(TOP)            (戻る)

六代目菊五郎とその時代


1)団十郎の魂

『あの人(市川新蔵)がいたならば、団十郎の家のものはもっとちゃんとしたものが残りましたよ。「助六」でも「勧進帳」でも、おそらく団十郎のしたものは全部。「五郎」にしても「清正」にしても「熊谷」にしても「河内山」にしても、今のようなでたらめなものではありませんよ。(中略)本当の団十郎の性根をつかんでいるのは新蔵と六代目(菊五郎)だけですね、私の見た役者では。ですから不幸にして菊五郎が五代目菊五郎の子であって、「魚屋宗五郎」や何かがはまって「熊谷」なんかができないで、これは不幸なんだが、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますね。新蔵も性根をつかんでいる。本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎と新蔵しかいない。強いて言えば死んだ(五代目)歌右衛門でしょうね。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね、そう思いますがね。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

明治の名優たちの舞台をこの眼でみた劇評家・遠藤為春の聞き書きです。ずいぶんと厳しい言葉ですね。ここで名前の挙がっている五代目市川新蔵は九代目団十郎の弟子で、大向こうから「十代目!」の掛け声が掛かったほどの腕利きでしたが、若くして病気で亡くなりました。六代目菊五郎については申すまでもありませんが、菊五郎は若い時に茅ヶ崎の団十郎の家に引き取られて、団十郎からみっちりと芸を仕込まれました。男の子がなかった団十郎は、菊五郎をその後継者に と心ひそかに思っていたのかも知れません。 しかし、「不幸にして」(と遠藤為春は言っていますが)菊五郎の仁は時代物ではなくて、どちらかと言えば世話物と舞踊の方でありましたから、 菊五郎はそちらで団十郎を継いだと言えるのかも知れません。

この遠藤氏の言葉は団菊爺ぃの繰り言のようにも聞こえましょうが、ちょっと耳を傾ける必要がありそうです。遠藤氏の言いたいことは、九代目団十郎の芸の規格・魂を継いだのは 結局は六代目菊五郎だけであったということ、 そして、六代目の息の掛かっていない九代目の芸はどこか崩れたものになってしまった、ということの2点です。その崩れてしまった悪い例として遠藤氏が挙げているのが、七代目幸四郎の「勧進帳」あるいは十五代目羽左衛門の「助六」です。

『団十郎のものというとどういうものか大抵崩れてますな。(五代目)菊五郎のものの方は割と崩れてませんね。これは、やっぱり六代目(菊五郎)のせいでしょうかね。団十郎のもので今完全に残っていると思うものは一つもないって言っていいかも知れませんね、形だけは似てますが。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

2)明治における九代目団十郎

歌舞伎の「型」という概念はもちろん昔からあったものですが、歌舞伎が時代と共にあり・風俗・生活がそっくりそのまま芝居にできたた時代においては、「型」というものはあまり意識がされなかったと思います。何をやってもそれは歌舞伎になったので す。もともと歌舞伎というのは、そういう懐の深さを持っている演劇だと思います。

しかし明治になって、人々がチョンマゲを止め・帯刀を止め、そして洋服を着るような機会が出てくると、歌舞伎は少しづつ時代との間にすきま風を感じさせるようになっていきます。「型」というのは、そういう時において次第に強く意識されてくるのです。

義太夫においても「風(ふう)」ということが言われるようになったのは明治になってからのことで、それは杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」(大正15年出版)によって 世間に知られるようになったものです。もちろんそれまでにも「風」という概念はあったのですが、公に言われることはほとんどないものでした。

明治36年(1903)に九代目団十郎が亡くなった後の歌舞伎界の状況は、我々の想像もできないほどにお先真っ暗のようであったようです。『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』と伊原青々園は、 その著書「団菊以後」で書いています。

井原敏郎(青々園):団菊以後 (1973年) (青蛙選書)

団十郎の葬儀では、驚いたことに壮士劇の川上音二郎が弔辞の役に自ら名乗りを上げて・音二郎はボロボロと涙を流しながら弔辞を読み上げた そうです。団十郎は歌舞伎だけの存在ではなかったのです。「明治における九代目団十郎」というのは、単なる「名優・名人」というのをはるかに越え た象徴的存在であったことが分かります。

これほどまでに周囲 が思い詰めるというのは尋常ではありません。これは団十郎がそれほどの名優であったこともありますが、次第に江戸の風俗が消えていって洋風化されるなかで(それでも現代と比べればまだまだ ずっと「江戸」が残っていたわけですが)、歌舞伎がなくなっていくことの危機感がそれだけ強かったということなのです。そういう危機的状況において、「型」というものの意味が重くなっていくわけです。

「型」というのは、それでなければ歌舞伎ではなくなってしまうような、逆に言えばそうやっていさえすればとりあえず歌舞伎に見えるような「拠り所」であり「道しるべ」です。そして、団十郎というのは、次の世代にとっての精神的な「拠り所」であり、「道しるべ」であったのです。まさに江戸時代に発した歌舞伎は、そのすべての流れは九代目団十郎に集約されていき、そして、また九代目団十郎に発するのです。(もちろんそこで断ち切られた流れも考えてみなければなりませんが、今はそのことは置きます。)まさに歌舞伎の九代目団十郎というのは、音楽で言えばバッハ・文学で言えばゲーテ・哲学で言えばカントに比せられる ような巨大な存在であったことが分かります。

自分たちが「団菊」を継ぐのだという意識を持った集団であったのが、名興行師・田村成義に指導された二長町・市村座の若手俳優たちであったということは、別稿「市村座という伝説」において考えました。

「皮肉を言うと、天才だけだったら残らないんです。天才をなぞって、これが菊五郎の型でございますと。そうすると自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす。六代目はこうやりましたと。これが金科玉条になる。だから伝承というものは高度な天才では伝承できない。それは通り過ぎていった箒星みたいなものだよね。」(郡司正勝インタビュー:「刪定集と郡司学」:「歌舞伎〜研究と批評・第11号」)

これは郡司先生のちょっと皮肉交じりの言葉ですが、この発言の「(六代目)菊五郎」を「九代目団十郎」に置き換えれば、そのまま当時の市村座の雰囲気であったかも知れません。まだ芸の修行もこれからの若手たち、六代目菊五郎・初代吉右衛門・七代目三津五郎・十三代目勘弥・六代目彦三郎といった人たちは、とにかく「九代目(団十郎)と五代目(菊五郎)の小父さん のやっていた通り」にやればなんとかなる、と信じてやってきた人たちなのです。時には九代目と違ったことをやろうとすると、それだけで喧嘩になってしまう・そんな雰気があったのかもしれません。(別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」を参照ください。)

ここで六代目菊五郎の今日的な意味を明確にしておく必要がありそうです。 菊五郎は、「型」の崩壊の危険にさらされる現代の歌舞伎に「規範」を与えた役者でありました。その「規範」は九代目団十郎・五代目菊五郎の芸の骨格を引き継いだもので した。この「規範」を守り抜くことによって、時代から遊離し 始めた歌舞伎は自らを守ったのです。

面白いと思うのですが、九代目団十郎自身には「俺が規範だ」とか「後世の定本になる演出を残そう」いうような意識はなかったようです。「勧進帳」の演じ方も団十郎はやる度に変えて いますから、もし団十郎が長生きしてもう一回「勧進帳」を演っていたとしたらまた違ったことを演っていたに違いありません。ということは、団十郎を「規範」に祭り上げたのは 、他ならぬ・六代目菊五郎たち・市村座の役者たちではな かったでしょうか。

明治という時代のキーワードは「西欧に追いつけ」ということでした。列強の侵略に押し潰されないためには何よりもまず西欧文化の吸収が急務であったのです。だからそれを阻む ような旧来(江戸時代)の慣習・伝統は否定されました。江戸の昔を懐かしむ、などということは本心にあっても公には言えない時代であったのです。演劇においても、歌舞伎(旧派)に対して新派が勃興した時期です。五代目歌右衛門でさえも新派をやろうとしたり、二代目左団次が「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(イプセン作)を上演したりしています。

このような時代に名興行師田村成義は市村座において、あえて旧守の姿勢をとったのです。 それは時流に意識して背を向けたということではなく、田村成義は団菊(九代目団十郎・五代目菊五郎)において示された「規範」に立ち返ることで新しい時代の歌舞伎の規範を作ろうとしたのです。 きちんとした形で演出・演技を整理して引き継いでいけば、必ず歌舞伎は生き残る、といった確信のようなものを感じます。 それは、菊五郎たち・市村座の役者たちがまだまだ若くて、しかもすでに「お手本(師匠)」が目の前にもういない不幸な状況であったこともありましょうが、やはり、歌舞伎が時代から遊離し始めたことの危機感がそうさせたということでしょう。 あるいは、「団菊の規範・ご威光」にすがらないと自分たちを守れなかった、という危機感であったかも知れません。

3)息を詰めるということ

ところで菊五郎は最初から名優であったわけではなくて、若い頃、市村座で次第に頭角を現してくる・ある時期(三十歳くらいまで)までは芸の低迷期というのか、必ずしも評判のいい役者ではなかったようです。武智鉄二は次のような説を唱えていました。明治36年に団菊が相次いで没してから、菊五郎が芸の真髄を会得するまでのある期間まで歌舞伎の暗黒時代が存在した、その間しばらく、歌舞伎には正しい伝承が途絶えた、というのです。 (武智鉄二:「歌舞伎の暗黒時代」・昭和23年)

歌舞伎に本当に暗黒時代があったのか、これは分かりませんけれど、 「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、こういう雰囲気が現に世間にあったのだとすれば、団菊没後の歌舞伎界の沈滞期はやはりあったに違いありません。 その沈滞期を破ったひとつの現象が「二長町・市村座」であったのかも知れません。 (もうひとつの現象は、二代目左団次による演劇運動だったと思いますが、これについては別の機会に考えることにします。)

菊五郎が芸の真髄を開眼会得したきっかけは、武智鉄二の推測するところでは、それは大正4年7月の帝国劇場での「髪結新三」であったろう、ということです。

この時、家主長兵衛(四代目尾上松助)が 「十五両で済ませるか、召連れ訴へをしようか、サアサアサア、オイ新三、どうするのだ」というところで、松助が股を割った立ち身のままグングンと迫ってきたので、菊五郎の新三は思わず引いてしまったのだそうです。幕が終った後、松助がその部分について菊五郎にこう注意したそうです。「あそこで体を引いてはいけません。新三と家主の顔がぴったり合うくらいにこたえていて、新三が溜息をついて「俺もよっぽど太てえ気だが、大家さんにやァかなわねえ」と言うまで、大家の方もグッと息を詰めて充分張切っていなければ、決してうまくはいきません。」(六代目尾上菊五郎の芸談集「芸」から)

武智鉄二によれば、この松助のアドバイスによって菊五郎は「息を詰める」ということに開眼したのであろうということです。松助の気合いに対して思わず身をひいてしまったということは、当時の菊五郎は息を詰めるということをできていなかった、ということは確かです。

この話が面白いと思うのは、もう少し後の大正11年(1922)にアンナ・パヴァロヴァが来日して「瀕死の白鳥」を踊った時、息を引き取って舞台に横たわる白鳥が幕が完全に降り切るまでずっと息を詰めていたのを 見て菊五郎が大いに感心したという有名な話があるからです。「もし幕が下りなかったらどうします?」と菊五郎がパヴァロヴァに聞いたそうです。「その時は私の幸せな臨終です。」、パヴァロヴァはそう答えて二人は笑ったといいます。この頃には菊五郎は 「息を詰める」ということを完全に会得していたのでありましょう。 大正5年頃から、九代目団十郎に教わってきたものが菊五郎のなかで一気に開花したということなのだろうと思います。その時期は二長町・市村座の全盛期ともぴったり一致しています。

「息の習得」ということが、九代目団十郎の芸の規範を継ぐということと、どうつながって行くのか。これは正直申し上げると、私にはまだ十分に分かっているわけではないのです。(そんなに簡単に分かっちゃったら詰まらないですよ ネ。)これは私がこれからも考えていかなければならない問題であると思ってます。

しかし、実際、九代目団十郎は形や手順についてはあまりうるさいことを言わない人であったようで、その代わり「役の性根」をしっかりとらえることを菊五郎にやかましく教えたようです。九代目団十郎といえば「肚芸」です。「肚」 が決まっている・性根がすわっているとは、つまりお腹にグッと息が詰められている状態をいうのです。 団十郎は、その役の性根(西洋演劇でいえば役の性格把握)というものを、歌舞伎の伝統的な手法のなかで「肚」 という概念で捉えたのだと思います。ある意味では前時代的な理解の仕方ではあるけれども、九代目団十郎は歌舞伎の近代演劇の観点からの再検討のきっかけを作った人なのです。その九代目団十郎の演劇理解の延長線上に六代目菊五郎が位置する、と考えるべきだろうと思っています。

九代目が得意とした「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時に「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われたそうです。しかし菊五郎が関兵衛の踊りを団十郎から直接習ったことはなかったそうです。

「しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。」(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)

「それがつまりコツだね。」と菊五郎はサラリと言ってしまっていますが、その裏に、菊五郎のどれほどの芸の修行と努力と試行錯誤があったのかは余人には想像もできないことなのです。

(H15・3・2)

六代目菊五郎 (1979年) (講談社文庫)

六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸
 

    (TOP)         (戻る)