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「かぶき的心情」とは何か


1)江戸前期の時代的気質

「かぶき者」というのは、江戸時代前期に派手で自己主張の激しい異様な服装や髪形をして街中を跋扈した連中のことを言いました。こうした連中の風俗から歌舞伎と呼ばれる演劇が発生したと言われているのはご存知の通りです。「かぶき者」は町人だけでなくて、武士・旗本にも大勢いました。例えばかぶき者の典型は「町奴」で、その代表は言うまでもなく幡隋院長兵衛ですが、この長兵衛 と騒ぎを起こしてこれを殺した水野十郎左衛門は「旗本奴」と呼ばれるかぶき者でした。

享保7年(1722)に旗本新見正朝は「むかしむかし物語」という本を書いて、このような奴気質について『下々の奴は奉公をよく勤め、つらいこともつらいと言わず、寒い時も袷(あわせ)ひとつでも寒そうな顔をせず、一日食事をしなくてもだるそうな様子も見せず、供を勤めれば、たとえ空威張りであっても、なにかあれば命も惜しまないと公言する』と書いています。立派なもんだ、奉公人の理想じゃないか、と思われるかも知れません。しかし、これは主従関係・いわゆる雇い主と雇われ人というような契約関係から来るものとは少し違っていまして、自らのアイデンティティの主張(自己主張)としてこれが出てくるのが奴気質なのです。

同じく旗本たちの奴気質についても、『身持ち・食物などふやけたものを嫌い、好色(主として男色)を好み、刀・脇差は焼き刃の強いものを好み、「侍道(さむらいみち)」の勇気を重んじ、人に頼まれ、人のためには命も惜しまず、上下関係を重んじ、親方・老人を大切にして、自分の命を捨てても他人を救い、徳を重んじ、性根がすわり、武芸に精を出し、人のできないことやり、敵対したものを許さない』と新見は書いています。これこそまことに武士らしい武士じゃないのか、と思われるかも知れません。しかし、これも封建制度での主従関係とはちょっと違っていて、ほれた主人には命を賭けて尽くす、といった感じなのです。逆に言えば、主人が気に入らなければ反抗する、ということでもあります。つまり、これも自らのアイデンティティの主張(自己主張)から出てくるものなのです。

このような「かぶき者」の気質というのは、今で言えば「任侠」の道徳に近いように思われます。これは当時の言葉では「男道(おとこみち)」とか「侍道」とか言われました。もともとは武家の奉公人や最下層の武士から起こった気風と思われますが、上は大身の旗本から下は町人にまで次第に広がっていったのでした。

ご承知の通り、幕府はこのような「かぶき者」の気風の横行に手を焼いて、しばしば弾圧を行いました。こうした「上下関係を重んじ、徳を重んじ、武芸に精を出す」ような気風がどうして封建制度にそぐわないのかと言うと、彼らの発想の原点には「強烈な自意識・自己主張」があって、何かの拍子にそれが噴出して封建制度の序列・体系といったものを内部から破壊していく方向に働くという危惧があったからでした。戦国の世ならばそうした気質はプラスにも働らいたかも知れません。しかし、平時においては「強烈な自己主張は秩序の破壊につながる」と受け取られたのです。派手で異様な風俗が嫌われたというのは外見的な要素でして、江戸幕府はこのことをこそ真に恐れたのです。

「かぶき者」というのは、安土桃山時代に民衆が一時的にしても知ってしまった自由な気風・個性の発揮といったエネルギーが、江戸幕府による体制が完成していくにつれて封じ込められて、その行き場を失って噴出するような現象であった、と思われます。だから「かぶき的心情」とは江戸時代前期を象徴する「時代的気質」であった、と言えると思います。

2)仇討ちと殉死

封建制の主従関係というのは「一所懸命」という言葉からも分かるように、もともと主君が与えられた恩賞としての土地を守ることで、主君と契約関係を結ぶことでありました。ある意味ではドライなもので、恩賞としてのと土地を取られてしまえばもはや主従関係は成立しないのです。例えば、「織田信長が明智光秀に対して丹波の領地を取り上げ、まだ敵の領地である鳥取を与える」、このことを光秀が主従契約の一方的な破棄だと受け取ったとしてもそれは不思議ではない、と思います。これが本来の「主従関係」なのです。

ところがこの主従関係のなかに「意地」や「一分」といった、主従関係とは本来は結びつかないはずの「かぶき的心情」が次第に入り込んでいきます。ひとつには、平時において「戦う機会を持たない武士たち」が武士たるアイデンティティを維持するためにこれは必要なことであったのかも知れません。

山本常朝の「葉隠」(享保元年:1716)には、「武士道とは死ぬことと見つけたり。二つの場(いずれかという場合)にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進むなり。」という有名な科白がありますが、この裏にも「かぶき的心情」が潜んでいるように感じられます。武士道の根源を「個人のアイデンティティ」に求めなければ、武士が平時に緊張を保ちつづけることは難しかったのでしょう。しかし、それはまた同時に、封建社会の秩序を内部崩壊させる要素をも孕んでいたのです。

こうした「かぶき的心情」が大きな社会問題になったのは、赤穂義士の討ち入り事件でした。大石内蔵助らの行動の裏には、武士の「一分」を守るという強烈な体面意識がひそんでいました。「四十七士の討ち入りは義挙か・暴挙か」、この問題で江戸幕府のなかだけでなく世間が揺れました。それは仇討ちという行為が「かぶき的心情」の所産であり、それが誰の目にも明らかであったのに、それを公に否定すれば封建制の精神的柱である「忠孝」が否定され、それを公に肯定すれば封建制度の「法秩序」が否定される、というジレンマがあったからです。

赤穂浪士の討ち入りとは「赤穂藩士によるアイデンティティの強烈な主張であり、自分たちの存在を世間に認知させようとした行為であった」、こう考えて初めて、赤穂義士たちのエネルギー・世間の賞賛と熱狂・そして幕府の困惑も理解されるでしょう。討ち入りから47年もたってから成立した「仮名手本忠臣蔵」では、こうしたどろどろした熱い要素は整理整頓されて、スッキリときれいな形で提示されています。だから「忠臣蔵」だけ見ていると、このことは十分読みきれないと思います。

赤穂義士の討ち入りを「御政道に対する反抗であった・封建制への批判であった」とする見方は後世の眼から見た読み方だと思います。たしかに「アイデンティティの強烈な主張」においては、「個人と世間」・あるいは「個人と組織」というものの関係が意識されてはいます。しかし、それは対立構図(否定さるべきものとしての対立構図)で読まれるべきではありません。そのような要素も内包していることは確かですが、しかし、赤穂義士の時代(元禄の世)においてはそれよりも「個人」の方がもっと強く意識されています。内蔵助や赤穂義士の場合は、個人がそのアイデンティティを誇示・主張する対象として組織・世間の認知を求めるのです。それが「かぶき的心情」なのであり、その意味では内蔵助ら四十七士もその時代の人々と同様にまた「かぶき者」であったのです。

また同じく「かぶき的心情」から発する行為として殉死が上げられます。寛文3年(1663)四代将軍家綱は武家諸法度を公布し、別紙で殉死を禁止する旨を伝えました。これにより殉死は「不義無益」な行為だとされ、禁を破って殉死が出た場合にはじつに厳しい処分がなされました。武士の主君への忠誠心を示す美風とされてきたばずの殉死が、なぜ「不義」として厳罰をもって禁止されなければならなかったのでしょうか。世間から殉死を強制されたり、義理で死なねばならないなどという不純な要素が多くなり、有能な人材が失われるので殉死が禁止されたのである、という説もあります。そういうことならば「殉死は封建制度が個人に強制する非人間的行為である」ということになって、これを禁止したのは開明的な正しい判断である、と考えられましょう。しかし実際にはご法度を無視して本人が自ら進んで追腹を切るケースが後を絶たなかったのです。

森鴎外の小説「阿部一族」は殉死をテーマにした作品ですが、この問題を考える時に非常に参考になります。ここで鴎外も興味深い例として文中に挙げている犬牽きの五助を見てみます。周囲の者も五助の気持ちを理解していましたが、その制止を振り切って五助が追腹を切るのは、放鷹の時に主君細川忠利の御意にかなったことがあり召し使わされたということだけが理由です。これは下級のものが本来はあり得ないはずの主君との絆の強さを誇示しようという行為で、自ら尽くす対象には命を捨てても惜しくないという「かぶき的心情」から発するものなのです。つまり、主従関係とは異質な「個の主張」がはっきりと見られます。

これは序列をもった身分に基礎を置いた封建制度にとっては非常に目障りなことでした。そしてこれを放置しておけば、封建制度の構造を内部崩壊させることにもなりかねない、と江戸幕府は考えたのです。だからこそ、幕府は殉死を有害な行為と決め付け、厳罰を以ってこれを対処したのです。

このことは殉死禁止令とかぶき者への弾圧がほぼ同時期に行なわれていることからも察せられます。それ以前から幕府は頻繁にかぶき者の狩り込みと検挙を行なっていましたが、その弾圧が一段と強化され、旗本奴の首領であった水野十郎左衛門(前述)が切腹を命じられ、二才の子供も斬られたのは、殉死禁止令の翌年のことでした。

3)心中について

さらに、一見すると結びつかないかも知れませんが、心中もまた、「かぶき的心情」の所産であった、と考えられます。もともと心中とは、男と男の間の愛の絆を確認する誓いの意味でした。小姓の殉死というのがこの心中の本来の例です。この心中が次第に男と女のものに時代とともに変化していきます。「愛ゆえに命を捨てる」というと、どこかロマンチックな軟弱な響きがします。しかし、これを「かぶき的心情」で読んでいくと、これは愛し合う二人の存在を世間に対して強烈に誇示しようとする行為に他ならないのです。こう考えると、殉死と心中は、共通した衝動から発していることが分かります。

近松門左衛門の心中ものを読みますと、そこに描かれているのは心中する者の体面意識です。武士が「体面」を意識したのと同様に、町人も、世間に対して「義理が立つ」とか「私が立つ」とかいうことを強く意識しました。その意識が彼らを死に追い込むのですが、同時に、死ぬことで社会に対する個人のアイデンティティの主張が成就することが彼らの死を甘美なものにさせている、ということを知らねばなりません。世間があってこそ心中は成り立つのです。つまり、心中もまたその行為のなかに体制秩序を破壊する要素を孕む「かぶき的心情」の所産なのです。

だからこそ江戸幕府は心中の流行を危険視したのです。士農工商の身分構造さえも破壊しかねない衝動であると見なしたのです。享保7年(1722)、江戸幕府は禁止令を出して心中物の出版・芝居の上演を禁止しました。また、心中を「相対死(あいたいしに)」と読んで、そのロマンチックな響きを消し去ろうとしました。つまり、心中禁止令も殉死禁止令と同じく、江戸幕府の「かぶき者」弾圧政策のひとつの現れなのです。

このように仇討ち・殉死・心中といった行為は、ともに「かぶき的心情」から発する行為であることがご理解いただけたか、と思います。このような強烈な自己主張は個人的心情に根ざしているものだけに、他人にはなかなか共有されにくいものだろうと思います。まして時代を経た後世の人間には理解しにくいところがあります。こうした時代的心情は時代を同じくした者だけに共感できる何ものかがあるのでしょう。

近松の作品にしても、心中に向けてひた走る者の心理の綾が、現代人には共感をもって感じ取りにくくなっています。敵役の性格をより強調したり・金に縛られて身動きできない状況をより明確にして、主人公が次第に追い込まれていくような展開を見せないと、主人公が心中に至る心情をなかなか観客に理解させることが難しくなっています。江戸時代においてさえ、近松の作品は原作通りに上演されず、そのほとんどが改作によって上演されてきたことが、近松作品の理解の難しさを示しています。

近松の心中ものの何が当時の大坂の観客の心をとらえ、涙させたのでしょうか。それは当時の時代的気質であった「かぶき的心情」から読んでいかねば分からない、と思います。

(本文は下記の論文より大きな示唆をいただきました)

山本博文:『「かぶき者」と仇討ち・殉死・心中』:「歴史読本」1997年1月号掲載

*「かぶき的心情」は、不肖吉之助の造語であります。上記論文の山本先生は、「かぶき者的心性」と書いておられます。本稿では、多少語呂を整えて、「かぶき的心情」としてみました。

*続編『かぶき的心情と「世間・社会」』もご参照下さい。

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