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折口信夫への旅・第1部〜小説「身毒丸」をめぐって・補説

*本稿は「折口信夫への旅」・第1部〜小説「身毒丸を巡って」の補説です。


○折口信夫への旅・補説・その1

本稿では「折口信夫への旅・第1部〜小説「身毒丸」をめぐって」に関連して、文章の流れ上割愛せざるを得なかった事項を考察することとします。折口信夫は小説「身毒丸」(大正6年)の附言のなかで次のようなことを書いています。

『この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。 この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

折口信夫:死者の書・身毒丸 (中公文庫)

まず考えてみたいことは、折口が「高安長者伝説から宗教倫理の方便的な分子をとり去って最原始的な物語にかえした」と言うのは、どういう意味かということです。それはとてもピュアな形で、折口の頭のなかにポッと生じたものなのです。作家は物語というものを頭で創るのではありません。物語を紡ぎ出すきっかけとなる ・とてもピュアなもの、動機と言っても良いかも知れませんが、そういうものが必要になりまです。それがポッと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の小説「身毒丸」は、折口のなかにポッと生じたものをそのまま原型質的な形で提示しようとしたものなのです。

宗教倫理の方便的な分子をとり去って最原始的な物語に返す折口の手法を小説「身毒丸」のなかに見てみます。身毒丸の父・住吉法師は田楽を行なう旅芸人の長でしたが、身毒丸が9歳の時に突然行方不 明になってしまいました。身毒丸の記憶ではこの時の父は50歳を越えていましたが、身体に気味の悪いむくみが出ていました。それを見た身毒丸に父は「お前にはまだ分かるまいがね・・」と言って次のような話をしました。父とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある。そのため自分は得度して浄い生活をしようと思ったのだが、ある女のために墜ちて田楽法師の仲間に投じてしまった、と言うのです。身毒丸は、だから父はお前も法師になって浄い生活を送れというのか、身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶やせというのか、その時の父の言葉を思い出しては考えます。

小説では父・住吉法師の病気がどんなものであったかが分かりませんが、その理由は別にどうでも良いのです。大事なことは何かの理由で父は故郷を離れたという事実、ただそれだけ で十分なのです。父は田楽の仲間から離れてどこかに消えてしまいますが、これも恐らく同じ理由に拠るのです。そして同じ理由が子である身毒丸にも伝わっていると父は言うのです。「お前にはまだ分かるまいがね・・」  身毒丸にはその理由が何も分かりませんが、しかし、確かなことはその理由が父から子である身毒丸に伝わっているという事実です。ということは身毒丸も共同体に入ることが許されないということです。身毒丸が放浪の旅に終止符を打って・どこかに落ち着くことはできないのです。このことは最初から決まっているのです。なぜならばその理由が父から子に伝わっているからです。

このことは何となく差別の根源のようなものを考えさせますが、父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかという具体的な根拠 は必要ではないということなのです。それでは小説のなかで身毒丸が悩み苦しむきっかけが見えないと思うかも知れませんが、最原始的な形態の「物語り」においては、そのような具体的な根拠は 別に必要ではないのです。時代が下って「物語り」がストーリーの形式を次第に整えて来ると、筋が次の筋を生み出していくことになるので、原因が結果を生み・その結果が次の筋の展開の原因になるという形で進行するようになって行きます。そうなると筋の整合性を取る必要が出てきて、原因と結果の間に正しい因果関係が求められるようになります。我々はそれを「筋の必然性」と呼びます。筋の必然とは、例えば主人公がある状況に陥れられる時に、誰もが「ああ、そういうことならば仕方がないなあ」と思えるような・もっともらしい理由です。主人公が共同体から放逐される理由は、例えば何か悪い伝染性の病気に罹ったとか・盗みなどの悪い行為を 働いたとか・まあそんなものならば必然かなと考えられますが、時に主人公にとって謂われのない理由である場合もあります。いずれにせよそのような具体的な根拠が登場してくるようになるのは、「物語り」がストーリーの形式を整えてきた段階においてのことです。それ以前の段階にある最原始的な形態の「物語り」、例えば口承文学のようなものを想定すれば良いと思いますが、これには具体的な根拠が明確でないものが多いようです。具体的な根拠がある場合には、実はそれは「物語り」が文字によって記録されて・固定化した後から付け加えられたということが 多いのです。つまり筋を整えるという意図がそこに出るわけです。そのような物語りの筋の必然性、つまり誰もが考えても「ああ、そういうことならば仕方がないなあ」と思える展開というものは、当然のことですが、その集団の倫理性・道徳性・あるいは宗教性というものを強く反映することになります。それに沿って必然性は構築されるのです。つまり、「物語り」の生成においては状況が先で・それにまつわる説明は後になるということです。

したがって、父・住吉法師が共同体から放逐されたか・あるいは居られなくなった必然性というものが小説中に具体的に記述されるとすれば、それはある段階の倫理性・道徳性・あるいは宗教性を否応なしに取り込むことになります。それでは「高安長者伝説を最原始的な物語に返す」という折口の初期の目的に叶わないことになります。したがって、小説「身毒丸」を読む場合、読者はそのような必然性なるものに関心を持ってはならないのです。 このことは意外と見落とされているのではないですかね。折口のなかにポッと生じた原型質的なものを見つめなければなりません。


○折口信夫への旅・補説・その2

『自然なるものが差別を作っている。自然なるものが被差別部落を作っている。そうすると、その自然をひっくり返す、あるいは自然の神秘みたいなものを、確実に白日のもとにさらけ出して、それをこう逆立ちさせるというのが、つまり物と直結した言葉ではないか。理屈ばっかり言いやる感じやなあ。・・・(中略)自然というものが差別を生むというのは、ここでは日本的自然と言うた方がええと思うんです。例えば生け花でも、盆栽でもええんですけどね、日本的な美意識みたいなものを成立させるためには、カットする部分がいるわけや。その隠された部分がこの日本では、大きな意味をもってきたのだという。まあそれが、日本的自然という・・・つまり、差別を単に人を誹謗するとか、蔑視するとかじゃなしに、もっと大きな意味で使いたいんです。(中略)だから、いわゆる部落問題というのは、文学ではないと思うんですよ。文学においては、○○問題というのはない。つまり、被差別部落のなかに生きている人間が、こんなに豊かに、一生懸命、しっかり生きている。その姿を描く。それが文学だと思う。』(中上健次:公開講座「物と言葉」・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)

中上健次と熊野(太田出版)

最原始的な形態の「物語り」においては、父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかという具体的な根拠は必要ではないということをもう少し考えます。芸能の起源を論じる時、差別のことを考えないわけにはいきませんが、それはあまりに根が深い問題です。とりあえず上に引いた中上健次の言葉を手掛かりにすると、それは日本的自然というか、自然なるものが差別を作っている、そのなかで彼らは一生懸命、ひたむきに生きている、そのことがしっかり書けていれば差別という構図は自然に浮き上がってくるのだということです。期せずして折口の場合もそのような手法に拠っていると思います。

父・住吉法師がどういう理由で共同体から放逐されたか・または居られなくなったかということは、現代人の視点から見るとそれは「物語り」の発端となるべきものです。現代人はそこから筋(ストーリー)が始まると考えます。しかし、そこのところが折口の小説「身毒丸」では明らかにされていない、あるいはわざと曖昧にされています。これは「物語り」としての「身毒丸」の欠点であると、現代人の視点からはそのようにも思えます。そして折口がわざとボカしたものを一生懸命見付けて、解釈しようとします。しかし、その必要はないのです。そうすることはむしろ間違っているのです。もうひとつ中上健次の言葉を引いておきます。中上健次は平安中期に成立し・日本最古の長編物語とも言われる「うつほ物語(宇津保物語)」を取り上げて、物語空間のなかの「うつほ」の重要性について次のように語っています。「うつほ」というのは古語で「がらんどう」のこと、或るものの内部に空いた穴ぼこのことです。

『うつほって言うのを、ある神話的空間ととった場合、原初の物語ってのは神話的空間を含んでいるんだけど、その神話的空間を取り去って、物語として完璧な形になったのが「源氏物語」だと思うんです。そうすると「源氏」というのは物語の物語ではないのか。物語の物語という構造を持ってると思うわけです。私は大谷崎を敬愛しながら憎むのは、この近代百年の最も大きいと思う大作家が、物語の物語、すなわち「源氏」を自分の文学を回復する方法としてとったという理由によるわけなんです。(中略)最初に物語としての完璧な形をとった「源氏」が、知っていて切り落としたうつほは、谷崎にとってどうなったのか。うつほは、どこかに消えちゃったんじゃないか。そういう、たえずこう文学を生み出して、文学を膨らまし、育てあげるうつほみたいなものをとったものを「源氏」はすくいあげてきた。それをさらにもういっぺんすくいあげてきた谷崎というのは、つまり非常に弱いんではないか。(中略)そういうことから、こう考えられると思うんです。物語の原初には、うつほという神話的空間がすえられている。それが、完全な物語としての「源氏」というのは、このうつほあるいは神話ですね、それを切り離し、あるいは切り捨てたことによって成立していると。』(中上健次:公開講座「うつほからの響き」〜神話から物語へ・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)

ところで、本論では吉之助は「物語り」と書いていますが、それは文学形式としての「物語」と・「物語る」が名詞化したものとを明確に仕分けるために吉之助は「物語り」と 意識的に書いているのです。つまり、文字によって記述された物語ではなくて、それ以前の段階である語り物の「物語り」のことを考えています。「うつほ物語」はまだ語り物としての「物語り」の方に寄っており、文字によって記述され・因果関係が明確な「物語」の完璧な形を取っていないのです。折口もまた「身毒丸」の附言において『この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。』と書いている通り、語り物としての「物語り」の方にスタンスを置いています。ということは、「うつほ」(空洞)が重要であるということです。小説「身毒丸」の 「うつほ」とは、父・住吉法師が幼い身毒丸に語った「お前にはまだ分かるまいがね・・」 ということです。そこから切り離されたもの、あるいは切り捨てられたものから「身毒丸」が始まっているのです。


○折口信夫への旅・補説・その3

『この間の話にも触れるんですけど、親というのは子供を殺しましたね。そのみなし児・私生児の話の時に、捨てるってことは殺すことにもつながるんだってこと言ったんですけど、その殺すってこと、つまり親っていうのは、ここで自然ととってもいいと思うんです。邪悪な自然。というのは、子と親の差異ってのができるわけですが、子から見ると差異を見つける時に、何をもって見つけるかというと、自分を殺すかもしれないっていう邪悪なものによって、つまり差異を見つけてくるっていうことだと思うんです。なんかこう哲学みたいなことしゃべってるみたいなんだけど、王とは自然をこう背ってきたわけなんですね。つまり、王の秘密っていうのは、自然の秘密じゃないか。王の秘密を暴くことは、自然の秘密を暴くことにもつながるんじゃないか。 秘密ってのは、生まれ、生活し、死ぬっていう自然過程と、それから親がなぜ親であるか、子が何で子であるかっていう人間だけが持つそういう秘密だと思うんです。で、物語本来のエンターテイメントとは、人間本来の持つ何て言うんですかね、自然に対する謎、それに対する興味ではないかと思うのです。もっとはしょっていきますと、その出所来歴の定かでないものとは、つまり、神ではないか。あるいは貴種流離譚というのものは、こういう邪悪な自然っていうもののひとつの表象として現れたものじゃないか。その自然の謎のことを、われわれの民族、われわれの祖先たちは貴種流離譚という形で語り伝えてきたんじゃないかということを考えるわけなんです。』(中上健次:公開講座「王の出生の謎」・1978年2月〜「中上健次と熊野」・太田出版)

一般的に貴種流離譚は「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というところに重きを置いて理解されています。 つまり、転落の落差あるいは惨めさのようなものが「物語り」の興味の中心になっているのです。しかし、貴種流離譚の本質というのはそこにあるのではなくて、その本質 というのは実は「私とは何か」という疑問にあるのです。「私とは何か」ということを知るためには、「親とは何者であるか」ということを知らねばなりません。親が何者かが分かればそれで「私とは何か」が分かる とは限らないが、まずそれが一番手っ取り早い手掛かりです。なぜならば子である「私」というものは、親から発しているからです。このことは子にとって常に謎です。そこのところに根源的な不安があります。 しかし、実は親のことは「私とは何か」ということを考える手掛かりのひとつに過ぎません。そのことを中上健次は「自然の秘密ってのは、生まれ、生活し、死ぬっていう自然過程と、それから親がなぜ親であるか、子が何で子であるかっていう人間だけが持つそういう秘密だ、それは神の秘密ではないか」と言っています。そのような自然への疑問・神への疑問がひとつの表象として現れたのが貴種流離譚という「物語り」のパターン なのです。もちろんパターンはその他にもあるのです。「親」という記号が、王になり・自然になり・神に置き換わるならば、パターンなんて色々出来るわけです。あくまでも貴種流離譚 なんてものは「私とは何か」という「物語り」のひとつのパターンに過ぎません。だから貴種流離譚の本質とは「私とは何か」ということなのです。

折口の小説「身毒丸」の場合、そこに説経「しんとく丸」や謡曲「弱法師」への遥かな道のりを見ようとする読み方がされることが多いように思います。言い換えれば、説経や謡曲から宗教的な粉飾を取り除いていけばそこに小説「身毒丸」 の姿が見えてくるという風に読もうとするのです。そうすると「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」という貴種流離譚的なイメージで小説「身毒丸」 を読むことになり、「自分とお前の身には先祖から持ち伝えた病気がある」という父・源内法師の言葉から、親と子の関係を、何か遺伝的な・血で伝えられるものとして強くイメージしてしまい勝ちです。残念ながら、そういう読み方は折口の意図するところではないと思いますねえ。吉之助が避けたいと思う読み方は、小説「身毒丸」を血縁の問題として読むことです。もちろん読み方としてはあるでしょうが、折口の思想を考える時にこの読み方は取りたくないと考えます。大事なことは「私とは何か」という疑問 なのです。

「邪悪な自然」ということも中上健次は言っています。古来人にとって、神は・自然は常に邪悪であり、無慈悲なものでありました。本来ならばいつも慈悲に満ちているべきでしょうが、親もまた無慈悲なこともあったわけです。子殺しも子捨てもしばしばあったのです。そうしたところから人が生まれ、生活し、そして死ぬっていう自然過程のなかで「自分はなぜ生まれてきたのか」という秘密を物語る・その原点を折口はイメージしています。そのようなピュアなものをイメージする時、血縁の問題はかえって邪魔になるのです。


○折口信夫への旅・補説・その4

歌舞伎の歴史では江戸と上方(大坂あるいは京都)が中心ですが、江戸と上方とでは芸の伝承の在り方が微妙に違うことはご存知の通りです。江戸はどちらかと言えば家系を大事にするところがあるようで、芸風あるいは型というものを後継者に伝えようとする・後継者はそれを継ごうとする意識も、多少外面的なところはありますが上方と比べれば割合にあるように思います。ところが、上方の方は芸風あるいは型というものを後継者に伝えようとする意識が ほとんどないようです。初代鴈治郎などは「あなたの型を息子に教えれば良いのに・・」と言われると、「そんなことをしても鴈治郎の偽物が出来るだけだす、自分で工夫ができないなら役者辞めればよろし」と言って息子(二代目)に演技を教えることをまったくしませんでした。これは初代鴈治郎だけのことではなくて、だいたい上方の役者というものは子供が親のやることを真似て演技しようものなら、「自分で演技の工夫もできない馬鹿野郎め」と言って殴りつけたりしたものでした。先代の真似をするなど言語道断。自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す、それは誰から受け継いだものでもないし、誰に伝えるものでもないということです。

ですから上方の役者は自分の子供に非常に厳しく接して、芸の面では許容性がとても狭かったということがありました。しかし、役者の血筋だからその子供も演技が巧い・役者に向いているということは必ずしも ありません。そういうことですから歌舞伎の歴史をみれば上方の役者の家系というのはほとんど三代目くらいで途切れてしまった家が多いわけです。超・例外と言えるのは片岡仁左衛門家くらいのものです。演技の型というものも先代と当代ではブツブツと切れているものが多く、いろいろ雑多なものが入り込んだりしてうまく整理できない。上方の芸は学術的にいわゆる型の系譜を揃えるということはまあ不可能であると思います。

一方、江戸の家系というのは、それに比べれば代数が長いものが多いようです。もっとも「元禄の世から綿々と続く市川宗家の伝統」などとマスコミは言いますけれど、実は血筋的には市川宗家でもブツブツ切れており・現在の市川家は十一代目から数えればせいぜい五・六十年ということなのですが、いちおう名跡としては「続いて」います。芸風や型というものに対する意識というのも、当代はこれを次代に渡し・次代はこれを受け継ぐという考え方も確かにあったようです。だから型の系譜も割合に整理ができるということがあります。江戸の歌舞伎はそういうものを比較的大事にしてきたのです。

こうした江戸と上方の芸の伝承に対する考え方の差は、現在となってみれば江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したという決定的な結果となって現れたのです。それでは江戸の伝承法が良かったのか・正しかったのか。そういう議論はホントはあまり意味がないことなのですが、現代に生きる伝承芸能の在り方を考える面では考えてみる価値がありそうです。

しかし、つらつら思んみるに・「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」という考え方は、西欧芸術ならば至極当たり前の考え方なのです。西欧芸術では、生徒が先生のやるのをそのままに演じようものなら、「そんな先生のコピーみたいなことをしては駄目です・自分で何が正しいか を考えなさい」と怒られます。グスタフ・マーラーは「伝統的であるということは、怠惰である・何もしないということだ」とまで言い切りました。西欧の伝統というのは先人の業績の変革と破壊の歴史であったとも言えます。

とすると上方歌舞伎の芸の在り方というのは、ある意味で西欧的だと言えるかも知れません。その考え方を押し進めていけば現代では上方歌舞伎というものは当然変容・変質せざるを得ません。あるいは上方歌舞伎というものは漫才とか吉本新喜劇みたいなものがその代替になって時代に対する役目を終えたのかも知れぬということも考えられます。しかし、残った・残らなかったということは結果論に過ぎないのであって、残ったから良いというものでもありません。滅ぶべきものはしっかり滅んだ方が良い・少なくとも潔いという考え方もあります。ですから「自分の芸は自分の代限りのもの・受け継ぐものではなく・誰に伝えるものでもない」と云う考え方は現代的に見えるかも知れませんけれども、実は洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であるという風に吉之助には思えるのですねえ。

「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」ということは、 実はとても中世的な芸の考え方であると吉之助は考えます。芸本来の在り方とすれば江戸よりも上方の芸の伝承法の方が、そのオリジナルな形を伝えているのです。その成り立ちからすれば、上方の方が古く・江戸の方が新しいのです。このことは一般的に江戸の伝承法の方が古風であると逆に理解されているのではないかと思いますが、違います。上方の芸の伝承法の起源は中世(つまり室町期から戦国期)に発するものです。江戸の芸の伝承法は近世(つまり江戸期)に発するのです。

このことが折口信夫の「身毒丸」となぜ関連するかと言うと、折口信夫の「身毒丸」は中世期の物語りの体裁を取っているからです。「身毒丸」のなかに見える師匠源内法師と弟子である身毒丸の芸の伝承というものは、そのような中世的な世界観と深く関連してい ます。後段においてそのことを考えていきます。そのためにはまず「中世とは何か」ということを考えなければなりません。


○折口信夫への旅・補説・その5

小説「身毒丸」の時代設定は明確ではありませんが、中世期・おそらく室町時代の初期辺りと考えて良いと思います。日本史研究のなかでも中世期は近年注目されています。それまでの社会(鎌倉 時代には律令制度の価値観が依然として強く残っていました)が持っていた 既存の価値観が崩壊して行く混沌とした時代でした。「下克上」という言葉がそれを代表しています。中世期は価値の転倒 の時代であり、混沌の時代でありました。戦国時代はそのような混沌が引き起こした世 の中であり、安土桃山時代辺りから次第にそれがひとつの方向に収斂(しゅうれん)していき、江戸時代にひとつの形に固定化していくという風に考えられます。

それにしても中世期というのはなかなか興味深い時代です。江戸時代においては普通に用いられて・今では日本伝統のものと信じられているようなもの、例えば能装束の素材である絹、茶の湯で用いられる抹茶や茶器、生け花で 用いられる花器などの陶磁器、そのようなものはどれもみな実は室町時代には中国からの輸入物でした。こうした輸入物は室町時代後期から中国からドッと日本に入って来たものでした。江戸時代に入ると、そのような輸入物が日本で現地生産されるようになっていきます。元々外来であったものが、やがていつの間にか日本伝統の品々であったかのように認知されていきます。 言い換えれば、鎌倉時代から室町・戦国時代までを、我々は江戸時代のイメージでどうしてもこれを見てしまい勝ちです。考えてみれば、能狂言であっても現代の我々は江戸時代に完成され・洗練された後のものを見ているのであって、世阿弥の時代のものとはちょっと違うかも知れないということを頭のなかに入れておいた方が良いです。

話を芸能の場面に限りますと、芸能はもちろん神事・祭礼に発し・そのあるものは為政者に取り込まれることで発展してきたわけで、宮中にも雅楽を専門にする家・和歌を専門とする家などがありました。しかし、中世期に生まれた芸能は庶民の生活から発し ・既存の秩序を破壊するところから生まれたものでした。混沌をエネルギーとした芸能であったわけです。それは例えば専応の立華(たてはな・華道)、世阿弥の能楽、利休の茶の湯などです。混沌というものが芸能の理念としてどういう形で現れるかは様々ですが、大事な理念は「どのような身分であろうと・芸能のこの場にある限りは互いに対等の関係である」ということであろうと思います。混沌ということは価値の転倒、すべてが混じりあって・個々の要素が等価となるということでもあるのです。

それを明確に・ほとんど相手に挑みかかるような姿勢で見せたのは、豊臣秀吉に対する利休でした。茶室のなかでは天下人も茶人もない、人間対人間、一対一の関係であるというのが利休の理念です。秀吉はそれを認めないから利休に切腹を命じたのです。利休は許しを乞うこともせず・自らの理念に殉じました。それはかぶき者の行動そのままでした。中世期の芸能は、華道・能楽・茶の湯もすべて、そのような価値の混沌・転倒・平準のなかに理念を置いていました。ですからその後・江戸 時代において華道・能楽・茶の湯は家元制度を採って権威化していきますが、家の存続を前提として組織体を強化しようとする江戸時代の封建制度の考え方をモデルにしたもので、中世期にルーツを持つ 創始者の理念からするとそれは明らかに相反したものなのです。悪い言い方をあえてするならば、それは理念的に堕落であったとも言えます。

このことから分かる通り、歌舞伎の上方での芸の伝承が原則的に本人限りであり、芸は伝えていくものではなく・自分で工夫していくことで結果として繫がっていくものである・それが伝統であると考えるのはとても中世期的な考え方で、もともとの芸の伝承というのはそういう 形態であったと考えられるわけです。型だか秘伝だかコツだか、そのようなものを次代に受け渡しながら守っていくというのは、江戸時代になってから生まれた近世的な考え方なのです。ですから江戸の歌舞伎の芸の伝承の スタイルの方が年代的に新しいことになります。三島由紀夫が次のように言っていることが、中世期的な芸の伝承の在り方に近いものです。

『秘伝というのは、じつは伝という言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば、日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるようなものだ。横にずっと流れていくものは、何にもないのだ。そうして個体というというのは、伝承される、至上の観念に到達するための過渡的なものであるという風に考えていいのだろうと思う。(中略)そうするとだね、僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいのかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達した時になにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。何にもメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると、結晶体の上の一点からずっとつながっているかも知れないが、しかし、絶対流れていない。』(三島由紀夫:の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)

秘伝というのは絶対連続していない。しかし、何かが繫がっているという感覚が確かにある。それが伝承だと三島は言うのです。このように考えていくと、小説「身毒丸」のなかでの師匠・源内法師と弟子である身毒丸の芸の伝承というものは 、中世期的な視点で読んでいかねばならないことが明らかなのです。しかし、折口関連本などを読みますと、源内法師と身毒丸との芸の関係を近世期的な視点で読んでいるものが少なくないようです。どうしてそのような解釈が出てくるかと言うと、ひとつは上述の中世期的な芸の伝承の理念ということが正しく理解されていないせいだと思いますが、もうひとつは別稿「折口信夫への旅・第1部・その11」のなかで触れた通り、折口の同性愛者的要素を重ねて読もうとする傾向が強いからです。吉之助はそのような読み方は小説「身毒丸」のなかでは排除すべきだと思っていますが、このことをさらに考えて行きます。


○折口信夫への旅・補説・その6

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

芸道の師弟関係において考えれば、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということです。そこには無慈悲に怒る神(父)と・それに黙って従う無辜の民衆(子)の関係が重ねられています。ですから、芸の師弟関係は血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係であると考えられます。

しかし、上記の考え方に、あたかもそのような考え方が中世期にもあったが如くに・近世的な芸の伝承のイメージを重ねて見ようとするならば大きな誤解を生じます。つまり、血の繫がり(実の親子関係)ということに重きを置いた見方のことです。小説「身毒丸」では師匠である源内法師が身毒丸を折檻したり、血書を命じて・何度もこれを書き直させる厳しい修行の場面が描写されます。敢えて出典を伏せますが、このような源内法師と身毒丸の関係は「芸の本質は血縁でしか伝承できないという考え方を乗り越えて、そこに血で繫がらない父と子の擬似関係を作り上げるということで、そこに同性愛的な肉体の交感が重ねられている」という趣旨のことを書いている論考がありますが、このような誤解は芸の伝承の出発点に血の繫がりを置くから生じるわけです。

そもそも「芸の本質は血縁でしか伝承できないもの」という表現が民俗学を研究する人からあたかも当然の如く出てくること自体が吉之助には不思議なのですけどね、まあマスコミなどが歌舞伎で「何代にも渡って芸の伝統を守る○○家」などという表現をよく使うものだから、それが芸本来の伝承の在り方であると思い込んでいるのでしょうね。歴史の 浅いアメリカ人などは○○代目などと言われるとビビルそうですが、英国人ならばそんなことはないでしょう。芸の伝承で血縁の重みなどを喧伝することは、それだけ現代における伝統のイメージが断絶しているということなのです。だから伝統芸能のあり方・世の中の考え方がとても保守的になるのです。しかし、当初の歌舞伎の精神である「かぶく(傾く)」という心はそもそも旧弊をぶち壊す・既存のイメージを破壊するということではなかったでしょうか。このような「かぶく(傾く)」という考え方は出雲のお国が出た徳川時代初期に突如として生まれたものではなく、もっとはるか昔の中世期の「バサラ(婆娑羅)」の気風などに発するのです。だから「かぶく(傾く)」という心はとても中世的な考え方なのです。そのようなかぶきの精神から始まった芸能が、世の中の枠組みが固まり始めた徳川時代初期に生まれたということが、歌舞伎の大きな不幸なのです。(そのことは別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的論考」をご覧ください。)

話を元に戻しますと、芸能における師弟関係を血で繫がらない父と子に擬するという認識自体は正しいのですが、その前提に血の繫がり(実の親子関係)を持ってくるから間違えるのです。ここには神と民衆の関係を置かねばなりません。注釈しますと、神道では神と民衆との関係を親と子に擬することを本来あまりせぬように思います。それをよくするのはキリスト教・その母体であるユダヤ教です。したがって折口はとても慎重な言葉遣いをしていますが、しかし、折口がそこのことを意識していることは明らかなのです。それは上記に引用した折口の発言のなかにも出てきます。ここで折口は「割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。」と言っていますね。神と民衆の関係のなかに神道とキリスト教の共通のイメージを見ようとしているのです。立場上はっきり言えないからぼかしているけれども、そのイメージで以って芸能における師弟関係を読もうとしているのです。しかし、それは折口が意図的にそうしているということではなくて、本来中世芸能における師弟関係というのは、人間対人間、一対一の関係であるということです。そこから神と人との対話が始まることになります


○折口信夫への旅・補説・その7

系図のことを英語ではFamily Treeと言うそうです。なるほど先祖を種として・そこから芽が出て・やがてそれが太い幹になり枝が伸び・さらに枝が分岐して樹がどんどん成長していく、そのようなイメージで 家系を捉えるのでしょう。 芸能の系譜なども同じようなイメージで考えられることが多いと思います。元の段階を踏まえて次の段階がある。原因があって結果がある。先代の芸があって、次代がこれを受け継いで・これを原型として少しづつ形を変えていくというような考え方です。そういう考え方は何となく科学的なイメージに見えますから、民俗学や伝統芸能の研究でも確固たる例証を踏まえて、だからAとBは類縁関係にある・だからBはAからの系譜であるという論証法が定式となっているのでありましょうね。まあそういう論証の仕方もありますけれども、Family Treeの枝をまったくはずれたところからポッと系譜を継ぐものが突然現れたりすることだってしばしばあるのです。あるいは接木のような形でまったく別の様相で本質が受け継がれることもあります。例証にこだわっている限り、そのようなものは捕捉できません。そうしたものを結び付けていくには想像力がいるのです。 民俗学の分野ではそういうことができたのは折口信夫だけでした。折口の手法は科学的ではなく感性的・直感的に見えるかも知れませんが・そうではなく、それはアナロジーという立派な科学的な手法なのです。

例えば折口の小説「身毒丸」ですが、折口はこの作品を高安長者伝説から最原始的な物語にかえした」ものだと言っています 。この折口の言うことをどのように理解すれば良いのでしょうか。この小説に謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」・はたまた浄瑠璃の「摂州合邦辻」の原型になるものがどこにあるのでしょうか。身毒丸は身分の 高い人物が落ちぶれたということではなく、ただの流浪芸人に過ぎません。天王寺も日想観も出てこない。継母も出てこない。もちろん邪恋もない。どうしてこれが 高安長者伝説の原初なのかと思うようなものです。それなのにこの小説から「弱法師」や「しんとく丸」への線を無理矢理引こうとする読み方が しばしばされてきました。原因から結果が直截的に引き出せると考えるから間違うのです。「芸の本質は血縁でしか伝承できないもの」なんて考え方も、そういうところから 起こる誤解です。源内法師と身毒丸との関係をホモセクシュアルなイメージで見ようとするのも、そういうところから来ます。 (まあこれは折口自身に責任がないわけではないですが。)小説「身毒丸」から枝を伸ばしたとしても、それが直截的に「弱法師」や「しんとく丸」につながるとは限りません。それらは雑多な・猥雑な要素をたくさん取り込んだなかで成立したもの だからです。それらは分枝され・接木され・幾多の交配を重ねられたなかで成立したものです。ですから、それらはもっと大きな括りでとらえていかないと、その本質をつかむことができません。

それならば折口が自分の小説「身毒丸」は高安長者伝説から最原始的な物語に返したものだと言っているのは、一体どういうことでしょうか。そのことは小説を素直に読むならば、はっきりしています。それは絶対の孤独ということです。結局、人はひとりで生まれて・ひとりで死ぬのだということです。 自分はどうして生まれて、どうやって死ぬのかということです。自らが生まれた意味への疑問と・その孤独感が人をさいなむということです。しかし、そのなかから一条の光が見えてくることがあります。それは何がきっかけになるかは誰にも分からないのですが、それがあるから人は生きられるというような一条の光です。それは希望とか救いのようにも見えますが、結局のところ、救いになるかどうかは分からないのです。物語の場合にはそれは大抵結末に置かれますから救いのように受け取られますが、結局のところは分からないのです。しかし、それがあるから人は生きられるというようなものなのです。折口が小説「身毒丸」で書いた ものは、そういうものなのです。文学・芸能の流れのなかで、それがたまたま謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」・あるいは浄瑠璃の「摂州合邦辻」のような物語になっ て現れたのかも知れませんが、それさえも幾多の過程を経て生まれたものです。ちょっと条件が変われば、それは如何様なる物語にも変容する可能性を秘めているのです。その物語誕生の過程については折口の語るところではありません。そういうものを無理矢理結びつける必要はないのです。折口は自らの民俗学説を裏付ける具体例として小説「身毒丸」を書いたわけではありません。そこのところが大いに誤解されています。折口の語る最原始的なイメージを素直に読み取れば、そこにあるメッセージがとてもシンプルに見えてくると思います。

(H23・4・16)


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