(TOP)              (戻る)

歪んだ真珠

〜バロック的なる歌舞伎・その1


1)歌舞伎のふたつの死

本稿は「歌舞伎とはどういう演劇か」を吉之助流に無手勝にて考えるものです。「歌舞伎は江戸の民衆から発した民衆のための芸能である」という認識があります。これはもちろんその通りなのですが、この認識の意味を少し考えてみたいのです。

能狂言は為政者(時の室町幕府・あるいは諸大名たち)に庇護されて・そのなかで発展しました。能楽の題材は「源氏物語」や「平家物語」のような文学・あるいは神話伝説・歴史的事件に取材していますが、いわゆる同時代の・その時代に生きる彼ら自身の姿を等身大に描写したものではありませんでした。狂言では、能楽と比べればその時代に生きる人々の息吹きが見えます。しかし、その登場人物はまだ「太郎冠者」・「次郎冠者」という一般記号に留まり、固有の人間としての人格を持ってはいませんでした。このことは能狂言は題材を普遍化し・役を象徴化し・演技を様式化するのだという風にも解釈ができますが・これは後世から演劇を顧みた場合の感想なのでして、能狂言は意識下において演劇を自己と未分化した段階でとらえている・多分に無意識的なところがあるという風に解釈することができると思います。それが能狂言が「夢幻的」であるというイメージにもつながっています。

そういう視点から「歌舞伎は江戸の民衆から発した民衆のための芸能である」というテーゼを検討してみます。慶長8年(1603)出雲のお国に発した「かぶき(歌舞伎)」という新しい芸能は一体どういう演劇に発展して行こうとしていたと想像できるでしょうか。

まず歌舞伎は同時代演劇であろうとしていたと考えられます。次に具体的かつ写実的な演劇であろうとしていたと考えられます。登場人物は「武士」あるいは「町人」という一般化された記号ではなく・「 何の何兵衛」という固有の名前と人格を持ち・それぞれの生い立ちと背景を持つことになったでしょう。そして 登場人物たちは自分の意思で決断し・行動し・発言する、そういう演劇に発展して行ったでしょう。「歌舞伎は江戸の民衆から発した民衆のための芸能である」というならば、歌舞伎はそういう方向に発展して行こうとしていたのではなかったかと想像するわけです。

確かに「歌舞伎400年」の歴史を俯瞰すれば、大筋においてその方向性が漠として見えます。しかし、理念的に歌舞伎を突き詰めた場合には「歌舞伎が同時代演劇であった」ことはなかったのです。なぜならば江戸幕府によって同時代の事件・出来事はこれを劇化することが許されていなかったからです。(正保元年・1645・「狂言中に現在の人名を使用不相成」)風俗を描写しながらも・「これは架空の出来事です」という前提から逃げることはできなかったのです。歌舞伎が写実的な演劇であったこともなかったのです。なぜならば女形という虚構の存在があるからです。この世には男がいて女がいるのですから、この世の実相を舞台に表現しようとする時には本当は舞台には男優がいて・女優がいなければ・その演劇は決して「そのまま」であるはずがないのです。江戸幕府によって歌舞伎で女優を使うことは禁止されていました。(寛永6年・1629・遊女歌舞伎禁止令)歌舞伎は仕方ないので女形という虚構の存在を使って 興行を続けました。そうなると女形が女らしく見えなければならないと同時に男優も男らしく見えなければ芝居にはなりません。「・・らしく見える」ことが演技理論として非常に大事なことになります。おのずとそのキャラクターは類型化(パターン化)し・様式化せざるを得なくなります。だから歌舞伎の登場人物が固有のキャラクターを持つこともなかったのです。

以上はもちろん「理念的に突き詰めれば・・・」の話です。反証らしきものはいくらでも挙げられますが、まず理念的な流れを大きくつかむ必要があります。このことは重要なことでして・本稿をお読みになる前提として意識していただく必要があります。歌舞伎は「江戸の民衆から発した民衆のための芸能」という理念を完全に実現したことはなかったのです。民衆のための芸能を標榜しながら・完全にはそうならなかったのです。(そうしようとして・そうさせてもらえなかったということで もあります。)そうした「矛盾」のなかに歌舞伎はあるのです。もちろんそうした矛盾のなかでも、同時代の演劇であろうとする・写実的な演劇であろうとすることを貫こうとする挑戦は続けられました。その挑戦のなかで・いつしかその矛盾が歌舞伎のフォルムになっていくのです。それが歌舞伎400年の歴史です。

別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1・時代にいきどおる役者」において、歌舞伎400年の歴史のなかで・これが「節目」であったと思われる象徴的事件がふたつあったと書きました。ひとつの「節目」は、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。もうひとつの「節目」が明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死 、つまり江戸歌舞伎の終焉です。

「歌舞伎が 民衆のための同時代演劇であった」というテーゼからすれば、歌舞伎はこのふたつの「節目」において本質を否定され・二度死んだと言うことができます。まず第1の節目(遊女歌舞伎の禁止令)において歌舞伎は女優を奪われ・写実の演劇であることができなくなりました。つまり、その時点で歌舞伎は理念上死んだのです。次に第2の節目 (九代目団十郎の死)により、歌舞伎は精神的な故郷である江戸とのつながりを断たれました。つまり、この時点で歌舞伎は同時代演劇であろうとする希望を完全に断たれたのです。

それでもなおも歌舞伎は蘇り・同時代演劇であり・民衆劇であり続けようとしたのです。そして、歌舞伎は原初期においてその理想とした姿とは結果的に違う演劇になってしまいました。つまり、歌舞伎は歪んだ演劇となったのです。これが歌舞伎の様式(フォルム)となり・魅力となったのです。

2)「民衆劇であり・神事」

芸能は神事から発したということは歴史認識として疑いのないことだと思います。芸能(この場合音楽・舞踊・芝居などのパフォーミング・アートを指します)は神に捧げられるものとして演じられ、その興奮と恍惚と狂騒により・観客と祭事の場を共有しました。演者は祭司であり、神の意志の仲介人でもあったわけです。歌舞伎も芸能としてそのような神事の根っこを持っていることは確かなことです。だから、例えば「助六の悪態は神事から発する」と言えば・なるほどそんなものかとあまり深く考えずに納得してしまいます。(このことについては別稿「悪態の演劇性」において触れましたからそちらをご参照ください。)

今では「助六」の悪態を聞いても・そのスカッとした啖呵の威勢の良さを楽しもうといった単純なもので、神事を意識することはほとんどないでしょう。悪態はもともと神事だったと言われても・あまりピンと来ないと思います。「助六」は古い時代の芝居だからそのような神事の根っこは持っているものだろうし・それが中世から近世への移行期の演劇としての過渡的形態なのだろうと何となく納得してしまって・その意味を振り返ることはあまりないと思います。しかし、逆に現代の視点から見て「助六の悪態が神事」であるということはどういうことであるかということも考えてみる価値があるのです。

神事とは神を讃えるということで、この世の有り様を「然り」として受け入れるということです。この世はこういうものであるということを示すということです。これは宗教を問わず・神事とはそういう役割を持つものです。つまり、そこに神事を共有する者たちの世界観が反映するのです。このことは芸能が寺社の境内、あるいは都市の空き地でも河原でも良いのですが、公(おおやけ)の場で演じられるようになっても本質は同じです。芸能はそこに人生の喜び・哀しみ・苦悩・怒りなどさまざまな感情を描き出すわけですが、神事においては・たとえどのような悲嘆であろうが「人生というのはそういうもの・それが人生なのだ」ということになります。「人生はそういうものだと思ってあきらめろ」と言っているのではないのです。「それが人生なのだ・然りと受け止めて・なおもひたすらに健気に生きよ」ということだと思います。人生の喜怒哀楽が神のもとに捧げられて「然り」となるのが神事の本質なのです。このことから神事としての芸能は「神に捧げられ・神のために演じられるもので・他者的である」ということが言えます。

これは為政者から見れば、古代の為政者は宗教も司(つかさ)どったわけですから当然のことなのですが、為政者にとって神事は都合のいい要素があることになります。神事によって提示される「然るべき世界観」というものを 現治世への肯定に重ね合わせることが出来るからです。神事が愛でる「天下泰平・国家安泰」は為政者にとっても望ましいメッセージであるのです。そのことが為政者がを常に芸能を取り込もう・芸能を自らのコントロールに置こうとすることにつながります。為政者が神と重ねあわされるのです。

一方、芸能が人生の喜怒哀楽を描こうとして・その実相になお迫ろうとした時、主人公を抑圧している「状況」の正体が突然明確に見えてくることがあるかも知れません。主人公が「俺にそのような仕打ちをするのは理不尽である・不当である」と訴える場面においては・そこには個(アイデンティティー)の主張がはっき りと見えます。そういう場合でも神事ならば「それは神の与え給うた試練であった・人生とはそういうものなのだ」という結論に収斂されてしまいます。そしてその喜怒哀楽は神のもとで清められてしまいます。何も残らないというのではありません。しかし、主人公の訴えは観客の心に強く突き刺さるけれども、その訴えを聞き届けるとすれば・それは神(他者)の慈悲であり、逆に主人公が破滅することもあるでしょうが・それも神(他者)の怒りなのです。その判断は神(他者)の側にあるのであって、主人公の側にはないのです。これが神事におけるドラマであり、このようなドラマであるならば為政者にとっては「許容できる」わけです。

しかし、主人公がなおもその「状況の不当」を訴え・これを糾弾し・「この状況は間違っている」と叫び・状況に対して抗い・行動するならば、それはもう神事ではありません。主人公は自分の判断で行動し、はっきりと個(アイデンティティー)の実現を求めています。もはや主体は神ではなく・人間なのです。主人公はもう 神(他者)に慈悲を求めることはありません。主人公は個の実現を自分の意志でつかみとろうとします。たとえ破滅したとしても・それは彼自身の決断であって・彼は決して後悔などしないでありましょう。このようなドラマは神のためのものではなく・まして為政者のためのものではありません。為政者にとっては非常に目障りなものです。だから、為政者は芸能に対して何やかやと干渉をしてきます。その理屈はいろいろあります。「風紀を乱す・退廃的である・人心を惑わす」などです。そうやって為政者は常に芸能を押さえつけようとするのです。

おおまかに言って、芸能の歴史は神事に発し・やがて神事であることから脱していく流れであると言えます。これを換言するならば、芸能は神(=為政者)のためのものから・民衆のものと下りていく流れであるとも言えます。これは唯物史観的な見方にも見えましょうが、洋の東西を問わず・芸能における普遍的な流れと言えます。さらに、これを社会心理学的に換言するならば、これは社会の枠組みのなかにおける個(アイデンティティー)の発露・あるいは自我の目覚めであって、その主張のせめぎあいの歴史と見ることができるのです。

このような歴史観のもとに、「助六」の悪態を見るならば・それは神事としての「祭りの場に来臨する神と精霊との問答・掛け合い」であり・それを根っこ(ルーツ)としていることは確かなのですが、その一方でこれは街にうろつく無頼漢とならず者の罵詈雑言の応酬に過ぎないと見ることも もちろんできるのです。ドライに考えればその通りなのですが、そう言い切っちゃうと何だか味気ない。と言うか「助六」が民衆に愛される理由がもうひとつ分からない。そこで神事ということを持ち出すわけです。そうすると悪態の祭祀性・「助六」の神事性は一応理解されるようですけれど、「助六が民衆劇である」ということとは微妙な齟齬が出るように思われます。神事が為政者のためのものならば、「助六」が神事であることは・助六と民衆との間にどこか溝ができるようにも思われるからです。イヤ、これについては「助六」は民衆劇への過渡期の芸能形態なのだという認識もできるだろうと思います。もうひとつ、曾我兄弟信仰は民衆に根ざした土俗信仰ですから・助六が神事であることは民衆劇であることと全然矛盾しないという見方ももちろん出来ると思います。

ここでもうひとつ・全く別の考え方を提出します。「助六」は民衆劇になろうして・完全に成り切れていない芝居である・芸能の根っこである神事を依然として引きずったままの芝居である、つまり「神事であって民衆劇」・「民衆劇であって神事」という自己矛盾をそのなかに抱えた演劇であるという見方です。つまり、「助六」という芝居は神事と民衆劇というふたつの本質の間に引き裂かれているという分裂した性格を持つのです。

3)バロック精神とは

「バロック」という言葉はポルトガル語で「ゆがんだ真珠」という意味を持つBARROCOを語源としたものです。一般的には17世紀から18世紀にかけてルネッサンス後の西欧の建築・美術において流行した様式とされています。壮大な構想と細部にわたる過剰な装飾技巧が特色で、古典美と対立する・その不調和・過剰さを軽蔑するニュアンスで使われたようです。

しかし、本稿において紹介する「バロック」の概念はスペインの美術史家エウヘーリー・ドールスによって提唱されたもので、上記とは次元がまったく異なるものです。「バロック」は17世紀の西欧だけではなく、ヘレニズム期、あるいは十九世紀のいわゆる「世紀末」期など、歴史において繰り返し現れている現象 なのです。また、それは西洋だけでなく東洋・もちろん日本においても顕著に見られるもので、単に建築・美術だけではなくて・もっと広範囲に文明全体にかかわる現象と認められます。「バロック」とはもっと広義に外界に対する人間の態度のあり方を示す概念なのです。

ドールスは「バロック精神」について、そこに矛盾した複数の感情が同居していると指摘しています。ゲーテが「ファウスト」のなかで語っている有名な台詞「ああ、私のなかにはふたつの魂が住んでいる」、それがバロック精神です。

『いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する。バロック精神とは、通俗的な表現で分かりやすく言えば、自分が何をしたいのか分からないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ。重力によって下降すると同時に飛翔したいと望んでいるのだ。バロック精神は、腕を挙げながら手をおろそうとする。私はサラマンカのある協会のなかのひとつの礼拝堂の鉄格子を飾っている小さな天使像を思い出す。バロック精神は螺旋を描き遠ざかり近づく・・・バロック精神は、矛盾の原理の要求を嘲笑するのだ。』(エウヘーリー・ドールス:「女性の敗北と勝利」・「バロック論」に所収・美術出版社)

「自分が何をしたいのか分からない。賛成と反対とを同時に望んでいる。」とは一体どういうことでありましょうか。彼はそうしたいと望んでいながら、何かに妨げられて彼は動けないということです。それと同時に、彼はそんなことはしてはならないと思いながら、そうしたい衝動を抑えきれないということでもあります。誰かにそういう自分を止めて欲しいと感じてもいるのです。そのような矛盾した感情が彼のなかに同居しています。矛盾したふたつの感情が彼の心を引き裂き、彼はその中間地点に留まるのです。

このような現象は実は個人の自我の目覚めと外界との係わり合いによって生まれてくるものです。誰しも自分だけで生きているわけではありません。人間は外界(それは自然でもあり・社会でもある・自分以外のすべての外部環境)との係わり合いのなかで生きています。そのなかで自我は育っていくわけですが、何かの形で外界と衝突しないはずがありません。その時に自我はどういう反応を示すのでしょうか。喜び・悲しみ・怒り・その他の感情を素直にぶつけることができれば・まだそれはいいのです。しかし、そうもいかない場合が多々あるわけです。そういう場合に自我は屈辱を味わう破目になります。自分が何をしたらいいのか分からなくなる精神状況は、そうした事も外界との係わり合いのなかから生まれてくるわけです。

神事においては、自我が屈辱を味わう場合に彼は苦しみながら・ある時には微笑みながら、その屈辱をアイロニックに黙認し・「然り」と これを受け入れるわけです。これに対してバロック的な態度は彼は生きたいと切望しながら・同時に破滅を待ち望むのです。そこに矛盾した・引き裂かれた彼の心情が現れています。

『バロックの態度は理性の屈辱を根本的に望むのである。そして、その時絶望的に「生きよ生きよ、永遠よ死ね!」と絶叫するのである。なぜならば二者択一を強いられており、背水の陣をしかねばならないからである。死か永遠か、いずれかを選択せねばならないのである。いかなる人間も、いかなる精神労働者も、いかなる芸術家も、いかなる学派も、いかなる国も、いかなる時代も、すべて自己の意識のなかでファウストの神話を再現し、そしてあの春の復活祭という一夜の苦悶のなかで、メフィストが提示する契約に突き当たるのである。青春か、不死か。生暖かい大地か、冷たい天空か。情熱的に享楽する強烈な現在か、未来の感覚なき存在への期待か。そのいずれかを選択せねばならない。おのれの魂を悪魔に売り渡すのである。そしてその契約書にしるされた血署の書体はバロック様式の署名なのだ。』(エウヘーリー・ドールス:「バロックの本質」・「バロック論」に所収・美術出版社)

これこそまさに本「歌舞伎素人講釈」においてずっと論じてきた「かぶき的心情」そのものなのです。かぶき的心情とは、個人の自我の目覚め・個人の主張の原初的な発露です。個人の意識が外界に出て行こうとするエネルギーが封じ込められて・行き場を失ったやり場のない苛立ちと憤懣となって現れます。その苛立ちを晴らそうとして・彼らは粗暴な行動に出ます。また、その心情はしばしば派手な化粧や衣装になって現れます。「かぶき者」というのはそうした無頼漢・ごろつきのことを言いました。しかし、彼らはただ粗暴であるのではなく、自分が守らねばならない 何ものかがあるということを意識しているのです。それが自分の苛立ちの原因であることも分っています。それを現代の言葉で言えば「アイデンティティー(自己の存在証明・自分が自分であることの意味)」ということです。だからこそ彼らはそれを守り・貫くために命を掛けようとするのです。

「かぶき的心情」に発する演劇、それは引き裂かれた・矛盾した精神構造を体現する総合芸術です。それが歌舞伎です。だから「バロック」という概念を通じて広範囲に古今東西の文明に関する精神現象としての共通性が見出されるわけです。だからドールスの「バロック論」はもはや様式論ではなく、それはまさに「心情論」なのです。心情から発したものが様式(フォルム)として固まるだけのことで、したがってその現れ方は多種多様です。様式はその心情の強さによって測られなければならなくなります。

歌舞伎という演劇を考える時、「かぶき」が民衆のための芸能であろうとして同時代の写実な演劇になろうとして果たせなかったこと、同時に様式的であり・神事の要素をも引きずっていること、このふたつの 矛盾した表現意欲を引き裂かれたバロック精神において考えてみる必要があります。私はその疎外要因を江戸幕府の規制のせいだけにするつもりはありません。もちろんそれが非常に大きな要素を占めていますが、歌舞伎をバロック的にした要因は複合的なものであり、民衆のなかにも・そして歌舞伎役者のなかにも その要因はあったかも知れません。

歌舞伎の分裂した性格は、実は歌舞伎が民衆のための同時代演劇であろうとしたにもかかわらず、それが疎外されたことによって起こったものです。前述した歌舞伎史のひとつの「節目」、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止はその象徴的な事件であったのですが、さらにその阻害要因を考えてみる必要があります。

吉之助は歌舞伎という芸能は三つの意味においてこの世で疎外されたと考えています。社会にあってはその枠組みのなかで個(アイデンティティー)の実現を主張する芸能として、時代にあっては為政者のためではなく民衆のための芸能として、民衆のなかにおいては被差別民の芸能として。この三つの疎外要因において歌舞伎という芸能は歪まざるを得なかったのです。そして、その歪みが歌舞伎のフォルム(様式)になって定着したのです。女優の廃止・女形の登場もそのひとつの現れに過ぎません。「歌舞伎素人講釈」では第1番目の疎外要因を「かぶき的心情」という視点からずっと作品分析を行ってきました。この「バロック的なる歌舞伎」シリーズにおいては、主として第1番目と第2番目の疎外要因の関連を考察しながら、そのバロック精神が歌舞伎の様式にどのように反映されているかを検討していきます。

(H17・3・30)

(参考文献)

エウヘーリー・ドールス:「バロック論」・美術出版社

(後記)

別稿「かぶき的心情とバロック」「ふたつの魂」「日本におけるバロック的なるもの」「ジャポニズムとバロック」などの記事において、芸術作品における・その具体的な現れをご覧下さい。

別稿「かぶき的心情」とは何か」「試論・歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」「女形の哀しみ〜歌舞伎の女形の宿命論」もご 参照ください。

 

 (TOP)            (戻る)