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近松門左衛門:浄瑠璃への移籍


1)絵番付の謎

人形浄瑠璃の絵番付で現存する最も古いものは元禄16年(1703)5月7日竹本座で初演された「曽根崎心中」のものといわれております。その番付には外題の下に、「作者近松門左衛門」・「おやま人形辰松八郎兵衛」の名前が並べて大書してあります。番付に座元である竹本義太夫(筑後掾:ちくごのじょう)でも作者近松でもなく、人形の辰松の口上が記されているのは、当時はお客の目当ては人形であったからでしょうか。辰松は口上で次のように述べています。

「この度上演する曽根崎の心中の儀は京都におりました近松門左衛門が先月、ふっと大坂へ立ち寄りました時にこの事件に出会い、お慰みにもあろうかとこれを即浄瑠璃に仕立てたのでございます。もう既に歌舞伎でも上演されていてさほど変わるものでもありませんが、浄瑠璃では初めてでございます。」

ここで辰松の言う事件とは、同じ元禄16年4月7日に大坂北の曽根崎天神の森で若い男女の心中があったことを指しています。男の名は醤油屋・平野屋の手代徳兵衛・25歳、女の名は堂島新地天満屋の遊女お初・21歳(19歳との説もあり)。口上にあるように、歌舞伎では大坂の竹嶋幸左衛門座でこの事件をさっそく狂言に仕組んで上演しています。この時期の竹本座は歌舞伎の隆盛で経営が圧迫されて危機的状態にあったといわれています。これを一気に挽回する空前の大当たりとなったのがこの近松作の「曽根崎心中」でした。

さてこの辰松の口上では作者近松は「ふっと大坂に立ち寄り」とあります。近松はもともと宇治加賀掾のもとで浄瑠璃を書いて作家としてのキャリアをスタートしました。その後、竹本義太夫との交流が始まり、なかでも貞享2年(1685)竹本座での「出世景清」は浄瑠璃の歴史を書き換えた作品であり、この作品以前の浄瑠璃を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃あるいは当流浄瑠璃と区分されて呼ばれるほどのものです。その後、近松は初代坂田藤十郎のために歌舞伎も書くようになるのですが,特に元禄6年から元禄16年までの十年間は京都の都万太夫座にある藤十郎のために京都に住んでほとんど歌舞伎だけを書いていました。元禄十六年初めにも歌舞伎「けいせい三の車」を書いています。それがこの「曽根崎心中」をきっかけにして近松は浄瑠璃に戻り、その後は大坂に住んで死ぬまで浄瑠璃執筆に専念することになります。つまり近松は歌舞伎から浄瑠璃に乗り換えたわけです。

辰松の口上にあるように本当に「近松はたまたま大坂へぶらりと立ち寄って事件に接しそのまま大坂に居着いてしまった」ということであったのでしょうか。これはもしかしたら、現代の芸能界で大物タレントが芸能プロを移籍するような事件であったのかも知れません。それを隠すための「ふっと大坂へ立ち寄り」といういい訳だったのではないか。もしかしたら近松は歌舞伎から浄瑠璃へ創作活動の新たな展開を求めて竹本義太夫に接触を図ったのかも知れません。あるいは当時の竹本座の経営は歌舞伎の攻勢を受けて窮地にありましたので義太夫はテコ入れのために作者近松の引き抜きを図ったのかも知れません。・・・・とこれは私の妄想でありますが。

2)義太夫節の可能性

こう吉之助が妄想しますのは、近松が歌舞伎を捨てるに足るそれらしき理由がどうも見当たらないからです。立女形の初代芳沢あやめとの折り合いが悪かったとの話もあるようですが定かではありません。歌舞伎の世界での近松の待遇が悪かったということもないようです。なにより座頭の藤十郎は作家近松をたいへん尊敬しており、その脚本の一字一句たりとも勝手に改変することを一座に許さなかったほどに立てていました。

ただ元禄16年(1703)頃というのは「傾城買い」の名人であった藤十郎の人気に陰りが見え始めた時期でした。藤十郎は宝永4年(1707)に引退し、その二年後に逝去していますから、とすれば近松はそれで藤十郎に見切りをつけたのかも知れず、その浄瑠璃への移籍のタイミングは結果からみれば正解だったということになるかも知れません。

藤十郎は引退にあたり後継者である大和屋甚左衛門に紙衣譲りという儀式を行なっています。紙衣は藤十郎のトレードマークというべきもので、藤十郎生涯の当たり役である「夕霧名残の正月」(延宝6年・1678)の伊 左衛門や「けいせい仏の原」(元禄12年・1699)の文蔵と切っても切り離せません。もちろんどちらも近松の筆になるものです。

一方、近松の七五調を排して写実的な話し言葉を浄瑠璃文体のなかに取り込んでいった近松の作風は藤十郎歌舞伎を体験したからこそであった、と言えると思います。藤十郎の芸の魅力は何と言ってもその写実的な語りにありました。(したがって、近松の文章は七五で語調を整える部分が少なく、余計な修辞がつかないので、今の浄瑠璃の太夫には語りにくいとされています。)

そうした関係にあった近松が藤十郎のもとから意識して離れたとするならば、どのようなことが考えられるでしょうか。作家近松の立場から考えるとこういうことが考えられるかも知れません。歌舞伎においては筋立ては座組みを考えて組み立てていくのが普通です。あの役者にはこの役を、この役者にはこういう仕所を与えようなどと考えながら脚本を書いていきます。その創作は当然ながらある種の制約を受けざるを得ません。近松はそういうことがだんだんつまらなくなってきたのだろうと思います。浄瑠璃なら自分のイマジネーションを思い切り膨らませて自由に創作ができると近松は思ったのかも知れません。人形ですから役の性根は自由自在に設定できます。あとは太夫の表現力次第です。

もちろん浄瑠璃は一人の太夫による語り物であり音曲です。旋律を伴った語りは、役者が演じる歌舞伎よりどうしても写実性から遠ざかってしまうはずのものです。それでもなお近松が歌舞伎から浄瑠璃に乗り換えならなかったとすれば、やはりこれは近松が義太夫の語り物(義太夫節)の可能性に掛けたのだと言わなければならないでしょう。

元文3年(1737)に刊行された浄瑠璃注釈書「難波土産(なにわみやげ)」冒頭には、穂積以貫(ほずみいかん)が聞いた近松の言葉が記されています。それによれば「総じて浄瑠璃は人形にかかるを第一とすれば、外の草紙と違ひて、文句みな働きを肝要とする活物なり」。浄瑠璃は科白とト書きの部分があるわけですが、ト書きの部分が単に人形の動作を説明するだけでは人形は生きてきませんし、また詩文的に情緒だけに流れてしまってもやはり人形は生きません。つまり「詞(科白)の部分がいつしか地(旋律)へ流れ込み、またいつの間にか地が詞へかえっていく」というダイナミックで自在な流れこそが浄瑠璃を生かし人形を生かすのだということです。

竹本義太夫によって浄瑠璃(義太夫節)はそうした地・詞・イロ・地イロなどの声の技巧の使い分けにより高度な表現力を獲得し、一段と高い芸術への可能性を見出しました。「難波土産」において近松は、これまでの浄瑠璃は祭文同様で花も実もないものであったが自分が出てそれを一段と芸術的に高いものにした、とその自信のほどを言っています。近松は藤十郎歌舞伎で得たもの(写実の芸)をさらに義太夫節で試してみる決意をしたと、近松の歌舞伎から浄瑠璃への移籍はやはりそういうことだったのだろうと思うのです。

(H13・3・18)


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