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時代にいきどおる役者

〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その1


1)「あれが節目だった」

歴史を眺めていると、後世から見て「あれが節目だった」と思える象徴的事件があるものです。時代の「節目」というものは、ある事件を契機にして時代が断層のようにスッパリと 切れて見えるというものでは必ずしもありません。その象徴的事件の前後十数年、場合によっては数十年ということもありますが、そうしたスパン(期間)のなかで見ると時代の様相がまるで回り舞台のように大きく転換しているのです。そうした時に あとで「あれが節目だった」と言える事件が必ずあるものです。

歌舞伎の歴史はいろいろな切り口から分析ができますが、吉之助は歌舞伎400年の歴史のなかで・これが「節目」であったと思われる象徴的事件がふたつあると思っています。

ひとつの「節目」は、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。写実の追求による新しい時代の演劇を目指した歌舞伎は、これによりその表現手法を転換せざるを得なくなりました。歌舞伎は写実を旨としながらも・部分的に「反写実(様式)」を追求せざるを得なくなったのです。このことは別稿「女形の哀しみ・歌舞伎の女形の宿命論」で触れましたから、そちらをご覧下さい。

もうひとつの「節目」が明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死であります。ひとりの役者の死がそのような大きい意味を持つものかと不思議に思うかも知れません。しかし、歌舞伎の歴史を俯瞰すれば、この前後30年くらいで歌舞伎の様相は驚くほどの変化をしていることが分かります。もう少し 幅をもって考えると、前の方のスパンを嘉永7年(1854)の黙阿弥と四代目小団次との提携開始からの約50年、後ろの方のスパン を昭和24年(1949)の六代目菊五郎の死までの約50年くらいまでと見てもよろしいかも知れません。この約100年の歌舞伎激動の時代の象徴的な事件が団十郎の死なのです。団十郎の死は 、歌舞伎がその故郷である江戸を離れ、時代から遊離し・同時代の演劇ではなくなっていく・その過程を象徴する事件なのです。

2)時代にいきどおる役者

話は変わりますが、折口信夫が「国民文学の方向」という題で座談会に出席した時のこと(昭和27年8月)のことです。そこで出席者のひとり(竹内好)が、日本はいつも大陸文化を輸入して・それにより自国の文化を豊かにして・そしてある時期になると民族的な自覚が出てきて外国からの取り入れを拒否する国粋主義みたいな揺り返しの流れが出てくる・これの繰り返しであるということを言 いました。この発言を折口信夫は黙って聞いていました(座談会であまり積極的に発言する人ではなかったようです)が、ボソッとこんなことを言い出します。

『私は、日本人はまず外国のものを無条件でいったん取り入れて後、新しく・あるいは多方面に作り上げていくという考えはしないことにしているのです。日本では初め、「いきどおり」(正確には「憤り」の字に当たらず。発奮・奮発などという意味にある程度近い)を発してその勢いに乗って解決してしまう。時を経て後、これを徐々に行っていくということは、どうもいけなかったようです。だから、そういう人の出た時は非常に幸福だったわけなのです。しかし、不幸なことに、そういう人が出ることなくそのままで過ぎたということが多い。実は、もうひとつ伸びてくれたらよさそうなものが伸びなかったり、思いがけない時にひょっくり立派なものが出てくる。そうしてそれっきりで終わっている。そうしたことが多いのじゃないか。その点日本人はじつにうるさい。何でもかんでも寄ってたかって食いつぶしてしまうのです。大きなものの出た後には、必ずつまらぬものが続いて出てくる。そうして大きなものを食いつぶしてしまう。日本人のこの性質が変わってこない限りは、いけないと思うのです。非常に優れた人間が輩出して、いきどおりを発することをしなければ駄目です。世の中が変わりません。』(折口信夫の座談会:「国民文学の方向」・昭和27年8月)

ここで折口の言う「いきどおり」ということ、折口はこれに「憤り」という字を当てはめず・「発奮する・奮い立つ」という意味であるとわざわざ注釈を入れていますが、大きく転換していく時代に対し何か大きなエネルギーを発散する偉大な人物が登場することが稀にあるということを折口は言っています。それは本人の才覚とか力量が偉大だということももちろんあります。あるいは彼自身が持っている時代や社会に対する使命感というようなものもあるかも知れません。しかし、それだけでは十分ではないように思われます。時代が彼に期待する・あるいは役割をその人物にを託すということです。そういう場合に、その人物は「いきどおり」を発して・時代を大きく動かす役割を演じることがあるのです。その人物の去就そのものが時代の「節目」になるということがあるのです。

この座談会は文学についてのものでしたから、折口は ここで近松門左衛門の名を挙げています。本稿ではそのことはちょっと置きまして、吉之助は九代目団十郎もまた「時代に対していきどおりを見せた」人物であったと思っています。明治維新以後の歌舞伎が経験した激変の時代に「いきどおった」役者が九代目団十郎であったのです。

はたして団十郎はそれほどの名優であったのでしょうか。これについては「団十郎は世間で言われるほどの役者ではなかった」と言う人もいたりしますし、本当のところは分かりません。同時代のライバルに は四代目芝 翫・五代目菊五郎などの名優もいましたし、役者としての技量について議論するならいろいろ意見もありましょう。しかし、世に「団十郎名人・菊五郎上手」という言葉があるように、菊五郎は技量でも人気でも 団十郎に勝るとも劣らなかったと思いますが、その序列において菊五郎は団十郎をしのぐことは遂に出来なかったのです。これは間違いないことです。それは団十郎に時代を託するような・役者の技量以上の何物かが備わっていたからに違いありません。それが「いきどおり」 ということです。だから九代目団十郎の死が「時代の節目」になるのです。

3)幕末歌舞伎の閉塞感

本稿は明治36年(1903)九代目団十郎の死以降の歌舞伎を考えるのが最終目的ですが、しかし、その前に団十郎の生きた時代を検証しておかなければなりません。まず江戸の雰囲気を残す最後の役者と言われた団十郎の故郷とも言うべき幕末の歌舞伎を考えて見ます。

「三人吉三廓初買」は、安政7年(=万延元年・1860)1月市村座での初演です作者はもちろん黙阿弥(当時、河竹新七)。嘉永7年(1854)に「都鳥廓白浪」で始まった黙阿弥と四代目小団次との提携から6年、幕末期の黙阿弥の最高傑作と言ってよろしいものです。四代目小団次は初演で和尚吉三と木屋文里を勤めましたが、お嬢吉三は八代目半四郎(当時は粂三郎)、そしてお坊吉三が九代目団十郎(当時は権十郎)で した。

(お嬢)「浮き世の人の口の端に」(和尚)「かくいふ者があつたかと」(お坊)「死んだ後まで悪名は」(お嬢)「庚申の夜の語り種」(和尚)「思へばはかねへ」(三人)「身の上じゃなあ」

「三人吉三」のなかの割り台詞です。この台詞は三人の吉三郎がヒーロー気取りで自分たちが悪党であることを世間に誇っているというものではないのです。世間の語り種になるのは「悪名」だと彼らは言っています。これは「あいつらは悪い奴だ、親不孝者だ、人間の屑だ」と後々までも言われるということです。彼らにとっては耐え難いことです。この台詞は「この状況から抜け出そうと思ってあくせくしてきた俺たちの人生は何だったんだ」という嘆息の台詞なのです。 そこには「どうせ俺たちは何をしたって浮かばれないんだよ」という無力感が漂っています。小団次・黙阿弥提携作品は、すべてそのような主人公の嘆き節なのです。

例えば、安政6年市村座で初演の「十六夜清心」では、清心は「人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年が関の山。つづれを纏う身の上でも金さえあれば出きる楽しみ、同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳、一人殺すも千人殺すも、取られる首はたったひとつ、こいつァめったに死なれぬわえ」と格好良く啖呵を切って坊主から盗賊に変身するのですが、最後には捕われて破滅します。

慶応2年(1866)2月守田座での「鋳掛け松」では、しがない鋳掛け屋松五郎が通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と叫んで、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまいます。しかし、最後はやっぱり破滅するのです。

このような黙阿弥の白浪物の破滅の結末はお上の目を逃れるために・取ってつけた言い訳・方便なのであって、実はその本意は悪の賛美・アウトローの魅力にあるということになるのでしょうか。そうではないでしょう。あの謹厳実直な黙阿弥が盗賊の所業を賛美するなんてはずもありません。幕末期(四代目小団次との提携時代)の黙阿弥の主人公たちは、閉塞した状況を打開しようとして必死でもがきます。しかし、結局は状況に絡めとられていくのです。なまじっか強引に状況を変えようとするから・かえって状況に仕返しをされるのです。そこに幕末のどうしようもない閉塞感・袋小路に入った時代へのどうしようもないいらだちがあるのです。

この黙阿弥の主人公たちのあがきを「革命への萌芽」だと読むことができるでしょうか。それがないとは言えないと思います。白浪物には「世直しもの」の要素がある・盗賊は世直しの神だということは別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」において触れました。が、所詮は盗賊のことではあります。お嬢吉三が気持ちよくツラネを詠ってみたところで、やっていることは夜鷹から百両奪っただけのことです。それでこの世の中が変わるわけでもない。「こんな生活は嫌だ・こんな世の中は嫌だ・なにかを変えたい」という気分を世間に醸し出した点において・確かに盗賊は世直しの神であったと言えます。しかし、やはりそれだけのことだったのです。そこに白浪物の無力感があるのです。

だから吉之助は黙阿弥の白浪物が悪党 (アウトロー)の魅力だと明るくアッケラカンと割り切る気にはとてもなれません。そんな単純なものではないだろうと思っています。慶応2年(1866)3月、芝居は「色気など薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを受けた小団次はこれを聞いて一晩で面相が変わってしまい、ついに病死してしまいました。小団次の腹のなかに・それほどにふつふつと煮えたぎる時代への暗い怒りがあったに違いないのです。その怒りが小団次を憤死させたのです。

結果から見れば、結局、明治維新が「下からの変革」ではなかったのは確かなことです。時代へのいらだちを抱きつつも、小団次も黙阿弥もその解決方法を見出すことまでは行きませんでした。そのことを責めることはできますまい。そこまでで精一杯であったと思います。だが、民衆の無力感は明治以降の歴史を見れば民衆がずっと引きずってきた根本的な問題であるとも言えます。小団次・黙阿弥提携作品のなかに潜む・この「底知れぬ暗さ」に思いをはせなければ、幕末の歌舞伎を理解したことにはなりません。そして、この「底知れぬ暗さ」が九代目団十郎の出発点となるのです。

4)「演劇改良運動」の歴史的位置

ところで、明治36年(1903)九代目団十郎の死が与えた衝撃というのは現在の我々にはちょっと想像がつかないほどのものだったのです。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

井原敏郎(青々園):団菊以後 (1973年) (青蛙選書)

いくら名優とは言っても・ひとりの歌舞伎役者の死を「歌舞伎はもう終わりだ」というほどに人々が思いつめたというのは尋常ではありません。団十郎は五代目菊五郎が亡くなった直後の六代目菊五郎襲名披露の口上で「自分と故人が最後の江戸っ子である」ということを言ったそうです。しかし、この団十郎の死に世間が感じた「悲痛・絶望」とも言える喪失感は、団十郎が江戸の雰囲気を残した最後の役者の死であったというような感傷だけでは・とても説明が出来ません。その喪失感の背景は何なのでしょうか。それは、本当は歌舞伎は明治維新で滅びていておかしくなかった・歌舞伎がここまで(明治36年まで)生き延びてこれたのは九代目団十郎のおかげであった・その団十郎が亡くなった今、歌舞伎はどうなるのかということに他ならなかったのです。

それほどに明治維新以後の歌舞伎を取り巻く環境変化は激しいものでした。明治にとっては江戸時代のすべてが旧弊として否定されるべきものでした。明治の世にあっては「江戸の演劇である歌舞伎」は旧弊の権化だとしてまっさきに排撃されてしかるべきものでした。風俗的にも断髪廃刀令により・歌舞伎を成り立たせる風俗がもはや世間に存在しなくなってしまいました。このような歌舞伎の危機に対して、明治政府の重臣たち・資本家・学識者たち・そして民衆を取り込みながら・歌舞伎を存続ならしめたのが団十郎であったのです。当時の誰もがそう感じていたのです。

しかし、 芝居というのは当時の庶民の最高の娯楽であって・為政者にとっても芝居の持つ影響力というのはあなどり難いものですから、歌舞伎が時代の要請に合うものに変わるならば為政者もそれを許容しないものでもなかったのです。そこに歌舞伎が生き残る一分の望みがありました。団十郎にとって歌舞伎をそのような為政者と時代の要請に合ったものに変えようとすることが急務でした。

団十郎が取った歌舞伎の生き残り策のひとつは歌舞伎を実録物に近いものにしようとするすることでした。「活歴」と呼ばれているジャンルがその試みのひとつです。あるいは式楽であった能を模倣しようとすることで高級感を出そうということでした。それが「松羽目舞踊」です。さらに文明開化の風俗を取り入れた「散切り狂言」が盛んに作られました。

明治初期の・江戸幕府から新政府への時代に変わり・鎖国から文明開化に転換した時代の庶民の意識というのはどんなものであったでしょうか。長谷川如是閑はこう語っています。

『あの時代は天保人という言葉がありましたね。旧弊だということですが、そう言われることを極端に嫌った。今ではそういう考え方をすべて「反動」で片付けていますが、(中略)すべて生活者の意識、つまり一般人の革新の意識、というよりは実践の気組みが強かった。この文明開化を唱えた十年代の欧化政策に対して、二十年代の政治意識はやや極端でしたが、(中略)しかし、生活人としての運動でした。今はインテリの運動で、生活人は高みの見物です。歴史的に見ると、明治時代は社会人に時代の意識が強くて、だから専門家も社会人としての意識によって、時の歴史に協力したわけです。』(折口信夫との座談会:「日本文化の流れ」・昭和24年2月)

変革の機運が一般人(生活者である民衆)のレベルから湧き上がっていたというところが重要です。ということは、「何だか知らないが、お上が文明開化・殖産興業と勝手に騒いでおるわ」と庶民がブツブツ言っていたということではないのです。もちろん列強のアジア進出の脅威に対して一刻も早く国を整備するのが明治政府の急務でありました。しかし、そういうことに関係なく・庶民のなかから自然と湧き上がった変革の機運があったのです。「天保人」とは江戸の残渣を引きずって新しいことを取り入れようとしない人間への蔑称でありました。「お前は天保人だ」と言われることは、お前は時代遅れの役立たずだという意味だったのです。

こうした明治初期の民衆の変革の気運は、明治初期の歌舞伎を考える時に非常に重要なことです。こういう時代の雰囲気を演じる側(歌舞伎役者)にも・見る側(観客)の側に対しても意識しておかねばなりません。九代目団十郎が「活歴」を始めとする演劇改良運動に熱を上げたことは、今から見れば文明開化の熱に浮かれた馬鹿騒ぎのようにも見えるでしょう。結果としては、いろいろ試行錯誤をしたけれど団十郎の演劇改良の試みはうまくいかなかった(つまり観客の支持を得られず・興行的にもあまり成功しなかった ・ただし全然駄目だったわけでもなく当たったものももちろんあるのですが)ということになっています。確かに歴史的にはそういうことになります。現在の歌舞伎のレパートリーになっている「活歴」あるいは散切狂言は多くはなく、大半が埋もれてしまっているのはご承知の通りです。

しかし、団十郎の「演劇改良運動」が観客(つまり民衆)が望みもしないものを・お上の要請で興行の側から一方的に押し付けたものだと考えると、やはりそれは一面的な見方になってしまいます。時代の要請として・ 民衆から湧き上がるような形で演劇改良の気運が盛り上がってきた、そして団十郎たち興行の側もそれが必要と感じていたからそれに乗った・それがお上の要請にも合致したということでしょう。そう考えなければならないと思います。

だが、実際にやってみると少々具合が悪かったのです。そうなると観客というのは無責任なものですから、ああだこうだと文句を言い出してソッポを向いてしまいます。こうなると団十郎もだんだん熱が冷めてしまったということなのです。

5)団十郎のいきどおり

明治初期の民衆の変革の意識はどういうところから出てくるのでしょうか。かつての安土桃山の民衆のダイナミズムは「かぶき的心情」の原点でもあったわけですが、個人の意識・意欲というものを明確に持っていたものでした。これが江戸幕府の身分政策・鎖国政策などで押さえこまれてしまって、約250年の時が過ぎてしまいます。幕末になってその閉塞状態がどうにもならぬところに至ったところで明治維新が来ます。明治初期の民衆の変革意識というものは、250年間忘れかけていた庶民のダイナミズムが、新しい世の中になって再び熱く疼(うず)き出したということであろうと思います。

 例えば自由民権運動により・国会開設(参政権)・憲法制定が要求され、全国各地・民間レベルで憲法草案がさかんに議論されたという事実があります。自分たちが新しい社会を作るんだという意欲に民衆が燃えていたのです。江戸の身分制度が廃止されて「四民平等」となり・学問と才知があればのしあがっていくこともできる、そのような希望があったのです。事実、下級武士から新政府の高級官僚になった例がありますし、新政府と結びついてしこたま儲けた商人もいたのです。幕末の閉塞感がはじけて、民衆のなかに新しい世の中が来た・自分たちの時代が来たという興奮が世間に沸き立っていました。それが明治初期の雰囲気です。

しかし、そのような民衆の興奮は長く続かなかったのです。あっと言う間に世の中は整理されてしまって、気が付いたら何だかまた階級が固定されてしまったような窮屈さ・不自由さを民衆は 次第に感じるようになってきます。ひとつには明治政府は、ひたひたと迫ってくる西欧列強の脅威に対して一刻も早く防衛の体制を整える必要がありました。そのために天皇を頂点にした立憲君主の確立が急務でした。民衆は国に奉仕することを求められたのです。

逆に西欧列強に一刻も追いつかねばならないと急く明治政府の欧化熱は明治10年頃からますます拍車が掛かって、鹿鳴館開館(明治16年・1883)でさらに 加熱します。これを歌舞伎史に当てはめると、明治11年(1878) の新富座開場、明治19年(1886)の演劇改良会発足、明治20年の麻布井上伯爵邸で の天覧歌舞伎ということになります。ここらあたりが団十郎の演劇改良熱のピークということになるでしょう。

もちろん団十郎は活歴や散切り狂言ばかり演っていたわけではありません。当然ながら江戸からの遺産である「古典歌舞伎」が団十郎の演目の中心でした。しかし、団十郎は古典を従来と同じように演じることを良しとしなかったのです。従来通りの感覚(型)で演じていたのでは、歌舞伎は依然として「否定されるべき江戸」の象徴でしかありません。そのままでは新しい明治の世において 歌舞伎は価値がないのです。歌舞伎は新しい視点から演じられなければならないと団十郎は考えたのです。

そうした明治初期の団十郎の「古典」の典型的な役は、何と言っても「忠臣蔵」の由良助と「勧進帳」の弁慶、そして「熊谷陣屋」の直実です。本来、由良助や弁慶の「忠義」とは江戸の封建思想を体現した 観念でした。つまりは否定去るべき旧弊の観念であったはずです。その由良助や弁慶の忠義が、明治の「皇国思想」の臣民のお手本として読み替えられていきます。そうすることで歌舞伎は新しい時代に対応したのです。

もうひとつは歌舞伎の演技を実録風に(つまり真実らしく)重く見せることです。より高尚に高級にということでもあります。「肚芸」と呼ばれる団十郎の芸、それは言葉や動きを少なくして・抑えた演技と表情のなかに万感の思いを込め・余韻を持たせようとするものでした。

「熊谷陣屋」における団十郎型は主役の直実にスポットを当て・その人間的苦悩を抉り出そうとするものです。直実の幕外の引っ込みを憂い三重の無言の演技でたっぷりと見せる団十郎型は、登場人物の五重唱の引っ張りで幕になるはずの丸本本来の幕切れではありません。これはある意味で戯曲の曲解であると言 うこともできます。しかし、人間的な苦悩を乗り越えて・それでも なお忠義を果たそうとする直実の生き方がまさに明治の世の空気に直結するのです。また、西欧から流入してきた近代的な自然主義演劇の思想にも・団十郎がそれをどのくらい理解していたかは別にしても・この行き方が何となくフィットするのです。それがその後の 団十郎の古典の手法になっていきます。そしてそれが現代歌舞伎の基礎になっているのです。(このことは後でもう一度考えます。)

「盛綱陣屋」の佐々木盛綱を二股武士だとして・これを嫌ったことも、団十郎の考え方をよく示しています。よくよく考えてみれば「寺子屋」の松王だって 現在の主人である藤原時平を裏切っているのだから同じようなものなのです。それでいて団十郎は松王の方は演じているのですから、団十郎も演劇思想をどのくらい確固として持っていたのかという疑問は確かにあります。まあ、そう深く考えたわけで もないと思います。時平は悪人だから・松王は裏切って良いくらいに考えたのでしょう。しかし、折口信夫も指摘していますが「団十郎は他の誰よりも生活を取り込んでいる役者であった」から・そう考えたのです。団十郎の考えは筋道としては理解でき ると思います。つまり団十郎は、時代というものが要求しているものが何かを察知して・それを芝居のなかに活かす感覚が他の誰よりもあった役者であったのです。これこそが時代に対して「いきどおり」を見せることのできる役者の必須条件であ りました。

こうした団十郎の考え方の背景は何だったのでしょうか。確かに末松謙澄や福地桜痴といった学者の取り巻き連中からの精神的影響も大きかったでしょう。しかし、やはり民衆の間に沸き立っていた「変革の気運」に団十郎もまた熱く反応していたということが大事なことだと思います。団十郎が「俺が歌舞伎を守る・俺が歌舞伎を変える」とまで思っていたかどうかは分かりません。多分、そうした使命感を本人は明確には意識していなかったと思います。しかし、あの幕末の閉塞した・いらだちを抜け出して、団十郎は「いきどおった」のです。

団十郎の芸はいったんは「旧弊の江戸」の全否定に発し、そして江戸に回帰していきます。その戻ったところは元の「江戸」と同じものでは決して有り得ないのです。しかし、それでも明治36年・団十郎が死んだ時に「江戸歌舞伎の最後の火が消えた」と人々が感じたならば、これこそ団十郎の去就そのものが明治の歌舞伎を象徴していたということの証にほかなりません。

6)団十郎の死

坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物のを表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

この逍遥の文章については別の機会に再び取り上げることにします。大事なことは、日清戦争(明治27年)・日露戦争(明治37年)あたりから時代は圧倒的な重圧感を持って民衆にのしかかって来たということです。(注:これは多少の質的違いはあれど世界的に起こった時代的現象でもあります。)そこでは国家の存在が最優先され、個人の尊厳は次にされてしまいます。幕末の閉塞状態をやっと抜け出したと思ったら、別次元の ・ある意味ではもっと複合的な閉塞状態が待っていたのです。明治初期の変革の熱狂から醒めてみると、民衆は周囲の状況が一変していることに気が付いたのです。そうした矢先の明治36年団十郎の死であったのです。

本稿においては、とりあえず逍遥の文章の冒頭部分に注目したいと思います。明治初期の変革の時期においてはすべて物事が判然しており・そのきびきびした時代精神を表すにおいて団十郎の芸風が最もふさわしいものであったということです。まさに団十郎は明治初期の空気を象徴する・時代をいきどおった役者でした。時代をいきどおった役者がいる限りは、江戸歌舞伎はどのように変化したとしてもそれはなお歌舞伎であったのです。時代をいきどおる役者が亡くなった時・江戸歌舞伎は終焉したと当時の人々はそう直感したのです。このことは大事なこと だと思います。この認識から九代目団十郎以後の歌舞伎を考えてみたいと思います。

(H17・1・23)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

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