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キャスリーン・フェリアの声〜女形の声を考えるヒント


本稿で紹介するのは、不世出のコントラルト歌手と言われるキャスリーン・フェリアが歌うシューベルトの歌曲「君は我が憩い」です。(1949年9月7日、エジンバラ 音楽祭でのライヴ)ちなみにピアノを弾いているのはブルーノ・ワルターで、ワルターはフェリアの才能を評価し・我が娘のように可愛がり・たびたび共演しましたが、共演としては1952年5月のウイーン・フィルとのマーラー:「大地の歌」(英デッカ録音)があまりにも有名です。

コントラルトというのはアルトとほとんど同義とされますが、厳密に言えばコントラルトはアルトよりもう少し低い声域を指すようです。もっとも近年はアルトとメゾソプラノもあまり区別がされないようで、総体に低い 声域の女声歌手が少なくなっているように思われます。メゾソプラノの名歌手と云えば・吉之助の世代はクリスタ・ルートビッヒがまず第一に思い浮かびますが、ルートビッヒは「薔薇の騎士」のマルシャリンも歌った声域の広い歌手で・声色はやや明る目の方ですが、おかげで吉之助も彼女の声がアルトの基準になってしまっています。しかし、恐らくアルトというのは本来もう少し低く暗めの声を言い、コントラルトはさらにもうちょっと低く暗めの声のことを言うのだろうと思います。そういう意味では、これがコントラルトと言える女声歌手は意外と少ない、現代においては特に少ないようです。暗めの声が好まれないご時勢なのでしょうかねえ。正真正銘のコントラルト歌手と云えるのはキャスリーン・フェリアあるいはマリアン・アンダーソンといったところかなと思います。どちらもふた時代ほど昔の歌手で、フェリアは若くして亡くなりました(1953年没)が、アンダーソンも全盛期は50〜60年前半になります。

しかし、吉之助の女声の声域の基準が高めであったせいか、吉之助が最初に聴いたフェリアの声(つまりワルター指揮の「大地の歌」(上述)のことですが)の第一印象は「何だ、この低くてクライ声は・・」というあまり良ろしくないもので、そのせいで吉之助が聴くワルターの「大地の歌」はミルフレッド・ミラーが歌う1960年盤(米コロンビア録音)の方が ずっと好みでありました。ただし52年盤もユリウス・パツァークの歌うテノール・パートが素晴らしかったし・オケが良いのでよく聞きましたが、吉之助はフェリアの声は すっかり苦手のイメージが付いてしまいました。そういうわけで吉之助はフェリアの他の録音をあまり聴かないでいましたが、まったく予期しないところから吉之助の関心を引き起こすことになりました。 それは歌舞伎の女形の声のことです。

実は吉之助は、歌舞伎の女形の声のことを考える時、ずっと疑問に思っていることがありました。現代の女形は、喉を絞って裏声に近い・高い細い声を遣おうとする傾向が強いようです。これは女性の声を模そうとしているのだから当然のように思いますし、そうしないと女の声に聞こえないと感じる観客が多いからだろうと思います。しかし、古い録音で例えば五代目歌右衛門の声などを聴くと、それは太い低い声であって、女性の声を模そうとする意識が少ないように思われました。だから武智鉄二なども、「現代の女形は生身の女の声を真似しようとし過ぎる・本来の女形の声はそうではなかった」 というようなことを書いています。それで歌舞伎の女形は生身の女の声を真似する 必要はない・男の声で堂々と押し通して良いのだと、吉之助も結構単純に考えていましたが、どうもそれはちょっと違うらしいということに気付かせてくれたのは、下に引用する音楽史家ミシェル・ポアザの文章です。カストラートとは去勢という外科手術によって声変わりする前の少年歌手の高い声域を成人後も保とうとするもので、十八世紀頃のイタリアのバロック・オペラでは全盛であったものです。

 『声をエロティックなものとすることは、性的な差異としての役割とはほとんど関係がない。(中略)実際、もっともエロティックだと考えられる声、つまり聴く者がこれ以上ないほど魅了されてしまう声は、男性のものであろうと女性のものであろうと、性を超越していると言われるであろう声なのだ。つまり女性であれば低い声(キャスリーン・フェリアやマレーネ・ディートリッヒ)、男性であれば高い声(カストラートやテノール歌手)となる。』(ミッシェル・ポワザ:「オペラ、あるいは天使の歌声」) 

ポワザの指摘にはまったく眼から鱗が落ちるような思いで、吉之助は長年胸中にあった疑問が一気に氷解するのを感じました。こんなところでフェリアの名前を聞くとは思いませんでした 。フェリアやディ―トリッヒの声はいわゆるハスキーな低い声だと思います。つまり五代目歌右衛門など昔の女形は男の声の調子(トーン)を平気で押し通していたのではないのです。昔の女形は女の低い声の調子を意識的に模していたということです。女の声の低い声質が性的な感覚の差異を曖昧にしてエロティックな情感さえ醸し出す、この低い声を駆使することで昔の女形は女を表徴しようとしたということです。しかし、それは現実にはあり得ない女の声なのでした。

そこで改めてフェリアの録音をいくつか聴き直してみると、性的な差異が曖昧で、エロティックな声というのは、なるほどこういうことかなと思いますねえ。ちなみにシューベルトの名曲「君は我が憩い」(作詞はリュッケルト)は女声歌手もよく歌いますが、本来は男声歌手の為のもの。まあ男の曲を女性が歌うケースも決して少なくはないですが、「君は我が憩い」が男の曲だと云うことを知ってフェリアの録音を聴くと、その声がある種のエロティックな感興を覚えさせるというポアザの指摘は、十分納得いただけるかと思いますね。

(H26・5・31)


カスリーン・フェリアー、ブルーノ・ワルター 1949年エディンバラ音楽祭ライヴ

マーラー:交響曲「大地の歌」(ワルター指揮、フェリア、1952年)


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