のスピードと伸びで勝負というタイプなのです。その剛 速球はストライクゾーンをしばしば外れますが、球の伸びが良いからバッターはバットを思わず振り回して次々と三振する。調子が悪いと四球連発で自滅ということもあるが、調子が良ければバッタバッタ と打者を斬りまく って・その豪快さで人気があるというわけです。

二代目左団次が直球のスピードと伸びで勝負する豪腕投手だとすれば、その芸を継いだ三代目寿海は本質的に技巧派投手なのです。プロ野球の場合には別に弟子が師匠の個性を引き継ぐ言われはないですが、歌舞伎の場合は伝統芸能でありますから・寿海は師匠の芸の体現しようと必死で頑張ったのです。それでないと観客から「左団次譲り」という世間の評価は得られ ません。しかし、残念ながら寿海投手には師匠左団次ほどの直球のスピードと伸びはない。それではどうやって左団次投手の伸びのある直球で三振バッタバッタ斬りまくるイメージを観客に与えるか が問題なのです。そのために寿海投手は低めに緩急つけた変化球を駆使するのです。それはここぞと言う時に投げる打者の胸元への直球を実際以上に威力あるものに見せるためです。寿海投手の投げる直球は実は少ないのです。しかし、寿海投手は外角低めに遅い変化球をていねいに散らして・打者を惑わせておいて・最後に打者の胸元に直球を投げ込んで三振に仕留める。これで寿海投手は左団次の後継者としての地位を築くのです。

ですから寿海投手の投球を見ながら・そこに師匠左団次の投球のイメージを探ろうと思ったら、その配球を漫然と眺めていては駄目なのです。表面的に見れば寿海投手の真骨頂は「緩急をつけた変化球の配球の巧さ」ということになるでしょう。しかし、 よくよく見れば寿海投手の勝負球はインハイの伸びのある直球だと分かる・この勝負球を生かすために寿海投手は変化球を多用 しているのです。インハイ直球に寿海投手は「豪腕投手左団次の後継者」の意地を賭けているのです。(この稿つづく)

(H20・1・16)


○左団次劇の様式・その3:左団次は偉大なる下手ウマなのか

一方、現代の我々の新歌舞伎のイメージは直接的には三代目寿海(明治19年〜昭和46年)から来ています。三代目寿海は左団次劇団の副将格であり、左団次の死後はその作品のほとんどを寿海が継承しました。寿海は台詞廻しの巧さに定評のある役者で、緩急を巧く使っ た・朗々と歌う音楽的な台詞廻しと言われました。「新歌舞伎の魅力は台詞に緩急を付けて朗々と音楽的に歌うことである」と書いているのが巷の劇評によくあるのは寿海の印象から来ているところが大きいのです。

そうなると左団次はもちろん・寿海の舞台も見てない吉之助のイメージは混乱して来ます。三津五郎は「新歌舞伎の台詞は二代目左団次の台詞廻しで言わなければ新歌舞伎にならない」と言っていたはずです。左団次の台詞廻しはどうやら棒に読む・一本調子で・急き込み気味の台詞のようです。あまり音楽的という感じには思われません。念のため注釈つけると 、歌舞伎で一般的に音楽的な台詞と言う時、それは黙阿弥のような緩急のついた節回しが獏としてイメージされているということに留意してください。劇評に「台詞を緩急をつけて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の魅力である」とあるのは左団次の台詞のイメージとかなり異なると思います。

左団次が新歌舞伎を初演した功績は認めるけれども・実は左団次の台詞の技術が拙劣で適切な表現ができていなかった・新歌舞伎の魅力を初めて明らかにしたのは台詞が巧い寿海であったと言うことなのでしょうか。左団次の台詞廻しに当時の観客は熱狂した のですが、左団次は偉大なる下手ウマであったのでしょうか。どうも巷の劇評を見る限り左団次についてはそのような評価が下されている感じに思えます。しかし、新歌舞伎の作者たちは左団次が主役を演じることを念頭に入れて作品を書いたはずです。どうしてこういう見解の違いが生じるのか・どっちの見解が正しいのでしょうか。

本稿は「正しい新歌舞伎(左団次劇)の様式とは何か」ということを考えます。結論を先に書いておくと・寿海が左団次の様式を自分勝手に改変したということは決してありません。寿海は自分なりに左団次の様式を真摯に消化して・自分のものとしたのです。寿海の台詞廻しは確かに素晴らしかったでしょうが、寿海の台詞を聞いて「台詞を緩急付けて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の台詞廻しだ」と受け取る方が どこか違っています。何故そうした理解が生じたのかも考えてみたいと思います。繰り返しますが、三津五郎の言う通り・「新歌舞伎の台詞を左団次の台詞廻しで言わないと新歌舞伎にならない」わけです。新歌舞伎の作者たちは左団次が主演することを念頭に入れて作品を書いたことを忘れてはなりません。左団次を偉大なる下手ウマと貶めることは新歌舞伎を貶めることに等しいのです。新歌舞伎の正しい姿を考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H20・1・12)


○左団次劇の様式・その2:急き立てるリズム

『新歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調から離れようとしていても、言葉に感情を入れて、それで調子を付けるのです。正しいエロキューションは、新歌舞伎の作者が皆考えていたことで、ただ無意味な節をつけることは嫌っていましたが、正しい台詞廻しは求めていたのです。(中略)リアルにやっても調子の出るところは・リズムがなければ駄目なので、岡本(綺堂)先生には岡本先生の台詞があるのです。「鳥辺山心中」にしても「番町皿屋敷」にしても、岡本先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです。(中略)岡本先生が左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いていられるのだから、あれより他の言い方は考えられないのです。』(八代目坂東三津五郎:名作歌舞伎全集・第20巻・月報)

八代目三津五郎が「新歌舞伎は二代目左団次の台詞廻しで言わないと新歌舞伎にならない」と言っています。それでは左団次の台詞廻しはどんなものだったでしょうか。 現代の役者は新歌舞伎を演じる時に左団次の言い廻しを意識して台詞を言っているのでしょうか。左団次については音質は粗悪ながら録音も残っていますが、一般的に「棒に読む」イメージで捉えられています。悪く言 うと不器用な一本調子のイメージです。しかし、その一方で左団次は「大統領!」という掛け声を受けて・その台詞のリズムは当時の観客から圧倒的な支持を得たのも事実です。久米正雄は次のように書いています。

『人は彼(左団次)の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と言う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている(中略)息の刻みだけで吾々を捉えずにはおかない。」(久米正雄:「左団次の信長」・演芸画報大正4年3月)

久米正雄は急き立てる一本調子のリズムのなかに「今(いま)」を見ているのです。また折口信夫は左団次について次のように書いています。

『二代目左団次のいわゆる新歌舞伎と言われるものも、結局は台詞術に生命があったのである。あの息長く、脈動するようにあやつられた台詞廻しに誘惑があったのである。 しかし、左団次式な対話も・独白も、左団次式になればなるほど現実離れの激しくなっていることが感じられた。生きた人間のする発声法でなかったことは確かである。しかし、演劇上の話術としてはひとつの領域を開くことのできたのは疑いがない。』(折口信夫:「「市村羽左衛門論」・昭和22年2月)

折口信夫が左団次の台詞に「現実離れの傾向がある」と指摘していることは後で考えます。しかし、折口信夫も・左団次の台詞の魅力が一本調子の急き立てるリズムにあることを確かに認めています。急き立てるリズム にどういう意味があるのか。それは新歌舞伎の脚本をリズムをイメージしながら声に出して・繰り返し読んでみるとその意味が次第に分かって来ます。 (この稿つづく)

(H20・1・9)


○左団次劇の様式・その1:新歌舞伎の様式

新歌舞伎とは明治以後に座付き作者ではない・外部の作家が書いた歌舞伎作品のことを言います。しかし、歌舞伎の様式ジャンルとして厳密に新歌舞伎を規定するなら・それは二代目左団次 (明治13年〜昭和15年)によって初演された作品群のことを言います。左団次の取り上げた作家としては岡本綺堂・真山青果が有名ですが、左団次は岡鬼太郎・小山内薫・池田大伍・木村錦花など実に多くの作家の作品を取り上げて初演しました。菊池寛は「二代目左団次は明治大正にかけて俳優として最も意義ある道を歩んだ人であった・その点では(九代目)団十郎・(五代目)菊五郎以上かも知れない」とまで言っています。そのくらい二代目左団次は歌舞伎にとって重要な存在です。

武智鉄二は歌舞伎の様式の十二のパターンということを提唱しました。(武智鉄二:「武智歌舞伎の演出」・昭和30年」)「十二」という数字は多分に語呂合わせのところもありますが、それはまあいいのです。歌舞伎は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、それを蓄積して財産としてきました。その様式を分類してみれば およそ十二パターン見られるということです。そのなかの最後のひとつとして「二代目左団次の新歌舞伎」を武智が挙げています。二代目左団次の業績は歌舞伎様式のひとつとして独立して挙げられるほどのものです。

逆に考えれば、現代の歌舞伎役者にとって最も年代が近い歌舞伎様式である「二代目左団次の新歌舞伎」は、黙阿弥より南北より最も的確に演じられねばならない演劇様式のはずです。観客にとって も最も親しい演劇様式でなければなりません。ところが、最近の劇評を見ると・新歌舞伎について「ドラマの感覚が時代の嗜好にもはや合わない」とか「登場人物の心理が古臭 くさくて・現代人の理解から 遠い」とか安直に決め付けていることが少なくないようです。新歌舞伎が中途半端に古典化して・その感覚の新鮮さが感知されなくなっています。作品と観客との距離が次第に開き始めているのです。これは危ない兆候だと思えてなりません。歌舞伎における左団次の位置を再検証してみる必要がありそうです。(この稿つづく)

(H20・1・6)


○左団次劇の様式・その0:プロローグ

『私、たいていの「勧進帳 」は勤めさせていただきましたけれども、やはり富樫は先代(二代目)の左団次がようございましたな。』(三代目杵屋栄蔵:「日本の芸術」〜三島由紀夫との対談:昭和31年 )

三世杵屋栄蔵(明治23年〜昭和42年)がこう語っています。二十代で歌舞伎座の長唄立三味線を勤めたほどの名人です。対談では二代目左団次の富樫についてはこれしか語っておりません。二代目左団次が亡くなったのは昭和15年2月のことですから・左団次の舞台を生で知っている方も少なくなりました。もちろん戦後生まれの吉之助が知ろうはずがありません。さて・この杵屋栄蔵のひと言から何が分かるでしょうか。

「見たこともない昔の役者の舞台など想像できないし・興味もありません」という方は・「歌舞伎素人講釈」などお読みにならないでしょうが、そういう方は冒頭のひと言に何も感じないでしょうねえ。「左団次の富樫が良いと言っても・所詮 は好みの問題でしょ。」という方も「あっ、そうですか・・」で終わりかと思います。杵屋栄蔵のひと言を読んで・「そんなに良かったという左団次の富樫とはどんなものだったのかなあ」と思う方だけが芸談から果実を得ることが出来ます。芸談を読む場合には「目の前の(現在の)舞台がこれほど素晴らしい・ならば昔の舞台はどれほど素晴らしかったのだろう ・もっともっと素晴らしかったに違いない」と思って読むことです。つまり歌舞伎の規範はつねに過去にあるということです。このことを肝に命じておかねばなりません。それでは杵屋栄蔵のひと言で何が分かるかですが、雑誌「演劇界」増刊「三代の名優」(昭和57年発行)から二代目左団次の項を紹介しておきます。これが手掛かりになります。

『「鳥辺山心中」の半九郎、「番町皿屋敷」の播磨など二枚目系の当り役があるが、それも従来の和事風二枚目ではない。真に男らしい、いわば無骨な外見の内部から滲む色気が魅力だったと言われる。誤魔化しのできない人柄で、台詞を間違えると元に戻って言い直した。またそれで観客の失笑を買わない堂々たる風格の優だったのである。』

左団次の芸風についてのヒントはこれだけで十分です。まずここから線の太い男性的な富樫がイメージできると思います。山伏問答の台詞は一直線・技巧で聞かせるなんて小細工は一切ない。弁慶が義経を打つのを止めた後・感動して思わず涙するみたいなセンチメンタルな要素 もまったくない。男心に男が応える・そういう骨太い富樫であったでしょう。そういうことは彼が演じた新歌舞伎の役の数々の・線の太いイメージから容易に想像ができます。二代目の父・初代左団次の富樫は九代目団十郎の弁慶を相手にして非常に評判の良いものでした。芸風の似た息子 ・二代目の方も富樫に相性が良ろしかったということが納得されます。

もうひとつ・左団次と富樫との相性がいかに良かったかということは、左団次が「鳴神」・「毛抜」など歌舞伎十八番の復活を多く手掛けていることからも推察できます。左団次の芸風は 歌舞伎十八番とその本質にどこか相通じるものがあったと考えられるのです。つまり左団次の富樫というのは別格の存在であって、他の役者の富樫が良かったということと・左団次の富樫が良かったということは同次元で論じられないと吉之助は推測します。このことが明治 以後ほとんどの「勧進帳」長唄三味線を勤めてきた杵屋栄蔵のひと言でも裏付けられると思います。疑うことなく・二代目左団次の富樫は良かったと杵屋栄蔵のひと言で吉之助は確信を得たのです。

このことから翻って・富樫の性根はどうあるべきかも検討することができます。現代の我々が富樫の理想の役者としてまず思い浮かべるのは十五代目羽左衛門だと思います。羽左衛門の富樫は幸い映画になって残っています。しかし、左団次の富樫は羽左衛門のそれと印象がかなり異なったもの だったと思われます。羽左衛門の富樫が間違いだと言うのではありません・それは確かに素晴らしかったでしょうが、作品本来の富樫はずっと線の太い役柄であったと想像されるのです。富樫が太い筆致で描かれるのなら「勧進帳」のドラマはどのような様相を呈するのか・ということは別稿「勧進帳についての対話〜富樫の心情を考える」をご参照ください。芸談ひと言で・ このように想像をどんどん膨らませていくことが出来ます。そういう役に立つひと言に出会うことは決して多くはありませんけどね。しかし、想像力を働かせながら芸談を読むことはとても有益なことなのです。

生(なま)の舞台を見ていないと芝居は語れないと思い込んでいる人が少なくありません。しかし、それは大きな誤解です。生で見てない舞台を論じることはできない などと思っていたら、 観劇歴の短い方はついこの前亡くなった六代目歌右衛門さえ語れないことになる。これでは六代目菊五郎・ 初代吉右衛門も語れません。まして初代団十郎や初代藤十郎などとても語れません。それでは歌舞伎を論じることなど出来ません。むしろ逆に自分が見た生の舞台の印象にこだわって・自分はこれが良かったんだからこれが絶対正しいんだと決め込んで、それで誤解をしていることも少なくないかも知れません。その舞台に感動したのだから・確かに良かったと思いますよ・その思い出は大事にして下さい。しかし、歌舞伎を見る基本は「目の前の(現在の)舞台がこれほど素晴らしい・ならば昔の舞台はどれほど素晴らしかったのだろう」と想像することです。 見てない過去の舞台を想像することこそ歌舞伎鑑賞の王道です。以下「二代目左団次劇の様式」ということで考えたいと思いますが、 本稿をそのようにお読みくだされば・見えない舞台が見えてくるはずです。ということで、吉之助と一緒に・大正時代の二代目左団次の舞台へどうぞ・・。 (この項つづく)

(H20・1・1)


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