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続・芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント・2


○続「芝居と踊りと」・その1

本稿は別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」の続編みたいなものです。先日Eテレ「日本の芸能」で放送された一昨年(2014年)12月13・14日に東京文化会館での「日本舞踊Xオーケストラ」の舞台映像をご覧になった方も多いと思います。このところ日本舞踊を西洋音楽のオーケストラに乗せてみるという試みは色々行われていて、その話題を「芝居と踊りと」では取り上げたわけですが、「日本舞踊Xオーケストラ」という企画も回を重ねて当初の意図からだんだん焦点ボケして来た感じで、西洋音楽をバックにして日本舞踊を踊るということが単なるご趣向に落ちたようで大変残念に思いました。まあ正直に申し上げれば、吉之助があの論考を書いたのは結局こういうことになるかなという予感があったからなので別に驚きはしていませんが、どうしてこういうことになるかと云うと、実践者としての舞踊家の方々はその道のプロとして音楽に身体を乗せるということは当然出来ているわけですが、日本舞踊とは・そしてその根幹にあるところの日本音楽(邦楽)とはと云うところを理念として十分詰め切れていないことが露呈した、だから西洋音楽にただ乗っかって日本趣味を強調した衣裳で振りを付けるご趣向になってしまったということかと思います。

「芝居と踊りと」で吉之助が指摘したことのひとつは、日本舞踊が芝居掛かりになり過ぎているということです。どうしてそうなるかと云うと、邦楽のほとんどが歌詞を伴うものであるからです。そのような邦楽に根ざしている日本舞踊は、実は言葉に縛られています。逆に言えば、日本舞踊は言葉に守られて楽しているのです。だから日本舞踊は純粋な意味で振りそのものだけで何かを表現することがとても少ない。足らないところは歌詞が補ってくれると、どこかに頼るところがあるのです。折口が「芝居がかりでない方が踊りらしい気がする、芝居 がかりだと踊り自身が不純なものになる」と指摘しているのは、そこのところです。日本舞踊の方はそういうことをお考えになったことはないのでしょうかね。

前回もそうでしたが、今回の演目も言葉を伴わない純粋器楽にわざわざ筋(ストーリー)をこじつけたものが多い。例えばショーソンの「詩曲」に三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」みたいな筋を乗せる。そうすることで踊りを分かりやすくしたつもりなのでしょう。しかし、その為に純粋な身体運動として・身体そのものに語らしむというところがなくなっています。踊りとして不純なものになってしまうのです。足らないところは筋から推し計ってくださいということになる。これでは純粋器楽のオーケストラをバックに日本舞踊をやる意味がないのではないでしょうか。日本舞踊の振り自体をもっと観念的なものに高めていく必要があります。せっかく純粋器楽を利用するならば、敢えて芝居掛かりを拒否する方向を取った方が良い。それで成功するかはやってみなければ分かりませんが、そこを乗り越えないと日本舞踊は進化していかないと思いますがねえ。

(H28・1・16)


○続「芝居と踊りと」・その2

舞踊と音楽は切り離すことができません。だから日本舞踊を考えるということは、日本音楽(邦楽)を考えることでもあるのです。邦楽のもうひとつの特徴は、日本の伝統音楽の基本リズムは二拍子が多く、逆に三拍子のものがとても少ないということです。これについて武智鉄二は、農耕民である日本人のリズムは二拍子で、三拍子は旋回や跳躍を得意とする騎馬民のリズムだと言っています。これは仮説ではあるのですが、だから邦楽をバックグラウンドとする日本舞踊は身体運動として二拍子的であると云えると思います。別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」でも触れましたが、2012年・13年の「日本舞踊Xオーケストラ」で取り上げられた演目を見ても、成功したと思えるものはリズムの打ちが あまり前面に出ず曖昧な印象の曲をつかったものでした。例えば「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)です。こういう曲であると、日本舞踊と西洋音楽のリズム感のズレが顕著にならないので助かるわけです。反面、リズムの打ちが明確に出たものだと上手く行かないことになります。例えば 2012年の「ボレロ」(ラヴェル)がそうで、群舞は三拍子で「一二三一二三・・」という定間の振りで、これはまことに珍妙なものでした。まあ良く言うならば盆踊りみたいなもので した。このような三拍子の音楽を日本舞踊で処理するならば、間合いをいなすか・ずらさねばならないと思います。つまり踊りの振りを三拍子のリズムに意識的に乗せない・あるいは二拍子的に崩す技巧が必要になるのです。

ところがこの「日本舞踊Xオーケストラ」の演目を見ていると、踊り手のみなさん動きを音楽に合わせることばかり考えているように見えます。日本舞踊の動きに西洋音楽を引き寄せるということをもっと考えて欲しいと思います。西洋音楽と日本人の伝統的な動きとの齟齬みたいなものを意識して欲しいのです。そうすれば反義的に西洋音楽の特異性みたいなものが浮かび上って来るはずです。そうしないと「日本舞踊Xオーケストラ」の試みは、ただの和風バレエの創作・明治時代の鹿鳴館での舞踊みたいなものになってしまいます。それならば日本舞踊の踊り手がやる必要はないのです。そうならないためには日本舞踊のみなさんは、邦楽にせよ・西洋音楽にせよ、リズム・音程・旋法という構造面への理解をもっと深める必要があります。音楽というものを情緒的にしか捉えていないのではないかと思いますねえ。

しかし、優れた日本舞踊の踊り手は本能的にそのような西洋音楽とのリズム感の齟齬を感じ取るのでしょうねえ。そのようなことを思ったのは、昨年(2015年)9月に京都・泉湧寺境内での仮設舞台で井上八千代が踊った「ボレロ」でした。この舞台映像はTBSテレビが放送しましたから、ご覧になった方も多いと思います。前述の通りボレロの基本リズムは三拍子なのですが、これを二拍子を基調とする日本舞踊で処理するならば、2と3を約数とする最小公倍数は6ですから、3をひと括りとして二拍でゆったりと処理すれば6になるわけです。これが基本的な処理方法になると考えますが、八千代は大体そのような感じで踊っていると思います。もうひとつ早い二拍子を3回打って6で納める処理方法もあると思いますが、八千代はたまに足拍子を踏む時にこの感じで処理しています。だから踊りが非常に安定して、ボレロであってもちゃんと日本舞踊になっています。これで良いわけです。それにしても八千代の周囲で踊っている群舞はこれは何ですかねえ。まったく意味不明のバレエですなあ。これなら八千代ひとりで踊ってくれた方がずっと良かったと思います。

(H28・1・26)

(後記)ちなみに使用された曲は以下の通りでした。

*2014年12・13日公演・「日本舞踊Xオーケストラ」(東京文化会館)
黛敏郎「BUGAKU(舞楽)」より、ショーソン「詩曲」、ガーシュウィン『ポーギーとベス』組曲より、ドビュッシー「夜想曲」、ラヴェル「ボレロ」

*2015年9月12日公演・「泉湧寺音舞台」・(京都泉湧寺境内)
ラヴェル「ボレロ」(井上八千代出演)


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