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かぶき的心情と「・・と(und)」


○かぶき的心情と「・・と(und)」・その1:「・・と(und)」という問いかけ

別稿「近松心中論」において、心中における「・・と(und)」という問いかけということを考えました。「・・と(und)については近松の心中物と対比されるべきワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」第2幕でイゾルデの言葉として出てきます。

「だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?」(第2幕第2場:イゾルデ)

「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情を自我(アイデンティティー)の発露であるということを考えてきました。(別稿「かぶき的心情とは何か」を参照ください。)自我の発露ということは・その根本は「私が・・私が・・」であるということです。自我を主張しようとすれば するほど・その心情が強ければ強いほど、彼にとっての周囲(他人・世間あるいは社会)の意味が消し飛ぶのです。確立されていく封建社会のなかで個人と社会(あるいは個人と組織)の関係を固定しようとする江戸幕府 がかぶき的心情を非常に迷惑なものであると考えたのは当然のことです。かぶき者は内部から身分社会の体制を破壊する危険な存在でした。このようにかぶき的心情の根本は「私が・・私が・・」に発するものですが、そこに「・・と(und)」の意味が加わることで・その心情に何かしら方向性が与えられることになるのです。

「心中」という言葉は、その字形から分かる通り・武士が武士たる最高徳目である「忠」の字を分解して上下転倒させたものだと言われています。八代将軍・徳川吉宗は「忠」を連想させる心中を「もってのほか不届きの言葉なり」と激怒し、心中した者は「人にあらざる所行」・「畜生同断の者なれば」・「死切候者は野外に捨べし、しかも下帯を解かせ丸裸にて捨てる。これ畜生の仕置なりと御定被遊ける」(『名君享保録』)と言ったとも伝えられています。 この吉宗の怒りようはちょっと尋常でないように思えますが、これは単なるこじつけ・言い掛かりではないのです。為政者にとって許しがたいものがそこにあるからに違いありません。武士(つまり体制側)にとっての「忠」に対して・町人(あるいは個人)にとっての「忠」が「心中」であると解されたからです。

「心中」は何に対する忠であるのかということが問題になります。これはかぶき的心情に発するものですから基本的には「私の心情に対しての忠」であることは疑いないことです。しかし、それだけでは完全に割り切れないものがあります。それを鋭く問うのが先ほどのイゾルデの問いかけなのです。「曽根崎心中」の徳兵衛の場合でいえば、つまり・ お初の問いかけの意味はこういうことです。

「あなた(徳兵衛)が自分の心情だけで死んだとして、もしあなたのなかで「・・と(und)」の意味が断ち切られているのなら、徳兵衛は死んでも・私(お初)は死んでいないということなのじゃありません?」

この問いかけに答えを出そうとするならば、徳兵衛の取るべき方法はひとつしかないのです。まずお初を先に死なせ (殺し)・次に自分が死んでみせるということです。こうすることで徳兵衛は自分の「・・と(und)」を証明できて・誠の「男」となれるのです。 これで徳兵衛は死に・お初も死ぬということになるわけです。


○かぶき的心情と「・・と(und)」・その2:「・・と(und)」という意味

このようにかぶき的心情に「・・と(und)」が加わることにどういう意味があるでしょうか。ひとつにはその心情が「私が・・私が・・」と言う・たんなる個人の我儘・自分勝手な思い入れというレベルから少し高い位置に引き上げられるということです。

『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』

お初がこう叫ぶことで、お初徳兵衛の心中は明確なメッセージを与えられるのです。それは『大坂商人の男徳兵衛 ・と・この男を愛した私お初』というメッセージです。これはまた「誰それの為に死す」という犠牲の意味合いを帯びてくることでもあります。「誰それの為に死す」という大義に自分のアイデンティティーを重ね合わせようとするのです。そのことによって町人にとっての「忠」 が崇高な意味合いを帯びることになるのです。

大事なことは「・・と(und)」が問いかけるところの「絆(きずな)」あるいは「一体感」というものは、そこに当然のものとしてあるものではなく・行動によって確認されなければならぬものとしてあるということです。それがかぶき的心情のドラマの核心になるのです。

「・・と(und)」についてさらに考えます。「・・と(und)」の問いかけは徳兵衛にだけでなく、もちろんお初に対しても突き付けられている問いでもあります。お初は遊女 という社会的弱者です。そのお初がかぶき的心情を発する時・彼女はひとりの人間・ひとりの女性であることを主張 します。これは考えようによっては非常に危険でラジカルなメッセージです。お初本人はそういう社会性まで意識していないでしょうが・これを発展させればそこまで到る危険性を孕むメッセージなのです。とりあえずそのようなお初の心情(あるいは意地と言っても良い)の根拠は何でしょうか。それは 彼女の恋した相手が徳兵衛という商人・大坂町人の誇りである商人であるということです。 徳兵衛の「大坂商人」というアイデンティティーこそ彼女の最後の砦なのです。

「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ」と言う時、もしかしたらお初は・本人よりもずっと憤っています。大坂商人の意地にかけても・この恥はすすがねばならぬ・私の愛する人はまことの大坂商人なのだから・ここでi一緒に死んで見せてやるということになるわけです。お初のアイデンティティーが徳兵衛の アイデンティティーに重ねられているのです。

つまり、お初にも「「私が・・私が・・」が確かにあるのです。しかし、お初の心情は「・・と(und)」によって・その心情に方向性が与えられています。メッセージ性が確かにあって・ たんなる個人の思い入れではなくなっています。これは間違いなく近松門左衛門が創作によって付け加えたものです。これこそが「曽根崎心中」の爆発的ヒットの秘密なのです。


かぶき的心情と「・・と(und)」・その3:赤穂浪士における「・・と(und)」

「・・と(und)」の問いは男と女の間にだけあるものではありません。「忠臣蔵」のモデルである赤穂浪士の場合を見てみます。赤穂浪士の討ち入りは、基本的にはかぶき的心情に発したもので・「武士である自分・浅野家の武士である自分」というアイデンティティーから発するものでした。浅野家の断絶により奉公人である彼らのアイデンティティーの拠り所は失われました。このことに対する強い憤り・やり場のない怒り、それが「我ら浅野家中をこのような離散の憂き目にあわせたものに一矢報いずには置くものか」という初一念になって固まるのです。彼らをそのような境遇に追い込んだすべてのもの(その運命・政治的状況、その他彼らを取り巻くすべてのもの)に対して彼らは怒っています。その怒りの矛先が吉良に向けられたに過ぎなかったのです。それが赤穂浪士の吉良邸討ち入り 事件でした。(別稿「個人的なる仇討ち」をご覧ください。)

ところが大石内蔵助は幕府の取調べに際し・公儀への不満を一切漏らさず・ただ「亡君の無念を晴らさん為」の一点のみを主張しました。そこに赤穂浪士の処分をめぐっての喧々諤々の議論の焦点がありま した。すなわちこれを認めれば・心情に発する無謀な行動を正しいことを認めることになり、これを否定すれば封建社会の最高徳目である主君への忠を否定することになるということです。最終的に幕府は赤穂浪士に名誉の切腹という処分を与えることで・この窮地(ジレンマ)を脱します。こういう混乱した議論にな ってしまったのは、それがたとえ上下転倒したものであったとしても・かぶき者なりの「忠」が間違いなくあって・その「忠」と幕府が最高徳目とするところの「忠」との間の境目があるようでいて・実はなかったからです。赤穂浪士の討ち入りが純粋に武士の 倫理の行為であるならば、そのことで江戸の庶民があれほど熱狂し・「忠臣蔵」のドラマがこれほど日本人の心を捉えることは決してなかったでしょう。江戸の庶民はそれがかぶき的心情から発する行為であることをすぐに理解したのです。ここで重要な問題になってくるのが「・・と(und)」なのです。

内蔵助にとって「・・と(und)」の意味がどれほど重かったのかは、討ち入りに至るまでの彼の慎重すぎるほどの行動を見れば分かります。結果的に討ち入りに参加をしませんでしたが・強硬な討入主張派であった高田郡兵衛は・恐らく討ち入りに参加していれば実に頼もしい仲間であったでしょう。しかし、内蔵助にしてみれば郡兵衛は「私が・・私が・・」が少々強過ぎたのです。仲間をまとめていく内蔵助にとって「・・と(und)」が必須用件でした。それだけが彼ら仲間の心情に共通のメッセージ 性を授けるものでした。そのことを内蔵助は知っていたと思います。


かぶき的心情と「・・と(und)」・その4:「忠臣蔵」における「・・と(und)」

「仮名手本忠臣蔵」における由良助のドラマは相手の心底を見極め、相手が「・・と(und)」の思いを託すに足る人物であるかを試すというところにあります。その点において由良助は慎重の上にも慎重で、 時に冷酷とさえ言えるほどです。しかし、このくらい冷酷でなければ決して大事は成せないのです。

由良助は勘平から届けられた五十両を受け取ろうとしません。「六段目」では・由良助の代理・郷右衛門は「まづもつてその方、貯へなき浪人の身として、多くの金子御石碑料に調進せられし段、由良助殿甚だ感じ入られしが、石碑を営むは亡君の御菩提、殿に不忠不義をせしその方の金子を以て、御石碑料に用ひられんは、御尊霊の御心にも叶ふまじとあつて、ナソレ金子は封の儘相戻さるる」と言って五十両を勘平に返してしまいます。勘平は絶望の淵に突き落とされますが、これこそが由良助の勘平に対する「・・と(und)」の問いなのです。

勘平は切腹に追い込まれますが・結果としてこれにより勘平は四十七士の連判状に名前を連ねることが許されるのです。もちろん討ち入りには勘平は加わることは出来ませんが、芝居の勘平は四十七士のひとりに確かに数えられています。(注:史実のモデル萱野三平は四十七士 には含まれません。)このことは非常に重要なことです。不忠を犯した勘平はこういう形でなければ・仲間に加えることが許されないのです。これが由良助の判断です。そこに由良助の「・・と(und)」の問いの厳しさがあります。由良助は勘平をそこまで追い込んで解答を迫ったのですが、このことは逆に言えば・由良助はそこまでしても勘平を仲間に加えたかったと読むべきなのです。由良助は「十一段目・討ち入り」の場において由良助は勘平の縞の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。これが由良助の「・・と(und)」 の本心でありました。

「九段目」における本蔵に対する由良助の態度も同じです。相手は息子力弥の許婚の父親であり・つまり由良助にとっては身内同然です。しかも本蔵が松の廊下で「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」と判断して (つまり親切心で)塩冶判官を抱きとめたことも由良助はよく分かっているのです。それでも由良助は本蔵を許すわけにはいきません。それは主人判官「恨むらくは館にて、加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と言い残して死んだからです。このことで由良助が苦しんでいることを本蔵は察しています。だから「九段目」で本蔵は悪役を装って登場し・わざと力弥の槍に刺されます。そして「・・と(und)」の答えを自ら提出してみせるのです。由良助は本蔵に討ち入りの心底を明かし、息子力弥と本蔵娘小浪との最後の逢瀬を許します。

どちらの場合においても由良助の慟哭が聞こえるようです。それほどにかぶき的心情における「・・と(und)」の問いの意味は重いものなのです。これを問うならば・問うた者も問われた者も命を賭けねばならぬ・そのような問いなのです。


かぶき的心情と「・・と(und)」・その5:「先代萩」における「・・と(und)」

『同志的結合とは自分の同志が目の前で死んでも・その死骸に縋って泣くことではなく、彼は自分の知らない他人であると法廷でさえ証言できることでなければならない。黙秘権は戦術的に利用されるが、黙秘権という法律上の逃げ道には、人間の行為の複雑な矛盾が秘められているはずである。なぜならそれは拷問による死を意味するのであり、たとえ多少の暴力的行動があっても、現代の法秩序は拷問を否認することによって黙秘権の実質を薄めているのである。』(三島由紀夫:「同志の心情と非情〜同志感と団結 心の最後的表象の考察」・昭和45年1月)

ここで三島の指摘する「同志的結合とは自分の同志が目の前で死んでも・その死骸に縋って泣くことではなく、彼は自分の知らない他人であると法廷でさえ証言できることでなければならない」は、まさにお互いの「・・と(und)」 の意味を確認する行為に他なりません。かぶき的心情の「・・と(und)」の確認の代表的なものが「先代萩」における政岡と千松です。

若君毒殺のために差し出されたお菓子を横から飛び出して食べた千松を八汐がなぶり殺しにします。そして、政岡の反応を確かめるように「政岡どの、こなたは悲しいと思わぬかいのう。・・・・スリャ、これでも悲しくはないか。これでもか、これでもか、これでも悲しくはないかいのう。」と問います。これに対し政岡は「何のマア、お上に対し慮外といい、親の顔まで汚せし千松、お手にかけられたはお家のお為」と言い放ちます。この場面の政岡の心情を竹本は「なぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆるつらさ、無念さをじっと堪ゆる辛抱も、ただ若君が大事ぞと泪一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鏡、今にその名は芳しき」と表現しています。

この場面はまさに政岡が千松に対する親子の「・・と(und)」を証明しようとする瞬間に他なりません。なぜならばこの瞬間に・政岡が母親の情を出して泣いたりしようものなら・千松の犠牲の行為がすべて無駄に帰するからです。この瞬間こそがまさに同志としての政岡の為所です。千松の行為を価値あるものにするも しないも・ここでの政岡の反応に掛かっています。だとすればなおさら母親としての情を出すわけにはいきません。母親の情を出さないことが母と子の確かな絆(きずな)を確認することになる という・この皮肉な状況こそがまさにバロックの引き裂かれた感覚です。(別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)政岡が平然として「(千松を八汐が)お手にかけられたはお家のお為」と言い放つ時が「・・と(und)」のドラマの頂点となるのです。 すなわち政岡にとって千松は我が子である以上に・「同志」なのです。


かぶき的心情と「・・と(und)」・その6:「嫩軍記」における「・・と(und)」

歌舞伎においては身替わり狂言と呼ばれるジャンルがあります。主君のために我が子を身替わりの犠牲にするという筋書きで、その代表的な演目が「一谷嫩軍記」です。愛する我が子を殺すのですから・肉親としての葛藤はあるのが当たり前です。息子を主人の身替わりにする行為が 正しいことなのか・封建制に対する疑問がムラムラと沸きあがってくるということもあるでしょう。しかし、歌舞伎のドラマになるためには・親の感情だけで割り切ることはできないのです。そこに「・・と(und)」の視点がなければなりません。「組討」はまさにそのような「・・と(und)」のドラマの典型です。

須磨の浦は戦場です。誰がその場にやってきてもおかしくない状況です。敦盛を斬るのを躊躇する熊谷に「ヤアヤア熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と平山武者所の罵声が飛びます。熊谷はこのような衆人環視のもとで敦盛の身替りとして我が子を斬るのです。無官の太夫敦盛卿の身替わりとして我が子を斬る熊谷の行為は平山だけではなく・観客までも騙そうという大博打・時代物の一大虚構(トリック)です。しかも大事なことは、この大博打は 直実だけで成すことはできないということです。この大博打は直実と小次郎親子の共同作業です。これは親子が「・・と(und)」を確認しようとする行為です。

「主人義経の命令であるとか・藤の方に義理があるとか言うのは親父の都合だろう・俺には俺の人生があるんだ」と小次郎が言ったら・この「一谷嫩軍記」のドラマは 成立しないのです。だからこの身替わりの大博打を貫徹させた父直実も息子小次郎も同じ目的遂行のため共同でその行為に当たっていることが分ります。このふたりをつなげるものは親子の情以上のものです。それは家(あるいは家族)というもののアイデンティティーに裏打ちされたかぶき的心情の「・・と(und)」 です。この「・・と(und)」によって直実親子のかぶき的心情は方向性を持つのです。だから直実にとって我が子小次郎は同志なのです。(このことは「かぶき的心情」の問題としてサイト「歌舞伎素人講釈」で繰り返し論議をしてきましたので、ここでは論じません。)

「陣屋」においては・残された父熊谷は・息子から突きつけられた「・・と(und)」の問いを証明してみせることを厳然たる課題として持ち続けなければなりません。そうでなければ親子の共同作業は完成しないからです。熊谷は「物語り」で我が子を殺した事実を隠して嘘を語り、さらに首実検では我が子の首を義経に差し出して・それを敦盛の首だと主張します。そこに親としての葛藤があるのはもちろんですが、これは死んだ小次郎に対する・残された者の責務であるのです。直実の葛藤の枷(かせ)が外部から強制されたものだと考えるのではドラマの理解はまったく不十分です。直実のなかの「・・と(und)」の意識が内側から自らを鼓舞し規制する・そういう内面からの枷だと考えなければなりません。

幕切れで義経が花道に立つ僧形の直実に小次郎の首を抱えて見せます。それは義経が『この小次郎がそなたの「・・と(und)」であったのだな』と言ってくれているということです。義経がこう言って涙して・直実の行為を認めてくれるからこそ直実親子は救われるわけです。

(H18・4・19)


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