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「侍を子に持てばおれも侍」

〜吉之助流「武士道」論・その1


1)武士の志

「ひらかな盛衰記・松右衛門内(通称「逆櫓」)」は、木曾義仲の遺児駒若の行方をめぐる物語です。巡礼の権四郎一行は、大津宿の騒動で孫の槌松と駒若を取り違えられて殺されてしまいます。孫の死を知った権四郎は怒り狂って ・駒若を殺そうとするのですが、これを婿の松右衛門(権四郎にとっては娘およしの二度目の夫に当る・槌松は前夫の子供)が制止します。松右衛門は、実は義仲の四天王・樋口次郎兼光であったのです。樋口にとっては何者にも代え難い若君の身替りに、血を分けぬ子(槌松)が子となって・忠義を立てしその嬉しさ、この樋口の親となり子となり夫婦となったからは、この樋口の武士道を立てさせて欲しい、と樋口は権四郎に訴えます。権四郎ははたと手を打って納得し、「ヲヲそうぢゃ。侍を子に持てばおれも侍。わが子の主人はおれがためにも御主人。ササ聟殿お手上げられい。舟玉冥利ふたゝび丸額になって炊(かし)きする法もあれ、恨みも残らぬ悔みもせぬ。また泣きもせぬ。」と言います。

ところが、ここで権四郎はちょっと意外な行動に出るのです。傍にある槌松の笈摺・つまり大事な孫の思い出を捨ててしまおうとするのです。「こりゃここに七面倒な笈摺があるわ。どこへなりととっとと捨ててしまへ」樋口がそれを留めて言います。「親父様。それはあんまりな思召し切り。せめて仏前へ直し、香花も取り、逆様なことながら、御回向なさって取らさっしゃれましょ」「アノ侍の親になって、未練なと人が笑やせまいか」「なんの誰が笑ひましょ」「ハア嬉しやな。有様はさっきにからそうしたかった・・・。」

権四郎は船頭ですが、ひょんなことから武士を婿に持つことになってしまいました。別に望んで武士を婿に取ったのではありません。たまたま婿にした男が出身を偽っていて・実は武士であったのです。それでも権四郎は「それならば・俺も武士だ・婿には武士道を立てさせなければならぬ」と、権四郎はホントに素直にそう思ったのです。権四郎は船頭ですから武士道などもちろん知るはずがありません。しかし、武士はこうあるべきものというようなイメージは権四郎にも漠としてあるのです。「侍は自分の身内の死を未練に嘆いてはならぬ」、権四郎は武士はそう いうものだと思っているのでしょう。それで大事の孫の思い出を捨ててしまおうとするのです。権四郎は権四郎なりに自分が追い込まれた事態を理解しようとして・自分も武士のように振舞おうと必死に努力しているわけです。「アノ侍の親になって、未練なと人が笑やせまいか」「なんの誰が笑ひましょ」、樋口にそう言われて権四郎は緊張を解いてやっと孫の死を弔う気になります。

この場面を「封建主義の武士の非人間的論理を押し付けられて・権四郎は自分の孫の死さえも素直に嘆くことが出来ない」という風に読むことも可能かも知れません。しかし、そうではないのです。権四郎は権四郎なりに「武士」というものの志(こころざし)の高さを意識し・そこに自分のレベルを合わせようと自分なりに無理をしているのです。武士というものは何がしかの志を持って・自分自身にストイックに使命を課すものであろうと権四郎はそう考えているのです。

「仮名手本忠臣蔵・六段目」の与市兵衛一家もそうです。娘お軽の婿・早野勘平は武士です。与市兵衛一家は百姓ですが、娘を塩冶家に女中奉公に出し・息子平右衛門も塩冶家の足軽です。そのような状況で塩 冶家が断絶に追い込まれ、娘お軽とともに勘平が一家に転がり込んでくるわけです。武士を婿にとったからには・自分たちも武士みたいなものである、なんとしても婿勘平 を敵討ちの仲間に入れてもらって・大望を遂げてもらいたい・そのために自分たちにできることは何だろうか、与市兵衛一家がそう考えることはごく自然なことであると思います。しかし、百姓である与市兵衛が婿に対して出来ることと言えば・娘を売ることぐらいしかなかったのです。

「六段目」を「与市兵衛一家のなかで武士である勘平は疎外された存在であった・仇討ちという封建社会の非人間的論理が平和な百姓の生活を掻き乱してしまった」と読むことも可能かもしれませんが、それはやはり作品本来の読み方ではないと思います。与市兵衛一家は彼らなりに・武士である婿勘平の志を応援して・一帯感を以てそれに殉じようとしているのです。主君の仇を討つことは武士たる者の道である・だから武士の婿を持 つ我らもそうするのだと彼らは素直にそう信じているのです。それが勘平に裏切られたと思ったからこそ(誤解であったことが最後に分るのですが)・母親おかやの怒りは大きかったのです。そこに「六段目」の勘平の悲劇があります。

ここで大事なことは「逆櫓」においても・「六段目」においても、武士を婿にとったからには・船頭でも百姓でも自分たちも武士になったつもりで婿を応援しなければ「おのれの道が立たない」と彼らが考えて ・彼らなりに行動していることです。そして自らに「ストイックに自己犠牲」を課そうとするのです。武士たるものはそういう風に行動するものだと彼らがそう信じているからです。「武士の志」というものを庶民のそれと比較して高いとか低いとか言うのはどうかとは思いますが、権四郎にしても・与市兵衛一家にしてもそれが何がしか「より高い次元」のものであると感じていることは明らかなのです。

2)「武士道」という言葉

ところで、新渡戸稲造が「武士道」(原題「Bushido, The Soul of Japan」)を著したのは1899年(明治32年)のことでした。「武士道」を執筆したきっかけは同書冒頭に出てきますが、知り合いの外国人と散歩の時、たまたま宗教のことに話が及び、「あなたのお国の学校の宗教教育はどんなものか」と聞かれたことでありました。新渡戸が「ありません」と答えると、相手は大変に驚き、「宗教なし!それでどうして道徳教育ができるのか」と繰り返し言われたそうです。その反応に新渡戸はまごつき、即答ができませんでした。それから新渡戸はいろいろ考えた末に自分の正邪千悪の観念を形成している根源が「武士道」であると思い至ったのです。その自分なりの回答が「武士道」という本なのです。

新渡戸稲造:武士道 (岩波文庫)

ところで「武士道」という言葉は江戸時代には一般に使われた言葉ではなかったのです。その後、新渡戸は何人もの外国人から「自分は日本に長く暮らしていたが武士道なんて言葉は聞いたことがない・そういう言葉は日本にないのではないか」と言われたそうです。慌てて文献を調べてみると・確かに「武士道」という言葉が出てくるものがすぐに見つからない。それで「武士道」というのは新渡戸がいい加減にこしらえたものだという笑い話さえ出る始末だったと本人自身が書いています。

山本常朝の「葉隠」には「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉がありますし、冒頭に挙げた「逆櫓」の樋口の台詞にも「私が武士道を立てさせて下さらば・・」という言葉が出てきます。だから、「武士道」という言葉 が昔からあったことは確かです。しかし、あまり一般に使われない言葉であったようです。新渡戸稲造は、文久2年(1862)盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として盛岡に生まれました。だから新渡戸が自分の観念は武士道から来たと考えるのは分りますけれど、しかし、そこから新渡戸が「武士道が日本人全体の観念である」と考えるに至るのはもう少し道程が 必要なようです。江戸時代においては、国民の大部分が農民階級であって・武士階級はほんの一部でありました。そのなかで「武士道」が日本人全体の観念を代表するものだと 本当に言えるのかどうかは考えてみなければならないことです。

結論から申し上げれば、「武士道」が日本人の観念を代表するものであるということは、多少の注釈が必要であるにしても「概ねそう言える」と思います。例えば「逆櫓」や「六段目」のような場面を見ても、武士の生き方には何がしか高い次元のものがある、それは時にはストイックに自分を殺していかねばならない辛いものであるけれど・「道」を貫くためにはそういうこともあるのだ と庶民は素直に考えていただろうと思います。そして庶民はそういう辛さを味わわなくていいのだから楽であると言えるけれども・その分武士の生き方の方がやはり「次元がちょっと高い」のだということも考えた かも知れません。

しかし、注釈を付けなければなりませんが、これは「観念としての武士」のことを申し上げております。現実にはどうしようもない武士がいっぱいいたでありましょうね。しかし、お芝居のなかに登場する 「立派な武士」・たとえば大星由良助であり・樋口治郎兼光や熊谷次郎直実などはやはり立派だと思って、庶民は舞台を見ていたと思います。そして、「武士道」という言葉は使わなかったとしても・そう した観念を庶民のなかに拡げていくのに、歌舞伎・人形浄瑠璃が大いに貢献をしたのも間違いありません。

3)「武士道」は武士だけのものではない

ところで、江戸時代を通してだれがいちばん偉かったと思いますか。だれが人格的に一番優れた人物だったと思いますか。この問いに対して司馬遼太郎氏は 「私は高田屋嘉兵衛だろうと思います。それも二番目が思いつかないくらいに偉い人だと思っています。」と語っています。「江戸期の人たちにもし会えるなら、まっさきに高田屋嘉兵衛に会いたい」とも書いています。

高田屋嘉兵衛は司馬氏の小説「菜の花の沖」の主人公です。高田屋嘉兵衛 は千島航路を開拓した船乗りであり商人ですが、文化9年(1812)・彼が44歳の時に千島列島の海を航海中にロシアの軍船に拿捕されます。詳しいことは小説をお読みいただきたいですが、軍艦を指揮するリコルド少佐と、お互い分らぬ日本語とロシア語の単語を交わしながら友情を育み・ついに日本へ帰還するまでがこの小説のクライマックスです。

最大の危機は嘉兵衛がディアナ号に乗って日本へ帰航する途上で起こります。そこで嘉兵衛はリコルドが大きな誤解をしていることに気が付きます。もはや説得不可能と見た嘉兵衛は劇的な・まさに狂乱したとしか見えないような行動に出 るのです。嘉兵衛はマストに登り、物見台で脇差を抜き、驚くリコルドを差し招き、「いこるつ(リコルド)よ、もはやわしの面目はつぶれ、事もおわった。お前の命までは申し受けぬが、ひと太刀だけ報いさせよ、その上にて、わしは腹を切るわい」と叫ぶのです。甲板にいる乗組員全員があっけにとられるなかで、リコルドは翻意してい きます。

この嘉兵衛の劇的行動について、司馬氏は「ひょっとすると嘉兵衛の血のなかにある近松の「出世景清」の景清がそうさせたかも知れない」と書いています。これは重要な指摘です。嘉兵衛は無類の浄瑠璃好きで、拿捕された時にも浄瑠璃本を数冊抱えてディアナ号に乗り込んだほどでありました。嘉兵衛がリコルドとの間に修羅場を演じざるを得なくなった局面において・嘉兵衛は誠実と物ぐるいのあげくごく自然にその行動が演劇的になっていったわけです。別稿「町人階級と浄瑠璃」ではこのことを外国人とのコミュニケーション手法としての「演劇性」を考えてみたのですが、本稿においては同じ場面を「武士道」の観点から考えてみたいと思います。

ロシアの軍人たちが、名のある武士でもない・一介の商人に過ぎない嘉兵衛を「捕虜」としてではなく・「将官・軍人」として礼遇したというのは、嘉兵衛という人物が「男を磨いた奴」として自然に認めたことから来るのです。嘉兵衛の人格の 高潔さが「男を磨く奴=軍人=武士」にも自然と通じるものがあったからです。それが浄瑠璃の素養から来たということは直接的には言えないかも知れませんが、そう考えて間違いではないのです。

江戸時代には武士は謡曲を・町人は浄瑠璃を素養としてたしなみました。これは単なる娯楽とか教養とかを越えて、生活のための必須事項でもありました。当時の日本語には共通語というものは存在せず各地独特の方言の違いが今より大きかったのです。出身地が異なれば日常語でのお互いの意思の疎通は困難でした。だから武士は謡曲で・商人は浄瑠璃で学んだ言葉遣いと抑揚で情報交換をしました。それと同時に浄瑠璃のなかで描かれた観念・あるいは倫理観が、庶民の血肉のなかに自然に取り込まれていくことになるのです。庶民の道徳教育において歌舞伎・人形浄瑠璃の貢献は非常に大きなものがあったと考えられ ます。

ここでもうひとつ注釈せねばならぬのは、「武士道」というものを武士だけのものと考えるのではなく・もう少し広義に(もう少し曖昧に)「人の生きる道」のようなものとして 大きく捉える方がよろしいということです。武士でも・商人でも人の生きる道にそう大した違いがあるはずがないのです。「仮名手本忠臣蔵・十段目」には「天河屋義平は男でござる」という場面があります。「天河屋義平は商人でござる」とは言いません。商人である前に「男」であらねばならないのです。武士もまた同様 に武士である前に「男」でなければならない。一応「武士道」という呼び名は付いているけれども(それはそういうキャッチフレーズを造った新渡戸稲造の功績かも知れませんが)、それが日本人の倫理観・道徳観を形成している根源ならば・やはりそう考えるべきであろうと思う わけです。

「江戸」という時代は、封建的な主従関係のモラルを武士だけでなく・商人のなかにも沁み込ませました。「武士道」(文脈上やむを得ずこの言葉を使うこととします)の観念もまたそうです。大坂商人のモラルは武士の それとよく似ています。「商人道」というのはほとんど「武士道」そのものなのです。

そこで、なぜ「商人道」が「武士道」に似たものになったのかを考えてみます。その昔は「商人は嘘をつくもの・人を騙すもの」と言う感じで賤しい職業のように思われていました。これは何故かと言えば恐らく・安い値段で商品を仕入れて・ 自分は何も作らず・それを何だかんだと理屈をつけて高い値段で他人に売りつける・そういう職業だと思われていたせいでありましょうか。 その当時は自分で何も作らないというのは・何もしないのと同じという感覚があって、商売や金融というのは非生産的な・卑しい職業だという見方があったのです。それで商人の身分は士農工商の一番下の身分に置かれたのです。しかし、本当の商売というのはそんなものではありません。商売ほど信用が大事・義が大事なものはありません。だとすれば、身分的に貶められれば貶められるほど、彼らはいっそう「信用を重んじ・義を重んじ」ようとするのです。そうすることによって自らの位置を高めようとするのです。「商人道」がそういうことで「武士道」に自然に似ていくわけです。

この事情は西欧でもほぼ同じです。西欧でも商売や金貸しは賤しい職業とされていました。それが世間にまっとうな職業として認知されていくためには、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような思想的根拠の登場を待たなくてはなりませんでした。昔はイギリスでも商人を「ジェントルマン」とは決して呼びませんでした。ジェントルマンというのはもともと田舎の大地主のことを指し、山高帽をかぶって蝙蝠傘を持ったような紳士のことを言ったものです。商人が自らをジェントルマンと称するようになったのは18世紀初頭ごろからだそうです。ある時などは・自分をジェントルマンと称した商人が裁判で訴えられたこともあったそうです。それほどに「ジェントルマン」ということは重かったのです。逆に言えば、西欧の商人達もジェントルマンと呼ばれるようになるために必死で「男を磨いた」に違いないのです。それと同じように・日本における「 商人道」も西欧における「ジェントルマンリー」と同じような形で、庶民のなかに膾炙していったと考えてよろしいかと思います。

ご存知の通り、 歌舞伎・浄瑠璃作品には武士の世界が数多く描かれています。そこに描かれる忠義のドラマ、例えば主人の身替りに自分の子供を殺したり・自ら腹を切ったりするわけですが、武士の世界とは関係のない庶民が それを見ながら、「武士というのは馬鹿なことをするものだ・あんな非人間的な・非人情なことはない」と思って見ていたはずはありません。もし似たような状況に自分が追い込まれるならば・その時は「人の生きる道」として自分はこういう行動を取るのだと思って彼らは芝居を見るのです。その行動基準・倫理基準を歌舞伎・浄瑠璃の舞台を見ながら知らず知らずのうちに磨り込まれていくものなの です。悲壮感に打たれながらも・自分が信じるものにひたすらに命を捧げるその姿に・何かしら尊い・「高い次元のもの」を見て感動したに違いありません。その「何かしら高い次元のもの」を「武士道」と呼ぶならば、あるいはそうなのだろうと思うわけです。「武士道」は武士だけのものではないのです。

(H16・11・23)

(参考文献)

新渡戸稲造:「武士道 (岩波文庫))・1899年

司馬遼太郎:講演『「菜の花の沖」について』:1985年5月州本での講演(朝日新聞社)

司馬遼太郎:「浄瑠璃記」〜「この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

(後記)

別稿「主題と変奏〜浄瑠璃・歌舞伎におけるプロットとは」もご参考にしてください。

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