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吉之助の雑談12(平成19年7月ー 12月 )


○来年は武智鉄二没後20年

来年(2008年)は吉之助にとって・ふたつの点で大事な節目の年です。ひとつは名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100年ということです。カラヤンについては・来年は「メモリアル」を冠した演奏会やCDの発売が目白押しで 世界中で企画されているようですから・賑やかな年になることでしょう。もうひとつの節目とは吉之助が師匠と仰ぐ武智鉄二の没後20年ということです。武智鉄二が亡くなったのは1988年7月26日のことでした。

武智鉄二の名前は・最近の歌舞伎の世界ではほとんど話題に挙がらなくなりました。「武智歌舞伎」もはるか昔の出来事のようです。しかし、今の藤十郎の舞台を見れば・その芸の原点にあるところの「武智歌舞伎」での修練とはどんなものであったか・ということも思い浮かぶと思います。吉之助はかろうじて晩年の武智演出の舞台を数本見て・講演を聴いたことがあるくらいのもので、個人的に武智を存じ上げているわけではないので・勝手に「我が師匠」としているのですが、もちろんその著作は吉之助にとってはバイブルです。生前の武智に影響を受けたと発言している方は少なからずいらっしゃいます。しかし、その多くが武智理論の表層的な摂取に留まっていると思います。例えば階級闘争史観やフロイト心理学を作品解釈に取り入れたりというようなことです。しかし、根本思想において・批評の世界で武智の路線を継承発展したと思える方は残念ながらほとんどいないようです。

歌舞伎批評において武智が重要であるのは、芸能の世界に「伝統芸能」あるいは「クラシック(古典)」という概念を明確に提示したということです。この認識から武智は伝統というものが民族に及ぼしている影響とは何か・伝統に立ち返ることはどうしたら可能か・ということを考えるのです。現代において・この問題が重要さを増していることは言うまでもありませんが、しかし、実はこれがもっとも疎かにされている問題です。これでは武智の名前が忘れ去られるのも無理もないことです。

口上」で述べました通り・本サイト「歌舞伎素人講釈」のタイトルは杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」のもじりですが、直接的には師・武智が最晩年に雑誌に連載をして・その死で中断となってしまった記事の表題を戴きましたものです。つまり吉之助が師・武智を継ぐと宣言しているというのが実はその「心」であります。僭越ではありますが・吉之助は武智の提示した概念を少しつづでも 検証発展させたいと思って・日々努力しているつもりです。サイト「歌舞伎素人講釈」も来年で開設8年目となりますが、まあ武智理論の後継としての道程は取れているかなと思っています。来年は師・武智追悼の記事も出さねばならないですね。

(H19・12・7)


○随筆には観が・批評には論が

劇作家野口達二先生は、昭和43年から10年間、編集者として雑誌「歌舞伎」(第3次)の編集に携わりました。雑誌「歌舞伎」(全40号・ 増刊号を除く)は吉之助も参考にしている貴重な資料です。その野口先生がこんな思い出話を書いておられます。出来上がった創刊号を作家・大仏次郎宅に届けに行った時、たまたまその傍らに映画監督・内田吐夢氏がいて「この雑誌、劇評を載せないの?」と聞いたのだそうです。

『私が肯いて、「劇評を書くほどの人なら、それなりの論をお持ちだろうから、むしろ、その劇評をバックボーンになる論なり、観なりをお願いするつもりです。随筆には観が、 批評には論がにじむ出てくるはずです」と答えたら、(中略)内田先生が「それじゃァ早晩、筆者が底をつくんじゃないかな」と予言された。その予言が的中して5年目頃からアップアップを始めた。私が何度も、 止めようかと思う・・と仲間に語った裏には、実は今だから言えるのだがそんな一因もあり、雑誌は10年で終った。2年目頃になって、雑誌の評価が定着してきた時分に、多くの劇評家から自分も何か書きたい・・という申し出がよくあった。そんなとき私は、両先生に話したのと同じ趣旨のことを言って、テーマを指定せずに、枚数は何十枚でもご自由に・・と言って下駄を預けている。だが、時折催促しても、一向にまとまる様子もなく、まるでその日暮らしのようないつも同じ返事が戻って来て、少なからず落胆したものだった。』(野口達二:「創造的で、自らが傷付く厳しさがある〜当世劇評家心得」・「演劇界」昭和57年2月号)

「随筆には観が・批評には論がにじむ出てくるはず」というのは・本当にその通りだと思います。しかし、雑誌ひとつ続けていくのも大変なことですね。吉之助は振り返って みて・今年の歌舞伎界の最大の「出来事」は雑誌「演劇界」の休刊であったと思います。リニューアルされた新・「演劇界」についてはこれからだと思いますのでコメント はしません。しかし、老舗雑誌「演劇界」が途切れたわけで、吉之助はやはりこれをひとつの区切りだと考えます。そこで野口先生の言を思い出したわけですが、 「演劇界」休刊の背景は野口先生の書いている事柄と似たようなことだろうと思います。野口先生の心配が25年後に的中しちゃったということかな。

つまり、批評をするにはそのバックボーンとなる思想・哲学の構築が必要だということです。これは思想が出来上がってなければ批評をしちゃ駄目ということではなく 、批評をしながら思想を少しづつ構築していくことでもちろんいいのです(普通は大体そういうものです)が、いずれにせよ思想というものが批評の背景に意識されなければなりません。読む側も「 批評には論が背後にある」なんてことが分からなくて・ご感想と劇評の区別が付かない方が多くなっているようですし、劇評というものが・それなりの役割を持つということはこれからますます難しくなると思います。これは音楽や文学その他の批評も同様なことが言えると思います。

(H19・12・5)


○「ふり」でいい

『演劇の面白いところは一回性じゃなくて・何回も同じことをやらなくちゃならない。意識して演技を組み立てないと、毎回同じクオリティを保つことはできない。けれども日本の演劇界は一回性や瞬発力に重きを置いてきたので、毎回全力でやらなけりゃと考えてきた。それが日本的な精神論と結びついていて、本当の自分とか本心とか、心からの演技でないと駄目という感覚がどうしてもある。これは教育の世界にもあると思います。僕は今、小学校や中学校の教育に関わっていますが、心から分かり合えないと友達じゃないとか、すごく子供を追い詰めている。「ふり」でいいと思うのです。子供達と演劇をやっていて面白いのは、「ふり」でいいというと元気になる。』(平田オリザ・対談「脳と演出」・SPT・世田谷パブリック・シアター02)

名優と言われる映画俳優の方が対談で「その役にいかになりきるか・脚本からその背後にあるものを読み取って・この人物ならどのように行動するかということを徹底的に考える」と語っていました。そういう役作りのプロセスはとても 良く理解できますし・その俳優さんの真摯さがそこにあるわけですが、ある一面ではこれはとても近代的な役作りのプロセスです。初代吉右衛門は楽屋で扮装を済ませてじっとひとりで静かに 出番を待っていて、「播磨屋さん」と声を掛けられると「・・私は加藤清正です」と答えたそうです。これは吉右衛門の人柄の真面目さを示す笑い話ですが、同時に・吉右衛門の演技プロセスの「近代的」な一面を示してもいます。対する六代目菊五郎の楽屋は来客でにぎやかで、菊五郎は出番になるとちょっと鏡を見てから・その人物になって出て行ったそうです。そういう意味で菊五郎は近代的なセンスを持ちながらも・前時代的な「役者」の感覚がまだ残っていた人だったと思います。

現代演劇の役作りのプロセスには「その役の人格になりきらない演技は嘘っぱちの演技であり・嘘の演技では芸術家としての真実が保てない」という強迫観念がその裏に潜んでいるのかも知れません。それは「気持ちの余裕がなくて・遊びを遊びと受け取れないで馬鹿正直に受け止めて・針小棒大に怒ってしまう」ような・どこか余裕がない現代の時代感覚を示してもいるのです。「ふり」でいい・と言われると、何か憑きものが落ちたように演技が楽になるような気がします。これは芝居を見る観客にとってもそうじゃないかと思います。

(H19・12・1)


○歌舞伎と劇場

『私が思うには、歌舞伎という演劇の演技と演出は融通無碍と言ってもいいような自由さを持っている、と思わせている。私は本当はそうではないと思う。だけれども現実には、歌舞伎はどこでもできるんだ、どこでやっても広いところでも狭いところでも同じであるみたいな、そういう認識が近年は役者にもありますが、それはあまりいいことではないと思っています。歌舞伎にはそれにふさわしい空間が当然あるはずです。』(服部幸雄:対談「「大いなる小屋」から二十年」・歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」・39)

その著書「大いなる小屋」・絵本「夢の江戸歌舞伎」などで歌舞伎劇場の変遷を研究なさっている服部幸雄先生がこのように語っておられます。なるほど歌舞伎は「どんな劇場でもそれなりにできちゃうんだよ」という柔軟性を持っているよう に見えますが、劇場に合わせて表現を適当に変えて・それで型がルーズな方向に行っちゃうことも「まあいいや」で済ませるところがある かも知れません。旅巡業でいろんな場所で芝居打つことが多いですから・あまり入れ物(劇場)にこだわらない習い性が出来ちゃってるのでしょう。 これは「歌舞伎は歌舞伎座でしか見られない」ということになればともかく・現在の興行形態からすると無理からぬところはあります。しかし、プロの料理人が食器にこだわるように・芝居でも入れ物はとても大事ですね。

オーケストラが活動拠点のホールを変えると響きが自然に変わってしまうように、劇場の変化によって歌舞伎が変化してきたということも確実にあるのです。その昔・利倉幸一先生が「歌舞伎を駄目にしたのは歌舞伎座の広い舞台である」というようなことを書いておられたと記憶しています。歌舞伎座改築の話題はその後の進展を 聞きませんが、改築するなら「舞台をひと回り小さくしてくれ」と言っても松竹さんは聞いてくれそうもないですが、せめて舞台をこれ以上広くは・客席数をこれ以上多くはしないでいただきたいと切にお願いしたいところです。

(H19・11・28)


○続・パリ・オペラ座の「勧進帳」

先日テレビで海老蔵のドキュメンタリー番組をやっていたので見ました。宗家の御曹司に生まれると・その苦労も並大抵ではなく、海老蔵も葛藤を乗り越えてここまで来たのだなあということが察せられました。ところでその番組のなかでパリ・オペラ座公演(平成19年3月)の「勧進帳」で・弁慶と富樫の立ち位置を逆に・つまり弁慶を上手に富樫を下手に持っていってはどうか・と海老蔵が提案したことで父・団十郎と海老蔵が口論して、団十郎が「それは絶対おかしい」と強い口調で却下する場面があって興味深く思いました。番組では背景が十分説明されていませんでしたが、パリ・オペラ座公演では制約があって通常の花道が設置できず・仕方なく本舞台前のオケ・ピット部分に花道を真横に架設するという変則構造をとっていました。そのために 「勧進帳」は舞台での人物の流れがギクシャクして・居心地があまり良くありませんでした。このことを海老蔵は自分なりに悩んでいたようで、それが提案の背景にあったようです。

歌舞伎は巡業などで・舞台構造として歌舞伎に適さない場所で公演することもしばしばですから融通性を以って・妥協もしながら処理されて います。これまでに「勧進帳」が花道のない場所で上演されたこともあったでしょうが、多分その場合は幕切れは引っ張りで終わり・弁慶の飛び六法はなしということになったと思います。パリ・オペラ座の 横の花道の場合は団十郎がそれだけ売り物の飛び六法にこだわったということだと思います。しかし、本舞台前に横に花道を設置したのはやっぱり無理があったようです。義経一行は下手から登場して花道に左右に並びますが、「いでや関所を踏みやぶらん」で四天王が下手 方向に・つまり下手に立つ義経に向かって詰め寄りのポーズを取った時には、吉之助は四天王は気が狂ったのかと吃驚しました。この後一行は関所(本舞台)に行くのに・下手から入ります。あれもうお帰りですかという感じがしました。どうやら下手が関所の方角らしい。舞台前面の花道部分が花道としてだけ使われたわけではなく、義経が弁慶に感謝し・弁慶が泣く場面(「判官御手を取り給い」)はこの部分で演じられました。なるべく 客席に近い位置で芝居を演じたい気持ちは判りますが、「横の花道」と言いながら・やはり本舞台の前端部分にすぎないことを自ら暴露したわけです。幕切れは弁慶が下手に立って幕外になり・これは弁慶は下手から上手に飛び六法するのかと思わず緊張しました。ところが弁慶はおもむろに上手にスタスタと歩き・改めて上手から 下手へ飛び六法を踏んだので、まあ確かにこうでなくちゃいかんねえと何だか苦笑してしまいました。しかし、そっち(下手)は関所の方角じゃなかったのかね。 こういう混乱は舞台の方向性が観客に感知されないから起こるわけです。

「富樫が上手に・弁慶が下手に立つ事は重い意味があるから・これを変えることは許さない」という団十郎の判断それ自体は正しいです。しかし、それ以前のこととして ・団十郎を招聘しておいて客席を潰してでも花道を設置することを考えなかったパリ・オペラ座は非礼だと思うし、団十郎もこういうことはナアナアで済ませず・芸術家の信念として・NHKホールでのような花道で も良いから・花道設置を要求する毅然たるところが欲しかったと思います。やはり「勧進帳」には花道が必要なのです。海老蔵の提案通り弁慶を上手に富樫を下手に配置しても舞台の流れがどれだけ改善できるかと言えば分からぬところはあります。しかし、人物の動線をスムーズにして・舞台の方向性を整理したいと思って・海老蔵がいろいろ悩んだということはそれなりに評価して良いと思いました。パリ・オペラ座で海老蔵は舞台から客席中央の通路を飛び六法で駆けましたが、なるほどこういう伏線があってのことかと納得がいきました。(別稿「パリ・オペラ座の勧進帳」をご覧下さい。)

(H19・11・23)


○「禁問」とかぶき的心情・その6

「番町皿屋敷」の台本を見ると、先行であるところの「播州皿屋敷」から怪談要素をきれいに抜き去り・このような愛のドラマを岡本綺堂が書き上げたことに感嘆の念を抱かざるを得ません。凡庸な作者なら ば・あの「一枚・・・二枚・・・」という怪談感覚をクライマックスに置かないで芝居が書けるとは到底思えません。もちろん「番町皿屋敷」にも「一枚・・・二枚・・・」の場面はありますが、綺堂のドラマへの位置付けは全然 違っています。

本稿をここまでお読みになればお分かりと思いますが、歌劇「ローエングリン」において「禁問」とされるものは・「番町皿屋敷」では皿を割るという行為ではありません。播磨は「何が不足でこの播磨を疑うた・何を証拠にこの播磨を疑うた」と言っています。直接的にはこの「播磨を疑うという行為」が「禁問」に相当 します。皿を割るという行為は「播磨を疑う」という行為を代替するものですが、そのこと自体に意味はないのです。 これは黙阿弥の「三人吉三」でお家の重宝が百両の価値に代替されて・百両の金包みがあっちへ行ったり・こっちへ行ったりして・ドラマを生み出すのと同じことです。つまり、どちらの場合にもそこで価値の転換が起きています。「番町皿屋敷」では「播磨を疑う」行為がお皿を割る行為に代替されます。極端に言えばお菊が播磨の衣装を焼いても・盆栽を斬っても・それが「自分を疑う」行為 ならば播磨はお菊を斬ったでしょう。しかし、それでは「皿屋敷」にならぬという・ただそれだけのことです。「一枚・・・二枚・・・」の場面にドラマの核心を置かないということに近代人綺堂の独創性があります。

播磨も・お菊もかぶき者であるということは先に書きました。かぶき者には彼ら独自の論理があります。命を張って問いを問うたならば・問われた者は答えねばならぬ・しかし答えを聞いた者は死なねばならぬ・そして答えた者もまた死なねばならぬのです。これがかぶき者の論理です。同じようなドラマは歌舞伎には数え切れないほどあります。例えば「沼津」での平作と十兵衛です。ですから播磨も・お菊もかぶき者の本質において悩み苦しみ・禁問を犯し、皿を割り・最愛の人を斬り・そしてどちらもはっきりと自分の本質を意識しながら自ら の意志で滅びます。「番町皿屋敷」は間違いなく近代人のドラマですが、かぶき的心情と重なるところが実に大きいのです。また同様に歌劇「ローエングリン」もかぶき的心情のオペラであるとさえ言えます。

「番町皿屋敷」はついちょっと昔(大正5年・1916年)に初演された作品 ・つまり本来は現代人にとって最も親しい作品であるはずなのに、現代人にとって古典より理解しがたい芝居になっているようです。 本作の初演時にどれほど新鮮な感動を当時の観客が受けたか・このことを想像しなければなりません。二代目左団次(播磨)と二代目松蔦(お菊)による舞台は、まさにそのような舞台であったと思われるのです。

(H19・11・20)


○「禁問」とかぶき的心情・その5

一方、エルザの方から見れば・禁問を掛けられたままで(つまり夫が何者かということを知らないままで)ローエングリンとの愛にただ生きよというのは、いわば「愛の監獄状態」なのです。「この私のところへ喜んで来たとおっしゃりながら・心のなかではやっぱりお帰りになりたいのね」という疑いがエルザの心のなかに湧き上がってきて・彼女はそれを抑え切れません。逆に言えば・それほどに彼女のローエングリンへの愛は強いのです。エルザもまた自分の本質のなかに自分が生かされていないと感じています。それが禁問を発してローエングリンを試すという行為になって現れるのです。もちろんその先に破滅が待っているということはエルザにはっきり分かっています。それでもその気持ちを抑えきれないのです。このような「 どうにも自分が抑えきれない」という感情もまた浪漫派的な感覚です。この感覚もまたかぶき的心情に重なることは言うまでもありません。

お菊の場合もまったく同じで・彼女は播磨が自分を大事にしてくれていることはよく分かっているのですが、お菊も自分が「愛の監獄状態」に押し込められていると感じているのです。ふたりが恋人関係であることは秘密にされていて、公的には厳然として主人と女中の関係です。芝居では家中の者さえ播磨とお菊の関係を知る者がいないようです。このような状態を我慢して受け入れよ・不満を言うなというのは、お菊にとって禁問を掛けられているのとまったく同じです。こういう状態のなかで・お菊の心中はジリジリとしているわけです。播磨の見合い話などを耳にすれば、自分は体よく玩具にされているだけなのかというような疑いもお菊の心のなかに湧いて きます。そのような葛藤が、それをやったらお手討ちは逃れられぬと分かっていながら・お家重宝の皿を割って・播磨の心を試すという行為になって現れるのです。したがって、エルザの行為も・お菊の行為も・どちらも相手の愛する男と刺し違えて死ぬに等しい行為です。まさにかぶき的心情による行為に違いありません。ローエングリンは最後に次のように言っています。

『あなたの罪には罰はただひとつしかない。その罪の厳しい辛さを、私もあなたも受けるのだ。我々は離れて・分かれていかねばならない。これが罰だ、これが贖いだ。』(第3幕第3場)

ローエングリンは破滅する。つまりローエングリンはエルザの元を去り・聖杯の騎士に戻るわけですが、 これからの聖杯の騎士としての生活は彼にとって愛を奪い去られた生活です。播磨もまた破滅します。播磨は幕切れに町奴との喧嘩に飛び出します。この後に播磨が生きて家に帰ってくるはずがありません。だから「家重代の宝もくだけた・播磨が一生の恋も滅びた」の台詞はセンチメンタルな詠嘆調に陥ってはならぬのです。お菊を斬って・その死骸を井戸に投げ込んだ後に播磨の頭にあるのは、どのような罰を・どのような贖いを自分に課するかということです。旗本奴の本質に戻って・なおかつその罰を自分に課すならば・それは派手に喧嘩して死すということしかありません。 (この稿つづく)

(H19・11・17)


○「禁問」とかぶき的心情・その4

「番町皿屋敷」のお菊が播磨への愛ゆえにお家重宝の皿を割ってしまう行為は、歌劇「ローエングリン」においてエルザがローエングリンに対してその禁じられた問いを発してしまう行為と重ねた時にその意味がはっきりと見えてきます。このことは決して偶然ではありません。岡本綺堂の「番町皿屋敷」は大正5年(1916年)の初演。それは状況に対峙して・ 自らの意志によって自分を選び取ろうとする個人思想の影響を強く受けている のです。もちろんそういう考え方がそれまでの歌舞伎に全然なかったわけでもありません。むしろ心情としては歌舞伎にはそれが満ち溢れています。「歌舞伎素人講釈」ではそれを「かぶき的心情」と呼んでいます。しかし、個人と社会・個人と状況 を対立構図として明確に意識することは・江戸時代の歌舞伎にはまだなかったことで した。お菊の怪談伝説(播州皿屋敷)自体は江戸の昔からあるものですが、綺堂はこれを大正の時代感覚で再解釈して・新釈「皿屋敷」を作り上げたのです。その創作過程はワーグナーが中世ドイツの伝説を19世紀のオペラに仕立て上げた過程とほぼ同じものと考えることが出来ます。

『はっきりこうなることを知りながら・愛の避け得ぬ本質のゆえに倒れ・身を破滅させたこの女性、恋焦がれながら愛する彼をしっかりと捉えられないと感じた時・わが身を破滅させてしまいたいと思ったこの女性、まさしくローエングリンに触れたがために身を滅ぼしていかねばならず・またこの男をも破滅させてしまう女性。 そのようにしか愛することのできなかった女性。』

ワーグナーの手記のローエングリンを播磨に・エルザをお菊に読み替えれば、それがそっくりそのまま「番町皿屋敷」にも当てはまることが分かります。「禁問」とは絶対的な服従の要求です。そのことを不満に思うことも・異を唱えることも許されないということです。「ローエングリン」の場合は愛への絶対的服従・永遠の隷属の要求ということです。まあ言ってみれば・「男の我が儘」ということかも知れません。そのような状態にエルザは敢然と反抗するのです。ワーグナーが「私を完全な革命家に仕立て上げたのは他ならぬエルザなのだ」と言っているのはこのことです。ローエングリンの作曲当時のワーグナーは革命運動に身を投じており、ドイツ国内では人相書を公布され・指名手配されていたため、1850年のワイマールでの 本作初演に関与することが出来ませんでした。ですから歌劇「ローエングリン」は中世ドイツ伝説を借りてはいますが・新時代の感覚での再解釈であるのです。(その後の歌劇「ローエングリン」の世間の受容はその方向に行かなかった・例えばヒトラーがドイツ精神の精華として この作品を政治的に利用したことは非常に深刻な問題ですが、これはまた別の問題です。)禁問を発そうとするエルザと・これを押し止めようとするローエングリンとの第3幕 第2場でのやりとりを見てきます。

ローエングリン:「私の犠牲を贖うただひとつのものは、あなたの愛のなかに求める他ない。だから、いつまでも疑いの心を起こさず、あなたの愛の保障を私が誇れるようにしておくれ。」
エルザ:「おお、何と言う言葉でしょう。前には私を偽ろうとなさり、今度は悲しませることをおっしゃるとは。あなたが捨てていらした運命は、あなたのためにはやっぱりとても幸せなものだったのね。この私のところへ喜んで来たとおっしゃりながら、心のなかではやっぱりお帰りになりたいのね。おお、私にとっては、私の真心だけあればいいとは、私はどうして思えましょう。私はほんとうにみじめですわ。」

ここでローエングリンが「私が犠牲にしたもの」と言う意味は・まだこの時点で明らかにされていませんが、彼が聖杯の騎士という崇高な職務を捨てて(すなわち彼本来の本質を捨てて)彼は今エルザとここに居るということを指しています。ローエングリンはエルザとの愛に満たされながらも・自分は自分の本質(聖杯の騎士)を裏切っていると言う自責の念に苛まれているのです。逆に言えば、こうして自分はその本質を裏切るという犠牲を自分に強いているのだから・あなたは自分の愛だけに応えて欲しいということです。これは確かに見方によっては「男の我が儘」ということですが、「人というものはどこかで本来の自分を裏切り・その自責の念を押さえつけながら・別の人生を生きている」というのが浪漫派的な人生観なのです。この感覚がかぶき的心情に重なることは言うまでもないことです。

播磨の場合を見てみます。播磨は白柄組に所属する旗本奴であり、本来は傍若無人な振る舞いをして・いつ死んでも良いという風に自暴自棄に生きるのがその本質です。しかし、播磨は今はお菊という愛する女性が居り・その粗暴な行動に自制を掛けています。播磨は「白柄組のつきあいにも吉原には一度も足踏みせず・丹前風呂でも女子の盃は手に取らず」と言っていますが、女性に関することだけでなく・恐らく旗本奴にあるまじき「お堅い振る舞い」をしていたに違いありません。そのことで播磨は仲間に対しても・自分に対しても裏切 り続けているという感覚を持っています。逆に言えば・だからこそお菊から自分への全面的な愛を感じていたいということです。(この稿つづく)

(H19・11・13)


○「禁問」とかぶき的心情・その3

ここで全く別の視点から「番町皿屋敷」のドラマを見ることをしてみたいと思います。ワーグナーの歌劇「ローエングリン」(初演1850年=嘉永3年)は、ワーグナーが楽劇形式に移行する以前の最後のロマンティック・オペラの傑作です。大筋は次のようなものです。

中世ドイツのブラバント王国にエルザという美しいお姫さまがいました。エルザは身に覚えのない弟殺しの嫌疑で裁判に掛けられます。もはや絶体絶命と言うその時、どこからともなく白鳥が曳く小舟に乗って謎の騎士が登場します。騎士はエルザと結婚し領地を守るが・「自分の名前や身元を決して聞いてはならない」と言って・これをエルザが承諾すると、騎士はエルザの潔白を証明するために決闘して、これに勝利します。やがて、ふたりは結婚するのですが、エルザは夫がいつか自分の元から去っていくのではないかという不安に駆られて・ついに騎士の素性を聞いてしまいます。騎士は自分はモンサルヴァート城で聖杯を守護する騎士ローエングリンであると告げて・立ち去ります。これを聞いてエルザはその場で倒れて・息絶えます。

ここでローエングリンが「自分の名前や身元を決して聞いてはならない」というエルザへの要求は「禁問」と呼ばれるものです。ただし、これは「禁じられた質問」ということではなくて・原語のFrageverbotというのは「問う行為・質問する行為を禁止する」という意味です。第1幕第2場でローエングリンはエルザに対して次のように言います。

『二度とあなたと別れないことをお望みならば、ひとつだけ誓ってもらいたいことがあります。あなたは決して尋ねてはならない。また、知りたく思ってもならない。どこから私が来たか ・そして何と言う名前か・どういう素性であるかと言うことを決して聞いてはなりません。』

ワーグナーは歌劇「ローエングリン」の題材を中世ドイツの伝説からとっています。「禁問」というテーゼは神話や伝承によく出てくるものです。その多くは神が人間に対して何かを禁ずる・その約束を人間が破ってしまって罰を受けるという種類のものです。ワーグナーの時代(19世紀)のドイツでは古い民話や伝承の収集研究が盛んに行われました。グリム兄弟の「グリム童話集」、アルニムとブルレンターノによる民衆歌謡詩集「子供の不思議な角笛」の編纂などがそうした成果です。この時代の民話ブームは、ひとつには産業革命やフランス革命などにより民衆の生活が急速に変化していくなかで・人々は次第に生き苦しさを感じ始め、自身のアイデンティティーの揺らぎを過去を振り返ることで確認しようとする行為でもありま した。つまり、どこかに「自分の生きるべき時代はこんな時代ではない」という思いがあって・自己の再確認を過去の憧れに求めているのです。つまり、吉之助は「歌舞伎素人講釈」で「生き過ぎたるや」というかぶき者の思い・それが歌舞伎の原点であることを申し上げていますが、これと完全にオーバーラップする ものが19世紀の浪漫派の芸術運動に見えるということです。

上記のことは非常に重要なことですが、それだけなら民話ブームは単なる回顧趣味か・時代への不適合のように思えるかも知れません。しかし、決してそうではありません。それでも人は生きていかねばならぬわけですから・「自分の生きるべき時代はこんな時代ではない」という内心の思いと人は対峙していかねばならないのです。ワーグナー自身は次のような意味のことを手記に残しています。「神話が述べるところは神と人間の係わり合い を語った寓話なのではなく ・結局人間の心の葛藤のドラマを表している」ということです。そのことからワーグナーは神話の教えるところを人間のドラマとして再構築していきます。こうした考え方からワーグナーは禁止された問いを発してしまうエルザのことをこのように書いています。

『はっきりこうなることを知りながら・愛の避け得ぬ本質のゆえに倒れ・身を破滅させたこの女性、恋焦がれながら愛する彼をしっかりと捉えられないと感じた時・わが身を破滅させてしまいたいと思ったこの女性、まさしくローエングリンに触れたがために身を滅ぼしていかねばならず・またこの男をも破滅させてしまう女性。そのようにしか愛することのできなかった女性。(中略)私は今、分かりました。おぼろげに感じてはいたが、しかし、はっきりとは分からなかったある高貴なものを目指して放った矢が、実はローエングリンだったのだ。しかし、私は真に女性的なものを見つけ出すため、彼を見捨てざるを得なかったのである。この真に女性的なものこそ、たとえ男の利己主義がどんなに高貴な姿をとってそこに現れてきたとしても、その前に出ると破壊され、崩れ去り、私とすべての人々に救済をもたらしてくれるのだ。エルザ、今までの私では理解できなかった、しかし今やついに理解できるまでに至った女性、最も純粋な感覚的無意識の本質をまさに表出するエルザ、私を完全な革命家に仕立て上げたのは他ならぬエルザなのだ。』(( リヒャルト・ワーグナー:「我が友への告知」・1851年) (この稿つづく)

(H19・11・09)


○「禁問」とかぶき的心情・その2

松緑の播磨のセンチメンタルな印象は、共演のお菊の印象から来るものでもあります。芝雀のお菊の演技は六代目歌右衛門から雀右衛門を経た流れにある従来のお菊の解釈を忠実になぞったもので、その意味では神妙な出来であるという言い方も確かに出来ます。しかし、まさにその点が吉之助の不満です。つまり芝雀が悪いというより・従来型のお菊の解釈が悪いということになりますが、従来型のお菊は「女の浅い心から・愛する男を疑って・男の心を試そうと・家の宝をつい割ってしまった愚かな女」という以上のものに見えないのです。それは女性は男性に従属して生きるものだという古い時代の女性観を引きずったままのお菊像です。これではこの芝居が大正の「新しい時代の歌舞伎」であることの意味が見えて来ません。

別稿「散る花にも風情がある」にも書きましたが、作品本来のお菊は播磨に対してはっきり怒っているのです。「私のことを何だと思ってるの・私に内緒でお見合い話を進めたりして・アンタも男ならどうするのかはっきりしなさいよ・別れるというなら死んでやるから」というのがお菊の気分です。台詞にはそうは書いていないけれども、心情として間違いなくそうである。そうしたイライラした心情が家宝の皿を割るという危険な行動になって表れるのです。これはお菊の「かぶき的心情」であり、播磨がかぶき者であるのと同様・お菊もまたかぶき者だと言うことです。

そう考えた時にお菊は単純潔癖症の播磨の一方的な愛情の犠牲者なのではなく、播磨に堂々と対峙して・自分の愛に応えることを播磨に要求して死んでいった女性であることが分かるのです。かぶき者である播磨の本質は研ぎ澄まされ、幕切れの播磨の絶望の意味が観客に理解されることになります。それならば播磨の印象がセンチメンタルなものになることは決してありません。お菊の演技によって・播磨の印象は全然変わって来るのです。ところが、歌舞伎でのお菊の解釈は従来型に凝り固まっていて・ほとんど再検討がなされていません。そのために「番町皿屋敷」はついちょっと昔に初演された作品・つまり本来は現代人にとって最も親しい作品であるはずなのに、現代人に理解しがたい芝居になっています。

しかし、かぶき者としてのお菊の性格が理解されれば・「番町皿屋敷」が新歌舞伎であることの所以はお菊という存在にあることは明白です。見方を変えれば「番町皿屋敷」はお菊のドラマであるとさえ言えます。さらにこのことを考えていきます。 (この稿つづく)

(H19・11・1)


○「禁問」とかぶき的心情・その1

平成18年11月新橋演舞場の「番町皿屋敷」のビデオ映像を見ました。松緑の青山播磨・芝雀のお菊というフレッシュな組み合わせです。吉之助にとって播磨と言えば初代辰之助(現松緑の父)が思い出されます。辰之助は若くして亡くなりましたが・男性的な線の太い芸風で、二代目左団次系統の芝居にはよく似合って おりました。辰之助の当たり役であった播磨は、お菊が皿を割ったと知って怒るところから・お菊を手討ちするに至る心理過程をストレートに描いて・その男らしさが 強く印象に残るものでした。そういうわけで松緑の播磨を期待して見ましたが、亡き父を彷彿とさせる線の太さは確かにあるものの・部分的にちょっと描線が弱くなるところが見えま す。そこに役の解釈の迷いが見えるようです。まずこの点を考えて見ます。

巷間の劇評を見ますと・この時の松緑の播磨について「台詞を歌わず・あまり朗々と張り上げることをしない」という評言がいくつか見られましたが、吉之助はまったく逆の評価をします。むしろ松緑の播磨は「音楽的に朗々と歌 おう」とする意識が強いように思われました。そのために例えば「伯母様は苦手じゃ」・「散る花も風情があるのお」と言った台詞において、まるで「さあここが決め所だ」と言わんばかりに・それまでの調子が破綻して・急に大きく抑揚が付いて大仰な台詞廻しになっています。これが大正浪漫の香りなのか 。いや吉之助にはちょっとおセンチ過多に聞こえました。このことが松緑の播磨を臭い印象にしています。そうではなく・このような左団次劇の決め台詞と言われる台詞こそむしろテンポを早くしてサラリと流すべきものです。決めを決めと見せないところに左団次劇の美学があるのです。

例えば幕切れにお菊の遺骸を投げ込んだ井戸を見込んで播磨が言う「家重代の宝もくだけた・播磨が一生の恋も滅びた」という台詞は、松緑の播磨は歌おうという意識が強いために詠嘆調に陥っており ・かえって緊張が抜けている。これが播磨の印象をセンチメンタルで弱いものにしています。このことは別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」でも触れましたが、青山播磨は旗本奴です。旗本奴というのは「かぶき者」の一派で、派手な衣装をして町を練り歩き乱暴狼藉を働く者たちです。彼らは自意識の強い連中で「男道(おとこみち)」を磨きながらも、日々の生活のなかで持てるエネルギーを発散できずに屈折しながら生きていました。江戸の世はすでにそのような旺盛なエネルギーを受けとめるだけのダイナミズムを失っていたのです。その絶望感が彼らを自暴自棄の異様な行動に走らせます。彼らは「自分たちは時代に適合できない人間だ・自分たちの生きる場所はここにはない」と感じているのです。そして、その憂さを晴らすのは喧嘩ばかりです。そうした播磨がどうやら生きてこられたのは、ただお菊との恋のおかげでした。この恋がなければ死んでしまいたいくらい人生に深く絶望しているのが播磨という男です。その愛するお菊に自分の気持ちを疑われて、播磨は完全に絶望してしまったのです。「家重代の宝もくだけた・播磨が一生の恋も滅びた」という台詞は、この世で自分が生きていることの最後の縁(よすが)を奪われてしまったことの絶望です。だからこの台詞 で播磨の絶望を太い調子で表現せねばなりません。歌って言う台詞では決してないのです。(この稿つづく)

(H19・10・28)


○「元禄忠臣蔵」の二枚の屏風・その2

別稿「指導者の孤独」においても触れましたが、「伏見撞木町」の内蔵助も・「御浜御殿」の綱豊も青果はどちらも二代目左団次が演じることを念頭に入れて書いたことを忘れてはな りません。つまり本当は「伏見撞木町」と「御浜御殿」を対で上演する時・内蔵助役者が綱豊も演じることが理想なのです。そうすることで「内蔵助と綱豊はひとり」という暗喩が観客に視覚的に実感されます。ところが実際の上演となると今回の「第2部」上演 の場合もそうですが・「伏見撞木町」から「御浜御殿」・「南部坂雪の別れ」まで内蔵助役者は出ずっぱりということになって・その負担はもの凄いことになるし、観客のなかに は御浜御殿に内蔵助が座っているようで落ち着かないという人も出てくるかも知れません。だから実現はせぬでしょう。しかし、「御浜御殿」の御座所の対話において・助右衛門は綱豊と対話しているようでいて・実はその向こうに内蔵助の姿を見ている 、綱豊は助右衛門と対話しながら自分が内蔵助と同化していく気分に次第になっていくということが判らなければ、「御浜御殿」は単なる「忠臣蔵」外伝に落ちてしまいます。

平成18年11月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第2部」では内蔵助は藤十郎・綱豊は梅玉に分けて配役されていますが、まあこれは現実問題として仕方のないところです。 それより青果の描く主人公を的確に演じられているかということの方が大事なことです。その点で今回の舞台はとても充実した出来でありました。藤十郎の内蔵助・梅玉の綱豊ともに・それぞれの持ち味を生かしつつ・対に見た場合でもしっかりと噛み合った演技を見せており、「伏見 撞木町」と「御浜御殿」のバランスがよく取れていました。今回3ヶ月に渡る国立劇場「元禄忠臣蔵」連続上演のなかではこの第2部が最も見応えがあったと思います。それは藤十郎・梅玉ともに青果の台詞のスタイルを歌舞伎としてよく消化しているということから来ています。

藤十郎が内蔵助を演じることが発表された時にはちょっと驚きましたが、この配役を考えた企画の方はなかなか慧眼であるなあと思いました。青果劇は男っぽい線の太い芝居だというイメージがあり・これはひとつには二代目左団次のイメージから来るものですが・これは確かにそういうところがあります。そういうことからすると藤十郎は和事の柔らかいイメージのせいで・「七段目」の由良助はともかく「元禄忠臣蔵」の内蔵助はどうか?という先入観があったのですが、ビデオ見ているとこれがなかなか新鮮でありました。ひとつには「伏見 撞木町」が地味ではあるが・ やはり「七段目」を意識して作られているということです。藤十郎の和事のセンスがこういうところで生きてきます。

いくつかの劇評を読むと・「藤十郎の和事の台詞廻しが青果の文体に合っていない」と言うことが書かれていますが、吉之助はまったく逆の評価をします。藤十郎の台詞回しは青果の文体の微妙な息(リズムの押し引き)を歌舞伎の台詞術で消化して・非常によく考えられたものだと思います。微妙に緩急をつけた台詞によって・リズムがプッシュされる感触があります。ここが肝心な点です。台詞を押して・引いて・また押す。そのうねるような微妙な呼吸によって・そこに「後ろから背中を押されるような気分・急き立られる気分」が醸し出されるのです。青果劇に「急き立られる気分」は必須で・これがなければ青果劇になりません。藤十郎の台詞にはそれが確かに あります。それはどうしてかと言えば初代藤十郎の和事のしゃべりの技術自体にも「急き立られる気分」があるからです。考えても見てください、初代藤十郎も・内蔵助も同じ元禄の世の人であり、同じ時代の空気を吸っていた人なのです。吉之助は別稿「元禄忠臣蔵の揺れる気分」のなかで・元禄の世の気分と昭和初期の気分は似ているということを申し上げました。だから和事の台詞術が青果の台詞でも生きてくるのです。藤十郎の台詞は息が詰んでいますから、他の役者の和事の台詞みたいにデレーッと伸びたところはありません。このことは別の機会に考察したいと思います。

単純な比較はしたくないですが、第1部の吉右衛門の内蔵助、第3部の幸四郎の内蔵助も確かに見事な内蔵助を演じていますが、台詞の感触としては写実の方に寄っており・新劇的な感覚のする内蔵助です。台詞のリズムによって「急き立られる気分」が醸しだされるところがあまりありません。ふたりとも肚の持ち方から内蔵助になろうとしています。それは役作りとして間違いとは言えませんが、ああいう内蔵助なら新劇役者でも腕の立つ人なら出来なくはないのです。しかし、藤十郎のような内蔵助は新劇役者には不可能です。つまり、台詞の息の様式的な意味 合いを藤十郎はよく分かっているということです。それは確かな伝統芸能の修練によるものなのです。

もうひとりの梅玉の綱豊も素晴らしい出来です。梅玉は朗々と張り上げるような発声をせず・派手さはないですが・しっかりと言葉を噛み締めるように淡々と正確なリズムを取って(インテンポに近い感じで)台詞を発しています。この速度ではグイグイと押す感覚を感じにくいかも知れませんが、実は緩慢に・しかし着実に「背中は押され・急かされている」のです。それは息が詰んでいるから出る感覚です。だから梅玉は青果劇の台詞の持つ急き立てる気分を正しく表現しています。実は青果劇のフォルムとしては梅玉の台詞廻しの方が藤十郎より正攻法だと言うことが言えます。一方の藤十郎の台詞術はかなり技巧派的な行き方です。しかし、手法は違えど・ふたりとも「急き立てる気分」を正しく表出しています。 結果として藤十郎の内蔵助・梅玉の綱豊という配役は二人の役どころの性格の良い描き分けに納まっていると思いました。

以上のことで分かるのは、「急き立てる気分」を表出するためのアプローチは多様で・ひとつに極まるものではないということです。早めのテンポで相手を押すように喋るのが青果劇の 基本スタイルであり・「台詞を棒に読む」と言われた二代目左団次はそういう感じであっただろうと想像しますが、現代においては青果劇のスタイルは見失われています。黙阿弥みたいに朗々と歌う音楽的な台詞が青果のスタイルだと思われていたり、逆に新劇的にパサパサした感じで処理されたりしています。それは青果劇の台詞の根本が「急き立てる気分」にあるということを理解しないで、表面的な抑揚だけを追っているからそうなるのです。「急き立てる気分」の表出ができていれば・その台詞のフォルムは必然的に青果にスタイルに沿うのです。今回の藤十郎と梅玉の台詞廻しからそのことが納得されます。結果として藤十郎も・梅玉もそれぞれの個性において・青果の「急き立てる台詞」をよく消化しており、歌舞伎らしい感触の「元禄忠臣蔵」を作り上げたと思います。青果の「元禄忠臣蔵」は新劇みたいな歌舞伎なのではなく・確かに歌舞伎でありました。

(H19・10・24)


○「元禄忠臣蔵」の二枚の屏風・その1

平成18年11月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第2部」では「伏見撞木町」と「御浜御殿綱豊卿」が久しぶりに並べて上演されました。「元禄忠臣蔵」での・このふたつの芝居の位置付けが確認できる良い機会であるので、本稿ではこの舞台映像を取り上げてみます。大事なことはこのふたつの作品が対になって出来ているということです。このことは真山青果の娘である美保氏が「元禄忠臣蔵考」(岩波文庫版・「元禄忠臣蔵」解説)でも触れていますが、「この二作は一対をなすと同時に実は重複している」ということです。場所は上方伏見の遊郭と江戸の御浜御殿、人は大石内蔵助と甲府綱豊とそれぞれ違いますが、ふたりとも内心の思いを胸に秘め・酒色に溺れ・女たちに囲まれて・ 同じように浮かれています。だから、ふたりはちょうど鏡に映したように・対称的に見えて実はそっくりであるのです。このことは非常に大事なことです。「二作で一対をなす」ということはその二枚の屏風を並べて見た時に・それぞれ片方の絵だけで見てこなかった構図が見えてくるということであり、「重複している」ということは内蔵助は綱豊であると同時に・綱豊は内蔵助でもあるということです。

「御浜御殿」は「元禄忠臣蔵」中の最高傑作であり・頻繁に上演されていますが、「伏見撞木町」はちょっと地味であるせいか・単独上演はされぬようですから、こういう通し上演でないとなかなか見ることができません。「伏見 撞木町」が時系列的に見て「仮名手本忠臣蔵・七段目」に相当することは誰でも判ることです。元禄14年には祇園一力茶屋はまだありませんでした 。史実の内蔵助 が遊んだのは伏見撞木町の遊郭でした。しかし、「七段目」の見立てとすれば・この青果の「伏見撞木町」は華やかさに欠けることは否めません。別稿「誠から出たみんな嘘」において「七段目」の華やかさはどこから来るのかということを書きました。とにかく「七段目」は明るくないと面白くありません。映画でも「忠臣蔵」を題材にするなら・一番の見所となるのは大望を胸に秘めながら・嘘か本気か判らぬ感じで遊郭で浮かれ騒ぐ内蔵助というのが一番華やかで絵になる場面のはずです。ところが青果はそういうことにあまり関心がないのですな。まあ茶屋遊びの場面は一応ありますが、「伏見 撞木町」はえらく地味です。地味どころか・むしろ辛気臭いと言った方がよいかも知れません。 それにここには平右衛門とお軽の兄妹に当たる役も見えません。「七段目」の華やかなところは対である「御浜御殿」の方に行ってしまっているのです。

「伏見撞木町」と「御浜御殿」はふたつでひとつという認識はとても大事です。「御浜御殿」冒頭のお浜遊びの風景は「七段目」冒頭の「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」「捕らまよ、捕らまよ」というお茶屋遊びを模していますし、 能舞台前庭先で綱豊が助右衛門を地面におさえてつけて説教するのは・由良助が九太夫を地面に押さえつけて打つのと構図的に相似します。幕切れの綱豊の「ここにしたたか酒に食らい酔って、道に踏み迷うているやつ(助右衛門)がある。門前まで担ぎ出し、阿呆払いとやらに追ッ帰してやれ」も、由良助の「喰らひ酔うたその客に、加茂川でナ・・・水雑炊を喰らはせい」をパロっているのです。 助右衛門とお喜世は義理の兄妹ですが、これは「七段目」の平右衛門とお軽の兄妹に対比されることは言うまでもありません。こういう遊びは内蔵助と綱豊との対比ということから発想されているのではなく、実は深いところで「伏見 撞木町」と「御浜御殿」はひとつ・内蔵助と綱豊はひとりと言う発想から出来ているものです。 吉之助は「御浜御殿」と「伏見撞木町」の足らないところを互いに補っており・ふたつで完全な「七段目」の見立てに仕上がると思っています。このことは「元禄忠臣蔵」の連続性のなかで捉えて初めて見えてくることです。

「内蔵助と綱豊はふたりでひとり」ということは、片方は元浅野家家老であり今は密かに仇討ちを画策する浪人・もうひとりは次期将軍有力候補とされながらその気があるところを気取られまいとする御殿様という立場の違いはありますが、「自分の進むべき道はどこか・自分の取っている行動はこれで良いのか」ということに常に悩み・自分に問うということをしている点で ぴったりと重なるからです。立場の違うはずのふたりが、朝廷の浅野家再興の意向を近衛家が綱豊に打診してくるという一点で同じ線上に乗ってくることで・ふたつのドラマが重複して来ます。浅野家再興の問題に関して内蔵助と綱豊が感じ・悩むその内容はまったく同じです。「伏見 撞木町」と「御浜御殿」を見れば判る通り、ふたりはまったく同じことを語っています。だから「内蔵助と綱豊は ふたりでひとり」なのです。「伏見撞木町」を見れば「御浜御殿」で見えなかったことが見え、「御浜御殿」を見れば「伏見撞木町」ではっきりしなかったことが見えてきます。そのように青果はふたつの芝居を書いているのです。

「御浜御殿」だけ見ていると起こりがちな誤解ですが、甲府綱豊は自分は安全地帯にいて・いわば無責任的な立場から赤穂義士をその動向をやきもきしながら見守って・時には 叱咤し・時には親身に思いやるお殿様だなどと思っていたら、「御浜御殿」は「元禄忠臣蔵」外伝になり、言ってみれば「松浦の太鼓」と同じ次元のお芝居ということになってしまいます。 一見すると外伝みたいに見える「御浜御殿」を青果は「元禄忠臣蔵」の中核に置いていることは明らかです。だとすればその重い意味を考え なければなりません。その意味は「伏見撞木町」と「御浜御殿」を対として読んだ時に見えてきます。内蔵助と綱豊を重ねて見た時に・人間としての・指導者としての・ふたりの悩み苦しみがはっきりと見えてくるのです。 (この稿つづく)

(H19・10・18)


○「元禄忠臣蔵」の揺れる気分・その5

ところで本稿のタイトルは「揺れる気分」ということですが、「この状況を受け入れるのは厭でござる」という初一念に始まり、その実現にむけて ・揺れながら(迷いながら)方向性と思想性を次第に明確に形作っていく・それが「元禄忠臣蔵」のドラマなのです。「亡君のため」・「御公儀への批判」などというのはその行動を正当付け・理論付ける大義名分であって・極端に言えば何でも良いのです。 内蔵助のなかでもその思いは刻々と変わるし・四十七人もいればそれぞれでまた違うでしょう。しかし、内蔵助はそこでハタッと立ち止まって考えます。「自分が進むべき道・同志たちを導く道はこれでいいのか・これで正しいのか」ということを内蔵助は自らに問い・そこで揺れます。内匠頭刃傷事件自体が幕府・朝廷をも巻き込んだ駆け引きのまっただなかにある非常にデリケートな政治的問題でしたから ・それは当然のことではあります。武士として・人間として立派に立つ行為として仇討ちをやり遂げる必要がありました。だから内蔵助は観念的にならざるを得なかったのです。内蔵助はそのことを考える時、いったん行動の原点に立ち戻ることを必ずします。その思考の原点こそ初一念です。

史実の内蔵助がどうであったかは判りません。しかし、青果の描く「元禄忠臣蔵」の内蔵助は実に理屈っぽくて・また迷う男です。「元禄忠臣蔵」は観念のドラマです。自分の考えをストレートには出さず・相手の反応を慎重に探りながら・内蔵助は また微妙に表現を変えます。主義主張がコロコロ と変わるということではありません。内蔵助には初一念は厳然としてある。もっともっと微妙な心の揺れなのです。裏返すとどこか信じ切れない・どこか自信がない・どこかに疑いがあるということです。だから内蔵助はつねに「これでいい良いのか・これで正しいのか」を自問自答を繰り返します。このような内蔵助の姿は まさに悩み・揺れる近代人の姿なのです。

このような「揺れる気分」は、ひとつには「元禄忠臣蔵」第1作「大石最後の一日」の初演の昭和9年(1934)という時代の雰囲気から来ています。 懐疑の時代・不安の時代〜自分はこれで良いのか・この時代は自分の生きるべき時代なのか・ということを、ふたつの世界大戦にはさまれた時代の人々は常に自分に問いながら生きていたのです。そのような気分はユラユラと揺れながら・決して安定することがありません。例えばこの時代の音楽、ドビュッシーの交響詩「海」(1903〜5年)、ストラヴィンスキーの「ぺトルーシュカ」(1911年)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」(1919〜20年)などの・それぞれの冒頭部に聞かれる・ユラユラと揺れながら一定した印象を取らない旋律を考えれば想像が出来ます。「揺れる気分」とはこの時代の世界レベルにおける時代的気質 なのです。

「元禄忠臣蔵」は青果が元禄の討ち入り事件を近代視点で読み直したものですが、しかし、それだけだと「元禄忠臣蔵」が歌舞伎であるということとぴったり繋がってこないかも知れません。事実、ちょっと見では青果のドラマは台詞がやたら長くて観念的で・新劇的でもあり、感触的に歌舞伎とはぴったりこない感じでもあります。どうして「元禄忠臣蔵」 が歌舞伎であるのか。その秘密が「揺れる気分」にあります。実は元禄の気分と・大正から昭和初期の気分はとても似通っており、ある部分がぴったりと重なってくるのです。別稿「時代との親和性と乖離性」のなかで・江戸初期のかぶき者の思いを代表する科白が「生き過ぎたりや」であり、「この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺の生きるべき時代ではない」という思いが江戸初期の若者の共通 した思いです。こうした思いから発するのが「かぶき的心情」であるということを書きました。「生き過ぎたりや」は江戸前半の時代的気質であり、元禄の内蔵助たちの気質もまたそうです。もちろん江戸時代の彼らには「個人対社会」という図式はまだありません。個の意識の目覚めをぶつける対象を明確に見つけることができないままモヤモヤとしたところで・それは「イライラした気分・急き立てる気分」になって現れます。一方、昭和の人々は「個人対社会(あるい は状況)」という図式がはっきりとあり、社会という圧倒的な存在に対して・些細な存在であるところの自己をどう正しく保つかということが非常に重要な問題となってきます。それが「揺れる気分」となって現れるものです。しかし、その根本にあるものは元禄のかぶき者の気分と共通しています。それは個(アイデンティテー)の意識ということです。

「元禄忠臣蔵」では同じ初一念を持ちながら一方に仇討ちだ仇討ちだといきり立ち急く者あり・片方にはやる気持ちを抑えて自分の進むべき道を問いながら道を迷う者あり、さまざまな思いの交錯するなかでドラマが展開します。すべての者たちがイライラした気分を感じながら・そうした気分を醸し出すものの正体を見極めようと急いています。そこに青果劇のフォルムがあるのです。

(H19・10・14)


○「元禄忠臣蔵」の揺れる気分・その4

内蔵助の「初一念」を測るならば・「最後の大評定」黒書院での評定の場面において磯貝十郎左衛門が泣き叫んで言う台詞こそ最重要の台詞だと思います。

「 御兄上内匠頭さまの鬱憤を散じ、敵上野介さまを討ち果たしてこそ、はじめて大学頭さまは世に立って人中(ひとなか)がなると申されましょう。仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て、大学さまの武士道が立つとは申されませぬ。(中略)厭でござります、厭でござる。たとえ御公儀より大学さまへ恩命下って、日本国全体に、唐、天竺を添えて賜るほどの大大名になられましても讐敵吉良上野介をこのままに置くのは、厭でござります、厭でござります。」(磯貝声を極めて泣く。)

この十郎左衛門の「厭でござる・讐敵吉良上野介をこのままに置くのは厭でござる」こそ情念から発する台詞です。その他のことも十郎左衛門は言っていますが 、それらは自らの情念を正当付けようとする理屈に過ぎません。「上野介をこのままに置くのは厭でござる」こそが初一念なのです。この気持ちは原形質のようなもので・理屈も損得勘定もなく・ただひたすらに無私なのです。いかにも青二才の若者が吐く駄々っ子のような台詞であり、 内蔵助のように立場もあって・いい歳をした・理性のある大人には決して言えない台詞です。しかし、これはまさに内蔵助のなかにある・秘められた気分をぴったりと言い当てた言葉なのです。内蔵助は十郎左門の発言に対して「何ィ」という台詞を三回言います。青果は『ただし磯貝を見る眼中に無上のよろこびを漂わせて』とト書きを入れています。

この「何ィ」という台詞を言う時、内蔵助を演じる吉右衛門の眼はまさによろこびが一杯に溢れていて、「おお、よう言うてくれた。それこそがわしが言いたくて言えなんだことじゃ、もっと言うてくれ・言うてくれ」という感じでありました。この場面は父・初代白鸚の内蔵助もまったく同じ感じであって・そのことを懐かしく思い出しました。しかし、実はここは吉之助が演出するならば・ もうちょっと違うようにしたいと思っている箇所です。吉右衛門は三度言う「何ィ」を強弱はついているけれど・同じひと色で言っているのだなあ。それはそれで結構なのですが、吉之助はこの内蔵助の「何ぃ」を三色で処理したいのです。

吉之助が思うには、自分の発言を遮って十郎左衛門が発言を始める時の内蔵助は「この若者は突然一体何を言い出そうというのか」という訝しげな感じなのです。ところがこの若者の気持ちに何か切実で 熱く大事なものがあるということを内蔵助が直感して思わず叫ぶ最初の「何ィ」には、彼自身も居住まいを正すような鋭い驚きが欲しいのです。二番目の「何ィ」は「仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て武士道が立つとは申されませぬ」の台詞を受けてのものですが、内蔵助に「そ こだ、そここそが俺の引っ掛かっているところだ」という・自分の腹の底に押し詰まったものに触れられたというグッとした思いが欲しいと思います。しかし、まだ十郎左衛門は内蔵助の初一念を言い当ててはいません。トドメは三番目の「何ィ」です。これは「厭でござります・厭でござります」 という台詞を受けてのもので、これは実に青臭いけれど・内蔵助の気持ちの余計なものをすべて洗い流して純粋なものを抽出してみれば・まさにそうなってしまうという・内蔵助の感動を表す「何ィ」なのです。

注意せねばならぬことは、「厭でござる・上野介をこのままに置くのは厭でござる」というのはそう単純に「上野介を討ってやる」ということにつながらないということです。 確かに赤穂浪士の場合は最終的にその方向に行動が進みますが、「厭でござる」というのは今現在我々が直面している状況(お家断絶)は承服できない・この状況を受け入れるのは厭だということです。「上野介をこのままに置く」ということは現状を認めることに他なりません。だから「厭だ」というのです。彼らの怒りの矛先は時代にも向くし・この世の生そのものに向くかも知れないし、上野介にも向くし・幕府という政治機構にも向くし・ 判断を下した直接の当事者(綱吉その人・あるいは幕府要人)に行くかも知れないし・場合によっては愚かな行為をした主人内匠頭にも向きかねないのですが、彼らの倫理感からすれば・その怒りは今は上野介に矛先が向いていると言うことに過ぎません。大事なことは「厭でござる・この状況は厭でござる」という感情です。そこまで感情を研ぎ澄ませた時に彼らの腹のなかに熱い初一念が湧いてくるのです。

十郎左衛門の叫びによって・内蔵助は自らの思いの正体を再確認できたと思います。ホントは内蔵助も十郎左衛門と一緒に泣きたい気分であったかも知れませんが、歳がいもなく感動してしまって内蔵助は照れ臭かったと思います。「・・それにては何時が日にも話しが煮え乾る時がない。(迷惑そうに笑いながら)喜兵衛老人、そなたなどの御考えは・・・?」と内蔵助は話をさりげなく逸らしてしまいます。だからこそ内蔵助の態度で十郎左衛門の言ったことがまさにドンピシャリ内蔵助の初一念であったことが分かるのです。すなわち「この状況を受け入れるのは厭でござる」ということです。ただそれだけなのです。 (この稿つづく)

(H19・10・11)


○「元禄忠臣蔵」の揺れる気分・その3

内蔵助は始めから仇討ちに向かって・初一念で一直線に突き進んでいると考えることは・ある意味でとても危険なことです。考えねばならぬことは・昭和初期という時勢におもねる形で「元禄忠臣蔵」を書いたという表向きの事情も 青果が劇作を生業としている以上はあるということです。つまり、忠君愛国思想の鑑としての内蔵助を読んで・戦時の思想教育に利用することもできるわけです。事実「元禄忠臣蔵」の興行的な成功はそこにありました。しかし、昭和14・5年頃のことですが、青果は娘の美保さんによくこう言ったそうです。「待ってろよ、戦争が終ったらもっとはっきり書いてやる。内蔵助の真意を書いてやる。楽しみにしてろ。」時勢へのはばかりもあって青果が描けなかった内蔵助の真意とは一体何でしょうか。現代においてはこのことを考えなければ 意味がありません。内蔵助の真意を明らかにした・新しい「元禄忠臣蔵」の読み方を見い出さなければなりません。

例えば「最後の大評定」において・ 刀を腹に突き立てた幼なじみの井関徳兵衛の傍らで内蔵助は「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」と決然として言い放ちます。これを以って「内匠頭は即日切腹・上野介にはお咎めなし」という幕府の御裁断に反抗しようというのが内蔵助の「初一念」であると書いている評論を多く見かけます。しかし、これが本当に内蔵助の初一念でしょうか。「仙石屋敷」での仙石伯耆守との問答のなかで・内蔵助は幕府の裁きに対する不満はひと言も述べず・ひたすらお上に対して恭順の意を示しています。伯耆守の取調べの争点は討ち入りは「御公儀御政道への批判」ではないかということでした。これに対し内蔵助は「われらはただ、故主最後の一念を、継ぎ届けたるのみ。その他の御批判、一同迷惑。」と言います。

このことは「最後の大評定」幕切れで内蔵助が徳兵衛への言葉が死にゆく親友に対する手向けの言葉であり本心ではなかったとまでは言いませんが、これはあくまで・その時点の内蔵助の気持ちを語ったまでのことであって・決してその後の「元禄忠臣蔵」の方向性を決する台詞として言われたわけではないことを示しています。もし「天下の御政道に反抗する気だ」という台詞が内蔵助の初一念からの言葉であるのなら・その後の「元禄忠臣蔵」の仇討ちに至るまでの内蔵助の心境・行動に揺れがあってはならぬのです。しかし、ご存知の通り・伏見 撞木町での遊興三昧を始めとして・その後の内蔵助は自問自答を繰り返し・悩み・そして考えるのです。内蔵助は「自分の取るべき道はこれで良いのか」という問いに常に揺れています。ですから「天下の御政道に反抗する気だ」というのは内蔵助の初一念ではあり得 ません。次いでに言えば 討ち入り後に伯耆守に対して言った「われらはただ故主最後の一念を継ぎ届けたるのみ」の言葉さえ内蔵助の初一念ではあり得ません。それらは行動のための大義名分であって・情念ではないからです。(このことについては別稿「個人的なる仇討ち」をご参照ください。)

青果が「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」という台詞を「最後の大評定」幕切れに置いたことは読者にとって誤解のタネで・「元禄忠臣蔵」シリーズの流れを念頭に入れた場合にはあまり良い処置ではなかったと吉之助は思っています。多分これを読みきりの芝居とするために・徳兵衛という架空の人物を絡ませて・彼の命と引き換えに・内蔵助自身の心境を何かしゃべらせないと芝居の結末が取りにくかったのだろうと思います。まあ青果の苦労は分からないでもありません。赤穂城城明け渡し時点の史実の内蔵助の心境は判然とせぬからです。しかし、いずれにせよ「天下の御政道に反抗する気だ」が内蔵助の本心であるとしても・あくまでその時点での内蔵助の揺れる心であると取るべきでしょう。(この稿つづく)

(H19・10・8)


○「元禄忠臣蔵」の揺れる気分・その2

「ユラユラと揺れながら」と書きましたが、ここのところがとても重要です。つまり、「急き立てる気分・イライラした気分」は発端の「江戸城の刃傷」から 「大石最後の一日」に描かれた赤穂義士の行動の方向性と思想性が明確なものとしてあるのではなく・いろんな形を取って揺れながら(つまり迷いながら)・次第にひとつの形をなしていくのです。そのことが「元禄忠臣蔵」の一連の流れのなかで描かれることです。

「大石最後の一日」で内蔵助は「初一念」ということを言っています。このことは「元禄忠臣蔵」全編の重要な主題ですが、最初から内蔵助のなかに「自分はこの方向に進むべし・この場面ではこう行動すべし」というものが明確にあったわけではないのです。むしろ、内蔵助はそのことに深く悩み・考え・周囲がイライラするほど慎重で・なかなか行動を起こすことをしません。もちろん内蔵助のなかに「主君の無念を・お家閉門の憂き目に遭った自分自身に重ねる」という思いは明確にあります。 そして「吉良殿を討つ」という結論も内蔵助におぼろげに見えてはいるのです。しかし、そのために武士であり人間である自分はどう行動すべきか・その行動のためにどういう大義を持つべきかという問題について内蔵助は解答を見出していません。その解答が見い出せないうちは行動は起こせないというのが内蔵助の態度です。その解答を見い出す過程がそれからの「元禄忠臣蔵」のドラマです。それがなかなか見つからないから内蔵助自身も・周囲の人間はもちろんですが「気も急くし・イライラもする」ということになります。だから「急き立てる気分・イライラした気分」が「元禄忠臣蔵」全体を覆う気分になるのです。つまり「情念がまず先にあり・理論と行動は後からついていく」という形で「元禄忠臣蔵」が出来ていることになります。その方向性を見出す手掛かりは「初一念」しかありません。

ところで「大石最後の一日」のなかで・内蔵助は「天佑」ということ も言っています。世間は我々を義人の義士のと言っておるようだが・もし我々が上野介を討ち漏らして引き上げたとすれば・世間の評判はいかがであったろうか。あの夜にもし上野介が屋敷にいなければ・もし炭部屋に隠れている上野介を見つけることができなかったら、我々は末代までも慌て者・腑甲斐なし者と笑われたであろう。その境はまことに危うい一線で・今考えても背筋が冷やりとする。恐ろしい危ないことをよくも考えたものだと身体がわななく思いである。こう考えてみると、すべては天祐(てんゆう)であったのだと内蔵助は言うのです。(別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。)

『神仏の冥加によって運良くも仕遂げたと思う外はござりません。たとえ初一念がいかに強く鋭くとも、この冥加なくては所詮本望は遂げ得られませぬ。われわれが今日義士となり義人となるも、決してわれわれ自身の働きのみとは存知られませぬ。ひと口に言えば仕合わせよく、運が良かった、それが天祐でござります。武士冥利でござります。』(「大石最後の一日」)

この内蔵助の言葉はもちろん事を成し遂げた後であるからこそ言える言葉です。なぜなら内蔵助はじつは「初一念」だけで・それだけで・ただ一心に・禁欲的に・まっしぐらに生き てきたわけではないからです。事を成す過程で、 内蔵助は初一念に苦しみ・悩み・迷い、時にこれを疑い、時には逃げようともし、泣きもしたのです。そのような内蔵助が・事を成した後に、自分たちはこれがあったからこそやり抜けたのだなあと思うものが「初一念」です。だから逆に言いますと、初一念を研ぎ澄ますために・思想と行動をどのような方向に結実させるか・この過程 がとても重要になるのですが、その過程が実は「ユラユラと揺れている」のです。「元禄忠臣蔵」が描いているものはそういうことです。

「元禄忠臣蔵」の各編はそれぞれ一話読み切りの形になっており、本来は時系列に並べて連続上演されることを意図して書かれてはいません。だから各編にそれぞれの時点の赤穂義士の苦しみがあり・内蔵助の悩みが描かれているのですが、その時点だけを切り取って・青果の作意を読み取ろうとしても・それは無駄なことです。それらは内蔵助たちがついに事を成したという史実によって・清められねばならないものです。すべては「大石最後の一日」の主題に向かって収斂(しゅうれん)していくのですから、彼らの一時的な思いはその時点の一時的なものとして見なければなりません。内蔵助が始めから一直線に仇討ちに向かって・初一念で突き進んでいると考えては いけません。そういう読み方で読むと「元禄忠臣蔵」は誤解を生じることになります。 (この稿つづく)

(H19・10・4)


○「元禄忠臣蔵」の揺れる気分・その1

平成18年10月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第1部」のビデオ映像を見ました。「江戸城の刃傷」冒頭・浅野内匠頭刃傷直後の騒ぎの描写が間延びして・緊迫感が全然ないのには呆れました。この芝居の冒頭は「一体何事が起こったのか・犯人は誰だ・被害者は誰だ」ということで事態が判らない現場の者たちはいきりたち、右往左往する場面です。場合によっては第二・第三の事件が起こるかも知れません。犯人は浅野内匠頭・被害者は吉良上野介で傷は浅手と判って一応現場は鎮静しますが、今度は「どうしてこんなことが・殿中 で起きたのか・一体どういうことなんだ」という疑問が現場を一層イラ立たせることになります。多門伝八郎の取調べも落ち着いた雰囲気でできるはずがありません。刃傷の現場に居合わせた者たちは事の次第によってはお咎めを受けようをも知れず、そんななかでの証言はのんびりと何年前かの思い出話をするような調子で話せるものではありません。現場の者たちのすべてが「何が起こっているのか・ 一刻も早くその真相を知りたい」という思いでイラ立っているのです。こういう場合の台詞は・どの役もすべてそうですが・自然に高調子に怒鳴るような風になり、台詞のテンポは自然と早くなっていくものです。「 イライラした・急き立てる気分」が舞台を覆わなければなりません。ということは、こうした突発事件の混乱は怒号の応酬で描写されるべきだということです。

この「江戸城の刃傷」の舞台を見ていると、「怒号の応酬なんてそんな新劇みたいな真似は歌舞伎にはできません・歌舞伎は騒ぎを様式的に見せなきゃね」という ・まあそういう感じでありますかね。なるほど・様式的ねえ。しかし、別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」でも触れた通り・二代目左団次劇のなかでの「急き立てる気分・イライラした気分」はとても大事な要素でして、それが左団次劇の様式に極まっている ものです。真山青果の「元禄忠臣蔵」全編もまた「急き立てる気分・イライラした気分」のなかに貫かれています。「江戸城の刃傷」のなかではこのイライラした気分は未だ明確な正体を見せていませんが、それは時系列的に見て本作は発端ですからそういうことになるのです。ご存知の通り・「大石最後の一日」を書いた時点では青果自身にこれを連作とする構想はなかったのです。その後、松竹の大谷竹次郎の勧めにより青果は「元禄忠臣蔵」連作を構想することになります。したがって「元禄忠臣蔵」の各編はすべて・最初に書かれたところの・しかし時系列においては一番最後に当たる「大石最後の一日」に向けて・ユラユラと揺れながら次第に明確な方向性と思想性を持ったものに仕上がっていく わけです。(この稿つづく)

(H19・10・1)


○ルネッサンスのこと

ローマの有名なコロッセオのある広場から・東へサン・ジョヴァン二・イ・ラテラーノ通りという細い路地を数分歩きますと、左手にサン・クレメンテ教会という・あまり目立たない教会が見えてきます。サン・クレメンテ教会は日本のガイド・ブックには詳しく紹介されておらず・日本人観光客はあまり訪れないようですが、欧米の観光客にはとても人気のある観光スポットです。この教会が人気があるのは、この教会は三層構造になっていまして・地下最深部に3世紀頃・帝政ローマ時代の異教のミトラ教神殿の遺跡があり・その上に四世紀頃に建てられた初期キリスト教教会の遺跡があり・さらに地表に12世紀頃に立てられた現在の中世キリスト教会があるのです。礼拝堂から地下への階段を下りていくと、まさに「ローマの歴史は積み重なっている」ということを実感として体験できて、暗い照明で遺跡巡りをしているとタイム・スリップ感覚があって・ちょっとした探検気分も味わえるというわけです。

ミトラ神はインド・ペルシアに起源を持つ太陽神で・古代ローマではバッカスなどと並んで人気のある神様でありました。その異教の神殿の上に建てられたサン・クレメンテ教会を見て感じることは、欧米文化の基礎はもちろんキリスト教であり・外見的あるいは倫理的なものはもちろんそうですが、それ以上に感性のなかに深層として異教的な要素が色濃くあることです。と言うか・中東 へブライの地に発するキリスト教がもともと異教の地であるヨーロッパに根付くためには、土着宗教をに否定し跡形もなく消し去るのではなく・あるところにおいては受け入れ取り込むところが当然必要であったわけです。それでなければ結局土着民の 共感を得ることはないのです。言葉においても異民族が接触するうちに意思疎通のための混成言語を作ることがあり・これをピジン言語と言いますが、いわば「宗教のピジン化」が起こるわけです。今はキリスト教の祭りであるカーニバルあるいはクリスマスももともと異教の風習に由来するものであることはご存知の通りです。サン・クレメンテ教会が欧米の観光客に人気があるのも・そこに自分たちの遠いルーツを見る気がするからだろうと思います。

そうやって見ると、あの光輝くようなルネッサンスは・「中世の暗黒時代から人間性の再発見」という言い方をよくされますが・一面においてはそれはその通りなのですが、異教の地ヨーロッパでのギリシアローマ的感性レベルにおいてのキリスト教受容・理解への到達というのがヨーロッパのルネッサンスであろうかなと吉之助には思えるのです。言い換え るとキリスト教はこの段階において宗教として「こなれた」ということです。フィレンツェのウフィツィ美術館へ行って、どちらかと言えば形式的で・自由さに乏しい印象の中世キリスト教関連の絵画の回廊を巡った後、ルネッサンス絵画のコーナーにたどり着きますと・その表現の自由さにハッとします。今回・吉之助を心底魅了したのは香気に満ち溢れたボッティチェリの名画「春」で・これは何時間この絵の前にいても飽きないような気がしました。 数年前に当地に来た時にはあまりそんなこと感じなかったのですがね。吉之助も多分変わったのでしょう。今回はダ・ヴィンチよりも断然ボッティチェリでありました。ルネッサンスにおいてキリスト教がギリシアローマ的感性を公 に認知した(逆に言えばギリシアローマ的感性においてキリスト教が受容された)時からヨーロッパ文明が飛躍的に発展したことは不思議ではないと感じられます。その最も幸福な証がボッティチェリの「春」であったなあと吉之助は思いました。

(H19・9・28)


○マリア・カラス没後30年・または写実の命題

歌舞伎とは直接関係ないような雑談になりますが、実は間接的に関連するという・吉之助にとってとても大事なオペラの話です。先日イタリアに旅行してきましたが、ミラノ・スカラ座やベネチア・フェニーチェ劇場の玄関や町のあちこちに「マリア・カラス回顧展」のポスターが貼ってあって・イタリアでは相変わらずカラス人気が根強いことだなあと思いました。しかし、考えてみると今月9月16日がカラス没後30年ということだったわけです。1979年9月16日にカラスはパリのアパルトマンでひとり寂しく亡くなったのでした。

オペラ歌手としてのカラスの全盛期は1950年から60年代前半ですので、吉之助はやや遅れた世代です。しかし、1974年にステファーノと一緒に来日してリサイタルを行いまして・吉之助も当時テレビ にその放送をかじり付いて聞きましたから、吉之助もかろうじてカラスに間に合った世代と自負しています。本年9月にはヨーロッパ各国のテレビでカラス回想の放送がありまして、吉之助も言葉不自由ながら伊独仏での映像を見ましたが(最近はインターネットでこういうのがすぐ見れちゃうのですねえ、便利な世の中になったものです)、ヨーロッパではカラス伝説はいまだ健在です。カラス伝説というのは・英国のダイアナ姫伝説みたいなところがありまして、オペラ歌手としてのカラスだけで成り立っているのではなく・社交界のゴシップ女王としてのカラスのイメージ(華やかなりし時代への回顧趣味もあるのでしょう)が重要なのですが、もちろん吉之助の関心はオペラ歌手としてのカラスです。

演出家フランコ・ゼッフィレッリは次のようなことを言っています。「オペラの歴史はふたつの時代に分けられる。カラス以前とカラス以後に。」と言うのです。これは日本語訳 にすると洒落が分かりませんが、英語では紀元前をBC(Before Christキリスト以前)、紀元後をAD(Anno Dominiキリスト以後・・ラテン語)といいますが、ゼッフィレッリはBC(Before Callas)、AD(After Diva・・・Divaとはオペラのプリマドンナのこと)と引っ掛けているわけです。まあ、そのくらいカラスはオペラ歌唱の歴史のなかで重要な位置を占めているということです。オペラ歌唱の感情表現・心理描写においてカラスはとてつもない影響を与えました。

オペラ・ファンの間でもカラスの声に好き嫌いはあると思います。カラスの高音は伸びますが・ちょっと喉を絞ったような感じがあって・決して美しいわけではありません。ところが、 これが感情が激する表現の時には鮮血がほとばしるような生々しさに打ちのめされます。この旋律にこれほど豊かな感情が秘められていたのかと驚くような経験がカラスの場合は幾度となくあります。貧弱なモノラル録音でも身体がゾクゾクする ような感覚がします。カラスより声が美しい歌手は大勢いますが、まあ彼女らは確かに折り目正しく歌を歌っているわけです。オペラで歌手が歌を美しく歌うのは当然だとお思いでしょうが、しかし、カラスほどドラマをリアルに生々しく歌える歌手はそう多くはありません。

歌というのは・芝居の台詞ではありませんから、いくら写実にやろうとしても・所詮は台詞の写実にかなうはずはないのです。芝居の演技と比べれば・「歌う」という行為自体が写実から離れるものです。歌らしく・美しくメロディアスに歌うほど・それは耳には心地良くても・写実から自然と離れていく・そういう宿命なのです。これを写実の方に表現を引き戻すにはどうしたら良いか・美しくかつ写実に歌うにはどうすれば良いか・歌における写実の表現とは何か、これらの 命題にカラスは挑戦したわけです。技法的にはリズムを意識的に 揺らす・音程をずらす・音色を変えるなどの工夫を駆使するのです。そこで表現を崩し過ぎて・音楽のフォルムを維持できなければ・芸術家としてはそれで終わりです。カラスの凄いのは・そのギリギリのところで・フォルムを持ち堪えていることです。それが カラスの歌唱の異様な緊張感になって表れるものです。

例えばカラスのヴィオレッタが「愛して、アルフレード、私を愛して。私があなたを愛しているくらいに」(ヴェルディ:歌劇「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」第2幕)と歌う時に・そこにヒロインの揺れ動く熱い感情がどう表現されているかです。(別稿「その心情の強さ」をご 参照下さい。)これを聴いていただけれけば吉之助が歌舞伎のサイトでカラスの話をするのが何となくお分かりになると思います。それは「型」のなかに生々しい感情を如何にして込めるかという古典歌舞伎の 写実の命題とまったく同じです。自分のやりたいように・自分の個性に合わせて・リズムやキーをアレンジして歌うというのは・それはポピュラー歌手のやることで、クラシックの歌手はそんなことはしないし・してはならないのです。作曲者から与えられたリズムと音程とフォルムの 枠のなかで自分を最大限に表現せねばなりません。だから吉之助にとってカラスの歌唱を聴く事は、歌舞伎の表現を考えることでもあるわけです。歌舞伎の乖離性(ギャップ)を否定的に(時代遅れの・型ばっかりの・いつも通りで・新鮮味のない・・ と)取るのではなく・これを積極的な意味に転化しようとすれば、カラスの行き方は大いにヒントになるはずです。勘三郎さんにも聴いていただきたいですねえ。イタリアオペラファンの玉三郎さんから勧めてもらえないかなあ。

(H19・9・24)


○時代への親和性と乖離性・その

もう随分昔のこと(1979年)ですが・中世イタリアの伝統的な仮面喜劇で・即興性を持つ「コメディア・デラルテ」(ミラノ・ピッコロ座)の来日公演の演目「アルレッキーノ〜ふたりの主人を同時に持つと」で、主人公の召使アルレッキーノが「オイシオイシ・タマネギノオミオツケ」と日本語を言って・観客を爆笑させたのを思い出します。こういうのはもちろん受け狙いということもありますが・観客との親和性を高めることで大きな効果があります。30年近く経っても吉之助がその場面をはっきり思い出せることでも・これは証明できるかも知れません。勘三郎がNY公演の「法界坊」で英語を特訓して芝居のなかで使った ことは、カブキをアピールしようとする勘三郎の意欲をアメリカの観客も感じてくれたと思います。勘三郎という人は歌舞伎役者という以前に芝居をするのが根っから好きなんだなあと感心しました。 勘三郎は同時代へのライヴ感覚を大事にする役者なのです。

帰国後の勘三郎のインタビューをいくつか読むと・NY公演の興奮醒めやらぬなかで語っているせいもありますが、日本の歌舞伎の現状(劇評家・観客も含む)にイラ立っている感じがあって興味深く思いました。もしかしたら勘三郎は古典を演じる時に何だか時代を生きていない「もどかしさ」を感じているのだろうと思います。江戸時代の封建芝居である歌舞伎が現代日本と乖離しているのは仕方ないことですが、その乖離(ギャップ)を否定的に(時代遅れの・型ばっかりの・いつも通りで・新鮮味のない・・・と言う風に)感じ始めると・演じる側は苦しくなるかも知れません。「古典を演じる時の勘三郎の演技はどことなく重い」ということは別稿「勘三郎の法界坊」にも記しましたが、そこに一因があると思います。そこに歌舞伎の家に生まれた 勘三郎の苦悩があるかも知れません。

現代における歌舞伎の乖離性(ギャップ)をどういう方法で積極的な意味に転化するかは大事なことです。勘三郎はその解決の取っ掛かりを親和性の方に見出しているということだと思います。これは吉之助が考えている方向とは違いますが、まあ、ひとつの解決手法として理解はできます。しかし、そこは伝統演劇ですから・同時代に親和することも良いですが・さっと本筋に戻るという呼吸・何と言いますか節度が大事です。そうしないと本筋の方の規格が崩れてきます。狂言でも歌舞伎でも・伝統芸能のバックグラウンドが厳としてあります。歌舞伎役者はいつでも本道に戻って古典を演じなければならないのですから、何をやっても良ろしいですが・本道の規格が崩れてしまうならば・極端に親和性に傾いてしまうことはやはり問題があ ると思います。そこの兼ね合いが難しいところです。(注:勘三郎が英語をしゃべったことを言っているのではありません。)

昨年8月の名古屋の巡業での「鮨屋」の舞台は「平成中村座」を名乗っていたので・勘三郎の権太は普段と趣向を変えたものかと思っていたら・この舞台の権太はオーソドックスで・ちょっと重い くらいでした。演技が「重い」ということに別の問題が潜んでいることは前述の通りですが、それにしても勘三郎はその気になれば・やることはちゃんとやれる役者なのです。こういう役者は良いのですが、問題はそうではない場合です。例えば弥助(維盛)役の扇雀ですが、権太に「あっち向いて面見せろ」と言われて「こうでござんすか」とポーズを取る場面が軽くて・「ここでちょっとクスッと笑って下さいね」という感じ です。事実、ビデオを見てると客席から笑いが聞こえます。弥助は突っころばしではなく、平家嫡流が身をやつしているなかで・気品と育ちの良さがほの見えなくてはなりません。この場面で権太は弥助が維盛であることを確信するわけですから・ここは決して笑いを取る場面ではないのです。扇雀の前半の弥助には平成中村座の「法界坊」のお組での笑いを取ろうとする浅い演技と同質なものを感じます。これが平成中村座の「法界坊」の舞台から扇雀が学んだものです。こうやって古典の規格がだんだん崩れていくんだなあと感じます。いずれにせよ歌舞伎において親和性と乖離性を両立させることはなかなか難しいこと ですね。

(H19・9・23)


○時代への親和性と乖離性・その5

勘三郎のNYの「法界坊」の印象に関しては・別稿「勘三郎の法界坊」(平成17年8月歌舞伎座の観劇随想)と大差ありませんから・そちらをご覧いただきたいですが、大喜利「双面」の舞台には・アンビバレントな乖離した感覚があって、そこのところにアメリカ人がカブキを感じてくれたなら良いなあと思います。「法界坊」前半は喜劇・というよりオチャラケみたいなもので吉之助は好きではないですが、これが「双面」に続くというところに何とも異様で・奇怪で・理不尽なものを感じます。そこには何かとても大きな断層 (乖離)があります。その断面のザラザラした感触を描き出すことにカブキの意味があります。野分姫は法界坊に殺される直前に・法界坊に「俺がお前を殺すのは松若の指図だ」と嘘を言われて・それを信じて松若を恨んで死にます。だから「双面」に野分姫が怨霊として登場する理屈は分からないではないが、問題は野分姫がどうして選りによっておぞましくも法界坊と合体せねばならぬかということです。この件はいずれ別の機会に考察する予定なので・本稿では簡単に触れますが、結局、野分姫も法界坊も除け者であるということです。つまり、ふたり とも同じく状況から疎外された存在で・本質的に引き合っているということです。そこにふたりが合体する要素があるのです。

そう考えてみると「法界坊」前半に疎外された法界坊の姿がもっと描かれて良いという気がします。しかし、これが勘三郎の舞台から見えて来ません。見えてこないのは串田演出だけでなく・在来型の「法界坊」でも同じ なのですが。しかし、串田版は関係のない方向に観客を連れて行ってしまいます。勘三郎はインタビューで「(法界坊は)みんなに汚い、汚いって言われて厄介者に思われていて、雷様とだけ しか話しができない。なんと淋しいヤロウだ。法界坊は『Nasty, nasty… I’m not nasty(汚い、汚いって…、俺は汚くなんかない)』って心の中のぼやきを英語で言うんだな。」と言っています。まさにその通りです。そこに取っ掛かりがあると思います。しかし、実際に彼が舞台で演じている法界坊は「皆に汚いと罵られれても・どこか憎めない愛くるしい法界坊」なのだなあ。汚くないんだ・ホントはピュア だ・天衣無縫だと言いたいのかも知れません。しかし、「憎めない愛くるしい法界坊」では疎外されているとは言いません。疎外されている法界坊と言うのなら、汚らしくて嫌われていて・本人は逆にそれを恨みに思って・世を呪っていて・それでも生き抜く欲望はギラギラと人一倍強いのが法界坊なのです。そう言えば先代勘三郎の法界坊の目付きには時々行っちゃってるみたいな・狂人的な感じがありました。ああいう感じが近いのかも知れません。しかし、先代の法界坊もお笑いに傾いて全体的には疎外されてるというという感じはあまりありませんでした。「法界坊」を読み直すならお笑いギャグの増強ではなく・疎外された法界坊の方に焦点を当てる方向へ行ってもらいたいと思います。それならば「双面」のアンビバレントな乖離した要素を解明できると思うのです。えっ、それでは「法界坊」は笑えないじゃないかって?そう、吉之助は「法界坊」は「悲しい喜劇」だと思います。 (この稿つづく)

(H19・9・20)


○時代への親和性と乖離性・その

歌舞伎の黒衣というのはとても奇妙な存在です。黒衣は「そこに見えているのに・見えないことになっている」という矛盾した存在であり、主役がすっと後ろに手を回すと・背後から小道具を手渡したりする影のお世話役です。芝居のなかではその小道具はその主役が持っているはずのもので・もし本当に袖内にそれを所持しているのなら・衣装が膨らんでしまって形が悪くなってしまう・だから黒衣がそれを背後からそっと渡すわけです。歌舞伎はまた随分と便利なものを考えたものです。

ここで黒衣が「実際は舞台に見えているのに・見えないお約束になっている」ことは重要です。この矛盾した存在は、現代演劇からするとアンビバレントで・刺激的な存在に見えると思います。この魅惑的な存在をどうやって 現代演劇に積極的に生かすかですが、例えば登場人物の心のなかの深層心理・暗い情念を 背後霊のように・彼の背後につきまとって表現するという手法が考えられます。これは先日(平成19年7月)の世田谷パブリック・シアターでの「国盗人」のなかでは国三郎(野村萬齋)につきまとう影法師(じゅんじゅん)の使い方がこれに近いものでしょうかね。あるいは黒衣を集団で起用して・ 主役の周囲で舞台の状況に応じてギリシア悲劇でのコロスのような演技を無言で行なわせるということも考えられます。これは篠田正浩監督の映画「心中天網島」(1969年・中村吉右衛門・岩下志麻 の主演)での黒衣の集団の使い方もそのようなものだろうと思います。しかし、よく考えてみると・このような黒衣の使い方は「目に見えないもの(深層心理とか・情念とか・雰囲気というもの)を視覚的に感じられるものにする」ということにある わけなので、歌舞伎の黒衣とは ちょっと違って・その理念に捻 (ひね)りが入っていて・方向性(ベクトル)が逆になっています。捻りが入るところに実は現代のアンビバレントな要素があるのですが、それは現代演劇の思想が「舞台上にあるものはすべて観客に見えている」という写実(リアル)に根差しているからそうなるのです。逆に言えばこのような黒衣の起用方法は、歌舞伎の黒衣が実際は見えているのに・見えないことになっていることの「ご都合主義」を現代演劇の立場から批評するということにもなっています。だからこのような黒衣の使い方を歌舞伎で行なうとすれば・その方向性が逆になりますから・様式的に齟齬をきたすことになるかも知れません。

ところで本年(平成19年)7月に勘三郎がニューヨークで「法界坊」(串田和美演出)を上演した映像がNHKハイビジョンで先日放送されました。放送後の串田氏へのインタビューで・ アナウンサーがこの舞台で・しゃしゃり出てきて積極的にギャグに絡む黒衣の使い方が面白いということを言って、それに答えて串田氏が「現代演劇ではこの小道具をあらかじめどこに置こうかと悩むのだけど・歌舞伎では黒衣がさっと手渡してくれるのだから、これはシュールでアバンギャルドな手法である云々」と発言しておられました。しかしねえ、手品じゃないのだから・歌舞伎の黒衣はそこにないものを出すわけではなくて・そこにあるべきものを役者に手渡しているのですよ。この違いは大きいのではないでしょうかね。串田演出の「法界坊」での黒衣は「お約束で見えないことになっているけれど・実は姿がバッチリ見えている」ということの歌舞伎のご都合主義のパロディだと言いたいのでしょうが、実は串田氏の黒衣の使い方の方が歌舞伎よりもっとご都合主義なのです。「法界坊」というのは世話物で・世話物というのは一応写実(現代演劇がイメージするところの写実とはもちろん微妙に異なります が・写実には違いない)に根差している芝居です。写実を旨とする世話物のなかでこう した黒衣の使い方は・現代的解釈からの視点からのものだと認めるとして・歌舞伎のアンビバレントな側面のどんな部分を抉り出すことになるのですかね。まあ、そんなことを考えたわけではないのでしょう。ただ笑いを取るために面白ろそうだから黒衣をギャグに絡めてみ ただけだと思います。こういう使い方は歌舞伎の技法の単なる崩しであって・それ自体に発展的な要素を孕んでおりません。平成18年6月のシアター・コクーン:「四谷怪談・北番」での「隠亡堀」での浪衣の集団の使い方は面白かったと思いますが。 (この稿つづく)

(H19・9・16)


時代との親和性と乖離性・その

いつぞや・テレビの初芝居中継で舞台中継の合間にエレキ・ギターをバンバン鳴らしたロック・ミュージックに合わせて・パンク風俗の若者たちと歌舞伎役者が スタジオで浮かれて踊りまわる場面が出てきました。 吉之助には新年早々騒がしい感じでありましたが、多分プロデューサーは「歌舞伎だって元は江戸のパンク風俗で、かぶき者も現代の若者も変わらないんだよ」ということが言いたかったのでありましょう。まっそれはその通り です。歌舞伎の「助六」も元禄のいかれたパンク野郎なのです。かと言って歌舞伎座の花道を助六がエレキ・ギターに合わせて登場するのは(もしそんなことがあればの話ですが)ご勘弁いただきたいですねえ。助六はもちろん江戸のパンク野郎ですが・その風俗は300年も経っていて・それはもう干物みたいなもので、水分も脂気も すっかり抜けて・日光と時間に曝されてたんぱく質は熟成して旨味を増して・別のものに変質しているわけです。そこになま物を出してきて・干物と同じだと言われても困るンだよなあ。渋谷のパンク野郎も300年経ったら・良い味の干物になって平成の助六になるかどうかは、それは分かりません。

要するに次元が異なるわけです。伝統芸能が現代において意味があるのは・現代との次元(時代感覚)の乖離(ギャップ)であると吉之助は思います。エンタテイメントとしてなら・現代 には現代を描くのにもっとふさわしいものがあるだろうと思いますし、 またそういうものが生まれるべきです。現代を楽しもうというだけなら何もわざわざチョンマゲ・帯刀の封建主義の芝居を見る必要はないと思います。ですから 敢えてそこで現代に伝統芸能をやるならば、その乖離(ギャップ)ということを積極的な意味に取るか・否定的に(時代遅れの・型ばっかりの・いつも通りで・新鮮味のない・・・)と取るかということ で、伝統芸能に対するスタンスは変わるということかと思います。しかし、伝統芸能 の当事者とすれば・その芸が彼が生きている時代の感覚と無縁なことは決してありませんから、「俺は生きている」という感覚を持ち続けないと・芸が辛くなるということがあるのかも知れません。

先日(平成19年7月)の世田谷パブリック・シアターでの「国盗人」(シェークスピア:「リチャード三世」の翻案)では・これは狂言というわけではないから目くじら立てることもないですが、国三郎(グロスター公リチャード)役の野村萬齋が戴冠の場面でマイクを持って「ひとり殺せばひと殺し・五万殺せば英雄だ」とミラーボール輝くカラオケ広場で歌い踊っておりました。全体としてなかなか良い舞台に仕上がってい たと思うのに・この場面だけいかにも浮いていて、「狂言だって生きているんだ・友達なんだ」と声高に叫ばなくても・・と思いました。しかし、演じる側からすると・ 時代との親和性を叫ばずにはいられないという気持ちはまあ分からないわけではありません。(この稿つづく)

(H19・9・9)


時代との親和性と乖離性・その2

「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の2つの死」ということを重要な史観にしていることはご承知の通りです。「歌舞伎の第1回目の死」とは寛永6年(1629)幕府による女優の禁止です。創成期の歌舞伎は女優を禁止されて・写実の演劇への発展を妨げられました。次に 「歌舞伎の第2回目の死」を象徴する出来事が明治36年(1903)の九代目団十郎の死です。これにより歌舞伎はその故郷である江戸との精神的つながりを絶たれたことになります。この史観において重要な認識は 、歌舞伎は時代と乖離し・時代に裏切られ続けてきたという感覚です。

歌舞伎はもともと「かぶき者の芸能」に発するのですが、江戸初期のかぶき者の思いを代表する科白が「生き過ぎたりや」です。「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺の生きるべき時代ではない」という思いが江戸初期の若者の共通 した思いです。こうした思いから発するのが「かぶき的心情」です。歌舞伎という芸能は、ふたつの死を通して・常に こうした時代への喪失感を引きずっているのです。かぶき的心情は必ずしもあからさまな時代への反発・失望ではありません。その心情のベクトルが過去の方へ向いている・ここが大事なのです。 つまり、「あらかじめ失われたものへの喪失感」ということです。逆に言えば、そのような心情が作品に反映していることが歌舞伎の必須条件 となります。例えば二代目左団次の創始した新歌舞伎も・ちょっと見は古典歌舞伎とは違った趣きがありますが、実は時代への喪失感を強く引きずっています。だからこれらは 新しい感覚でかぶき的心情を処理した芝居なのであり、これを新演劇とは呼ばずに・「新」歌舞伎と呼ぶ のです。(これについては別稿「新歌舞伎におけるかぶき的心情」をご参照ください。) こうしたかぶき的心情は歌舞伎が持つ時代への乖離性と重なってくるわけです。

一方で歌舞伎は不特定な大衆(都市在住の庶民が主体ですが・観客のなかには武家もあり・さまざまな階層がいる)を相手にする興行(エンタテイメント)で もあり・興行は大衆の支持を得なければ成立しませんから・時代に対する親和性も確かに持っています。この点において歌舞伎は捻じれているということが言えます。つまり、歌舞伎は時代への親和性と乖離性という相反した要素を内包しているわけです。

このことは伝統芸能としての歌舞伎の表現にも関連してきます。 その発現の仕方は複雑で・ひと口には説明できませんが、ひとつは様式的な演技で・これは時代と乖離する要素を持っており、時代に背を向けて硬化・古典化しようとする要素です。もうひとつは具象的な演技で時代に親和する要素でもあり、いわば芸能のライヴ性につながるものです。歌舞伎はこのふたつの要素が交錯して織り成す芸能であるという見方 がひとつの尺度として可能です。

『問題は、つまり歌舞伎というものの性質が、半分現代に足突っ込んで、半分古典だというところにもあるんですね。能みたいに、もう生きた社会から離れてしまえば、これは狂いようがないのです。文楽の場合も割合にそうだと思う。だからそれだけのファンなり見物がいつでもついていく。若い人もいつでもついていくと。そうなればいいんだけど、歌舞伎だけはどんどんどんどん広がって、本質が流動して流れていきますから。だけど、逆にここら辺で古典化させなくちゃあ。国の文化の財産がこんなものかと言うことになってしまう。』(郡司正勝:対談「国立劇場の三十年」:歌舞伎・研究と批評・第18巻)

「歌舞伎素人講釈」のスタンスは上記の郡司先生の考えに近いものです。はっきり言えば「歌舞伎は博物館入りすべし」という考え方です。つまり、伝統芸能としての歌舞伎のスタンスを古典性の方に置くものです が、こうした考え方は実は同時代との乖離性を根底に持つのです。一方、ライヴ性というか・時代への親和性の方にスタンスを置く考え方も当然あり得ます。もちろんどちらの考え方も在ることで ・どちらが正しいとか間違っているということはないのですが、しかし、批評は視点(スタンス)を明確に取ってひとつの切り口を見せるものですから・吉之助が文章を書く場合は時代との乖離性の方に重きを置く 立場に当然なります。(この稿つづく)

(H19・9・1)


時代との親和性と乖離性・その1

本年(2007年)のバイロイト音楽祭のオープニング・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でのワーグナーのひ孫カテリーナ・ワーグナー(29歳)の新演出はその過激さで大きな論争を巻き起こしたようです。 この作品はワーグナーのなかでも最もドイツ的 なものとされ、マイスタージンガーたちの歌合戦を通じてドイツ芸術の栄光を高らかに歌い上げるものです。かつてヒトラーはワーグナーの作品を熱愛し、ヒトラーの庇護のもとワーグナー家はナチスの宣伝に大いに協力をしたため、戦後のワーグナー家は大きなツケを負わされることになります。戦後のバイロイト音楽祭の歴史は脱ワグネリズムの試みの歴史でもありました。ワグネリズムとナチズムとの関連はそれだけで本が何冊も出ているほどで・書くときりがないので省きますが、その象徴的な作品が「マイスタージンガー」 ということになります。

「マイスタージンガー」では主人公ザックスはエヴァを内心愛しているのですが・その気持ちを抑えて・若いワルターとエヴァの間を取り持つ役どころです。ところがカテリーナの演出では、エヴァはザックスを露骨に誘惑して・ザックスはエヴァに縛られて喜ぶサドマゾの世界になっていまいます。終幕ではワーグナーやリスト・ゲーテ・シラーなどの仮面をつけた男たちが登場して・ズボンを脱いで・女の子にいたずらをする。最後にはすべての小道具は舞台に置かれた棺おけに入れられて・火をつけて全部燃やされるという具合だったそうです。曽祖父の作品を徹底的に茶化して「ドイツ精神の全否定」という感じですね。案の定 観客は「冒涜だ」と叫び出し、終演後のカーテンコールでは怒号が飛び交う騒ぎとなりました。翌日の新聞は「 ひいおじいちゃんがパンツ姿に」と書きたてました。しかし、当のカテリーナは「ザックスが歌うドイツ芸術に真実はない。ヒトラーに賞賛されたあらゆるドイツ芸術は燃やされなければならない」と澄ましたものだったそうです。

ドイツでは第二次大戦の戦争責任は今も徹底的に追求されています。また学校教育にもそうした議論が組み込まれています。逃げ回る祖父母に対して孫たちが「どうしてあなた方はナチスに反対しなかったのか・戦争を阻止 しようとしなかったのか」とその責任を追及して世代間に亀裂が入るようなことも実際頻繁に起きています。ましてワーグナー家にとってナチズムの問題は背負わされた十字架のようなもので、戦後の一族内でのトラブルは絶えたことがありませんでした。こういう演出が好きかと問われれば・吉之助は全然好きではないですし・その場に居合わせれば一緒になってブーを叫びそうな気もしますが、しかし、カテリーナの演出はワーグナー家・あるいはドイツ国民の心の傷の深さが察せられて心が痛む気がします。

ところで、上記カテリーナの演出ですが・舞台装置や歌手たちの衣装・動きについてはもちろん彼女の意図を反映したものですが、音楽については歌詞・音符のひとつも変えられていません。つまり、音楽はまったくそのままで・視覚上の内容が徹底的に意味が変えられて・そのギャップ(乖離)から何かの主張を引き出そうとするものです。もし音楽や歌詞 が一緒に併せてアレンジされるのならば・あるいはその主張解釈はもっと明確なものにできるかも知れません。しかし、それでは全然別の作品になってしまいます。 あるいはそれは作品の歪曲ということになります。片方に厳然と変わらないものが存在(この場合はそれは音楽である)するから、もう片方にそれとは全然異質なものを配置して・ そこから音楽を照射し・新たな意味を創出できるというのが、オペラの現代化演出の方法論なのです。これが80年以降のオペラの解釈主義の演出の大きな流れです。

これは現代のシェークスピア劇の上演でも基本は同じでして、シェークスピアの英語は現代語ではなく古語ですが(正確に言えば中世英語ではなく・これは古い時代の近代英語です)・テキストはまったく変えられることなくそのままで・舞台演出だけが現代化されて・現代の舞台が出来上がっているわけです。ここでも厳然として変わらないもの(テキスト)があり、変わらないものがあるからその一方で自由なこと を試みることができるわけです。オペラも・シェークスピア劇も伝統芸能ではありませんが、「変わらないもの・変えてはならないもの」ははっきり意識されているわけです。 ある種の基準になっているものがしっかりとあるからこそ・「変革」の意義が出てくるということです。決して何をやっても良いということではないわけです。 そこに「古典」(クラシック)ということの規範を置いているわけです。ちょうどヨーロッパの旧市街の街並みが表向きは伝統的な古い佇まいを維持しながら、内に入ってみれば・実に現代的に自由に内装されているのと同じことです。この点は非常に重要な点なので強調しておきたいと思います。(この稿つづく)

(H19・8・29)


○暗喩としてのシザーリオ・その

菊之助の獅子丸(シザーリオ)は・初演よりさらに柔らか味が出て・そこに若衆の魅力の片鱗を見せてくれました。時々女声になって・ハッとして男声に戻す・あるいは酒を飲む時にシナを作って女性をほのめかすという技巧もあざとくなく自然に見せました。女形のシザーリオである以上そういう風になるのは当然なことですが、若衆歌舞伎の視点から見ると・歌舞伎の女形の性の境界線への自意識がそこに見えてきます。兄弟の再会場面を琵琶姫(ヴァイオラ)の方に取らせようと考えた場合・琵琶姫の歌舞伎のお姫さまの類型的技巧が障害になるということも舞台を見ればはっきり確認できます。

蜷川幸雄氏が新劇でシェークスピアの原作本でヴァイオラを男性俳優に演らせようとするなら例えば藤原竜也を起用すれば・ちょっと面白いものに仕上がる かも知れません。しかし、歌舞伎の菊之助をヴァイオラに起用するならば・新劇の男性俳優が演じるのとは違うものが見えてこなければなりません。ひとつには歌舞伎の女形の批判(女形の否定ということではなく・女形の在り方をクリティカルに浮き上がらせるもの)ということです。大それたことと思うかも知れませんが、世界のニナガワが歌舞伎に挑戦というなら・そのくらいの衝撃が欲しいところなのだな。菊之助は若衆の雰囲気を感じさせますし、シェークスピアの少年俳優の幻影を思い起こさせます。少年俳優の幻想を再現しようとするなら・菊之助は願ってもない素材です。シェークスピアを数多く演出している蜷川氏のことです。歌舞伎の菊之助をヴァイオラに起用できるなんて・演出家の血が騒ぐじゃないかね。「歌舞伎らしいシェークスピア」なんてどうでも良いからもっと仕掛けてくれよというのが吉之助の正直な気持ちではありました。別稿「伝統芸能現代化の試み」において「NINAGAWA十二夜」は歌舞伎にとっても・蜷川氏にとってもホントのガチンコ勝負にはなっていないと書いたのは・そこのところです。

もちろんさすがに蜷川氏の演出は手馴れたもので・歌舞伎版「十二夜」は上質のエンタテイメントとして十分楽しめるものに仕上がっています。その辺に如才はないのですが、しかし、ちょっと視点を変えて「若衆」ということをキーワードにして見れば・別の材料も提供してくれるということです。いずれにせよ歌舞伎版「十二夜」は「歌舞伎らしいシェークスピア」を意識し過ぎで表現の幅を狭めたところが 若干あるように思われるというのが吉之助の所見であります。

(H19・8・13)


○暗喩としてのシザーリオ・その5

シェークスピアの時代の英国演劇では少年俳優が女性の役を勤めました。だからシェークスピアのヒロインを歌舞伎の女形に演らせればどうか・・というのはまあ簡単に思いつくアイデアではあります。しかし、実際にはそ うした試みが頻繁に行なわれたわけではありません。数少ない上演のなかで思い出すのは昭和51年に演じられた玉三郎のマクベス夫人です。この舞台は吉之助にとっては歌舞伎の女形の技芸の底力を再認識させる衝撃的なものでした。もちろんそれ 以前に歌舞伎は見知ってはいましたが、この舞台はこれ以後吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけになったものです。玉三郎のマクベス夫人を見なければ・吉之助の歌舞伎発見は数年遅れたかも知れません。一方、デズデモナの玉三郎はただ綺麗なだけで大した 発見はなかったですね。これは役が役だから仕方がありません。いずれにせよ女優を起用せず・歌舞伎の女形が演るだけの価値がある・効果が挙がる役はやはり限られるようです。ジュリエットやオフィーリアも女形が演る価値はあまりなさそうですなあ。先日の「国盗人」 (野村萬齋演出・「リチャード三世」の翻案)で白石加代子が演じたマーガレットは歌舞伎の女形が演っても面白いだろうと思います。役の情念の濃さがポイントですね。繰り返しますが、これらの役をシェークスピア時代には少年俳優が演じたことを想像してみてください。

そこでヴァイオラのことですが、歌舞伎の女形がヴァイオラを演ることはマクベス夫人を演るより・ある意味で難易度がかなり高いと思われます。それは男装したシザーリオがヴァイオラという女性の正体を現す場面があるせいです。マクベス夫人の場合は一貫して女性を装えるから・その点では楽なのです。ヴァイオラなんてお嬢吉三か弁天小僧の 逆で簡単に出来るだろうと思うかも知れません。歌舞伎版「十二夜」の発想も案外そんなところが発端かも知れませんが、演ってみるとそんな生易しいものではないようです。

ヴァイオラが女性だという真実が明らかになる「十二夜」の一番肝心の場面を、歌舞伎の女形がその虚構を明らかにせずに乗り切る方法はあるでしょうか。考えられる唯一の方法はヴァイオラとシザーリオの演技の落差をなくしてしまう ・中性か若干女性に近い少年の感じで同じ調子で押し通すことです。つまり、ある意味では歌舞伎の女形の女らしさの技巧の全否定です。ヴァイオラとシザーリオの声色をほとんど変えずに同じトーンで通すこと、言葉遣いと口調だけで役の性の微妙な変化を見せることです。それならば兄妹の再会場面は無理ではなくなるのです。吉之助は少年俳優のヴァイオラ(シザーリオ)はそうした演じ方で処理されたと想像します。これは少年俳優が無技巧だと言っているのではありません。当時の文献でも当時の記録によれば少年俳優の女役は「イタリアで見られた女優の演技と変わりなく」・「女優の誰よりも素晴らしい」と記されているくらいです。これは若衆歌舞伎の感触に近いものなのです。

ですからマクベス夫人ならば歌舞伎の女形の技巧で処理できますし・それでも十分ですが、それではヴァイオラあるいは「お気に召すまま」のロザリンド (男装してギャミニード)の場合は処理できないのです。若衆歌舞伎の時代まで遡り・失われてしまった若衆の技巧を想像して・これを処理する必要があります。このことは「お気に召すまま」のロザリンドの納め口上を見れば想像できます。ロザリンドに扮した少年俳優が最後に舞台に登場して観客に向かってこう言うのです。

「もし私がまことの女でしたら、私の気に入りましたお髭をお持ちの方々に一人残らずキスして差し上げたいと思うところです。」

それは観客への愛嬌と媚(こび)を含んでいると同時に、観客もその「真実」(これは偽りではなく・真実なのです)を受け入れて・愛していることを示しています。この台詞を現代演劇の感覚で・少年俳優が男の声で言ったのか・女の声で言ったのかと想像することはまったく意味をなさないことです。この台詞は男でも女でも通用する同じトーン・つまり少年の声で発声されたことは疑いありません。(この稿つづく)

(H19・8・12)


○暗喩としてのシザーリオ・その4

「十二夜」で最も素晴らしい場面がヴァイオラとセバスチャンの再会シーン(第5幕)であることは別稿「似てはいても別々のふたり」でも触れました。歌舞伎版においては・若手女形のホープ菊之助が男装のヴァィオラを演じるのが企画の目玉ですから、 菊之助がこの核心の再会場面の琵琶姫(ヴァイオラ)をどう処理するのかを・実は吉之助は一番期待していたわけです。しかし、残念ながら実際の舞台では菊之助は主膳之助(セバスチャン)を演じて・琵琶姫はお面を付けた吹き替えであったのでした。

これは多分こういうことだと思います。それは歌舞伎の女形の手法で琵琶姫が女性の正体を明かす場面を処理すると、女形の嘘が顕わに見えてしまうからです。ここで別稿「破滅のパラダイム」での女形の「実のなさ」についての考察が役に立ちます。女形が女に成り切ることを断念し・女を装うことを始めて・女形の演技術は飛躍的に発展しました。つまり、喉を絞って声色を作る・身体をグニャグニャさせてシナを作るというような女形独特の虚飾の技巧です。この女形の技巧が獅子丸が琵琶姫の正体を現す肝心の場面で邪魔になってくるのです。しかも、この場面の琵琶姫はまだ小姓姿・つまり獅子丸(シザーリオ)の衣装のままです。正体を明かした琵琶姫を菊之助が演じたとして、獅子丸が突然高 く作った女声を出して・シナを作り始めると・恐らく観客は笑い出すことでしょう。もちろん好意的な笑いではありましょうが。しかし、ここで男が女を作っていることの女形の「実のなさ」が顕わになって女形の技巧が浮いて見えてくる。琵琶姫が女性である・つまり真実が分かるという肝心の場面が、逆に「女形の虚構のなかへ戻る」というパロディ感覚になってしまいます。この感覚的齟齬がかなり大きいと思います。

菊之助に主膳之助を主体に演じさせれば・本来性である男が男を演じることで芝居は一応落ち着きます。そこで菊之助に主膳之助の方を演らせて・琵琶姫は吹き替えということに変更されたと 推測 します。芝居を収めるという点では多分その判断は正しかったと思います。しかし、いくらそっくりのお面をしたところで・吹き替えの琵琶姫(=獅子丸)ではやっぱり抜け殻になっちゃいましたねえ。結局、歌舞伎の早替わりのパターンのなかで「吹き替えが似てた」だけのご都合主義の場面になってしまいました。今井豊茂氏は最終場面の段取りの作り変えに苦労 されたこととお察しをします。幕切れを捨助(フェステ)が一同に別れを告げるという形に書き変えて・カーテンコールを兼用しつつ・観客の目を芝居の本筋から逸らしてしまった処理など巧いものです。

ところで、シェークスピアの時代に「十二夜」が上演された時・ヴァイオラは少年俳優が演じたわけです。少年俳優のヴァイオラでは、この再会の場面で性を装うことの嘘が顕(あら)わに見えてしまうことはなかったのでしょうか。それは「なかった」と断言できます。少年俳優は性の境界を自在に飛び越えて観客を楽しませたことでしょう。と言うより少年俳優は性の境界なんてものがあること自体を観客に意識させなかったと思います。「自然は男性を分割し・半分は娘たちのため・半分は男たちのためのものとした」、それが少年俳優であるからです。少年俳優はどちらでもあるのです。一方、歌舞伎の女形は自分の周囲に境界線を自ら引こうとします。男が女を演じることを嘘が顕わになることを虚飾の技巧によって無意識的に防御しようとするのです。境界線こそ女形を守るものだからです。そこにシェークスピア劇の少年俳優と・歌舞伎の女形との本質的・かつ決定的な違いがあります。 (この稿つづく)

(H19・8・9)


○暗喩としてのシザーリオ:その

以上のことを踏まえて・平成19年7月歌舞伎座での「NINAGAWA十二夜」(再演)での主膳之助(セバスチャン)と琵琶姫(ヴァイオラ)の再会場面を考えます。この舞台では菊之助のひとり二役で演じられました。本当は衣装を同じにした二人の役者で演じられるべきだということは別稿「似てはいても別々のふたり」で書きましたから・ここでは繰り返しません。歌舞伎で「十二夜」を上演するという企画の前提として・菊之助のひとり二役が最初からあったようですから、まあそれはそれとして置くことにします。

「NINAGAWA十二夜」再演は無駄なところを整理して・2年前の初演より流れがスムーズになったのは確かです。しかし、琵琶姫と主膳之助の再会場面は・やっぱり演劇的暗喩が動き出さないという点では変わりありませんでした。そのために琵琶姫と大篠左大臣(オーシーノ)・主膳之助と織笛姫(オリヴィア)が結婚するのがまさに「歌舞伎の結末なんてどれもご都合主義で・こんなもんでしょ」みたいなところに落ちています。これは今井豊茂氏の脚本の問題と言うより も・前述の通り菊之助ひとり二役の前提が最初にあって脚本が書かれているので、実は「ひとり二役」の発想の方に問題があるのです。それにしても今井豊茂氏のこの場面の処理でのご苦労が察せられる気がしました。

新劇でもヴァイオラとセバスチャンをひとり二役で処理した例は過去にいくつかあります。これらはいずれも女優によって演じられています。例えば1986年の野田秀樹演出での大地真央です。ただし吉之助はこの舞台を見ておりませんが。ヴァイオラを男優が演じるなんてことは歌舞伎でなければ気持ち悪くて・想像したくないですね 。(笑)しかし、このことは結構大事なことでして・「十二夜」を見れば主筋はヴァイオラが負うのですから、 新劇で二役兼ねる発想ならばこれを女優が演じるのはこれは当然のことだと思います。女優が二役兼ねるなら「十二夜」はヴァイオラの成長物語の様相を一層呈するでしょう。

「ひとり二役」となれば兄妹の再会場面では片方に吹き替えを使うか・いっそのこと片方を登場させないか・いずれにせよ脚本・演出に手を加える必要が出てきます。しかし、その場合は再会場面はヴァイオラを主にして場面を書き変えるのが当然だと思います。その逆・セバスチャンを取ることは芝居の暗喩が働かないから意味がないのです。しかし、この歌舞伎版「十二夜」では兄妹の再会場面で菊之助は主膳之助として舞台に立ち・琵琶姫はお面を着けた吹き替えが演じているわけです。 まさに発想が逆なわけで、この点が問題になります。

本稿はその是非を論じるのが目的ではありません。誰が考えたって・兄妹の再会場面では菊之助は琵琶姫(正確に言えば男装した獅子丸)として舞台にいる方が演劇的暗喩も立つし・効果的に思えます。演出の蜷川幸雄氏もそんなことは百も承知だと思います。ところが歌舞伎では実際演ってみるとそれだと少々具合が悪い感じなのです。それで芝居としては損なのを承知でこの場面を主膳之助に持たせるように脚本を書き変えたのではないかと・吉之助はそう推察しています。「脚本今井豊茂氏の苦労が察せられる」と書いたのはそこのところです。(この稿つづく)

(H19・8・6)


○暗喩としてのシザーリオ:その2

「十二夜」における兄妹の再開をオリヴィアとオーシーノの立場から考えて見ます。オリヴィアが結婚する相手セバスチャンはシザーリオ(ヴァイオラの少年性)を引き受けています。このことをセバスチャンはオリヴィアにこう言っています。

『自然は回り道をしても正しい結果に導いてくれる。あなたはまだ男を知らない娘と結婚するところだったが、この命に賭けて、決して騙されたわけではない。まだ女を知らない男と婚約したのだから。』(第5幕第1場)

この台詞は 「自然は男性を分割し・半分は娘たちのため・半分は男たちのためのものとした」というスティーブン・ブースの少年俳優への賛辞を思い出させます。つまり、セバスチャンはここで「まだ男を知らない娘(少女)とまだ女を知らない男(少年)はほぼ等しい」と言っているのです。この論理を観客に納得させる根拠が女装した少年俳優です。だからセバスチャンの台詞はヴァイオラ(シザーリオ)が少年俳優によって演じられたということを念頭に入れなければ意味不明なのです。逆に言えば、このことが分かれば・オリヴィアがセバスチャンとすんなり結婚してしまうことが演劇的に自然な成り行きであることが理解できます。オリヴィアにとって・セバスチャンはシザーリオの代用品なのではなくて、シザーリオとまったく同等なのです。

一方、オーシーノは「魔法の鏡は真実を映していたらしい・となれば私もこの幸せな難破の仲間入りをさせてもらおう」と言ってヴァイオラに求婚します。大事なことはこの時点のヴァイオラはまだシザーリオの衣装のままであるということです。別の台詞ではオーシーノはこうも言っています。「シザーリオ、おいで。だってそうだろう、男でいるうちはお前はまだシザーリオ 。」(第5幕第1場)つまり、オーシーノにとってもヴァイオラはシザーリオとまったく同等であるということが分かります。

「自然は回り道をしても正しい結果に導いてくれる」(セバスチャン)・「魔法の鏡は真実を映していたらしい」(オーシーノ)というふたつの言葉は・本来あるべき男性と女性の組み合わせの結婚を指していると考えるのがもちろん真っ当な解釈です。だから、オリヴィアとセバスチャン・オーシー ノとヴァイオラという組み合わせで芝居は表面上落ち着いた形になります。しかし、少年俳優を介在させれば・鏡は別の真実を映し出していると考えることも可能なのです。

再開した兄妹はやがて溶け合ってひとつになって・新たな理想のひとりの人間として生まれ変わるかのように思われる・それがこの場面が持つ暗喩です。とするならばオーシーノとオリヴィアの目には「ヴァイオラ=(シザーリオ)=セバスチャン」という風に見えているのかも知れません。だからオーシーノはヴァイオラと・オリヴィアはセバスチャンと別々に結婚しますが、実はふたりともシザーリオと結婚したような気分なのです。オーシーノとオリヴィアは実は真実のシザーリオをふたりで分け合っているような心持ちなのです。オリヴィアはオーシーノに「同じ日の・同じ場所で二組の結婚式を挙げる」ことを提案しますが、そう考えれば・当然結婚式は同時に 挙げられねばならないことになります。

このように兄妹の不思議な再会は見方によって「分離」(シザーリオから少年性を分離してヴァイオラが出来上がる)という局面と・「合体」(セヴァスチャンとヴァイオラが ひとつに溶け合って真実のシザーリオが出来上がる)というもうひとつの局面を同時に併せ持つわけです。(この稿つづく)

(H19・8・3)


○暗喩としてのシザーリオ:その1

シェークスピアの喜劇「十二夜」ではヴァイオラは理由あって男装して小姓シザーリオに成り済ましますが、主人オーシーノは小姓に夢中になり・オリヴィアも小姓に恋してしまいます。ヴァイオラ自身はオーシーノに恋しますが、自分が男装していることを言い出せず・事態はややこしい関係に陥ってしまいます。 終幕でそのもつれた糸がヴァイオラと瓜ふたつの兄セバスチャンの登場で解けてオーシーノはヴァイオラと・オリヴィアはセバスチャンの方とめでたく結婚することになりますが、何の葛藤もなく・実にあっさりとそういう結末に落ち着いてしまうのです。オーシーノはお気に入りの小姓が女性ならこれ幸いと妻にしてしまうという感じであるし、オリヴィアの方もあれほどシザーリオに執心だったのに・「顔が同じならまあいいわ」という感じでセバスチャンと結婚してしまいます。この展開についてある本(あえて名前を伏す)に「ご都合主義の結末のように見えるかも知れないが・だいたい人生自体がそんなに理に落ちるものではないでしょ」みたいなことが書かれていて「そんな ものかなあ」と思いました。

吉之助は戯曲における展開はそれなりの「必然」が伴うものだと思っています。ご都合主義で書かれた戯曲に大した出来のものはないと思います。「夏の夜の夢」でティター二アはロバに恋しますが、それは「目覚めた時に最初に見たものに恋する」という媚薬を飲んだため・そして最初に見たのがたまたまロバだったということです。しかし、テ ィター二アが恋する相手は「とんでもないもの」でなければ戯曲の意味がないのは当然のことです。だからティター二アが最初に見るのはロバでなければならないのです。「十二夜」とても同じこと。オーシーノがヴァイオラと結婚し・オリヴィアがセバスチャンと結婚する結末はご都合主義でも何でもなく、「十二夜」を考える時にこの結末は 必ず何かの暗喩(シーニュ)があるのです。

別稿「似てはいても別々のふたり」において、ヴァイオラ(変装したシザーリオ)とセバスチャンの兄妹が再会する場面について考察しました。若い男女はその思いがけない運命に陶然として見つめ合い、やがて溶け合ってひとつになって・新たな理想のひとりの人間として生まれ変わるかのように思われます。もちろん実際はそうなるはずもありませんが、観客の深層心理的願望としては間違いなくそれがあるのです。それが再会シーンが観客にもたらす暗喩であるということを申し上げました。

まずヴァイオラの立場から考えてみます。兄妹の再会は・「ああ時よ・これをほぐすのはお前の役目・私じゃない・こんなに固くもつれていては・私の手ではほどけない」(第2幕第2場)とヴァイオラ自身が嘆いていた膠着状態から自らを解き放つきっかけになっています。つまり、自分で仕掛けたシザーリオ(少年性のなかに逃げ込んでいる)という呪縛から脱して・本来性である女性に返るということです。これでヴァイオラは自分が恋していたオーシーノに自分の気持ちを正直に告白できることになります。これは少年性を包含したところのある少女の状態から、少年性(=シザーリオ)を取り去り・一人前の女性として成長したということでもあります。だから「十二夜」はヴァイオラの成長の物語として読むことが出来るわけです。

しかし、このことはヴァイオラが自分のなかのシザーリオを「否定する・消し去る」ということではありません。もちろんヴァイオラはシザーリオの衣装を脱ぐことでひとりの女性として成長するわけですが・その脱いだ衣装に十分な供養を施さなくてはなりません。この過程が大事なのです。思春期の少女の自殺で・周囲にその理由が全然思い当たらないようなことがあります。身体はどんどん女性として成長していくのに・自分のなかに残っている少年性の処置がうまくできないために・結局大人になるのを拒否するという形で自分のなかの少年性とともに死してしまうという場合があるのです。ですから「十二夜」の場合にもヴァイオラはシザーリオの衣装を脱ぐことになりますが、シェークスピアはこの点を十分に配慮しています。シザーリオは「殺される」のではなく、ヴァイオラのなかの少年性はセバスチャンに引き取られるのです。このこと はシェークスピアによってしっかり伏線がされています。シザーリオの衣装はヴァイオラが兄セバスチャンの衣装をそっくり真似したものだからです。「確かにお兄様は私という鏡のなかに生きている。目鼻立ちも私と瓜ふたつ、いつもこういう色や型の服、こういう飾りをつけていた。だって、これはお兄様を真似たんだもの。」(第3幕第4場)だから 消えたシザーリオはセバスチャンのなかに「生きている」ことになるわけです。これが「十二夜」を「ヴァイオラの成長物語」 として見た時の演劇的なシザーリオの供養の・ひとつの手法です。

オリヴィアがセバスチャンと結婚することが「十二夜」の結末に安心感を与えています。だから観客はこの芝居全体をハッピーエンドのお芝居だと感じることが出来るのです。脱ぎ捨てられたシザーリオの衣装の処理(供養)がぞんざいならば、オリヴィアは失われた恋人シザーリオのことをずっと嘆き続けなければなりませんし、ヴァイオラが幸せになれることは決してありません。(この稿つづく)

(H19・7・30)


○芸術における「善きこと」

別稿「バレンボイムのマーラー第九交響曲」において、指揮者バレンボイムが対立するイスラエルとアラブ諸国のふたつの陣営からの若い音楽家たちを集めて・ワークショップを行なっていることを紹介しました。バレンボイムとともにワークショップの思想的な柱となったパレスチナ出身の哲学者エドワード・サイード(2003年9月に白血病で死去)が、バレンボイムとの対談(「音楽と社会」・みすず書房)のなかでとても印象的な場面があったと語っています。バレンボイムの指揮でベートーヴェンの交響曲第7番のリハーサルをした時のこと。第1楽章でオーボエが駆け上がる音階をエジプト出身の奏者が軽やかに奏でたのを聴いて、イスラエルの音楽家たちが一斉にハッと驚いた表情をして彼の方を振り返って見たというのです。イスラエルの音楽家たちはパレスチナやカイロに自分たちと同じ音楽を奏でる音楽家がいるなどということを・これまで想像だにしていなかったのです。サイードは「(このことに気付いた以上)この子供たちがあるものから別のものへと変化してい くことは基本的に止められないことだ」と言っています。

こうした気付きを通じて・彼らは互いの理解と友情を深めていくのですが、しかし、いつか彼らは故国へ帰らなければなりません。そして兵士として戦場に立たねばならないかも知れません。その時に銃口の向こうにいるのが「彼」だったならば・自分は引き金を弾くことができるのか。そもそも我々はどうして憎みあい・互いに血を流し合っているのか。そういうことを彼らはずっと考え 続けるわけです。「戦争はいけないことだ・人殺しはいけないことだ」などと言うのは簡単なことです。しかし、中東の状況は平和ボケした我々日本人の想像を絶しています。その事態は複雑で巨大で・解決がほとんど不可能に思えるほどです。こうして育まれた彼らの友情は・ピリピリとした痛みと・胸の奥底に重く淀む憤りを伴ったものとなっていくのです。

ここで書いた「ピリピリとした痛み」・「胸の奥底に重く淀む憤り」とは何かが問題になります。それは「怒り」でしょうか。「絶望」でしょうか。確かに怒りにも絶望のようにも思われるかも知れませんが、そもそも何に対する怒りであり・絶望なのでしょうか。故国に対して?戦いを止めようとしない相手側に対して?こんな理不尽な世界を作った神に対して?愚かな人間と言う存在に対して?それら全部 をひっくるめたすべてなのでしょうか?まあ、そんなに簡単に答えが出るものではありませんから・それを突き詰めるのは止めることにして、そのような状況で自分が音楽することにどんな意味があるのかと考えて見ましょう。 それでもどうして自分は音楽をやめないのでしょうか。

そうやって考えて見ると、「ピリピリとした痛み」・「胸の奥底に重く淀む憤り」とは怒りにも似て・絶望にも似ているようですが、まったくそれとは全然違うものだということは間違いないのです。別稿「バレンボイムのマーラー第九交響曲」ではそれを「決して絶望ではない何ものか」と書きました。「希望」などと書いてしまうと・何だか嘘っぽくなっちゃうような気がするので・そう書いたのです。それは痛みを伴って・重い労苦の果てに見えるかすかな明るさのようなものです。しかし、それは怒りや憎しみというものでは決してありません。それを突き抜けた先に何かあるということが絶対の確信としてあるのです。その確信がある以上は絶対に怒りや憎しみではないのです。これがあるから こそ彼らは音楽をやっていける。そうではないでしょうか。この確信を持った時に彼らの演奏するモーツアルトもベートーヴェンも根本から変わるでしょう。マーラーやシェーンベルクの場合ならばもちろんのことです。

折口信夫は「古(いにしえ)の人々は美よりもまず善を愛したのである」と言いました。善とは神々が見て良きことと思われる何事かです。道徳的に正しいと言うのとはちょっと違 います。道徳的に正しい行為では「美しい」ものになってしまいます。美の基準となる道徳とか規範というのは理性から発するものです。「善きこと」というのはそれよりもう少し原初的・原形質的な感情から発する概念なのです。

文学でも音楽でもお芝居でも・すべての芸術作品は、怒りや絶望・疑い・妬み・憎しみなどいう感情から生まれることは決してありません。それは一見すると怒りや絶望や憎しみ などの感情を描いているようでも、それらを通り抜けたところの・善きことへの確信から生まれるものです。優れた芸術作品はある意味で常に「善きこと」という感覚の上に立脚しています。「善きこと」とは社会の通念から発する道徳観や倫理観とは違ったところで・何かしら 善いことだと感じられるものです。だから優れた芸術作品は国境や時代を越えて人の心を打つことが出来るわけです。

(H19・7・27)


○昔の芸は凄かった

『人はいつでもこう言います。「誰々の指揮した(ベートーヴェンの)第7交響曲を聴きましたが、素晴らしかったです。」私は答えます。「そんなことを私に言ってはいけません。私は同じ交響曲をマーラーが指揮したのを聴いたことがあるのですから。私には分かっています。」』(オットー・クレンペラー:「クレンペラーとの対話」・白水社)

クレンペラーとの対話 ピーターヘイワース編

こういうことを言う爺さんはいつの時代にも必要です。名指揮者クレンペラーが挙げている名前は、もちろん作曲家であり・当時第1級の指揮者でもあったグスタフ・マーラー(1860〜1911)のことです。若きクレンペラーに強い影響を与えた人物でありました。同じ対談(1967年・ピーター・ヘイワースによる)のなかでクレンペラーは次のように語っています。

『(マーラーのテンポは)厳格そのものでした。何もかもすべてが納得いくものでした。すべてがかくあらねばならなかったのです。ある人は演奏を聴いて「確かにその通りだ」と言いました。私はまだベートーヴェンの第7交響曲の第2楽章を覚えています。それは全く違う響きがしたのです。しかし、私はそれに対して確かに「同感だ」と言うことができました。マーラーが指揮した時にはこれ以上でもこれ以外でもあり得ないと感じるのです。他の指揮者の場合にはこのようなことはありません。』(同掲書)

クレンペラーの言わんとすることは何となく分かる気がします。マーラーの演奏は当時の批評を見ると・しばしば「ロマンティックでない」と評されており・テンポは若干早めで・あまり変化しない感じであっただろうと想像されます。わずかに遺されているマーラーのピアノ録音(貧しい響きの機械吹き込みで・かろうじて骨格が分かる程度ですが)でもこの印象は裏付けられます。クラシック音楽は伝統芸能ではありませんから・別に弟子が師匠のテンポを引き継ぐ言われはないですから、クレンペラーの指揮する第7番がマーラーのテンポを踏襲しているかと言えば・ 全然そういうことはないようです。一般的にクレンペラーはテンポが遅めの指揮者と思われています。もっともこの定評は晩年60年代のニュー・フィルハーモニア管時代の印象がもとになっていますが。大事なことは自分のなかにある「こうでなければならない」という確信ですね。

しかし、クレンペラーの演奏のどこかしらに・マーラーの記憶の何かが自然に滲み出ているかも知れません。まあベートーヴェンはともかく、とりあえず重要なのはマーラーの交響曲のことです。クレンペラーのマーラー録音で残っているのは第2・第4・第7・第9番、それに「大地の歌」などです。クレンペラーのマーラー演奏でそういうことを想像するなら、吉之助が思うにはそれはテンポより響きにあると思っています。 透明で・粘りをあまり感じない・乾いた響きです。そこに何かがあ るようです。

伝統芸能ではないクラシック音楽の世界においてもこの通り。まして歌舞伎においては「目の前の舞台がこんなに素晴らしい・ならば昔の舞台はどんなに素晴らしかったのだろう・もっともっと素晴らしかったに違いない」と思うことはとても大事なことなのです。

(H19・7・22)


○主体的な鑑賞のすすめ

スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが面白いことを言っています。絵画の鑑賞においては現代の人々はその仕事を学芸員に任せ・学芸員の体験を通して・絵を擬似的に見るというのです。

『今日の展覧会では一般社会は「ゆっくり」と・広大な作品群に没入する時間が持てなくなっている。問題は彼らが現状を捉えられず・何かの説明が必要であると言うことではなく、今日の美術作品がもはや 作品そのものの強い衝撃を証言する強度では、直接に体験できないと言うことだ。つまり、学芸員は一般社会の代わりに解釈するというよりも、まだ「ゆっくり」できて ・時間を掛けて受動的な観覧者として作品をすべて体験できる・理想の受動的な観覧者なのだ。すると一般社会は、知的に経験をつんだ観覧者を演じる。時間もなく・没入することもできないが、気の効いた準理論的感想や意見をやり取りし、作品の直接体験は美術作品を「体験することになっている主体」としての学芸員に委ねるのである。』(スラヴォイ・ジジェク:「信じると言うこと」・産業図書)

スラヴォイ・ジジェク:信じるということ

確かにダ・ヴィンチの名画「受胎告知」がせっかく日本に来ても・展覧会場は人でごったがえしていて・実物を見る時間は十秒程度で・しかも近くでは見られません。絵の鑑賞は結局カタログでということになり、実物の絵を見た感動は「ああこれが本物かあ・こんな大きさの絵かあ」ということになってしまいます。これでは真の絵画鑑賞は学芸員にお任せせねばなりませんね。

それにしても昨今は美術ブームです。ジジェクの指摘の通り・問題は、人々が主体的な作品体験を学芸員に任せて・自身は擬似的に理想的な観覧者を演じる・ちょっと知的な 気分を味わって・それで済ませているということにあります。ホントは実物を見なくたって美術鑑賞はできるのです。アンドレ・マルローは「東西美術論」(原題は「芸術の心理学」)において「空想の美術館」という概念を提唱して、写真複製による美術本は決して美術館の代用なのではなくて、従来の美術館がなし得なかった・もっと積極的な知的作業を可能にすることを指摘しています。だから、そうしようと思えば・誰もが主体的な鑑賞者の位置に立つことはできるのです。ただ現代社会はそういう余裕を なかなか持たせてくれませんから、これは意識してそうしようと努めなければそうなりません。大半の方は流されてしまって・理想的な観覧者を演じることで・とりあえず満足するということになります。まあ,それも仕方ないことですが。

音楽や演劇のような再現芸術ではちょっと事情が複雑なのは、絵の場合は作品と鑑賞者との関係は一対一ですが、音楽や演劇では仲介者としての演奏家や役者・あるいは演出家が、作品と鑑賞者の間に立つことです。彼らはそういう一面もないわけではないですが・決して学芸員ではありません。演奏家や役者は作品とダブっているわけです。理想的には一体化しているべきですが・実際にはなかなかそうはいきませんけど、 意識的にズレを作ってそれが面白いという場合もあります。だから再現芸術は面白いわけです。しかし、観客について言えば事情は絵画の場合と同じく・ジジェクの指摘の通りかも知れませんね。「歌舞伎素人講釈」では、読者が歌舞伎や文楽など伝統芸能の主体的な鑑賞の視点を確立するためのヒントを出来る限り提供したいと思っています。(別稿「空想の劇場」もご参照ください。)

(H19・7・18)


○もうすぐ勘三郎NY公演

今回はホントの「雑談」。今月(7月)16日から22日まで勘三郎のニューヨーク平成中村座公演の二回目が行われるそうです。今回の演目は「法界坊」です。「串田版・法界坊」の歌舞伎座上演の吉之助の観劇随想は別掲しておりますが、ああいう演出は小芝居空間だから受けるもので・歌舞伎座のだだっ広い空間でやるものじゃないと思いますね。今回のNY公演は エイヴリー・フィッシャー・ホール(ニューヨーク・フィルの本拠のコンサート・ホール)だそうなので・小芝居空間とは言えませんが、コミカルな芝居が米国人にどう見えるかという点が興味あるところです 。土手の穴掘りは受けるでしょうね。 「双面」は何が何だか分からないだろうと思います。吉之助だって初めて見た時(先代の舞台です)はこれは何だと思いましたから。しかし、ニューヨークに持っていくなら歌舞伎のためにも・米国人のためにも「法界坊」よりドラマのある「三人吉三」の方がよろしかったのではと思いますがねえ。

さて、ここに紹介するビデオはサイト「YouTube」に投稿された「The Love Suicide at  Sonezaki」です。これは何かのテレビショーのクリップですかねえ。抱腹絶倒で・大いに笑えますから・お楽しみください。検索でkabukiと入れるといろいろ変な映像が多く出てきまして・外国人の「カブキ」のイメージが推察されますが、そのなかではこれが一番良く出来てます。顔を白く塗りたくって・そこに何か幾何学模様を描く。ガッチャガッチャと機械的に動いて、時々大きな音を立ててポーズを決める。声は歌うみたいに大げさに張り上げる。要するにリアルな芝居とは程遠いのが、外国人の「カブキ」みたいですねえ。まあ歌舞伎を見たことのない日本人の歌舞伎のイメージも似たようなものです。今回のNY公演でニューヨーカーたちが実際の舞台を見て・何だ意外と親しみやすいじゃないかと感じてくれれば成功ということだと思います。

(H19・7・14)


○破滅のパラダイム・その5

歌舞伎の女形の消費的(非生産的)な性格は、例えば内輪歩きに現れています。 内輪歩きは女性が着物を着た時に歩き方を美しく見せる技術ですが、もともと初代中村富十郎が編み出したものでした。当時の女性は男性と同じように外股で歩いていたのです。それ以前に歩き方に性別はありませんでした。富十郎の女形の内輪歩きを見て「美しい」と感じた女性たちがこぞって富十郎の身こなしを真似して内輪歩きが女性のなかに浸透していったのです。内輪歩きは膝をクッションに使うことで・生産的なナンバの動きにシナを入れることで・消費的な動きに還元しようとする技術です。その後の女形の動きにはさらにそれが行き過ぎて全身をクネクネさせることで・女らしさを出そうとする傾向が出てきますが、まあ、富十郎の内輪歩きがその契機だと言えます。これは技術により「女らしさ」をイメージとして形象化しようとする試みなのです。(別稿「内輪歩きを考える」をご参照ください。)

富十郎は名女形・初代芳沢あやめの三男ですが、これはなかなか象徴的なことです。父あやめはその芸談「あやめ草」にもある通り・身も心も女になり切ろうした女形でした。その芸談はいわば精神論・根性論であり、誰にでも真似できるようなものでは なかったのです。そのため女形の芸は一時的に行き詰まり状態に追い込まれます。富十郎が幼い時にあやめは亡くなっていますが、富十郎は父を傍目に見ながら「親父は無駄な努力をしている」と・これをシニカルに見ていたのではないかと吉之助は想像をします。その開き直りから富十郎の内輪歩きが生まれるのです。「女を表現すること」を技術論に還元してしまうこと・つまり女形が開き直って ・逆にその「実のなさ」を売りにしてしまうこと、それが内輪歩きなのです。

女形の袂(たもと)の独特な扱い方も消費的(非生産的)な性格を象徴するものです。もともと体温発散と言う実用的な意味を持っていた振袖は、江戸時代に非実用的・装飾的なものになって・次第に長くなっていきます。 その振袖を特徴的に扱うことによって姫役・娘役の性格表現は様式的なものとして完成されるのですが、そこに見えてくる女形の芸の本質は消費的・つまり「実がない」のです。(別稿「振袖について考える」をご参照ください。)

プルーストの「失われた時を求めて〜逃げ去る女」では、「私(マルセル)」は恋人アルベルチーヌを籠の鳥のように扱っていましたが、「私」の元から・アルベルチーヌが突然去ってしまって呆然としている時に、階上からマスネの「マノン」の旋律が聞こえてくる場面が描かれています。アルベルチーヌはマスネの音楽を好んでいました。「マノン」の旋律に聞こえてくるのは「恋人の実のなさ」です。そして、「私」は実体を求めようとして必死にはばたこうとするアルベルチーヌのことも理解はしているのですが、しかし、決して彼女の愛に満たされることはないことも承知しているのです。

『上の階の女の人が「マノン」のアリアを弾いているのが聞こえた。私は自分の知っているその歌詞を、アルベルチーヌと私の身に当てはめた。そしてたいそうしみじみとした感情に満たされたので、つい涙をこぼしはじめた。それはこういう歌詞である。「ああ、わが身を奴隷と思った小鳥は/何度となくそれを逃れようと/必死の羽ばたきで夜のガラス窓に突き当たる」・・そして、マノンの死である。「マノンよ、さあ、答えておくれ。わが魂のたったひとりの恋人よ/君の心の優しさを、私は今日はじめて知ったのだ」(中略)私はどうかと言えば、アルベルチーヌに「わが魂のたったひとりの恋人」と呼ばれたり、「わが身を奴隷と思った」のは間違いでしたと彼女が認めたりすることを想像して、甘い気分にひたるような勇気はとてもなかった。私には分かっていたが、人は小説を読む時に、自分の愛している女の顔立ちをヒロインに与えずにはいられないものである。だが、たとえ本の結末は幸福なものであっても、私たちの愛が一歩も前進したわけではない。そして本を閉じ、愛する女がついに小説のなかえは私たちのところにやって来たとしても、彼女が実人生のなかで私たちを愛するようになるわけではないのだ。』(プルースト:「失われた時を求めて」〜「逃げ去る女」)

(H19・7・11)


○破滅のパラダイム・その4

(承前) 歌舞伎でも女性は破滅のパラダイムで描かれています。女形は子供を身替わりに殺され(千代・相模・政岡)、遊女に売られ(お軽・宮城野)、拷問され(雪姫・中将姫・浦里)、毒を盛られ(お岩)、親に殺され(玉手御前)、男に斬られ(八ツ橋・小糸・小万)、自害し(錦祥女・阿古屋・尾上)、そして愛に死ぬ(・・・・)わけです。もちろん歌舞伎では女形は立役に対してつねに一歩下がるスタンスを保っており、「先代萩」などを例外とす れば・女形がドラマにおいて全面的な主題を担うことは少ないですが、しかし、女形の嘆きの声・泣き声は歌舞伎のドラマのなかでとても強いインパクトを持っています。このことは歌舞伎の本質に直接的に関わる重要な要素です。

歌舞伎の女形が「破滅のパラダイム」を持っていることは、まず第一に「実のなさ・実体性のなさ」が女形の本質であることを示しています。江戸幕府によって女優を禁止された歌舞伎はやむなく野郎の役者を女役者(実体のないところの女性)に仕立てることで「をんなをしてみんとてするなり」を女形の在り方としま した。これは紀貫之の「土佐日記」以来の「をんなもしてみんとて」という・日本伝統の控えの文化戦略なのです。(別稿「をむなもしてみんとて〜歌舞伎の女形を考えるヒント」をご参照ください。)

しかし、歌舞伎において・19世紀のオペラよりも200年近く早く「破滅のパラダイム」が成立したことは、これだけでは十分に説明できません。このことを考えるには、当時(一応ここでは元禄時代前後を想定します)の大坂・江戸という大都市の消費的性格を考慮に入れる必要があります。当時の日本において大坂・江戸という大都市のなかに非常に局地的かつ限定的な形で、極度に消費的・享楽的な空間が存在していました。そうした空間のひとつが悪所としての芝居小屋です。 もともと芸能というのは寺社の祭礼など人が集まる時期・場所を狙って各地を転々としながら行うものでした。一方、都市型芸能においては、それが芝居小屋という定点を以って・継続的にエンタテイメントを提供し・小屋に人々を呼び集める形になります。大坂・江戸は当時の世界から見ても 最大級の都市でした。こうした大都市の消費的な性格が都市型芸能のなかに反映しているのです。

心中は最も典型的な破滅のパラダイムです。このことは別稿「金がなければなんのいの〜歌舞伎におけるお金の役割を考える」でも触れました。慶長から寛永の間(1596〜1644)に金貨・銀貨・銅貨が鋳造されて初めて全国的に統一された貨幣経済がほぼ整ったのですが、貨幣によって民衆の生活が次第に変質していく・その歪(みずみ)はまず地方から出てきて大坂で商人の生活を始めた人間に現れます。つまり、「曽根崎心中」の徳兵衛や「冥土の飛脚」の忠兵衛です。彼らの相手が遊女(お初・梅川)であるのも、これを考えれば納得が行きます。実体のない生活をしている男が・実体のない女に惚れているということです。彼らは同じ本質を持っており・お互いに惹かれるべくして惹かれ合っているわけです。そして彼らは真実の恋に生きることを求めて・つまり実体のある生を目指して・心中するのです。

「心中」という言葉は、その字形から分かる通り・武士が武士たる最高徳目である「忠」の字を分解して上下転倒させたものだと言われています。武士(つまり体制側)にとっての「忠」に対して・町人(あるいは個人)にとっての「忠」が「心中」であると解されたからです。「心中」とは何に対する忠であるのかということが問題ですが、これはかぶき的心情に発するものですから基本的に「私の心情に対しての忠」であることは疑いありません。破滅のパラダイムはこうした形で「死してなおも激しく生きようとする心情」を描くのです。(この稿つづく)

(H19・7・2)


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