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歌舞伎の雑談1(平成14年2月ー 7月)


○歌舞伎の興行

歌舞伎の興行を見ますと、上演が多い月と少ない月がありますが、どうしてこうなるのか?吉之助は興行の内側はよく知りませんが、このことをちょっと考えてみたいと思います。まず、一般常識ですが、俗に「ニッパチ」と申して、芝居に限らず2月(寒い時)・8月(暑い時)は景気が悪くて、物が売れない月だと言われています。このこと頭に入れて下記をお読みください。

1)一般的に歌舞伎を本興行に打てる劇場は「格式の高い劇場」だと見なされます。歌舞伎というのは「仕込みが高い」、つまり役者のギャラ・衣装代・その他の経費が、他のジャンルの演劇よりずっと高くつきます。したがって、観客動員力(営業力)が ある劇場でないと歌舞伎は回数多くは興行できません。

2)芝居の質を上げるなら、それ相応の顔ぶれを揃える必要があります。「仕込み」のかなりの部分は人件費と考えていいです。「顔見せ興行」のような・大顔合わせの興行では仕 込みは高くなり、採算ラインは高くなる。おいそれとは、興行できません。

3)同じ月に歌舞伎があちこちに掛かっているということは、それだけ看板役者が分散している、ということです。これは当然ながら質の低下につながります。反面、「仕 込みが安くなる」というメリットがあります。つまり、8月に若手歌舞伎などで済ませるのは、経費も安くて、比較的観客動員もいいから劇場から見るとおいしいのでしょう。

4)いつまでも歌舞伎が人気あるとは限らない。ついこの前まで歌舞伎は閑古鳥だったのですから。他のジャンルの演劇・劇団にもしっかり実績つけておかないと、いざという時に芝居してもらえません。何よりも劇場は「安定的に魅力あるプログラムを提供できる」ことが大事なのです。

これらの条件が複雑にからみあって、劇場側のニーズが成立しています。そこら辺を睨みながら、歌舞伎役者の元締めである「松竹」が役者を振り分けている、と考えてよろしいのではないでしょうか。

(H14・7・16)

 

○歌舞伎の興行:昭和53年(1978)歌舞伎座

吉之助が歌舞伎を本気で見始めたのは昭和53年頃からですが、思えばこの頃が昭和歌舞伎のどん底期でして、なにしろあのだだっ広い歌舞伎座の3階席の観客がガラガラで吉之助を含めて10人位しかいない時もあったほどです。今の人気を思えば嘘みたいですが、本当の話です。

いや、本当に20年後にも歌舞伎やってるとは想像もできませんでした。この頃のことですが或る劇場の社長が、「歌舞伎役者は欲しいが、歌舞伎はいらない」と発言して物議を醸しました。しかし、これは本音であったでしょう。

ところでこの年の歌舞伎座ですが、歌舞伎を上演したのは、1・2・4・5・7・9・10・11月の計8ヶ月でした。全部が歌舞伎じゃなかったのです。その他の月は何をやったかと言うと、3月(幸四郎・山本富士子公演)・6月(萬屋錦之助公演)・8月(三波春夫公演)・12月(大川橋蔵公演)です。懐かしいお名前もありますが、因みに3月の幸四郎は現九代目ではなく、父上(八代目=初代白鸚)です。これを見ても 、いつの月が観客動員が苦しいのか見当がつくでしょう。

1月は初春興行・11月は顔見世興行ですから、これは歌舞伎の殿堂としての大事な行事です。5月の団菊祭も当然ながら看板興行です。この3つの月は「歌舞伎座」の名に掛けての本興行でしょう。あと4・9・10月は観客の動員が比較的いい時期です。2月は恒例の菊五郎劇団公演、7月は猿之助奮闘公演(この頃から軌道に乗ってきた感じでしたね)ですが、これは客足の悪い時期ですが、やはり他の月よりも「仕込みを安く」していると推測できます。営業の力の見せどころです。因みに10月は名古屋・御園座、12月は京都・南座で顔見世ですから、そちらにも役者を分散せねばなりません。

こうした厳しい時期であったとは言え、この時期は歌右衛門・幸四郎・松緑・勘三郎・梅幸など戦後の大幹部が技芸のピークにあった時期で、内容はなかなか充実していたのです。

(H14・7・20)


○上方演出の定本化を

今月の国立劇場では、鴈治郎指導による上方風の「忠臣蔵:五・六段目」が見られるということです。最近の上演はもっぱら音羽屋系の型ばかりですから、違った型が見られるのは興味深いことです。

上方の芸風というものは、ひとつのやり方に固執することを嫌い・常にどこかを変えて演じるというものでした。固定したやり方というものはありませんでした。そういう芸風ですから、自分の やり方を子息にそっくり伝えようなどという意識もあまりありませんでした。初代鴈治郎なども「自分のやり方を教えてもニセモノの鴈治郎ができるだけだ」と言って、息子(二代目)に芸を教えることは決してしなかったようです。

しかし、結果としては、「型」というものへの意識が比較的強い江戸の芸・家系が残って、上方の芸・家系は衰退するという事態になってしまいました。鴈治郎家も仁左衛門家も、主たる活動を東京で行わなければならなくなっています。

「ひとつの型に固執せず、つねに自分の個性を加えて工夫を重ね、先人を乗り越えよう」という上方の芸の考え方は、もちろんそれは正しいものです。「クラシック音楽における伝統」をご参照ください。上方の考え方はこれに近いものだと言えます。

上方歌舞伎の衰退は複合的な要因が絡みますので、上方の「芸のあり方」だけが衰退の原因である、という訳ではありません。しかし、今日における歌舞伎という芸能は少なくとも「今日的な ・現在進行形の芸能」ではなく、博物館に片足入れたような「骨董的な意味」において珍重されているわけですから、そうなると上方の芸の行き方は理屈では正しくても、今の歌舞伎の方向性とは異なるところがある、というのは間違いないように思われます。

ここらでそろそろ、「上方演出の定本」的なものを作って行きませんと上方の芸風は完全に消え失せる、という気がします。上方の芸のあり方からすれば本意ではないかも知れませんが、今いる上方系の役者さん・研究者を総動員して「上方の由緒ある芸・これが上方やねんというやり方を型として残す」ことを、特に国立劇場さんには本気で考えてもらいたいと思っています。「五・六段目」だけでなく、他の演目でも同様な試みを期待したいと思います。

(H14・7・14)


○「盲目の皇帝」

長崎のオランダ商館医師であるフィリップ・シーボルトが、商館長ドゥ・スチュルレルと江戸参府したのは文化9年(1826)のことでした。この時、シーボルトは30歳。江戸から長崎に戻る途中の・5月7日に、一行は大坂・角の芝居において歌舞伎を見物したことが「江戸参府紀行」に記されています。

この時の演し物は、「妹背山婦女庭訓」大序より四段目・「忠臣蔵九段目」・「吃又」などで、役者は前年より江戸から客演していた三代目菊五郎(由良助と戸無瀬、ということは早替わりしたということなの でしょう)、五代目団蔵(定高・鱶七など)、芝翫・後の四代目歌右衛門(久我之助・入鹿・お三輪・又平)などという名優揃いでした。

シーボルトの記述は西欧人に当時の歌舞伎がどう見えたか、を知る上でも非常に貴重なものです。「日本人に特有な清潔さとこぎれいさがここ(劇場)にはない」と書いています。当時の芝居小屋はシーボルトには不潔に見えたようです。「幕は両側から真ん中に引かれる」という記述も見えます。これは他の文献でも確認されていますが、今とは違う やり方です。

シーボルト一行が見たのは恐らく「妹背山」大序から二段目「芝六住家」までであったと思われます。というのは、二段目までの詳しいメモが残っているのに、三段目「山の段」以降についてはまったく触れていないからです。 「ロミオとジュリエット」との関連が言われる「山の段」をシーボルトが見ていたら、これを何と書いたことでしょうか。

後にヨーロッパに戻ったシーボルトは、友人のオペラ作曲家マイヤベーア(代表作品「ユグノー教徒」など)にこの話をしました。マイヤベーアはこれに非常な興味を示し、ぜひオペラにしようということで話が進んだそうです。 そして「盲目の皇帝」という題名が用意されました。「盲目の皇帝」とは奇妙な題名ですが、「妹背山」・二段目猿沢池の段のなかで盲目の天皇がたしかに登場しています。しかし、この オペラ化計画はマイヤベーアの死によって中断しました。

後に小説家のドーデ(代表作品「風車小屋だより」など)がこの話を聞いて、シーボルトにもっと詳しく話を聞きたいというので、ドイツ南部に住んでいたシーボルト宅を訪問したそうです。ドアを いくらノックしても何の返事もない、そこで部屋に入ってみるとシーボルトがそこで死んでいたということです。この話をドーデは「月曜物語」のなかで書いています。

(H14・7・7)


○7月の歌舞伎

国立劇場:「仮名手本忠臣蔵」六段目

扇雀(早野勘平)・孝太郎(お軽)ほか

歌舞伎鑑賞教室での演し物ですが、注目すべきはいつもの音羽屋型の舞台ではなくて、鴈治郎の指導により珍しい上方風の演出で行なうという触書であります。

昭和52年のことでしたが、「戦後歌舞伎の総決算」と銘打って、当時のベスト・メンバーを組んで東京・歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」が上演されました。戦後の幹部俳優がそろって円熟期に入った時期でありましたが、思い返しますと、この頃が昭和歌舞伎のまさに「どん底期」で、「この時期を逃すともう最高レベルの歌舞伎は見れないかも」というような危機感も背景にあったのではないかと思います。同時に、大阪・中座では鴈治郎(二代目)・仁左衛門(十三代目)を中心とした関西勢により上方演出による「忠臣蔵」が上演されました。

吉之助は東京の方しか見ていませんが、この時の「東西対決」は好事家の話題になったものでした。多分、上方演出の「六段目」はそれ以来のことのように思います。特に世話場である「六段目」においては、写実で現実味を重視する上方と、理屈よりは風情・雰囲気を大事にしようという江戸との芸風の違いが顕著であるので、興味があるところです。

最近はもっぱら音羽屋型の「六段目」ばかりです。もちろん練り上げられた・優れた型なのですが、それだけが唯一の解釈のはずもありません。いろんな型を見ることで、歌舞伎の解釈の可能性は拡がると思います。若い二人のカップルに期待したいと思います。

(H14・6・29)


○クラシック音楽における「伝統」:1

歌舞伎と関係ないようですが、「伝統」についてのお話です。2002年1月1日の恒例のウイーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートは、小沢征爾さんの指揮で行なわれ、大好評でありました。その実況CDの売上は、1万枚でもヒットと言われるクラシック音楽業界で100万枚(世界)を突破しております。この人気は日本だけのことではありません。これは欧米でも同様の現象です。

つまり普段はクラシック音楽を聴かない人たちも関心を持ってくれたということです。こうなると臍曲がりのクラシック・ファンが、悪口を言い出します。あれは昔ながらのウインナ・ワルツでないとか、何とか。

吉之助が愛聴しているウインナ・ワルツのCDは、クレメンス・クラウスやエーリッヒ・クライバー(カルロスじゃないよ)の古い録音、実に古き良きウイーンを偲ばせる懐かしいひなびた味わい。あるいは87年のヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のニュー・イヤー・コンサートの実況、じつに典雅そのものの魅力的な演奏です。

小沢さんの演奏はもちろんそれらとは違います。どちらかと言えば、旋律線のくっきりした、リズムの明確な演奏です。マーチ・ポルカはとても楽しめました。ヘルメスベルガーの「悪魔の踊り」などは圧巻でした。ワルツも有名なものはどうしても比較してしまうので不利は否めないが、「謝肉祭の使者」などはなかなかのものでした。

ヨーロッパでの新聞評はおおむね好意的なものでした。しかし、もし、小沢さんはカラヤンの一番弟子ですから、小沢さんが師カラヤンそっくりの演奏をしたとしたら、ヨーロッパの聴衆はどう反応したでしょうか。多分、「自己主張がない・他人の猿真似だけだ」という批判が展開されたでしょう。ヨーロッパの聴衆はそういうのを認めません。小沢さんでなくても誰が出ても、その人でなければできない解釈・味わいがある、と感じなければ決して認めません。

それがクラシック音楽の「伝統」の厳しさなのです。現代の指揮者が現代の聴衆の前で振るのに、昔の指揮者と同じような解釈(それがどれほど素晴らしいものであろうとも!)で振ることはその人の存在価値がないのです。常に「プラス・アルファ」の自己主張が求められます。同時に、ウインナ・ワルツならウインナ・ワルツなりのフォルムを守ることが要求される、それがクラシック音楽の「伝統」です。

小沢さんはいよいよ9月からウイーン国立歌劇場の監督に就任しますが、ウイーンのオペラは輝かしい「伝統」に彩られているだけにプレッシャーはいかほどなものか、想像もできないでしょう。そこで新監督が「昔ながらのモーツアルト」を振ることなんか、何の意味もないのです。小沢さんは「小沢さんのモーツアルト」を振らなければなりません。

クラシック音楽は「伝承芸能」ではありません。「伝統」のあり方が、歌舞伎や文楽とは異なるということなのです。

(H14・6・19)

 

○クラシック音楽における「伝統」:2

作曲家であり・またウイーン・オペラの偉大な指揮者でもあったグスタフ・マーラーは次のような言葉を残しています。「伝統的であるということは、だらしない・何もしないということだ。」

このマーラーの言葉ほど、欧米における「伝統」の考え方を端的に示すものはないでしょう。例えば、ベルリン・フィルの音楽監督で、フルトヴェングラーの後をカラヤンが継ぐ・カラヤンの後をアバドが継ぐ、前任者が偉大であればあるほど、後任者は苦しみます。前任者と同じことをやっていれば、たちまち評価は落ちてしまう。と言って、やむくもに違うことをやればいいというものではありません。そんな小手先の変化などたちまち底が知れてしまいます。そこに新任たる自分の個性と味をいかに付け加えていくか、その苦労は想像を絶すものです。

そのような変革の苦しみと試行錯誤の果てに、振り返って見た時にありありと見えてくる道がヨーロッパにおける「「伝統」というものです。

小沢さんはインタビューでこのように語っています。「僕が西洋の人と同じようにバッハができることになるのが目的ではなく、問題は、演奏した時にその僕がやったっていう価値があるものが出て来るかどうかなんです。」(「週刊朝日」02・3・8号)

これは小沢さんの言う通りで、日本人が西洋音楽をヨーロッパ人と同じことをその通りやっても、何の意味もないのです。しかし、小沢さんの言葉の重みは単身で西洋音楽の世界へ飛び込んでいった小沢さんの努力を考えてみないと本当のことはわからないでしょう。

「ドイツ語を話す人、イタリア語を話す人がやるバッハではそれぞれ味が違う。日本で地方にホールがありますよね。そこでやるバッハは、東京とかウイーン・ミュンヘンでやってるのと違うけど、価値がある時代がくれば最高なんです。そこに聴きに行くと、「おらがバッハだ、音楽だ」と、西洋人が書いた曲なんだけど、おらがやるのが価値があるんだ、というところまでくればもう立派なもんだね。」(同上)

いい科白です。堂々とウイーンで「おらがモーツアルト」を振ってもらいたいものです。しかし、同時にそのようなモーツアルトを受容し取り込んでしまうウイーンの「伝統」の懐の深さ・度量の大きさにも改めて感嘆してしまいます。

(H14・6・24)


○「石切梶原」について

「梶原平三誉石切」(通称「石切梶原」)ですが、他のお芝居では梶原平三景時は源義経の讒言をして兄頼朝との仲を悪くした原因を作った男というイメージで、どちらかと言えばあまり好意的に描かれていないことが多いようです。(逆に息子の源太景季の方は二枚目の代名詞にさえなっておりますが。)しかし、この「石切梶原」の梶原は、いわゆる生締めの捌き役でさっそうとした風姿が見所の役ですから、もちろん最大に好意的に描かれています。

石橋山の合戦で敗れた直後の頼朝に密かに心を寄せる者という状況は、ちょうど「実盛物語」の斎藤実盛にも通じるところがありますが、その実盛も同じく生締めの役どころです。

この芝居での梶原の見所といいますと、刀の目利き・二つ胴の試し斬り・手水鉢の石切りの三ヶ所が芝居のなかにうまく配置されていますが、そのどれもが見掛けの良さはもちらんですが、キリリとした口跡とリズム感の良さが揃わなければならないものです。梶原が石を斬った後、「アレもし父さん」・「剣も剣」・「斬り手も斬り手」でノリ地に畳み込んでいく呼吸にリズム感があれば、これは非常に面白いものになります。

そういう役ですからこの役を得意にした名優というと、思い浮かぶのは十五代目羽左衛門、それから初代吉右衛門・初代鴈治郎ということになりましょうか。いずれも代表的な二枚目役者です。何よりもまず「役者の味」で見せる芝居であって、メルマガで取り上げるとなるとどこから斬ったらいいのか、これはなかなか難しいですね。

(H14・6・15)


○「老後の政岡」

先日、出張で仙台に行って参りました。仙台と言えば伊達家の所領ですが、お芝居ではもちろん「伽羅先代萩」であります。一子千松を犠牲にしての政岡忠義の物語です。博物館にはもちろん「先代萩・御殿」の名場面の錦絵が展示してありました。ところで小芝居の演目ですが、「老後の政岡」という芝居があるのをご存知でしょうか。

もうおばあさんになった政岡がお暇をもらって故郷に帰ることになり、殿様にご挨拶に上がります。殿様は伊達綱村公、つまり、あの時の鶴千代君の成長した姿です。綱村は、政岡に「千松に会っていけ」と言って千松の位牌を持ってきます。位牌を前にして政岡の回想となり、あの有名なサワリになった後、綱村は「そちが昔よく歌ってくれた歌を歌ってくれ」と所望します。そこで政岡は「一羽の雀の言うことにゃ」と歌い、綱村も童心に返って一緒に歌を歌う、というお芝居です。

観客・とくにご婦人方の涙腺を刺激するように・なかなか良く出来たお芝居であります。この「老後の政岡」ですが、つい最近まで小芝居「かたばみ座」の人気演目であったそうです。探してみると、大歌舞伎では見られないこうした演目がいっぱいあるのですね。(参考:「歌舞伎・研究と批評・11号」〜「聞き書き・沢村可川」より)

(H14・6・4)


○6月の歌舞伎

国立劇場・歌舞伎鑑賞教室:「俊寛」

俊寛(橋之助)・丹左衛門(東蔵)・瀬尾(弥十郎)他

吉之助が初めて見た歌舞伎は、前進座の歌舞伎鑑賞教室での「俊寛」でありました。この舞台の印象は最前列で見たせいもあって強烈なもので、眼前の舞台が波布でみるみるうちに海になり、鬼界ケ島が大海の孤岩になってしまったのには、こういう「飛んでる」発想が歌舞伎にあるとは・・・と非常に驚きました。(この発想については、いずれメルマガで取り上げるつもりです。)

「俊寛」は筋も明解で分かりやすいので外国人にも理解しやすい芝居です。私が外国からのお客を歌舞伎座に連れて行った時に、たまたま演し物が「俊寛」だったのですが、イアホン・ガイドなしでしたが意味は良く分かったようで感激してくれました。

因みにこの外人さんは何度も日本に来たことのあるビジネスマンで、いろいろな取引先から接待されたそうですが、どこでも料亭や盛り場に連れて行かれる接待ばかりで日本の文化を見せてくれたのはお前が初めてだ、と言ってました。2年後に彼と再会したのですが、彼は日本人に会うたびに「この前、私は歌舞伎を見たのだが、あなたは歌舞伎を知ってるか」と聞くんだが、誰も見てないねえ、と笑っておりました。

吉之助も国立劇場の歌舞伎鑑賞教室にお世話になった者ですが、若い人たちが、外国人に誇れる日本の文化がこんなに身近にあるということを「発見」してくれれば、うれしいのですが。そういうわけで、橋之助俊寛も使命感をもって頑張ってもらいたいものです。

(H14・6・1)


○「吉野山道行」について

「吉野山道行」は華やかで楽しい舞踊です。「道行」と言えば恋人の二人連れというのが普通ですが、この「吉野山」では、義経の愛妾である静御前と部下の佐藤忠信との組み合わせ・つまり主従であるという所が変わっています。しかも忠信は人間でなく、源九郎狐が姿を変えたものです。しかし、若い男女の二人連れというのはどこか華やいで・色めいて見えるもの。そういうホンワカした雰囲気がこの踊りの持ち味でありましょう。

ところで静は恋人である義経を慕ってはるばる吉野まで来ているほどですから、もちろん「義経大好き」が性根であります。しかしこの「吉野山」では忠信が何となく静のことが好きらしく見えて、そして静もそれがまんざら悪い気分ではないらしいように見える、という所が味噌です。実は、狐忠信は静の持っている初音の鼓(親狐の皮で作られている)が気になっているだけなのですが。

冒頭の「恋と忠義はどちらが重い」という詩章も、よくよく読めば、義経は忠信に対して「静を同道して都に留まるように」と命令していたわけで、それを無視して静が義経を追って吉野へ来てしまったことを指しています。ところがこの「吉野山」だけ見ていると、静と忠信が「主従関係なのに・なんだかお互い好きになっちゃいそうだなあ」みたいな感じに聞こえてしまいます。これは観客にはそう見えていいのでして、「女雛男雛と並べて置いて」の詩章などもそのように読めるように書いてあるようです。これがこの「吉野山」の醸し出すムードでしょう。

忠信の正体は後の「川連館」の場で明らかになるわけです。

(H14・5・18)

○「吉野山道行」について:2

「吉野山道行」の舞台はじつは吉野山ではありません。静御前の一行が吉野へ向う途中の出来事です。舞台には桜が満開ですが、原作を見ますと「四方も梢もほころびて、梅が枝うたう歌姫の里の男が声々に」とありまして、梅が咲いており桜にはまだ早い時期のことなのです。それでも「吉野」と言えば桜の名所でありますから、やはり舞台を桜でいっぱいにしないとお客が満足しない、ということでもありましょうか。(これについては別稿「花のない千本桜」をご参照ください。)

ところで吉野までの道中で静御前は何度か初音の鼓を打っているのですが、この「道行」の時は何度目のことであったか、気になったことはありませんか?「川連館」で静御前は次のように言っています。「君恋しさのこの鼓。打ってなぐさむ度々。忠信帰らぬ事もなく其音を感に絶る事、ほんに酒の過ぎた人同然。打ち止めばきょろりと何気ない顔はよくよく鼓が好きそうなと初手は思い二度三度、四度目にはテモ変わった事。また五度目は不思議立ち。六度目には恐げ立ち。それよりは打たざりしが。」

この「道行」の舞台を見ると静御前が「恐げ立った」という感じはないようですから、まあ四度目か五度目のことであったでしょう。何で吉之助がこんな事を気にするかと言うと、「道行」の静御前が鼓を打つ時に、ポンと打って辺りを不安そうに見回す、また打って見回す、という演技をするのが多いからです。これからここで狐忠信の詮議を始めるつもりなのか、といつも訝ってしまいます。演出を変えてくれないか、といつも思う場面であります。

原作では「我も初音のこの鼓、君の栄えを寿て、昔を今になすよしもがな。谷の鶯ナ初音の鼓。調べあやなす音に連れて。つれてまねくさ。おくればせなる忠信が旅姿。」となり、忠信詮議の気配はうかがわれません。ここはのどかな景色に心なごんだ静御前が「恋しい君(もちろん義経であります)」を想って何気なく初音の鼓を取り出して打つ、というものでしょう。

だから静御前は鼓を打ってキョロキョロすることはない、と思うのですが、皆さん、どうお感じでしょうか。

(H14.5.23)


○「西洋」ということ

別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」に関連した話をもう一本お届けします。

幕末の江戸の蘭学塾といいますと伊東玄朴の開いた「象先堂」が有名です。これは大坂での緒方洪庵の適塾に比せられるものです。この塾の蔵書のなかで玄朴が「読むと気が狂う」と言って閲覧を決して許さなかった本があったと言います。後に分かったことですが、それはオランダの民法書であったと言います。

「なるほど身分制度のやかましい江戸封建制のなかで、フランス革命のおとし子ともいうべきヨーロッパの民法書を読んだとすれば、平等の思想や権利の思想を知るだけでも、血の気の多い者ならば欝懐を生じ、気が狂う破目になるかも知れない。(玄朴は読んだのだな)と、明治後、良順は思った。読んだ時の玄朴の思いはどうだったのであろう。玄朴の場合、わずかに蘭方という新奇な医学を身に付けることによって他から軽侮されることをまぬがれたが、それでもなお、オランダの民法書を読んだ時は、暮夜ひそかに自分の出身階級を思い、多量の欝懐を感じたかと思われる。良順は明治後、このことを思うたびに玄朴に愛情を感じたりした。」(司馬遼太郎:「胡蝶の夢」)

漢方医・渋江抽斎が四代目小団次を「西洋」だと言った時に、抽斎が「西洋の民権思想」をイメージして小団次を批判したわけではないでしょう。しかし、敏感な抽斎は蘭学の背景にある「西洋」というものが日本にもたらすものを何となく感じ取っていたように思われます。

早い話が漢方医というのは江戸幕府の封建制のなかで世襲でありましたが、志のある者は誰でも長崎へ出かけて蘭学を学べば、身分の制約をある程度はねのけて、やりたいことが多少はできたわけです。こうして封建制の序列が崩れかけていくのを、最も早く敏感に感じ取っていたのは抽斎ら漢方医たちであったのは間違いないからです。

漢方医たちの心配は杞憂ではなかったのです。伊東玄朴が「読むと気が狂う」と言ったというオランダの民法書・そこに書かれていた平等の思想や権利の思想が、開国になって怒涛にように入り込んで来て従来の日本の社会秩序を破壊していきます。だからこそ抽斎は「西洋」を嫌い・怖れたのです。

それまで何が不満だ・どこをどう変えてくれという具体的なものがなかった世間の「世直し」気分が、やがて明確な方向性を持つようになって行きます。その時、「徳川太平の三百年」は終わりを告げることになるのです。小団次・黙阿弥の「仕事」は、いわば「その時への地ならし」であったわけです。

(H14・3・12)


○「世直し」について

別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」において、江戸庶民の「世直し」感覚について触れました。「世直し」というのは、社会改革・人権運動のようなものだけを指すとは限りません。レベルはいささか低いけれども、世の中の不平不満に対する鬱憤晴らし的なものも「世直し」になってしまいます。だから、時に地震も、泥棒でさえも「世直し」になってしまうのです。

天明4年(1784)、江戸城中で若年寄田沼意知(おきとき・老中田沼意次の嫡男)が旗本佐野善左衛門に斬り付けられ死亡するという事件が起こりました。言うまでもなく「城中での抜刀はご法度」ですから善左衛門は切腹となりました。しかし、刃傷の背景については不明の点が多いようです。

この刃傷の翌日から、田沼親子によって買い占められて高騰していた米相場はにわかに下がり始めました。江戸庶民は善左衛門を「世直し大明神」と呼んであがめ、浅草にある善左衛門の墓を参拝する人は引きもきらず「花を立てしさま林の如く、地上の線香の煙り人を襲う」(山東 京山:「蜘蛛の糸巻」)ほどであったそうです。

この事件を材料にした歌舞伎「有職鎌倉山」(寛政元年作)では、鎌倉時代の佐野源左衛門経世と三浦泰村の息子義勝との間の出来事に仮託して芝居に仕上げています。

このように江戸庶民の「世直し」は本質的に受身で、具体的に何が不満だ・どこをどう変えてくれ、というものがある訳ではありません。かと言って、江戸庶民が「主体性なく・無批判的で刹那的な生き方であった」とも言い切れません。ここのところをバランスを取って、柔軟に庶民の気持ちを読んでいきませんと、取り落とすものが出てくるのではないでしょうか。

例えば、「忠臣蔵」を忠義批判・賄賂批判・武家批判である、という読み方ももちろんできると思いますが、ちょっと「唯物史観的・階級闘争的」に割り切り過ぎる見方のようにも思えます。一方で、黙阿弥の「白浪物(泥棒)物」を幕末江戸の退廃した雰囲気の産物・様式美に傾いた情緒過多の芝居だとする読み方にも非常に問題があると思わざるを得ません。

「白浪(泥棒)物」は「世直しもの」である、という見方は黙阿弥に新しい視点を与えるものだ、と思っておるのです。

(H14・5・10)


○「写実」であるということ

別稿「黙阿弥の七五調の科白術」において、「七五調の写実というのは歌うとか・歌わないとか、そういうことで決まるのではない」と申し上げました。科白の「写実」とは科白それ自体が内包するリズム・息遣いでしゃべることによって生まれるものなのです。それが科白の要求するものであれば写実であって同時にまた歌にもなり得るのです。「写実」と「歌」は決して相反する要素ではありません。

それを見つけるためには、何度も口のなかでモゴモゴと科白を唱えてみて科白が要求するリズム・抑揚を自分で見つけていかなければなりません。その時に科白の表現したい感情が最大に高揚した状態で現出します。それこそが「演劇における写実」ということなのです。近松のリズム・南北のリズム・黙阿弥のリズム・青果のリズム・・・その作家の固有のリズムというものが間違いなく存在することが分かるはずです。

歌舞伎ではなくオペラですが、「歌ってさえも写実であり得る」という実例として名歌手マリア・カラスの舞台ビデオを機会あれば是非見ていただきたい、と思います。これは第2幕しか映像がありませんが、プッチーニの歌劇「トスカ」のロンドンでの舞台録画(ゼッフィレッリの素晴らしい演出!)をお薦めいたします。

ここでのカラスの演じる歌姫トスカと悪役スカルピア(ティト・ゴッビの演技がまた凄いのだな)の迫真の掛け合いはまさに「手に汗をにぎる」という表現がぴったり。ナイフを振り上げたトスカがスカルピアに「死んでしまえ」と叫ぶ時には鳥肌が立つほどです。

歌っているにもかかわらず、その舞台は演劇よりも映画よりもずっと「写実で生々しく」感じられます。歌われる言葉がまるで会話のようにリアルに響きます。イタリア語が分からなくても(私も分かりませんが)そのことははっきり理解できます。「芸術における写実(リアル)」ということの意味をこれほど教えてくれるものはないと思っています。

ビデオ:「コヴェントガーデンのマリア・カラス」(東芝EMI:T0VW3720)・・・DVDでは現在未発売。

(H14・5・4)


○5月の歌舞伎

歌舞伎座:辰之助改メ四代目松緑襲名披露

夜の部:「勧進帳」

辰之助改メ四代目松緑(弁慶)・菊五郎(富樫)・富十郎(義経)他

そういうことが言える年齢になってきたということですが、実は吉之助は辰之助の初舞台を見ております。昭和55年1月国立劇場の「戻橋背御摂(もどりばしせなにごひいき)」の大切「山姥」での怪童丸でありました。初日のことでしたから、本当のお初御目見得です。祖父・二代目松緑に、父・初代辰之助、さらに七代目梅幸がおつきあいしての舞台。元気な姿が目に浮かびますが、あの時の嵐くんが四代目松緑襲名ということで感慨もひとしおです。

二代目松緑についての賛辞は数限りないし、私もこれから書く機会もありましょうから、今回は初代辰之助について触れておきたいと思います。

踊りには定評ある人でしたが、リズム感良く・きっちりとした楷書の踊りでありました。野球の投手で言えば、つねに剛球でストレート勝負、という感じでしたね。吉之助が思うには、「曽我対面」で五郎の「今日は如何なる吉日にて」の詰め寄りなどでは、その身体の斬れ・躍動感で辰之助以上の五郎はいないと今でも思っています。新歌舞伎でもシャープな演技を見せてくれました。

しかし同世代に同じ領域の立役が多かったことから、いい役がなかなかつかない悩みからついつい酒に走ってそれで身体を壊したと思います。しかし、どんな役でもそつなく勤める技量は持っている人でした。勘三郎が晩年に「逆櫓」の松右衛門を休演(昭和54年12月国立劇場・中日より復帰)した時に、辰之助が急遽代役を勤めましたが、立派な松右衛門であったと思います。自分の芸の収まる場所を見つけられず・納得できずに憤死したという印象が強いのですが、その点で本当に「惜しい役者」でありました。

さて当代(二代目)辰之助のことですが、父・祖父を早くに亡くしこの世界では苦労も多かっただろうに、よくここまで頑張ってきたと思います。襲名披露は、昼に「四の切」・夜に「勧進帳」とはともに重量級。若い人は、いやさすがに体力が違います。「勧進帳」は戦前ならばもちろん七代目幸四郎、私の時代ではその三男・二代目松緑のものだった、と言っていいものでしょう。新・四代目の弁慶にも大いに期待したいと思っています。

(H14・4・26)


○黙阿弥の「江戸のこころ」

別稿で「試論:黙阿弥の七五調の科白術」をお届けしております。舞台に立った事のない人間が科白術を云々するのは僭越なことであり、本当は素人が書くべきでないことで、それで「試論」と冠しています。評論家先生か昔の舞台を知っている人か、誰か言うべき人に言ってもらいたい、とずっと思っていた事ですが、これから「歌舞伎素人講釈」で黙阿弥を取り上げるに当たり、ここの視点は明確にしておかねばならないと思いました。

舞台を見ていると、今の役者さんの黙阿弥の七五調の科白は、工夫でもっと写実にできるはずだ、と不満を感じることが多いのです。あれは本当の「七五調」ではないと思ってます。黙阿弥については、音曲を利用して情緒的様式美に傾き・写実な人間を描写しようとする意欲が弱い芝居、という認識が結構多いように思います。これはある面ではそのように見えるかも知れませんが、今の役者のダラダラの七五調の科白と間延びした演技による印象のせいがかなりある、と思います。

黙阿弥の芝居は明治という世が否定・抹殺せねばならなかった「江戸」というイメージそのものでありました。だから、明治に入って黙阿弥は、「河竹新七(黙阿弥)は時代遅れだ」という批判にさらされ、随分苦しい・惨めな思いをしました。実際、黙阿弥はそうした批判をかわすために、散切狂言とか、いろいろな試みをしてきました。しかし結局は、演劇改良協会・明治の進歩主義知識人らの批判にもかかわらず、東京の庶民は黙阿弥の「江戸の」世話物狂言を支持したのです。このことは大事なことなのです。

明治14年に河竹新七は「黙阿弥」に改名するわけですが、その心を「以来は何事にも口出さず黙っている心にて黙の字を用いたれども、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と自ら記しています。その真意はいろいろ解することができましょうが、「そのうち私の時代がまた来る」という風な反骨の精神が読み取れましょう。

だとすれば、黙阿弥が芝居に託した「江戸のこころ」は言われているような・活力のない疲弊したものであったのでしょうか。そんなことは断じてないでしょう。何回かに分けて断続的になるでしょうが、本「歌舞伎素人講釈」では「現代における黙阿弥の再評価」を考えていきたい、と思います。

(H14.4.20)


○「合邦」の玉手御前について

六代目歌右衛門・一年祭に合せて、関容子さんの「歌右衛門合せ鏡」(文藝春秋)といういい本が出ました。歌右衛門本人の談話や、周囲の人々の証言をまとめて、歌右衛門という役者の人柄・芸を分かりやすく・親しみやすく描き出してくれています。

この本の歌右衛門の役についての談話のなかで、「合邦」の玉手御前についてのものをちょっとだけ。

「(玉手は)十九や二十という若さなのに、五十くらいの女じゃないと分からない心を持っていますからね。両方の継子の間に入って・・・驚いちゃうわね、あたしなんかいやだいやだ、まっぴらだわよ。役に合体してるわけじゃないもの。役者にも本心があるでしょう。玉手は気の毒よ。」

玉手が俊徳丸に仕掛ける恋については、役者によってさまざまに解釈されています。しかし、最近では我が師匠武智鉄二のフロイト的(深層心理学的)解釈に代表されるように、「玉手は俊徳丸に本心では惚れている」という風に考えられているケースが多いようです。戦後の代表的な玉手役者である七代目梅幸も談話でそのように語っておりました。

この談話で読む限り、歌右衛門は「玉手の恋は偽の恋であった」という解釈であったように思えます。これは舞台での印象とも一致するようです。もっともこの本の後の方で、菊五郎が談話で「歌右衛門さんが(玉手で)忠義とか義理とか言ってるとしたら、それは多分タテマエでしょうね。」と言ってますが。

「玉手の恋は偽か本気か」というのはメルマガでは面白い題材です。周辺の材料集めが進んでおらず原稿がそのままになっていましたが、近日にはお届けできると思います。

それにしてもこのような本を読みますと、歌右衛門にさらに深く突っ込んで役や作品・芸に関して談話を残してもらいたかったと思う人は吉之助だけでありましょうか。

(H14・4・13)


○「四谷怪談」と「忠臣蔵」

メルマガ55号〜57号は、南北の「菊宴月白浪」「東海道四谷怪談」・「盟三五大切」という「義士物」3作品と「忠臣蔵」との係りを「同時代化」のキーワードで読むというテーマでお届けしましたが、いかがでしたでしょうか。これらの作品は人物関係を説明するだけでも大変です。それではメルマガが粗筋紹介だけで終ってしまうので、そういうところは省いて「同時代化」の視点で読み物としてまとめました。

実はメルマガでは「四谷怪談」でもう一本お届けするつもりでした。それは「四谷怪談」を「忠臣蔵」の関連から読み直すためには面白い題材だったのですが、文政8年(1825)7月江戸中村座での初演において「忠臣蔵」が「四谷怪談」とテレコ上演された際に、どういう形で上演されたのか(例えばダイジェスト上演だったのか、どういう入れ事がされたか、など)が分からないので、お手上げ状態となりました。これは専門の研究者の領域で、「歌舞伎素人講釈」には手に余るので断念した次第です。その一部についてここで触れたいと思います。

まず「四谷怪談」における次の人物関係をご覧ください。

進藤源四郎:実説の赤穂藩士で不義士とされている人物。芝居では伊右衛門の父親である。息子の伊右衛門は国元に居る時に塩冶家の公金を横領した犯人でもあった。芝居の幕切れで伊右衛門の不実を責めるが、自らは首をつって自害する。この源四郎は芝居のなかでは大きな位置を与えられていませんが、伊右衛門に「昔気質の偏屈親父」と言われており、不義士の苦悩の心中を察せられる役です。

お熊:伊右衛門の母親。元高野家の娘であるが、源四郎と別れた後に師直に奉公し、塩冶家の顔世御前を師直に取り持とうとして判官刃傷の遠因を作る。(このことは「隠亡堀」でのお熊の科白にある。)さらに「高師直のお直筆」を使って息子の伊右衛門を高野家に士官させようと画策する。後に仏孫兵衛(小仏小平の父親)と再婚。蛇山庵室の場でお岩によってとり殺される。このお熊は「忠臣蔵」との関連を考える時に非常に重要な存在です。

四谷左門:元赤穂藩士。お岩・お袖の姉妹の父親だが、零落して浅草観音周辺で物貰いをしてその日をしのいでいる。伊右衛門の公金横領を知っており、伊右衛門をお岩と別れさせようとして、伊右衛門に殺される。犯人を知らないお岩は、伊右衛門に父親の敵探索と仇討ちを頼むのだが、これがまた伊右衛門の負担になっている。

「四谷怪談」の登場人物が「忠臣蔵」と深く係っていることはこのことからも明らかですが、調べるといくつか気になる点が出てきます。例えば、伊右衛門の公金横領の話、あるいは「隠亡堀」でお熊が伊右衛門に手渡す「高師直のお直筆」なるものの存在などです。これらのことは、さらにいくつかの先行作品(南北作品だけでなく)を振り返って見て、初めて理解ができることなのです。

「高師直のお直筆」は、実は伊右衛門が高師直のご落胤であることを示しています。伊藤喜兵衛が伊右衛門と娘を結婚させようというのは、お梅が伊右衛門に恋したからだけではなく、このことこそが本当の理由であったことが分かります。そして「忠臣蔵」の世界から見た時に伊右衛門が誅すべき存在( 単にお岩の敵であったからだけではない・まさに赤穂義士にとっては敵・師直の一族なのです)であることも理解されましょう。このことは「四谷怪談」台本を読んだだけでは分かりません。ということは、並演の「忠臣蔵」に「四谷怪談」への伏線たる多少の入れ事がされたという可能性が考えられましょう。

上記の疑問の数々に、先日開設されたばかりの犬丸治さんのサイト「歌舞伎のちから」での「鶴屋南北研究〜盟三五大切・研究と批評」が答えてくれています。非常な労作ですが、ご覧いただければ「四谷怪談」での疑問が氷解していくと思います。「歌舞伎素人講釈」のメルマガが、ちょうどいい導入編としてお役に立ったかも知れません。是非ご覧いただきたいと思います。

(H14・4・9)


○4月の歌舞伎

4月歌舞伎座:松江改メ二代目魁春襲名披露

夜の部:「本朝二十四孝」十種香

八重垣姫(松江・改メ新魁春)・勝頼(梅玉)・濡衣(雀右衛門)・謙信(富十郎)他

4月の歌舞伎座は六代目歌右衛門1年祭。そして、歌右衛門の次男・松江が、亡父の俳号を二代目として襲名します。そこで「今月の歌舞伎」は、新魁春の襲名披露狂言である「十種香」にしたいと思います。

ご承知の通り、松江(=新魁春)は父・歌右衛門の元で修業してきました。それは例えば「吉野川」なら歌右衛門の定高に雛鳥を勤め、「九段目」ならば歌右衛門の戸無瀬に小浪を勤めるという形でした。したがって、松江は父・歌右衛門の当たり役をあまり多くは勤めていないようです。あるいは個人的に伝授してもらっていたのかも知れませんが、座頭で歌右衛門がいる限りはそれを差し置いて父の当たり役を演じることはできなかったということなのでしょう。

六代目歌右衛門自身は、十代のかなり早い時期(新宿の新歌舞伎座での青年歌舞伎)に主要な役どころはほとんど経験しており、その時に父・五代目の指導を直接的に受けたと思われます。六代目は、同じ教育法を意図的に松江に採らなかったということなのだろうと思います。その意図は 吉之助には分かりませんけれども、松江の芸の「きちんとした行儀の良さ」・「控えめな品格の良さ」というのは確かに六代目の元で培われたものであろうと思います。

松江は赤色がよく似合う女形です。つまり姫役が本役の人であろうと思います。同じ赤姫でも玉三郎ですとどうしてもシャープな印象になってしまいますが、松江だとその品の良さが自然な形で出て「ぼんじゃり」したふくよかな感じがあるようです。こうした味わいは昨今は貴重なので大事にしてもらいたいと思います。披露狂言の「十種香」の八重垣姫もドラマ(性格)で見せるというよりは雰囲気と品格で見せる役ですから期待されます。

その他の演目では、玉三郎の「阿古屋琴責め」が見物でありましょう。阿古屋もまた技巧だけではどうにもならない品格で見せる難役であります。歌右衛門の後に阿古屋を演る人は絶えるのではないかと心配されましたが、これを見事に受け継いでくれた玉三郎には感謝・感謝です。

(H14・4・1)


○六代目歌右衛門・一周忌

昨年(平成13年)3月31日に六代目中村歌右衛門が亡くなって、もうすぐ一年になります。桜の花に雪が舞うという・「積恋雪関扉」の舞台を想わせるような・まことに印象的な日のことでありました。来月4月は、歌右衛門の次男・松江が2代目魁春襲名。これを皮切りに歌舞伎界はしばらく襲名ラッシュとなるようですが、いよいよ歌舞伎も新時代に入るということでありましょう。こう考えますと、やはり歌右衛門の死はひとつの時代の終わり・新しい時代の始まりを暗示する出来事であったわけです。

さて歌右衛門についてはこれからも書くことがありましょうが、新歌舞伎での歌右衛門についてちょっと触れたいと思います。

歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」28号で、堂本正樹先生が、「歌右衛門は結構、新作役者だったと思うよ。」と言っておられますが、これはまさにその通りであったと思います。私が見た歌右衛門の新歌舞伎での舞台は数は限られていますが、古典では決して通りがいいとは言えなかった歌右衛門の発声も新歌舞伎では明瞭に聞こえたように思いますし、役への理解度・集中度合いが頭抜けていたように思います。むしろ古典より新歌舞伎の方に印象に残るものが多い気さえします。「恐怖時代」のお銀の方のことは別稿でも触れましたが、「孤城落月」での淀君だけでなく、「一本刀土俵入り」のお蔦のような役でもそうであったと思います。

堂本先生は、印象的な晩年の舞台として、平成7年11月歌舞伎座での「建礼門院」を挙げ、「あの人には、時代を許す、ってところがあったね。自分を痛めつけてきた時代というものがあって、後白河法皇を許す、その許すってことで、自分が時代よりも上になるわけ。つまり自画像なんだね。」と語っておられます。まことに鋭いご指摘だと感銘します。と同時に、これからの時代に「時代を代表し、その存在を作品(新作)に重ね合わせることのできるような役者」が出現するであろうか、ということを考えるのであります。

(H14・3・26)


○「六段目」:音羽屋型の勘平

別稿「しゆみし場での切腹」で書きましたように、「忠臣蔵」全段の流れから見て、舅与市兵衛を殺したことの申し開きをする前に勘平は刀を突き立てる方がドラマの流れとしては自然です。しかし、音羽屋型は音羽屋型としてそれで面白いものですから、こういうのは「正しい・正しくない」の問題ではなくて、私は「両方楽しめる」と思うことにしています。現行の舞台で見られるのは大抵は音羽屋型ですが、原作のやり方・別のやり方を知って見れば、その面白さは倍加すると思います。

音羽屋型ですが、通し狂言「忠臣蔵」中の1幕としてではなく、単独の芝居「勘平切腹」として見ますと、別の斬り口(解釈の可能性)が見えてきます。初めて「六段目」だけを見た人は、「勘平さんは可哀相に・もっと早く真相が分かれば死なずに済んで、仇討ちに参加できたのに・・」と感じると思いますが、そういう気持ちを具体化したのが音羽屋型かな、と思っています。そこでは「舅を殺したのは誰なのか」という事だけがドラマの核心になっています。観客は犯人が誰か知っているのに、主人公だけが知らないで右往左往して追い込まれていく、というドラマが音羽屋型なのです。

「通し」と「見取り」では、劇の見えてくるものが違って来るのですね。そのどちらもが真実である、と言うべきでしょう。

しかしホントは三段目「裏門」で大チョンボをした時から勘平は死ななければならないことは明白なのです。二人侍(原郷右衛門・千崎弥五郎)は、由良助の命令で勘平に詰め腹を切らせるためにやって来るのです。(この件については機会を見てメルマガの材料にしたい、と思います。)まったく「六段目」はやりきれない芝居です。

(H14・3・18)


○表徴の芸術:歌舞伎

ちょっとしたきっかけがあって、ただいまフランスの哲学者ロラン・バルトの「表徴の帝国」(ちくま学芸文庫)を眺めています。これは「読んでいる」というより、「眺めている」と言った方がふさわしいです。なにしろ「表徴」について論じているのですから、その言葉もまた「表徴」なのです。細かい字句にとらわれないでイメージで眺める方がその面白さが分かります。「表徴の帝国」は、天ぷら・庭・歌舞伎の女形などについて、詩的感覚でその表徴的意味を読み解くという、ちょっと理屈っぽいですが、なかなか刺激的な「日本論」です。

「東洋の女形は女性をコピーしない。女性を表徴する。女形はそのモデルへと凝り固まらない。モデルから身を引き離して表徴する。女形は読み取られるものとして、女性を現前させるのであって、見られるものとして現前させるのではない。つまり翻訳なのであって、変容なのではない。」(ロラン・バルト:「表徴の帝国」)

天ぷらについての考察も面白いです。

「天ぷらにあっては、フランス人が昔からフライに与えてきた意味感、重さの感覚が取り払われている。(中略)西洋の油でいためた料理を特徴付けている矛盾、これを天ぷらは消失させる。つまり加熱することなしに焼くということを、天ぷらは可能ならしめるのである。脂っこい物のあの冷えた焼け焦げはここにはなく、代わりに、一切の揚げ物に拒まれていると思われる特質、すがすがしさが現れる。」(ロラン・バルト:「表徴の帝国」)

こういうことを考えながら、天ぷら食べていると美味いでしょうかね。しかし、こういう風にイメージを浮遊させるのは悪くない「遊び」だと思いますよ。いずれこの本をネタにして、歌舞伎の女形論を書いてみようか、と思っています。しばらくお待ちください。

(H14・3・11)


○「沼津」:十兵衛のその後

今週のメルマガでは「伊賀越道中双六」の6冊目「沼津」を取り上げました。メルマガでは平作の科白「理を非に曲げても言わせてみしょう」に焦点をあわせていますので、言わせられる十兵衛の方までは言及していません。もちろん平作の熱い心情に十兵衛もまた熱く応えていますので、十兵衛の心理もまた「かぶき的心情」で読み解くことができます。

「かぶき的心情」で応えるということが、どういう意味を持つのかは、十兵衛のその後を見れば分かります。第九冊「伏見」において、十兵衛はわざと志津馬の手にかかって討たれることになります。そして志津馬に股五郎一行の道筋を話し、妹お米のことを頼んで絶命します。

「千本松原」での親子の別れは、このような結末をもたらすのです。千本松原で落命寸前の父平作に、股五郎の行方を明かす時に、十兵衛はこの結末をすでに覚悟して事を明かしているのです。まことに「沼津」の悲劇は重く・その結末には暗澹とならざるを得ません。

このことの意味は、改めて「伊賀越」を別視点から取り上げる時にまで取っておきたいと思います。

(H14・3・4)


○「十六夜清心」について

3月歌舞伎座・夜の部:通し狂言「十六夜清心」

仁左衛門(清心)・玉三郎(十六夜)ほか

振り返りますと、メルマガ「歌舞伎素人講釈」ではまだ黙阿弥物を「弁天小僧」の一回しか取り上げておりません。これはもともと私が世話狂言より時代狂言の方が好きなせいもありますが、もちろん歌舞伎を考える上で黙阿弥は避けて通れません。しかし、いざ取り組んでみると黙阿弥というのは奥が深く、現代の我々に身近なようでいて実はなかなか論じ難いところがあると感じています。

ところで「十六夜清心」ですが、序幕「稲瀬川」の場でまず十六夜が川に身投げし、清心も続いて死のうとして思い留まり「・・・しかし待てよ」と言うと、今の観客はみんな笑いますね。「そらそら始まったよ、黙阿弥のお得意の・・・」という感じです。決して黙阿弥を馬鹿にしている訳ではないにしても、しかし、こういう科白を息を詰めて真面目に聞くのはちょっと恥ずかしい、という感じなくもありません。そのせい、現代の役者でこのシーンを見ると何となくコミカルです。後半の因果の物語にしても、芝居の結末つけるために無理やり筋をこじつけているように現代人は感じてしまいます。

こういう場面を幕末(安政6年)の江戸の観客はどう見ていたのだろうか、ということを考えます。四世小団次の演じる清心が「しかし待てよ」と言った時、観客が笑って見ていたとはどうも思えないのです。(と言うか、思いたくないですね。)

むしろ小団次が「しかし待てよ・・」と言った時、善玉が悪玉に改心してしまう瞬間に、観客の背筋に戦慄が走った、と考えることはできないでしょうか。登場人物の因果の物語を目の前にして、人間の業の深さに思わず身震いしたということはなかったでしょうか。こういうことを考えて見るのは無駄ではないと思います。・・・これでメルマガ一本書けそうな気がしております。

仁左衛門と玉三郎のコンビは美男美女の心中、さらにゆすりに変身する運命の変転を、面白く見せてくれるでしょう。

(H14・2・27)


○「妹背山道行」について

今週のメルマガでは「妹背山婦女庭訓」の「御殿」を取り上げております。これに関連したことをちょっと書いておきたいと思います。

昨年(平成13年)12月歌舞伎座において「道行恋苧環(妹背山道行)」が玉三郎・勘九郎・福助の配役で上演されました。舞台はその後にテレビ放映もされましたからご覧になった方も多かろうと思います。この時の振り付けは珍しい人形振りでありましたが、新聞・雑誌をざっと眺めたところでは好意的な評は少なかったように思いました。

どの新聞・雑誌の批評も見た目の印象だけで従来型と比べて「面白い・面白くない」というだけの感想にとどまっています。「なぜ・どういう意図で玉三郎がこの冒険を試みたのか」を真剣に考えてみる姿勢が見られません。人形振りという特殊な手法を採る以上何かを取り落とすのは当然のことなので、それでもあえて冒険する意味は何か、を考えてみるのが「批評」の役目というものでしょう。

吉之助自身はもともと「人形振り」というのは、文楽の人形が写実を目指しているにも関わらず、皮肉なことに人間が人形の真似して、逆に肉体の自然な動きに枷をかけるような不自然なものなのであまり好きじゃないのです。吉之助もこの舞台の幕開きはかなり異和感あって、「一体、どういう意図で人形振りを採ったのか」と訝りました。しかし、見ているうちについに「なるほど玉三郎はここを演りたかったのだ」と思い至りましたのは最後の花道の場面でありました。

花道に倒れたお三輪が苧環の糸を手繰ってみると、求女の服の裾につけたはずの糸が切れている。これを見て玉三郎のお三輪は大きく肩を震わせます。もちろん人形振りですから表情は無表情です。

この場面は鮮烈な印象を与えます。メルマガに書きました通り「疑着の相」を現すお三輪の魔性は、見た目の変化にあるのではなく、その心の内面の変化にあるのです。お三輪が苧環の糸が切れた時に憤るのは、嫉妬からなのではありません。恋する自分の気持ちが通じないことへの憤り・これほどに恋しているのに糸が切れてしまうという理不尽さへの憤りです。そして大きく肩を震わせるお三輪の姿には、お三輪の内面に沸沸とたぎっているお三輪の魔性・疑着の相の兆候がはっきりと見られたのです。これこそが玉三郎が人形振りで意図したものではなかったかと 吉之助は思いました。

「妹背山道行」は間違いなく続く「御殿」と密接な関連を持っていて、その導入部たる役割を持っているということなのです。

(H14・2・23)


○松王夫婦の白装束について

メルマガで「寺子屋」についての考察を2回に渡り(別稿「失われた故郷への想い」「せまじきものは宮仕え」)お届けしましたが、いかがでしたでしょうか。ところで、メルマガには触れませんでしたが、「寺子屋」で気になっていることをひとつ。

全く根拠がないのですが、我が子小太郎を若君の身替わりにした松王はこのあと死ぬつもりではないか、と思えてなりません。松王がこのあとで死なないと、松王は現在の主人である藤原時平公に対して不忠になってしまいます。主人への申し訳のためにも松王は腹を切るのではないか、と思えるのです。松王夫婦が最後で白装束になるのは、そういう松王の覚悟を示しているのではないか、との憶測であります。

丸本を見ますと、「死骸を網代の乗物へ、乗せて夫婦が上着を取れば、哀れや内より覚悟の用意、下に白無垢麻裃」とありまして、文楽でも歌舞伎でも最後に松王夫婦は白装束姿に変わります。松王夫婦が白装束になるのは確かに視覚面で効果的で、「いろは送り」の哀れを誘います。文楽や歌舞伎の演者たちの松王夫婦への思いを考える上で非常に重要な手掛かりを与えてくれているようです。皆さんはどうお感じでしょうか。

これは十分にメルマガ一本分のネタになるテーマですが、今回は登場人物の「かぶき的心情」にテーマを絞っていたので割愛しました。いずれ機会をみて取り上げたい、と思っています。

(H14・2・18)


○掛け声について

歌舞伎で観客席から役者に向けて投げられる掛け声は、芸能が「神事」であった時代の「場・あるいは空間」を共有する芸能者と観客の交歓の風景を想い起させます。芸能者は観客の気持ちを高め、また芸能者は観客に鼓舞されたのです。

しかし舞台が額縁の中に納まり、客席との間が幕で遮断されるようになって、演劇における「場」の意味は必然的に変化せざるを得なくなったのです。観客は芸能者から演劇を「鑑賞させていただく」ような感じになってしまいました。これは西欧演劇においても同じです。かつてのアテネの円形劇場で演じられたギリシア悲劇、ロンドンのグローブ座で演じられたシェークスピア劇にしても観客との交流なしでは考えられませんが、現代ではその様相は変わっています。

時代を経て芸能が「芸術」に昇華していく必然的な課程として、演劇もまた観客の関与を退ける方向で変化していきます。同時に芸能者も「芸術家」になっていくのです。

こうしたことは芸能者が自己の信念において「芸道」を追求していくなかで、観客の関与がうるさくなる・邪魔になる、と感じられるという変化によっても現れます。竹本大和掾という浄瑠璃の大名人は、観客が囃し立てると「無作法なる見物かな」と言って怒ったといいます。六代目菊五郎も掛け声がかかると、そちらの方を睨みつけたなどという話が残っています。

掛け声のない歌舞伎は「気の抜けたコーラ」みたいだ、と申します。しかし、最近の歌舞伎を見ていますと「本当に歌舞伎に掛け声が必要か」と思うこともあります。つまり何といいますか、言いにくいですが、自然に湧き出してくるような掛け声とはちょっと違うのですね。見ている方にも大向こうの掛け声が邪魔に感じられる時があるのです。これは歌舞伎の「演劇」たる意味合いが変化しつつあるということなのかも知れません。

(H14・2・9)

○掛け声について・2

ある人が六代目菊五郎の「鏡獅子」を見た後で、「声を掛けられる箇所が3ヶ所しか見つからなかった」と語ったという話があります。残念ながら、いつ頃の話なのか、その3ヶ所というのがどこの部分を指しているのかはよく分かりませんが、この言葉の主はかなりの目利きの方であったでしょう。

この話はちょっと考えさせられます。菊五郎は観客の掛け声をあまり喜ばない役者で、他の役者ならウケを取る場面でもわざとはぐらかすように間合いをはずすこともしばしばでした。だから、「鏡獅子」の踊りでも、菊五郎は「音羽屋!」の掛け声を誘うようなキマリの部分をさらりと逃げた、ということは十分に考えられると思います。「キマルということのいやらしさ」を菊五郎は知っていた、ということは別稿「試論:間について考える」で触れましたから、そちらをご参照願います。

もう一つ考えられるのは、観客の掛け声が本当に必要な部分・掛け声によって高揚する劇的な部分というのは、どんな狂言・舞踊でもそんなに多くはない、せいぜい3ヶ所かそこらなのだ、ということです。

だとすれば、やたらに声を掛けまくるのではなくて、本当に声を掛けるべき部分を選び抜いて、最少限の箇所で掛け声を掛けることが必要ではないか、と思うのです。もちろんファンの人が思わず発してしまう掛け声はあってもいいのですが、最近の劇場の大向うさんに思いますのは、掛け声をもっと大切にしてもらいたいということです。

(H14・2・13)


○井上ひさし氏と黙阿弥

岩波現代文庫の一冊として河竹登志男氏の「作者の家・黙阿弥以後の人々」(第1部・第2部の2巻構成)が発刊されました。この本は昭和55年に刊行されて絶賛を浴びた本です。黙阿弥の長女糸が家を継ぎ、養子(繁俊)をとり、関東大震災などの苦難を経て、狂言作者の家をどう守ってきたのか、を描いたものです。

ところでこの文庫に納められた井上ひさし氏の解説がまた滅法面白いものなので、紹介します。井上氏は「黙阿弥とその孫繁俊には随分お世話になった」と言って次のようなエピソードを書いておられます。

井上氏はその昔、浅草のストリップ小屋で座付き作者の修業をされたそうですが、その楽屋の神棚には河竹繁俊著の「歌舞伎作者の研究」が何故か置いてあり、新入りの文芸部員はこれを読むことを義務付けられていたそうです。井上氏はこの本を読んで感激し、「この小屋の給料がどんなに安かろうと、それは問題ではない。とにかくどんなことがあろうと、自分は小屋の裏方として一生を過ごそう」と神棚に誓いと立てたそうです。そして「ストリップ小屋をその昔の芝居小屋に見立てて、暗転の時の小道具の出し入れなどをできるだけ「粋」にと振舞ったものだった。」

日本の芸道の精神はこういう所にも綿々と受け継がれているのだ、ということにえらく感動してしまいました。いや、これは冗談ではありません。劇作家としての井上氏の今日を思う時、浅草時代の現場で得た感覚というのは本当に貴重なものなのでしょう。その感覚と黙阿弥とが奥底でつながっているわけです。その井上ひさし氏ですが、黙阿弥を主人公としたお芝居「黙阿弥オペラ」も書いておられます。

(H14・2・6)


*ご注意:下記の放送は国会中継のせいで日程変更となったそうです。近日中には放送されるでしょう。

○2月の衛星テレビ:勘九郎特集

2月4〜8日のNHK衛星第2放送での「山川静夫の華麗なる招待席」は、中村勘九郎の特集だそうです。4日「俊寛」・5日「法界坊」・6日「髪結新三」・7日「さらば浅草パラダイス」・8日「鏡獅子」の予定です。(詳しくは新聞のテレビ欄でお確かめください。)

このうち「俊寛」(H8年5月)は硫黄島の海岸で上演をした時のものだと思いますが、野外でも芝居の扮装が負けないでなかなかのリアリティでありました。「法界坊」(H12年11月)はコクーン歌舞伎と共に勘九郎の今後の活動のベースになりそうな平成中村座での舞台。俊寛・法界坊の2役はもちろん、「髪結新三」(H12年4月)もまた父勘三郎の当たり役であり、その舞台の印象がまだ目に残っておりますから、どうしてもその面影を勘九郎に重ねてしまいます。こういうプレッシャーは本人はつらいと思いますけど、是非がんばって役を磨いて欲しいと思います。

「鏡獅子」は平成9年3月の舞台です。「鏡獅子」は勘九郎も何度か挑戦していて、彼にとって大事な演目ですが、渡辺先生がホームページで先月1月の歌舞伎座での勘九郎の「鏡獅子」を絶賛しておられます。「まるで六代目のようだ」と、これはもう最大級・これ以上ないほどの賛辞であります。

吉之助は残念ながら先月の舞台を見ておりませんが、体力・技芸から言っても、現在の勘九郎(昭和30年生まれ)は踊りに関してはピーク直前ということであろうし、これから当然そういう舞台を見せてもらえるものと期待しています。六代目菊五郎も踊りに関しては50歳前後(つまり昭和10年前後)がピークであったと思います。今後しばらくは、勘九郎(と三津五郎)の踊りに目が離せないと思っております。

(H14・2・1)


○歌右衛門の「青年歌舞伎時代」

歌舞伎学会会誌「歌舞伎:研究と批評」第28号(特集:六代目中村歌右衛門追悼)が発行されました。まだすべてに目を通していませんが、冒頭の志野葉太郎氏の「歌右衛門の青年歌舞伎時代」が面白く読めます。

新宿の新歌舞伎座で「青年歌舞伎」が始まったのが昭和7年のことです。ここで歌右衛門は15歳から21歳までの時期を過ごし、生涯の当たり役としたほとんどの役柄をこの時期に集中して経験しているのだそうです。そして、その指導をしたのは父五代目歌右衛門であったことが、証言されています。長くお芝居をご覧になられた御方ならではのご指摘で大変参考になりました。

なるほど歌右衛門の芸の背景にはこういう父五代目の教育があったというわけです。当時は六代目菊五郎にしても俳優学校を創設したりして後進の育成には熱心だったのですが、こういう芸の伝達は非常に大事なことであると痛感いたします。

もうひとつ志野氏の談話では、五代目の長男で昭和8年に若くして死んだ五代目福助(現芝翫の父・六代目歌右衛門の兄:慶ちゃんと呼ばれて人気者であった)について、「あんな奇麗な役者はいなかった、とにかく奇麗だった」と語っているのが印象に残りました。

(H14・1・28)


○2月の歌舞伎

2月歌舞伎座:通し狂言「菅原伝授手習鑑」

菅丞相(仁左衛門)・武部源蔵(富十郎)・梅王丸(団十郎)・松王丸(吉右衛門)・桜丸(梅玉)・覚寿(芝翫)・苅谷姫/千代(玉三郎二役)・戸浪(松江)ほか

本年はあんまり昔過ぎてピンと来ませんが菅原道真公没後千百年だそうで、2月は歌舞伎座で「菅原伝授手習鑑」の通し上演が行なわれます。今回の配役ですが、現在での望み得るほぼベストの配役ではないでしょうか。平成歌舞伎の水準を占うという意味でもその成果が期待されると思います。

「昼の部・夜の部のどちらを見ればいいか」と聞かれれば、もちろん通し狂言なのですから両方見ていただきたいものですが、時間の都合でひとつだけというのなら、上演機会が滅多になくて見逃したらまたいつ出るか分からない「筆法伝授」や「道明寺」のある昼の部をお勧めします。

「筆法伝授」の場をご覧になれば、源蔵が丞相の高弟であり、したがって丞相は源蔵にとってまさしく神であり、「寺子屋」の場において源蔵が若君菅秀才を身を挺しても守ろうとする理由が納得できて、その後の筋がよく分かるでしょう。前後しますが、「加茂堤」も丞相失脚の原因になる場なのでやはり筋を理解する上でも大事です。

「道明寺」は丞相の神性を見せる場ということでも重要ですが、時代物の大らかさと風情を味わう意味でも格好な場でして、長丁場なので見るのが大変かも知れませんが、幕切れの「丞相名残り」まで至るとそれまでの苦労が報われるような気がいたします。

先々代(十三代目)仁左衛門の丞相(昭和56年11月国立劇場・この時の苅谷姫も玉三郎でした)は神品とも言われた見事なものでした。この時の仁左衛門は目を患っており、あまり目が見えなかったと聞いていましたが、それを逆手にとったというか、丞相の足取りは気が入って実によろしいものでした。この後に歌舞伎座で丞相をもう一度演っていますが、国立の時の方がよかったと思います。今ではこの役もその気品において当代・十五代目仁左衛門のものでしょう。

夜の部では、「寺子屋」の吉右衛門の松王と富十郎の源蔵が期待の組み合わせです。富十郎は若君大事の覚悟が決まっている点で最高の源蔵役者だと思います。昭和58年1年歌舞伎座の「寺子屋」は同じ吉右衛門と富十郎の組み合わせでしたが、 吉之助自身が見たなかではこの時の「寺子屋」が全体の出来として最高と思っております。このことは別稿「源蔵の寺子屋」で述べましたので、そちらをご参照ください。対する吉右衛門の松王も首実験の時の「でかした源蔵、よく打った」の息など実にお見事なものでした。

また、五月には国立小劇場で文楽での「菅原」通しが出るそうです。これも機会ありましたら見比べてみることをお勧めいたします。

(H14・1・26)


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