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二代目市川左団次について

*「吉之助の雑談」での二代目左団次関連の記事をまとめました。


○二代目左団次・必死の洋行

二代目左団次についてはいずれメルマガでも取り上げるつもりですが、取材がてら、その周辺を「雑談」でも載せたいと思います。

左団次が松居松葉(しょうよう)とともに西欧の演劇を学ぶために洋行したのは、明治39年(1906)12月から翌年8月までのことです。この時、左団次は27歳。明治37年に父・初代左団次を亡くし、若輩の身で明治座を引き継いで2シーズンを経たが、前途は厳しい。そんななかでの洋行は、イメージ的には「逃避」という感じ に見えたのかも知れません。

明治40年2月に出版された森暁紅(ぎょうこう)の「芸檀三百人評」を見ますと、左団次の項には、『無事二興行御片付けのうえいよいよ劇道視察としてご出発なされ、今頃はもうせいぜい亜米利加っ子とお成り遊ばしてのことなるべく、お髭もたいぶ伸びたこととお察し申し候。ここにちょっと御願い申し置き候は照り焼きをソースで食うような名人となってお帰りなさらぬ様その事に候』と書かれています。 全然期待されていないというか、揶揄嘲笑という感じですね。当時の左団次の洋行はそういう捉え方をされていたのでしょう。

洋行した左団次は松葉のガイドでフランス・イギリス・ドイツ・イタリアなどを周遊して(最後にアメリカを経由して帰国)、片っ端から芝居を見て回ります。夕方ある町に着くと その晩に劇場で芝居を見て、よく朝は次の町に移動して、またその晩はそこの町の劇場で芝居を見るというような旅であったそうで、風景・名所旧跡などは全然見ていない、と左団次は回想しています。さらに演劇学校に行って演技の指導をしてもらったり、名女優サラ・ベルナールに会ったりもしています。まさに西洋演劇漬けの旅行であったわけです。(小山内薫・「演劇新潮」での左団次との対談による・明治41年出版)

言葉を知らない左団次がどういう風に芝居を見たかというと、劇場に入る前に松葉に脚本を読んでもらって、大体の筋を理解してから芝居をみたそうです。そして、芝居を見ている間は、松葉とはお互い口を利かないという約束をして芝居を集中して見たそうです。筋を理解したあとは、自分の俳優としての感性だけで舞台から伝わってくるものを必死で吸収・理解しようとしたということでしょう。

なるほど自由劇場での翻訳劇上演や・数多い新歌舞伎の上演など、後の左団次があるのはこの「必死の洋行」あってこそなのだ、と思わずうなってしまいました。しかし、左団次も凄いですが、ガイド役の松葉も凄い人物だと思いますね。

(H15・1・12)


○二代目左団次・必死の洋行〜サラ・ベルナールの印象

明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談から。(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

「サラ・ベルナールに、あなたはイギリスの芝居をどう思います?と聞きますと、ベルナールの答えるには、イギリスの芝居は荒削りでいけませんと申しますから、何故だと聞きましたら、イギリスの役者は稽古を60日か70日しかしないからと申しました。」
「して見ると、自分はそれ以上やるんだね。」
「それで私も、それじゃあなたは幾日いくらいやるんですと聞いたら、大抵150日くらいはやりますと言っていました。6・70日の稽古で荒削りなら、日本の役者の稽古なぞは、まるで木材をそのまま転がして置くのと同じです。稽古の一事を以っても、西洋の役者がどのくらい芸に熱心だか分かります。」

・・・・・・・・・

「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
「巧かったかね。」
「声のいいのには、実は感心しました。」
「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」

ここで「腹から声を出す」ということを左団次が言っておりますのも、非常に興味が引かれます。これなども、六代目菊五郎とはまったく違うルートから(菊五郎の場合は「九代目団十郎の肚芸」から)「息を積む」修練のヒントを得たのであろうと感じるのです。 この件については、いずれ機会があれば考えてみたいと思います。

(H15・1・15)


○二代目左団次の洋行・その3:歌舞伎役者の目

再び、明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談から。(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

「(「ノートルダム・ド・パリ」(ユーゴー作)の舞台を見て)何しろ大芝居なのには驚きました。ほとんどツケを打たぬばかりでした。坊さんのクロウド・フロロがエスメラルダを口説いて刎ねられた後、一睨み大きく睨んで引っ込むところなどは大芝居でした」
「一体西洋の芝居は幕切れが非常に良いね。」
「そうです、ほとんど木を打たぬばかりです。ちゃんと何処で幕を下ろすという型が極まっているのです。」
「日本の芝居の幕切れには木を打つが、木を打っても一向クギリのつかないのが多い。西洋の芝居の幕切れは木こそ打たないが、ちゃんとクギリがついているように思うがどうかね。」
「本当にそうです。」

この頃の西欧演劇はイプセンの芝居が一世を風靡していた時代ですから、 現代のロンドンやパリで見られる舞台とはかなり違う感じです。左団次の感想を見ると、私たちが思い描いている西欧演劇のイメージよりずっと芝居掛かっている(つまり写実的であるというより様式的に近い)・意外と歌舞伎に近いものがあったようにも思われます。

私たちは、明治時代に西洋演劇の思想が日本に流入してきて・いわば水のなかに油が入り込んできたような印象を持ちがちです。それはなるほど当時の歌舞伎役者にとってショックではあったのでしょうが、しかし、現代から見ると別の見方もできるように思われます。若き左団次は歌舞伎役者としての目で、西洋の舞台のなかに「歌舞伎が進むべき道」のヒントを確かに見た、と感じるのです。

ここで左団次が感心した「西洋の芝居は幕切れがいい、ほとんど木を打たぬばかりだ」という点は、非常に面白いと思います。その後に左団次が初演した作品群を見ますと、その感想が活かされているように思えます。

(H15・3・8)


○作品と時代・役者と時代

メルマガ第91号では「真山青果と二代目左団次」を取り上げております。演劇に限らず、音楽でも絵画でも・すべての芸術作品はそれが成立した時代の空気と無関係ではあり得ません。その作品の生まれた時代を 知れば、その作品の本質をより深く味わうことができます。

また歌舞伎の場合は作品と役者とがより深く関連していますから、作品から役者を知ることもできますし、また役者から作品を読むことだって可能になってきます。初期の黙阿弥は四代目小団次と切り離して考えることはできません。活歴と九代目団十郎との関係も同様に考えられます。

メルマガでも触れた二代目左団次の「突然の泣き」について、それは「左団次の役になりきれない・感受性の乏しさから来る」、と書いてある論文(筆者名は伏す)がありました。ホントにその通りであるならば、左団次を論じる価値などありません。ホントにそうならば、明治・大正の新歌舞伎運動は逍遥・綺堂や青果ら・作者の側からのみ論じられれば良いのです。そして、たまたま初演の光栄にあずかった「下手な」役者として左団次の名前を付せば良いのです。

だが、それは絶対に間違いです。作者も・そして観客も、そんな魅力のない役者から決して触発されることはなかったでしょう。そんなことは左団次の実際の舞台を見ていなくたって分からなければなりません。

左団次の芸の何かが作者を・観客を触発したのです。青果も左団次も・そして観客も同じ時代の空気を吸い、そしてなにか同じものに突き動かされたのです。時代を共有する者たちだけが持つ何か大事なものがあるのです。左団次はそれを 確かに持っていたのです。だからこそ「大統領!」という掛け声さえ掛かったのです。それが一体何なのかを追い求めることこそが、演劇史を考えるときのポイントです。

それが分かってくれば、当代猿之助がやろうとしていることの意味・あるいは玉三郎・勘九郎の魅力も分かってきます。彼らの挑戦もまた「平成」という時代と切り離すことはできないのですから。

(H15・1・23)


○新作歌舞伎のヒント

メルマガ146号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その4:二代目左団次の革新」は「かぶき的心情」という個人の意識・アイデンティティーの主張に「社会」という方向性が与えられたのは明治後期のことで、これによって江戸の「かぶき的心情」は新歌舞伎として再生したということを書いています。

「深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。」 (坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

逍遥の言葉からは、いかにも肩に力が入った・時代は俺が作るというような気概を感じます。当時の日本人はみんなこんなところがありましたね。この逍遥の言葉が、新歌舞伎を創った人々の気持ちをよく表しています。この歴史的経緯からしますと、現代における新作歌舞伎のテーマも「かぶき的心情」に採った方が歌舞伎の様式に自然にフィットするのではないかと考えますが、如何なものでしょうか。

「二代目左団次の革新」でも触れましたが、明治30年代の雰囲気というのは意外にも・この平成の時代に似た様相を呈しています。現代は何でもできる権利と自由が与えられているはずなのですが、若者が何もやる気が起きない変な時代です。村上龍氏は小説「希望の国のエクソダス」において「この国には何でもあります。だけど希望だけがない。」と書いています。その一方で個人に尊厳を奪う何ものかの脅威がひたひたと感じられる時代です。9・11テロはそのことを身が震えるほど感じさせられた瞬間でした。ちょっと視線を動かせばこの世には不公平と不条理が満ちているのです。そこから目をそらして・せいぜい50センチ四方の世界の中心に閉じこもっていては仕方ありません。

野田秀樹氏の「野田版・研辰の討たれ」・「野田版・鼠小僧」はそれぞれ木村錦花・黙阿弥のオリジナルをよく生かし・最後にちょっとペーソスを利かすという趣向でうまくお芝居に仕立てているのはさすがです。しかし、私の好みもありますが・ドタバタと駄洒落がうるさ過ぎで(その饒舌さが現代的だということは 確かに言えますけどね)、幕切れのペーソスが芝居のオチのために・取って付けたようにも感じられました。

これら野田作品が「歌舞伎なのか」という議論は私は意味のあるものと思いません。言い方は変ですがあれでも歌舞伎だと思います。歌舞伎は何でも取り込んじゃう結構懐の深い演劇なのです。しかし、さらに もっと歌舞伎的であろうとするならば、あれをペーソスで終わらせたくないと思うわけです。憤懣・いらだち・懐疑にまで持っていきたいのです。その取っ掛かりは野田氏のお芝居のなかにもあるのですが、もっと「平成のかぶき的心情」に熱くなって欲しいと思うのです。そこまで行ってこそ野田秀樹が歌舞伎に挑戦する価値があると言うものではないかと思いますが。「二代目左団次の革新」にはそのヒントがあると思います。

(H17・3・7)


○二代目左団次の旋廻走法

メルマガ146号「九代目団十郎以後の歌舞伎・その4:二代目左団次の革新」では、二代目左団次の新歌舞伎について考えています。岡本綺堂の「番町皿屋敷」は大正5年 2月本郷座において、左団次の播磨・二代目松蔦のお菊のコンビにより初演されました。この芝居の最後で播磨はお菊を斬殺して井戸に投げ込んでしまいます。この場面はちょっと非情に過ぎるようで主人公に対する共感を呼びにくいところがありますが、 しかし、これは「播州皿屋敷」の趣向を借りているわけですから・お菊を井戸に投げ込まないと「皿屋敷」にはなりません。この芝居は「新釈・皿屋敷」なのです。死骸を井戸に投げ込んでしまうということは、その井戸はもう使えないということを意味します。つまり、最愛の女性を殺してしまった今・播磨はもう生きているつもりはない・青山の家を潰す気でいるということを示しているのです。

そこへ旗本奴と町奴の喧嘩の知らせが入ります。播磨は長槍を持って駆け出し、本舞台から花道へ勢いをつけて・旋廻走法で揚幕へ一気に駆け入ります。こういう遠心力を付けた走り方はそれまでの歌舞伎にはないものでした。これは左団次が西欧で学んだものと言われています。それではこの旋廻走法は、マッチョで体育会系の役者左団次が見せた奇をてらった走法なのでありましょうか。それが観客に新鮮な驚きを与えたと、ただそれだけのものなのでしょうか。そうではないでしょう。

旋回運動とは何でありましょうか。物体がある方向へ飛び去ろうとする時、その物体を引く・別方向の力が働くと、その物体はその力の方向(中心)へ向けて曲がり・放物線を描くのです。それが物理学の法則の教えるところです。播磨は喧嘩へ駆け出そうとしながら・井戸のなかのお菊に引かれているのです。これはお菊が播磨を呼んでいるとも 言えますが、播磨の心にあるお菊への未練な想いが彼を井戸の方へ引くわけです。これを形象化したのが左団次の旋廻走法です。播磨はその場でお菊の後を追って死んでしまいたいほどなのですが、その気持ちを振り切って死地に赴くのです。なぜなら彼は男のなかの男・旗本奴であるからです。だから、左団次は駆け出す前に・ぐっと息を詰めて井戸のお菊の方向を 一旦にらみつけるように見やり・お菊への想いを腹に詰め・それを振り切るように一気に揚幕に向けて駆け出したでありましょう。そして播磨は 井戸のお菊に引かれつつ放物線を描きながら走り去るのです。左団次は見事に作品を解釈しているとお感じになりませんか。

(後記)別稿「散る花にも風情がある」もご参照ください。

(H17・3・12)


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