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三島由紀夫の歌舞伎観ーその共感と嫌悪


「みんな消えてしまったんだよ。誰も居やしない。僕の小説が舞踏会という名はついていても、その準備のための晩餐会の夜の叙述までで終わっているのを君は忘れたのか。あの書物に題なんか要るわけはないのだ。題名とあの書物との間には、白い頁と白い頁との間にあるようなふしぎな空間がある筈なんだ。その空間まで大勢の登場人物を追いつめて来て、その中へ一どきに突き落としてやって、それで小説はおしまいさ。僕は実に巧妙な殺人事件をやってのけたところだ。殺人者は自殺をしない。僕にはいずれ近いうちに死病が来るだけだ。僕が死んだって自殺の伝説なんて流行らせないでくれたまえよ。」(評論「ドルヂュル伯の舞踏会」昭和23年)

1)歌舞伎との出会い

三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは、学習院中等科一年(13歳)の時で、祖母と母に連れて行ってもらった昭和13年(1938年)10月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しでした。この時の配役は、十五代目羽左衛門の由良之助・勘平、六代目友右衛門の師直、十二代目仁左衛門の顔世御前・お軽などでした。少年三島は、花道近くの桟敷からこの芝居を見ました。

大序が始まり花道から不思議な人が出てきました。それは十二代目仁左衛門扮する顔世御前で、傍から見るともう皺くちゃ顔で、これが忠臣蔵という大事件の原因になる美人とはとても想像も出来ません。それが、いきなり声を出すので少年三島はびっくりして、よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気にとられて見ていました。この時、三島は「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」ということを子供心に感じたと後年語っています。(「国立劇場俳優養成所での特別講義」昭和45年)

それから昭和25年ごろまでの約十年間、三島は歌舞伎を「一生懸命に」見たと言っています。後年出版された「芝居日記(平岡公威劇評集)」によると、三島はこの頃、歌舞伎をほとんど毎月のように見ており、歌舞伎座だけでなく本所の寿劇場・渋谷劇場などの小芝居にまで通ってその感想をノートに几帳面に記していますから、これは相当な入れ込みようです。

少年三島は七代目宗十郎を贔屓にしていました。宗十郎は江戸時代から抜け出てきたような古いタイプの役者で、ねっとりとした艶を持ち草双紙に見られるような陰影のある容姿の役者でした。発声が悪くて一般受けはせず一時期は不遇でしたが、戦後はその古風な芸風が見直され、「宗十郎歌舞伎」という呼称さえ生まれたほどに珍重されました。三島は宗十郎について、「時代が亡びた後にただ一人生き残った顔、痴呆のように過ぎし世のかずかずの類型を無心に残したまま、もはや何も語ろうとしない、それだけにわれわれがほしいままな幻想と憧れを描きちらすことのできるその顔」と書いています。(「沢村宗十郎について」昭和22年)三島と宗十郎は一見結びつかないように思えますが、三島の言う「くさやの干物のような味」が宗十郎の芸に感じられたからに違いありません。

こうした三島の歌舞伎への傾倒は、祖母が三島を溺愛し、ほとんど男の子の遊びを知らないまま育ったという特異な家庭環境にも原因があるのかも知れません。遊び相手に男の子は危ないというので、お相手は女の子に限られ、遊びはままごとや折り紙・積み木ばかりであったといいます。祖母は鏡花を愛好し、母も文学少女でした。こうした環境下で、演芸画報や芝居のパンフレットなどを通じて三島は幼い頃から自然と歌舞伎への目を開かれていったものと思います。

若き三島を魅了した「くさやの干物の味」は三島の血に染み込んで、最後までそのなかに息付いていたように思われます。

2)三島文学のふるさと

三島由紀夫の文体については、「言葉がキラキラして一語の無駄もなく硬質の美に満たされている、しかし時に修辞が先走って登場人物までが作り物のように感じられ、工芸品の美しさのようにも見える」というような悪口がよく聞かれます。恐らくそのような悪口を聞いても三島は気にしなかったろうと思います。三島にとって文学作品とはまさにそうでなければならなかったのです。

例えば永福門院の「山もとの鳥の聲より明けそめて花もむらむら色ぞみえ行く」とう叙景歌を挙げて三島は、この歌に感じられるのは思想でも感情でも論理でもなく、情緒ですらない、一連の日本語の「すがた」の美しさであり、ここには一個の絶対的な美の規範がある、と言っています。これが三島の美学であったと思います。

さらに三島は昭和42年にインドのベナレスに行った時の思い出を挙げています。この時、三島は夫人同伴でインド政府に招かれ、アジャンタ・エローラ遺跡を見て廻り、公式日程を終えた後、三島は一人でベナレスを訪れています。聖ガンジス河のほとりで居並び水浴びをする癩病の乞食たちを見て、三島はそれは忌まわしい、恐ろしく、感覚を逆なでされる思いをしたと言っています。しかしこのような風景は日本でも中世では数多く、これほど大規模でなくても昭和初期までは似たような風景があったのです。その風景は謡曲「弱法師」を思い出させます。愛護若伝説の源を辿ってインドまでわざわざ行かなくても、あの「弱法師」の洗練は、眼前のこの汚穢のなかから素手でつかみ出されたもので、それが強烈な文化意志によって洗い上げられ、このような聖澄な能の舞台芸術に至ったことを示しているのです。だから、作品を味わう時に「われわれは癩者の乞食という現実の存在にまで下りていってはならないのだ」と三島は言っています。(「日本文学小史」昭和44年)

しかし三島はこう言いながらも本当は、ガンジス河のほとりで水浴びをする癩病の乞食たちに感じた忌まわしさ・恐れといった生な感情をわざと隠そうとしているように私には思われるのです。そうした生な感情にさらされているおののく自分・そしてそこに美の原石を感じて惹きつけられて行く自分を意識的に隠そうとしていたように思うのです。癩者の乞食という現実の存在にまで下りていき、民族の深層心理の底を探っていくこと、このことこそが実は三島を惹き付けてやまないことであるのに、三島は「それは私の美学ではない」と言い張っているように感じられるのです。

三島は別の機会にベナレスの体験について、「あんな恐ろしいものを見たことはなかった、すべての文化があそこから、あのドロドロとした、あれをリファインすると文化になっていくというその大元を見てしまったような気がして、こんな素をみたらたいへんだという感じがした」と言っています。(「文学は空虚か」昭和45年)三島は突然突き放されたような、「救いのない絶対の孤独」を感じたに違いありません。

癩者の乞食というような現実の存在にまで下りて行ってたどり着いたその民族心理の奥底に「文学のふるさと」があると私は思っています。もちろん「ふるさと」は文学の出発点ではあっても作家にとっての安住の地ではあり得ません。しかし「ふるさと」への意識・自覚がないとやはり文学は成立しないのです。三島がそのことを分かっていないはずはありません。優れた職人がその作品の手触りに苦闘や汗の痕跡を残さないように、三島もまたその創作の秘密と辛苦のさまをあからさまにするのを恥じるといったようなことであったかも知れません。

三島由紀夫の作品を読む時、そのなかに三島が生きた時代への共感と嫌悪が屈折した形で交錯してにじみ出てくるように思われます。そして時代への嫌悪が三島を割腹自殺へ追い込んだとも思います。そうした三島の意識の根底にはやはり「ふるさと」が意識されており、彼の時代に対する共感や嫌悪の感情はそこから導き出されているように思うのです。

そして三島にとっての「ふるさと」は、あの「くさやの干物のような味」のする歌舞伎にあったのではないでしょうか。世間が「三島の脚本は歌舞伎臭い」と言っているという批判に三島はこう答えてます。「それはそうさ、書いているうちに僕は時々観客席にいって座っている自分に気付いて驚くのだ、因果なものさ。」(「贅沢問答」昭和26年)

また三島は「生活に足るものには様式がなくてはならない」と書いています。年中行事・しきたり・礼儀作法・言葉遣い、そのようなものから突如として異常な情熱が立ち上がります。生活は様式によってこれを包み隠そうとし、情熱は様式に逆らおうとします。情熱と様式の間に生じる緊張が、様式をよみがえらせこれを高めます。観客は生活を代表し、俳優は情熱を代表しなければなりません。しかし現代のように観客の生活が無秩序になり様式が失われた時代には、精神が様式を要求し生活に秩序をもたらさなければならない、と言うのです。だから「僕の書く脚本は、悲しいかな、精神的なものになる。」(「贅沢問答」昭和26年)

これは三島の書く戯曲だけでなく小説についても言えることだと思います。三島は作家はその時代に秩序をもたらす「精神」の役を果さなければならないと考えていたようです。いきおい、三島の書く戯曲は精神的たらんとして様式化し、必然的に歌舞伎臭くならざるを得なかったのです。三島の書く小説も。そしておそらく作家自身もです。

3)三島が見た六代目菊五郎

「三島と歌舞伎」は六代目歌右衛門との出会いを抜きにして語ることは出来ません。しかしその前に三島の六代目菊五郎についての見方を見てみたいと思います。三島が自ら「一生懸命に歌舞伎を観た」と言っている昭和十年代から二十年代前半の歌舞伎界の頂点に立っていたのは六代目菊五郎だったのです。面白いのは三島が芝翫(後の歌右衛門)の魅力を書くときに、その文章の端々で六代目菊五郎を対比していることです。その部分をカットしても芝翫礼賛の文章としては破綻が生じないだけにそれはいささか唐突な印象を受けます。しかし三島としてはまず菊五郎を論じ、「だから自分は芝翫が好きなのだ」と言いたかったことはよくわかるのです。

菊五郎が政岡を演じるとき、「菊五郎は知恵ある観客と競争をしてみせる」と三島は言っています。菊五郎の政岡の感動は、「観客が政岡を観ることの感動ではなく、観客自身が菊五郎に倣って政岡を演じることの感動なのである。却って政岡という役は観客と演者との間に介在する魂のない土偶になる。」とまで言っています。(「中村芝翫論」昭和24年)

菊五郎は気が乗らないとすぐ芝居を投げるので有名でした。長年踊りでコンビを組んでいた七代目三津五郎は「寺島(菊五郎)は観客を相手に芝居をしているから」と言っていたそうです。そういう人であったので、菊五郎は自分だけが心得て工夫してやっていることを客が見抜くと大変喜んだといいます。

「菊五郎は要するに正面をきらない人だった。きれなくはなかったが、きりたくないのだ」と戸板康二氏が書いています。普通の役者が大きく二呼吸ほどの時間をかけて見得をするところを、菊五郎は一呼吸、あっという間に見得がきまってしまい、すぐ次の動きに移ってしまうというような見得であったといいます。それは旧来の見得の持っているある種の「くさみ」、観客が望んでいる見得の「つぼ」をあえて拒否するような行為でした。その菊五郎の演技の先には「近代的な芸術家」の姿がほの見えてきます。しかし菊五郎のもつ近代性の底の浅さに三島は鋭くメスを入れていきます。

「菊五郎の近代性というべきは、実はあまり根ざしの深くない現実主義、合理主義、自然主義などの、概論風な近代性であった。教科書を読めばわかる程度の近代性である。菊五郎の新しさはあくまで方法の新しさで、本質的な新しさではなかった。」(「新歌右衛門のこと」昭和26年)

菊五郎の時代にはまだ古い時代の雰囲気を濃厚に残した錦絵役者が生きていました。その中で歌舞伎役者としては映えない体型の菊五郎はそのハンデキャップを封じるために芸を心理の内面へ向けていきました。したがって菊五郎には対立すべき規範が先に存在しており、菊五郎はその持ち前の写実の芸を深めていく事で近代的に見えていただけなので、菊五郎の芸には本質的な新しさはないと三島は言うのです。そして、歌右衛門の役割は「菊五郎の近代性へのアンチテーゼ」だと言うのです。

4)アンチテーゼとしての歌右衛門

まず三島にとっての歌右衛門がなぜ「菊五郎へのアンチテーゼ」であるのかを考えてみなければなりません。菊五郎以後の世代にとって歌舞伎の古色はもはや死に絶え、かつての歌舞伎の規範は存在せず、ここで菊五郎の道を行っても道は平坦なだけだと三島は言います。だから役者は「ルネッサンス人になって、まず歌舞伎のあらゆる愚かしさを自らに課し、自分自身がオーソドックスになって、自分自身に対立し、そのうえで本当の新しさを発見」しなければならないと言うのです。(「歌舞伎評」昭和25年)

「中村芝翫論」(昭和24年)は贔屓役者の礼賛にとどまらず、三島の美学の秘密を解き明かすうえでも非常に興味深い評論です。三島は芝翫の美は「一種の危機美」にあるといいます。たとえば芝翫の雪姫が後ろ手に縛られたまま大きく身を反らせる、こうした刹那に芝翫の柔軟な肉体から「ある悲劇的な光線が放たれる」、それが舞台全体に妖気を漲らせるのです。芝翫の美には古典的均整のなかに「近代的憂鬱の入り混じったなにか」が潜んでいます。歌舞伎とは「魑魅魍魎の世界」であり、その美は「まじものの美」でなければなりません。また「その醜さには悪魔的な蠱惑」がなければなりません。そして歌舞伎の怪奇な雰囲気は「黒弥撒」に他なりません。芝翫の美はそのことを想い起こさせると三島は言うのです。

渡辺保氏が歌右衛門について面白い指摘をしています。たとえばスーッと手を前に出す振りがあるとします。梅幸なら、それをひとつの振りとして素直にスーッと出すでしょう。ところが歌右衛門だと、手を左右にくねくねとさせながら出す、そのアクセントのつき方で振りが三つにも四つにも見えると言うのです。部分部分が肥大化しそれがモザイクのようになって踊りを形成していきます。渡辺氏は「歌右衛門は梅幸のように伝統的な規範を信じることができないのだ」と書いています。歌右衛門の信じることのできるのは自分の肉体の生理的リズムであり自分の美しさだけです。しかし肉体の美しさははかないものであるから歌右衛門は肉体のはかなさから逃れようとし、美しさを確固とした実在に残そうとすればいきおい部分を細密に仕上げるほかない、というのです。(渡辺保:「女形の運命」)

こうした歌右衛門の演技術はある意味で三島の創作術と通じるところがあります。三島もまた同時代の規範を信ぜず、それゆえに自らの言葉の技巧を駆使して文章を細密化し飾り立てることで作品を宝石のように仕上げて見せたのではないでしょうか。だから三島は歌右衛門に自分と同質のものを感じて惹かれていったのかも知れません。

「今度の歌右衛門の特徴というべきは、あの迸るような冷たい情熱であろう。芝翫の舞台をみていると、冷静な知力や計算の持つ冷たさではなくて、情熱それ自身の持つ冷たさが横溢している。道成寺のごとき蛇身の鱗のつめたさがありありと感じられ、氷結した火事をみるような壮観である。芝翫の動くところ、どこにも冷たい焔がもえあがり、その焔は氷のように手を灼くだろうと思わせる。」(「新歌右衛門のこと」昭和26年)

5)歌舞伎への失望

三島が歌右衛門と初対面したのはかなり後のことで昭和27年11月のことでした。何度か誘われたにもかかわらず三島は「舞台の幻影がわずかでも崩れるのが怖さに」対面を拒んできました。そして「扮装のまま」というのを条件にしてやっと会うことにしました。。それで折りしも上演中であった「忠臣蔵」のお軽の扮装をした歌右衛門に三島は初めて対面したのです。そして、「却って幻影は強固になり正確になった、僕が丈の内部に想像したものは今は滅びた壮大な感情の数々、婦徳や嫉妬や犠牲や煩悩や怨恨の、今の世に見られない壮麗な悲劇的情熱の数々であった」(「歌右衛門丈のこと」昭和27年)

歌右衛門との対面を契機に、三島は歌舞伎作品の執筆に意欲を燃やします。三島は歌舞伎作品を8本書いていますが、そのうちの5本までもが歌右衛門のために書き下ろされたものです。まず最初が「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)でした。このほか新派のために書いた「朝の躑躅」(昭和32年8月)という作品もありますが、これは「鹿鳴館」の影山朝子を新派で演じたいと望んだ歌右衛門のために特に書き下ろしたものでした。あとの3本の歌舞伎作品は柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)と「椿説弓張月」(昭和44年11月)です。(「弓張月」までに約十年の空白があることにご注目いただきたい。)

たとえば「鰯売恋曳網」は喜劇的な要素をもつ軽い世話物であり、「芙蓉露大内実記」は義太夫入りの悲壮感のある時代物です。現代人が歌舞伎を書けばどうしても新しい感触のものになりがちだと思いますが、三島の作品はいずれも伝統的な歌舞伎のスタイルをよく踏襲しており、その出来は古風で天明期あたりの歌舞伎を思わせる見事なものです。谷崎潤一郎は歌舞伎の美を「白痴美」と言いましたが、三島は開き直ったようにその「白痴美」を逆手にとり歌舞伎の様式美を徹底的に追求しています。

三島の歌舞伎作品にはそれぞれ典拠があり、おそらく三島はまず筋立てと役柄を見極め、観客席にいる自分を感じながら自分の夢見る「くさやの干し物の匂いのする歌舞伎」の再現をめざして作品を書いたのだと思います。三島は「地獄変」は面白半分で書いて「鰯売」はもう十分に手にはいったつもりで「大内実記」はもう凝りに凝り、それで大体限界が分かってつまらなくなった、と語っています。(座談会「三島由紀夫の実験歌舞伎」昭和32年)この発言の後にも「帯取池」を書いていますが、このころから歌舞伎と次第に疎遠になっていったように思われます。

それから約10年ほど後、三島は最後の歌舞伎作品「椿説弓張月」を書き上げ、自ら演出も手掛け幸四郎の為朝などの配役で上演しました。しかしこの上演は三島に割り切れないものを感じさせたようです。武智鉄二氏との対談で、「なんか剛健なものというのは何もなかったような気がする、悲しかったね、僕の力が足りないと言えばそれまでだけど」と語っています。それに対して武智氏は、「あれはおかま歌舞伎に殺されているんです、三島さんの歌舞伎は地獄変のときと弓張月とでは全然変わっているわけです、つまり武道化しているんですね、だけど役者の観念は三島歌舞伎はおかま風でいいと固定してしまっているんです」と答えています。(対談「現代歌舞伎への絶縁状」昭和45年)

三島さんは「弓張月」では武道化しているという武智氏の指摘は重要です。「弓張月」の稽古で玉三郎が琴を弾く場面で「キュッと面を切れ」と言ってもどうしてもできない、どうしてもグニャグニャとなってしまう、と三島は不満を言っています。武智氏はこれを「息がつんでないから、それでお腹に力が入らないから、パッととまらないんです、女はグニャグニャしてると思ってる、これは先入観だな、剣道をやらせればよかった」と言っています。三島は「息をつむ」という修練を剣道で積んだと思います。そうした一連の経験から三島の歌舞伎観は、従来の「くさやの味」を保ちつつも、もう少し質実剛健なモノセクシャルなものに変化させていったと思います。しかし現実の歌舞伎は三島に応えてはくれなかったのです。三島はこのとき「弓張月」を文楽に書き直しているところだと語り、「文楽だったらいいでしょうね」と語っています。

このあと三島は、「まあ、ぼくは歌舞伎すら滅びたっていいと思うんだ。お能が残れば。」・「芸術というのは、くたびれちゃうものなんだなあ。」とまで言うに至るのです。(演劇評論家尾崎宏次との対談・昭和45年7月)

6)絶筆・文楽「椿説弓張月」

三島作品は戯曲でも小説でもそうですが、文章が流麗なリズムに裏打ちされており、それにより言葉がキラキラと輝き文体効果を上げていると思います。しかし同時に文体が必要以上に装飾され簡潔さがないのが三島の文体の欠点であったかも知れません。

武智鉄二氏は次のように指摘しています。たとえば近代能楽集「綾の鼓」の華子の科白「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」を挙げると、これを待謡として謡のフシをつけて処理しようとすると冗長で冗漫な感じがする、謡の文句としては「私来ました、あなたが来いとおっしゃったから」で十分なのだというのです。これは武智氏が日頃からよく言っていることで、歌舞伎が「・・じゃわい」とか「・・であるわいな」とかいってフレージングを長く引き伸ばし、結果として言葉が観念的に弄ばれ虚弱化することを武智氏は嫌います。そこで武智氏は三島との対談で「浄瑠璃作品の科白というのは煮詰めて書いてある、三島さんと逆なんだ」と言っています。それに対する三島の反応は「またあんなことを言っている(笑)」といって弱々しいものでした。しかしあとで武智氏はこの対談でこの会話が一番印象に残ったと言っています。

三島の絶筆となった「檄」はその内容はさまざまな視点から論じられていますが、三島の「文学作品」としては評価されていないようです。あるいは評価することをはばかるという風潮が今もあるようです。しかし武智氏は三島の晩年の浄瑠璃文芸への傾斜が必然的に「檄」の文体に影響を与えているのではないかと指摘しています。

「三島文学についてよく言われる華麗とか豊潤とか呼ばれるレトリックも、実は歌舞伎伝来のおかま芸的要素を包蔵しているかも知れないのである。雄渾、簡潔、そして含蓄の辞は新たな三島文学の、文体論的な、行動論理となっていたかも知れないのである。そのきわめて性急なあらわれが「檄」の文体だったと思えるのである。」(武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」)

三島が晩年に精魂かたむけた仕事は小説「豊穣の海」四部作の完成と、あまり知られていませんが歌舞伎「椿説弓張月」を文楽に書き直すことでした。その「上の巻」はもともと丸本歌舞伎の体裁で書かれていますから、書き直すのにさほどの苦労はなかったと思います。しかし「中の巻」は 義太夫の入らない南北調で書かれていますから根本的に書き直さないとそのままでは文楽になりません、文楽化は難航したと思われます。

「上の巻」の決定稿が作曲担当の野沢松之輔に届けられたのは昭和45年10月21日のことでした。そして4日後の25日があの「事件」の日でした。三島の死後、「中・下の巻」の遺稿はないかと話題になりましたが、結局原稿は見つからなかったようです。三島は「決起」にあたって「豊穣の海」を仕上げ、それとなく友人に別れを告げるなど、身辺整理を見事につけて逝きました。その三島がなぜ文楽「弓張月」の完成を待たずにそのままにして去ったのか、それは今もって謎のままなのです。

(参考文献)

引用した三島作品については文中に文献名を記しました。なお、全体の文の論理を整えるため適度に文章の語句を入れ替えました。その他の参考文献は下記のとおりです。

武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」

中村歌右衛門・織田紘二:聞き書「三島歌舞伎の世界」

川島勝:「三島由紀夫」

渡辺保:「女形の運命」

戸板康二:「六代目菊五郎」

*別稿「三島由紀夫の歌舞伎観・補遺ノート」もご覧下さい。

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