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追悼・十二代目市川団十郎


昨年末の勘三郎の死はショックでしたけれど、それに続いてまさか団十郎まで逝ってしまうとは想像だにしていませんでした。それにしても歌舞伎に続けざまに訃報が続くと、残念を通り越して・「歌舞伎にこの仕打ちはちょっとひどすぎるのじゃないか・・」と神様に抗議したい気分になります。一体、歌舞伎に何が起きているのか、歌舞伎はこれからどうなるのか、などと欝々考えてしまいますが、「こういう危機にこそ歌舞伎はしぶとい」ということを信じたいと思います。

団十郎の芸についてはテレビ・新聞などでいろいろ書かれていますが、吉之助は十二代目団十郎はちょっと不思議な役者だったと思いますねえ。歌舞伎役者の魅力はよく「一声二眼」と言われます。団十郎は「眼」の方はあったけれど、 失礼ながら、「声」・つまり台詞の方に難があったことは事実でした。 役者が台詞に難があるとなると普通は評価を得るのは難しいということになると思いますが、団十郎の場合は捨てがたい雰囲気があったのです。それはちょっと時代離れした「おおどかな味」に通じるものであって、細かいことにこだわらず・大つかみに役の核心をつかむ、 団十郎はそういう大きい芸でした。最初舞台に登場した時にはちょっと・・・と思うこともなくはなかったですが、耳慣れてくるとあれはあれで味があるように聞こえる のだから不思議です。天性のセンスで本質をグッと大きくつかんだということだと思います。

ある方が吉之助にこんなことを仰いました。その方は初めて歌舞伎を見て、それが団十郎が弁慶演じる「勧進帳」の舞台で大変感激して見たそうですが、「・・ところであの独特な言い回しは市川家の口伝か何かでしょうか」と言うのでした。吉之助はどう返事したら良いものか困ったものでした。しかし、考えようによっては・なるほどそんな風に聞こえなくもないなあと思ったのは、それがどことなく元禄時代の荒事の雰囲気と重なるように思えるからです。そうなるとあの台詞もある種芸の趣きを呈するということになる。 (付け加えると、そこに至るまでに団十郎が必死に台詞の練習をしてきたことも吉之助は知っています。)弁の立つ弁慶というのはもちろん芝居としてそれなりに面白いものですが、どこか理に付いた史劇風の印象に陥りやすいものです。団十郎の弁慶は「荒事は童子の心で演じる」ということを実感させました。古(いにしえ)の荒事の心はこんなものなの だろうなあと思うのです。 理屈だけではないということになる。だから吉之助は、弁慶を演じて素晴らしい役者はもちろんたくさんいますけれど、「勧進帳」をただ一回だけ見るなら・誰の舞台を見たら良いかというならば団十郎の弁慶を見なさいといつも言ってきました。団十郎の弁慶こそKABUKIの弁慶であったと思います。

そういうと団十郎の弁慶が風格だけの弁慶であったように思われるといけないので付け加えますが、団十郎の弁慶は、例えば富樫が「勧進帳聴聞のうえからはもはや疑いあるべからず」と言うや否や踵を返して元の場所に戻ろうとして「・・さりながら事のついでに問い申さん」という富樫の台詞を背中で受けるような(多くの弁慶役者がそうしますが)不届きなことはしなかったのです。主人義経を金剛杖で打つ場面でも、杖を肩より高く振り上げることはしなかったのです。些細なことのようですが、実はとても大事なことなのです。吉之助が見る限り、頻繁に上演される「勧進帳」のなかで、団十郎の弁慶が、万全とは云えなくても、正しい「勧進帳」の感覚を一番残していたと思います。ですからこういう「勧進帳」を海老蔵に是非受け継いで欲しいと思います。

団十郎の役で思い出すものをひとつ挙げると、昭和53年(1978)10月新橋演舞場で、玉三郎の桜姫を相手に演じた清玄・権助二役が吉之助には忘れ難いものです。玉三郎の相手役というと世間では仁左衛門(孝夫)となることが多いと思いますが、吉之助はどちらかと言えば「海老玉」(この場合の海老は十代目海老蔵=十二代目団十郎)で、玉三郎のシャープな個性は団十郎のおおらかさで受け止められた時にひときわ活きたと思います。このふたりの「鳴神」の舞台も 、とても面白いものでした。恐らくこれらの役どころでも、団十郎は役の本質・核心を、小手先でないところでしっかり摑んだと思います。そんなことなど、いろいろ思い出します。3月に予定されていた「オセロ」の公演は実現させてあげたかったと、ただただ無念です。幕切れの述懐が感動的な大きいオセロ を見せてくれただろうと思うのです。これは見たかった。

(H25・2・8)


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