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追悼・蜷川幸雄

*演出家・蜷川幸雄氏は2016年5月12日死去


以前にどこかで書いたことがありますが、吉之助は、たまたま偶然ですが、ずいぶん昔に一度だけ蜷川幸雄氏の隣の席で芝居を見たことがあります。それは1976年7月国立小劇場での三島由紀夫・「近代能楽集」上演企画の時のことで、プログラムは「綾の鼓」(加賀まり子主演)・「斑女」(坂東玉三郎主演)・「卒塔婆小町」(平幹二朗主演・蜷川演出)の三本建てで、今思えばずいぶん豪華なものでした。老婆(後に小町)は・ 平が挑戦した最初の女役で、これが2年後の・平の当たり役のひとつとなる「王女メディア」(同じく蜷川演出)につながって行きます。吉之助は当日券で最後列の補助席でしたが、「卒塔婆小町」が始まる 直前に蜷川氏が「ここ空いてますか?」と言って来て、蜷川氏が吉之助の隣に座ったというわけです。それだけの関係なんですがね。吉之助が蜷川氏と顔見知りという ことではありません。

今でも強く印象に残っているのは、その時の蜷川氏が実に楽しそうに自分が演出した舞台を見ていたことでした。何時でも常にそうであったかは知りません。しかし、稽古中に怒鳴って灰皿を投げるという伝説もある方でしたから、「俺が 指示した通りに演技が出来ているかチェックして 、後でダメ出ししてやるぞ」という雰囲気でカリカリして舞台を見るのかと思ってたら、全然そうではなかったのです。何と言うかな、「俺の仕事はもう終わったから、後は君達がこれをどう料理するか、サア楽しませてもらうよ」という感じでしたねえ。全身全霊で仕事をやり切った人というのはこういうもの なのだろうなと感じたことを思い出します。いい顔してましたよ。

当時の蜷川氏はアングラ演劇から商業演劇へ進出して間もない頃でした。この後の帝国劇場での演出活動、特に「王女メデイア」・「ハムレット」(共に1978年)、「NINAGAWAマクベス」(1980年) は勢いがあって、目を見張るものがありました 。吉之助もワクワクしながらこれらの舞台を見たものです。「ハムレット」はひな壇のような階段状の大道具で雛人形みたいな役者が芝居をやる。「マクベス」では仏壇の扉を開いたなかで芝居を繰り広げるという趣向の大道具で、バーナムの森が 満開の桜の森になる。これらの舞台は辻村ジュサブローの派手で様式的な衣裳デザインも相まって、「ニナガワ・カブキ」と呼ばれたものでした。これは確か「マクベス」初演の時の 東宝の宣伝文句として言われたものかと記憶します(同時期の松竹の「猿之助歌舞伎」を意識したものなのかも知れません)が、結局ニナガワ・カブキという文句は定着しなかったようです。今グーグルで検索してもヒットしないようですが、ニナガワ・カブキという文句は1970年代後半の蜷川氏を表現するのにぴったり だったと思います。確かにこの頃の蜷川氏の演出はカブいて(傾いて)見えました。「ハムレット」の幕が開く直前にエルトン・ジョンの「王は死ぬものだ King must die」冒頭のピアノが鋭く鳴り響いた時、芝居はこうでなくちゃいかんと思ったものです。あのピアノの響きだけでシェークスピアの重層構造がしっかり確認できました。あの頃の蜷川氏は尖ってましたね。

その時に吉之助が思ったのは、こんな感じで歌舞伎座でシェークスピアをやれないものかということでした。つまりシェークスピアの台本そのままに歌舞伎役者が歌舞伎様式でやるということです。歌舞伎のなかにまったく新しいジャンルが出来ると思いました。 (実は当時の吉之助は三代目猿之助にこれをやってくれることを期待していたのですが、猿之助はスーパー歌舞伎へ行っちゃった。)だから二十数年後に念願かなって(と云うべきか)歌舞伎座で蜷川演出の「NINAGAWA十二夜」が掛かった時には、密かに快哉を叫んだものでした。まあ 実際の舞台はちょっと吉之助の期待とは違ってましたけどね。これについては当時の観劇随想「似てはいても別々のふたり」・「暗喩としてのシザーリオ」をお読みください。

長年の蜷川ファンとして吉之助は、「十二夜」の設定をわざわざ日本へ翻案して、シザーリオを獅子丸・ヴァィオラを琵琶姫なんて回りくどいことをせず、堂々原作そのままで押し通せば良い、衣裳だけを辻村ジュサブローのような 無国籍デザインにして欲しいと思ってました。台詞をゆっくり伸ばして節をつければ様式的だという「歌舞伎らしさ」の思い込みが染みついた歌舞伎役者に、シェークスピアの長台詞を機関銃のようにバリバリ発せさせて(いつもの蜷川氏の芝居のように役者が台詞をがなり立てれば良い) ちょっと目を覚まさせた方が良い、そこから何かが生まれるだろう、今の歌舞伎にはそういう熱気が欠けているんだよ、何が芝居の原点か思い出させてやれと大いに期待しましたが、出来上がった舞台は見事に無難な線に落ち着いてました。まあ歌舞伎座の観客も保守的ですから受けの良いものになったとは思います。その辺に蜷川氏の歌舞伎への慎重さと云うか・妥協と云うか、蜷川氏を取り込んじゃった歌舞伎座はやっぱり伏魔殿かなあと思ったものでした。 しかし、吉之助は今でもちょっと惜しいことをしたと思いますねえ。歌舞伎に対してそれを堂々押し通せる人がいたとすれば、あの時期の(既にメジャーとなっていた)蜷川氏しかいなかったと思います。

付け加えますが、2010年に吉之助は、蜷川氏がNHKのインタビューで語った言葉を材料に別稿「同時代的な歌舞伎の見方」を書いたので、これも併せお読みいただきたいと思います。

ということで吉之助が歌舞伎にのめりこんでいった1970年代後半に猿之助歌舞伎があり・片やニナガワ・カブキありということでした。蜷川氏の演出には教えられることも、考えさせられることも多かったと思います。大変お世話になりました。ご冥福をお祈りします。

(H28・5・15)


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