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かぶき的心情と仇討ち

〜吉之助流「仇討ち論」:その1


1)遺された者の仇討ち

江戸の芝居・文芸には仇討ち物と呼ばれる一大ジャンルがあります。「忠臣蔵物」や「曽我物」は歌舞伎の題材としても両横綱とも言うべき存在ですが、その他にも「伊賀越物」・「亀山の仇討ち物」・「女敵討ち物」などの作品群があります。実にバラエティーに富んでいるのです。

仇討ちというのは江戸時代だけのものではありません。日本の最も古い仇討ちの記録としては「記紀」のなかに、安康(あんこう)天皇が眉輪王(まゆわのおう)に殺されたという例があります。これは父の大草香皇子(おおくさかのみこ)を天皇に殺されたことへの復讐であったといいます。それ以後にも仇討ちはありましたが、建久4年(1193)に富士の裾野の巻狩りの陣屋で仇敵工藤祐経を討った曽我兄弟の仇討ちはあまりにも有名です。これは兄弟の父・伊東祐泰(すけやす)を殺されたことへの復讐でありました。この話が「曽我物語」となって伝説化して一般に普及していきます。

このように日本人は昔から仇討ちに深い興味があったのです。しかし、仇討ちと言えば江戸時代・江戸時代と言えば仇討ちを思い出すほどで 、実際、仇討ち事件は江戸時代に多く起こっているのです。このように江戸時代だけが特別に仇討ちと結びついていったのには何か深い理由がありそうです。そこに江戸という時代の特殊性があるように 思われます。歌舞伎の仇討ち物の何が人々の心をとらえ・熱狂させたのでしょうか。本稿ではそのことを考えます。

仇討ちの原因になるのは、たいていの場合は殺人事件です。誰かが何かの理由で殺されると・その身内の者が犯人を討って復讐をするというのが仇討ちです。しかし、事件が起きれば・ 仇は なるべく早く遠くへ逃げてしまおうというのは当然のことです。討っ手は藩庁へ届けをして仇討ちの許可を持って旅の準備をして出発するわけですから時間が掛かります。その間に仇はさらに遠くへ逃げて行方をくらませてしまいます。こうなると新聞もテレビもインターネットもない時代ですから、仇の行方を探し出すのは容易ではありません。噂を頼りに・ 仇が潜んでいそうな周辺を探して諸国を廻る、あるいは雑多な人間が集まっている江戸や大坂のような大都市を探すということになります。仇討ちの旅というのは筆舌に尽くし難い苦難の旅です。風雪に打たれ・病苦に耐え・山野を巡らなければならないのです。それに路銀の工面も必要になります。資金が尽きれば、渡り中間(ちゅうげん)や日雇人足になったりして仇の行方を探さねばなりません。ひどい時には乞食になって仇を追い求めた例もあったと言います。

元禄14年(1701) 伊勢亀山の仇討ちの石井源蔵・半蔵兄弟は、行商人や土方人足になって稼ぎをし・最後には中間をして仇赤堀源五衛門に近づき、ついに28年目にして本懐を遂げています。記録されている仇討ち旅の最長例は、嘉永6年(1853)に陸奥の鹿島宿で母の 仇を討った修験者の妻とませの53年だそうです。とませが7歳の時に事件が起きて・それから53年の仇討ち旅・終ってみれば59歳になっていたわけで、7歳では仇の顔も 知らなかったであろうに・よくもまあ仇への復讐心をこれだけの長期間も維持できたものだと思ってしまいます。逆に言えば、記録には残っていないけれども・それ以上の数の挫折例、あるいは返り討ちにあった例などが数知れぬあったのだろうと思います。

それではいったい誰のために仇討ちは行なわれたのでありましょうか。どのような思いを持って人々は復讐心を維持しつつ・仇討ちの旅を続けたのでしょうか。折口信夫はこの問いについて、『分かり切っているではないか、殺された者の為だと思われるでしょうが、それでは大雑把です。ただ愛する者のため、怨みを返すというだけなら、そんなに仇討ちは続かなかったはずです』と書いています。その論文「仇討ちのふおくろあ」(昭和26年12月)は示唆されることの多い論文です。さらに折口信夫の説にしたがって仇討ちの本質を考えてみたいと思います。

折口信夫が言うところは次のようなことです。殺された者の多くは血を流して死んでいます。その場合、たいていの人は殺した者が悪いと言うでしょうが・それは現代人の考え方なのです。神の側から見ると血を流した者・つまり殺された者の方が悪いのです。これは理解しにくいかも知れませんが、血を流すことを神が嫌うのです。だから、血を流した・殺された人間は物忌みにかかったことになり・殺された者は償いをしなければならないのです。

『横死というのは自分の意思で死んではいないのです。また神がそうさせたのでもないのです。してはならぬ事により、入ってはならぬ所にはいったり、動物に殺されたりした場合なのです。普通の場合、こうした問題が起きるのは、血を出された側の方から起こって参ります。死人が血を出して罪に触れた事を償う為に、その親族が斬り殺した者を殺すわけで、そうする事によって償いが完了することになるのです。いわば仇討ちはお祓いの一種だということになるのです。それをしないと、罪障が消滅しないのです。』(折口信夫:「仇討ちのふおくろあ」・折口信夫全集第17巻)

人間は神から与えられた天寿を全うするのが「正しい」ことなので、天寿を全した死であるならば死はむしろ祝福すべき喜ばしきことだ、という考えは神道だけでなく・どの宗教にでもある考えでしょう。そのような正しい形での死であれば、その死は神に祝福を以って受け入れられる・つまり仏教で言えば「成仏」できるということです。これが望ましい人の死に方なのです。

そうでない場合が問題になります。例えば事故で死ぬ・殺されるというような、自分の意思で死んだのではない場合です。この場合は自分自身が死ぬとは夢にも思っていないわけですから、まずその人の霊魂が自分が死んだということを認識できないからなかなか成仏できない・あるいは何かこの世に未練があって成仏することを自ら拒否をするというような状態になります。ですから肉体的には死んでいるのに・霊魂的には死にきれていない中途半端な状態になるのです。このような状態を神が嫌うのです。そして殺された者は物忌みになった・呪われた状態になります。

この状態を放置しておくと、その穢れが近親者に及んでくることになります。だから殺された者の近親者は殺した者を追ってこれを殺す・これが殺された者の物忌みを解くことになり・それがお祓いに もなるということなのです。このあたりは日本人独特の思考プロセスであるかも知れません。だから、結局、仇討ちというのはお祓いのために・遺された自分たちのためにしていることになるのです。そう考えますと、仇討ちがこれほどまでに長く続いた民俗学的な背景が理解されてきますし、長期間の仇討ち旅を持続させたのもやはり「自分の為だ」という意識なのでしょう。

2)かぶき的心情と仇討ち

それでは仇討ち事件が江戸時代において急に増えたことをどう考えればいいのでしょうか。その理由は、結局、社会における個の問題という観点からしか考えられません。すなわち「かぶき的心情」こそがそれを解く鍵になります。(別稿「かぶき的心情とは何か」「かぶき的心情と世間・社会」をご参照ください。) 「かぶき的心情」というのは社会における個の意識の発露・主張である、ということは「歌舞伎素人講釈」では何度か取り上げてきました。しかし、江戸時代・特に前半期のかぶき的心情は、個の意識がまだ社会的な権利として理性的に捉えられてはおりません。個人の主張 が感情的な原初的な形で噴出するのが、江戸時代の時代的心情としてのかぶき的心情なのです。

仇討ちにおけるお祓いの問題・すなわち遺された者の穢れの問題が、江戸時代においては個の意識の発露として・非常に感情的 心情的なレベルにおいて捉えられているのです。殺された者の穢れをはらうために仇討ちをやるか・やらないかという問題だけならば個人の信条の問題ということになるかも知れません。しかし、仇討ちをしないことを世間が許さないとしたら、親の仇を討たないのは不孝者だ・親の恥だと言って世間が責めるとしたら、それは個人の名誉の問題だということになります。ある意味では仇討ちの問題は名誉の問題であるとも考えることができるのです。

かぶき的心情の根源は、個人の「一分がたつ」・「意地が立つ」という感情です。その観念は個人の名誉の問題と密接につながります。仇を討つということと個人の意地を立てるということが重なってくるのです。つまり、仇討ちにおける穢れの意識と個人の心情がかぶき的心情において増幅された形になっているわけです。これこそが江戸時代に仇討ちが急増した原因であろうと思います。仇討ちとはかぶき的心情が非常に個人的かつフォークロア的な形で発露したものであると言えます。

討っ手に意地があるのなら・討たれる方にも意地があり名誉があるということになります。討たれる方も何とかして討たれまいとして逃げ回ります。それを守ろうとする者たちも出てきます。仇人の縁者・関係者も討たれては意地が立たないのです。討つ側も討たれる側も「かぶき的心情」において熱くなるのです。それが江戸時代の仇討ちの特色なのです。

仇討ちをすることがいいことか・悪いことか、もっとはっきり言えば、それは意味ある行為なのか・無駄なことではないのかということは、当時の仇討ちの当事者たちも冷静になればちょっとは考えただろうと思います。少しづつ目覚めてきた人たちが、旧習の馬鹿馬鹿しさに 次第に気付いてきます。それを言って仇討ちをやめたらひどい目に合わされるのですが、しかし、だんだんと勇気のある人たちが増えてきます。

松平信綱が熊沢蕃山に次のように尋ねたことがあります。「主家の用で使いに出向く途中、親の仇に出会ったらどう対処すべきであろうか」蕃山の答えはこうでした。「親の仇を持つ身であれば、奉公などせぬものです。」

この話は孔子が子夏に「親の仇を持っていればどうすべきか」と問われて・「苫に寝ね干を枕にして仕えず、天下をともにせざるなり」と答えた逸話を踏まえているのですが、「仇を追い求めている身ならば奉公する余裕などないはずだ」などと言葉通りに読むべきではありません。「奉公する身であるならば、 仇討ちのような事態に巻き込まれるような・トラブルを起こすようなことをするのではない」と読むべきなのです。仇討ちが馬鹿馬鹿しいことなど、思慮ある人なら ばそんなことは当然気が付いていたのです。

まずは横行する仇討ちを何とかして制度化しようという試みが行なわれました。ものの本を読みますと「江戸時代には仇討ちが合法化され・公認されていたから仇討 ちが多かった」ようなことを書いているものがありますが、トンデモナイことです。幕府は個人的心情から湧き上がるような仇討ちという行為をどう社会的に位置付け・裁くかということに頭を悩ませ続けたのです。だからこそ法的なプロセスを経ることによって仇討ちを規制しようとしたのです。

「討たるる者の子葉(しよう)ども敵討を願うに、簿に記し、願ひに任すべし。然れども重敵(またがたき)は停止すべきこと」

江戸幕府の創成期にできた「家康百箇条」のなかの一条です。帳簿につけて勝手にさせよ、しかし重敵をやれば際限がないから禁止するというのです。仇討ちについて為政者から対処の方針が出たのは、これが最初のことでした。届けさえすれば仇討ちがすべて認められるというものでもなかったのです。侮辱されて自殺した者の怨みを晴らすなどというのは仇討ちとは認められませんでした。親が子の仇を討つというのも逆縁だとして認められませんでした。

また、 ものの本には「江戸時代において仇討ちは武家社会のモラルであった武士道の真髄として賞賛された」と書いてあるものがありますが、これも違います。むしろ、幕府は横行する仇討ちという行為を迷惑なものと考えていました。

しかし、 「礼記(らいき)」の教えるところでは、子にとって父は天であり・その天を殺した者とともに天を戴くものは孝子ではないということがあります。「不倶戴天の敵」という言葉はここから来ています。封建主義のバックボーンが忠孝であるわけですから、親の仇を子が討とうという行為を幕府は否定ができないことになります。このような論理的バックボーンを得て、仇討ちはますます横行していきます。こうなると仇討ちをあからさまに禁止すれば封建道徳の崩壊にもつながりかねませんから、幕府は世間が仇討ちを賞賛することを仕方なく容認・放置したということであったろうと思います。

吉良上野介屋敷に討ち入った大石内蔵助以下赤穂浪士が切腹の処分が下った時、それこそ幕府を二分するほどの議論が行なわれました。結局は、主君の復讐が違法であったのではなくて・徒党を組んだのがいけなかったとされました。「四十六士が上野介を仇と決め付け、幕府の許可もなくして討ち入りを行い騒動を起こしたことは法に反する。これを許せば、これ以後、天下の法は立つべからず」という荻生徂徠の主張が通って、赤穂浪士は士の礼を以って切腹に処されたわけです。 彼らの行為が仇討ちか否かという議論は保留にされました。

赤穂浪士の切腹の処分を聞いて民衆は激昂しました。日本橋の高札場の「忠孝を励むべきこと」と書かれた高札は塗りつぶされました。世間の赤穂浪士の討ち入りの受け取り方は幕府の受け取り方とはまったく違っていたのです。世間は赤穂浪士の討ち入りを仇討ちであるとはっきりとそう見たのです。

「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」

「忠臣蔵・四段目」の判官の切腹の直前の台詞です。この判官の台詞は、「太平記」において湊川の合戦で、正成は弟の正季(まさすえ)と「手に手をとり組み、刺し違え」て自害をして果てた時の最後の言葉を反復したものであることは別稿「太平記読みと忠臣蔵」において触れました。自害する直前に楠正成は「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓い、「最後の一念によって善悪の生を引く」と言ったのです。この台詞を「かぶき的心情」によって赤穂浪士の討ち入り に重ねたのが「忠臣蔵」の構造なのです。

ここでは「かぶき的心情」に古(いにしえ)の仇討ちの心情が重ねられています。実はふたつの心情はぴったりと重なっているわけではないのです。しかし、ふたつの心情はある種似通った感情においてつながり合い・互いに共鳴して・増幅しています。そこに江戸時代に仇討ち事件が急増した真の理由があるのです。

このことを吉之助流「仇討ち論」において、いくつかの歌舞伎狂言を検証しながら考えてまいりましょう。


(H15・12・21)

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