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吉右衛門の「馬盥」の光秀

〜「型」に心を盛り込む


1)「私には出来ません」

初代吉右衛門が「馬盥の光秀」(「時今也桔梗旗揚」)を初演したのは、大正6年(1917)7月の市村座でのことです。この舞台稽古の時にちょっとした騒動が持ち上がりました。 有名な光秀の花道の引っ込みについて、六代目彦三郎が吉右衛門の演技に文句を付けたのです。

彦三郎の言うには「成田屋(九代目団十郎)の伯父さんは吉右衛門のような引っ込みをしなかった」というのです。この「馬盥」の光秀の団十郎の引っ込みというのは、語り草になるほどの名演技と言われたものです。光秀が花道七三へ行くと奥で「 ご出座」の声がする。 ここで光秀はキッと奥を見込み、切髪の箱を左から右に持ち替え、ポンと箱を叩いて見得になります。ここでの団十郎は怒りを内に秘めて、「今に見ていやがれ」という心でしょうか、ニヤリと笑いはしないまでも、武将らしい気概を内に込め つつ勇ましく早足で花道を入るのが、見ていて気持ちが良かったと言います。

「まるで違うよねえ、成田屋の伯父さんはそうじゃなかったよ」と彦三郎は食い下がり、吉右衛門に演技の修正を執拗に迫ったのです。さすがに陰湿な芝居の世界でも皆が見ている場所でこういう悶着が起こることはそうはなかったようで 、それは異常な光景であったそうです。

彦三郎の父は五代目菊五郎、つまり六代目菊五郎の実弟であり物知りで有名ですが、さほどの名優というわけではありません。しかし家柄としては「いいとこの御曹司」であるし、何と言っても 市村座の大将格の菊五郎の弟です。これは明らかに「名門」の名前を鼻に掛けて、家柄の良くない・しかし実力はある吉右衛門をへこましてやろうというイジメでありました。しかも、ここで「九代目」を持ち出せば誰も反論はできなかったのです。周囲の者はただ黙ってこの事態を眺めているだけで、誰も吉右衛門を助け ようとする者はいませんでした。

それでも彦三郎は許さずなおも団十郎通りの引っ込みをせよと吉右衛門に迫ります。ついに吉右衛門は涙を流しながら、「私にはそうは出来ません」と言って彦三郎はじめ満座の人々に 土下座して謝って、自分の思うところの引っ込みを演じたのでした。

武智鉄二は、『ここで吉右衛門が彦三郎の主張に折れて九代目の型を演じていたとすれば、吉右衛門の生涯をかけての歌舞伎の見直し、歌舞伎を型から人間へという芸術的主張はそこで挫折していたはずである』と書いています。(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月)

2)吉右衛門の視点

この吉右衛門の逸話は、九代目団十郎の型が良いとか・悪いとかの問題を言っているのではありません。団十郎の残した型はまさに「 通り過ぎて行った箒星」でした。そのまばゆいばかりの輝きがその後を行く者を幻惑します。

別の機会に書きたいと思いますが、市村座の役者は「自分たちが団菊の伝統を継ぐのだ」という意識を持って演技をしてきた連中の集まりでした。 (別稿「市村座という伝説」をご参照ください。)まさに団十郎は彼らの「神」であったのです。団十郎に教わった通りに演っていれば絶対である、そんな雰囲気があったのでしょう。そういうなかで「お前の演っているのは成田屋の伯父さんのと違う」と言われるのは、それはもうその役者の 演技の全否定 に等しいものだったのです。

そこで言われた通りに団十郎の型通りに吉右衛門が演っていたとすれば、それは「団十郎と同じに演じております」ということでそれで通るし、ずっとずっと楽なのです。観客だって すんなりと納得 します。しかし、吉右衛門は泣いて抵抗した。「(その団十郎型は)私には出来ません」と言って、自分の思ったところを演じたのです。 もちろん吉右衛門は自己流の演技をしたわけではなくて、その演技はもうひとつの代表的な光秀の型である七代目団蔵の型をベースにしたものであったと思われます。

光秀の型は初演の五代目幸四郎から七代目団十郎を経て、九代目団十郎と七代目団蔵の二人に伝わりました。団蔵は七代目団十郎の高弟であり、九代目も一目を置いた名優です。団蔵の型は、引っ込みで花道七三まで来て「ご出座」の声が掛かると立ち止まって目をむく表情がもの凄かったといいます。このあとイヤイヤと思い直して歩き出すと、ここで鳴り物が入ります。ここで箱をポンと叩いて見得を切り、あとは早足で入ったそうです。

井原青々園によれば、団十郎の光秀は始終向こう、つまり愛宕山にある光秀の陣地に気が行っている。これに対して団蔵の光秀は舞台の奥、つまり小田春永のいる本能寺の奥に気が行っているといいます。演技の気の入れ方の方向が 違うわけですが、いずれにせよ光秀の、じっと怒りをこらえた無言の演技・そこにふつふつとたぎる謀反への前兆を感じさせねばならないわけです。

このように吉右衛門の光秀は団蔵の型をベースにしたものです。だからこそ「団十郎盲信」の彦三郎に噛み付かれたのでしょうが、しかし、吉右衛門は団蔵の型を そっくりそのまま演じたわけではありません。団蔵の型を借りつつも、これに近代的な視点を加えてまったく新しい光秀像を作り上げたのです。

吉右衛門の光秀の演技は、蘭丸に鉄扇で打たれ、満座のなかで昔貧乏していた時に妻の売った切り髪をもらったり・馬盥で盃を与えられたりして、度重なる恥辱を我慢に我慢していたものが花道七三でぐっと一度にこみ上げてくる、といった感じであったと言います。

そこには「主君・春永に理不尽に満座で恥をかかされたことに対する怒り」というのはもちろんあります。しかし吉右衛門の光秀の怒りは、そういうストレートな単純な怒りだけではな く、もっと屈折した・複雑な怒りなのです。その「恥」のなかに光秀のたどってきた境遇・人生の苦しみが裏打ちされて陰影をつけています。「ご出座」という声に一瞬その時の「恥辱」の感覚が蘇 って光秀はぐっとくるものの、むしろイヤイヤと思い直す・その場面に吉右衛門の近代的な人間解釈による視点があったに違いないと思います。吉右衛門の この場面には光秀の涙があったに違いない、と想像します。だからこそ吉右衛門は、この一点において団十郎型ではなく団蔵型を選択したのに違いないと思うのです。 そしてその型に自分の心を盛り込んだのです。

3)「そうかな、アタイには分からない」

幼い頃の吉右衛門のエピソードに次のようなものがあります。幼少の辰次郎(吉右衛門の本名)を芝居に親しませるために、父・三代目歌六は弟子の十郎を辰次郎のお相手につけました。その十郎と毎日お芝居ごっこをしながら、辰次郎は芝居のコツを身に付けて行きます。ある時、辰次郎は十郎にこう聞いたとい います。「十郎、お前と芝居をしているとこんなに面白いのに、どうしてお父っつあんのしている芝居を見てると、あんなに詰まらないのだろう。」

十郎はびっくりして、「そりゃあ、坊ちゃん、私たちのしているのは遊びだからですよ。」と答えました。「あんなの、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。アタイに芝居をさせようと思ったら、あんな人形の真似をさせないで十郎が芝居を買いておくれよ。十郎の芝居は、生きた人間が出て、我々と同じような事を言ったりして面白いよ。」十郎は困っただ ろうと思います。「そんな芝居は歌舞伎のように長続きなんかしないんですよ。すぐ飽きられてしまうんですよ。」辰次郎はしばらく考えてこう言いました。「・・・そうかな、アタイには分からない。」

『「そうかな、アタイには分からない」、この幼い一言が吉右衛門の一生につきまとって離れなかった、彼の一生を決定する大事なキー・ポイントだった。』、小島政二郎はその著書「初代中村吉右衛門」において、こう書いています。

小島政二郎:初代中村吉右衛門:講談社

「型」というのはそれを無批判的になぞっていても「それなりに」見えてしまうところが利点と言えば利点ですが、しかし、それではただの「人形」であって「生きている人間」ではありません。「型」を活かすためには、器である「型」にこころを盛り込まねばなりません。 それで初めて人間を描くことができるのです。

吉右衛門は幼い子供の時の疑問を一生持ち続けました。「そうかな、アタイには分からない」、まさに「型」が命とも言うべき時代物の名手と言われながら吉右衛門は、つねにその「型」が現代に生きる意味を考え続けてきたに違いありません。

『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」)

小宮豊隆のこの文章(明治44年)には、この時代の文壇・劇壇の自然主義リアリズムの風潮の匂いがプンプンとします。この時代にはイプセンやチェーホフが一世を風靡しました。時代に生きる人の気負いというか・「力瘤」のようなものも感じます。「近代化・西欧化」が時代の要請であったのです。 この時、小宮豊隆・27歳、吉右衛門・25歳。歌舞伎もそのような「時代の要請」に無縁ではいられません。吉右衛門自身はそのような演劇理念を明確に意識して演じたわけでもないのでしょうが、しかし、観客は吉右衛門の演技のなかに新しい時代の息吹きを見て感激したのです。時代そのものが持つ風潮というもののなかに、観客も 、また吉右衛門も時代に生きる人間として呼吸し・考えたということなのだと思います。

小宮はこの文章を書いてから大分たって、吉右衛門と面談する機会があったそうです。

『彼は「吉右衛門論」を拝見しましたと言った。分かったか、と私は失礼なことを聞いた。どうも難しくて分からなかった、分からなかったが有難かった、と吉右衛門は答えた。それが私には嬉しかった。もし分かったと言ったら、吉右衛門は嘘をついたのである。あの文章は他人に分かるはずはない。なぜなら私にもよく分からないのだから。・・(中略)・・( 私の「吉右衛門論」の文章は)吉右衛門の芸術から受けた感激をそのままべえべえと紙になすりつけた「詩」である。分からなかったが有難かったという言葉は、こういう種類の「詩」の作者が受け得る唯一の、そして最上の感謝でなくてはならない。』(小宮豊隆:「吉右衛門の第一印象」(大正11年)

(H14・9・15)

(参考文献)

小宮豊隆:「中村吉右衛門論」・「吉右衛門の第一印象」:(「中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)」に所収

盟三五大切 時桔梗出世請状 (歌舞伎オン・ステージ (9))

(付記)

写真館「初代吉右衛門の名舞台」もご参考にして下さい。
 

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