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菊五郎の「古典性」

〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その3


1)団十郎の「肚芸」

明治20年頃のことですが、坪内逍遥が九代目団十郎と次のような会話をしたそうです。逍遥は「無言の思い入れで深い思想や感情を暗示するのも面白いが、時にまたハムレットの独白のように胸憶をありのままに語るのも面白い」というようなことを話しました。団十郎は寡黙な人で逍遥のいうことを黙って聞いていましたが、最後にボソッと「しかし台詞で言ってしまいましたら、芸をする余地が無くなりはしませんか。」と言ったそうです。団十郎の芸は「肚芸」と言われるもので、団十郎は台詞を少なく・思い入れで余韻と含蓄を持たせるのが良いと考えていたのです。逍遥はこう答えました。

『それは台詞の内容次第である。喜怒哀楽の発作や形容をわざわざ台詞で説明するような、例えば「予は身の毛がよだつ」とか「俺の歯がみをしているのが見えぬか」などという台詞は、あんまり不自然で、日本人の言わぬことで聞き苦しいかも知れない。しかしハムレットのような恐ろしく複雑な胸の悩みを言い表す台詞は、言い方によっては非常に趣味も深く、感動も強いのではないだろうか。実際は口に出しては言わないことを台詞で言わせ、そしてそれを自然に見せるところに演劇の本領があるのだ。演劇は必ずしも写実を要しない。しかし、素読 をするように一本調子で言うならば何の含蓄もないかも知れないが、一語一語の深い意味を味合わせるように・かついかにも自然に言い表すことができたなら、そこにこそ真に微妙な演技があるので、その複雑な精緻な味わいは思い入れだけで表せるものではあるまい。』(坪内逍遥:「九世団十郎、五世菊五郎」・大正元年9月)

この逍遥の演説に対して団十郎はたった一言「なるほどね」と言い、その後は他の話題に移ってしまったので、この話はそれっきりになってしまいました。この逍遥の文章を読む限り、団十郎は逍遥の言っていることがよく飲み込めなかったのだろうと思えます。

逍遥は団十郎の熱烈なファンでした。逍遥は「桐一葉」の片桐勝元を団十郎を想定しながら書いたくらいです。(本作の執筆は明治27年・ ただし本作の初演は団十郎の死後の明治38年のことです。)だから逍遥は団十郎の芸の芸を終生愛したわけですが、現実の役者である団十郎にはおそらく限界を感じてがっかりしたかも知れません。恐らく団十郎には、いわゆる演劇理論というものは持ち合わせがなかったと思います。あるのは役者としての嗅覚(センス)でした。それだけで団十郎はやってきたのです。

そうした軽い幻滅が逍遥にはあったかも知れません。しかし、逍遥が新歌舞伎によって切り開こうとした道もまた、その出発点はやはり団十郎の芸であることは間違いありません。新歌舞伎のことは別稿 (「二代目左団次の革新」)において取り上げます。本稿では、団十郎の芸を表す言葉として言われる「肚芸」と・その後の六代目菊五郎への芸脈について考えてみます。

2)「肚芸」の近代性

団十郎のいわゆる「肚芸」と呼ばれる演技は、言葉と動作を極力少なくして・身体と表情のなかに万感を表現することで・演技に余韻を盛り込もうとしたものでした。例えば「熊谷陣屋」幕切れ・花道において熊谷の直実が黙って宙を見つめてたたずむとします 。そこに「十六年はひと昔」の思いがよぎります。相模との 馴れ初め・小次郎の思い出あるいは合戦の日々そして須磨の浦での息子との別れの場面などです。懐かしさや怒り・非情・悔恨そしてすべてが夢に思えてしまうような無常観です。その思いのあまりの大きさに直実は言葉を失ってただ立ち尽くすのです。そういう風に団十郎は演じ、観客も団十郎の身体・表情から立ち昇ってくるその情感を読むというわけです。これが団十郎独特の「肚芸」と言われたもので す。

その 「肚芸」を分析してみると、こういうことかと思います。これが芝居でなくて実際の場面なら直実は「俺はこんなに悲しいのじゃわい」と言って自分の思いを切々と語るとか・その哀しみを長々と振りで説明するなんてことをするはずがないと団十郎は考えたので しょう。自分は直実を舞台で演じるのではなく・舞台で本物の直実に成り切るのである・ならばそのような不自然な演技は自分はできないというのが「肚芸」における団十郎の真意なのです。

この考えはある意味で自然主義演劇の「写実」の考え方にも合致しています。これは間違いなく新しい考え方のように見えます。(だから逍遥も団十郎の前で演劇論をぶったのかも知れません。)しかし、 団十郎はこの考え方を西洋演劇思想として外部から(例えば末松謙澄や福地桜痴あたりから)学んだのでありましょうか。恐らくそうではないのです。団十郎は 役になりきった自分の心情をどうやって具体的な演技に反映させるかという発想プロセスで・そうした演技に自然と行き着いたのだろうと思います。だとすれば、 それは別に新しい考え方でもなんでもないと思います。役の心情をどう形象化してみせるかという通常の発想プロセスを踏んでいるに過ぎないと思います。しかし、団十郎の発想が明治初期の「変革の世の中」の意識に合致したのです。大事なことは 、その 時代との合致は偶然のものなのではなくて・団十郎のなかで必然を以って生じたものだと言うことです。だから団十郎の演技が時代の気分を表すのです。

それはどういうことなのでしょうか。明治初期の民衆のなかに沸きあがった「変革の意識」、それは湧き上がる個人の意識・そして個人の行動が社会を変えていけるという希望と意欲、そういうものでした。個人のアイデンティティーが社会に直結しているように思われました。実はそれは幻想でしかなかったことがすぐに分かって しまって、民衆の意欲は急速に冷えていくのですが、明治初期にはそれが確かなもののように思われたのです。そうした時代の気分を団十郎が取り込んでいるのです。直実の個人の葛藤のドラマがそのまま作品世界を規定します。我が子を殺すことは苦しい・しかし忠義のためにはそれでも俺はやらねばならぬ・その結末は無常観なのですが、その個人の強い意識が観客を刺激するのです。団十郎の「肚芸」が明治初期を象徴する芸であるのはそのためです。

次いでながら、それは「忠義」を封建制の倫理ではなく・これを皇国思想の倫理として再構築しようとした為政者の思惑にも一致したのです。だから団十郎は為政者にも可愛がられ、また観客(民衆)からも支持されるということになるのです。

もうひとつ、団十郎の「肚芸」を別視点で分析してみると、次のようなことが言えます。団十郎は言葉と動作を少なくしていますが、花道の直実が宙を見つめ・そこに万感の思いを込める時に、団十郎は腹にぐっと息を詰めているはずです。腹に息を溜めて・全身に緊張を持続させないとこの演技はできないのです。そうでないと直実の思いは観客にひしひしと伝わりません。どうして団十郎の芸を「肚芸」と言うのか。それは結局、腹(肚)に息を詰めることが肝心であるからです。

3)六代目菊五郎の芸

六代目菊五郎は、例えば「寺子屋」の松王が戸浪に突き当たって「無礼者め」と見得をする時にたっぷりと大見得をすることをしませんでした。見得の形を決めて・すぐにこれを崩してしまう ・そして咳き込むという演技に移ってしまうのです。それは大向こうから「音羽屋」という掛け声が来るのを避けて、わざと間をはずそうとしているかのようにさえ見えたと言います。

このことは菊五郎に言わせると、こんな理由だったろうと思います。「奥の間で自分の息子がばったり首を切られているんですよ・そんな時に父親が格好良く「無礼者め」なんて見得をしていられるものですかね。私はホントはこの見得を止めてしまいたいくらいです。しかしここで「無礼者」の見得をするのが歌舞伎の約束であるし、ご見物もそうでないと納得しないだろうから演りますけどね。でも、この見得をたっぷり決めるなんて、私にはできませんね。」という ことでしょうか。

これは自然主義演劇の思想から来ているように思えます。そういう演劇思想は大正の菊五郎の時代には一般的になっていましたから・これに菊五郎も影響を受けていないはずはないと思えます。そう見える かも知れませんが、しかし、お分かりの通り・実はこの演技は九代目団十郎の「肚芸」の考え方の延長線上において引き出されるものなのです。

もうひとつ、別の視点から菊五郎の芸を分析してみます。ツケ打ちを「バアーンバン」と大きく間を取って見得をするのはある意味では簡単なのです。しかし、これを「バン」とツケ打ちして見得を一瞬で終わらせて・すぐにグッと咳き込む形に崩していく段取りの方が間合いがはるかに難しいと思います。そのためには息を腹に溜めておかねばなりません。そうでないと見得がただ腑抜けたような感じになってしまいます。この難しい手法に菊五郎は挑戦しているのです。つまり、お分かりでしょうが・これもやはり九代目団十郎の「肚芸」の息の詰め方を応用したものと言えます。

遠藤為春が「本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎だけ。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っていません」と証言したことを考えてみたいと思います。(別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その2:型の概念の転換」をご参照ください。)

「ですから不幸にして菊五郎が五代目菊五郎の子であって、「魚屋宗五郎」や何かがはまって「熊谷」なんかができないで、これは不幸なんだが、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますね。(中略)本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎しかいない。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね、そう思いますがね。(中略)団十郎のもので今完全に残っていると思うものは一つもないって言っていいかも知れませんね、形だけは似てますが。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

遠藤為春は、七代目幸四郎や十五代目羽左衛門は「形だけは似てますが」九代目団十郎の魂はちっとも入っていませんと言いました。一方の菊五郎については「形が似ている」とは言っていません。それは菊五郎が団十郎の時代物を継ぐ仁でなかったから ・そういう役をあまり演っていないので比較する材料がないからですが、しかし、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますと遠藤為春は断言しています。何を根拠にそんなことを言うのでしょうか。それは結局、「息」の問題ではないでしょうか。形が似ているとかどうかではないのです。菊五郎は団十郎の息を継いでいる。だから団十郎と同じになるというのです。遠藤為春はそのことを言ってい ます。

別稿「型の周辺」において、歌舞伎の「型」を形ではなく・流れ(すなわち心・あるいはその演技の考え方の筋道)として捉えるということを考えました。「勧進帳」の弁慶でも、団十郎は弁慶を二十回演じ、そのたびに演ることが違っていたと言います。現在の我々がこれが団十郎の「勧進帳」だと思っているものは、その最後・つまり明治32年(1899)4月歌舞伎座のものです。しかし、もし団十郎が長生きしてもう一回弁慶を演じていたら・さらにもう一回弁慶を演じていたら、多分、同じ舞台にはならなかったでしょう。だとすれば、我々が有り難く思っている「勧進帳」は団十郎の最高のもの だろうか。それは発展途上の型に過ぎないのではないか。そういうことも考えてみる必要があるのです。

しかし、これは完全に矛盾するのですが、その一方で団十郎以後の東京の歌舞伎は「団十郎の演じた通りに演るのが絶対である」ということを金科玉条としてきたわけです。団十郎の芸を追求する手掛かりは、団十郎の最後の舞台にしかありません。それだけが江戸の歌舞伎を追い求める拠り所なのです。

普通の役者はそこで団十郎の手順(型の心ではなくて・演技の段取り)だけを真似ることで、とりあえず団十郎通りであるということで安心してしまいます。お客も一応そのことで安心をします。しかし、菊五郎のような天才はそうは考えないわけです。俺は団十郎の形ではなく・「息」を継ぐのだ、それこそが団十郎の芸を継ぐことだ、そういう風にワープしてしまうのです。

団十郎は「無礼者」の見得を崩したりはしなかったでしょう。明治の世に団十郎が生きていた時は確かにそうだったわけですが、しかし、もし団十郎が長生きして大正の世に松王を演じたとすれば・きっと団十郎は 菊五郎のように見得を崩したに違いないと、そのように思えるのです。団十郎の考え方の筋道を延長していけば、確かにそのようになるわけです。団十郎の筋道を菊五郎が辿って、 団十郎の息で菊五郎が演っているのです。だから、遠藤為春が指摘するように・結果として「団十郎を継いでいる」のは菊五郎しかいないのです。

九代目が得意とした「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時のこと、「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われたのだそうです。ご承知の通り、菊五郎は九代目の家に預けられて厳しい芸の指導を受けました。しかし 、関兵衛の踊りを団十郎から直接習ったことはなかったそうです。

「しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。」(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)

ご注意いただきたいですが、これは誰もがやろうとしてもやれることではないのです。凡人が菊五郎と同じことをやろうとすれば、ただ「型」を崩すだけになってしまうかも知れません。非常に危険なことなのです。しかし、やはり問題は「息」ということになります。

4)菊五郎の「古典性」

菊五郎の「科学性」ということを言ったのは折口信夫でした。折口はこのことを十分に説明しておりません。「舞台の鼻まで踊り込んでいって・かつきりと踏み残すといった鮮やかな芸格」は科学性と呼んでもおかしくないとだけ書いています。 (「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)折口の言う菊五郎の科学性とは一体何でありましょうか。

*折口信夫:「菊五郎の科学性」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

吉之助には、これはイメージとしては「古典性」ということに近いと思われます。実は「古典(クラシック)」の概念は明治になって・ヨーロッパから輸入された・日本においては非常に新しい概念です。ヨーロッパにおける「古典(クラシック)」のイメージは常にギリシア・ローマ文明に回帰します。アテネのパルテノン神殿のエンタシスの白い大理石の円柱が規則正しく立ち並ぶイメージです。それは美の法則に裏打ちされているのです。黄金比で構成されている建築物が美しく見えるのは何故かという議論はあり得ません。美しくあるためにその建築物は黄金比で設計されているのです。そのような美の法則に裏打ちされているもの が「古典(クラシック)」であるのです。

音楽で言うなら、イン・テンポを基調にして・あまりテンポを伸縮させないのが古典的な態度です。あるいは楽譜を絶対的な拠り所として、これを虚心に・余計な思い入れを入れずに作曲者の意図を 簡潔に読もうとする態度が古典的な態度であると言えます。このような芸術のあり方を「新古典主義(ネオ・クラシック)」 (あるいは「新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト」)と呼びます。音楽や演劇にそうした考え方が出てきたのは、ちょうど第一次世界大戦前のことになります。

菊五郎の芸に対する取り組み方は、「新古典主義」的であったと言えます。つまり、無駄を削ぎ落としたような簡潔な芸、これが折口の言う「かつきりとして規格正しい芸」ということにもなります。これは茅ケ崎での団十郎の教育と二長町市村座での指導によって培われたものである のは間違いありません。が、同時にそれは時代の「新古典主義」の風潮にも合致していたのです。菊五郎の芸には時代の裏付けもあったのです。そう考えればアンナ・パヴァロヴァであるとか、ジャン・コクトーといった西欧の第一級の芸術家たちが菊五郎の芸に強い感銘を受けた理由も 容易に説明が出来ます。

吉之助が想像するには、団十郎の芸もまた「きつかりしていて規格正しく」・新古典的な態度を先取りしたものであったろうと思います。これを継いだ 菊五郎の芸も古きもの(つまりは団十郎)に発し、古きものを正しく引き継ぎながら、しかし古臭さを感じさせることなく「きつかりしていて規格正しく」、しかもそれでいて時代を反映した・確かに新しいものだったのです。このことは大事なことです。これは現代における「古典」である歌舞伎のあり方へのヒントになると思います。

(H17・2・20)

六代目菊五郎  (講談社文庫)

六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸

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