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賢治の聴いたベートーヴェン〜パスターナックの「運命」交響曲


宮澤賢治には童話「セロ弾きのゴーシュ」など音楽に絡めた作品がありますから、クラシック音楽に親しい詩人であることは知っていましたが、これほどのクラシック音楽ファンだとは知りませんでした。これを知ったのは、最近、萩谷由喜子著:「宮澤賢治の聴いたクラシック」というCD付きの本を読んだからです。賢治というのは当時としては・そして恐らく盛岡ではホントに珍しくハイカラなクラシック音楽ファンであったのです。有名な賢治の写真、花巻農学校付近の野良畑を厚手のコートを着て帽子をかぶった賢治が下を向いて歩いている写真がありますが、吉之助は踏みしめながら畑の土の具合でも確認して歩いているのかと思ってましたが、あれはベートーヴェンがハイリゲンシュタットの小川付近を散策 しながら田園交響曲の着想を練っている絵のポーズを、賢治が真似たものであったそうです。

 

 

萩谷由喜子著:宮沢賢治の聴いたクラシック (小学館)

巻末に「宮澤賢治の聴いたクラシック・ディスコグラフィー」という資料が付いています。このリストをざっと見ると、賢治は古典から現代曲まで、実に広範囲にSP盤を集めて いるので、ちょっと驚きます。耳にしてない曲はとにかく一応聴いておこうという感じの、博物学的な集め方です。録音時期としては10年頃から20年代までのSP盤(賢治は1933年に没)ですから、SP盤としては初期のものになります。吉之助がよく聴くフルトヴェングラーやトスカニーニの録音の最初期がちょっと引っ掛かるというところで、吉之助の所持録音からすると・それより以前の知らないものが多い のは仕方がない。野村あらえびす(野村胡堂)の「名曲決定盤」が 出版されるのはもっと後のことになりますが、当時もあらえびすのレコード評論などは新聞・雑誌で読めたはずですから、賢治も今度はどの曲を聴こうか・どのSP盤を買おうか、雑誌など読んであれこれ研究しておったのだろうなどと想像します。(ちなみに野村あらえびすも岩手県の出身ですね。)この点は「レコ芸」を毎月買ってLPレコードを買い漁っていた若き日の吉之助ともダブってくるので、その気持ちが何となく分かる気がして来ます。それだけではなくて、当時のSPレコードでの音楽鑑賞は庶民に次第に浸透しつつあったとは言え・まだまだ高価なものであったのですから、これだけのコレクションを揃えるためには実家がそれなりに裕福でなくてはならないわけです。実は吉之助は賢治ファンというわけでないので関連知識が乏しい為、どういう理由か分かりませんが、吉之助は賢治 が貧乏人の苦学生みたいな先入観を持っていましたが、賢治というのは「いいとこのお坊ちゃま」であったということがよく分かりました。その点ではかなり見方が修正されたところがありました。

「宮澤賢治の聴いたクラシック・ディスコグラフィー」のなかに出てくるジョセフ・パスターナック(1881〜1940)という指揮者も、吉之助には初めて聞く名前でした。パスターナックはポーランド出身の指揮者で、1896年に渡米して指揮者となり、トスカニーニの下で助手などを務め(恐らくトスカニーニのメトロポリタン歌劇場時代でありましょうか)、録音として我々が耳にできるものとしては (賢治は聴いていないですが)名テノール・エンリコ・カルーソーの伴奏での録音などが知られるところだそうです。ハイフェッツとの共演の録音もあるようです。このパスターナックの名前が、詩集「春と修羅」第1集の最後の詩「冬と銀河ステーション」のなかに出てきます。

あゝ Josef Pasternack の指揮する /この冬の銀河軽便鉄道は /
 幾重のあえかな氷をくぐり / (でんしんばしらの赤い碍子と松の森) /
にせものの金のメタルをぶらさげて / 茶いろの瞳をりんと張り /
 つめたく青らむ天椀の下 / うららかな雪の台地を急ぐもの /
(窓のガラスの氷の羊歯は / だんだん白い湯気にかはる) /


賢治の作品のなかに実在の音楽家の名前が出てくるのは、この箇所しかないのだそうです。それにしても、この「Josef Pasternack 」の箇所は賢治の詩を読む方にどのように受け止められているのでしょうか。吉之助なんぞはこういう箇所で引いちゃう方なのですが、しかし、賢治のSPレコード蒐集リストを見た後 であると、賢治のなかにここで読者に必ずしも親しくないはずの「Josef Pasternack」の名前を意図的に提示せねばならなかった内的必然が何かあったのであろうということは想像出来ます。もっとも吉之助にはそれが何かまでは分かりません 。

上記はジョセフ・パスターナックが指揮したビクター・コンサート管弦楽団(当時の覆面オーケストラで、実体はフィラデルフィア管弦楽団だと思われる)によるベートーヴェン・交響曲第5番「運命」(1916〜17年のRCA録音)の第4楽章 部分で、これがまさに賢治が耳にした録音でした。そのテンポや拍の切り方など、トスカニーニの助手を務めたことがあるということも影響しているのか、その音楽の作り方は確かにどことなくトスカニーニに似た感触を想わせます。つまり当時の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイトの流れです。(ちなみにトスカニーニが最初に録音を行なったのは1920年12月のことで、その一連の録音のなかに同じ「運命」の第4楽章があります。)

当時の録音はラッパ吹き込みの貧しい音質で針音も大きいし・ダイナミックレンジも狭く、そのままでは響きをうまく取り入れられないので、響きを明瞭に録るために編成を変えたりすることが多かったようです。この録音でも、弦楽の厚みはよく分からず、管楽器が強く抜けて聴こえます。現在の録音水準からすれば耳慣れない・まったく不自然な人工的な響きに違いありません。音楽の骨格(旋律線)だけしか聴き取れない感じがします。しかし、だからと言ってここにベートーヴェンの音楽が聴こえないかというと、そんなことは全然ない。ここに聴こえるのは、まさしくベートーヴェンの「運命」なのです。ベートーヴェンの音楽の意思的な力の鼓動は確かに伝わってきます。蓄音機のラッパに耳を寄せながら賢治が この響きを確かに聴いたのだなあと思いながら同じ録音を聴くことは、何だか昭和初期の賢治の想念のなかに自分を次第に重ねて行く気分で、まことに興味深いことです。

この響きを聞きながら、賢治はどんなことに思いをはせたのであろうかということを考えました。思えば吉之助も、最初にクラシック音楽に入ったのはベートーヴェンの「運命」でした。吉之助の聴いたのはシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団のステレオ盤(RCA)で、もちろん音質はパスターナックのものよりはるかに良いですが、ステレオから流れてくる響きのなかの「聞き取らなければならない何ものか」を摑もうと思って、何度も繰り返し聴いたものでした。周囲に音が溢れかえっている平成の現代では音楽を聴くことの行為の一回性の意味が相対的に軽くなってしまったように思いますが、当時はまだまだ重いものでした。プレーヤーのターンテーブルにレコードを置いて針を下ろす、それ自体もどこか儀式に似ていました、そんなことを思い出しました。吉之助の世代にしてそうであるならば、賢治の世代にとっては尚更のことです。賢治の作品がお好きな方には、賢治が愛したのと同じ録音を収めたこのCDに耳を傾けることは得るところが実に大きいと思うので、是非お薦めします。

賢治は自分の詩のなかにパスターナックの名前を出しているくらいですから、この録音に(曲になのか・演奏なのか、恐らくそのどちらもなのでしょうが)とても感激したようです。「運命」を聴いた後、賢治は弟の清六に「おれも是非ともこういうものを書かなくてはならない」と語ったそうです。そうして出来たのが、詩集「春と修羅」(1924年・大正13年出版)であったのです。賢治の 言う「こういうもの」とは、どういうものか。それは「運命」交響曲の形式(構造)のことか、主題(テーマ)のことか、あるいはもっと別のものか。それは「春と修羅」と「運命」交響曲との間に、何か通じ合うもの なのだろうと思います。詩心の乏しい吉之助にはその辺が感知できないのが残念です。これが分かったならば、吉之助も大論考を書かねばならぬところです。


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