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小団次の「西洋」

〜四代目小団次と黙阿弥


本稿の時代背景は幕末ですが、小団次/黙阿弥と歴史的事件との時期的関連が重要な要素なので、ポイントとなる事件を年代順に列記しておきます。

1853(嘉永6年)6月 ペリー浦賀に来航
1854(嘉永7年=安政元年)3月 小団次・黙阿弥との提携「忍ぶの惣太」
1855(安政2年)10月2日 安政の大地震
1858(安政5年)9月 安政の大獄
1860(安政7年=万延元年)1月「三人吉三」初演。3月 桜田門外の変
1864(文久4年)7月 蛤御門の変
1866(慶応2年)2月「鋳掛け松」初演。5月8日 四代目小団次没
1867(慶応3年)12月 王政復古の大号令


1)抽斎の小団次嫌い

森鴎外の史伝で有名な渋江抽斎(安政5年8月に54歳で没す)は弘前津軽藩の医師(漢方医)ですが、江戸育ちであり、江戸藩邸に勤めて非常な芝居好きであったそうです。抽斎の仲間は平土間に陣取って観劇をし・みんな眼鏡をかけていたので「眼鏡連」として役者たちから恐れられていた劇評家連中でした。そのなかで抽斎は三代目の「劇神仙」の号を継いでいたということですから、ただの芝居好きではなくていわゆる「劇通」なのです。ただし抽斎自身が芝居や役者を論評した文章は残っていないそうです。抽斎が贔屓にしたのは七代目団十郎・次に 五代目宗十郎でした。鴎外の史伝には次のようにあります。

『抽斎はすこぶるオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が新奇を追う世俗と趨舎(すうしゃ)を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次の芸を「西洋」だと言っている。これは褒めたのではない。然るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積良斎にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。』(森鴎外:「渋江抽斎」)

森鴎外: 渋江抽斎 岩波文庫

ここで抽斎が四代目小団次の芸を「西洋」だと評していることは、森枳園(きえん)が抽斎の末子保に語った言葉にも出てきます。森枳園は抽斎の友人ですが、この人は芝居好きが昂じて・ついには舞台でツケ打ちをしたり・並び大名や注進などに出たりしたのがばれて、禄を失う破目になるなど波乱の生涯でした。

『私(渋江保)が「森さん、そんな古い役者ばかり(声色を)して見せずに、今の役者の真似をしてみせてください。」と言うと、枳園は首を振って、「今の役者は駄目だ。なに小団次か、小団次は最も悪い。阿爺さんは西洋だと言ってお嫌いなすったぜ。今の役者で良いのは訥升(後の助高屋高助)ばかりだ。訥升の判官は良い。まだまだ紫若(後の八代目半四郎)が良い、あとの役者は見るに堪えん。」などと言った。』(渋江保:「森枳園伝」)

まず抽斎がどの時期の小団次の舞台を見ているのかが気になったので、それを調べてみます。鴎外の史伝には嘉永2年(1849)に抽斎は将軍家慶に謁見した時、目見(めみえ)以上の身分になったからには芝居小屋に出入りするのは遠慮するのが宜しいと言われて観劇を自粛せざるを得なくなり、安政2年(1855)のたまたま大地震の日(地震は10月2日の夜のことでした)に観劇したのが実に7年ぶりであった、とあります。

小団次がそれまでの上方での修行を終えて江戸の舞台に登場したのは、弘化4年(1847)11月の市村座での顔見世への出演が最初でした。これが抽斎が小団次の舞台を見た最初だとすると、抽斎が小団次の舞台を見た可能性のあるのは、弘化4年からの約2年・間に7年の空白があって、さらに安政2年から抽斎の亡くなる安政5年までの約3年、の合計5年間ということになります。もっとも芝居好きの抽斎のことですから、空白の7年間にも小団次の芝居の評判は関心を持って聞いていたことでありましょう。

仮に抽斎が空白の七年間を除いて江戸での小団次の舞台を残らず見ているとするならば、この時期での目立つ小団次の代表作は、安政2年9月「自来也」・安政3年9月「宇都谷峠」・安政4年1月「鼠小僧」・5月「正直清兵衛」・7月「小猿七之助」・安政5年3月「黒手組助六」(以上はすべて市村座上演で黙阿弥作)といったところです。小団次と黙阿弥(当時は河竹新七)の提携の前半期といったところです。

2)小団次の「西洋」

抽斎ら「眼鏡連」の連中が、四代目小団次を「西洋」だと言って嫌った、というのは興味ある話です。抽斎はこの「西洋」という言葉をどういう意味で使っているのでしょうか。普通に「西洋演劇的」と言えばそれは心理主義的な演技のことを指すのではないでしょうか。しかし、小団次の芸を「西洋演劇的でバタ臭い」と言ったわけではないのは明らかです。嘉永6年(1853)はペリーの浦賀来航の年、翌年は日米和親条約締結の年でありますが、小団次は西洋演劇思想の洗礼を受けたわけではないし、抽斎だってそんな知識は持っていなかったでしょう。

小団次の芸は上方仕込みで早替わり・宙乗りなどのケレンも得意としましたから、江戸の趣味とは違うアクの強さがあったようなので、その芸風が抽斎たちに嫌われたとも考えられますが、それなら「上方風で江戸趣味には合わない」と言えばいいことです。抽斎が小団次の芸を「西洋だ」というのには、もっと別の意味があると思います。抽斎たちのもっと強烈な拒否反応・生理的な嫌悪感がそう言わせているものと考えなければなりません。

鴎外が書いているように、抽斎は「西洋」という言葉を褒める意味で使っているのではありません。ここでの「西洋」とは「自分たちの価値観を否定し・崩壊させて混乱に陥れるもの」という意味で使われていると思います。しかも、自分たちとは異なる世界の価値観だというように一目を置く感じではなくて、 まったく無価値なものとして完全に否定し去る感じで使われています。

鴎外は小団次のことを抽斎にとっての蘭学と対比していますが、これは江戸の漢方医の蘭学に対する嫌悪感を想像してみれば分かります。蘭学は漢方医の価値を完全に否定し去る敵対した存在として描かれています。(このあたりはほぼ同時代の江戸幕府の奥医師であり、後に順天堂大学の基礎を築くことになる松本良順を主人公にした司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」などが参考になりましょう。)「黒船」と共に押し寄せてきた幕藩体制の揺らぎ・社会風俗の混乱・未来への不安というものと「西洋」のイメージは一体化しているのでしょう。

抽斎は「西洋」という言葉に「未来への価値・可能性」を認めていません。鴎外の書いているように・晩年に至って抽斎は蘭学への価値をやっと認めたようですが、芝居に関してはそうではなく、抽斎は小団次の「西洋」を最後まで認めなかったのです。それでは抽斎は小団次のどこが嫌いだったのでしょうか。

3)小団次の「写実」・黙阿弥の「写実」

抽斎は狂言作者黙阿弥(当時は河竹新七)については言及していないようですが、小団次が大嫌いだったということは恐らく黙阿弥の芝居についても否定的であったろうと思います。小団次の演劇理念を具体化して脚本に仕立てたのが黙阿弥であったのですから。そして小団次との提携を通じて、黙阿弥は小団次の理念を吸収し、一人前の座付き作者に育っていったのです。まさに小団次は黙阿弥の原点なのです。

安政6年(1859)頃に流行したハイヨ節の替え歌に、「にがほ豊国やくしゃは小団次ハイヨ・とうじさくしゃは、みなさん、川竹、ひいきはたいそたいそ」とあり、芝居町だけでなく、横丁の子守りまでが口にしたと言います。まさに小団次と黙阿弥は、世間から一心同体の存在と見なされていました。

黙阿弥が小団次と提携していた時期は、黒船事件(嘉永6年:1853・6月)・安政大地震(安政2年:1855・10月)を間にはさんだ時期になります。その黙阿弥と小団次の提携の最初は、嘉永7年(1854)3月河原崎座での「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」・いわゆる「忍ぶの惣太」でした。これをきっかけに、慶応2年(1866)2月の「鋳掛け松」までの約13年間を、黙阿弥は小団次のための新作に没頭します。黙阿弥39歳から51歳までの小団次との提携作品の、その代表的なものを挙げれば、「宇都谷峠」・「鼠小僧」・「小猿七之助」・「黒手組助六」・「十六夜清心」・「三人吉三」・「縮屋新助」・「因果小僧」・「村井長庵」・「腕の喜三郎」・「御所五郎蔵」・「鋳掛け松」などとなります。つまり、黙阿弥の代表作の大半が小団次との時期ということになるのです。

渡辺保氏はその著書「黙阿弥の明治維新」のなかで、黙阿弥は小団次により劇作家としての才能を開花させ黄金時代を築いたと言われているが、「むしろ逆だろうと思う」として、「黙阿弥は小団次とめぐりあうことによって、自分本来の才能を別の方向へ導かれ、限定され、歪曲されてしまった」と書いています。

『黙阿弥には江戸歌舞伎の伝統を守ることが出来なかった。いくら黙阿弥が書こうと思ってもそういう感覚を実際の舞台に生かして見せる役者がいないのだから。そこに黙阿弥の座付作者としての限界があった。そこで黙阿弥はきわめて不幸なことに、大坂育ちの役者である小団次と出会うことになる。歌舞伎はせりふ劇・性格劇の可能性を失って、その方向を転換することになった。』(渡辺保:「黙阿弥の明治維新」)

渡辺先生が指摘しているのは鶴屋南北以来の江戸歌舞伎の「生世話」の伝統に、音楽的要素を加えることで芝居を「写実」から遠いものにして、その「写実」の伝統を断ち切ってしまった、ということです。例えば竹本・よそ事浄瑠璃・割り科白の多用・七五調の科白などです。これらはその後の黙阿弥の作劇手法として定着したものです。また「櫓のお七」で小団次が演じた(安政3年:1856・市村座)人形振りの所作事などもそれまでの江戸歌舞伎にはなかったことで、小団次が上方から持ち込んだものでした。

まあ、他人が不幸だと思っても本人が全然そう思ってないこともよくあることでして、黙阿弥も自分が「不本意な芝居を書いた」と思っていたかはどうかは分かりません。多分そんなことはなかったと思います。(もちろん渡辺先生はあえて問題提起の意味で「黙阿弥の不幸」と書いておられるのです。)その一方で逆のことも考えられましょう。小団次の芸は江戸の「生世話」の発展形であった、と積極的に評価する考え方もあり得るかも知れません。

慶応2年(1866)3月に猿若町の芝居関係者が呼び出され、「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを受けました。お上のお達しのきっかけは前月から守田座で興行の「鋳掛松」(黙阿弥作・小団次主演)であった、と思われます。ちょうど病気欠勤していた小団次に黙阿弥がこの事を伝えますが、黙阿弥が「仕方がないから、これからは何か時代物でも書きましょう」と言うと、小団次は身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。

『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)

河竹繁俊:河竹黙阿弥 (人物叢書)

小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなっていき、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいます。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。この話を聞くと、小団次の芝居は幕府から「人情を穿ち・色気が濃く」世情を刺激するものとして危険視されていたわけで、また小団次自身も自分の芝居は「観客に訴える本当のことを仕組む」ことが本領であると考えていたわけです。まさに小団次の芸の本質は「写実」にあったと言わなければならないでしょう。

大道具の長谷川勘兵衛は小団次の「沼津」の平作の演技について、次のような思い出を語っています。『小団次も芝居をしながら泣く役者でした。平作が身の上を語るところや、千本松原の場などは、涙をたらして総泣きという具合でした。小団次は泣かねば芝居が出来ぬと言っていました。』(安部豊:「長谷川勘兵衛実話」:「演劇画報」昭和3年5月)

このことは、小団次の世話物に二つの要素があったことを感じさせます。ひとつは世間の人情をリアルに・どきついほどに・本当らしく描き出そうという「写実」の精神です。もうひとつは人情を描き出すのに感情の起伏を増幅させ、さらに情味を濃厚にしようとする音楽的手法です。後者は一見すると演劇的には写実から離れる手法のように思われますが、しかし、小団次にとってこれは「写実」に相反する手法ではなくて、「写実」のドラマ性を増幅させるための手法であったように感じられるのです。

一般に、黙阿弥(本稿では黙阿弥と小団次をほぼ同義に扱っています)の世話物は、江戸歌舞伎を感覚的・情緒的な方向へ傾斜させたという位置付けがされているようです。現行の歌舞伎の舞台を見ればその評価もうなづけます。しかし、黙阿弥の音楽的手法・七五調の科白などが一見するとそれが「写実」に離れる手法のようでありながら、実は「写実」の視点から発想されているものだと考えることもできないでしょうか。黙阿弥の音楽的手法・七五調の科白は、「写実」の味をより濃厚に・ドラマの感情を増幅させるための手法であると考えることもできないでしょうか。黙阿弥の世話物は「写実」の観点からもう一度読み直さなければならないと感じるのです。

4)「これぞ下々安穏の平均だァ」

安政2年(1855)10月2日の江戸大地震は、家屋の倒壊だけでなく・火災があちこちで発生したことにより、死亡者13万人以上・負傷者10万人以上とも言われる大きな被害をもたらしました。笠亭仙果(りゅうていせんか)の「なゐの日並」によれば、この地震の2日後には「地震火事方角づけ」という印刷物が売られ、さらに数日後にはその種類が増えてきたと言います。地震焼失地図や絵草子などが盛んに刷されたなかでも「鯰絵」と呼ばれる、地震と鯰を結びつけてこれを賛美するような絵が大変に売れたといいます。これは非常に興味深い現象だと思います。

例えば、「三職よろこび餅」という鯰絵では、大工・鳶・左官の三職が「なまづさん、おめいのおかげで、今年ァ、久しぶりで、たわらで米をかつて餅をつきやしたから、たんとあがってくたせいや」と言って、鯰のために餅をついている三職の姿が描かれています。また「鹿島恐」という鯰絵にも鯰を中心に歌い踊る三職が描かれており、詞書には「大国のつちうごかして・・・・君の恵に立かへる、民の竈の賑はひは」とあり、最後に「世直しの地震はいつしか跡もなく、よき事ふれのかしましきかな」とあります。建設業が大地震の復興景気に沸き立つというのは理解できますが、大地震が「世直し」だというのは注目すべき詞書だと思います。鯰(=地震)は多くの被害をもたらしながら、その一方で世の中を破壊し再生する「世直し」だと認められ、民衆に歓迎され崇拝されたのです。

実はこういう感覚は江戸の庶民には昔からあったものでした。「火事は江戸の花」という言葉もそうした江戸庶民の感覚の産物です。火事や地震というのは人々に身分財産の差なく平等に訪れる災厄でした。しかし貧乏人の場合は失うものはそう多くはありません。庶民はこうした災難で、商人などの富裕者が財産を一気に失うのを見て密かに溜飲を下げたわけです。また実際、復興景気で庶民の金廻りも良くなりました。

地震や飢饉などの天災は、為政者の不徳・人心の乱れによって天の戒めとして起こるものだ、という考え方も古来からあったものです。しかし、相次ぐ飢饉・袋小路に追い込まれた経済状況・ペリーの黒船来航などの幕藩体制の政治混乱・社会不安に対する庶民の憤懣が、安政大地震をきっかけにして、より一層明確な形で「鯰=地震=世直し」の図式で現れ、熱く暗い情念になって噴出し始めています。「鯰絵」の流行というのは、そうした庶民の精神の危険な兆候を示すものなのです。

このことをはっきりと示す鯰絵をもうひとつ紹介しましょう。「世ハ安政民之賑」という鯰絵には、詞書に「それ人間の五道を守るも神仏の教えなるに、その道を忘れ貴賎ともにその恐ろしきいましめの欲の道に入りしゆえ、下万民を救わんと神や仏の相談にて、鹿島の神へお頼みゆえ、鹿島大神宮かなめ石を鯰に縛り付け、世の盛衰を直すべしとありければ、鯰はかしこまって、安政二年十月二日夜の四つ時、おん神のおつかいなりと、江戸をはじめとし凡十里四方あれちらせば、家を倒し、地を割り、出火することおびただし・・・」とあります。さらに鯰の科白として次のようにあります。この科白は注目されると思います。

「ヤアヤア金持ちのぶんげんども、そのほか座頭に至るまでよく聞け・・貧乏人は年中苦しみどうしに苦しんで、いつまでたってもよくなるということがねえ・・神仏のお怒り強く、こんど世界太平にせよとの、天からの厳命なり、おどろくな、なげくな、金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ、騒ぐな騒ぐな、泣くことないぞ」

「金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ」というのはじつに物凄い科白です。積もり積もった怨みの科白とも、開き直った捨て鉢の怒りの科白とも、さらには革命への狼煙・来るべき新しい時代への予告とも取ることができるのではないでしょうか。これが安政当時の江戸庶民の精神状況であり、西日本を中心に流行した「ええじゃないか」騒動(注:「ええじゃないか」は東進しましたが江戸にまでは至らなかった)とともに、この時期の民衆の精神状況をうかがうことができます。

5)「世直しもの」としての白浪狂言

四代目小団次はこのような時代が生んだ江戸歌舞伎のスターであったのです。世に小団次は泥棒役者と呼ばれ、河竹新七(後の黙阿弥)は泥棒作者と呼ばれました。泥棒は幕末の江戸の世相を象徴する存在なのです。

その泥棒を主人公にした作品を「白浪狂言」と呼びます。どうして幕末の江戸にあれほど「白浪狂言」が流行したのでしょうか。これにはいくつかの説があります。まず当時の江戸の治安が悪く、実際に泥棒が多かったから、という説があります。また、劇作家にとって泥棒や無頼漢はその想像力を刺激し自由に発展させることができるから、という説もあります。しかし、幕末江戸の民衆が「白浪狂言」を積極的・熱狂的に支持した理由としてはどちらもいまひとつ説得力に欠けるようです。

幕末の「白浪狂言」の大流行は当時の社会情勢・民衆の精神状況を抜きにして説明することはできないのではないでしょうか。泥棒は貧乏人の家に忍び込んで盗みなどはしません。たいした稼ぎにならないのですから。盗みに入るとなれば、それは金品や財宝のある武家や商人の家に決まっています。「あちらで盗みがあったらしい」と聞いて庶民はひそかに快哉を叫んだに違いありません。「金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ、これは世直しなのだ」と。

「世直し」は、幕末の歌舞伎を考えるキーワードだと思います。嘉永4年(1851)8月江戸中村座において小団次は、これは黙阿弥ではなく瀬川如皐作品であり・また主人公は泥棒ではありませんが、佐倉惣五郎を主人公にした「東山桜荘子(佐倉義民伝)」を上演し、初日以来百四日のロングランという大当たりを取りました。佐倉惣五郎こそは「世直し」の象徴的人物であり、その名は全国に宣伝されて、明治に至っても庶民の側からの政治改革の草の根運動の模範とされた人物でありました。(注:この時期の小団次の舞台を抽斎は観ていません。もちろん芝居好きの抽斎ゆえその評判は耳にしていたことでしょう。)

如皐の「東山桜荘子」は時代を東山・田舎源氏の世界にとり、お家騒動の怨霊物の体裁に隠されていて、大詰めでは小団次得意の燈篭抜け・居所抜けなどのケレンも多用されていますが、主人公惣五郎には「世直し」的性格がはっきりと見てとれます。「世直し」が「東山桜荘子」の大当たりの原動力であったことは疑いありません。

「世直し」は江戸時代の文献にはよく出て来る言葉です。しかし、それは身分差別反対とか人権改善のような社会運動ばかりを指すわけではありません。そういうものは江戸の民衆にはっきりと意識されていたわけではなかったのです。もう少し次元の低い形で、現状への不平不満の解消・鬱憤晴らしを庶民の「世直し」は要求することが多かったようです。火事も地震も民衆にとっては「世直し」でした。そして後に小団次が黙阿弥と提携して次々と生み出された「白浪もの」も、また一種の「世直しもの」ととらえられるべきではないか、と思うのです。

民衆が火事や地震のような自然災害を「世直し」と言う時には、それはどうにもならない庶民の実情を変えてくれるような「何ものか」を待望するものでしかなく、どこか他力本願的な響きがあります。これに対して泥棒は人間なのですから、これを「世直し」という時には、もう少し積極的な響きが加わるように思われます。

幕末の混乱期においては、泥棒もまた火事や地震と同じく、「世直し」の役割を背負う者として一種の神のような響き(といっても「安い神」なのですが)を持ってとらえられたということなのです。鼠小僧や弁天小僧の「小僧」は幼な神を意味するのである、という説がありますが、それはある意味ではまったくその通りなのです。泥棒は「世直し」の動きを加速させる一つの兆候として・天の意志を天に代わって実行する存在・ある種の神掛かりの存在として庶民に歓迎されたのでしょう。

嘉永6年(1853)6月にペリーの浦賀来航があり、翌年3月には日米和親条約が締結されることになります。すでに袋小路に入っていた社会・経済情勢は、ペリーの黒船騒動をきっかけに一気に崩壊の方向に動いていきます。そしてさらに江戸幕府の息の根を止めるような事件こそが、安政2年(1855)10月2日の大地震であったのです。このような時期に、小団次・黙阿弥の「白浪もの」が「世直し」の動きを待望する民衆の心のどこかを刺激したのに違いありません。何をどう変えるべきなのか・それは明確には意識はされていなかったでしょう。しかし、民衆はなにか自分の意志で変わりたい・変えたい、という願望を小団次の「泥棒」のイメージに託したのです。

逆に申せば、「白浪もの」を幕府が危険視した理由も、抽斎が小団次を嫌った理由も間違いなくそこにあったのです。抽斎が小団次を「西洋」だと言ったというのは、抽斎は漢方医でありますから漢方の位置を脅かす存在としての「蘭方=西洋医学」のイメージを以って小団次を江戸歌舞伎の「西洋」だと言ったのでありましょう。あるいは幕府の権威を根本から覆し・社会を決定的な混乱に陥れた黒船のイメージを以って小団次を「西洋」だと言ったのでありましょう。小団次=黙阿弥の新作活動は間違いなく「世直し」を根本テーマにしていました。小団次の芝居に熱狂する観客を見ながら、抽斎は自分が身を置いている社会の価値観の崩壊をヒタヒタと感じ取っていたに違いありません。

6)小団次・黙阿弥の戦い

上演間もなく上演差し止めを喰らい、小団次の死のきっかけを作ったとも言える慶応2年(1866)2月守田座での「鋳掛け松」を見てみたいと思います。「鋳掛け松」のいったいどこが「お上」の気に入らなかったのでしょうか。

しがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうという場面が評判であったそうです。(鎌倉花水橋は、もちろん江戸両国橋を書き替えているのです。)

実はこの場面は七年前の安政6年(1859)2月市村座で上演された「十六夜清心」の「稲瀬川の場」で、所化清心が悪に変心する場面の焼き直しであると言われています。「十六夜清心」も初日から35日たって役所から一部削除を命じられ、公演中止に追い込まれています。しかし、この作品ではお役所は「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」という通達を出すまでには至っていません。

幕府が「鋳掛け松」を放置できなかったのは、ひとつには「慶応」という時代の空気があったでしょう。維新を目前に控えて一発触発の雰囲気のなかでは、小団次の芝居は刺激が強すぎたのです。二幕目文蔵の妾宅へ鋳掛松が忍び込む場面が、柝を使わずに廻り舞台を使うという映画的手法で、迫真の演技であったと言います。これも「お上」の癇に触ったと思います。

「鋳掛け松」は色気に薄く・地味な作品のように思いますが、「十六夜清心」のように甘い情緒(ムード)で包まれていないだけにメッセージが直接的に響くように思われます。橋の下での豪遊を見ながら、「あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」というのは、身分職業を固定された封建社会へのあからさまな不満に違いありません。松五郎は鋳掛け道具を川へ放り込み、つまり自分の現状を否定し・盗賊に変身します。「十六夜清心」は個人的変心にも読めますが、「鋳掛け松」ははっきりと社会を見据えた変心です。そこが全く違います。

盗賊とは庶民のささやかな「世直し」願望をかなえてくれる存在でした。「鋳掛け松」は来るべき「世直し」を求める民衆の心を痛く刺激したことでしょう。これは、まさに「庶民よ、立ち上がれ、社会を変えよ」というメッセージに等しい、と幕府はそう受け取ったに違いないのです。

たしかに「鋳掛け松」は幕府に対する批判も革命の呼びかけもしてはいません。そこは名手黙阿弥のことですから、これは単なる娯楽芝居に過ぎない、そのように言い抜けができるように芝居は書かれています。しかし、「今の世の中は嫌だ、こんな生活はご免だ、こんな世の中は変わってしまえ」という気持ちを「鋳掛け松」は表現しています。これは「世直し」気分そのものなのです。そして、何をどうしたいとか・社会をどう変えたいとか明確には意識はされていないけれども、革命への萌芽そのものなのです。そういうメッセージを、小団次・黙阿弥は芝居に明らかに盛り込んだのです。だからこそ、この芝居は評判になったのです。だからこそ、幕府はこれを容認できなかったのです。それは「慶応」という時代・民衆の気分と無関係ではありません。

小団次・黙阿弥の「白浪もの」の根本テーマは「世直し」であった。「世直し」による価値観の変化・崩壊、これこそ、江戸幕府が嫌ったものでした。そしてそれはまた、古い世代の抽斎が嫌った「西洋」なのでした。こう考えた時に、小団次・黙阿弥の提携の歴史的な価値が見えてきます。「白浪もの」は、幕末における小団次・黙阿弥の「世直し」への戦いであった、という積極的な見方がされるべきである、と思います。今の世から見ればいささか作意が低いように見えるかも知れませんが、それが江戸の民衆の「世直し」感覚であった、ということです。間違いなく小団次は幕末という時代の生んだスターでありました。小団次は自らの「世直し」の戦いの半ばで戦死したと言えるのではないでしょうか。

(H14・5・5)

(参考文献)

南和男:幕末維新の風刺画 (歴史文化ライブラリー)(吉川弘文館)

永井啓夫:「四代市川小団次」(青蛙房)

渡辺保:「黙阿弥の明治維新」(新潮社)

河竹登志夫:黙阿弥 (文春文庫)

(追記)

写真館「安政大地震と白浪狂言」

歌舞伎の雑談での記事「世直しについて」「西洋ということ」「白浪物の革命性・そして無力感」もご参考にしてください。

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