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追悼・十代目坂東三津五郎

*十代目坂東三津五郎は平成27年2月21日没。


平成17年2月号の雑誌「演劇界」のインタビューのなかで三津五郎がこんなことを語っていました。

『今の時代では難しいことかも知れませんが、スタンダードでありたい。変わったことをすれば、話題も集まるし、集客もいいかも知れない。でも真ん中にきちっとした柱があってこその異端だと思います。ふと気づいたら、真ん中に立っていたはずのスタンダードの柱がなくなっていたーーそれが一番怖い。(中略)僕には後の世に伝えてくれ、というメッセージを(先輩方から)預かっている責任があります。』

この記事を読んだ時に、三津五郎はこのことを勘三郎(正確に言えばこの時点では勘九郎、勘三郎襲名はこの年の3月歌舞伎座のこと)に言いたかったのかなと思いました。勘三郎にこんなこと言えるのはこの人だけでしょう。(芝翫だって何も言いませんでしたから。)まあ普通ならば「歌舞伎の面白さをみんなに伝えたい」とか「歌舞伎で現代人に夢を与えたい」とかそんなことを言いそうなもので、多分、勘三郎もそんなことを言ったでしょうが、三津五郎は 全然違うわけです。「スタンダードでありたい」なんて、その意図を十分理解しない人が聞けば随分巻き出したように思うかも知れませんが、三津五郎が言うと説得力があります。「スタンダード」・「クラシック」ということは、これからの歌舞伎にとってますます大事なキーワードになっていくでしょう。しかし、これを体現できる役者となると、甚だ心もとない。これから三津五郎に期待するところ大であったのですが。

芸に関しては決してブレない役者でありました。黙阿弥の七五調でも、三津五郎の台詞はリズムがしっかりして、正しく教えてもらっているなあということがよく分かりました。いい加減な受け取りをしていないのです。この点では大和屋はしっかりした家です。勘三郎の実験歌舞伎にお付き合いはしても(もちろん十分楽しませてくれる演技を見せてくれましたが)決して染まることはなく、自分のスタンスをはずすことはありませんでした。勘三郎にとって自分を振り返るという意味においても、三津五郎は必要な役者でありました。

それにしても勘三郎と踊りで共演することは多かったけれど、芝居(古典)の方でがっぷり四つに組む機会があまりなかったように思いますね。吉之助は、このふたりに伝説の名コンビ・初代吉右衛門と六代目菊五郎の再現を期待していたのですが、平成16年9月歌舞伎座の「蔦紅葉宇都谷峠」での十兵衛(三津五郎)・文弥(当時は勘九郎)くらいしか思い浮かばないのは残念です。どうして松竹はそういう企画をしてくれなかったのか。「吉様参」でも「佃夜嵐」でも何でもこのコンビで見たかったのですがねえ。

踊りに関しては三津五郎の舞台映像は、これからも色あせず・ますます貴重なものとなっていくでしょう。勘三郎の踊りは勢いとリズム感はありましたが、映像をスローモーションにすると上体が揺れが大きくて・動きの粗が目立つことがままありました。三津五郎の踊りはスローモーションでも隙が見えるところがありません。たとえば三津五郎の「娘道成寺」を見ると、「正しい踊り」という印象がすぐ浮かびます。楽しい踊り・面白い踊りは他にもあるけれど、正しい踊りにはなかなか出会えません。どういうところが「正しい」というイメージになるのかは説明が難しいです。正しい間尺でかっきりした踊りというだけではないかも知れません。多分それは下半身が安定して・それに乗った上半身がしっかり固定されて揺れるところがないことから来ると思います。とにかく三津五郎の踊りの映像はよく見て欲しいと思います。

平成23年10月に三津五郎のトークショーを聞く機会がありましたが、そのなかで面白かった話をここに記録しておきます。三津五郎は「義経千本桜・鮨屋」に出演したことがなかったそうです。弥助あたりはやっていそうですが、権太どころか、弥助もお里もやったことがなかったそうです。(結局、遂にやらずに終わったわけです。)そこで三津五郎の言うことには、夢のなかで突然代役で「鮨屋」にすぐ出てくれという話が来る、「いや困ったな・やったことがないんだよ」とウジウジしていると、後ろから二代目松緑が「バッキャロ、おめえ、やれないのか」と怒鳴る、それでハッと目が覚めると身体中汗びっしょり、そんなことが二・三回あったな、と言ってました。まあ芸に関しては 真面目な人でしたね。芸談も出来た人だと思います。吉之助にとっては同世代でもあり、勘三郎がいなくなって・三津五郎がいなくなって、これからどうすりゃいいんだよ、これから俺はふたりのいない歌舞伎をずっと見ていかなきゃならんのかと、ホントに思いますよ。ご冥福をただ祈るばかりです。

(H27・2・23)


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