(TOP)            (戻る)

実の役者:羽左衛門

平成13年7月8日に亡くなった十七代目市村羽左衛門に、「役者論」という大げさなものではないですが、追悼の意を表したいと思います。


昭和53年5月歌舞伎座の「髪結新三」で、勘三郎の新三に羽左衛門が家主長兵衛を演じ、鰹をめぐって軽妙なやりとりを見せてくれました。長兵衛というのは新三の上を行く狡猾さを持っている男ですから芸風が真面目な羽左衛門には無理な面もなくはなかったのですが、逆に実直そうな家主が最後に新三をやりこめてしまう面白さがありました。(勘三郎は数年後に歌舞伎座でもう一回、新三を演じていますが、この時 の家主は羽左衛門ではなく・個々の役の出来はともかくアンサンブルはいまひとつで、世話物でのアンサンブルの大事さを痛感させられました。)

羽左衛門がこの時に「長兵衛を演じるのはこれ限りにして、あとは脇役の人に返したい」という発言をしています。

「脇役の人が今度はあの役を演りたい、という希望を持たせないといけませんよ。今脇役になり手がないのは、周りの役が認められないからじゃないですか。家主・蝙蝠安・かんぺらなどご馳走(たまに幹部俳優が脇に回ってお客を喜ばせること)だなんてとんでもないことで、そうすると、さて役どころへ返した場合、お客の目には芝居が小さくなった気がする。ことに最近みたいに若手を育てていく時には、周りも一緒に育ててやらねばなりません。かんぺらは私達が知っているのでは新十郎や翫助でした。言いかえるとそれだから端敵の安っぽさが出ていい。それを立者が出ては、芝居全体を誤らせる危険もあるし、下の人たちも将来の目標がなくなってしまいます。」(雑誌「演劇界」対談:昭和53年12月)

羽左衛門はこういう考え方をする人でした。つねに主役を盛り立てる芝居のアンサンブルに気を配り、脇役の「役割」というものを考える人でした。羽左衛門は菊五郎劇団の副将格として、十一代目団十郎・松緑・梅幸といった主役たちを支え、さらにそれに続く若手たちを指導してきました。

劇団を創設した六代目菊五郎は役者の居所には大変にうるさい人でした。たとえば「おい、茶をくんねえ」と言って茶碗を持って振り返った時に目線の先に相手役がいないと怒りました。それは、振り返った時の自分の形が悪くなってしまうからです。だから主役を引き立てるための脇の居所をうるさく言いました。相手が役の性根をつかんでいるかを確かめるために台本にない科白を突然言ってどういう反応を示すかを見るということもしばしばでした。こうして菊五郎は主役と準主役、それを支える脇役たちがそれぞれの分を守り、そのアンサンブルによって芝居が出来上がることを教えました。羽左衛門も松緑・梅幸もこうした「六代目学校」で育った役者でした。

十五代目羽左衛門は「花の橘屋」でしたが、対照的に十七代目羽左衛門の芸風は渋く、花よりは実の役者でありましたから、松緑・梅幸を支える準主役的な役が多かったわけですが、こういうところに六代目菊五郎の教えが生きていると感じさせました。実直で味わいのある演技を見せてくれました。

いまひとつ思い出します舞台は、昭和56年11月歌舞伎座(初代白鸚・九代目幸四郎襲名披露公演)で、北条秀司作「井伊大老」で演じた老僧仙英禅師の演技であります。この役は舞台での登場は短くいわば点描のような役ですが、桜田門外の変を直前にした(もちろん本人はそんなことは夢にも思っていないわけですが)井伊直弼の透明な心境を描き出すための重要な役です。「一期一会」と笠に墨書して去る禅師の残したしみじみとした余韻が舞台に漂い、そのあとの白鸚(直弼)・歌右衛門(お静)の演技を味わい深いものにしていました。これは「ああ、いい役者だ・・」としみじみ思わせた演技でした。

晩年における「弁慶上使」の弁慶、「摂州合邦辻」の合邦道心、あるいは「賀の祝(菅原伝授手習鑑)」での白太夫なども、忘れ難い名品でありました。

もうひとつは「歌舞伎の生き字引」として芝居の型・口伝を良く記憶していたことで、現菊五郎はじめ菊五郎劇団の若手はその指導のおかげでどれだけ助かったか分かりません。だから芸談はお手のものでしたし、私も「芸談を聞く会」でお話をうかがったことがありました。雑誌「演劇界」に連載されて単行本にもなりました「十七世市村羽左衛門聞書」(日本放送出版協会)なども、小道具などの扱いについて詳しく書かれて非常に参考になる本です。今は古書店でないと手に入らないと思いますが。

歌右衛門に続く羽左衛門の死を「戦後歌舞伎の幕引き」と報じた新聞がありました。これで菊五郎劇団創設に係った人たちはほとんど亡くなったわけです。まだまだ教えてもらうことがいっぱいあった役者さんでした。

  (TOP)           (戻る)