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いき過ぎたりや

〜バロック的なる歌舞伎・その2


『専制君主は好んで自分が芸術のパトロンであるというふりをする。この事実は広く知られている。しかし、専制君主は芸術について何も理解していない。なぜか。なぜならば、専制というのが倒錯であり、専制君主もやはり倒錯者だからである。それにはたくさんの理由がある。専制君主は屍体を踏み越えて権力に接近するものだ。権力が誘惑的であり、人々を抑圧し、愚弄しうることが魅力的なら、権力欲というのは果たして倒錯的ではないだろうか。論理的に首尾一貫している者なら、この質問を肯定しなければならない。権力への欲求が心のなかに生まれる瞬間に、その人はもはやどうしようもない人間になるのだ。私にしてみれば曖昧な青春時代の迷いだけで十分なのに。』(ソロモン・ヴォルコフ編:「ショスタコービッチの証言」・中央公論社)

*ソロモン・ ヴォルコフ編:「ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)

1)慶長という時代

吉川英治の小説「宮本武蔵」は、若き武蔵(当時は「たけぞう」)が関ケ原の合戦(慶長5年・1600)に参加する戦場の場面から始まります。武蔵に限らず・この頃の若者は誰でも戦功を挙げて・どこかの大名に召抱えられて・いつかは侍大将になってやるなどと夢見たことでしょう 。力のある者がのし上がって・天下を取ることだってできた時代、それが下克上の戦国の世でした。しかし、そうした時代の熱いダイナミズムは関ヶ原の戦いを境に急速に冷えていくのです。

武蔵も一時は武芸者として名を挙げて・侍大将になることを夢見たに違いありません。しかし、やがて武蔵は剣をおのれを高める道へと目覚めていきます。我々のイメージする武蔵像は吉川英治の小説に負うところが多いわけですが、「剣はほんらい人を殺めるものであるのだが・それでいいのであろうか」と武蔵が思い悩む場面などはまことにそれらしく思います。新しい江戸の世は武士に戦闘者としての力量をもはや要求をしていなかったのです。確かに剣は武士のトレードマークではあったし・それ以後もそう あったことには違いありません。しかし、江戸の武士に求められたのは文官としての能力でした。だとすれば、武士(もののふ)のための剣とは何なのか。そうした問題をすべての武士たちが自問自答せずにはいられなかったでしょう。

関が原の戦いから大坂夏の陣に至る慶長年間(1596〜1614)で徳川幕府の体制はほぼ整い、以後は大きな戦さはなくなり・天下太平の世が始まります。社会がめまぐるしく変転する下克上のダイナミックな時代は終り、世の中は急速に冷え込み・身分は固定されていきます。志と実力さえあれば、身分の低い者でものし上ることができた時代は終ったのです。

戦国の世で膨れ上がった戦闘集団の扱いが問題でした。彼らは主家を失った将校クラスの浪人武士ばかりではありません。むしろその大半は若党・足軽などと呼ばれた者たち、そして戦場において馬を引き・槍をもつ下人(げにん)と呼ばれる者たち、あるいは農村から飛び出してきて・荷物などを運ぶことをしながら戦闘に参加した百姓たちでした。彼らをひっくるめて「雑兵(ぞうひょう)」と呼びました。さらにその周辺の商工にかかわる軍産複合体的な存在、彼らは士農工商というような枠には当てはまらない存在で・社会を自由に行き来して安土桃山の世のダイナミズムを作り出していました。

彼らはエネルギーをもてあまし・戦いを求めました。戦いがないと稼ぎにありつけないし、のし上がる機会もないのです。こうした不満が豊臣政権の頃からくすぶり始めています。秀吉の朝鮮出兵もそれが遠因になっています。雑兵たちの不平不満のはけ口を国の外に向ける必要があったのです。そして、徳川政権になってからも・取り潰された大名家の浪人たち ・雑兵たちの問題は解決されないままに放置されました。そうした背景のなかで由比小雪の乱や島原の乱が起きるのです。また、存続した大名家でも・その膨れ上がった家臣団の扱いは経済的な面からもずっと悩みの種でした。

こうした江戸初期の若者の心情を代表する科白が「生き過ぎたりや」です。当時のかぶき者の風俗は、「駿府記」によれば「鬢髪(びんぱつ)を切り下げ、狂紋を染め、太刀長柄(たちながえ)を帯び、その容貌尋常ならず」というもので・その長い太刀には戯言が刻んであったと言います。当時のかぶき者が納めたと思われる朱鞘の太刀が名古屋の熱田神宮にも残っています。それには「生過(いきすぎ)タルヤ廿五、都築氏」と記されています。二十五歳を過ぎて「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもう少し早く生まれるべきだったのだ・この時代は俺の時代ではない」という思いがこの時代の若者の共通の思いなのです。

「いきすぎたりや廿三、八まんひけはとるまい」(「豊国大明神臨時祭図屏風」)、「廿五迄いき過ぎたりや、一兵衛」(「当代記」)

戦国の世が去り・実力があればのし上がって天下人にもなれる可能性がまったくなくなり、身分は固定され・新しい社会秩序が急速に出来上がっていきます。世の中は「実力の時代」から「法と秩序の時代」に急転換していくのです。そうした時代に乗り遅れた若者たちの 失望 と自嘲の台詞が「いき過ぎたりや」なのです。その自由闊達な気風が・次第にジリジリと締め付けられていくような、イライラした息苦しい雰囲気を感じるようになっていきます。その憤懣と苛立ち、それがこの時代の心情の特徴です。そのなかで武蔵のように自己をストイックに高めていける実力のある者はまだよかったのです。しかし、大半の者たちはそうではありませんでした。そしてその有り余ったエネルギーのはけ口が派手な衣装・粗暴な行動になって現れます。これが「かぶき者」の気性なのです。

2)お国かぶき

慶長8年(1603)5月6日、西洞院時慶(にしのとういんときよし)の記す「時慶卿記(ときよしきょうき)」によれば、「女院御所へ女御殿お振舞ひあり。ヤヤコ跳りなり。雲州の女楽なり。」とあります。同じ日の、舟橋秀賢の記す「慶長日件録」の項 には「於女院、かふきをとりこれあり。出雲の国の人。」とあります。これよりちょっと前からのことと思われますが、京都・北野天満宮や四条河原などでお国が演じた「かぶき踊り」という官能的な前衛踊りはたちまち人々の話題をさらいました。これを以って1603年を歌舞伎発祥の年とするわけです。

この同じ年・慶長 8年(1603)2月12日に徳川家康は伏見城において朝廷から征夷大将軍を任ずる旨の宣下を受け・江戸幕府の基を開いています。封建政治権力と「かぶき者の演劇」という相容れないふたつの存在が同じ年に誕生したというのは象徴的なことです。これ以後、歌舞伎の体制への戦いは紆余曲折を経ながらも続いているのです。

かぶきとは「傾き」のことで・ゆれ動き不安定な状態を表しました。これを転じてかぶきは、まともではない逸脱した行為のことを指すようになりました。このように「かぶき者」というのは無法の者・無頼の輩のことを言うのですが、これはいわば「体制」から見た場合の表現です。逆の見方をすれば、かぶき者は何ものにも束縛されない・自由を追い求める者たちです。彼らは自己(アイデンティティー)を主張し・自分がこうと思ったものには命を掛け・嫌だと思ったことは断固として拒否するのです。そうした者たちが生んだ演劇が「かぶき(歌舞伎)」なのです。

歌舞伎を創始したと言われる出雲のお国がどういう素性の女性かはよく分かっていません。また、お国かぶきがどんなものであったかも明らかでない点が多いので、本稿ではあまり深入りしません。しかし、お国かぶきの全体の構成は能に似たところがあって、お国は念仏踊りのほかに・みずから男装して茶屋の女と戯れてみたり・最後は見物を舞台に引き込んで一緒に踊り狂ったりしたもののようです。またバテレンの新奇異様な風俗を取り入れたりもしました。当時は時代の好みを取り入れて作りものや衣装に趣向をこらした風流(ふりゅう)の時代でした。

当時の風俗画を見ると、御茶屋通いのお大尽を演じるお国は男装をしています。お国が男装をするのは男優が女性を演じる「女形」のような性的転換技法ではありません。これは女性であるお国が男性の成りをすることで性の枠組みを越えて(男性とか女性とかいう枠を越えた)ひとりの人間としての自己主張をしているのだと考えるべきでしょう。別稿「本当は怖い道成寺」での白拍子の性的越境についての考察をご参照ください。お国の男装というのは白拍子の男装と同じ延長線上で・性的越境した女性の・ラジカルな人間主張であるのです。このことがお国の踊りが新奇なものとされた理由のひとつ です。

つまり、お国の男装の踊りは「かぶき的心情」・つまり自分が一人の人間であること・自分が自分であることの(そしてひとりの人間としての女性の)アイデンティティーを主張するものでした。彼らはそのような心情を派手な衣装・異様な成りで自己主張をしました。そのような風俗が「傾き(かぶき)」と呼ばれました。創成期の歌舞伎とはそのような連中・かぶき者たちによるかぶき者たちのための芸能でした。そのような連中が旧来の「神に捧げられた演劇」を拒否して、「自分たちのための・人間のための・民衆のための演劇」を要求するのです。必然的にその演劇はより自由でダイナミックで、そして自然で写実な表現を目指そうとする方向へ動こうとします。創成期の歌舞伎は女優を伴った自然主義・写実主義の演劇へ進化する方向が必然であったと吉之助は想像します。

お国かぶきを伝える「歌舞伎絵詞」を見てみると、お国は名古屋山三(さんざ)に出会うことになっています。山三は実在の人物で当時の有名なかぶき者でした。山三が同僚との喧嘩沙汰で死んだのは慶長8年4月10日のこととされていて、この芝居の時点では山三は既にこの世にはおりません。だから、芝居ではあの世の山三の亡霊が現れて・お国と出会い・ありし日を懐かしんでかぶき踊りを一緒に踊るという筋書きになっています。

山三:「念仏の声にひかりつつひかれつつ罪障の里を出ようよ。のうのうお国に物申さん。われをば見知り給わずや。」
お国:「思いもよらず貴賎のなかに、わきて誰とか知るべき。いかなる人にてましますぞや。御名を名乗りおわしませ。」
山三:「いかなる者の問い給う。われも昔の御身の友。なれしかぶきを今とても、忘るることのあらざれば、(中略)かように現れ出でしなり。」
お国:「さてはこの世に亡き人の、うつつにまみえ給うかや。」
山三:「(前略)花のなごりの玉鬘。かけても思い出さるるや。」
お国:「ことばの末にて心得たり、さては昔のかぶき人の、名古屋どのにてましますか。」

かぶき者・名古屋山三の亡霊をあの世から呼び出す体裁を採っていることはまことに興味深いことです。それは実際の山三が既に死亡しているという事実(もちろん観客もそれを知っていたでしょう)のせいがありますが、まだまだその記憶が生々しい頃のことです。山三は同時代の民衆のヒーローでした。そういう人物を何の理由もなしに突然舞台に登場させてお国に対面させることはできません。芝居は所詮「偽りごと」ではあるのですが、それを「真実めかしたお慰み」として観客に認知させるためにそれなりの手続きがいるのです。そのためにお国かぶきは能の神事の形式を取り入れているわけです。

その昔はお国と山三の恋人説というのがよく言われたそうです。それは「われも昔の御身の友」などという台詞から来る連想なのでしょうが、史実ではありません。しかし、こういう誤説が まことしやかに伝えられているのも・山三という同時代に生きたヒーローが芝居に登場してくることへの観客の感動・思い入れから来るものなのです。観客はお国と山三との出会いをそこで起こったものと認知して・自分自身に重ねているのです。そこにかぶきの同時代性への共感・感動があるのです。お国かぶきが能の形式を取り入れてい たことは、お国の夫山十郎は狂言師であったようですし・猿若や伝介など狂言の流れを汲む役者が一座にいたことからも納得できます。お国かぶきは能狂言の流れから発しながら・同時代性と写実という演劇の新しい要素を追求しようとする演劇運動であったわけです。

もちろん先行芸能である能狂言においても同時代演劇の試みはされなかったわけではありません 室町後期の能には時事を取り入れた構成の複雑なものがあります。太閤能なども最新の出来事を取り入れた同時代演劇の試みでした。しかし、能狂言の表現は式楽(儀式のための宗教的な芝居)として為政者に保護されるようになって以後は次第に硬化していきます。そのことに飽き足らず・民衆のための芝居を求めてあえて野に下った能楽師・狂言師たちがいたのです。山十郎や猿若 もそうした者たちであったでしょう。

3)疎外された心情

なぜ幕府にとってかぶき者が目障りであったのでしょうか。これについては別稿「かぶき的心情とは何か」で触れました。かぶき者の気風は当時の言葉では「男道(おとこみち)」とか「侍道」とも言われました。もともとは武家の奉公人や最下層の武士から起こった気風 と言われていますが、その気風は上は大名・旗本から下は町人にまで及んでいます。なぜならば「生き過ぎたりや」という思い・時代へのフラストレーションははぐれ者のかぶき者だけの心情ではなかったからです。それは江戸初期を大きく覆う時代的気質と言うべきものでした。

かぶき者の原点には「強烈な自意識・自己主張」がありました。それは封建制度でのあるべき主従関係とはちょっと違ったもので、ほれた主人には命を賭けて尽くすといった感じです。逆に言えば、主人が気に入らなければ反抗するということでもあります。実際に・家来が反抗して・主人を叩き斬るなどという事件も少なからず起こりました。家来の反抗が怖いので・主人がビクビクしていたなどという話もあったようです。このように彼らの過激奇矯な行動は自らのアイデンティティの主張(自己主張)から出てくるものです。何かの拍子にそれが噴出して封建制度の序列・体系といったものを内部から破壊していく方向に働くという危惧がありました。それは戦国の世ならプラスに働らいたかも知れませんし・使いようもあったわけです。しかし、平時においては強烈な自己主張は秩序の内部破壊につながると受け取られたのです。派手で異様な風俗が嫌われたというのは外見的な付け足しの理由なのでして、幕府はこのことをこそ真に恐れたのです。

だとすれば「かぶき者の演劇」を標榜するところの歌舞伎を幕府が危険視しないはずがないのです。歌舞伎の歴史を紐解けば、寛永6年(1629)女歌舞伎の禁止、慶安4年( 1651)江戸中村座など堺町への移転、承応元年(1652)若衆歌舞伎の禁止という流れになります。

幕府は成立と同時にかぶき者に対する弾圧に着手します。その政策が特に厳しくなるのは三代将軍家光の末期(慶安年間)頃から四代将軍家綱の前期(寛文年間)頃までで、西暦で言うと1640年頃から1670年頃までということになります。これを見れば歌舞伎への弾圧はかぶき者への弾圧と並行しており・目的を同じくしたものであることが一目瞭然です。歌舞伎のガイド本には「女歌舞伎・若衆歌舞伎は売春・男色などで風紀を乱したから禁止された」と書いてあります。そういう面ももちろんありま すが、それは幕府の表向きの理由なのでして・真の理由は「かぶき者対策」なのです。

初期の歌舞伎の演目として、傾城買いの「島原狂言」というのがありました。「島原」とはもちろん京都の遊郭の島原のことですが、島原と言えばもうひとつ頭に浮かぶのは天草四郎の島原の乱です。実は島原の乱はキリシタン弾圧への抵抗として起こったものというより・「生き過ぎたりや」の思いを強く持って幕府に不平不満を抱いた浪人や雑兵たち・つまりかぶき者たち が先導して起こした反乱でした。寛永18年(1641)に幕府により京都の遊郭が六条三筋町から現在の朱雀野の地に移動を命じられた時・ 遊女や遊郭の者たちが唄を歌い・荷物を運んで行進する喧騒の凄まじさが島原の乱を思い起こさせたというのが今の「京都・島原」の名の起こりと言われています 。しかし、実は遊郭もかぶき者たちの溜まり場であったのです。それは「悪所」と呼ばれていました。だから「島原」という語句が穏当な響きであるはずがないのです。それは非常に危険な反体制的な響きを持っているのです。だとすれば「島原狂言」 とは他愛ない傾城買いの芝居ではないのかも知れません。そう考えてみれば島原の乱も・京都の島原も・歌舞伎の島原狂言も実は同じ「根っこ」を持っていることが分かります。それらは「かぶき者」というキーワードでつながっているのです。

江戸幕府が成立してから半世紀以上立ってもかぶき者は横行しました。しかし、寛文年間以降はかぶき者の抵抗は次第に弱々しいものになり、やがて目立たなくなっていきます。もちろん表向き目立たなくなっただけのことで、問題の本質は解決されないまま・社会のなかに潜り込んでしまったのです。かぶき者の気風は形を変えて武士や町人たちの心情の奥深くに入り込み・その倫理観に強い影響を与え続けます。これが「歌舞伎素人講釈」で提唱するところの「かぶき的心情」です。

『いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する。バロック精神とは、通俗的な表現で分かりやすく言えば、自分が何をしたいのか分からないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ。重力によって下降すると同時に飛翔したいと望んでいるのだ。』(エウヘーリー・ドールス:「女性の敗北と勝利」・「バロック論」に所収・美術出版社)

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

かぶき的心情とは、必死で生き抜こうとした者たちが・自己の信ずるものに殉じる行為です。彼らは生きようとして・死を志向するのです。

「歪んだ真珠:バロック的なる歌舞伎・その1」において、歌舞伎は疎外された芸能であるということを考えました。「いき過ぎたりや」(この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・ 俺はもう少し早く生まれるべきだったのだ・この時代は俺の時代ではない)というかぶき者の心情自体がすでにして疎外されて・歪んでしまった心情です。それは非常に強い「バロック的」な心情 なのです。歌舞伎は、その誕生から個(アイデンティティー)の実現を主張し・現実にはそれを満たすことの出来ないかぶき者の引き裂かれた心情を体現する芸能として・幕府に常に敵視され疎外され続けたのです。

そうした歪んだ心情を背景にした創成期のお国かぶきもまた歪んでいないはずがありません。お国かぶきの新奇異様な趣向にそれが見えます。しかし、歌舞伎はまだ生まれたばかりです。お国かぶきには民衆のための写実・同時代演劇を目指そうとする前向きな創造意欲が見えます。

しかし、そうした創成期の歌舞伎の試みも幕府によって打ち砕かれました。寛永6年(1629)幕府により遊女歌舞伎は禁止され、歌舞伎で女優を使うことはできなくなりました。歌舞伎は仕方ないので女形という虚構の存在を使って興行を続 けますが、この時から歌舞伎は真の意味で写実的な演劇ではなくなったのです。幕府によって同時代の事件・出来事はこれを劇化することは許されませんでした。(正保元年・1645・「狂言中に現在の人名を使用不相成」)江戸の風俗を描写しながらも・歌舞伎は「これは架空の出来事です」という前提から逃げることはできませんでした。歌舞伎は真の意味で同時代の演劇ではなくなったのです。こうして歌舞伎という芸能はさらに歪んでいきます。そして、その歪みがついに歌舞伎のフォルム(様式)になっていくわけです。

(H17・4・17)

(後記)

別稿「かぶき的心情とバロック」「ふたつの魂」「日本におけるバロック的なるもの」「ジャポニズムとバロック」などの記事において、芸術作品における・その具体的な現れをご覧下さい。

別稿「かぶき的心情」とは何か」「試論・歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」「女形の哀しみ〜歌舞伎の女形の宿命論」もご 参照ください。
 

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