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武智鉄二が愛したレコード
       〜フランシス・プランテの弾くショパン


1)武智鉄二とクラシック音楽

最晩年(昭和63年)のことですが、武智鉄二が座談会で、今後はどのような活動をしていくつもりかと問われて、「僕についてこのことは誰も指摘してくれないのだけど・・」と前置きして、自分の評論の出発点はクラシック音楽のレコード批評にあったこと、そしてできればもう一度その方面の活動に戻ってみたいと語ったとのことです。 武智は、定本「武智歌舞伎」(以後は全集と云う)の序文にも、自分はノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)の思想を書物で観念的に摂取したのではなく、実践でノイエザッハリッヒカイトというものを感覚的に摂取できた、このことは歌舞伎を研究する上でこのうえなく幸せなことであったと書いています。 「実践で」と云うのは、つまり「レコード鑑賞という形で」と云うことです。

何度か書きましたが、吉之助はもともとクラシック音楽批評を志し、訳あって歌舞伎批評に転向した人間でして、経路としては師匠武智と同じ道を辿っています。武智はギーセキングやハイフェッツ、フォイアマンを聴きながら、ノイエザッハリッヒカイトを20世紀初頭の同時代の芸術思潮として理解しました。遅れて生まれた世代の吉之助は、その揺り返しが始まった時期に当たりますが、壮年期のカラヤンやベーム、或いはレコードのトスカニーニを聴いてノイエザッハリッヒカイトを理解しました。そのような世代の違いはあるにしても、レコード鑑賞という形でノイエザッハリッヒカイトを感覚的に摂取した点では、まったく同じです。吉之助の批評をお読みになれば、吉之助が武智の弟子を自称している理由が、歴然とお分かりいただけることと思います。

ですから武智の伝統芸能観がノイエザッハリッヒカイトの思想にどれほど根ざしたものか、このことが分からなければ、結局、「芸十夜」などを読んでも、武智の考えているホントのところはよく分からないと思います。最後のところは、感覚で掴まなければならないものだからです。これについては、別稿「伝統における古典(クラシック)武智鉄二の理論」をご参照いただきたいと思います。歌舞伎批評に於ける武智の功績とは、伝統芸能をノイエザッハリッヒカイトの思想において捉え直し、これを「古典」という概念によって理論化したことであると、吉之助は理解しています。もちろん吉之助の「歌舞伎素人講釈」は、その理念を継承した形で進めて います。


2)プランテの弾くショパン

ところで武智がクラシック音楽に触れた文章で、全集に収録されているものは、ごくわずかな分量です。多分、伝統芸能に直接的な関係がないという理由で全集に収録されなかったのだろうと思いますが、惜しいことに漏れた文章がいくつかあります。このうち「レコード芸術」誌・昭和49年10月号に掲載された武智の「私の好きなレコード〜シェラック盤の芸術性」というエッセイは、当時の吉之助は レコ芸を毎月取ってましたので、リアルタイムで読んだ文章でした。この頃の吉之助は歌舞伎は見てましたが、まださほど関心があったわけでなく、武智がどういう人かもよく知らなかったのです。後年切り抜きを整理していて、あれっこんなところに武智の文章が・・と思ったくらいです。このエッセイは、武智が自身のクラシック音楽歴を書いたものとしてもっとも詳しい文章です。 その最後の部分にこんな文章が出て来ます。

『しかし、ただ一枚だけ、シェラック盤(SPレコードのこと)の名盤を選べと云われれば、私は何のためらいもなく、プランテの「木枯らしのエチュード」を推す。このピアニストは、たしかリヨンの音楽学校の先生で、カサドゥシュの師とも記憶している。録音当時、90歳ぐらいの高齢であり ながら、音楽的に何のひずみもない。ショパンの天才は、この一枚のレコードで証明される。ショパンは地獄を見ていたのだ。そうしてプランテもまた・・・。』(武智鉄二:「私の好きなレコード〜シェラック盤の芸術性」・昭和49年10月)

フランシス・プランテは、生年1839〜没年1934。レコード録音史上、最初期のピアニストの一人です。1839年というのは、日本では天保10年です。ちなみに1840年がアヘン戦争勃発の年。フランス第2共和政の成立が1848年。 あまりに昔過ぎて、はるか霧の彼方の、伝説の人物なのです。プランテは天才少年として7歳で演奏会デビュー。プランテ少年は、リストの紹介で生前のショパンに会っており、その時、演奏をリクエストしたらショパンがいくつか弾いてくれたそうです。またプランテはチェリストのフランショーム(ショパンが彼の為にチェロ・ソナタを書きました)と演奏会で何度か共演するなど、ショパンと身近な人たちとも交流がありました。ショパンは1849年に39歳で亡くなりました。この時点でプランテ少年は10歳だったことになります。そういうわけでプランテは、ショパンと同じ時代の空気を吸い、ショパンの生演奏を聴いた人のなかで、ショパンの録音を残すことができた唯一の人なのです。それゆえショパンの音楽を愛する人にとって、これらは「失われた時」の香りを教えてくれる貴重な録音とされています。

武智が文中に挙げたショパンの「木枯らしのエチュード」(作品25-11)は、 晩年(1928年)に自宅で,ショパンのエチュードを10曲ほどまとめて録音をした時の1曲で、この時プランテは89歳でした。この頃になると録音技術は向上していたので、有難いことにまずまずの音質でプランテの演奏が聴けます。高齢ながら指の動きはしっかりしています。十六分音符の激しく下降するパッセージが強調されて、荒々しさが印象的です。武智が「ショパンは地獄を見ていた」と書いたのは、そこでしょう。下記がその録音です。

もうひとつ、「黒鍵のエチュード」(作品10-5)も挙げておきます。拍がしっかり打ち込まれて、音楽がくっきり聞こえるます。急くところのない、端正な演奏です。ショパンの演奏もこんなだったのだろうかと想像しながら、お聴きください。

「プランテがショパンの生演奏を聴いたと云ったって、少年時代の話だし、それもたった何曲かじゃないの。これだけでプランテがショパンの雰囲気を伝えていると云えるのか?それがホントに正しいものであると 、どうしてそんなことが云えるのか?他にもっと音質が良くて素晴らしい演奏がいっぱいあるのじゃないの?」なんて言う方は、プランテの演奏を聴いても何も得ることがないし、多分、誰の演奏を聴いても同じでしょう。「この演奏の背後にショパンが宿っている」と信じる人たちだけが、この録音から果実を得ることができます。

それって、七代目三津五郎が息子の八代目に言ったという「今生きてる奴にろくなのは居らぬ。ああいうのをお手本にしちゃいけない。お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」と言われたという、「芸十夜」のなかのエピソードとまったく同じ ことなのです。(別稿「吉之助が「芸十夜」を読む」をご参照ください。)武智が、六代目菊五郎を見ながら九代目団十郎に思いを馳せるのと、或いは山城少掾を聴きながら二代目団平と大隅太夫のコンビに思いを馳せるのと、まったく同じなのです。

それは結局、「その素晴らしい時代(過去)は再び戻って来ることはない。しかし、自分はその香りを蘇らせるように出来る限りのことはするぞ」ということなのです。そのような伝統芸能の姿勢を、武智は、クラシック音楽のレコード鑑賞から学んだのです。だから武智が、私の一枚としてプランテの「木枯らしのエチュード」を選んだということは、まったく武智らしいことなのですね。

(H29・4・22)

(付記)別稿「雑談:伝統芸能の動的な見方について」のなかで、武智鉄二はプランテの録音から何を学んだのかということを、もう少し突っ込んで書きましたので、ご参考にしてください。


吉之助の三冊目の書籍本です。

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