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「型」の概念の転換

〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その2


1)団十郎以後の歌舞伎

明治36年(1093)10月13日に九代目団十郎が66歳で亡くなったことは当時の人々に相当な衝撃を与えたようです。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。実際団菊を除いた歌舞伎座では、そのころ芝翫といった今の(五代目)歌右衛門が何といっても筆頭に立つべき人であるが、そのほかには八百蔵(後の七代目中車)があり、あとは(十五代目)羽左衛門になりかけている家橘、改名したての(六代目)梅幸と高麗蔵(後の七代目幸四郎)いずれもまだ青二歳である。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

*井原敏郎(青々園):団菊以後 (1973年) (青蛙選書)

別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1:時代にいきどおる役者」に書きました通り、江戸から明治の世になって歌舞伎を成立させていたチョンマゲ・刀の風俗がなくなり・封建 体制が否定されたなかで、歌舞伎は その故郷を失なった・つまり同時代性を失ったのです。明治維新で歌舞伎は滅びてもおかしくなかったのです。それを何とか持ち堪えさせたのが団十郎でありました。その団十郎が亡くなった時、江戸歌舞伎はこれで終わった・歌舞伎はこの先どうなるのだろうかというのが人々の抱いた正直な気持ちであったのです。

奇しくも同じ明治36年2月18日に五代目菊五郎が60歳で亡くなり、翌年明治37年8月7日には初代左団次が63歳で亡くなります。「団菊左」と称された明治の人気役者が相次いで没しました。(他に四代目芝翫が明治32年に70歳で没。)江戸の空気を知る最後の役者たちがこの時期に一気にいなくなるのです。 後に残されたのは、まだまだ先が知れない若い役者たちでした。「これからは歌舞伎はどうなるのか」という心配は、観客よりも当の役者たちが一番痛切に感じていたに違いありません。すでに「新しい民衆の演劇」を標榜する動きがいろいろと出てきていました。このままでは歌舞伎は民衆から見放される かも知れないというあせりを感じたかも知れません。

そのようななかから歌舞伎の「団十郎以後」を模索しようとするふたつの動きが出てきます。ひとつは「保守派」とも言うべきでしょうか、あえて九代目団十郎の芸を墨守し・ その芸を理想とすることで歌舞伎を守って行こうとする考え方です。その具体的な現れが「大田村」と呼ばれた名興行師田村成義による二長町市村座でした。「市村座」というのは江戸三座の伝統のある名前ですが、本稿で取り上げる「市村座」は明治41年11月に始まり、大正初期をそのピークとします。市村座での興行自体は昭和3年1月まで続きますが、「市村座時代」という時にはそれは田村が死んだ大正9年11月、その三ヵ月後の大正10年2月に 初代吉右衛門が退座した時点を以って終りを告げます。

明治41年発足当時の市村座の顔ぶれは六代目菊五郎(24歳)・初代吉右衛門(23歳)、あるいは七代目三津五郎(27歳)といったまだまだ芸の固まっていない若い役者たちでした。田村は彼らに九代目の門弟新十郎・五代目の門弟菊三郎のような師匠のことなら何でも知っているベテラン役者を配して指導させました。ここで規範とされたのが団菊の芸でした。とにかく団菊のやった通りにやっていれば良ろしい、団菊のやることはみんな素晴らしい。これはもう理屈ではなく「絶対」 でありました。だって、お客もそれしか望んでいないのですから、議論の余地などなかったのです。それに若い役者たちにとっては・それしか手掛かりがなかったのです。彼らはまず 団菊から出発しなければならなかったのです。

もうひとつの流れは「革新派」と言うべきでしょうか、「西洋の新しい演劇思想を取り入れ・そこから時代に合った新しい歌舞伎を作っていこう」という考え方です。それが二代目左団次の新歌舞伎運動です。

二代目左団次については稿を改めて考えることにします。(「二代目左団次の革新」をご参照ください。)本稿では「二長町市村座」のことを考えます。市村座時代は、六代目菊五郎と初代吉右衛門の修業時代として・いわば伝説化されています。田村は独特の興行師感覚で若い役者たちを操縦していきます。菊五郎と吉右衛門がぶつかりあう演目を採り上げただけでなく、例えば「菊畑」で智恵内を日替わりで・「扇屋熊谷」で熊谷と敦盛を日替わりで演じさせるなどして、若い二人のライバル意識を刺激し、またそれぞれの贔屓の競争を煽りました。最盛期の大正初期の市村座の人気はすさまじいもので した。まだ幕が開く前から三階席の大向こうの「音羽屋ぁ」・「播磨屋ぁ」の掛け声の応酬がものすごく、その熱気というのは、あたかも熱病にかかった人の集まりのようであったと言います。また贔屓間に時として喧嘩が起きることもあったそうです。それは観客の中心が血気のはやった学生たちであったからでした。ここに大正という時代の雰囲気を感じることができます。(別稿「市村座という伝説」をご参照ください。)

「市村座のほかに、歌舞伎座の芝居というものがあるように思っていたことがありました。」ある時、七代目三津五郎が利倉幸一氏(劇評家)にこう語ったそうです。利倉氏は「一瞬驚いた」と手記に書いています。

「市村座の歌舞伎が本道で、歌舞伎座の歌舞伎は興行上の歌舞伎だ。とそれほどまでに極端には考えたのではなかったようだが、少なくとも伝統の歌舞伎は市村座が伝承しようとしている。・・それほどの強い自負があったように理解した。」(利倉幸一:「雑談・大正の歌舞伎」:「演劇界」昭和57年5月号)

「自分たちが団菊を継ぐのだ」という強い意識が市村座の役者にはあったわけです。しかし、継ぐべきお手本は目の前にはいません。団菊の演った通りに演っておりますということだけが、とりあえず彼らの自負の根拠なのです。 郡司正勝先生がこんなことを仰っています。次の発言の「六代目菊五郎」を「九代目団十郎」に置き換えてみて下さい。これがそのまま二長町市村座の雰囲気なのです。(そして・菊吉亡き後の戦後の昭和歌舞伎 も似たような雰囲気であったことも想像できるでしょう。)

「皮肉を言うと、天才だけだったら残らないんです。天才をなぞって、これが菊五郎の型でございますと。そうすると自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす。六代目はこうやりましたと。これが金科玉条になる。だから伝承というものは高度な天才では伝承できない。それは通り過ぎていった箒星みたいなものだよね。」(郡司正勝インタビュー:「刪定集と郡司学」:「歌舞伎〜研究と批評・第11号」)

2)「型」の概念の転換

ここで「型」の問題を考えなくてはなりません。ご承知の通り、歌舞伎には「型」という概念があります。狭義においては、「型」は役者それぞれの演技の工夫であり・役の性根の把握 のことを言いました。それは大抵の場合は口伝によって伝えられ、歌舞伎の財産として蓄積されてきました。しかし、それだけだと舞台はバラバラになってしまいますから、舞台の統一感をもたらすことを座頭格の役者が行います。そのような全体の 交通整理・演出的な役割も「型」の広義の意味としてはあります。いずれにせよ「型」というのは昔からある概念です。

江戸の時代においては・役者がどんな大胆な冒険をしたとしてもそれは歌舞伎でありました。それが「型」として残るか残らないかは、極端に言えば観客に受けたか受けなかったかで決まります。「そんなことをするのは歌舞伎じゃない」という議論はあり得ませんでした。面白い・面白くないという議論はあったでしょうが。何をしたってそれは歌舞伎であったのです。明治36年(1903)九代目団十郎が亡くなるまではそうだったのです。

ところが明治36年九代目団十郎の死以降に「型」の意味が決定的に変わるのです。団十郎の芸を墨守し・これを金科玉条のようにして・これだけを規範にしている者たちにとって「型」とは「そう演じなければ歌舞伎に見えない・逆に言えばそうやっていれさえすればとりあえず歌舞伎に見える」という拠り所となるのです。このような「型」の概念は、江戸時代にはあり得 ません。この「型」の概念の決定的な変化を意識しておかねばなりません。このような変化は歌舞伎が時代との係わり合いをもはや喪失した・同時代の演劇ではなくなったことから起きるのです。

昔は父親がこう演ったからと言って・何が何でも息子がその通りを演らねばならぬというものでもなかったのです。「お父さんそっくり」なんて声が掛かるからその通り演っていますという程度のもので あったかも知れません。良いものなら真似る・自分 の仁に合わなければ別のことを演ってみるというのが「型」でした。上方においては、息子が同じことを演ると父親は「自分で工夫することもできない馬鹿者め」と言って張り飛ばしたものでした。ところが師匠の通りに演じております・父親の通りに演じております・それでないと周囲が許さないというのが、いつのまにか「型」の概念に なってしまったのです。そうすることで団十郎以後の歌舞伎は自らを守ったのです。

このことが結果的に正しかったのかどうかは、東京の歌舞伎と・上方の歌舞伎のその後を見ればある程度は分かります。上方の芸のあり方は、芸は自分で工夫して作れというものでした。初代鴈治郎も息子(二代目)に決して芸を教えることをしませんでした。鴈治郎は「そんなことしたかて ニセ者の鴈治郎が出来るだけだす」と言いました。上方の役者はみんなそうだったのです。しかし、歌舞伎の歴史を見れば、上方の役者の名跡は十五代も続いている片岡仁左衛門家を除けば・数代で絶えているものがほとんどです。そして上方芸そのものが存亡の危機に瀕しています。上方歌舞伎がこのような状況に追い込まれたのには、地元の有力な旦那衆であった商家の経済状況の変化であるとか・移り気な観客の気質であるとか複合的な問題が絡むので単純ではないのですが、しかし、型を遵守することのなかった芸のあり方にも大きな要因があったことは確かです。話を戻すと、団十郎を神聖視し・その芸を遵守して守りに徹する行き方は東京の歌舞伎においてはとりあえず正しい選択であったと言えましょう。 これにより歌舞伎は自ら「伝承芸能」の位置づけを明確にしたのです。

もちろんいろいろなトラブルがありました。例えば大正6年(1917)7月の市村座において初代吉右衛門が「馬盥の光秀」を初演した時、その舞台稽古の時に六代目彦三郎が吉右衛門の演技に文句を付けた事件などがそれです。「まるで違うよねえ、成田屋の伯父さんはそうじゃなかったよ」と彦三郎は食い下がり、吉右衛門に演技の修正を執拗に迫りました。ついに吉右衛門は涙を流しながら、「私にはそうは出来ません」と言って彦三郎はじめ満座の人々に土下座して謝って 、自分の思うところの引っ込みを演じたのでした。 (別稿「初代吉右衛門の「馬盥の光秀」をご参照ください。)これはひとつは名門出身ではない・しかし実力はある吉右衛門に対するイジメではあるのですが、もうひとつには「我らの神である団十郎の演った通りに演じないとは何事か」という市村座の周囲の役者たちの強い怒りがあったのです。それは狂信的信仰みたいなものであったかも知れません。しかし、歌舞伎の危機を彼らはそうやって乗り切ったのです。

『(渋)(十五代目羽左衛門の)助六なんかはどうですか。/(遠)これは昔は団十郎以外はやらなかったから。/(渋)ダメですか。/(遠)だれも足元に及びませんよ。/(渋)写真で見ると団十郎って人はそう大きい人じゃないでしょう。だから(十五代目)羽左衛門の方が見栄えがあるというような気がするんだけれど。/(遠)しませんね。それはもう大変な違いです。/(渋)例えば弁慶なんかなら、先代(七代目)幸四郎の方が立派に見えるように思いますけど。/(遠)だけどもダメですね。/(渋)動かなくても出てきただけでもダメですか。/(遠)ダメですね。/(渋)それは遠藤さんの信仰みたいなものじゃないですか。/(遠)いや信仰と言われるかも知れません。信仰と言われても、そうじゃないという証拠がないからな。/(渋)同時に信仰だという証拠は挙げられませんわね。たくさん芝居をご覧になってる遠藤さんがそう言われるんだから、そうに違いないと思うんだけれど、そうですかね。/(遠)これが六代目菊五郎のすることと勘三郎のすることと、どっちがうまいかと言われりゃ、両方見てる方ならすぐ答えられるでしょう。それと同じだと、あたしは思うな。』(対談「歌舞伎よもやま話」・渋沢秀雄・遠藤為春・季刊雑誌「歌舞伎」第6号・昭和44年)

明治の名優たちの舞台をこの眼で見た劇評家・遠藤為春の聞き書きです。ほとんど対談になっておりません。遠藤為春は「団十郎は違うんだ・今の役者とは比較にならない」とただ繰り返すばかりです。こういう繰言を言う方を「団菊爺い」と言いました。昔はこういう方がいっぱいいらっしゃったのです。しかし、こうした繰言が意味がないということは決して ないのです。六代目菊五郎も初代吉右衛門も、団菊爺いのこうした苦言を聞かされながら芸を磨いたのです。役者も・そして観客もまた、団十郎の幻影を守り・それを信仰のように持ち続けながら歌舞伎を必死で守りぬいた、そういうことではなかったかと思うわけです。

3)団十郎の後継者

「団菊爺い」の遠藤為春の証言をもうひとつ紹介します。

『あの人(市川新蔵)がいたならば、団十郎の家のものはもっとちゃんとしたものが残りましたよ。「助六」でも「勧進帳」でも、おそらく団十郎のしたものは全部。「五郎」にしても「清正」にしても「熊谷」にしても「河内山」にしても、今のようなでたらめなものではありませんよ。(中略)本当の団十郎の性根をつかんでいるのは新蔵と六代目(菊五郎)だけですね、私の見た役者では。ですから不幸にして菊五郎が五代目菊五郎の子であって、「魚屋宗五郎」や何かがはまって「熊谷」なんかができないで、これは不幸なんだが、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますね。新蔵も性根をつかんでいる。本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎と新蔵しかいない。強いて言えば死んだ(五代目)歌右衛門でしょうね。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね、そう思いますがね。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

ここで名前の挙がっている五代目市川新蔵は九代目団十郎の弟子で、大向こうから「十代目!」の掛け声が掛かったほどの腕利きでしたが、若くして病気で亡くなりました。六代目菊五郎については言うまでもありませんが、菊五郎は若い時に茅ヶ崎の団十郎の家に引き取られて、団十郎からみっちりと芸を仕込まれました。男の子がなかった団十郎は、菊五郎を自分の後継者にと心ひそかに思っていたのかも知れません。しかし、「不幸にして」(と遠藤為春は言っていますが)菊五郎の仁は時代物ではなく・どちらかと言えば世話物と舞踊の方でしたから、菊五郎はそちらで団十郎を継いだと言えるかも知れません。

『団十郎のものというとどういうものか大抵崩れてますな。(五代目)菊五郎のものの方は割と崩れてませんね。これは、やっぱり六代目(菊五郎)のせいでしょうかね。団十郎のもので今完全に残っていると思うものは一つもないって言っていいかも知れませんね、形だけは似てますが。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)

団十郎の芸の崩れてしまった悪い例として遠藤為春が挙げているのが、七代目幸四郎の「勧進帳」あるいは十五代目羽左衛門の「助六」です。「どこがどう違うんだ」という議論はこの際なしです。そういうことは仮に証言があったとしても実はあまり大事なことではないのです。遠藤為春の証言で重要なことは2点です。九代目団十郎の芸の規格・魂を継いだのは結局、六代目菊五郎だけであったということ、そして、六代目の息の掛かっていない九代目の芸はどこか崩れたものになってしまったということのふたつです。

この証言は、歌舞伎の芸の流れを九代目団十郎から六代目菊五郎の線で捉えるべきであるということを言っています。団十郎からの芸の線は何本か引くことが出来るでしょう。例えば団十郎から七代目幸四郎への線・あるいは十五代目羽左衛門 ・五代目歌右衛門への線 などですが、それらの線より六代目菊五郎への芸の線が特別に重要なのです。これは別格なのです。と言うよりも、団十郎の芸は明確に六代目菊五郎において語らねばならないことをこの証言は示しているのです。

伝言ゲームというのがあります。最初の人が伝える内容を次々と人に口移しで伝えていくと、最後には最初の内容と全然違った内容に変わってしまうということに驚かされます。しかし、 このようなゲームでも・伝わる内容があまり変化しないこと もあります。それは結局、伝えるべきことを伝える人が意識を持って正しく伝えているか・受け取る人が意識を持って受け取るべきことを正しく受け取るか・その姿勢の問題に帰せられるのです。結局、六代目菊五郎が団十郎の芸を規格正しく 受け継いでいるのは、この姿勢(心構え)の問題なのだろうと思います。これこそが菊五郎が「二長町市村座」において学んだことでした。

別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1:時代にいきどおる役者」において、明治初期に時代に「いきどおり」を与えた九代目団十郎のことを考えました。六代目菊五郎の場合はそこまではいかなかったかも知れません。それは歌舞伎と社会との係わり合いが明治と大正とは 若干異なっていたからかも知れません。それは大正の世の歌舞伎は芸能の一ジャンルに過ぎず・日々の生活に関わる役割が明治と比べれば小さかったからなのですが、しかし、六代目菊五郎も、やはり団十郎と同様に小さいながらも「いきどおり」を見せた役者であったと思うのです。

本稿において論じてきたことを整理してみます。明治36年(1903)九代目団十郎の死によって終焉した江戸歌舞伎は、九代目団十郎の芸をひたすらに規範として守ろうとすることで再出発をしました。この時から歌舞伎は伝承芸能としての芸のあり方を明確にしました。「型」の概念は江戸時代とは 異なる質的な転換をしたのです。この流れは六代目菊五郎の「いきどおり」によって確固としたものになるのです。

(H17・2・6)
 

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